プロローグ
眼前に広がっているのは一面の炎に焼け崩れる家々だった。しかも、炎はまだおさまる気配さえ見せずにこれからが本番だと猛り狂っている。煙と共に焦げた臭いが嗅覚を刺激し、鼻の奥にツンと響いた。
――どういう事だ? 俺は自分の部屋で寝てたはずなのに――
頭の奥で何かがうねり急速に意識が寝ぼけた状態から覚醒していく。
呆然と立ち尽くしている頬に火の粉が吹きかかった。
――熱っ! てことは夢じゃないのか!?
慌てて周囲を見回すが、人影の代わりに見つかるのはなぜか精巧に作られた石像だけだった。その間にも火の勢いは強まる一方だ。
まずはこの場からの脱出が先決だと判断し、まだ炎に囲まれていない方向へと走り出そうとしたが、
「うお!?」
いきなり一歩目でつまづき顔面を地面で強打した。『ズルッベタッ』と擬音語が似合うような我ながら見事な転び方だった。
「痛……、くそ、鼻血が出なかっただけマシか……」
涙目になりつつうずく鼻を右手で押さえる。小さな掌には血の跡はなく、ついているのは泥だけだ。
「あれ? 俺の手ってこんなにぷくぷくしてったけ?」
幼児の掌のように小さくって丸くってぷにぷにしている。
不審の念をおぼえたが、崩壊音が背後から響くと同時に熱風が吹き付けてきた。
顔を引きつらせて、思うように動かない体で転げるようにダッシュする。こんなところで丸焼きになるのはまっぴらだ。
息をきらせてひたすら走り続けると少しは安全そうな湖のほとりにたどりついた。ある程度炎からも離れているし、ようやくほっと一息つける。安堵感からか下半身の力が抜けて水辺にへたり込んだ。
服がびしょびしょに濡れるがそんなこと気にならないほど疲れていた。
全力疾走したせいと煙を吸い込んだせいで、つばも出ないほど喉が渇いている。咳き込みながらも、慎重に少しだけ湖の水をすくって口にした。うん、ちょっと砂でジャリジャリするがおかしな味はしなかった。飲むのに問題はなさそうだ。
水をむさぼるように飲み、何べんかうがいをすませ、顔の汚れをを落としながらようやく水面に映っているのが俺の姿ではなく赤毛の少年だと気づいた。
「な、何で……」
つぶやいて水面に映った自分の変わり果てた姿を見ていたが、それどころではないと慌てて今の体をチェックしてみた。
俺は二十歳の身長・体重共に平均的な日本人だったが、今はおよそ四・五歳ほどの男の子になっている。掌が小さくなっているのも、体が自由に動かなかったのも、いきなり幼児の体に変化したなら当たり前だと思い当たった。
夢かとも考えたが、炎の熱さ・鼻を打った痛み・喉の渇きまで感じている現状では否定するしかない。
自分でも驚くほど冷静にこれらの情報を分析すると、ようやく一つの結論にたどりついた。
「ショッカーのような秘密組織に改造されたんだな」
きしむほどに強く奥歯を噛み締めた。脳移植をしたのかクローン技術を使ったのか知らないが、ショッカー(仮名)はこの少年のボディに俺の脳を乗っけやがったんだ。
――すまない少年よ。
おそらく本来の体の持ち主であろう赤毛の少年に、心の中だけで謝罪の言葉をかけることしかできなかった。
俺がじっと水面に映る新たな自分の姿を見つめていると、背後から足音が響いた。誰かいたのか!? 喜んで振り向いて目にしたのは、人間の倍近い巨躯で無理に二足歩行している異形の姿だった。野牛より大きな角が狼をさらに凶暴にした顔面の上についている。手足が合わせて六本あるのに加えて、蝙蝠の皮膜じみた翼まで背に生えているのが明らかに自然界の動物でないことを物語っている。つまりは――怪物だ。
その怪物の迫力に押されるように体が勝手に後ろへ下がる。
甘かった。改造実験された俺が、脳改造や洗脳をされずに一人でこんな所にいたってことは、改造した組織で何らかのアクシデント――おそらくはバイオハザードが起こったのだろう。
だとすればゾンビやこんな怪物が出てくるのはお約束じゃないか! 一秒でも早くこの場から逃走するべきだったんだ。
自分の判断の遅さに舌打ちしながら、少しでも怪物から間合いを離そうと震える足で後ずさる。その後退も靴底が水につかった時点で止めざるえなかった。そういえば後ろにあるのは湖、文字通り背水の陣ってやつだ。
俺が動きを止めたのを見て怪物は目を細めた。まるで嗤っているような表情に、こいつには知性があるとわかり背筋が寒くなる。一歩間違えれば俺もこいつらの同類に改造されていたのかもしれない。
こっちには逃げ場がないのが判るのか、ゆっくりと怪物は近づいてきた。その大きさとプレッシャーは圧倒的だ。くそ、改造手術されたなら変身やパワーアップぐらいできないのか!? 生命の危機にパニックを起こしかけたが、タイミングを見計らったような助けが天からやってきた。
轟音と閃光。
俺をさっきまで命の瀬戸際まで追い込んでいた怪物は、理解不能なただの一撃によって粉砕された。
空から舞い降りたローブの男が、欠片も残らないほど完全に打ち倒したのだ。
――今の攻撃は何だ? バズーカ砲並みの威力だったが、こいつは杖しか手にしていない。どこに武器を隠しているんだ? しかも、こいつは上空からパラシュートも無しで現れた。超低空のヘリか近くの木から降下したのか?
