いまもおぼえている、あなたとすごしたひびのこと。
◆
明治十四年(1881) 十一月
頬を撫でる風に僅かながら目を細める。
変わる季節、くっきりとした星空に感じる冬の色。触れる外気が肌に痛い。吹く際の甲高い音と相まって、冬の風は鋭い剃刀を思わせた。
整然とした京の町も、大通りから少し離れれば薄暗い小路が多くなる。黄昏にもなれば光の差し込まぬ小路は本当に暗く、すれ違う人の顔さえ定かではなく。
そういう場所には古くから、人に紛れてあやかしが闊歩していた。
寒々とした黒天の下、呻きが聞こえる。
夜になり、まともな灯りのない小路には、一匹の異形と一人の男があった。
鬼は眼前の男を睨み付け、しかし当の男は退屈そうに頭を掻く。そこに怯えはなく、ごくごく自然な立ち振る舞いだ。
余裕の態度を崩さぬ男。言葉を発さぬ鬼にも感情はあるのだろう。己を軽んじる男へ向けて、目に見えた憎悪を振りまきながら鬼は駈け出す。一息で距離を零にする脚力。見せつけられた人の枠を食み出た挙動。
「所詮は下位やな」
男はあくまで自然体だった。
あわせるように腰を落し、左足に体重をかけ、ぐっと踏み込む。
足の裏は地面をしっかりと噛んでいる。捩じられた体、その反発を持って力を生み出す。足から腰へ、上半身、肩。そして腕の先にまでそれは伝わる。
「どこぞの蕎麦屋の店主より遥かにのろいわ」
繰り出す掌打は正確に鬼の顎を捉え、その勢いに相手の体が僅かに浮き上がる程だ。人が相手ならばこれだけ決まっていた。
だが相手は下位とはいえ鬼。ただの掌打では倒すに至らない。
だから、次の一手がある。
「“しゃれこうべ”」
左手には三つの腕輪念珠。鉄刀木で作られたそれは、全てに羅漢彫が施されている。
突き出した左腕から放たれたのは、人の骨。骸骨がカラカラと音を立てながら鬼へと襲い掛かる。
一体だけではない。四体五体と現れ、雪崩れ込むように鬼を覆う。その頭蓋は、念珠のうちの一つに施された彫刻とよく似ていた。
骨が肉を齧る。されど咽喉はなく、零れ落ちる。
血が飛び、しゃれこうべが赤く染まる。
鬼は抵抗など出来ぬまま肉を荒らされ、次第に白い蒸気が立ち昇る。
消えゆく骸をどこかつまらなさそうに男は眺め、しばらくの後、鬼は骸骨どもと共に冬の空気へ溶け込んでいった。
それを見届け、 ふうっ、と一息吐いて男───宇津木平吉は佇まいを整えた。
「……嫌な気分やな」
憎い筈の鬼を討ちとり、しかし何故か胸中は霞がかったようで、冬の冷たい風は殊更厳しく感じられた。
「……宇津木さん、助かりました」
路地裏から出れば、裕福そうな身なりの、恰幅のいい男が待っていた。
とある商家も主人で、今回平吉に鬼の討伐を依頼した張本人である。
“店の近くの小路で鬼の目撃例が増えている。だから退治してくれ”
この依頼はもともと秋津染吾郎へのものだった。
しかし当の染吾郎が乗り気ではなかった為、ならば俺がと平吉が引き受けたのだ。
染吾郎は本来この依頼を受けるつもりはなかった。
そもそも件の鬼は誰かに危害を加えた訳ではなく、主人も特に被害を受けてはいなかったからだ。
商家の主人は言う。近くに鬼がいる。ただそれだけで不安なのだと。
それが気に入らない。何の罪もない鬼をこちらから出向いて討つのは彼の矜持に反した。鬼にも悪鬼善鬼がいる。鬼だから、というのは染吾郎にとって討伐の理由にはなり得なかった。
しかし平吉には違った。
鬼を嫌う彼には、主人の気持ちがよく分かる。だから師がいかないのならば俺が代わりにと言って依頼を受けた。それが一連の流れである。
「ああも簡単に鬼を討つ。“あの”秋津の弟子というだけはありますなぁ」
商家の主人は心からの安堵を顔に浮かべ息を吐いた。
それを見て、平吉は胸のつかえが取れたような気がした。
彼自身、鬼の中にだって“いいヤツ”がいることくらい、長年蕎麦屋へ通い詰めたのだから十分に理解している。もしかしたらさっきの鬼もそういう善鬼だったのかもしれない。
“鬼だから”は、討伐の理由にはなり得ない。
本当は、師の言っていることが正しいのだと、彼にも分かっていた。
