第百十二話 私も乙姫先生に恋をしたみたいですわ 週明けの月曜日、人々が一番後ろ向きになる曜日でも二-Aは元気なものだ。 教室に入るなり時々肉まんの匂いがすれば一個頂戴と、四葉に声が飛ぶなどざらである。 しかしこの日ばかりは、教室に漂う匂いは中華ではなく甘い果物の香りであった。 誰も彼もが教室に踏み込むたびにそれに気づいてはふんふんと鼻を鳴らす。 そしていか程も時間を使わずに、その発生源が何処であるか特定してしまう。 匂いだけでなく、その机周辺に人だかりができていれば特定も容易というものだ。「ちづる、皆で食べる為に持ってきたんじゃないの。食べようよ!」「朝ごはんは食べて来たけど、甘いものは別腹ですよ」「ごめんね、風香ちゃん史伽ちゃん。これはあげられないのよ」 ぴょんぴょん机の周りを飛び跳ねる鳴滝姉妹へと、穏やかに笑みを浮かべながら那波が謝罪する。 彼女の机の上に置かれているのは、多少時間は経っているがまだまだできたて香りが強いアップルパイだ。 土曜日のあの後に、院長から教えて貰った特性アップルパイを早速焼いて来たのだ。 それならさっさとむつきに渡せば良いのだが、彼女なりのケジメの為にある子を待っていた。「匂いで分かりますが、普通のアップルパイでは。なにか特別な隠し味が」「ふふ、もちろんよ五月ちゃん。たっぷり愛情がこもってるから」「なるほど、いけませんね。私としたことがそんな初歩的なことを」「五月ちゃんにお料理関係で一本とれるなんて幸先が良いわ」 隣の席の四葉との会話も弾んだようで、那波が上機嫌なのは誰の目にも明らかだ。 しかも、わざわざ作って学校に持ってきたのに、周囲に配らないのも意味深である。 勘の鋭い者でなくても、なんとなく察せられるというものであった。「おうおう、クラスでもトップクラスのスタイルの那波が恋のスイッチ入っちゃってるね」「そうなんですか、朝倉さん?」「ほほう、アレが恋する乙女の。さっぱりわからんでござるな」 村上の言う通り、時々物憂げにしながらも瞳を輝かせる那波を和美が写真に収めた。 その恋の相手が誰かなんてわかりきってるでしょと、とぼけたさよにデジカメの写真を見せる。 もちろん今しがた撮った那波ではなく、和美秘蔵のむつきが珍しくキリッとしている時の写真だ。 目論見通り、さよも早速恋する乙女の瞳をしたので、写真に収めてた。 そんなさよと那波の写真を見比べさせ、にぶちんなさよと楓に実写で解説である。 楓は酷く微妙な顔をしたが、さよはぽっと頬に赤い花を咲かせて両手で押さえていた。 自分がこんな乙女な瞳で普段むつきを見つめていたのかと。「いやあ、今のちづ姉を見れば普通の女の子ならわかると思うんだけど。時々物憂げに虚空を見上げたり、でもなんで。私結局、例の作戦実行できなかったのに」 三人の会話に耳を傾けつつ、村上がちょこっと首をかしげてもいる。 そんな風に那波が話題の中心にいると、ようやく彼女の目的の人物が教室に飛び込んできた。「いやあ、間に合った間に合った。久しぶりに走った、三キロ痩せたわ」「あんたは三キロぐらいじゃ足んないでしょ」「うわあ、明日菜辛辣やわ。でもパルはおっぱい大きいから羨ましいわ」「というかそのスタイルで胸も大きい明日菜さんが最強なのでは」 それは油断したわき腹の肉を自分で摘まんで笑っている早乙女ではない。 彼女の後ろから夕映と一緒にひいひい言いながら駆け込んできた宮崎である。 普段このように駆け込んでくるのは、神楽坂やその同室の木乃香、それから刹那なのだが。 既に教室でゆっくりとおしゃべり中で、早乙女を肴に継続中だ。 今日ばかりは、なにがあったのか遅刻寸前で飛び込んできたのは彼女たちであった。 図書館探検部と言えど純粋な身体能力が低い夕映と宮崎は、膝に手をついて息を整え中である。 ようやく息を整え終わったのちに二人が顔を上げると、目の前には那波が微笑んでいた。「おはようございます、本屋ちゃん。いえ、のどかさん」「はえ、おは……おはようございます、那波さん」「おはようござます?」 