『私はただ、見たいだけ。東菊が本懐を遂げた時、あの人が何を選ぶのか』
◆
「……あの、どなた、ですか?」
今、彼女はなんと言ったのか。
阿呆のように口を開けて固まる。耳に入った筈の言葉を認識できない。
目の前には、僅かな怯えをにじませ見上げる野茉莉の姿がある。普段から父を慕っている彼女が初めて見せる表情は、今の言葉が真実だと雄弁に告げている。
「の、野茉莉、さん……? 自分の父親にそないな冗談、ちょっと悪趣味やろ」
硬直して何の反応も返せない甚夜より先に平吉が先に口を開いた
近くで親娘の触れ合いをずっと見てきた。野茉莉と甚夜は本当に仲睦まじく、だから彼女が何を言っているのか分からず視線を泳がせている。
「父、親?」
よりにもよって野茉莉さんが、父親の顔を忘れる? 馬鹿な、在り得ない。
そう思いながらも不安が過った。
呆けたような、感情の乗らない声。初めて聞いたとでも言わんばかりの野茉莉の反応は、とてもではないが演技には思えない。
平吉もそれなりに場数を踏んでいる。こういった在り得ない現象を起こしうる存在が現世には在るのだと、十分過ぎる程に理解していたからだ。
いや、不安の本当の理由は、彼女の状態から一瞬で浮かんでしまった想像のせいかも知れなかった。
「いつっ、あ……」
「野茉莉っ」
頭を抱え、苦悶に表情を歪め、立ち眩みを起こしたように野茉莉の体が揺れた。咄嗟に手を伸ばし、崩れ落ちそうになる寸前で支える。抵抗はなかった。抵抗されるかもしれない、そう考えた自分を情けなく思う。
けれど手は離さない。野茉莉も振り払うような真似はしなかった。腕の中で身動ぎ、こちらを見上げ、焦点の合わない目でたどたどしく口を開く。
「父、親。え、あ……あれ、とう、さま?」
とうさま。紡ぎだされた響きに安堵し、甚夜は気付かれぬくらい微かな吐息を漏らした。
強張っていた全身の筋肉がほぐれていく。どうやら思った以上に動揺していたらしい。
しかし野茉莉は体調こそ悪そうではあるが、ちゃんと自分を父と呼び、今も腕の中にいてくれる。
「ご、ごめん、なさいっ。ちょっとぼーっと、して……つぅ」
「いいから喋るな。調子が悪いならもう少し寝ていた方が」
「ううん、大丈夫だよ。今ごはんの準備するね?」
少しぎこちないながらも笑顔で返し、するりと腕から離れていく。足取りは普段通り、体も揺れていない。少し顔色が悪い。出来れば休んでいてほしいが、あれで頑固なところがある。多分聞いてはくれないだろう。
「分かった。だが、何かあったらすぐに言ってくれ」
「もう、父様。相変わらず過保護なんだから」
その応対は普段と変わらず、甚夜は胸をなでおろした。先程は寝ぼけていたのだろう。ふう、と小さく息を吐き、台所に向かう野茉莉を見送る。
ふと視線を横に向ければ、平吉が暗い顔をしていることに気付く。野茉莉の方をじっと眺め、時折辛そうに口元を歪めている。
「どうした」
「へ?」
見られていることに気付かなかったらしく、びくりと肩を震わせる。慌てた様子で視線をさ迷わせ、外の方をちらりと見て平吉はにへらと笑った。
「いやー、なんや、一雨きそうやなーと思って」
誤魔化しであると気付いてはいたが、甚夜は敢えて問い詰めはしなかった。
平吉が悪意から隠し事をするとは思えないし、染吾郎のこともある為無遠慮に踏み込むような真似はしたくない。「そうか」と一言だけ残し今へと向かうことにした。
「……名前を、忘れる? まさか、な」
だから平吉の呟きを聞き逃した。
◆