それでも現実として、鬼がいるだけで苦しむ人々は確かにいる。
そして今目の前に、鬼が居なくなったことで笑う人がいる。
だから師の言うことが正しいと理解しながらも、平吉は自分が間違っていないのだと思えた。
「もう師を越えられたんやないですか?」
「まだまだお師匠の足元にも及びませんわ。……蕎麦屋の店主にも負ける程度やし」
「は?」
最後の呟きは商家の主人には聞こえなかったようだ。
実際の所平吉は鬼を討つ者としては一端の腕を持っていた。付喪神の使役と体術の複合、二十一と言う若さを考えればその完成度はかなり高い。
ただ不幸なのは、身近に規格外が二人もいる点である。
未だに師の扱う付喪神は越えられず、鍛えた体術も甚夜相手では掠らせるのがせいぜい。その状況で自分が強いと思えるほど彼は自惚れていなかった。
「いや、何でもないです。ほな、俺はこれで」
「ああ、ちょっと待ったってください」
主人から依頼料を受け取り、そそくさとその場を後にしようとが、歩き始める前に呼び止められる。
「まだ、何か?」
「いやあ、その腕を見込んで頼みがあるんです」
「はあ」
曖昧に返事をする平吉。しかしそんなことはお構いなしに、主人は重々しく口を開いた。
「宇津木さんは、“癒しの巫女”をご存知でしょうか」
鬼人幻燈抄 明治編『あなたとあるく』
「そやけどやっぱり寂しいもんやね」
くいっと杯を傾け、染吾郎は溜息を吐いた。
夜も深くなり、鬼そばで甚夜と二人酒を酌み交わす。染吾郎は今年で五十四、老人と言ってもいい年齢だがかなりの酒豪で、底無しの甚夜とどっこいどっこいである。そんな二人が呑んでいるものだから、卓の上に転がる徳利は既に十を超えていた。
「弟子の成長は勿論嬉しいんやけど、こうも一人で何でもやれるようになると、なぁ」
今、平吉は一人で鬼の討伐に赴いている。勝手に、ではない。染吾郎がそれに足る実力を身につけたと判断したからこそなのだが、どうにもすっきりとしない心地だ。
手のかかる弟子だった。だからこそ余計に手のかからない今が、なんというか、物足りなく思えてしまうのだ。
「自分で考えて、自分で動けるようになった。なのに、なんやろなぁこの感じ」
「分からんでもないさ」
酒を飲み干して甚夜が答える。染吾郎の感じている物足りなさは、彼も経験があった。
「育ってくれたことが嬉しくもあり、手を離れていくことが寂しくもあり。そういうものだろう」
「あー、そか。野茉莉ちゃん?」
「ああ。親というのは難儀だな」
野茉莉もまた、強く優しい娘に育ってくれた。それを嬉しく思うのに、もうこの娘には自分が必要ないのだと感じてしまうのがたまらなく寂しい。親というのはまことに儘ならぬものである。
「そか、今更やけど、君の辛さ分かった気がするわ。……よっしゃ、今日は呑も! 一晩中呑んで」
「駄目です」
甚夜に共感し、これなら愚痴を肴にうまい酒が飲めると声を上げた所で、女の声が聞こえた。
肩までかかる髪を桜色のリボンで結んだ細身の娘は、おぼんに乗せた徳利を卓に置きながら、少し強めに言う。
「深酒は体に悪いですから。これが最後ですよ」
十八になり、しかしまだ表情にはあどけなさの残る、幼げな印象。
葛野野茉莉。甚夜の愛娘であった。
「いや、もう少しくらいは」
「父様も駄目、だよ。明日もお店があるんだから」
父が反論をしようとも聞く耳持たぬ。一刀両断とはまさにこのことである。幼い頃は父にべったりだった野茉莉が甚夜を押している。その姿が染吾郎には今一しっくりこない。
「……野茉莉ちゃん、押し強なったな」
「勿論。母は強し、ですから」
「………………は?」
返ってきた答えは全く意味が分からないものだった。甚夜の方を見れば肩を竦めて、しかしどこか嬉しそうに口元を緩ませている。
そしてぐいと盃を空け一言。
「この娘は私の母になってくれるそうだ」
帰ってきた答えも、やはり訳の分からないものだった。
「はぁ?」
「もう同い年になっちゃったね。今は妹でも姉でもなく、お嫁さん、くらいかな?」
甚夜をまっすぐに見つめ、何処か照れたように冗談を口にする。
