とうめいなあさ、さわがしいひる、ゆうなぎのそら。
しずむひ、みあげれば、ほしにかわり。
◆
「宇津木様、どうぞ楽に」
寒々しい板張りの本堂。
東菊は本堂の奥、朽ちた木製の仏像を背に座している。
柔らかな声を発したのは東菊(あずまぎく)───癒しの巫女と呼ばれる、実像定かならぬ女である。
「お、おお」
言われるがままに腰を下ろし、正座する。何となく胡坐をかくような真似は出来なかった。そういう高貴な雰囲気が東菊にはあった。
「一応、確認しとくけど。あんたっ、じゃなくて、東菊さんは、依頼したいことがあるって話で間違いない……です、か?」
その空気に飲まれ、どうにもうまく言葉を紡ぐことが出来ない。そんな平吉に、余裕のある態度で東菊は微笑んでみせる。
「ふふ、そう畏まらずとも結構です。巫女などと呼ばれてはおりますが、そもそも何の位もない。宇津木様が気を使うような女ではありません」
「そ、そか。ほな、あんたも」
「私はこれが普段通りですから」
なんというか、上手くやり込められていると思った。
二度三度首を横に振って平吉は気を取り直す。
相手は鬼、それも高位の存在かもしれないのだ。弱みや隙を見せるのは好ましくないし、相手の見た目は十六くらい。自分より年下の女の子に押されるままではあまりに情けない。
なにより、こんなザマでは秋津染吾郎に相応しいと言ってくれた何処かの誰かに申し訳が立たない。
「どうかされましたか?」
「いや。ほな、話を聞こか。これでも鬼の友人くらいおるからな。あんたが何もんでも、ちゃんと聞いてやれる」
堂々と言い切った。知り合いではなく、自然と友人と言えた自分が少し恥ずかしく、同時に誇らしかった。
「それ、は……?」
意外さに目を見開く。
先程から動揺してばかりの青年が、こちらを見透かすような科白を吐く。おそらくは意識の外から殴られたような気分だろう。
「あんた、鬼やろ? それも、高位の」
確認ではなく確信だった。何の気負いもなく、分かり切っていることを言ったに過ぎないという態度で口にする。
どうやら当たりのようだ。あからさまに東菊の表情は固くなった。
「……隠すのも無駄、ということですか」
「おう。悪いけど、これで案外場数は踏んどる。秋津の弟子、舐めてもろたら困るわ」
その呆気にとられた顔こそが見もので、平吉は勝ち誇ったように笑った。
「では私を討ちますか。秋津は退魔の名跡でしょう」
「当たり前や……と、言いたいとこやけど。話聞いてからにするわ」
訝しんで目を細める東菊。秋津は鬼を討つ者、鬼を討ってこそである。彼女には平吉の言が理解できなかった。
「よろしいの、ですか」
東菊の問いに、なんら動揺することなく、ごくごく自然体で平吉は答える
「人に害を出すような依頼は受けられん。そやけど鬼だから討つってのは、控えとこ思てな」
無論、人と鬼を比較すれば、重きは人だ。
しかしお前はまだ若いと、これから答えを出せばいいと言ってくれた鬼がいる。鬼にも善鬼悪鬼がいる、それを実感できた今、“鬼だから”を理由に討とうとは思えなかった
「そう、ですか」
「信じられんか?」
「いいえ、元々助力を乞うたのは私。ならば何を疑うことがありましょう」
再び平静な巫女の顔で、東菊は丁寧に頭を下げる。
その真摯な態度に、彼女は信じられるのだと平吉は感じた。
「では話を聞いてくださいますか」
そうして東菊はゆっくりと語り始めた。
◆
「おぉ、巫女様……ありがてぇ、ありがてぇ」
四条の裏長屋に足を運んだ東菊(あずまぎく)に、年老いた男が縋るように地面へ頭を擦り付ける。
男は皺だらけの顔をくしゃりと歪めて、今にも泣きそうな表情だ。
東菊は憐憫を帯びた瞳で男を眺めている。そして言葉もなくそっと触れると、掌からぼんやりとした光が零れた。
