第十一話 生徒が教師に迷惑掛けるなんて当たり前 温かな陽気の中で、時折こ寒い風が吹く四月は過ぎ去り、完全な春が訪れる五月。 むつきが美砂と付き合い始め、一ヵ月が過ぎようとしていた。 その間、長谷川に関係がばれた事以外、円満に過ぎ去っていった。 少し変わった事と言えば、美砂と長谷川が親友と呼べるまでに仲良くなった事ぐらいか。 休日に二人してひかげ荘に現れては、時々むつきを置き去りにコスプレではしゃいでいる。 それぞれ可愛い格好をしたい理由は別々だが、それはそれで認め合っているようだ。 本当に稀、長谷川の機嫌が良い時は、むつきも撮影会に呼ばれる事もある。 主に撮影機材など重い物を運んだり、力仕事の人足としての意味合いが強いのだが。 可愛い女の子がそれも二人、コスプレではしゃぐ姿はそれなりに眼福だ。 そう職員室のデスクで思い出していると、机の上に湯気をたてるコーヒーが置かれた。「ご機嫌ですね、乙姫先生。コーヒーどうです?」「あっ、二ノ宮先生。すみません、頂きます」 どうやら微笑を浮かべている場面をばっちり見られてしまったようだ。 恥ずかしそうに照れ笑いをしながら、むつきは差し出されたコーヒーを受け取った。 熱々のそれを覚まそうと息を掛けていると、マジマジと観察される。「な、なにか?」「ちょっとした噂と言うか、興味で。乙姫先生、四月を少し過ぎた辺りから急に格好良くなった気がして。女の先生で、噂してるんです。彼女ができたんじゃないかって」 どうなんですっと興味津々、若干親父臭い笑みで尋ねられた。 以前、社会科資料室で美砂とこもっていた時、手伝おうかと声を掛けられたが。 どうやら楽しそうに質問する様子を見る限り、アレは本当に他意はなかったらしい。 他意があったにせよ、今の俺なら余裕で断りますと心で呟き質問を返す。「まあ、親しくしている女性はいますよ。今は仕事が楽しくて、余り考える事はありませんが。結婚も視野にいれてますよ」「あら、お熱い。コーヒーは、もう少し温めでも良かったかしら」「いえいえ、コレぐらいで丁度良いですよ。ありがとうございます。今度は僕が二ノ宮先生に淹れてあげますよ。このコーヒーみたいな味は保障しませんが」「期待していますよ。乙姫先生、そろそろ見回りの時間では?」 指摘されて時計に振り返ってみれば、時刻は七時を回ろうとしていた。 まだ慌てるような時間ではないが、見回る範囲はかなり広い。 何しろ一つの学年で良いとは言え、二十近い教室を全て見回らなければならないのだ。 そこに加え、指定された施設、例えば体育館やプール施設などもある。「二ノ宮先生のコーヒーパワーで頑張ってきますか」「浮気すると、彼女さんに怒られますよ。いってらっしゃい、乙姫先生」 他の独身教師にこの野郎と思われつつ、むつきは職員室を後にした。 まずは教室にと手始めに二年A組へと向かう途中で、携帯がブルブル震える。 本当はいけないのだが、携帯でメールを見ながら廊下を歩く。 差出人は案の定美砂であり、長谷川の新作衣装を貰ったそうだ。 この土日は期待しててとハートマーク付きのメールであった。 すっかりむつきとのセックスの虜で、実は車をレンタルして遠出デートは一度もない。 当初、セックスだけなのは嫌だと言っていたのは美砂なのだが。 それで良いのかと少々疑問に思ったりもする。「ん?」 返信の途中でさらにメールが入り、長谷川からであった。 内容は美砂と然程変わらず、改心の出来だから期待していろという文面だ。 他に足腰立たなくなって死ね、変態鬼畜教師とも。 これはこれで愛がある文面と捉えるべきか。 何よりも先に美砂へと返信し、次いで長谷川にも挨拶程度の文面を送る。 俺の世界一可愛い彼女を着飾ってくれてありがとうと、最大限にのろけてだ。 そして教室に辿り着くと、まず誰も居ない事を確かめた。「生徒の居残りなし、電気も消してあって。鍵も全部閉まってる」 A組の教室で全ての窓を確認し、生徒が居ない事を指差し確認。 