何故か名前を呼ばれたのは宮崎だけであり、夕映が何故と二人を見比べている。 本屋とあだ名を呼んだ直後に、わざわざ本名を呼び直したのもなんだか意味深だ。「おー、なんか良い匂い。朝ごはん食いっぱぐれて、ぐはっ! なんというトラップ。甘いアップルパイの様な匂いかと思ったら、濃厚過ぎるラブ臭に鼻が千切れるぅ!」 那波の席のアップルパイに近づき、鼻を押さえながら悶絶した早乙女は皆完全無視であった。 上機嫌でアップルパイを持ってきた那波が、ついに動いたのだ。 しかも半ば予想していたことだが、彼女が立ち上がり動いた先にいたのは宮崎である。 これはっと手に汗握りながら、ごくりと唾をのみ込み成り行きを見守り始めた。「のどかさん、私も乙姫先生に恋をしたみたいですわ」「はへ?」 突然の那波の告白に目をまんまるに、宮崎は固まってしまっていた。 そして数秒後、彼女が現実に返るよりも先に、周りの方が大騒ぎであった。 いや、面白がる声の方が色々な意味で多かったか。「ほほう、むつきをね。目下身近なライバルに戦線布告とは小気味好い」「私もそういうのは嫌いじゃないな」「良いぞー、もっとやれ。本屋ちゃんも負けるな、言い返せ!」「イイカエセー」 エヴァはこれでまたむつきを取り合える良いライバルが増えそうだと笑っている。 つい先日参戦したばかりの真名も、張り合いは多い方が良いと笑みを深めていた。 美砂はある意味で通常営業、遠い目で棒読みなのは釘宮であった。 どうなってんのこれと世の不思議について色々と覚りかねない目である。 周囲が面白がる反面、突然の告白に目の前が真っ白になった宮崎はまだ返ってきていない。「のどか、しっかりするです。ライバルとしては強力ですが、負けていませんよ」「ゆえゆえ~、どうしよ~」 夕映に揺り動かされ、目をぐるぐるさせながらなんとか意識を取り戻すのが精一杯の様子だ。「のどかさん、これは宣戦布告ですわ。この程度で狼狽えていては、本当の強敵に勝てませんわ。ですわね、エヴァンジェリンさん」「当たり前だ、私の姉は強敵だぞ。容姿端麗頭脳明晰、年齢というつり合いも取れていてそれはもう仲睦まじく、お前たちが入る隙間などないぐらいだ」「マスター、自画自賛もそこまでいけばむしろすがすがしい」「やかましい!」 ぺちんとエヴァが絡繰を叩いた意味は、周囲に殆ど意味は伝わらなかったが。 むしろ周囲の視線は顔をこれまでとは別の意味で蒼白にした宮崎にあった。「ゆえゆえ……わ、忘れてた。先生、付き合ってる人が」「のどかさん、その程度で怯んでどうするんです。私は諦めません、この恋を。例え障害があろうとも、この気持ちは止められません」「あうっ……」 初恋に舞い上がってすっかりむつきの恋人の存在を忘れていたらしい。 さらに畳みかけるように、那波が恋を貫く恋の意志を見せつけてきたため自然と後ろに足が引いた。 気圧される、気合を入れてアップにして分けて来た前髪がぱさりと落ちそうになるぐらいに。 おろおろと、助けを求める様に夕映に視線がむきそうになる宮崎を真っ直ぐ那波が見つめてくる。 穏やかで他者を包み込む彼女らしからぬ、今の宮崎をむしろ突き放すような厳しい目だ。 しかしそれは逆に、那波が言葉通りその恋の為に引かぬという強力な意志の表れでもあった。 一瞬にして覚らされる、自分よりも強い意志で強い気持ちでむつきに恋していると。「い……だ」 仕方がない、自分よりも綺麗で大人っぽい那波になら負けてもと認めそうになった。 那波なら、アタナシアならこんなちっぽけな自分が勝てるわけと。 戦う以前から負けそうになった宮崎が思い出したのは、自分に笑いかけてくれるむつきだ。 上手く喋れなくても、慌てて言葉にならない言葉をぶつけても、きちんと聞いて返してくれる。「嫌、諦めたくない。私も好き、乙姫先生が好きだから。だから、負けません。那波さんにも、アタナシアさんにも誰にも!」 仕方がなくなんてない、諦めるなんて考えられないと未だ頭は真っ白だがそんな言葉が飛び出していた。 