変化は分かり易かった。次第に年老いた男の顔は穏やかになっていく。まるで憑き物が落ちたかのようだ。目じりが下がり、心からの安堵が伺える。
「巫女様」
「どうか、どうか」
しかしそれだけで終わる訳がない。
自分も楽になりたいと人々は次々に群がってくる。
「ああ、わたしも」
「お願い。辛くて、もう」
重なり合う求めは願いよりも怨嗟に聞こえる。
自分も自分も助けてくれと縋りつく人々は、平吉の目には亡者の群れのように見えた。
しかし東菊は顔を歪めることなく、ただ静かな微笑みを称え、一人一人に触れていく
「勿論です。ひと時の慰めだとしても、どうか今は心安らかに」
平吉は東菊の後ろから、その光景を呆然と眺めていた。
これこそが、彼女の依頼だった。
***
「依頼は二つ。人探しと護衛です」
今度は平吉が呆気にとられる番だった。
「人探し、護衛……」
「はい。といっても、人探しは私の方で。貴方には、その際の護衛を請け負っていただきたいのです」
平吉は秋津の弟子であり付喪神使い、即ち鬼を討つ者である。それが、まさか討つべき対象である鬼から護衛を依頼されるとは思っていなかった。
「人探しは兎も角、護衛って誰ぞに狙われでもしとんの?」
「そういう訳ではないですが、外へ出るのに護衛が必要と言いますか」
「なんやそら」
表情を変えずに訳の分からないことを言う。
何か裏があるのか、考えても分からず彼女の表情からは何も読み取れない。むぅ、と平吉が唸っても、東菊はいたって冷静に話を続ける。
「本当は素性を隠して願うつもりだったのですが」
「ばれてもたしなぁ」
「ええ。ですから素直に依頼をさせて貰おうかと」
静かな湖面のような、動かない微笑みを浮かべ、東菊はこくりと頷く。
奇妙な話ではあった。師匠が師匠だし、鬼との交遊もある為、一方的に鬼を討つような真似はしない。しかし、もし平吉が“まっとう”だったなら、その時点で東菊は殺されていてもおかしくなかった。
彼女はそういう相手に護衛を頼んでいる。普通に考えれば、在り得ない話だ。
「一応聞いとくけど、あんた俺がどういう奴か知っとるよな?」
「ええ、勿論」
澄ました顔で答える。
やはり平吉には東菊の意図が読めない。考えても分からない、元々深く考えるのは得意ではなかった。
「そしたら、なんで俺に頼んだん? もしかしたら、殺されとったかもしれんのに」
「なん、で? なんで、でしょうか」
自分でもその理由を掴みかねているのか、先ほどまでの澄ました態度は崩れて、少女らしい顔が覗いている。
悩み、視線をさ迷わせ、平吉の問いに答えるではなく、思い付いた言葉をただ口にする。
「ただ、貴方に頼めばなんとかなると思いました。だって鬼を討つ者だから」
「はぁ?」
「そう、そうです。きっと鬼を討つ者なら、私をいつだって」
そこまで言い掛けて、ようやく意識を取り戻し東菊は佇まいを直した。
「……いえ、人伝に聞いた貴方ならば、私を助けてくださると思ったのです」
鬼は嘘を吐かないというが、彼女が本当のことを語っているとは思えなかった。
こういう時、師はどう考えるのだろう。蕎麦屋の店主だったならば。精一杯想像するも、一向に浮かんでこない。
今分かるのは、東菊が鬼であることを隠してまで、探したい誰かがいるということ。
とは言え、それだけでは依頼を受けていいものか判別がつかない。
「そやけど人探しは兎も角、護衛ゆわれても、四六時中一緒にいる訳にはいかん」
「そこまでは求めません。外へ出る際だけでも結構です」
「んー……」
煮え切らない態度の平吉に、東菊は静かな微笑みを浮かべる。
「貴方は、私の意図が読めないから受けるのを躊躇うのでしょう?」