廊下の窓も同様で、一つ一つ時間を掛けて確認していく。 これが男子校ならまだ良いが、女子中だからこそ念入りに調べなくてはならない。 むつきは他人の事をとやかく言えないが、女子中学生好きという迷惑な変態もいるのだ。 過去に何度か、魔法おじさんもしくは、おばさんに撃退されたという謎の噂もあるが。 念入りに確認していくと、全ての教室を回るだけでも一時間近くはかかってしまう。 不真面目な先生は本当に眺める程度で済ませる人もいる。 だが現在のむつきは仕事と恋の両方に燃えていた。 窓が閉まっているかは一枚一枚確かめ、生徒が隠れていないか死角にも目を通す。 一歩間違えれば要領の悪い人間だが、今はまだそれで良いと思えた。「先は長いな、ちょっとだけ寂しいぞこの野郎」 途中小休憩を含め、美砂に寂しい会いたいとメールを送る。 するとこれで元気出してと、柔らかそうな胸の谷間の写メが送り返された。 別の意味で元気になりそうになって、文字通り立ち往生したりもしたが。 一応確認だけはちゃんとして、一つ一つ確実に済ませていく。「ようやく、全部確認終了。校舎外は、確か体育館と室内プール場か」 時刻は既に八時十分前と、部活動も終了して生徒は帰宅している時間帯である。 五月とは言え、すっかり窓の外は暗く、街灯がなければまともに歩けない。 おかげで未だ教室に残っている生徒は皆無であった。 今からさらに時間を掛けて向かうとなると、電気すら灯っていない事だろう。 誰もいないだだっ広い体育館などは、大人で男であるむつきでさえ寒々しくて少し怖い。 だがこの程度はと気合を入れて、校外の施設へと向かう。 さすがにその途中では急いで帰る生徒を数人見かけ、早く帰れよと声を掛ける。 体育館に着いたとき、入り口から丁度出てきた明石達も同じであった。「あ、やば……先生、これはちょっと帰るのが遅くなっただけで」「そ、そやて。ゆーなの大会が近くて!」「まあ、バスケ部は弱いから。こんな時間まで練習しても、あまり意味ないけど」「って、おい!」 バスケ部の明石とサッカー部マネージャの和泉、それから新体操部の佐々木。 一人和泉だけこの場にいるのはおかしいが、気にする程でもない。 この三人に大河内を加えた四人は仲良しで、大方一緒に帰る約束でもしていたのだろう。 同じ寮へと帰るのに、一緒に帰る約束とはいささか必然性を感じないが。「お前ら、いくらなんでも遅すぎだぞ。早く帰って宿題しろ。そろそろ、中間テストも近いんだぞ。和泉や大目にみて明石は兎も角、佐々木。お前は特に勉強しろ」「私どうせばかだし」「勉強しなくてもうちはエスカレーター式だから問題ないって先生」「先生の前でそれを言うのはどうやろ。うちが、教えてあげるから。二人共少しは勉強しよな?」 少しの注意で済ませるつもりが、長話が始まりそうだったのでそこで止める。 勉強しないと二ノ宮先生にチクるぞと佐々木を脅しつつ、三人を帰寮させた。 なにやら妙にちらちらと振り返っていたが、シッシと手を振って帰す。「犬じゃないもん!」「似たようなもんだろ。ほら、帰れ帰れ」 最後の捨て台詞は佐々木のわんと吠えた声である。 それから、あの三人が最後かと周囲を見渡してから、まず体育館の確認に入った。 室内プールには現在、大河内一人しかいない。 煌々と照らす天井のライトも、八レーンもある肩幅二十五メートルの巨大なプールも独り占めだ。 だがそんな状況を喜ぶような素振りは、一切見せてはいなかった。 プールの真ん中を割っていくように、クロールですっと水を掻き分け鋭角な波紋を生み出す。 その表情は真剣で、タイムアタックを行っているようだ。 時刻は当に八時をまわっており、監督の先生も居ない状態では校則違反であった。 大河内もそれは分かっていたが、大会が近いのだ。 部の代表として選ばれた四人のリレー選手の中で唯一の二年生が大河内である。 水泳部の全国大会などは夏に行なわれるが、今回の大会はその前哨戦。 