何を言っているのだろうか、この親娘は。呆気にとられ口を挟むことの出来ない染吾郎を余所に、またも女の声が聞こえた。
『ふむ……ここは正妻としての余裕を見せ、愛人の一人や二人認めるべきでしょうか。それとも旦那様の浮気は認めません、と毅然とした態度をとるべきか。難しい所ですね』
卓の上に置かれた一振りの刀。夜刀守兼臣が、口もないのに空気を震わせ声を発する。
甚夜の妻を自称する彼女にとっては野茉莉の言に思う所があったのだろう。
「まだ言うか」
しかし今度は甚夜が戯言を切って捨てる。
そもそも妻だと認めてはいないし、愛人という言葉を使うならば寧ろそれは兼臣の方になるだろう。
確かに夜刀守兼臣も使ってはいるが、彼にとって生涯を共にすると決めた刀はやはり夜来である。
いつきひめが受け継ぎ、長に託された。
旅立ちの時から片時も離れなかった夜来は、既に彼の半身と言ってもいい。物言わぬ刃ではあるが、兼臣以上に愛着があった。
『何か問題でも?』
「問題が無いとでも?」
刀と男がにらみ合いながら言葉を交わす。それを微笑ましく見つめる娘。あまりにも奇妙でやたらと疲れる光景だった。
「……こういうのも“女にもてる”ゆうんやろか」
三人、もとい一鬼一人一振りのやり取りを眺めながら染吾郎は呆れたように息を吐く。
もてているのは事実だろうが相手は娘と刀。あまり羨ましいとは思わなかった。
「……………なんや訳分からんからとりあえず呑も」
それでも益体のない話というのも酒の肴の基本。
騒がしい店内。手酌で酒を注ぎ、ぐいと咽喉へ流し込む。
通る熱さは笑いが零れる程に心地好かった。
◆
翌日。
鬼の討伐を難なくこなした平吉は鬼そばで遅めの昼食をとっていた。依頼料が入ったので少しくらいは贅沢しようと思ったが、習慣というのは恐ろしい。気付けば鬼そばの暖簾をくぐり天ぷらそばを注文していた。
「平吉さん、昨日はお疲れ様」
周りの客は少ないが、小声で、他には聞こえぬよう配慮しながら野茉莉が話しかける。
「おう、ありがとな。まあ疲れるような相手でもなかったけど」
「そっか。修行の成果、だね」
それはもう眩しいほどの笑みで野茉莉は言う。
彼女が自分の努力を認めてくれている。そう思えば自然と顔が熱くなった。
「まあ、そりゃ。ははは」
返しは歯切れの悪いものになってしまった。二十一歳にもなって好いた相手の笑顔一つで言葉に詰まってしまうとはなんとも情けない。何か気の利いた科白を、そう考えた所でちょうど新しい客が入ってきてしまう。
「いらっしゃいませー!」
ごめんなさいと身振りで示し、元気な声を上げて野茉莉が離れていく。
呼び止めることも出来ず、所在無さげにほんの少しだけ手を伸ばす。それくらいが精一杯で、相変わらずの軟弱な自分に平吉はがっくりと肩を落した。
「昨日はどうだった」
野茉莉に変わって平吉に話しかけたのは、新しい客の蕎麦を作り終えた甚夜だった。
「楽勝に決まっとるわ。……言いたないけど、あんたと比べたら大抵の鬼は雑魚やしな」
先程の醜態から思わず語気が荒くなってしまうが、以前のように敵視しているのではない。それどころか、本人の前では決して口にしないが、今では甚夜に感謝さえしていた。
というのも、平吉の師である染吾郎は体術を習得していない為、そちらの方は甚夜に相手をしてもらっているのである。
もっとも甚夜は剣術が主であり、徒手空拳はそれなりといったところ。師と呼べるほど技は教えられず、練習相手と言った方が正しいだろう。
しかし甚夜にとっての“それなり”は平吉からすれば十分規格外であり、そういう相手と鍛錬をしているからこそ、下位の鬼を取るに足らぬと一笑に付すことが出来る。
つまり今こうして鬼と戦えるのは染吾郎のおかげ、そしてこの男のおかげでもあった。
「過分な評価だ。私よりも強い鬼などいくらでもいる」
そう思っているからこそ、彼の言葉には驚愕を覚えた。
「……ほんまに?」
「知っているだけでも二匹。随分と昔だが、下位でありながら剣で私を上回る鬼がいた。そして……マガツメもだな」