平吉のいう通り、朝食時には雨が降り出していた。
壊れた玄関の片づけを後回しにして、三人は居間で食卓を囲む。
漬物を頬張り、白飯をかっ込む。味噌汁は豆腐、副菜には煮豆が添えられている。簡素だが手抜きのない丁寧な食事だ。平吉は料理が出来ない為、こう言った普通の朝食にはなかなかあり付けない。決して豪勢ではないが、寧ろ彼にとっては嬉しい献立だった。
「はぁ、ごっそーさん」
かちゃん、と乱雑に茶碗を置き、茶を一啜り。平吉は満足げに一息吐いた。
甚夜が帰ってきたら蕎麦でも作ってもらおうと考えていたが、野茉莉の手料理を食べることが出来た。蕎麦は勿論旨いのだが、やはり女性の手料理は別格。それが想い人のものであればそもそも天秤に乗せること自体間違っている。
「昨日はよう動いたからなぁ。飯が旨いわ。ま、まぁ野茉莉さんの作る飯はいつ食っても旨いけどな!」
慌てたように褒め言葉を付け加える。顔は僅かに赤くなっていた。どうにも平吉には素直に褒めるという行為が恥ずかしいらしく、幼い頃からこうだった。
変わらない彼が何となく微笑ましくて野茉莉は微笑みながら頷いた。
「お粗末様でした。お茶、お代わりいる?」
「そやな、貰おかな」
平吉の顔がにやける。今のやり取りが、まるで夫婦のようだと思えたからだ。
ただ少しだけ寂しくも思う。こんな時、いつもからかってきた師はもういないのだ。けれど顔には出さない、出さないよう努力する。野茉莉に心配はかけたくないし、何より自分は師から“秋津染吾郎”を受け継いだ者だ。この程度でヘタレていては、師に合わす顔が無い。
「はい、父様も」
「済まんな」
下手くそな平気な振りでも、何とかやり過ごせた。甚夜は気付いているだろうに、気付かない振りをしてくれている。心遣いに感謝し、平吉はグイと茶を飲み干した。こんな風に酒を呑めれば、少しはこの仏頂面に報いることが出来るだろうか。そう考えたことが意外で、けれど悪い気分ではなかった。
「そやけど、野茉莉さんほんまに料理上手なったなぁ」
「ふふ、先生がいいからね」
ぺろりと舌を出して、照れくさそうに笑う。
もう二十歳になるというのにその仕種は幼げで、惚れた弱みを別にしても可愛らしく映る。無邪気な微笑みは、昔から変わらない。
「なんといっても、私の先生は……せん、せいは?」
なのに、微笑みが凍り付く。
またも野茉莉の体が揺れる。甚夜は手を伸ばそうとして、しかし今度は支えることが出来なかった。一瞬、ほんの一瞬。野茉莉がこちらを見る目に、怯えが宿っていたからだ。
「あれ、私料理、教えて、もらった。その筈なのに、なんで……?」
畳に座り込み、手をついて俯く野茉莉。微笑みは困惑に変わる。ぶつぶつと呟きながら、まるで信じられないものを見たかのように目を見開いている。
「野茉莉、やはり少し休め」
怯えられてもいい。甚夜はすぐさま野茉莉を抱きかかえ寝所へと向かう。何も言わない。素直に従った、というよりも動く気力が無いのだろう。完全に体を預け、しかし体は僅か震えていた。
「……とう、さま」
腕の中にいる愛娘の瞳は、自身でも理解できない恐怖と不安を映していた。
縋るような声はまるで細い糸のようだ。するりと手からすり抜けていきそうなくらい頼りなくて、胸が締め付けられる。
「とう、さま……だよね? 私の父親で。ずっと一緒に暮らして……料理を教えてくれたのも、父様」
そっと伸ばされた手、白く細い指先は何もつかめずただ小刻みに揺れている。
