明治十六年(1883年) 五月
「はい、どうぞ」
「いただこう」
荒城稲荷神社に立ち寄った甚夜は、拝殿の階段に腰を下ろし茶なぞ啜っていた。
隣ではここの神主の妻であるちとせが柔和な表情で彼を眺めている。
温めの茶が喉に流し、置かれた小皿に手を伸ばす。茶請けは磯辺餅、甚夜の好物だ。
ちとせは同郷であり、付き合いもそれなりにあった為、甚夜の嗜好を理解している。こうして顔を出せば、いつも磯辺餅を出してくれた。
だからという訳でもないが、甚夜は時折荒城神社を訪れる。悪いとは思うが、一息つきたい時には茶屋よりも居心地がよかった。
「今日はどうされました?」
「ちとせの顔を見に来ただけだ」
「もう、こんなおばさんをからかっては駄目ですよ?」
ゆるりとした笑み。小じわの目立つ、優しげな老淑女の顔だ。
葛野を出た時にはまだ女童だった。しかしいつの間にか、彼女は柔和な物腰の似合う歳になった。老いることのない身であればこそ、その変化を殊更重く、尊く感じる。
「大きくなったなぁ」
憧憬と寂寞が綯交ぜになったような不思議な心地、気付けば思わずそう零していた。
「いきなりどうしたんです、甚太にい」
「時が経つのは早いと改めて思わされた。昔は上手く敬語を使えなくてまごついていたお前が、こんなにも大きくなるのだから」
伸ばした手、くしゃりとちとせの頭を撫でる。それがくすぐったかったのか、恥ずかしかったのか、少しだけ目を細め困ったように彼女は笑った。
嫌がる様子はなく、手を払い除けることもしない。老淑女は何処か無邪気に頬を緩める。既に五十近い、なのに浮かべる表情に幼いちとせの笑顔が重なった。
変わるものと変わらないもの。重ね合わせれば、不意に過る郷愁。思えば遠くに来たものだと、ちとせの笑顔に故郷を想う。
とは言えそれも一瞬、手を離し、無造作に立ち上がる。
「馳走になった」
「いいえ。磯辺餅、いつでも食べられるように準備してますから」
僅かな名残さえ感じさせない、朗らかな声。
軽い別れの挨拶を交わし、甚夜は前を見据えた。
鳥居を背もたれにしてぼんやりと空を見上げる男が一人。視線の先には古くからの友人である染吾郎がいる。
「染吾郎」
「おぉ、もうええの? ほないこか」
黙って頷き、肩を並べる。
此処に来た理由は、本当にちとせの顔を見たかっただけだ。
あの娘は幼い頃、それなりに同じ時を過ごした。初めの友達だった。だから、なんとなく会っておきたかった。
言葉少なく二人は歩みを進める。
区画整備がきっちりとなされた京の町は、人通りは多くても整然とした印象を受ける。賑わう商家で道は騒がしく、すれ違う人は朗らかに笑う。江戸の頃は考えられなかった光景だ。
楽しげな喧騒の中、甚夜と染吾郎はしかめ面だ。目指す場所はあまり楽しい所ではない。自然と表情は曇った。
「懐かしい、な」
不意に甚夜は零した。
「んん?」
「以前もお前とだった」
「ああ、そういやそうやな。何十年前や」
「さて。数えたことはない」
確かに懐かしくはあるが、そこに笑みはない。
胸中にはどろりとした憎悪。肺が焼け爛れ、逆流してしまいそうになる。それを懸命に隠し、ただ歩く。
顔に出なかったのは重ねた歳月故に。
しかし薄れることはない。この憎しみは心ではなく肉、感情から機能となった。
呼吸するように、腹が減るように、眠くなるように、ごくごく自然な生理機能として憎悪は湧き上がる。拭い去る術は見つからぬまま、道の途中沢山の優しさを知って、尚も刀は捨てられず出来ずここまで来た。
「ま、感傷は最後でええやろ。今は目の前のこと片付けよか」
辿り着いたのは、一軒の酒屋。
三条通にある、別段変わった所のない商家である。
