ざぁ、ざざ。
雑音が聞こえる。
雨の音なのだろうか。ざざ、ざざ、と頭の中で何度も何度も反芻している。
気持ち悪い。時折痛みを伴って、だけどその痛みが過ぎると少しだけスッキリする。
楽になって、でもなんでか無性に寂しくなって。
私は布団で横になったまま、すうっと一筋涙を流した。
「野茉莉」
低い声。寝所に父様がやってきて、寝ている私の頭をくしゃりと撫でた。
昔から剣を振っているからだろう。ごつごつとした、豆の上に豆を作った無骨で不器用な手だ。父様の手はあったかくて気持ちいい。私は昔からこの手で撫でられるのが好きで、
ざぁ、ざざ。
あれ、でも、なんでだろうか。今日は、そんなに気持ちいと思わなかった
「とう、さま……?」
「済まない、少し出てくる。留守は三橋殿に任せてある、何かあれば頼れ」
不安で胸が締め付ける。不安の意味は分からない。だけど離れて欲しくなくて、必死になって首を横に振った。
「やだ」
言ってから、ほんの少し後悔した。
表情こそ変わらないけれど、父様はきっと困っている。
ざざ、ざざ。
だけど頭の中で響いている奇妙な音が怖くて、私は情けない声を上げてしまう。
「ひとりはやだよ……」
福良雀の見せた蜃気楼を思い出す。父様がちゃんと私のことを娘だと思っているのは知っているけど ───ざざ、ざざ─── 父様が私のことをどう思っているのかなんてわからないのだから、どうしても不安になる。
「済まない、直ぐに戻る」
最後にさらりと髪を梳いて、父様が離れた。
大きな背中。何度この背中を見送っただろう。
でも今日だけは縋りつくように手を伸ばす。
このまま見送ってしまえば、何か大切なものを失くしてしまいそうで。
なのに、声を掛けることはもうできなくて。
障子の閉まる音が部屋に響く。
それと一緒に、何かが閉じたような気がした。
◆
身支度を整え、後ろ髪引かれながらも店を出る。
腰には夜来と夜刀守兼臣。慣れ親しんだ重みを指で確かめる。一度息を吐き、濡れた空気で肺を満たせば、少しだけ心は落ち着いてくれた。
とはいえ、不安や焦燥はやはり消えない。
それを感じ取ったのだろう。兼臣は気遣わしげに声を掛けた。
『旦那様……』
記憶の消失は時間とともに進行する。その推測は恐らく間違っていない。
野茉莉の状態は次第に悪くなっている。行き着く先は、甚夜のことを完全に忘れ他人になること。家族ごっこと揶揄してきたのは鈴音だ、それが狙いだろう。
「正直に言えば、心細くはあるな」
甚夜は素直に心情を吐露した。柄にもない、そう思いながらも弱音を吐いたのは隣に誰もいなかったかもしれない。
───人って、しぶといで?
