一つの終わりを経て、翌日の朝を迎える。
野茉莉はいつも通り自分の部屋で目を覚ます。
昨日は一日大雨だったが、朝には抜けるような清々しい晴天となった。
障子の向こうから淡い光を感じる。頭痛はない、体にだるさも残っていない。すっきりとした、心地好い目覚めだった。
「……あぁ、起きたんか」
急に男の声が聞こえて、野茉莉は驚きそちらに視線を向けた。
寝ていた布団の傍で胡坐をかいていたのは宇津木平吉。師匠の秋津染吾郎と共に幼い頃からの付き合いで、幼馴染であり一番親しい友人だ。
例えば、野茉莉に父がいて平吉が生意気な態度をとっていたという過去があったなら少しばかり印象は変わっただろう。
しかし彼女は元々捨て子で、父親などいない。そんな寂しい幼少期を支えてくれた彼に野茉莉は感謝と親愛の情を抱いていた。
「ありがとう、平吉さん。看病してくれ、たんだよね?」
何故部屋にいるのかと一瞬考えて、自分が寝込んでいた理由を思い出す。
野茉莉は二日前から風邪を引いてしまった。彼女には家族がおらず、看病をしてくれる人はいない。それを心配した平吉はわざわざ来てくれたのだ。
「ごめんね、迷惑かけたみたいで。でも久しぶり、風邪ひいたのなんて」
にっこりと笑う。
そこに憂いなど欠片もなくて、だから平吉は言葉に窮した。
「……そか。そういう風に、なっとんのか」
「え?」
平吉は何故か気落ちしているように見える。
目が赤い。もしかして泣いていたのだろうか。
「いや、すまん。体の方は大丈夫なんか?」
しかし野茉莉は何も聞かなかった。
殿方が泣くのだから相応の理由があったのだろうし、そうやって笑って誤魔化そうとしている辺り聞いてほしくはないのだろう。
ならば話してくれるまで待つ。もしも助力が必要ならば、彼は話してくれるはずだ。
「うん、もうすっかり」
「そか、よかった」
二人は軽く笑い合い、平吉は枕元にあるものを見つけて、少しだけ表情を影らせた。
「なぁ、それって」
置かれていたのはリボンだった。随分汚れている。まるで雨に濡れて、そのまま洗わず放置してしまったかのようだ。
もっともここ二日は寝込んでいたため、出かけてはいない。雨に濡れる機会などなないのだが。
「あ、リボン結構くたびれてきてる。お気に入りだったんだけど、そろそろ買い替え時かな」
枕元に置いてあるリボンを見て野茉莉は言う。
リボンは自分で買ったものだ。古くなったと思えば、野茉莉は簡単に捨てるだろう。
思い出や思い入れが無ければ消耗品でしかない。
「ええんか。大切な、もんなんやろ?」
おずおずと問う平吉に違和感を覚えながらも、質問の理由が分からない野茉莉はいたって普通に答える。
「え? でもこれ、自分で買ったのだし、そこまでは……」
甚夜の記憶が無い。しかしリボンがあることを疑問には思わない。
それが東菊の<力>。
マガツメの娘の<力>は喰らった時に劣化する。彼女達はあくまでもマガツメの想い、その切れ端でしないからだ。
故に甚夜ではできないが、本来の<東菊>は発動の瞬間に条件を三つまで設定することが出来る。
東菊が設定したのは三つ。
一つ、葛野甚夜に関する記憶のみを失う。
二つ、記憶の消失は時間経過で行われる。
三つ、完全に消えた後は甚夜の存在を無かったことにして記憶は再構成及び改変される。
記憶の消去を甚夜が行ったとて同じこと。使用した<力>は<東菊>に違いなく、設定を改変或いは無効化するような細かな能力運用は彼には出来ない。
故に誰が何をしようが、この結末は変わらない。
ただ単に記憶が消えるのではなく、甚夜がいなくても問題ないように修正されてしまう。
例えば、野茉莉が蕎麦屋の店舗に住んでいるのは、住み込みの働き先を染吾郎が紹介してくれたから。
店主がいないのはつい先日高齢の為辞めてしまったから。
捨て子だった自分を育ててくれたのは、甚夜ではない別の誰か。
そうやって記憶を失った後、もう一度二人が家族になれる可能性さえ潰されている。