「おこしやす」
裕福そうな身なりの、恰幅のいい男がにこやかに応対する。
この男は以前染吾郎に鬼の討伐を依頼したことがある。
どうにも興が乗らなかった為、実際に討伐を買って出たのは平吉であるが、一応のこと面識はあった。
「これは秋津さん」
「お久しゅう。もうかっとる?」
「はは、それなりに。今日はどないな御用で」
「いやぁ、最近流行の酒があるって聞いたもんでなぁ。こら呑んどかな思て友人と顔を出させてもろたんやけど、置いとるかな?」
言葉に意味はない。最初からあるというのは知っていた。
態々荒城神社で待ち合わせをしたのは、染吾郎が先に調べ回っていたからだ。近頃流行の酒。半年ほど前から名を聞くようになり、今ではどこの酒屋でも取り扱っているという。
「流行の酒ですか」
その話を聞いたからこそ、酒屋に足を運んだ。
ちらりと横目で見れば、友人は相変わらず固い鉄の様相をしている。
きっかり三秒間を取って、低い声で甚夜は言った。
「ああ。“ゆきのなごり”……という酒があると聞いたのだが」
鬼人幻燈抄 明治編『面影/夕間暮れ』
その日の昼は偶にはいいだろうと、近場の牛鍋屋に足を運んだ。
店内は盛況、肉食文化もそれなりに根付いてきたようで、牛肉は気軽な外食として大衆に受け入れられていた。
「肉うまっ」
平吉はがつがつと肉を口に運んでいる。
初期の牛鍋と言えば角切りの肉を味噌ダレで煮込んだものが一般的だった。肉の質が悪く、そうしなければ臭さく食べれたものではなかったからだ。
しかし大衆文化として浸透するにつれ、肉の質も自然とよくなり今では醤油や砂糖、出汁を合わせた割下に変化した。この店でも後者であり、それだけ肉の質が良いことを示している。
「平吉さん、凄い勢い」
「ははは、普段お師匠の趣味に合わせて薄味やからなぁ。こうゆうがっつりしたのは中々食えん」
次々と肉を平らげていくその様を見て、感心したように野茉莉は目を見開いている。彼女も味は気に入っているようで、平吉ほどではないが箸は進んでいた。
それを眺めながら甚夜と染吾郎は酒をやり、時折思い出したように野菜や付け合せの漬物をつまんでいる。
「あぁ、マジでうまい。……そやけど、ええんか? ほんまに御馳走になって」
四人での食事を発案したのは甚夜で、支払いも彼が持つ。人の金で飯を食っているというのに、流石に食い過ぎたかもしれない。
散々食い倒して少しばかり不安になったのか、のんびりと杯を傾けている甚夜に向かって平吉が遠慮気味に問うた。
「ああ、構わん。子供が遠慮するな」
野茉莉の酌を受けながら、視線を合わせず答える。そうしてまた一口。辛口の酒、芳醇な香り。悪くない、どころか中々に良質な酒だった。
「俺、一応二十三なんやけど」
「酒をやらん男など子供で十分だ」
子供扱いが癪に障ったのか、若干表情が曇る。
「そやな、平吉」
染吾郎も同調し、言いながらビヤザケを煽った。
むぅ、とあからさまに顔を顰める。舶来の技術を模して造られた酒らしいが、染吾郎の趣味には趣味に合わなかったようだ。のど越し苦味も悪くないが、総じて“たるい”。もう少し切れ味のいい方が好みだった。
「なんやあんた、微妙に機嫌悪い?」
「そういうつもりはないが」
無表情も抑揚の小さい喋り方も普段と変わらない。なのに、今日はやけに素っ気なく見える。気になって問えば、染吾郎が答える。
「あはは、平吉。こいつな、君と酒呑みたかったんや。そやけど呑めんいうから拗ねとるだけ」
「五月蠅いぞ、染吾郎」
じろりと睨み付けても軽く受け流す。相変わらず好々爺然としながら食えない爺である。
「それ、ほんま?」