鬼は嘘を吐かないし、この男は冗談を言うような男ではない。
つまり今の言葉は掛け値のない真実。平吉から見ればそれこそ化け物と言っていいほどの力を持つ鬼、それすらも凌駕する存在が現世にはいるのだ。その事実にごくりとつばを飲み込み、平吉は真面目な顔で頷く。
「俺、これからも真面目に修行するわ」
「それがいい。慢心している暇はない。以前も言ったが、私はお前以外が四代目を名乗るなど認めんぞ」
至極真面目な顔で甚夜はそう言ってくれる。しかしそれが痛くて、平吉は俯いた。
以前は喜んでいた筈なのに、明らかに沈み込んでいる。妙に思い甚夜は表情を変えず、雑談の延長のような調子で問うた。
「どうした」
「……あんたはそうゆうけど。俺、ほんまに“秋津染吾郎”に相応しいんかな」
零れてきた弱音。意外だった。そういった悩みを抱いていることも、それを嫌っている筈の鬼に漏らすことも、想像していなかった。もっとも今は甚夜が思うほど嫌われている訳ではないのだが。
俯いたまま、力のない声で平吉は更に言葉を続ける。
「お師匠は鬼にも悪鬼善鬼がおるんやから、悪さをしとらん鬼を討つのはまちがっとるって言う。そやけど俺は……あんたの前でこんなこと言うんは最低やけど。鬼を慮って、鬼の存在を怖がってる人を無視するのはなんや違うと思うてまう。お師匠の言ってることが正しいって分かっとのんに、や。そういう奴が秋津染吾郎を継ごうとして、ほんまにええんやろか」
彼にとって付喪神使い、そして秋津染吾郎は特別なものなのだろう。
そういえば以前、僅かだが語っていた。師は自分の親の仇を取ってくれたと。
おそらくは、その時から秋津染吾郎の存在は憧れだった。
平吉の苦悩はだからこそだ。憧れたものと、それとは程遠い己。理想と現実に挟まれて、彼は動けないでいる。
「私があいつに初めて会ったのは江戸の頃、もう二十年以上前だ」
そんな彼に甚夜が返したのは、落とすような笑みと自身の古い記憶だった。
簪とほととぎす。物に込められた想いが紡いだ不可思議な事件、それが切欠となり染吾郎と知り合った。しかしその頃のことを思い出すと、笑いが込み上げてくる。堪え切れず、甚夜はにやりと口元を釣り上げた。
「その時染吾郎は言っていたよ。鬼はどこまでいっても倒される側の存在だとな」
今の染吾郎とは真逆の主張。それを聞いて、あまりの意外さに目を見開く。
「お師匠が? 嘘やろ?」
「事実だ。元々害のない鬼を討つ気はなかったようだが、あれで昔は案外と好戦的でな。多少ではあるがやり合ったこともある。よく話し合えば回避できた戦いだ。思えば、互いに若かったんだろう」
平吉は唖然とした。
師もこの男も、彼にとっては理性的で分別を持った“大人”だ。
それが感情に任せて戦うような真似をするとは正直に言えば思っておらず、意外さに目を見開いている。
「なんや、お師匠も昔からああやなかったんか」
「ああ、そうだ。それでも秋津染吾郎を名乗っていた。ならばお前が相応しくないなど在り得ん。寧ろそうやって悩める分お前の方が上等だ」
「はっ、そら言い過ぎやろ」
ほっとしたように、表情を緩める。
その反応が甚夜には微笑ましかった。
成長はしたが、まだまだ青い。しかしその青さはかつての己が通った道だ。
甚夜もまた悩み、様々な出会いを経験し、僅かながらに変わることが出来た。そして変われたからこそ、変わろうともがく若者を暖かな心持で見てやれる。
「宇津木、お前は少し急ぎ過ぎだ。あいつも相応の経験をもって“尊敬に足る秋津染吾郎”となった。今のお前が届かないのは当然だろう。しかしそこに優劣はない。染吾郎は既に答えを出し、お前はこれから出す。それだけのことだ」
その言葉を噛み締めるように小さく頷く。
目に宿っていた陰りは消えていた。
「人の命は短い。だが、まだまだお前には時間がある。今は只管に悩み、より多くを積み重ねることだ。先達に比肩する答えを求めるには、お前はまだ若すぎる」
「ん……そう、やな」
不敵な、戸惑いのない真っ直ぐな笑みが浮かぶ。
鬼を是とするか。
彼の悩みは簡単に解決するものではない。おそらくは、これからも事あるごとに立ち止まり苦悩するだろう。