直ぐ近くにいるのに、腕の中にいる筈なのに、遠く感じるのは何故だろう。怯えて縮こまる野茉莉を少しでも安心させようと出来るだけゆっくりと、出来るだけ穏やかに話しかける。
「どうした、のま」
「分からないの……! 分からない! 父様だって分かってるのに、ずっと一緒に暮らしてきたのに、貴方の名前が、思い出せない……!」
堰を切って流れる感情に、言葉は途中で断ち切られた。
甚夜は何の反応も返せず、ただ立ち尽くす。貴方の名前が思い出せない。そういった野茉莉に嘘を吐いている様子はなく、そもそもそんな悪質な嘘を吐くような娘ではない。
つまり野茉莉が口にしたのは紛れもない真実。この娘は、本当に父親の名を忘れてしまっているのだ。
「なんで私……分からない、怖い、怖いよ父様……」
「いいから、落ち着け」
「でもっ」
それ以上言わせないように、野茉莉を抱き寄せ地椎の胸元へ押し付ける。
正直に言えば、甚夜自身にも恐怖と不安があった。野茉莉の異変を前に冷静でいられる筈がなく、だからこそ努めて冷静で在ろうと浮動する心を抑え付ける。
「まずは休め、それからだ」
「…………うん」
完全に納得した訳ではないだろうが、それでも野茉莉はおずおずと従った。
起きたばかりだ、布団に寝かせてやっても眠れないようだ。しかし自身の異変に怯え、無理矢理目を瞑り布団を頭から被っている。
「野茉莉」
怯えている所を申しわけないとは思うが、聞かなければならないことがある。
愛娘に起きている異変を知る必要があるだろうと、甚夜は問いを投げかけた。
「私の名前が分からないと言ったな。他にも、何か思い出せないことはあるか」
答えは返ってこない。それも当然か。まともに答えられる精神状態ではないし、なにより“何を忘れているか”など問いとしておかしい。聞いたところで思い出せないのだから、返す答えなどないに決まっている。そして野茉莉の態度を見るに、やはりいくらか記憶が失われているところがあるのだろう。
その後も何度か声を掛けたが、返ってくるのは意味のない繰り言か沈黙のみ。結局何の情報も得られぬままだ。これ以上は問うても意味がないだろうと、ゆっくりと愛娘の頭を撫でる。
「取り敢えず休んでおけ」
「うん……」
小さく頷き、髪を纏めていたリボンをほどく。
それを手にしたまま、何故か野茉莉の動きが止まった。
「……これ」
見詰めたままぽつりと呟けば、表情から怯えが消えた。
意図が分からず甚夜が眉を顰める。答えるように柔らかな笑みが浮かんだ。
「このリボン、父様が昔買ってくれた、んだよね?」
縋るような目が痛ましく、何もできない自分が歯がゆい。それでも顔に出ないのは、積み重ねた歳月のせいだろう。しかし今は有難い。娘を安心させる為、心の内の焦燥は隠し、ただ穏やかに頷いて見せる。
「ああ、そうだ」
「……よかった。ちゃんと覚えてる。だから、それが嬉しくって」
野茉莉は心からの安堵に息を吐く。かなり精神的に参っているらしい。手の中にある、小さな思い出を愛おしそうに眺めている。
だからこそ次いで口から出た言葉は、鋭い刃物のように胸を刺した。
「朝顔さんがいた頃だったよね、確か。父様が浴衣を買いにつれていってくれたの」
もしかしたら、思った以上に時間はないのかもしれない。
かける言葉を失った甚夜は、野茉莉を寝かしつけてから寝所を後にした。
雨は強くなった。
遠く聞こえる雨音を聞く。清澄な響き、しかし心が落ち着くことはない。
平吉にとっても野茉莉は特別な相手、思うところがあるのだろう。どかりと椅子に腰を下ろし、そわそわと、落ち着きのない様子で膝を揺らし続けている。