「否定はせんな。楽しみが増えると思っていたのだが」
「そら、あー、すまん、かった?」
酒を呑まない平吉にはその感性が分からない。だから抱いた感想は、こっちのことは放っておいて呑めばいいのに、くらいのものだ。
そういう考えが読み取れるから、染吾郎は仕方がないなと優しげに溜息を吐いた。
一緒に酒を呑みたいと思うことの意味に気付かないのだから、子供と言われても仕方がないだろう。
「やっぱ、まだまだ子供やね。ところで甚夜、そいつの味はどない?」
落ち着いた表情は変わらず、口調も何気ない。ただほんの刹那だけ、目は鋭く細められた。
杯を傾け、咽喉に酒を流し込み、意に甚割と広がる熱さを感じる。
「辛口で切れのあるいい酒だ」
実に普通の感想だ。
期待外れの答えに染吾郎は顔を顰めた。こちとら真面目な話をしているというのに、返しがそれでは呆れもする。
「そうやなくてな?」
「……が、それだけ。“普通”の酒だな」
答える甚夜も目つきが鋭くなっている。
普通という言葉を強調する辺り、ちゃんと質問の意図は汲んでくれたようだ。
「そか、予想通りっちゃ予想通りや。この酒が出回ってから半年、話もあんま聞かんしな」
呑んでいる酒の名は“ゆきのなごり”。
甚夜と染吾郎は近頃巷で名を聞くようになった“ゆきのなごり”について調べていた。酒屋を周り現物も買い、問屋を調べ酒の流通、また実際に甚夜が呑んで中身を確かめても見た。
結果としては、ある一点を除いて、特に何も出てこなかった。
呑んでみても普通の酒、正規の流通に乗って品は出されており、人が鬼になるといった類の噂もない。
駄目押しとばかりに牛鍋屋に置いてあったゆきのなごりを頼んでみるも、やはり質がいいだけで、呑んでも懐かしい風味はしなかった。
つまり今回の酒は名前が同じだけで以前とは別物ということになる。
「染吾郎、どう見る?」
しかし、だからと言って何の関わりもないという訳ではなさそうだ。瓶も記された文字も、江戸の頃と全く同一。これを偶然と片付けることは出来なかった。
なにより、気になるところが一つだけあった。
当然ながら出荷元も調べたのだが、問屋から教えて貰った場所に酒蔵はなく、実際に行ってみれば既に打ち捨てられた屋敷へと辿り着いたのだ。
ご丁寧に、どの問屋に聞いても屋敷へ繋がるようになっており、あからさま過ぎて失笑してしまう程の怪しさだった。
「誘い。噂の女からの結び文ってとこやな」
その物言いに顔を顰める。
結び文は細く巻き畳んで、端または中ほどを折り結んだ書状。古くから恋文に使われた形式である。
噂の女というのは当然マガツメのこと。
屋敷の中までは調べていないが、間違いなくそこで彼女は待っている
まったく嬉しくない逢瀬の誘い、しかし同時に嬉しくもあった。
憎むべき者が態々こちらに出向いてくれた。そう思えば、にたりと猛禽のような笑みが浮かぶ。
「向こうからの誘いとは有難い」
「がっつく男は嫌われんで?」
「既に十分過ぎる程嫌われているさ」
明言はせず、二人だけが分かる会話を交わす。
そこに割り込んだのは、若干不機嫌そうに頬を膨らませた野茉莉だった。
「……噂の、女?」
野茉莉は反芻する。父に近付く女の影、幼い頃はもう少し過敏に反応していたが、今ではそこまでではない。それでも今更母親が出来るのは嬉しくないらしく、ささくれ立った態度を隠そうともしない。
「あー、別に気にせんでええよ。艶っぽい話やないから」
「どちらかと言えば血生臭い」
二人が即座に否定すれば、安堵したのか柔らかく目尻を下げる。同時に血生臭い、という言葉が引っ掛かり、心配そうに声を掛けた。
「なにかあるの?」
「探っている段階だ。そう心配するな」