いずれにせよ、この男が怪物以上の戦闘力を持った脅威であることには間違いない。
警戒しながらも戦慄している俺に向き直り、ローブ姿の男は何やら話しかけてきた。
しばらく耳を傾けた後で、俺はなぜだか杖を押し付けてくる男に対して答えた。
「あい きゃんと すぴーく いんぐりっしゅ」
男はその返答に戸惑ったような表情を浮かべると、杖を握りなおしてまたしても何やらつぶやいた。
「これで通じるか?」
今度ははっきりと日本語で聞こえた。しかし、吹き替えの映画のみたいに口元と言葉がずれているような微妙な違和感がある。
「はい、ちゃんと判ります。それと、助けていただき本当にありがとうございます」
深く頭を下げて感謝を表す。これほどの戦力を持っている人物に礼を失することがあってはならない。
だが俺のかしこまった態度に、彼はさらに困惑を深めたようだった。頭のローブを後ろに払って赤毛と整った顔をあらわにした青年は、眉を寄せていぶかしげな視線を俺から外さない。
「英語を喋れず、俺のこともおぼえてないってことは……完全に記憶を失っているってことか? それにしちゃ日本語で会話できるのが妙だが……」
ぶつぶつと苦い口調でつぶやくと、杖を俺に向かって差し出した。
「ネギ、せめてこの杖を受け取ってくれ」
ネギ? 杖? 何の話だ? 軽く混乱しかけたが次に男が口にしたことで一気にそんな疑問は吹っ飛び、感情が沸騰した。
「この村がこんな目にあったのも全部俺と『紅き翼』のせいだ」
「お前のせいかーー!!」
男の言葉が耳に入ると同時に思い切り右の拳を振りぬいた。我ながら会心の一撃は、不思議な事に雷を帯びて男の顔面を貫いた。
「あぶろぱ~」
なかなかに愉快な悲鳴を上げて男は湖の真ん中まで吹き飛び、派手な音をたてて水没した。本来なら追撃してマウントポジションからタコ殴りにいくところだが、湖に入っていくのは諦めてとにかくここから離れようと走り出した。
逃げ出しながらあの男から渡された杖を持っているのに気がつき、慌てて炎の中へと放り投げる。
あんなの盗聴器か発信機が付いているに決まってるじゃないか。こんな事件を引き起こした奴のよこした物を信用できるはずがない。
ここまでの限られた情報から推測すると、おそらくこのような事態がおこったのではないだろうか。
まずは俺が改造手術を受けていただろう研究所でバイオハザードが発生。この時点で俺や怪物が外に出たのだろう。その後、怪物たちによる近隣の村が破壊され――事件をもみ消すための始末屋がやってくる。
思えば村には石像ばかりで人影は無く、火の回りも異常に早かった。証拠を消すために村ごと消滅させやがったんだ。
さっきのローブの男も始末屋の一員だろう。いや、あの実力といい自分に責任があると言っていた口ぶりからするとあいつが責任者だったのかもしれない。
男が呼びかけた言葉を思い返す。
――ネギだと? この組織は改造手術を受ける人間を野菜の名で呼ぶのか? もしかしたら、ニンジンやキャベツと呼ばれていた奴らもいたのかもしれない。「カボチャの成長はどうだ?」とか「ジャガイモは処分だな」などと非情な会話が交わされていたのだろう。
ちらりと目をやるが炎はさらに勢いを増し、村がどこにあったかさえわからなくなっていた。
今の俺にできるのは全力で逃走することだけだった。自分の無力さに唇を噛み締め、炎に消えたであろう同じ野菜の名を持つだろう仲間に対し心に誓った。
「『紅き翼』だったか……必ずつぶしてやる」