優秀な成績を収めれば夏の全国大会地区予選のシード権すら得る事ができるのだ。 一人ではストップウォッチが使えないため、壁に手をついて直ぐに壁の上の時計を見上げた。「だめ、全然タイムが上がってない」 比較的大人しい彼女には珍しく、焦りを浮かべては悔しそうに唇を噛んだ。 三年生を差し置いて、唯一二年生から選ばれた選手。 それも一年生時に個人競技の部で優秀な成績を収めてしまい、麻帆良の人魚姫と噂されたプレッシャーもある。 ぜえぜえと肩で息をして、明らかにオーバーワーク気味であった。 それでも一度も水の上に上がる事なく、大河内は振り返って少しだけ息を整えた。 時計を見上げ、秒針が十二を指した途端にスタートする。 もう何度この二十五メートルを繰り返し泳いだ事か、それで記録が上がるわけはない。 本来なら誰かがそれを指摘するべきなのだが、今の室内プールには誰もいなかった。(もっと早く、もっと。本当の人魚姫に) 呼び名にプレッシャーもあったが、同時に誇りも抱いていた。 その名に相応しい人魚に、誰よりも早く向こう岸へ。 だがオーバーワークは、確実に大河内の体力を奪い、ついに悲鳴をあげさせた。 彼女がプールの中央辺りまで泳ぎきった時である。 一瞬、ピリッと足に痺れが走ったかと思った次の瞬間、痙攣した足が痛みと共に伸びきった。「痛ッ!」 水中で半分水を飲むようにして痛みを訴え、患部に手を伸ばそうとする。 だが完全に伸びきった足に手は届かず、むしろ水中でバランスを崩すだけだった。 ごぼごぼと瞬く間に体は沈み始め、危険を感じた大河内がコースロープに手を伸ばした。 せめて手が届けばなんとかなる、そんな思いも虚しく自分で起こした波を吸収する為に浮き上がって手で弾くに止まってしまう。 湧き上がる恐怖心、水の中にいてはじめての事であとは水と同じくパニックに溺れるだけ。 もはや自分が沈んでいるのか、浮かんでいるのか。(だ、誰か!) 上下左右の感覚も失い、水を飲んでは苦しみ後はただただ沈んでいくだけ。 ふと思い浮かんだのは、昔話にある人魚姫のラスト。 このまま自分も泡と消えるのかと、苦しみの中で涙が滲んだ。 その涙さえプールの荒波に消えて、大河内はプールの奥底へと沈んでいった。 体育館の見回りを終え、隣接する室内プールを見上げた時に、むつきは違和感を感じた。 何故先程、気付かなかったのか。 体育館は既に明かりが消えていたというのに、室内プールにはまだ明かりが見えた。 唐突に思い浮かんだのは、様子が少々おかしかった三人の生徒である。 むつきを見つけた三人は焦ったように懸命に話しかけ、何かから視線をそらすような。 それに仲良し四人組の一人、水泳部の大河内が一緒にいなかった。 まだ室内プールに明かりが灯っているとなると、その大河内の校則違反の可能性が高い。 職員室内で小耳に挟んだ大会が近い部活をつらつらと頭に並べると、確かに水泳部も該当していた。「あの真面目な大河内が、珍しい。チラッと注意で済ませて帰してやるか」 仲良し四人組でも一歩後ろに控えたような印象が強い。 その大河内が校則違反とは、よっぽど今度の大会にかけているのだろう。 真面目な生徒に少しぐらいご褒美だと、室内プールの建物へと足を踏み入れていった。 玄関から少々入り組んだり、下る階段を降りて室内プール場に辿り着いた。 だが明かりは灯っているものの、大河内の姿は見えない。 ただの消し忘れか、首を傾げてプールの全体を眺めた時に気付いた。 プールの丁度中央にて泡立つ気泡、それが幾つも底から上がってきている。 消毒の薬でも放り込んであるのか、歩いて近付き、気付いた。 気付く事が出来た、プールの奥底で長い髪を揺らめかせ沈んでいる人影に。「大河内ッ!」 その人影がそうとは核心こそなかったが、他に考えられなかった。 頭の中から全てが吹き飛び、気がつけばプールの中へと飛び込んでいた。 飛び込んだせいで気泡が沸く水中にて、目を凝らす。 