軽く答え何でもないことだと示してみせる。
最後の一杯を飲み干し、追加を注文しようと手を上げると、その手をやんわりと握った野茉莉に無理矢理下げられてしまった。
「お酒はもうおしまい」
めっ、とまるで子供を嗜めるように野茉莉は言う。
その仕種がよく似合うと思う。そう思える程に、彼女は大人になった。
長い髪は子供の頃と同じように桜色のリボンで一纏めにしている。しかしその面立ちから幼さは抜け、立ち振る舞いにも落ち着きがあった。
「いや、もう少しくらいは」
「呑み過ぎだよ。深酒は駄目だっていつも言ってるでしょう?」
野茉莉は二十歳になった。
対して甚夜の外見は十八の頃から止まったまま。
つまりとうとう彼女は甚夜を追い越してしまった。
今では並んで歩いていても親娘かと問う者は誰もいない。こうやって四人集まれば、当然ながら甚夜が一番年若いと思われる。
恐れていた時がきた。
もう、親娘でいることはできないのだ。
「駄目ですよ、ちゃんとお姉さんのいうこと聞かないと」
しかしそれを悲しむことはなかった。
「おー、出た。野茉莉ちゃんのお姉ちゃん風」
「はい。今の私はお姉さんですから、弟が無理しないようにしっかり見ていないと」
からかうように染吾郎が言えば、ふふん、と勝ち誇った笑みで甚夜を嗜める。
野茉莉は人目のあるところでは甚夜の姉を自称し、家では今迄通り父様と呼んでいた。
父であることは変わらず、傍から見ても家族で在れるように、野茉莉は二つの態度で甚夜に接する。その心遣いを嬉しいと思わない筈がない。
「だから、甚夜。今日はもう止めとこうね?」
「ああ、分かった。姉上様」
「はい、よくできました」
茶化して姉と呼べば満足そうに何度も頷く。形は変われども家族として在ろうと二人の戯れ。それが染吾郎には眩しく見えて、光を避けるように目を細めた。
「野茉莉ちゃん、昔はかいらしかったけど、今はええ女になったなぁ。なあ、平吉?」
急に話を振られて、肉を喉に詰まらせる。むせ返りそうになったが茶で無理矢理流し込み、呼吸を整え、何とか言葉を絞り出す。
「え、ええ。そですね。野茉莉さん、綺麗になった、と思います」
「ふふ、なんだか照れるなあ。ありがと、平吉さん」
返ってきた笑顔は本当に綺麗で、顔が熱くなるのを自覚した。
もっとも平吉にとってはそれが精一杯。小さい頃から知っていた仲良くもしているが、さん付けはまだ取れない。あと一歩が踏み出せず、仲のいい幼馴染というのが現状だ。
その遣り取りを見て、甚夜は重々しく口を開く。
「可愛いということも、いい女になったことも認めよう。確かに野茉莉は親の贔屓目を抜きにしても器量よし、気立てもよく家事に関してもそつなくこなす。その上で男を立てる、夕暮れに咲く花のように淑やかな娘だ」
「出たな野茉莉ちゃん至上主義者」
染吾郎の揶揄もなんのその、堂々と言ってのける。親馬鹿どころか馬鹿親丸出しの発言であった。
「も、もう父様まで」
「事実だ」
「ふふ……」
照れたせいで姉としての態度は崩れていた。
この親娘の仲の良さは有名で、鬼そばやでは名物となっている。相変わらず過ぎて辟易とした様子の師弟だった。
「だが、少し気になるところもある」
「お、珍しい。なんかあかんとこでもある?」
「いや、まあ、なんだ」
言い淀む甚夜を見てぴんときたのか、からからと笑いながら染吾郎が答えた。
「ははん、分かった。そろそろ嫁の貰い手を探さんとな、てとこやろ」
見事に図星を突かれてしまった。
ぴしり、と空気が凍り付いたのは気のせいではないだろう。
言い当てられた甚夜と同時に、照れ笑いのまま野茉莉も固まっている。