平吉が難しい顔をして俯いていると、しばらくして甚夜が戻ってくる。それに気付き慌てて立ち上がるも、眉間の皺は取れていなかった。
「の、野茉莉さん、どうやった?」
上ずった声。どれだけ心配していたのかが分かる。
甚夜は子供に言い聞かせるようなゆっくりとした口調で言った。
「私の名前を思い出せないだけではなく、所々記憶が抜け落ちているようだ」
「そ、か。あ、医者! 医者に診せて……っ!」
喋っている途中で意味がないと気付き黙り込む。成長したとはいえ、まだまだ平吉は若い。大切な者が怪異に巻き込まれ、浮足立ってしまっている。
「意味はない。なにより原因なら分かっているだろう」
「そう、やな」
甚夜の脳裏には愛しくも憎々しい妹の姿が映し出されている。
鈴音は野茉莉を狙うと言っていた。記憶の欠落がその一環であり、それがマガツ
メの配下、或いは娘の持つ<力>によるものだとは容易に想像がついた。
もっとも、平吉が思い浮かべたのはまた別の鬼女であったが。
「記憶の欠落、いや忘却か。朝よりも進んでいる。おそらくは時間と共に全て、いや、私に関する記憶を忘れるのだろう……中々に性質(たち)が悪い」
「やっぱり……そうなんか」
甚夜は表情を変えず、投げ捨てるように言った。平吉の反応を見るに、彼もある程度推測していたようだ。
最初に「どなたですか?」と問うたところを見るに、記憶を消す類の<力>であることは間違いない。
甚夜を父親と認識できた以上、まだ完全に消えた訳でもいないだろう。
しかし野茉莉は今身につけているリボンを指して、「朝顔がいた頃に買った」と言った。
父の名を忘れているのに、朝顔は覚えている。平吉を見ても動揺はなかった。
つまり、野茉莉の記憶はただ単に消えたのではない。甚夜のことだけを忘れているのだ。
だから“性質が悪い”。マガツメの狙いは野茉莉ではない。野茉莉の記憶を奪うことで、甚夜を追い詰めようとしている。やはり、あの幼かった鈴音は最早何処にもいないのだと思い知らされ、ほんの少しだけ甚夜は唇を噛んだ。
「あんた、冷静やな」
野茉莉を溺愛しているこの男のことだ。もっと動揺するかと思っていたが、案外落ち着いている。自分だけが慌てているのが悔しくて、少し棘のある言い方になってしまった。
「慌てても意味はない。野茉莉を想えばこそ、冷静になるべきだろう」
事も無げに答える。やっぱり、こういう所は敵わないと思ってしまう。
平吉は動揺し切っていた。
どうすればいいのだろう。こういう時彼の導となってくれた師は既におらず、これからどうするのかは自分で決めなければならないのだ。
しかし野茉莉のこと、頭に浮かんでしまった可能性のこと。頭の中がごちゃごちゃになって、上手く考えが纏まらない。
そして甚夜が口にした言葉に、完全に思考を止められた。
「それにやるべきことは明確だ。忘却の<力>を有した鬼、おそらくはマガツメの配下。そいつを探し出す」
当たり前のことだ。方策としてはごく単純、当然の帰結。なのに平吉は冷や水をぶっかけられたような気分だった。
唇がわなわなと震えている。それを懸命に隠し、何とか歯を食い縛り、平吉は途切れ途切れになりながらも問う。
「み、見つけたからって、どうにかなるんか? そら<力>の持ち主なら治せるかも知らん。そやけど、そいつが……治す義理なんて、ない訳やし」
対して甚夜はさらりと言ってのけた。
まるで死を宣告する医師のように、冷静で無慈悲だった。
「喰えばいい」
え?
