<夕方・リボンの話>
三条通をゆったりと歩く。腰に刀はない。その軽さにはまだ慣れないが、流れ往く景色に心浮かれて、いつになく通りの喧騒が心地よく感じられる。
あんぱん作りは思ったよりも時間がかかり、気付けば夕暮れ。橙色の空、雲もなく晴れ渡り、波のない静かな海を思わせる。
つまりは夕凪の空。だから遅くなったことも悪くないと思える。夕暮れは“彼女”の時間だった。
「父様、どうしたの?」
夕凪の花がゆらりと揺れる。
訪れた呉服屋は、野茉莉たっての願いだ。父様と買い物に行きたいと頼まれた。子供の頃なら兎も角、今ではそんな機会も減ってしまった。だからそう言われた時、甚夜は僅かながらに驚いた。
とは言え二人で掛けるのは久々のことだ、今日は店を休みにして野茉莉と過ごすことにしようと考えた。もっとも、予想外の出来事で実際に出かけられたのはこんな時間だったが。
「すまん、少し呆けていた。さて、何を買う」
「あのね……リボンが欲しいの。父様に、買ってほしいなって」
申し訳なさそうに、はにかむような笑みで、野茉莉がそう言う。
昔からこの手の我儘を殆ど言わない娘だ。あれが欲しいこれが欲しい、それを言わせなかったのは、血が繋がらないからこそできてしまった遠慮だ。
だから、素直に我儘が言えるようになった今が嬉しかった。
「どれがいい」
「父様に選んでもらいたいの。駄目?」
上目遣いで小首を傾げる。
何となく懐かしい気持ちになった。野茉莉が使っている桜色のリボンもまた、随分と昔に甚夜が選んだものだ。
あれはいつのことだったか。記憶を辿る、思い出される日々。
ああ、そうだ。林檎飴の天女が居候していた頃、祭り用の浴衣を買った。あの時も同じように、浴衣を選んでくれと乞われた。
「懐かしいな」
「え?」
「前も同じやりとりをした」
花が綻ぶ。
野茉莉もちゃんと覚えていたようだ。
「覚えててくれたんだ」
その呟きに、最初から幼い日を意識していたのだと知る。敢えて同じ道筋を辿ったのだろう。ならば選ぶものもそれに準じるのが筋だ。
「なら……やはり、桜色のリボンを」
甚夜の言葉に、野茉莉は綺麗に微笑む。
選択は間違っていなかった。なんとなく、彼女が次に行きたい場所も想像がついた。
「すまない、これを」
店の者に声を掛け桜色のリボンを包んでもらう。営業用の笑みを浮かべる小男は、心底の善意から、暖かな声で言った。
「ありがとうございます、恋人への贈り物ですか?」
一瞬にして思考が凍り付く。
甚夜の実年齢は五十七、しかしその外見は老いることなく未だ十八の頃のままだ。
十六になった野茉莉と並べば、成程、そういう関係に見えなくもない。
分かっていたことだった。いずれ野茉莉は自分を追い越して大人になってしまう。十分理解していた筈なのに、いざ現実を突き付けられて何も考えられなくなってしまった。
自分では、この娘の父親でいてやることが出来ないのだ。
それを否応なく思い知らされ、
「いこ、父様」
腕を取って抱き付く野茉莉の笑顔に、もう一度思考を止められた。
「野茉莉……」
「もう一つ、行きたい所があるんだ。だから、ね?」
目を白黒させている店員から物を受け取り、それでも野茉莉は腕に抱き付いたまま。引き摺られるように店を出る。
手から伝わる温もりに思う。
ああ、この娘は本当に大きく、そして優しく育ってくれた。
暖かさが気恥ずかしく、不器用ながらも気遣いの出来る子に育ってくれたことが嬉しいような。何処か寂しくもあって、複雑な心境で野茉莉の横顔を眺める。
差し込む陽光、夕暮れに視界が滲む。
昔は野茉莉の手を引いて歩いたけれど、もうそれも必要ない。
いつか離れる手だと知っていた。
きっと、その時はすぐそこまで来ているのだろう。
◆
「おや、葛野さん」
荒城神社の境内には年老いた男の姿がある。