晩婚化が進んでいる現代の日本とは違い、江戸の女性の結婚適齢期は十五から十八、明治に入っても十七から十九まで。明治後期になると早婚の弊害が説かれたため二十歳を過ぎる例も出てきたが、大抵は親が二十歳までに結婚させてしまう。
二十歳を過ぎても未婚のままでいる女性は、奇異な目で見られるのが一般的だ。
そして野茉莉は今年で二十歳。行かず後家と言われてもおかしくない年齢に差し掛かっていた。
「秋津さん、何か、仰いまして?」
困惑し、戸惑いに視線をさ迷わせる。
わなわなと震えた唇で、たどたどしく紡ぐ言葉。何とも頼りない声は、自分でも少しばかり意識していたからだろう。
「いや、そろそろ年齢がな? 女の子は早め早めの方がええと思うたんやけど」
「うぅ」
言葉に詰まる。
非常に失礼ではあるが言っていることは分かる。野茉莉の歳なら子供がいる女も珍しくない。というよりも、体への負担を考えれば出産は早い方がいい。少なくとも明治の頃はそういう考え方が普通だった。
「父親としては、嫁に行かれるのは寂しい。家にいてくれるのは嬉しいと思うが」
「う、うんっ、そうだよね?」
「そやけど相手が一人もいないってのは流石にあれやろ?」
今度は親娘共々何も言えなくなってしまう。
染吾郎の言は甚夜の内心でもあった。
今更ながらおふうを嫁にしないかと言い続けた店主の気持ちが分かる。可愛い娘、手放したくないとは思うが、適齢期を過ぎても相手がいないというのは確かに心配だ。
「でも、相手がいませんから。こればかりは一人じゃどうにもならなくて。あは、あはは」
微妙な笑みを浮かべて乾いた笑いを垂れ流す野茉莉。そこに染吾郎は追い打ちをかける。
「そんなら、平吉はどや?」
「お師匠っ!?」
「なに言ってるんですか秋津さん!?」
突飛な提案、しかし口は挟まなかった。
大事な娘が嫁に行くのは複雑な心境だが、それでも平吉なら信は置ける。案外悪くないかもしれない。そう思って止めなかったのだが、予想以上に二人は混乱している。
「そ、そういうのは、ほら! 平吉さんも迷惑だと思いますし、ね?」
「いやっ、迷惑とは思わんけども」
「えっ!?」
慌てふためく様を甚夜はじっと観察する。
平吉は言わずもがな、野茉莉も顔を赤くしている。お互い憎からず思っているのは間違いない、筈。とはいえ如何せん性急すぎたらしい。互いに照れ、戸惑い、ずれた会話を繰り返すのみだ。
「あちゃー、やってもったな」
「そうだな」
手酌で残ったビヤザケを盃に注ぎ、軽く煽ってみる。
染吾郎は気に入らなかったようだが、呑んでみればそれなりにいける。個人的にはもう少し辛口が好みではあるが、それほど悪くはない。
「あら、怒らんの? うちの娘に何しとるー、くらいは言うかと思たんやけど」
騒ぎを余所に酒を呑んでいるのが不思議だったらしく、染吾郎は首を傾げる。
持ち出した話は場を混乱させることしか出来なかった。しかし怒る気にもなれない。ビヤザケを呑みながら、何気なく甚夜は言う。
「友人の気遣いを叱責するような真似は出来ん」
「なんや、ばれとる?」
意外だ、と言わんばかりに目を見開く。
染吾郎が態々こんな話を始めたいとは分かり切っている。何故ならば、それこそが今回の昼食の目的だった。
勿論ここまであからさまにするつもりはなかったが、それとなく「そろそろ結婚でも考えてはどうだ」とでも促そうと、甚夜こそが思っていたのだ。
「済まない。道化をやらせた」
「僕が勝手にやったことやけどね」
「それでも感謝くらいはさせてくれ」
結果として上手くはいかなかったが、これで踏ん切りは付いた。
ちゃんと野茉莉と話そう。あの娘の為にも、避けては通れない道だ。