短すぎる返答に、思わず間抜けな声を出してしまう。
一瞬意味が理解できなかった。いや、理解したくなかったのかもしれない。
だって鬼の<力>で野茉莉がああなったなら、それを治すにはやはり鬼の協力が必要だ。なら殺す訳にはいかない筈で。
「如何な鬼であろうと斬り殺し喰えばいいだけのことだ。……それが一番手っ取り早い」
だけど、こいつには態々生かしておく必要はないのだ。
元々甚夜の左腕はそういうもの。
鬼を喰らい、その<力>を我がものとする異形の腕。かつて葛野を襲った鬼から与えられた<力>だ。
此処に来て、平吉はようやく気付いた。甚夜は冷静なのではない。怒りなどとっくに振り切れている。娘の為ならばどんな手段を取る。
だから例えば、<力>を持つ鬼が女で、少し食いしん坊だけど明るくて楽しい奴だったとしても、何の躊躇いもなく喰い殺すのだ。
目の前が真っ白になった。
野茉莉さんを助けなきゃ。そやけど、もしかしたら忘却の<力>を持つ鬼っていうのは。
知らず体が震える。自分は、一体どうすれば。
「て、なんだこらおい!?」
平吉は聞こえてきた声に意識を取り戻した。
思考に没頭していたせいで人の気配に気づかなかった。玄関の方に目を向ければ、ぐちゃぐちゃになっている店を見て唖然としている男がいる。三橋豊重、鬼そばの隣にある和菓子屋、三橋屋の店主である。
豊重は店内に甚夜らを見つけると、軽く手を上げて近寄ってきた。
「おお、葛野さん。どうしたんだよこの惨状。性質の悪い客が暴れでもしたか?」
壊れた玄関を見て様子を窺いに来てくれたのだろう。ただ、その声掛けが意外で、甚夜は僅かに眉を顰めた。
「三橋殿……私のことを覚えているのか?」
「は? いや、そらお隣さんのことくらい覚えてるだろうに」
問いの意味が分からず、豊重は首を傾げた。そんな呑気な態度を見て、平吉も呆気にとられている。
取り敢えず、記憶を失ってはいないようだ。甚夜は強張った顔の筋肉を僅かに緩める。
「なんか、大丈夫そやな」
何とか平静を取り戻し、一度深呼吸をしてから甚夜に声を掛けた。
「らしいな」
「……正直言うと、もっと手当たり次第やってくるんかと思っとった」
それは甚夜も想像していたことだった。
野茉莉だけではなく、甚夜と関わりを持った者全ての記憶を消す。そうすれば自然今迄通りの生活は遅れなくなる。つまりマガツメの目的は、憎い兄の居場所を奪うことなのだと推測していた。
しかし実際には平吉も豊重も記憶を消されてはいない。
確かに甚夜にとって野茉莉は別格だが、彼女だけを狙った理由はなんなのか。勿論、野茉莉の記憶を消すことが甚夜にとって一番の痛手となるのは間違いない。
同時にマガツメの意図を読めていないのも事実。相手の狙いが分からないと言うのはどうにも居心地が悪い。
「あー、なんかよく分からんが。どういうことだ?」
話に着いて行けず豊重は、頭をぼりぼりと掻きながら困った様子で立ち尽くしていた。
とは言え詳しい内容を話すことも出来ない。誤魔化す方法を考えていると、同じく隣でなにやら考え込んでいた平吉が先に口を開いた。
「俺、そろそろ行くわ」
取り敢えず落ち着くことが出来た。なら、次は行動しなければならない。
軽い調子。けれど感情の色を失った冷たい横顔に、むしろ平吉の激情が滲んでいる。
「宇津木……」
「野茉莉さんほっといてお喋りなんてしとるのもあれやしな。取り敢えず、心当たり回ってみる」
笑ったつもりだったのだろうか。引き攣ったように口角を釣り上げ、言い捨てた後は振り返ることもせず店を出て行く。雨の中、傘もささずに走っていく。その後ろ姿から伝わる気配は強張っていて、掛ける言葉を失くしてしまう。
「……なんか、あったか?」
完全に姿が消えさってから豊重が零した。状況は分かっていなくても、平吉の纏う空気にただ事ではないと察したのだろう。彼にしては珍しく、真面目な表情に変わっていた。