国枝利之。この神社の神主である彼とは、少しばかり縁がありそれ以来わずかながらに交友を持っている。
「どうも国枝殿、お久しぶりです」
「ええ、本当に。同じ町に住んでいても中々顔を合わせないものですね。偶には遊びに来てください。ちよも喜びます」
ちよというのは彼の細君で、甚夜とは同郷でありそれなりに親しくしてきた。
今更だがそれを不思議に感じる。「あの小さい娘が」と思うのは、自分が年を取った証拠だろう。
「今日はどうされました」
「ちょっと、懐かしくなって寄ってみたんです」
甚夜が答えるよりも早く野茉莉が言う。その声色は確かに懐かしむようで、同時に僅かな固さを含んでいた。
「そうですか……では、私はこれで失礼します」
野茉莉の様子に何かを感じ取ったのか、神主はうっすらと目を細める。そうして親娘をじっくりと観察してから頷いて見せた。
「すみません、気を使わせたようで」
「いいえ、そんなことは。どうぞゆっくりしていってください」
それだけ言ってそそくさと境内から離れていく。
残された二人。ざあと木々が鳴く。
夕凪の空にも陰りが見えた。この夕暮れもあと僅か。もうすぐ夜が訪れる。
野茉莉は甚夜の腕を離し、大きく三歩程進んだ。
落ち掛けた夕日を背に振り返る。親娘は向かい合い、ただ互い見つめ合う。
伸びる影法師。頬を撫ぜる風。夕暮れの中、滲む景色。
何もかもが揺らめくようで、輪郭さえ覚束ない。
不意に、野茉莉は懐から何かを取り出した。
それは根付だ。でっぷりとした、愛嬌のある福良雀を両の手でしっかりと握りしめ、彼女は真っ直ぐに甚夜の目を見据えた。
「父様、今日は我儘を聞いてくれてありがとう」
先に言葉を発したのは野茉莉だった。
「いや、私も楽しんだ」
「よかった。恋人に間違えられたのは、ちょっと恥ずかしかったけど」
何気ない一言にちくりと胸が痛む。
けれど野茉莉は微笑む。
一呼吸おいて、絞り出すように彼女は言う。
「もうすぐ、同い年になっちゃうね」
痛みに耐えるような、置いてけぼりにされたような。
そういう、心もとない微笑みだった。
「これからは、誰も親子だなんて思わなくなる。だから欲しかったの。私がわがままを言って、父様がそれを聞いてくれて。そういう、当たり前の親娘の証が」
野茉莉もまた知っていた。
いつまでも親娘ではいられないと。所詮は人と鬼。同じように年老いていくことは出来ない。
いつかは終わりが訪れるのだと、最初から知っていた。
結んだ髪をするりと解く。
「ね、父様。結んでほしいな」
「……ああ」
言われるがままに傍へ寄り、新しく買った桜色のリボンで彼女の髪を結ぶ。子供の頃はよくやった。しかし今では一人で結べるようになり、こういう形で触れ合うのは随分と久しぶりだ。
変わらないものなんてない。
いつかの言葉が脳裏を過る。
そしてリボンを結び終えて、甚夜は理解した。
これはこの娘なりのけじめなのだ。
野茉莉は、ここで新しいこれからを始めようとしている。
────結局、私達は。曲げられない『自分』に振られたんだね。
夕暮れの色に、いつかの別れが重なる。
僅かに甚夜の目は細められた。夕日の眩しさに目が眩んだ、そう思うことにした。
「父様は、いつだって私の父様であろうとしてくれた。知ってるんだよ? 蕎麦屋さんを始めたのは、小学校で私が周りから浮かないように、だよね」
生活面だけで言えば、鬼の討伐依頼だけでも食っていくことは出来た。
しかしそれでは傍から見れば無職と変わらない。だから蕎麦屋を始めた。小学校に通う娘が、恥ずかしい思いをしないように考えた結果だった。
「刀も持ち歩かなくなったね。……警察に捕まったら私が嫌な思いをするから。それも私の為。いつだって父様は、私の父様でいる為ずっと努力してきてくれた」
記憶を辿る。遠い目の先には何を映しているのだろう。