先程飛び込んで来た時よりも呼吸は乱れふらふらだが、真っ直ぐ那波を見つめながら。 彼女の宣戦布告にびっくりするぐらい、強い口調で受け止められた。「ではお互い精一杯頑張りましょう。悔いのないよう、この素敵な恋を」「はい、よろしくお願いします」 にっこり笑った那波に差し出された手を取り、頭をさげた宮崎を見て誰もが脱力せずにはいられなかった。 例えライバル宣言をされ、負けないと言ったのに腰が低いというか。 根本的に宮崎は宮崎であるらしい。 ただ気弱にしか見えない彼女にも、恋にぶつかる強さはしっかり備わっていた。 若干、はっぱをかける様に那波が誘導したようにも見えたが、それを乗り越えたのは彼女の強さだ。「おーい、普段よりちょい騒がしいな。席につけーい、出席とるぞ」 だから普段通りのんびりやって来たむつきへと、こいつもこいつでと視線が跳んだ。「乙姫先生、なにを呑気に。今の本屋ちゃんの本気聞いてなかったの? あと、相談あるからお昼に時間頂戴! それから高畑先生は、貰った予定表は今日来るはずなんだけど?!」「おわ、一度に言うな叫ぶな神楽坂。あいよ、お昼休みな。あと高畑先生は緊急出超だってよ。てか、なんか甘くて良い匂いしねえ?」「先生、これ先日のお礼のアップルパイです。とはいえ、先生お一人にとなれば角が立つでしょうから職員室の先生方で分けて頂くとよろしいかと」「あっ、これ院長さんが作ってくれたのと同じ匂いだ。おう、ありがたく頂くぞ。気遣いも聞いてて、うん。良い恋してそうだな。おーっし、今度こそ出席を」 那波からあっさりアップルパイを受け取り、良い事だと出席簿を開いたのだが。「先生、私も好きアル!」「なんだ古、唐突だな。はいはい、古は出席っと」「先生、私も彼女に立候補!」「私も?」「椎名と大河内も出席っと、他には」 突然席を立って叫んだ古の今更の告白はあっさりスルー。 続く桜子とアキラの告白も、フェイクみたいなものなので同じくスルー。 乙女の告白を何だと思っているのだという一部の視線もスルー。「では、私も先生の恋人に立候補します」「はいはいって誰だ、聞き覚えのない声……ん? ザジ?」「お恥ずかしながらお慕い申し上げます。先生の為に、夏休みの間に必死に日本語を勉強いたしました。夏休みデビューというものを狙ってみました」 さらに一人の少女が挙手をしながら立ち上がり、鈴が鳴る様な声での立候補だ。 これまたスルーしようとしたむつきだが、声に聞き覚えがなく出席簿から顔をあげた。 古と桜子、アキラと立っているが、他に立ち上がっているのはザジ一人。 いやまさかと出席簿に再び目を落としてからの二度見であった。 そこへタイミング良く、私ですとのザジのアピールに我が目を疑う。「シャベッタァァァ、あとデビュー遅え。もう既に一週間経ってるじゃねえか!」 「ザジさんってあんな可愛らしい声やったん?! 何時も単語しか喋らへんからわからへんかった!」「あら、知りませんでしたの? ザジさんは元より、あのような耳に心地よいお声ですわよ。先生の為に異国の言葉を完ぺきにするとは、まさに至上の愛。この雪広あやか感服いたしましたわ」「し、死ぬ……ラブ臭に溺れて溺死できるなんて。こんな幸せなことはない」 いつも通りの早乙女は良いとして、亜子の皆を代表する言葉にあやかが当然とばかりに応えていた。 思い返してみればあやかだけは彼女の母国語がわかり、普通に会話していたはずだ。 しかも正統派過ぎる日本語を学んだのか、どことなくお嬢様っぽい喋り方だ。 あやかや那波に近い、正直にいうとちょっとむつき好みの高嶺の花っぽい。 褐色肌に銀髪、ピエロの化粧が目元に残っているがこうしてみるとどこかのお姫様に見えなくもない。 いやまさか、さすがにそこまで特殊な人間集めないだろうと、むつきはちょっと気を抜き過ぎていた。「煩いぞ、ホームルーム中に何を騒いでいる!」「わっ、新田先生。これは違うんです」「乙姫君、後で少し」「新田先生、ごきげんよう。