「いや……」
もう姿は見えないが、平吉が去っていた方を甚夜はただ眺める。
その目付きは鋭いが、豊重には甚夜が何を考えているのは分からない。
「……まあ、話せないんならいいけどな。でもよ、俺はこれでも懐広い方だから、気が向いたら話してくれ。その時は、面倒だなんて言わねえよ」
からからと笑う。あからさまに造った笑顔、甚夜を気遣ってのものだ。
そして続ける言葉も気遣い故のものだった。
「多少のことじゃ驚かねえよ。あんたが何者か、なんてことも聞きやしないさ」
甚夜のまったく年老いていない姿を見ても、今まで近所付き合いを続けてきた。
特に親しい友人という訳ではなく、こちらの事情も全く知らない。それでも三橋豊重という人間は信頼できる。
甚夜にはその確信がある。だから何かを逡巡するように俯き、もう一度顔を上げて真っ直ぐに豊重を見た。
「三橋殿、貴方は以前借りを返してくれると言ったな」
以前、豊重は店の新商品を作る際甚夜らに助力を乞うた。それに恩義を感じており、「借りはちゃんと返すから、なんかあったら俺にどんと任せてくれ」と言っていた。勿論、豊重はそれを忘れておらず、急な質問でも戸惑うことなく、力強く首を縦に振った。
「おお、勿論だ」
それを聞いて安心した。
甚夜はいやに真剣な顔で「ならば」と言葉を続ける。
「済まないが、野茉莉を見ていてくれないか」
「は?」
「少し体調を崩しているんだ。生憎と、私はこれから出かけねばならん。留守を頼みたい」
豊重は意外そうに目を見開く。
それもその筈、いい加減付き合いも長く、甚夜がどれだけ娘を大切にしているかは知っている。鬼そばの常連客が「野茉莉ちゃん至上主義」だなどとからかっていたが、豊重にしても同意見だった。
そういう男が、娘を見ていてくれと頼む。正直どう返せばいいのか分からなかった。
「いや、そりゃいいが……あー、俺でいいのか?」
留守番ぐらいで大層かもしれないが、一応のこと確認しておく。
しかし豊重の困惑を余所に、甚夜は自然体で、さらりと言ってのけた。
「私はそれなりに貴方のことを信頼しているよ」
それなりに、という表現には引っ掛かるが、嘘を言う男ではない。
ならば素直にその信頼を受け取ろうと、豊重は軽く笑った。
「そうか。しゃあない、なら今日は三橋屋は休業でございます……絶対嫁さんに怒られるけど」
おどけてそう言ってくれる豊重に限りない感謝を。
深く頭を下げて、甚夜は力強く言い切った。
「ならば、此処で借りを返して貰う。野茉莉のことは任せたぞ」
一緒に浮かべた笑みは、どこか寂しそうにも思えた。
◆
降りしきる雨に先は見通せない。
体は雨の冷たさに悴み、けれど平吉は足を止めなかった。
体が冷え切り強張っても、焦燥が彼を突き動かす。
自分の想い人が怪異に巻き込まれた。その時点で冷静さを保てる筈はなく、なにより“記憶が消えた”という事実に胸を締め付けられていた。
甚夜は気付いていない。単純に、マガツメの配下が引き起こした怪異だと思っている。
しかし平吉は怪異の真相に気付いていた。すぐさま気付ける程に親しくなっていた。
記憶を消したり、改変したり。そういうことが出来る鬼を、平吉は既に知っているのだ。
「頼む、俺の勘違いであってくれ……あいつは、そないなことせん」
だってする意味がない。あいつが、そんなことをする理由なんてない。
そうやって自分に言い聞かせても不安が苛む。
息切れを起こし、それでも尚走る。
甚夜はまだ彼女の存在を知らないが、気付き場所を突き止められれば終わり。あの食いしん坊は無惨に食い殺される……そして、自分はそれを止めることが出来ない。
野茉莉が助かる可能性を、選んでしまう。
だから走らないといけない。
甚夜が気付くよりも早く彼女の下に辿り着き、なんとか野茉莉を救ってもらうのだ。そうしないと、彼女は。