しかしそれでも、四代目秋津染吾郎を名乗るのは平吉であってほしいと思う。
だから平吉の不敵な笑みが、甚夜には喜ばしく感じられた。
「あーと、なんや。とりあえず、あんがとさん」
あからさまな照れ隠しで、投げ捨てるように礼を言う。
ぱんっ、と自分で両の頬を叩く。胸のつかえは完全に取れた訳ではないが軽くはなったようだ。
「おっしゃ、結局んとこ悩んでる暇なんぞないってことやな。なら次の依頼に取り掛かるわ。……それでなんやけど、あんた、“癒しの巫女”って知っとるか?」
平吉は気を取り直して次の依頼……昨夜商家の主人が語った巫女について訪ねてみる。
甚夜もまたも鬼を討つ者。何か情報を持っているかもしれない。
「ああ、半年ほど前から噂になっている、触れただけで苦しみを癒す神仏の加護を受けた女、というやつだろう?」
「へぇ、そんな噂あったんか。俺、昨日聞くまで全然知らんかった」
「こういう店をやっているとな、自然と噂話の類は集まってくるものだ」
それもそうだと納得する。案外蕎麦屋を職に選んだのはそういう理由からなのか。
ともかく、知っているのなら話が早い。
「そんなもんか、まあええけど。んで依頼ってのが、癒しの巫女からて話なんや」
「ほう?」
「依頼自体はこれから聞きに行くんやけど。その前に、ちょっとでも情報集めとこ思てな」
ふむ、と頷きしばし逡巡する。そして思い付くままに甚夜は言葉を並べていく。
「曰く、触れるだけで苦しみを癒す神仏の加護を受けた女。病魔に侵された者も癒しの巫女が触れればその日の内に歩き出したという。神出鬼没で何処に住むかも分からない。ふらりと現れては人々を癒し、対価に金銭の類も求めないそうだ」
それはまた分かり易過ぎる善人だ。
しかしその手の輩を素直に賞賛できるほど平吉は幼くなかった。
「出来過ぎとって逆に怪しいわ。そいつ、鬼女なんちゃうか」
「傷を癒す<力>といったところか。確かに、高位の鬼と考えた方がしっくり来るな」
どうやら甚夜も同意見らしいが、その物言いに違和感を覚える。
傷を癒す<力>。そんな“おいしそうな鬼”の話、甚夜ならば首を突っ込んでいてもおかしくない。だと言うのに噂を聞きながら、今まで何の動きも見せなかった。
「確かめとらんの? あんたの好きそうな話やろ」
不思議に思い問い掛ければ、小さく首を横に振る。
「いや、確かめようとはした。ただ“癒しの巫女”に会えなかっただけだ」
「会えなかった?」
「ああ。神出鬼没とはよく言ったものだ。巫女が何処から来たのか、そもそも何者なのか。今話した内容くらいしか情報は得られなかった」
「ますます怪しいやん」
はん、と鼻で哂う。
同意するように重々しく甚夜も頷いた。
今から依頼を聞きに行くが、警戒しておいた方がいいかもしれない。
数多の鬼を討ってきたこの男が癒しの巫女を警戒している。ならば用心するに越したことはないだろう。
表情を引き締め、平吉は席を立つ。
「会ってみな詳しいことは分からんか」
「できれば、付いていきたいが」
声を掛けた訳ではない。思わず零れてしまった呟きだった。
心配、ということだろうか。
細められた目。相変わらず表情は変わらない。師匠なら兎も角、平吉ではその奥にある感情までは読み取れなかった。
「やめろや、ガキやあるまいし。俺一人でってのが先方のお望みやしな」
取り敢えず言葉を額面通り受け取り、軽く返す。するとやはり表情を変えないままで目を伏せた。
「そうか……宇津木、警戒は怠るなよ。癒しの巫女……名の響きとは裏腹に、存外厄介な相手かもしれん」
「忠告は受け取っとく。詳しい話はまた明日にでもしたるわ」
気軽に言ってみたが、甚夜は僅かに眉を顰める。
「いや、悪いが明日は店を閉める。こちらにも、ちと依頼が入っていてな」
「なんや、そっちもか。ちなみにどんなん?」
一瞬だけ躊躇いを見せ、しかし隠すことでもないと思ったのか、気負いなく語る。
「“逆さの小路”という話を聞いたことがあるか」
「んー……ないな」
「そうか、私もだ」
「おい、なんやそれ」