こういう時、いつも隣で染吾郎が茶化すように笑っていた。
甚夜が激昂し判断を間違えても、染吾郎は冷静でいてくれた。
しかし彼はもういない。それが思っていたより心細い。付喪神使いとしての力を別にしても、甚夜は秋津染吾郎という男を頼っていたらしい。
今更ながらそれを思い知らされ、苦々しく口元が歪む。
「しかし泣き言も言ってられん。時間が無い、急ぐぞ」
『ですが、手がかりもなく動いては』
兼臣の言葉を遮り、甚夜は呟いた。
「当たりは付いている」
『何か心当たりが?』
「私にはない。だが宇津木には在ったようだ。悪いが、<犬神>に付けさせた。後は追うだけだ」
冷たく固い鉄の声音は、確信に近い響きを持っている。
同時に何処か悔いるような重さだった。
「疑ってはいたんだ。癒しの巫女の名は東菊、花の名を持つ鬼女だ。おそらくそいつが野茉莉の記憶を消したのだろう」
疑いを持ちながら直接会おうとしなかったのは、そもそも甚夜では巫女の所まで辿り着けなかった為。なにより、平吉の判断を信じた為。
だからこの状況を後悔しない。弱くなった心が引き起こした窮地、大切なものを信じた結果ならば、悔いることはせず結果を受け入れる。
「“喰えばいい”と態々目の前で言った。何かしら行動を見せてくれると思ったぞ」
そして同時に、悪辣とも思わない。
長い歳月親として在った。
だから娘を救う為ならば、如何な手段であろうと選び、大切なものでさえ利用する。
すぅ、と目を細め甚夜は雨の向こうを見た。
ざぁ、雨の音は不安を掻きたてる。
◆
朽ち果てた本堂で二人は対峙する。
遠い雨の音。紛れるようで、なのに彼女の声はどこか透き通って聞こえる。
聞き慣れた無邪気な響きを、空恐ろしいと思ってしまうのは何故だろう。
「東菊……お前なら、野茉莉さんを治せるやろ? 頼む、助けたってくれ」
声が震える。
必死に抑え付けた感情はなんだったのだろう。野茉莉へ向けられたものか、それとも東菊へのものだったのか。何一つ分からないままにただ願う。
本当は知っていた。東菊がマガツメの配下ならば、どれだけ頼み込んでも助けは得られない。十二分に理解しながら懇願する。
理解はしていても信じたかったからだ。明るく無邪気で、少しばかり食い意地が張った彼女は、敵などではないのだと信じていたかった。
「私の<力>は<東菊>」
でも、言葉は届かない。
「しばしの憩い、そして短い恋……記憶の消去、及び改変。胸を突く痛みを忘れさせる花」
黒髪の、美しい鬼女だった。
もう東菊ではない。初めて会った時の、癒しの巫女でもない。
砕けた言葉遣いの中でも何処か冷たさの残る、鬼としての彼女が其処にいる。
「野茉莉ちゃんの記憶は……夕方頃には、完全に消えるかな? あ、大丈夫だよ、宇津木さんのことは忘れないから」
冗談めかした物言いにひどく距離を感じる。
ついこの間のことだ。一緒にあんぱんを食べて、人探しと言いながら通りを練り歩いて、軽い雑談を交わして。
鬼と人と。けれど、笑い合うことが出来た。
日常になり過ぎて別段意識はしていなかったが、きっと楽しかったのだ。
「消えるのは甚太のことだけ。普通の生活で困ることもない」
なのに今は、こんなにも泣きたくなる。
悔しい。大切な人が、大切な人に苦しめられている。守りたいと思うのに、こいつをどうにかしてやりたいと思うのに。
「貴方が必死になる理由なんてないんだよ?」
東菊の目は、何も映していない。
目の前にいる平吉を通り越して、もっと遠く、見果てぬ何処かを眺めている。
人が知ることの出来る範囲には限りがある。平吉とって東菊は“癒しの巫女”で、気の置けない友人だ。彼女が何者であるかを知らぬ平吉では、その内心を図ることは出来ない。
それでも希望に縋りただ願う。
「頼む……野茉莉さんを」
「無理だよ」
けれど噛み合わない。
東菊は泣き笑うように表情を歪ませた。
「だって私は、ただこの時の為だけに生まれたんだから」
力強いのではなく、決意にあふれている訳でもない。