何かのきっかけで野茉莉が記憶を思い出すなんて奇跡は在り得ない。
彼女の人生において、葛野甚夜という男はそもそも関わることがなかった。
少なくとも彼女にとっては、それが真実である。
「……あ、でも。やっぱりもうちょっと使おうかな」
だから彼女がそう言ったのは奇跡ではない。
単なる気まぐれに過ぎない。けれど東菊の<力>を知っている平吉だからこそ、あまりの驚きに目を見開き狼狽してしまった。
「なっ、なんでっ!?」
「なんで、ってこれ結構気に入ってたし……というか平吉さん顔近いよ!」
平吉の過敏過ぎる反応に野茉莉の方も驚いて声が少し上ずった。
真剣な顔で詰め寄ってくる幼馴染の青年。吐息がかかる程の距離に顔があって、昔から仲良くしていとはいえ流石に照れてしまう。
「ほんまか。それ、気に入ってるって」
そんな野茉莉の戸惑いなど気にも留めず、真っ直ぐに平吉は見つめている。
顔が熱くなる。頬を赤く染め、野茉莉は誤魔化すように言葉を続けた。
「う、うん。なんでかはよく分からないけど。やっぱり長く使ってたからかな……捨てるのが、寂しいような気がするんだ。変だよね?」
ああ、泣きそうだ。
その言葉が平吉には嬉しかった。
染吾郎外の命を落とし、甚夜がいなくなり、野茉莉は記憶を消され。
たった二日の内に、幼い頃から入り浸っていた鬼そばは、かつての騒がしさを失くしてしまった。
口にはしなかったけれど、此処は平吉にとっても大切な場所で。
あの楽しかった日々は二度と帰ってこないのだと思うことがひどく寂しくて。
だけど救いがあった。
もう甚夜のことを覚えていない筈なのに、野茉莉はリボンがなくなることを寂しいと言ってくれた。
それがどうしようもなく嬉しい。
例え、野茉莉がそう思ったのは単なる気まぐれだったとしてもよかった。
全て壊れてしまったけれど、ちゃんと残るものはあったのだと信じることができたから。
「そか。そっ、かぁ」
零れそうになる涙を堪えて、平吉は必死に笑う。
甚夜はもう帰ってこない。
野茉莉を抱きかかえ家に戻ってきた時、「済まない、後は任せる」と静かな笑みだけを残して去って行ってしまった。
止めることは出来なかった。何一つ守れず何もかもを失った男を、助けになってやれなかった自分がどうして止められるだろう。
なのに甚夜は、最後まで平吉を責めなかった。
それどころか、任せると。何もできなかった自分を信じ愛娘を託してくれた。
その信頼を裏切るような真似は出来ない。
だから守ろうと思った。
彼女を、そして彼女の中にほんの少しだけ残った“何か”を。
宇津木平吉は……四代目秋津染吾郎はその為に在ろうと心に誓う。
「だ、大丈夫?」
「ああ……なぁ野茉莉さん」
野茉莉の細くしなやかな指を両手で優しく握り締め、祈るように首を垂れる。
伝わる熱が心地好い。この暖かさが失われないようにしよう。
多分、あいつはこれを守りたかったのだから。
「えぇ!? ど、どうしたの平吉さん!?」
平吉の行動ははっきり言って意味が分からず、どう反応すればいいのか分からない。 ただ手をしっかり握られているのが恥ずかしくて、わたわたと野茉莉は慌てていた。
「なんでもない、なんでもない。そやけど、そのリボン大切にしたってくれ……ずっと、ずっと。せめて、それだけは捨てんとったってくれ」
壊れないようにそっと、けれど決して離さないように手に力を込める。
最後に残った一かけらの想いが消えてしまわぬように。
あいつが大切にしてきたものを、同じくらい大切にできるように。
「分かった、分かったよ平吉さん!? だからまず手を離そ!? 恥ずかしいってば!」
慌てふためく野茉莉がなんだかおかしくて、平吉は涙を堪えながら、顔をくしゃくしゃにして笑った。
店には平吉と野茉莉しかいない。
胸を過る空虚に慣れるまでは、まだ少し時間がかかるだろう。
だけとなんとかうまくやって行こう。
四代目の名に野茉莉。
尊敬し憧れた二人の男が託してくれたものに相応しい自分でありたいから。