ソーダ水の中に飛び込んだような水泡の向こう、沈んでいる大河内がはっきりと見えた。 水を吸って重くなるスーツに四苦八苦しながら必死に泳いぐ。 プールの中央に辿り着いては大きく息を吸って潜り、力なく横たわる大河内を抱え上げた。 急げ、もっと急げと心の中で自分を叱咤し、何処にそんな力があったのか大河内を持ち上げプール際にごろりと投げ出させる。 自分も即座にプール際へと上がり、仰向けに寝かせ直した大河内の頬を叩く。 肌の色はプールで漂白されたように青白く血の気はなく、うめき声一つあげない。 一体どれだけの時間が溺れてから経っているのか、それすらも分からなかった。「そうだ。き、救急車!」 急ぎ携帯をスーツのポケットから取り出す。 先程プールに飛び込んで、ぐっしょりと濡れたスーツから。 当然の事ながら、取り出した携帯も水浸しでボタンを押しても画面は真っ黒のままだ。「この野郎、俺はアホか。ショートしてんじゃねえか!」 うんともすんとも言わない携帯を叩きつけて壊し、そんな場合じゃと振り返る。 大河内はぴくりと、身じろぎ一つしない。 一人慌てて大騒ぎするむつきを、微笑み見ることもなく、死んだように眠っていた。 そう死んだように、死んでしまう。 かつてはどいつもこいつも小生意気で騒がしく、好きになどなれなかった生徒が。 今は徐々に好きに、教師としてきちんと向き合いたいとさえ思える大事な生徒がだ。「死んでねえ。死なせてたまるか。地獄の底からでも引きずり出してやるから、覚悟しろよ!」 もはや手段は選んでいられないと、寝かせた大河内の顎と首に手を沿え気道を確保する。 実際の経験はないが、教師という職業柄、講習は何度も受けていた。 不貞腐れていた当時なので、余り真面目に受けてはいなかったが、必死に今思い出す。 意識の有無は既に確認し、次に気道を確保、それもやった。 それからと手順を思い出しつつ、躊躇の暇もなく大河内の鼻を塞ぎ唇に自分の唇を重ねた。 強制的に空気を二秒ほど送り込み、中断しては胸が膨らんだ事を確認する。「膨らんでねえじゃねえか。呼吸しろってんだ!」 再度試しても胸が膨らまず、肺にまで空気が届いてさえいなかった。 むつきは人工呼吸を一時中断して、胸骨圧迫、確かそんな名前だったかそれに切り替えた。 真横に座り込み、手の付け根を鳩尾の上辺りに当てて押す。「一、二、三、四!」 三十まで続けては、再度の人工呼吸。 理屈までは不明だが、いけたかと期待をこめるが胸はまだ膨らまない。 今度こそと胸骨圧迫を行いどうだと人工呼吸を行なう。 それでようやく大河内の胸が膨らみ、肺にまで空気が送り込まれた事がわかった。「やった、膨らんだ。大河内、聞こえるか。戻ってこい。中間テスト、全教科零点でも良いのか。そんなにバカレンジャーの仲間入りがしたいのか!」 なんでも良いから帰ってこいと、必死の思いで自分が酸欠になっても諦めず人工呼吸を繰り返す。 その想いが報われたのか、小さく声が聞こえた。「ぅ」 本当に小さな希望の声、そして次の瞬間、口付けた口の中に消毒臭い水が溢れ出した。 思わず吐き出したが、大河内の口から次々に水が溢れてくる。 そして体が大きく痙攣しては、咳き込んだ。「ぅ、ごほ。うぇ……ごほ、かっ」 反射的なものもあるかもしれないが、無意識に体をまるめ水を吐き出そうとしている。 むつきは大河内の背中をさすり、それを促がさせた。 水を吐き出せ、息をしろ、時間を掛けてでも良いから意識も取り戻せと。「慌てるな、ゆっくりで良い。ゆっくり、全部吐き出せ」「ごほ、ぜぃ……えぅ」 何時までも咳き込んでいるかのような長い時間をかけ、それも小さくなっていった。 涙と鼻水、胃液も少しあるかもしれないが、顔をくしゃくしゃにした大河内が振り返る。 体を起こそうともしたのか、体に全く力が入っておらず転びかねない。 慌ててむつきが支えてやると、そのまま跳ねるように抱きついてきた。「怖かった、怖かったよぉ。