少しお待ちいただけますか?」 怒鳴り込んできた新田が早速むつきに狙いを定めた時、ザジが一回転ひねりを加えながら前に文字通り飛び込んできた。 そのまま軽くスカートを持ち上げ、高貴っぽさを演出しながら新田に挨拶をする。 さすがの新田もザジに普通に話しかけられ、数秒間固まっていた。 しかし根性で我に返ると、ずり落ちた眼鏡を直しながら普段通りの彼を取り戻す。「すまない、少々驚いてしまって。ザジ君、夏休みの間によほど日本語を勉強したのだろう。頑張ったね」「はい、ありがとうございます。ですが、そのせいで乙姫先生や皆さんを驚かせてしまったようで」「むっ、そうなのか。そらなら多少……ザジ君の頑張りに免じて見逃そう。乙姫君、しっかり頼むよ」 さすがにザジに普通に話しかけられることへの理解を示し、今回ばかりはおとがめなしだった。 本当に最近新田からの好感度が駄々落ちなので、なんとかしたいところだ。 とはいえ地道にやるしかないので、ザジに席につけと促した。 だから何故跳ぶ、ひねりをいれると突っ込みたいぐらい、羽根の様な軽やかさで彼女が席に着く。 それを見届けてから、改めて出席を取り始めた。 なんだか朝から色々あった気がしたが、むつきは手早く出席をとって連絡事項を伝える。 これでおしまいと、手早く逃げるように背中に突き刺さる視線を感じながら教室を後にした。 当然ながら、ザジの件を含めて教室は大騒ぎであったが。 四限目終了の鐘が鳴った時、むつきは職員室のデスクで仕事をしていた。 切りの良いところまでなんてデスクにしがみつくことなく、鐘がなったやったとペンを放り出す。 この辺りが新田に言わせれば学生気分の片鱗なのだろうが、若者なんてそんなものだ。 座りっぱなしだったため、軽く伸びをして体をほぐすと鞄の中からさよのお弁当を取り出した。 今日はどんなおかずかなと楽しみにしながら、席を立とうとすると携帯電話が鳴った。 誰だろうと液晶画面を見てみると、珍しいことにむつみの名が浮かび上がっていた。 例の旅行以来ではなかろうか、神楽坂との約束はあるが受話ボタンを押す。「もしもし」「むっくん、おひさしぶり。あのね、むっくんにお願いがあるの」「藪から棒に、姉ちゃんのお願いってなにさ?」 お昼の誘いに来た瀬流彦に弁当を掲げて見せながら、突然のむつみの言葉を聞き返す。 弁当に続き、瀬流彦が絶望からさらにヤクザキックを受けたような顔だがそれは後だ。「あのね、麻帆良に日向喫茶の二号店を出すお話したでしょ。ひかげ荘の周辺にまだ、お爺ちゃんの土地があるみたいで見てみたいの。案内してくれると嬉しいな」「姉ちゃん一人じゃ、たどり着けないしな。次の休みで良い?」「ありがとう、むっくん。私は問題ないわよ」「その代りなんだけど、俺からも姉ちゃんに頼みがあってさ。同僚の先生に女の子紹介してあげたいんだけど、姉ちゃんに年頃の女の子の知り合いいない」 とぼとぼと肩を落として去っていったはずの瀬流彦が、ばっと振り返る。 片膝ついてひざまずくようにし、敬謙なクリスチャンのように両手を重ね合わせていた。 今にも以前冗談で春日が言ったように、メシアとでも言いたげなジェスチャーであった。 周囲の視線を何事かと集めているが、これっぽっちも気にした様子はない。「三人ぐらい心当たりあるわ。皆とっても良い子よ。でも私みたいにけー君との恋を引きずっちゃって」「けー君……責任ぐらいとってけよ。瀬流彦先生には好都合だけど。ならそっちは、来週合った時にでも」「はーい、むっくんまたね」 ぶつりと携帯が切れたところで、祈りをささげていた瀬流彦にやや嫌々振り返った。「三人ぐらい姉ちゃんに心当たりがあるようですけど、合コン行きます?」「なにをおっしゃるメシア。僕が貴方の好意を無にするとでも? お弁当美味そうっすね、恋人のお弁当が毎日食べられるなんてうらやましい。よっ、果報者」「まーた、瀬流彦先生が面白いことに。なにがあったんです、飯屋?」