ごく自然に言葉は流れる。空気を吸うのと同じように、夜眠くなるのと同じように、それは当たり前に為されることだと彼女は言う。
諦観だったのかもしれない。かつての白雪は己を曲げられないが故に巫女として在った。
しかし東菊は、与えられた役割から食み出ることが出来ない。そもそも彼女はマガツメの暇潰しと単なる嫌がらせの為に生み出された。
初めから彼女はそういうもの。
初めから選択肢など与えられていない。
初めからそれ以外に価値がないと、生まれた時に決められているのだ。
「“しゃれこうべ”……!」
左腕を突き出し、付喪神を放つ。しゃれこうべ。鉄刀木の腕輪念珠から生み出される骸骨が東菊を取り囲む。
からから、からから、骨がにじり寄る。
だというのに抵抗する素振りどころか立つことさえしない。不気味な骸骨には目もくれず、東菊は静かに平吉を見据えている。
しゃれこうべは今にも襲い掛かろうと構えている。
それでも東菊に動揺はなく、おそらく平吉の目論見は既に意味がない。そう思いながらも、最後の可能性に縋り、無抵抗なままの少女を睨み付ける。
「最後や、治せ。断ったらどうなるか、わかるやろ」
必死の形相で絞り出した脅しにもならぬ脅し。肩を震わせ、今にも泣きそうな暗い表情を歪め、決定的な言葉も口には出来ず。脅しとしての役割は殆ど果たせていない。
平吉の様子に東菊は目を伏せた。そこに隠された感情を伺いすることは叶わない。
しかし続く言葉だけは容易に想像がついた。
「だから、無理だよ」
抑揚のない否定。
ぶつりと、何かが千切れるような音を平吉は聞いた。
ああ、話し合いの余地なんてなかった。
そして野茉莉は平吉にとって大切な人で。東菊は鬼で。
鬼と人は相容れない。師匠は違ったが、平吉はずっとそう思っていた。
ならば、きっとこの結末は必然だったのだろう。
「そんなら、俺がお前を……っ!」
衝動と共に言葉を叩き付ける、筈だった。
しかし現実は違う。平吉が言い切るよりも早く、冷たく、重く、誰かが呟いた。
「<地縛>」
突如として出現した暴れ狂う蛇。違う、鎖だ。じゃらじゃらと冷たい音を響かせて、鎖がしゃれこうべに襲い掛かる。
風を切り、鞭のように鎖は骸骨どもを薙ぎ払う。鉄と骨、勝敗は考えるまでもない。薄汚れた白色は音を立ててへし折れ、宙を舞う。僅か数瞬で全てのしゃれこうべは砕け散っていた。
「宇津木……それは言うな。お前が野茉莉を想ってくれることは素直に感謝しよう。だが、そこまでしなくていい」
それを為した人物は、ゆっくりと本堂に姿を現した。
「それは私の役目だ」
六尺近い長身、練磨を重ねた体躯。腰に携えた二振りの刀。
息も乱さずしゃれこうべを片付けたその男は、真っ直ぐに東菊を見つめている。
「……あんた、なんでここに」
平吉の問いに甚夜は答えなかった。
最初から道案内をさせるつもりだとは、これ以上平吉を追い詰めるようなことは言いたくなかった。
視線は巫女へ固定されている。
腰まである艶やかな黒髪を靡かせた、少し垂れた瞳の端が幼さを醸し出す、細面の少女だった。白い肌は、線の細さも相まって触れれば壊れる白磁を思わせる。
緋袴に白の羽織、巫女服にあしらい程度の金細工を身に付けたその出で立ちは、どこかで見たことがあった。
あれが、癒しの巫女。
「やっぱり、来たね」
それは、甚夜のよく知る、懐かしい顔だった。
「白、雪……」
どこか嬉しそうな、なのに寂しそうな、思い出を揺り起こす声だった。
郷愁に心が震え、込みあがる熱情を必死に抑え、甚夜は無表情を作った。
“なんで”、と問うことはない。
動揺を表に出さなかったのは、ある程度予測していたからだろう。マガツメは、鈴音はいつかそういう手で来る。頭の片隅でその可能性を考えていたからこそ、彼女を見ても比較的冷静でいられた。
「成程……奪い去った頭蓋を使ったか」
あの時、鈴音は引き千切った彼女の生首を持ち帰った。
だからこれは想像の範囲内で、しかしどろりと憎悪が淀む。