聞いておきながら自分も知らない。意味が分からない
ふざけた物言いに若干声を荒げるも、甚夜は相変わらずの無表情で言葉を続ける。
「知らなくていいんだ。曰く、“逆さの小路”は呪われた話である為、それを聞いたものは非業の死を遂げる。故に内容を知る者はいない」
「あぁ、怪談とかでようあるやつか」
「その通りだ。……だが近頃この話がやけに耳を突いてな。その上つい先日、“逆さの小路を見た”という者まで現れた。どうだ、中々面白そうだろう」
おかしな話だ。
逆さの小路は誰も知らぬ筈の怪談。ならば現実に遭遇として、誰がそれを「本物」だと判断できるというのか。
つまり不自然に流れた噂も、目撃譚にも、なにか裏がある。
そして、そこには相応の怪異が潜んでいる筈だ。
「……前から思とったけど、ようそんなけったいな話見つけてくるな」
呆れたように半目で甚夜を見れば、言葉の通り口元を釣り上げてみせる。師のことを好戦的だとか評していたが、この男だって相当だ。結局二人とも似たようなものなのだろう。
「まあ、どうでもええか。長居してもた。もう行くわ」
鬼と長々と話し込んだ。以前の自分からは想像もできないことだ。
溜息を残し、今度こそ平吉は後にする。
少し疲れたが、足取りの方は少しだけ軽くなったような気がした。
◆
京都の東部、四条通の更に東。通りから少し外れた場所に、うらぶれた寺院が鎮座している。
明治政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令を発した。
神仏分離令は仏教排斥を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。
平吉が訪れた寺院も廃仏毀釈の憂き目にあい、打ち壊されたひとつである。
放置され、草は生い茂り、廃墟と化した寺。ここに“癒しの巫女”がいると言う。
「寺に巫女がいるってのも妙な話やな」
敢えて声に出したのは、高まり始めた緊張を少しでも和らげたかったから。癒しの巫女。平吉の推測が正しいのならば彼女はおそらく高位の鬼だ。鬼の討伐自体は何度か経験したが、まだ高位の鬼と一人でやり合ったことはない。否が応でも体が固くなる。
「ちっ、情けない奴」
自分で自分を罵倒する。境内に入り足は竦み、本堂に入ることが出来ていない。しかしいつまでもこのままという訳にはいかない。量の掌で頬を叩き、気合を入れ直す。
「……いこか」
ようやく歩き出す。
商家の主人の話では、本堂で癒しの巫女が待っているという。警戒は解かず、いつでも付喪神を使えるよう左手に力を込める。
そうして本堂に辿り着き、土足のまま中に入れば、そこには人影が在った。
「あ……」
平吉は思わず声を漏らす。その声がどういう意図で零れたのかは彼にも分からない。
ただ視線は本堂の奥で座したへと注がれている。
腰まである艶やかな黒髪を靡かせた、少し垂れた瞳の端が幼さを醸し出す、細面の少女だった。
透き通るような、とはこういうことを言うのだろう。少女の肌はあまりにも白く、細身の体と相まって触れれば壊れる白磁を思わせた。
緋袴に白の羽織、所謂巫女服にあしらい程度の金細工を身に付けた少女は座したまま、能面のような無表情で平吉を見据えている。
「宇津木様、でしょうか」
涼やかな声に、一瞬思考が止まる。
「あ、ああ」
巫女の雰囲気に当てられ、ぼうっとしていたせいで上手く返せなかった。
しかし巫女は気にした風でもなく、典雅な所作で頭を下げる。
「此度は依頼を受けてくださるとのこと。まことに感謝いたします」
もう一度顔を上げれば、夜のように澄み渡る黒の瞳がこちらを捉える。
艶やかな長い黒髪。白磁を思わせる肌。年の頃は十六、七と言った所か。見目麗しい巫女は、笑っているのに何故か冷たく感じた。
「そしたら、あんたが」
「はい」
そこでようやく巫女は、緩やかな笑みを見せた。
「私は東菊(あずまぎく)……癒しの巫女、などと呼ばれてもおりますが」
その姿が、最後まで巫女で在ろうとした“彼女”に似ているなどと、平吉に分かる筈もなかった。