先生、せんせぇ」 正直むつきも泣きそうだが、先に泣かれてしまっては我慢しなければならない。 教師である以前に男の子なのだ、小さな意地で慰める事に終始する。「もう、大丈夫だ。安心しろ、大河内。怖かったな、一杯泣け」「ぐす、もう駄目かと。人魚姫みたいに、泡になって消えちゃうって」「お、おう?」 一瞬、なにそれと聞きかけたが、そんな弱気を吹き飛ばすように言葉をかける。「消えてたまるか。お前が泡になっても、何度でも掴んでやる。泡の底からでも何度でも引きずりだしてやるから、安心してろ。俺は絶対、お前を放さない」 しばらく泣きじゃくる大河内に胸を貸してやっていると、落ち着いてきたようだ。 まだしゃくり上げているが、それも鼻をするる程度である。 それに鼻水だらけの自分に気付いて、両手で隠す余裕さえでてきた。 もうそろそろ良いかと、大河内の反応を見ながら胸から引き剥がす。「あっ……」「何処にも行かねえよ」 寂しそうに伸ばされた手を掴み、安心させるように微笑みかける。「それより、シャワーを浴びて着替えろ。一応、病院へ行っておいた方が良い。親御さんにも連絡するから、来てもらえ」「う、うん。じゃなくて、はい」「よし、良い返事だ。皆、お前ぐらい素直で可愛けりゃいいんだが。立てるか?」「か、かわ……あっ、だ。駄目!」 途中まで立ち上がった大河内が、むつきの手を振り払ってしゃがみ込んだ。 何かを堪えるように丸くなり、ぽろぽろと大きな双眸から涙さえ零していた。 先程までの恐怖とは違う、妙に血色も良く見える赤味が頬にさしてさえいる。 ふと思い出したのは、Gスポットを責められて美砂がお漏らしした時だ。 大河内相手にはなはだ失礼な話だが、恥ずかしがりようが何処となく似ていた。 消毒水の匂いで正直分かり辛いが、そうなのだろう。 溺れて死に掛けたのだ、怖くてお漏らしぐらいしてもおかしくなんてない。 だからと言って無垢な少女がお漏らしをした事に対するフォローの仕方など知らないのだが。 美砂の時は思い切り失敗して、スイーツを買いにいかされたし。 今ここで大河内を置いてスイーツを買いに行くのは、間違いなくフォローではないだろう。「あーっと、何も気にするな。全部俺がなんとかしてやるから」「でも、私……プールの中でしちゃったかも、しれない」「こんな事の後だ、しばらくプールは使用禁止だから」「駄目、それは駄目。大会が、近くて。先輩達に迷惑掛けちゃう」 死に掛けた直後に、先輩の迷惑とはどこまで他人思いなのか。 ガシガシと頭をかきながら、むつきは決断をくだすしかなかった。「分かったよ、明日の朝連までに水抜いて洗っとく。それで良いだろ。お前はとにかく、体を休めろ。溺れたんだ、お前は何も考えず休めば良い」「ごめんなさい、先生。迷惑かきゃっ!」「ああ、もう。うだうだと。生徒が教師に迷惑掛けるなんて当たり前、迷惑ついでだ。これ以上何か言うなら、シャワー室で体の隅々まで洗っちまうぞ!」 話が一向に進まないし、長話して良い状況でもないとむつきは大河内を抱え上げた。 これ以上何も聞きませんとばかりに、シャワー室へと連れていこうとし。 少しばかりその場をうろうろしてから、腕の中で小さくなろうとする大河内に訪ねる。「おい、大河内。シャワー室ってどっちだ。わからん」「へ? あ、あっち……先生、面白い」「笑うなよ、格好悪いって自覚してるんだ」 指差された方へとプールを迂回して移動し、シャワー室へと連れて行った。 その時に気付いたが、何故自分は馬鹿正直にプールの端から飛び込んだのか。 回りこんで横から泳いだ方が、沈んだ大河内まで近かったというのに。 だが反省は後だと、大河内の状態を今一度確認してからシャワー室に放り込んだ。 さすがに隅々まで洗ってやるは冗談である。 それから近くに内線電話はないかと探そうとして、大河内の悲鳴に引き戻された。 シャワー室の前まで逆戻りし、大声で問いかける。「どうした、大河内!」