「一度、腹を割って話してみようと思う」
少しだけ寂寞を思わせる横顔に、染吾郎は穏やかに頷いた。
「そやな。そのほうがええ」
一転、茶化すように口の端を釣り上げる。
「ま、野茉莉ちゃんはええ女や。多分君が思っとるようにはならんけどな」
そしてからからと、楽しそうに彼は笑った。
◆
あくる日の夜、夕食を終えて親娘二人のんびりと茶を啜る。
近頃では食事は野茉莉が作るようになった。腕前も中々で、今では炊事掃除洗濯、糠床の管理まで彼女がこなしている。
流石に悪いとは思うのだが、「私だって作れるようになったんだから」と野茉莉も頑として譲らない。結局やれるといえば食事の後片付けを手伝う程度になってしまっていた。
「有難くはあるが、お前にばかり負担をかけるのもな」
「駄目。こういうことはお姉さんに任せて。ね?」
まったく都合のいい。野茉莉は娘と姉を上手く使い分けている。
此処で言う“都合のいい”は野茉莉にとってではなく、甚夜にだ。彼女は娘と姉の立場を使って、極力甚夜の負担を減らそうとする。そういう気遣いが出来る大人に育ってくれた。
しかし手放しに喜んでいる訳でもない。
娘の成長が嬉しい反面、申し訳ないとも思ってしまう。
この娘は父を気遣い過ぎる。もう少し自分を優先しても罰は当たらないだろうに。
───でも、相手がいませんから。こればかりは一人じゃどうにもならなくて。
当たり前のように紡がれた嘘。
親の贔屓目を抜きにしても、野茉莉は器量よしで気立てもいい。引く手数多とまでは言わないが、その気になれば相手などいくらでも作れただろう。
そうしなかった理由など考えるまでもない。
それは偏に父を慮ればこそ。
老いることの出来ない父と、少しでも長くいようと彼女は努力してきてくれた。嫁に行こうとしなかったのも、そう意図があったのだと本当は知っていた。
けれどそれに甘えたままではいられない。
「なぁ、野茉莉」
「はい?」
お茶を楽しみながらたおやかに笑う。
その柔らかさに躊躇い、けれど彼女を想うからこそ言わなくてはならない。
「いいんだぞ、無理をしないでも」
穏やかな声に空気が固まる。
野茉莉に動揺はなかった。落ち着き払った様子を見るに、なんと続くかを既に察しているのだろう。しかし黙って、彼女は甚夜の言葉を待ってくれていた。
「お前もそろそろ、結婚を考えてみないか。相手がいないというのなら見合いでもどうだ? なに、これでもそれなりに伝手はある。お前の希望に沿う相手を探そう」
江戸で生活していた甚夜にとっては、それが普通である。野茉莉が望むならば恋愛結婚も構わないが、そうでないのなら見合うだけの人物を探すのは父たる己の役目だ。
「いや、探さなくとも宇津木がいるか。あれは、いい男に育った。気心も知れているだろう、相手としては申し分ないと思うが」
野茉莉は何も言わなかった。
沈黙は焦燥を掻きたてる。捲し立てるように口を開くのは、一度止めてしまえば二の句を告げられなくなると思ったから。この熱が冷めるまえに、伝えておかなくてはならない。
「二十歳を過ぎれば相手を探すのも難しくなる。考えるなら頃合だと」
「……なんで?」
甚夜の言葉を遮るように野茉莉は言った。
やはりそこに動揺はなく、しかしほんの少しだけ瞳は寂寞に揺れている。
「なんで、そんな話するの? 私のこと邪魔になった?」
抑揚なく紡ぎだされたのは、心の奥底にあった劣等感だ。
血が繋がらない。その一点をもって、幼い頃はずっと怖がっていた。いつか自分が嫌われた時、捨てられるのではないだろうか。そんなことを思っていた。
「馬鹿なことを。そんなわけがないだろう」
「なら、なんで?」