こちらの思考を読まれ、ぐっと言葉に詰まる。
しかし巫女は不機嫌な様子もなくやはり微笑んだまま。
「ならば、試しに今から付き合っていただけますか?」
そう、言った。
***
このような遣り取りを経て、平吉は一応のこと護衛として東菊の傍に控えている。
秋津の弟子を護衛にしてまでやりたいことが何なのか見極めたかった。
そうして目の当たりにしたのは、鬼女が人を癒す為に身を粉にする姿だ。先程から東菊はひっきりなしに訪れる人々に手を翳していく。
触れるだけで苦しみを癒す、神仏の加護を受けた女。
噂は事実だった。確かに癒しの巫女は触れるだけで人を癒す。彼女を中心に円を描くように長屋の住民は押し寄せてくる。
一人触れて癒し、一人触れて癒し。
繰り返し繰り返し、癒しの巫女は人々に救いを与える。
本当に、こんな女がおるんか。
目の当たりにする奇跡。触れるだけで人を救うことではない。救ってくれと我先に押しかける人々を前に、微笑んでその醜さを受け入れられる、それこそが平吉にとっては奇跡に等しかった。
しばらく、あまりにも非現実的な情景に目を奪われていたが、人の輪の外が騒がしいことに気付く。何かあったかと思い平吉は東菊から離れ、騒音の下へと近付いていく。
「太助さんもはよう! 巫女様が来てくださったんや!」
「良いんですよ、儂は」
どうやら二人の男、既に五十を越えた老人同士が言い争っていたようだ。
いや、言い争いと表現するには一方的だ。一人は巫女の所に行こうとしているが、もう一人はそれを拒否している。興奮しているのは連れて行こうとしている老人だけ。太助と呼ばれた老人は疲れたような表情で首を横に振るばかりだった。
「止めはしません。ですが、儂は本当にいいんです」
「太助さん! ……なんでや」
太助の言葉に訛りはない。おそらく、元は他の土地の生まれなのだろう。
振り返ることなく、ふらふらと覚束ない足取りで去っていく。それで終わり。太助は姿を消し、戻ってくることはなかった。
だから大して気にするでもなく、もう一度奇跡のような女に目を向ける。
長い黒髪、雪のように白い肌。
美しい容姿、しかしそれ以上に彼女の所作が美しいと思える。
平吉はしばらくの間、癒ししを与え続ける東菊の横顔を眺めていた。
◆
「護衛って、そういう意味な」
陽はもう完全に落ちて、薄暗い廃寺の本堂に戻る。向かい合わせで座り込み、平吉は呆れたように溜息を吐いた。
「すみません、どうも切り上げ時というものが分からなくて」
置かれた行燈の灯が揺れている。疲れているのだろうか、淡い灯りに映し出された少女は、先ほどよりも白い肌をしているように見えた。
「人探しがはかどらんってそらそうや。自分、探してないやん」
「返す言葉もありません……長々と付き合わせてしまって」
結局あれから数えるのも億劫になるくらい癒しを与え、いい加減焦れた平吉が人々を帰らせるまで東菊は動こうともしなかった。折角外へ出ても、目的の人探しは全くできないままだった。
平吉は、依頼の意図をようやく理解した。
東菊の言う護衛とは、命を狙われているから守ってくれ、という意味ではい
後から後からやってくる癒しを求める人々。放っておけば何時まで経っても身動きが取れない。だから適当なところで人々を解散させてくれる、押しの強い誰かが欲しかったのだ。
「俺は別にかまへんけど、あんたこそ疲れたんちゃう?」
「いいえ、それほどでは。……あと、東菊です」
「は?」
「ですから、あんたではなく、東菊とお呼びください」
物腰こそ柔らかいが、頑として譲る気はない、彼女の言葉にはそういう力強さがあった。
「あー」
初対面の女に名前で呼ぶのは正直照れくさい。しかし彼女の目はあまりにも真っ直ぐで、