「な、なんでもない。シャワーの水が急に、びっくりして」「驚かすな、こっちがびっくりするわ。そうだ。大河内、内線ってどこかにないか?」「ごめんなさい。よく分からないけど、多分顧問の先生がよくいる監督室とかなら」 シャワーが終わったら着替えていろと言いつけ、教えられた監督室に急行する。 贅沢にも室内プール場には二階部分が観客席であり、放送室さえありそこが監督室を兼任しているらしい。 今の大河内を一人にするのが心配だったので、本当に急いで。 先程の悲鳴も、シャワーの水に驚いたにしてはかなり切羽詰っていた。 監督室には何故か鍵はかかっておらず、デスクの上に内線が見つかった。 最近は携帯での連絡が多く、少々思い出すのに苦労したが二年の職員室にかける。 コールが二回とわりと早く出てもらえた。「はい、二年職員室」「二ノ宮先生ですか、乙姫です」 ちらりと時計を見ると既に八時半をも回っており、まだいたのかと若干驚いた。 だがそれどころではないと、室内プールの一件をかいつまんで伝える。 おかげで数秒の間、内線の向こうで二ノ宮が固まっていた。「大河内の両親に連絡と、救急車も念のため呼んでもらえますか。あと男ものの着替えがあったらそれも」「分かりました、全て手配しておきます。それにしても乙姫先生。着替えって、本当にスーツでプールに飛び込んだんですね。良くそれで先生が溺れなかったですね」「故郷が故郷なんで泳ぎはわりと。ただ携帯がぽしゃりました。まあ、大河内が無事だったから安いものですけど」 最後にお願いしますと内線を切って、急いでシャワー室へと戻る。 声を掛けてみても反応はなく、ならば更衣室かとそちらへと向かった。「大河内、着替え中か?」「うん、もう少し待って」 元気一杯とはいかないが、しっかりとした口調に安心もした。 先程の悲鳴は、本当にシャワーの水に驚いただけか。 ほっと力を抜いて小休憩とその場に座り込んだ。 火事場の馬鹿力とでも言うべきか、スーツでプールに飛び込むとか自殺行為である。 二ノ宮が驚くのも、無理はない。 重いし泳ぎにくい、あれで大河内に半端に意識があればもろとも溺れていたかもしれない。 携帯もぽしゃって連絡がとれないし、やる事成すこと裏目とは言わないが要領が悪かった。 大河内を助けに飛び込んだ位置についても、回り込んでいれば半分の時間で済んだ。 これで大河内が助からなければ、美砂の力を借りてもきっとむつきは再起不能だったろう。 ぶるりと体が震えたが、改めて助かって良かったとがっくりうな垂れた。 少し楽になりたいと上着を脱いでその辺に投げ捨て、鬱陶しいのでネクタイも取り去る。 それから数分後、おずおずと周囲を伺うように大河内が更衣室から出てきた。「先生、お待たせ。私の台詞じゃないけど、大丈夫?」「お前よりよっぽどな。荷物貸せ、持ってやるから」「あ、大丈夫」「なわけねえだろ。いいから言う事を聞け、何を遠慮してんだ。控えめなのも良し悪しだぞ。お前は甘えるぐらいで丁度良い」 あまり背丈の変わらない大河内の額を、立ち上がってから一指し指でつんつんと突く。 あうっと可愛らしい声を上げて瞳を閉じ、お願いしますと荷物を渡してくる。 それを受け取って歩き出すと、迷子の小さな子のように濡れたスーツの袖を掴んできた。 やはり誰かを掴んでいないとまだ不安なのだろう。 時々、後ろをついてくる大河内へと振り返り確認しながら、職員室へと連れて行く。「一先ず、大げさかもしれんが救急車で病院にいけ。着替えがあればつきそうが、なかったら二ノ宮先生に頼む事になる。知ってるよな、二ノ宮先生」「うん、まき絵の新体操の顧問の先生だし。喋った事もある。先生、今気付いたけどその格好。私のせい?」「別に誰のせいでもない。なんか前にも誰かに言ったが、スポーツ中の不幸な事故だ。なんなら俺も一つ謝るぞ。緊急とはいえ、人工呼吸しちまった。すまん」 当たり前の反応だが、大河内が立ち止まり掴んでいたスーツの裾が手から離れた。 