それでも今は違う。父がちゃんと家族だと思ってくれていることくらい分かっている。
だからこそ、何故父がそんな話をするのか理解できない。否、なんとなく理解しながらも、認めたくなかった。
身構える野茉莉に、甚夜は困ったような静かな笑みを落した
「お前が結婚しようとしない理由は、私だろう」
そうして口にした言葉は、まぎれもない真実だった。
「とう、さま」
「分かるさ。お前が私を慮り、家族であろうとしてくれていることくらい分かっている。それが嬉しくて、甘えてしまった。……だが、それはいけないのだと思う」
鬼の寿命は千年を超える。
しかし人は五十年もすれば消えてしまう。野茉莉がどれだけ努力しても、家族でいられるのはほんの刹那でしかない。
その刹那の為に、彼女の幸せを犠牲にはしたくない。
家族だと、自信を持っている。
そう思えるだけのものを、野茉莉は与えてくれた。
ならばそれでいい。自分は十分に救われてきた。
今度は、こちらが彼女の幸せを祈る番だろう。
「離れたとて家族であることに変わりは無かろう。だから無理はしなくていい。結婚し、子を産み、緩やかに生きる。女として当たり前の幸せを得てもいいんだ、お前は」
胸を過る空虚を今は見ないふりして、穏やかな笑みを落す。
野茉莉は俯き、肩を震わせていた。しかしそれも一瞬、顔を上げ、揺れる瞳で甚夜を射抜く。
泣いているのだと思ったが、違った。僅かに潤んではいるが、そこには決意の色があった。
「父様……私、もう子供じゃないよ」
震える声に、込められた心。
真っ直ぐ視線は逸らさない。もう子供ではないと、態度で示そうとしているようだ。
「自分の道くらい自分で選べる。それとも、そんなことも出来ないように見える? そんなに私って頼りない?」
「そんなことは」
「なら、そんなこと言わないで。父様が私のこと心配してるって分かってるよ。でも、私も、私だって……」
口ごもり、首を横に何度か振って、気を引き締め直す。
濁してはいけない。伝えたいことははっきり口にしないといけない。懐にある福良雀が、そう教えてくれた。
「私は、父様の娘で、姉で、いつか母親になるの。そうするって自分で決めた。それが幸せじゃないなんて、間違ってるなんて言わないで」
「野茉莉……」
「大丈夫。自分のことだって考えてるから。だから、もう少しだけ好きにさせて欲しいな」
精一杯の笑顔で紡ぐ強がり。
ちゃんと笑えただろうか。自信はないかったが、野茉莉は胸を張る。
幼かった娘は、そうやって我を張るだけの強さを手に入れた。
それが甚夜には嬉しく、同時に少し寂しく。けれど思う。この娘は本当に大きくなった。浮かべた笑顔の眩しさに、少しだけ安堵を覚えた。
「済まない。お前の気持ちを考えていなかった」
「ううん、それだけ私のこと心配してくれたんだよね。……今更だけど、父様が私に甘いっていうの実感出来ちゃった」
ぺろりと舌を出しておどけて見せる。
釣られた甚夜も表情を柔らかくして、親子二人のんびりとした空気が戻ってくる。
本当は、誰かの妻となり、穏やかに老いていく、そういう生活を選んでほしかった。
マガツメに繋がる道を見つけた今、余計にそう思ってしまう。
きっと、野茉莉が止めたとしても、甚夜はマガツメの下へと向かう。
それだけが全てで、そういう生き方をしてきた。
だからこそ、愛する娘には平穏を生きて貰いたかった。
結局それは叶わなかったが、悪くはない。
この子が娘でいてくれたことが、殊更誇らしく感じられた。
それでも生き方は変えられない。
明日、甚夜は打ち捨てられた屋敷へ向かうと決めていた。
マガツメとの邂逅は、直ぐそこまで近づいているのだ。