今も、覚えている。
巫女として在った。己が幸福を捨て去っても、誰かの為に祈れる。
自身の想いよりも曲げられない生き方を取る、不器用な女だった。
そういう彼女だから好きになった。
刀を取ったのも、強くなろうと決めたのも、生きる意味さえも。
あの頃、彼女は確かに甚夜の全てだった。
「うん、正解。初めまして、“甚太”」
そして、全てと信じたかつての想いを穢された。
己で在ることに拘った彼女が、別の何かに変質させられている。
あいつは諦めたような、流されるような、そんな笑い方をしない。
いつだって強がって、それでも誰かのために笑う。
脳裏には遠い遠い、みなわのひびが映し出されている
心底愛した人の愛した部分を踏み躙られた気がして、“彼女”と寸分違わぬ容貌をした東菊に冷めた目で吐き捨てた。
「……いや、今のお前は東菊だったか」
彼女とは違うのだと明確にする為、敢えて強く東菊と呼ぶ。
あくまでも眼前にいるのは東菊。白雪ではないのだ。そう自身に言い聞かせ、尚も視界に穏やかだった日々がちらつく。
いつか、全てを失った。
いつか、小さなものを手に入れた。
幼かった自分を救ってくれたものが、今は障害として其処に在った。
「甚太のことはちゃんと覚えてるけどね。ううん、知っている、かな? 過ごした日々も交わした約束も……いつか、一緒に見上げた夜空も。私にとっては思い出じゃなくて知識。それでも、大切なことには変わらない」
だからこそ、東菊は諦観を纏っている。
東菊として過ごした平吉との日々。白雪として過ごした甚太との日々。
そのどちらもを大切に想いながらも、彼女は揺らげない。
生き方を曲げられないからではない。マガツメの娘として生まれた以上、彼女に母の思惑から外れることは出来ないのだ。
中核にあるのは東菊の心でも白雪の生き方でもない、切り捨てられた鈴音の想いだからだ
「ならば、お前は……いや、止めよう」
甚夜は言おうとした言葉を飲み込んだ。
そもそも何を言おうとしたのか。過去に手を伸ばしたところで得られるものなど何もないと、知っている筈だ。
ならば言葉に意味はない。白雪は、みなわのひびは既に幕を下ろしている。
全て今更だ。過ぎ去った日々は思い出になった。目の前にいる彼女も残滓に過ぎない。
甚夜に、“甚太”として出来ることなどありはしなかった。
「確認しよう。お前が、野茉莉の記憶を弄ったのか」
下らない感傷は切り捨てて、本来の目的に専心する。
自分は、野茉莉を救うために此処へ来た。他事に囚われている余裕はない。
「うん。私の<力>は<東菊>……記憶の消去、及び改変が本質。野茉莉ちゃんの記憶は、夕方頃には全部消えるよ。勿論、甚太に関することだけね」
予想通りだ、動揺する必要もない。
「……ならば、治す気は」
「態々、分かっていることを聞かなくてもいいと思うなぁ」
惚けたような返しに奥歯を噛み締める。
これも分かっていた。記憶を消したのが彼女なら、治す気なぞある筈がない。
つまり甚夜の選ぶ道は、初めから一つしかない。
「ああ、そうか……」
ようやく分かった、鈴音の……マガツメの意図が。
重要なのは野茉莉の記憶を奪うことではない。
この瞬間こそが望み。マガツメは態々お膳立てをしてまで、甚夜に問うているのだ。
「ねぇ、甚太。知ってるよ。貴方の左腕のこと」
そもそも東菊に直させる意味はない。
甚夜には鬼を喰らい、その<力>を我がものとする異形の腕がある。
拒否しようとも、喰らって<力>を奪えばなんの仔細もない。
喰わなければ助けられない。
かつて愛した人を、その面影と記憶を持つ彼女を。
「私は……私達は知りたいの。貴方が何を選ぶのか」
「お前、は」
つまり鈴音は選べと言っている。
「貴方の大切なものって、なに?」
今か昔か。
家族か愛しい人か。
愛情を理由にするのなら、お前が本当に大切だと思うものはなんなのか。
その為に、何を切り捨てるのか。
今此処で選べと、鈴音は言っているのだ。