どうにも断りきれそうにない。
「あ、東菊」
「はい」
返ってきたのはあまりにも素直な笑顔。それが妙に子供っぽく可愛らしく見えて、平吉は顔を赤くした。
「いや、ああ。そやっ、さっき触れただけで皆えらい穏やかになっとったけど、あれってなんや? あん……東菊の<力>なんやろ?」
自分でも思っていた以上に動揺してしまい、照れ隠しに取り敢えず問いかけてみる。
平吉の内心など透けて見えているだろうに、東菊はそこには触れずちゃんと答えてくれた。
「<力>の名も<東菊>と言います。……周囲からは癒しの巫女などと呼ばれていますが、あれは癒しなどではありません。記憶の消去・改変、それが私の<力>です」
「記憶の?」
「ええ。辛い記憶を消して、ひと時の慰みを与える。私に出来るのはその程度……だから、私は東菊なのです」
愁いを帯びた目。沢山の人を救いたいのに、為せることはあまりに少ない。無力に苛まれたその色は、平吉にも覚えがあった。
「すまん。なんや、嫌なこと聞いた」
「いいえ、気にしてはおりません」
気遣ってか、静かに微笑んでくれる。
そんな表情を見せられては、平吉に言えることなど一つしかなかった。
「……護衛の依頼、受けるわ」
「え?」
「そら四六時中ついてはやれんけど、偶にくらいならな」
「宇津木様……」
ゆるりと目を細め、感謝に潤ませる。
こういう時に照れてそっぽ向いてしまう辺り、自分はあまり成長できていないのだろうと平吉は思った。
「ありがとうございます。……あまり、お礼は出来ないのが心苦しいのですが」
「期待してへんからええよ。まあ、息抜きやと思うことにするわ」
そう言って手をひらひらと振って、気にするなと示してみせる。
これは修行の一環。決して情にほだされた訳ではない。自分に言い聞かせて見ても、あまり説得力はなかった。
「ああ、そうや。依頼を受けるからには聞いとかなな。あんたの探しとる人って、どんなヤツ?」
何気なく、軽い調子で聞いたのは、彼女を安心させてやりたかったから。
「さあ? ……私には、よく分かりません」
しかし東菊の浮かべた表情に安堵はなく、何故か寂寞の色が映し出されている。
ここではない何処かを眺めるような遠い瞳。
平吉には何故か、彼女が帰る家を失くした子供のように頼りなく見えた。
「は? 分からんって、探しとるんやろ」
「……はい。ずっと探しています。誰かを。それが、誰なのかは分からなくて。でも、ずっと、探しているんです」
そして、すぅ、と瞬きもせず一筋の涙が零れる。
「お願いします、宇津木様。どうか、御助力を……」
縋るような想い。
それがあまりにも痛ましくて、平吉は何も言えなかった。
◆
「あー、今日もいい天気だ。しっかり働くとしますかねぇ」
翌朝、いつものように甚夜は三橋屋の主人、三橋豊重と店先を掃除する。
以前作った“あんぱん”は今では三橋屋の人気商品となり、気をよくした豊重は以前からは考えられないほど真面目に、そして楽しそうに働いていた。
「調子がいいようでなにより」
「いやいや、これも葛野さんのおかげだ。借りはちゃんと返すから、なんかあったら俺にどんと任せてくれ」
「三橋殿の努力のたまものだとは思うが……そう言うならば頼らせて貰おう」
お互い顔を見合わせ小さく笑い合い、それでも手は止まらない。
ゴミをちりとりで集め終え、さて店に戻ろうかという時、三条通に見知った顔を見つけた。
「宇津木」
「おう。よかった、まだおった」
挨拶代わりに軽く手を上げた平吉は、昨日よりも幾分晴れやかな顔である。
というよりも、にこやか過ぎて訝しんでしまうほどだった。
「どうした」
「あんた今日出かけるんやろ? その前に話せへんかな思て。あと、土産も欲しかったしな」