平吉として流せる涙は染吾郎が死んだ時もう出し尽くした。だから涙は流さない。
そう決めたのに、目は潤んで。
それでも泣いてはやらないと意地になって笑ってみせる。
滲んだ瞳の向こうには、遠く晴れ渡る空。
緩やかな風に誘われて、今日もまた一日が始まる。
鬼人幻燈抄 明治編『あなたを想う』(了)
◆
……時を少し遡り、一つの終わりを迎えたその夜のこと。
鬼そばへ野茉莉を届けた甚夜は、四条通の廃寺にいた。
叩き付けるような雨はまだ止まず、特有の香りが本堂に満ちている。
東菊を食らった場所へ再び訪れたのは直感だった。
此処で待っていれば彼女が来る。そんな気がしていた。
「見事だよ」
その予感は正しかった。
背後に気配を感じ、甚夜は独白するように呟く。
そして緩慢な動作で振り返れば、其処には金紗の髪をたなびかせた美しい鬼女がいた。
「私は何一つ守れなかった。此度はお前の勝利だ」
湿った空気に乾いた言葉。雨が強くなり、なのに雨音は遠くなったように感じられた。
当然だろう、雑音に耳を傾けている余裕などなく、意識は鈴音だけに向けられていた。
ただ只管に憎い。それは機能としての憎悪ではなく、大切なものを悉く奪っていった仇敵に対する感情だった。
甚夜は思う。やはり私は選択を間違えたのだと。
彼には鈴音を憎悪のままに切り捨てる道など選べなかった。
叶うならば、斬る以外の道を探したい。
憎しみは消えない、けれど心は変わる。
今は無理でも、いつかは許せる日が来るかもしれないと、決断を先送りにしてきた。
しかしそれは間違いだった。
白雪が選んだ故の結末なら、鈴音は選ばなかったが故の結末。
葛野を出る際、鈴音を斬ると明確に選べていたのなら、こうはならなかった筈だ。
『勝ち負けなど考えていなかった』
対する鈴音は宵の海のようだ。
墨染めの水面は穏やかに、けれど時折微かにざわめく。静かに見えて一瞬で全てを飲み込む、昏い海を思わせる。
『私はただ、見たかっただけ。東菊が本懐を遂げた時、貴方が何を選ぶのか』
涼やかで、涼やか過ぎて底冷えするような声音だ。
『いいえ、違う。本当は信じていた。貴方は東菊を……ひめさまを選ぶって』
それは、彼女に残された最後の欠片だったのだろう。
既に始まりの景色は見失った。様々な想いを切り捨て、偽物の心を詰め込んでここまで来た。
そうして様々なものを手放して、尚も捨て切れなかった追憶の情景。
甚太の隣にいられた、幼い幸福の日々。
所詮は付属品に過ぎなくとも、兄が大切であればこそ、白雪も葛野の地も決して嫌いではなかった。
其処は彼女にとって完成された世界だった。
その意味では、“みなわのひび”に一番拘っていたのは鈴音だったのかもしれない。
『私は、すずは、にいちゃんが憎い。それはにいちゃんも一緒で。私達は、そういう道を選んでしまった。もうお互いに殺し合うしかない。それでも』
ああ、だけど。
初めに手放したのは鈴音だったとしても、兄もまたそれを切り捨てた。
もう戻れないと、見せつけられた。お互いに、本当に大切だった筈のものをこの手で壊してしまったのだ。
『……それでも、一緒に過ごした日々くらいは、捨てないでいてくれるって思ったのに』
そう言い捨てた鈴音は、一体何を思ったのだろう。
甚夜には分からない。分かりたくもない。
全てを失って、胸には憎しみしかなくなった。ならば彼女の抱く想いが何であれ、憎しみ以外を感じるなど在り得ない。
沈黙する二人。雨の音だけが聞こえている。
数瞬の間を置いて、甚夜はかつて妹だった何者かに呼びかける。
「なぁ、鈴音」
『違う』
返ってきたのは静かな否定。
淡々と、鈴音は独白するように語り続ける。
『私は名乗り、貴方もそう呼んだ。ならば私は禍津女(マガツメ)。現世に災厄を振りまく鬼神。もとより、そう在る為に生まれたのだろう』
「……ああ、そうか。そうだったな」
彼女の物言いに心は決まった。
もう後戻りはできない。する気もない。
遅いか早いかの話で、結局いつかはこうなったのだろう。
「鈴音……いや、“マガツメ”よ」