大人びた野茉莉の雰囲気に、甚夜は何も言えない。
ただ思う。この娘は小さな子供ではない。
もう手を引いてやる必要はない。一人で歩いていける、強い子に育ってくれた。
だから彼女の描くこれからに、たとえ自分の姿が無いとしても。
ちゃんと受け入れられるような気がした。
「今度は私の番、だね」
けれど野茉莉は、あまりにも柔らかな笑顔を浮かべた。
そして静かに、力強く、決意を口にする。
「昔言ったこと、もう一度言うよ。……私、父様の母様になるの」
それは夕暮れには似合わぬ晴れやかさだった。
「今はまだ年下だから、妹くらいかな? その次は姉。もっと年を取ったら今度こそ母親になって、父様をいっぱい甘やかすの。頭だって撫でてあげる」
まるで冗談のような語り口。なのに胸を打つ。
そこに籠められた心が、熱が、染み渡るようだ。
「私、今まで甘えてたね。家族でいられることが当たり前だって思ってた。でも違うんだってようやく分かったの」
人と鬼。
寿命が違う生き物だ。いつまでも同じようにいられる訳がない。
それを理解して尚、野茉莉は言葉を紡ぐ。
「私達が親娘でいられたのは、それだけ父様ががんばってくれたから。だから、今度は私の番。父様の家族でいる為に、精一杯努力するの。私は父様ほど長くは生きられないから……いつか、あなたを置いて行ってしまうけど」
俯く横顔に夕日が差し込む。
橙色に染まる瞳は、僅かに潤んでいる。
いつか離れる手だと知っていた。
親娘でいられなくなると分かっていた。
それでも────
「これからも、家族でいてくれますか?」
────野茉莉は、傍にいたいと願ってくれた。
差し出された手。眩しいと思った。
夕日に映し出された愛娘。
初めてかもしれない。野茉莉を美しいと感じたのは。
「野茉莉……」
「へへ、ちょっとは、素直になれたかな?」
もう片方の手では福良雀を握り締めたまま。
たおやかな微笑みは、柔らかいのに力強い。
「……おしめを換えていたのが、ついこの間だと思っていたんだがな」
「おっきくなったでしょ? これからは何時でも甘えていいんだよ?」
「なにを、まだまだ親の座は譲れん」
「えー。……でも、うん。もうちょっと私も、父様の娘でいたいな」
そう言って傍らに寄り添う。風に桜色のリボンが揺れる。
夕凪の空は薄い紫に染まり、夜が訪れる。
見上げれば、ぽつりぽつりと瞬く星。
「まだ答え、聞いてないよ父様」
「そんなこと、言うまでもないだろう」
「でも聞きたいの」
素直というか、押しが強くなったというか。
野茉莉は嬉しそうに、どこかからかい交じりの笑みで詰め寄ってくる。
「……これからも、家族でありたいと、思っている」
観念して、空を見上げたまま答える。
見はしなかったが、花のように綻ぶ彼女の笑顔が容易に想像できた。
「……うんっ」
そうして二人はしばらくの間、寄り添ったまま星を眺めた。
いつか離れる手と知っているからこそ、固く固く、小さな手を握り締めた。
<夜・おしまいの話>
「むぅ……おじさまと野茉莉ちゃん、すっごく仲良しですね。なんか悔しいです」
何処かくたびれた屋敷の一室。向日葵は目を瞑ったまま、頬を膨らませていた。
<力>をもってここではない遠い景色を覗き見て憤慨する。向日葵はマガツメの長女。マガツメが兄と敵対するうえで、一番初めに斬り捨てなければいけなかったのもが鬼となった存在である。
「お母様もご覧になられました?」
後ろから向日葵を抱きすくめる、黒衣を纏った鬼女。緩やかに波打った金紗の髪。闇の中にあって眩いまでの美しさを誇っていた。
マガツメ。
向日葵の母は、質問には答えなかった。
ただ昏い、宵闇よりも尚昏い声でぽつりと呟いた。
『……許せない』
夜は深く、呟きはそっと消えていった。
鬼人幻燈抄 明治編 余談『鬼人の暇』・(了)
次話『あなたとあるく』