その言葉に反応したのは、掃除を続けていた豊重だ。
身を輝かせて隋と平吉の前に躍り出る。
「お土産をお求めですか? それなら三橋屋名物“野茉莉あんぱん”を是非に!」
商売根性が出てきたのは喜ばしいことだろうが、平吉の目はひどく冷たかった。もっとも向けられているのは豊重ではなく甚夜の方である。
「おい、野茉莉あんぱんて」
「……その、なんだ。新しい菓子の名前を考えてくれと頼まれて、ついな」
親馬鹿ここに極まれり。
なんというか、この男、実は見た目ほど“冷静な大人”ではないのかもしれない。平吉がそう思ってしまうのも仕方のないことであった。
「まあ、ええけど。あんぱんは後で見に行くわ」
「はい、ありがとうございます!」
依然顔を近づけたままの豊重をあしらい、平吉は目配せで合図をする。言葉無く頷き、二人は店へと入って行く。
そうして適当な椅子に腰を落ち着け、開口一番平吉は言った。
「東菊って知っとる?」
いきなりすぎる問い。僅かに甚夜が顔を顰めれば、失敗したと思ったのか慌てて言葉を付け加える。
「いや、俺そうゆうのイマイチ分からんから教えて欲しかったんやけど。あんた、結構詳しかったやろ?」
しかし甚夜の表情は変わらない。視線からは相変わらず意図が読めず、何故か妙に緊張してしまう。
「東菊は、都忘れの別名だな」
たっぷり数秒は間を開けてから、甚夜は答えた。
「都忘れ?」
「晩春から初夏にかけて青紫や濃紫の花を咲かせる。その昔、佐渡に流刑の身となった順徳天皇が、咽び泣く日々の中この花を見つけ“しばし都を忘れさせてくれる程に美しい花だ”と称したらしい。以来“都忘れ”と呼ばれている、という話だ」
「はぁ……ほんまに詳しいなぁ」
「受け売りだ。昔ある女に教えて貰った……で、癒しの巫女となんの関係がある?」
一気に確信を突かれ、平吉は体を震わせた。
なんで? 驚きに声を出せず、視線で問えば呆れたような溜息で返される。
「昨日の今日だ。関係があると思うのは当然だろう」
「……それもそうやな。あー、癒しの巫女の名前が東菊ってゆうんやけどな。どんな花なんか気になって」
「ほう、中々に風流な女だ。ひと時の慰みを与える巫女、己が在り方を都忘れと例えたか」
「ああ……」
“辛い記憶を消して、ひと時の慰みを与える。私に出来るのはその程度……だから、私は東菊なのです”
彼女の言葉の意味に今更ながら気付かされた。
こういう時、自分はまだまだ未熟だと思い知る。もう少し知識があったならば、昨日東菊が名を名乗った時、気の利いた科白の一つも掛けてやれたのに。
「もう一つ、人探しをする時、あんたならどうする?」
「私なら、か。まずは足取りを追い、周りに話を聞く。足で探すのが基本だと思うが」
「やっぱ、そうか」
普通はそうなるだろう。だが東菊は、“誰かを探している、それがだれかは分からない”らしい。これでは足取りを追うことは出来ない。さて、どうしたものか。
「で、どう見る?」
悩みこんでいると、唐突に甚夜が言った。
「どうって」
「癒しの巫女に会って、お前はどう思った」
最初に思ったのは、長い黒髪と白い肌の美しい女だということ。しかし甚夜が聞きたいのはそういう感想ではない。東菊は人か鬼か、その性状は如何なるものかを問うている
「高位の鬼……そやけど、人を傷つけるような奴やない」
「そう、か」
含むところがあるのか、歯切れの悪い返事だった。
顎に手を当て視線を落とし、なにやら考え込んでいる。かと思えばすぐに顔を上げ、いやに真剣な顔つきで平吉を見る。
「ならいいが、油断はするなよ」
「そない警戒するような相手やないと思うけどな」
「だとしてもだ」
妙に強い口調で、反論を封じられてしまう。