敢えてそう呼んだのは、気を抜けば揺らいでしまいそうな弱い決意を明確にする為。
望む望まざるに関わらず、生涯には選択の時というものがある。
甚夜はまた一つ選んだ。鈴音ではなく、マガツメを選んだのだ。
「確かに私は、様々なもの切り捨てて来た。だが足りなかったようだ。捨てる覚悟が、足りなかった」
めきめきと嫌な音を立てて、甚夜は左右非対称と異形と化す。
夜来を抜き、ゆっくりと腰を落し、軽い前傾姿勢を取る。出し惜しみは無しだ。
「様々な余分を積み重ね今の私がある。失ったとて、重ねてきた日々を間違いとは思わない。だが、まだ捨てなければならないものがあったんだな」
憎悪に急き立てられ、逸る心を抑え、冷静に冷徹に仇敵を見据える。
引き足に体重をかけ力を溜め、全身の筋肉からは力を抜く。体を強張らせてはいけない。滑らかな挙動の為には程よい脱力がいる。
感覚を研ぎ澄まし、脳裏に浮かべるはただ一つ。
「許せるかもしれない。そんな淡い希望、初めから捨てておくべきだった……!」
今は余計な感情はいらない。ただ眼前の鬼女を討ち果たすことにのみ専心する。
そうして甚夜は弾かれたように疾走し───
───結果として、それは戦いにもならなかった。
「あ、ぐぁ……」
本堂の壁を背もたれにして、どうにか甚夜は座位を保っている。全身血塗れ、傷が無い所を探す方が難しい。
一刻半に渡る攻防。鬼と化し、全霊をもって挑み、しかしマガツメには届かなかった。
激情に任せた訳ではない。憎しみを飲み込み、冷静に、仇敵の絶殺にのみ専心する。
油断はなく焦燥もなかった。
事実剣も拳も通じ、肉を引き裂き、骨を砕いた。砕いた筈だった。
しかし数秒もあればマガツメの傷は完治しまう。体力と攻め手を失った甚夜が、染吾郎の命を奪った蟲の腕に一方的になぶられたのは当然の流れだろう
友を殺され、家族を失い、思い出を汚され、積み重ね得た力さえ否定された。
此処にマガツメの目的は達された。
甚夜は、自らが正しいと信じた全てを奪われたのだ。
「……し…う」
もはや真面に口もきけない。
か細い声で何事かを呟く甚夜を見つめながら、マガツメは嬉しそうに語る。
『貴方が過去を選んでくれなかったのは悲しい。でもそれ以上に、嬉しいの……。だって、ようやく私を見てくれる。もう貴方には私しか残っていない。憎いでしょう? 殺したいでしょう? なら余計なものはいらない。私達は二人で完結できるの』
ゆったりと、しかし狂気に満ちた笑みを見せつける。
おぞましい。無邪気に笑った童女の影はどこにもない。
今更ながら思い知る。彼女は既に、甚夜には理解の及ばぬ化生なのだ。
「待…て……」
『いいえ、今は待たない。もう目的は果たせたから。でも大丈夫、遠い未来で貴方が来るのを待っている』
百七十年後、葛野の地に再び降り立つ。
予言を忘れたことはない。おそらくは彼女も。
二人は再び葛野後で殺し合い、その果てに全ての人を滅ぼす災厄───鬼神は生まれる。
これは最初からそういう話だ。
『いつかまた懐かしい場所で逢いましょう。私は、ずっとあなたを待っているから』
最後に儚げな、この場にはそぐわぬ微笑みを残して。
『その時には、きっと私の願いが叶う』
凛とした背中を見せつけ、彼女は雨の夜に消えていった。
朦朧としながらも、マガツメが去って行ったのだけは分かった。
追い縋ることは出来ない。立ち上がるどころか指一本動かせなかった。
完全なる敗北。全てを奪われ、一矢報いることさえ出来ず、仇敵に情けを掛けられ命を繋いだ。
なんという無様。あまりにも惰弱な己に怒りを通り越して殺意が沸いてくる。
しかしそれも長くは続かない。血を失い過ぎたせいで、起きていることさえ難しくなってきた。
ぐるり、と頭の中が回る。
そうして甚夜はすっと瞼を閉じて。
静かに、意識が消えた。
………………………ちくしょう。
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