浮かんだ想像を振り払い、通りを只管に進む。向かう先は四条通の更に東。通りから 少し外れた場所にある、うらぶれた寺院。
迷うことはない、通い慣れた道だ。
お土産に野茉莉あんぱんを持っていくのがいつものこと。毎回同じお土産でもあいつは喜んで食べてくれた。
最初は緊張してたけど、素のあいつを見れば呆れた溜息しか出なくて。
でも中身はいい奴で、鬼であっても何ら気にすることなく雑談を交わして。
いつの間にか依頼なんて関係なく、無駄話をするのが楽しくてこの道を歩いていたのかもしれない。
泣きそうになる。雨が降っていたのは幸いだった。潤んだ瞳を誤魔化せた。
今は泣いている場合ではない、とにかく急がないと。
そうして平吉は走りに走り、ようやく辿り着く、草木が無造作に生い茂る境内。立ち 止まらない。本堂に向かい一直線に走り抜けた。
だんっ、と大きな音を立て、板張りの間に雨に濡れたまま、土足の中で上がり込む。
恰好なんて気にしてはいられない。荒い息のままぐっと前を見据える。
其処には、彼女が居た。
本堂の奥、座敷で彼女は正座している。
この数年で見慣れた、もう友人と読んでも差し支えが無いくらい親しくなった相手だ。
「……おう、東菊」
腰まである艶やかな黒髪を靡かせた、少し垂れた瞳の端が幼さを醸し出す、細面の少女だった。
透き通るような、とはこういうことを言うのだろう。少女の肌はあまりにも白く、細身の体と相まって触れれば壊れる白磁を思わせた。
緋袴に白の羽織、所謂巫女服にあしらい程度の金細工を身に付けた少女は座したまま、能面のような無表情で平吉を見据えている
「すまん、今日は土産買って来れんかった」
片手を挙げて、いつものような気やすい挨拶を演出して見せる。
いつものように返してほしかった。そうすれば、いつものように座り込んでくだらない冗談を言い合える。
だから、頼む。食いしん坊で無邪気で明るい、そういう東菊で迎えてくれ。
「宇津木、さん」
だけど、そんな願い叶う訳もなくて。
「そっか、宇津木さんの方が先に来ちゃった、かぁ」
長い黒髪を指先でいじりながら、どこか無気力に、ぼやくように言葉を続ける。
「ちょっと辛いな。……二人とも、それだけあの子のことが大切なんだね」
もう言い逃れは出来ない。
疲れたような微笑みに、平吉は泣きたくなった。
「そうだ、探してた人見つかったよ。色々思い出したんだ。野茉莉ちゃん、って言うんだよね? 私は、あの子に出逢うために生まれたの」
聞きたくない。聞きたくないのに、耳は塞げない。
何故か目の前が滲んだ。東菊の顔がよく見えない
「あの娘の記憶を消す。それがすずちゃん……お母様から与えられた役目」
「なん、で……そんなこと」
「なんで、かぁ。多分、お母様は知りたかったんだと思う。結局、あの子にとっては甚太が全てだから」
絞り出した声。返ってくるのは乾いた声。
上滑りするような会話。感情なんて何処にもない。
「でも、同じくらい知りたくなかったんじゃないかな。だから、野茉莉ちゃんに会えば記憶が蘇るようにした。もし逢わなかったら、それはそれでいいってことなんだろうね」
「そうやないっ! なんでお前がこんなことを……そんな奴ちゃうやろ!?」
慟哭、けれど届かない。
東菊は疲れたように溜息を吐いた。
「ううん、そういう奴だよ私は。この身はお母様の想いだから。……それに、知りたかったのは私も同じ。お母様の命令に従ったのは、私の意思」
遠くを見るような、思い出を眺めるような、言い様のない寂寥。
もっと問い詰めたかった。しかし何も言えなくなった。
野茉莉の記憶を消した鬼。こいつは、人に害をなす鬼なのだ。
だけど、凄く寂しそうに見える。
だから何も言えない。彼女は下手なことを言えば壊れてしまいそうなくらい儚くて、平吉は口を噤む。
「私は……私達は知りたいの。あの人が何を選ぶのか」
そうして東菊は酷く悲しそうに微笑む。
透き通るような声音が雨音に紛れて消えた。