平吉は、この男は東菊を見ていないから警戒しているのだと思った。つまりは、得体の知れない鬼を相手にするのだから注意しろということ。強硬な物言いには若干苛立ちもしたが、それも自分を心配するが故、だから表には出さず飲み込む。
そして一息ついて、平吉は立ち上がった。
「ほな行くわ」
素っ気ない態度は苛立ちがまだ少し残っていたせいだろう。
今日もまた護衛の約束をしている。土産に菓子でも買って、廃寺へと向かうことにした。
去っていく背を眺めながら、甚夜は目を細めた。
彼は純粋に平吉を心配していた。秋津の弟子だ、その眼力は確か。平吉が害はないと判断したならば、癒しの巫女は事実無害な鬼なのだろう。
ただ、東菊という名が引っ掛かる。
向日葵、地縛……彼女らは花の名を持つ鬼女だった。
そして東菊もまた、花の名を持つ鬼女である。
「杞憂であればいいが」
店内に静かな呟きが響く。
悪い想像はべったりと脳裏に張り付いていた。
◆
平吉が廃寺を訪れた時、昨日と同じ場所で正座していた。
「宇津木様」
迎えてくれたのは目を細め口元だけで微笑む、感情の乗らない表情。
確かに東菊は美しい少女だと思う。ただ表情があまり好きではない。個人的には、やはり笑顔というのはもっと明るい方がいい。
そう、例えば野茉莉のように……と、そこまで考えて平吉は煩悩を振り払うように首を振った。いけない、金は貰っていないとはいえ一度受けた依頼、もっとまじめに望まなければ。
「……どうかされましたか?」
その様子を不審に思ったのか、冷たい目で東菊が見ている。
居た堪れない気持ちになりながらも、努めて冷静な表情を作ってみせる。知り合いの蕎麦屋の店主を真似てみたが、上手くいかず、口元は完全に引き攣っていた。
「いや、べつに」
「そうですか」
無味乾燥な遣り取り。気まずくなって、平吉は取り敢えず話を逸らそうと手にした包みを見せる。
「あー、土産持ってきた」
「みやげ、ですか」
「そう、野茉莉あんぱんゆう、最近流行の菓子なんやけど」
「え、やった!」
……今度は、平吉が冷たい視線を送る番だった。
先程までのすまし顔の巫女はいない。ぐっと握り拳を作り、見せられた菓子を喜ぶ年相応の娘がそこにはいた。
「……………気を使わせてしまったようで、申し訳ありません」
平吉の白けたような態度に気付き、東菊は佇まいを直しこほんと咳払いをする。
残念ながら今まで感じていたような高貴な雰囲気は欠片も残っていなかった。
「……今更取り繕っても遅いと思わん?」
「何のことでしょうか」
「いや、なんのことって。もしかせんでも、今までの態度って演技か」
呆れたような視線が突き刺さる。
それに耐えられなくなり、東菊はいじけたように、子供のように呟く。
「……………………だって、そっちの方が巫女っぽいし」
台無しだった。
人々に癒しを与える巫女、奇跡のような女。
平吉の抱く癒しの巫女像は物の見事に粉砕された瞬間であった。
「まあ、喜んでくれたんやったら俺も嬉しいけど」
買ってきた野茉莉あんぱんを満面の笑みで頬張る東菊。もう溜息も出てこなかった。
「私ずっとここにいるから甘いものってあんまり食べられないんだ。外に出たら昨日みたいなことになるし。あー、おいしーなーもう」
どうやら彼女の態度は、“巫女に相応しい在り様”というものを考えて自分で造ったものらしい。ちゃんと接して見れば、東菊は甘いものが好きで明るい、普通の娘だった。
「喋るか食べるかどっちかにせーや」
「なんか、昨日より態度悪くなった」
「理由が分からんとは言わんよな?」
あはは、と軽く笑いながら視線を逸らす。
昨日の東菊の振る舞いには感動したのだが、まさか一日もたずに評価を改めることになろうとは。