溺れた時はアレだけ青白かった顔も、見る見るうちに火照り赤味を帯びていく。「わ、悪くない。先生は……助けてくれた。それだけで十分」「そう言って貰えると助かる。夢中だったから、今にして罪悪感が」「いい、気にしないで。あまりぐだぐだ言うと、えっと。なんか凄い事するよ」「なんだそれ、期待していいか?」 凄い事とはなんぞやと問い返され、何故か大河内がより赤面して俯いた。 立ち止まって動けなくなった大河内の手をとり、引っ張り歩く。 背は高いのだが大人しく後ろをちょこちょこついてくる様子がヒヨコか何かだ。 思わずちょっと可愛いと思ってしまってから、頭を振り払っていると校舎が見えてきた。 その校舎前にて二ノ宮先生が、救急車とともに待っていた。「乙姫先生、大河内さんのご家族には連絡をいれておきました。それからすみません、着替えの方が。大河内さんには私が付き添います」「なんとなく、そんな気がしてました」 二ノ宮もむつきに気付いたようで、手を振りながらここだとアピールしてきた。「大河内、ほら荷物。ちゃんと医者に見てもらって、両親に甘えて過ごせ。いいな、しっかり甘えろ。それで落ち着いてから、色々と考えれば良い。後の事は任せとけ」「はい、先生ありがとう。ちょっと行って来るね」 名残惜しげに振り返りながら、救急隊員の手によって大河内が救急車に乗せられた。 荷台のベッドのような場所で脈拍を測られたり、健康状態をチェックされる。 ただし、当人は何時までも貰われていく子犬のようにむつきを見ていたが。 何か凄く悪い事をしている気分になったが、びしょ濡れではついていけない。 行ってこいと笑いかけるのが精一杯で、二ノ宮にお願いした。「二ノ宮先生、大河内の事をお願いします。俺は、俺でできる事をしておきますから」「学園長の方にも連絡をいれておきましたので。後で連絡が……乙姫先生、確か携帯」「こっちから一報入れます。理由あって、これから大掃除なもので」 その意味を二ノ宮が察する事はなかったが、なんとなく大変だという事は理解して貰えた。 頑張ってくださいとの応援を告げて、二ノ宮も付き添いで救急車に乗り込んだ。 サイレンを掻き鳴らしながら救急車が出発し、二人を病院へと連れて行った。 その救急車を見送ってから、むつきはまず着替えをどうにかする事を考え始めた。 近くの水道で、濡れてから初めてスーツを絞り水を切って、職員室へ。 残業で残っていた先生は殆どおらず、かつ大事件で大わらわであったが。 適当な女の先生に声をかけて購買へ付き添ってもらい、生徒用のジャージを入手して身につけた。 大河内のような大きめの生徒もいる為、なんとか着られるサイズがあった。 それでも背丈は兎も角胴回りなど、全体がピチピチでどんな羞恥プレイだと、思いもしたが。 それからまず学園長に連絡して事情を説明。 親御さんへの連絡は二ノ宮がしてくれたので、他にできる事は殆どない。 ただし別件で学園長に、どうしてもプールの水を抜いて清掃したいと訴えた。 大河内の名誉の為に理由は伏せ、頭をさげて縁起が云々とでまかせも加え了解を取り、再びプールに舞い戻る。 そして殆ど丸々一晩をかけて、むつきは水を抜いてから掃除を行なった。 -後書き-ども、えなりんです。又しても更新が……ちょっと考えます。今回、むつき超頑張った。もし仮に、美砂と付き合ってなかったら。やさぐれ時代のままなら大河内死んでた。見回りもぱっと済ませ、プール場の電気も消し忘れかとグチグチ文句言って終わりで。ちなみに、ちょっと分かりにくいかなと解説。|----------|| || || || || || || || ア |←こっちからのが近い| || || || || || ||----------| む長い方から飛び込んだ馬鹿の図。さすがにあがる時は近い方からですけどねw要領が悪いってぐちったのはこのあたり。それでは次回は土曜日です。頑張り過ぎたむつきの充電回です。