「別にええけどな。……つーか、まさか昨日の依頼まで嘘とは言わんよな」
「あ、それひどい。嘘は吐いてないよ。護衛してほしいのも、人探しもほんと。私、ずっと探してるの。名前も可も分からないけど、その人を」
最後の一欠けらを飲み込み、真剣な表情で平吉の目を射抜く。
そこに嘘はない……ような気がする。確信はないが、そう思えた。
「ふーん、そん人のこと、ほんまになんも覚えて無いんか?」
「……うん」
「それやったら探しようがないな」
腕を組んで悩む。しかしその愁いは彼女の言葉で払拭される。
「でも、会ったらわかる」
「は?」
「分かると思う、会えば。ずっと探していた。だって私は、その人に会うために生まれたんだから」
思い詰めるような表情。
奥底にある想いが如何なるものか、平吉には読み取ることが出来ない。
東菊が隠しているからではなく、“その為に生まれた”と言えるほど強い何かが、平吉にはないからだ。
覗き見た横顔は、済ました巫女の顔よりも余程綺麗に見えて。
でもそれを何故か、寂しいと感じた。
◆
「……おお、あんたか」
平吉と別れた後、四条通の裏長屋へ訪れた甚夜はその足で依頼人の下へ向かった。
五十半ばから六十といったところだろうか。おそらくは甚夜と同じくらいの歳だ。
“逆さの小路”に入った友人が命を落とした。調べて、解決して欲しい。
それがこの老人の依頼だった。
「すまんなぁ。態々来てもろて」
「いえ。早速ですが、詳しい話を聞かせて貰えますか」
しかし肝心の話になると、悔やむように俯いてしまう。
「すまん、分からんのや」
前回依頼を受けた時もまた同じだった。
逆さの小路。彼はその話を知らないと言う。そしてそれは、下調べをした甚夜もまた同じだった。
“逆さの小路”はあまりにも恐ろし過ぎる怪談。
聞いた者は恐怖のあまり身震いが止まらず、三日と経たずに死んでしまう。
この怪異に見舞われた初めの者は発狂し命を落とし、それを見ていた者達も恐ろしさのあまり人に乞われても語らぬまま寿命を迎えこの世を去った。
そうして逆さの小路を知るものはみな死んでしまい、今に伝わるのは逆さの小路という名称と、それが無類の恐ろしい話であった、ということだけである。
これが今回甚夜の調べた逆さの小路の全てである。
つまり逆さの小路という名前だけが先行して、如何なる怪異があるか誰も知らない。最初から、そういう話なのだ。
「“逆さの小路”は呪われた話。聞いたもんは皆死んで、話の筋は誰も知らん。だから儂もなんも知らん」
「だが」
「ああ、そうや。知らん、知らんはずやのに。儂にはそこが逆さの小路だと分かった。なんでか儂にも分からんけど、分かったんや」
なのに、老人は逆さの小路を見つけ、友人が命を落としたと言う。
内容の分からない怪異に巻き込まれ、だというのにそれが逆さの小路によるものだと彼は判断した。
その理由が、自分のことなのにまるで分らない。
老人は体を震わせ、不快感から顔を歪めた。演技には見えない。心からの不安がにじみ出ている。
「そうですか。では、逆さの小路まで案内をしてほしいのですが」
「……分かった。そやけど、儂はそこまで行きとうない」
「場所さえ教えて頂ければ、途中までで構いません」
結局のところ、行って実際に調べてみるしかないだろう。
訳の分からない怪異に対する躊躇いはなかった。この手の中身のない怪談というのは、殆どが作り話だからである。
甚夜は逆さの小路自体は単なる作話だと考えていた。
ただ、作り話が此処まで流布された理由、そこに潜むなにか。
それをこそ知りたかった。
今は、多くの怪異を解き明かすことが甚夜の目的。
そのどれかが、或いはマガツメに繋がっているかもしれない。
そうして訪れたのは四条通の裏長屋を通り過ぎ、寺社仏閣の立ち並ぶ区域。そこからわずかに外れた、建物と聞きの影になり光の差し込まぬうらぶれた小路だった。
既に老人は逆さの小路を恐れ帰った。しかし実際に見ても、別段普通の裏路地であり、鬼の気配も感じられない。これは外れを引いたかと唸っていると、不意に姿を現した老翁に声を掛けられる。
「もし、ここで一体何を?」
背骨の曲がった、年老いた小男。年齢は依頼人とさほど変わらないだろう。
目には不信の色が浮かんでいる。
「失礼。逆さの小路というものを調べておりました」
隠すことでもない。妙な疑いを掛けられぬよう、素直に答える。
「逆さの、小路?」
「はい。なんでも此処で命を落とした者がいるとか。それが逆さの小路のせいだ言う者がおり、調べて欲しい依頼を受けました」
「ああ……」
老翁が浮かべたのは呆れたような、馬鹿な子供を見るような得も言われぬ表情だった。
「そうですが。ですが、調べたところで何も出てきませんよ。そこはただの小路ですし、逆さの小路なんぞ存在しませんから」
その物言いが引っ掛かる。今まで集めた情報では“逆さの小路はあるが、その内容は知らない”というものばかり。しかしこの老翁は“ない”と断定した。それは、全容を知らなければ口に出来ない言葉だ。
「貴方は、何かご存じで?」
「……いいえ」
疲れたような笑み。間違いない。この老翁は全てを知っている。
「挨拶が遅れました。三条通で蕎麦屋を営んでおります、葛野と申します。よろしければお名前を」
「……太助と」
京訛りのない男、太助は名乗ると同時に背を見せ、去っていく。
呼び止めることはしなかった。今強硬な手段を取った所で話してくれるとは思えない。まず自分なりに逆さの小路を探り、真相のとっかかりくらいは見つけなければ話を聞いてもらうことさえ出来ないだろう。
まずは、小路に入り調べる。
そうして足を踏み入れ、甚夜は動きを止めた。
「……な」
先程まで確かに何の気配もなかった。
油断もなかった。なのに気付けば、目の前に。
吐息がかかる程の距離に、黒い影が。
咄嗟に夜来へと手を掛け、いや遅い、それよりも黒い影の蠢きの方が早い。
辛うじて人型を保っていた黒い影は崩れ、淀み、しみのように広がり、
「ぁ」
避けることも、声を上げることさえ出来ず、甚夜は影に飲み込まれた。
◆
それからどれくらいの時間が経っただろうか。
自分が眠っている。それが分かる。しかし体は重くて、起き上がろうという気にはならず、頭の方もまだ寝ぼけている。
「…太、もう朝…よ。……て」
まどろむ意識がゆっくりと引き上げられる。揺さぶられる心地良さがより眠気を誘う、緩やかな朝のひととき。
「野、茉莉……?」
いつまでも眠っていたいと思う。しかしそういう訳にもいかない。眠気を必死に噛み潰しながら重い瞼をゆっくり開ける。そうして自分を起こそうとしている娘に声をかけようとして。
「おはよ」
艶やかな長い黒髪に、雪の如く白い肌。
ゆったりとした笑顔。その甘やかさに呆け、次第にはっきりしてくる頭が違和感に停止した。
「もう、仕方無いなぁ甚太は。お姉ちゃんがいないと何にも出来ないんだから。ちゃんと一人で起きれるようにならないと駄目だよ?」
凍り付いた。
夢に見ていた。もう一度会いたいと心の片隅で、きっと願っていた。
しかし現実になった今、心が追い付いてこない。
そこにいたのは此処にいない筈の人物。
葛野の土着神『マヒルさま』に祈りを捧げるいつきひめ。
甚夜は彼女のことを、かつてこう呼んでいた。
「………白……雪?」
ああ、なんで。
失くした筈の彼女が、どうしてここにいる?
鬼人幻燈抄 明治編『あなたとあるく』中断
次話 葛野編『鬼と人と』・4(再)