「二ノ宮先生、親父ギャグ飛ばしながら俺の大事な弁当奪おうとしないでくださいよ。合コンですよ、合コン。姉ちゃんに聞いたら、年頃の子が三人ぐらい心当たりあるって」 ああ、それでと可哀想なモノを見る目つきで、むつきに媚び媚びな瀬流彦を二ノ宮が眺めた。 むつきも男に媚びられてもうれしくないし、神楽坂との約束もある。 瀬流彦が震える手で淹れてくれたお茶は、そのまま隣の二ノ宮にパス。 しかしコーヒー党の彼女もパスして結局瀬流彦自身の机へ、ただの流れ作業だ。 もはや、自分のお茶を僕にと、なんてお慈悲と拝む瀬流彦はほうっておこう。 二ノ宮も言っていたが色々な意味で面白いので。「んじゃ、詳細決まったら知らせます。たぶん、来週の休みには」「はっ、メシアの御心のままに」「なんていうか、それ流行ってんですか。うちの春日と同レベルですよ」「微妙にショックだった」 それで素に戻られた春日もショックだと思うが、瀬流彦も少しは冷静になって席に着いた。 市販のお弁当を前に、貴様との腐れ縁もこれまでだと恨みを晴らさんとばかりに食べ始める。 二ノ宮も菓子パン片手にコーヒーと携帯電話を手にし始めたので職員室を後にする。 向かった先は、食堂でも教室でもない。 今朝のザジの公開告白のせいでむつきが行くと騒がしいのだ。 おかげでその件はクラスのみならず学年に広がったようで、歩いているだけで視線が突き刺さる。 なので水泳部顧問の特権を最大限に利用させて貰うことにした。 校舎を出て残暑の日差しの下に出で、温水プールのある体育館方面へ。 日差しで弁当が温くなるななど考えつつ体育館前までやってくると、その日影に三人の人影が。「おう、お待たせ。悪いな、こんなところまで足を運ばせて。食堂とか、教室だと五月蠅いだろうから」 むつきがお弁当を掲げながら声を掛けたのは、神楽坂に木乃香、そして刹那。 最近良く一緒にいることが多い三人トリオである。 確か最近、神楽坂も刹那もお互いをなんとなく名前で呼び始めていたような気もした。 何時までも苗字呼びでは余所余所しいだろう、友達の少ない刹那には喜ばしいことだ。 そんな三人トリオに声を掛けたは良いが、その視線がなんだかむつきからズレているように思えた。「先生、隣見て。隣、説得力ないから」「とな、うぇ。ザジ、お前何時からいた?!」「ええ、ずっと。というのは冗談で、校舎を離れていく先生にたまたま気づきました。お昼をご一緒するチャンスかと。お邪魔でしたか?」 どこかで聞いたような台詞をしれっと言われたが、真相はある意味彼女らしい理由だった。 彼女の手にはコンビニの物らしきビニール袋が下げられている。 神楽坂の相談があるとはいえ、だからと言って帰れとも言い辛いし、言う理由がない。 一応神楽坂に視線を向けると、許可というより責任とんなさい的な視線を向けられた。「とりあえず、誰かにみつからないうちにさっさと中にはいるぞ」 体育館の特に温水プールは、許可がない限りは生徒は勝手に使用してはならない。 というルールだけで止められないので、出入り口から普段は鍵がかけられている。 当然、水泳部顧問であるむつきはその鍵を持っており、開けるなり神楽坂たちを押し込んだ。 後から周囲を伺いつつむつきも侵入し、中からしっかりと鍵をかけておいた。 そこからさらに向かった先は、むつきの部屋とも言える監督室である。 普段からアキラや亜子、小瀬とイチャイチャしているので色々と取り揃えてあった。 最初はデスクと資料棚ぐらいだったのだが、ポットにコーヒーやお茶の葉は当たり前。 小瀬が何処からかソファーやテーブルを持ち込み、仮に他校との練習試合に顧問が訪れても大丈夫なぐらいだ。 そのソファーが何に使われているかは、察するべきだろう。 サイズは小さいがテレビまであり、くつろぐには十分な空間ができてしまっている。「先生、やりたい放題やえ。お爺ちゃんにバレたらあかんちゃう、これ」「刀子お姉ちゃんも監督室持ってますけれど、ここまででは……」「美術部に顧問の部屋なんてないわよ。なにしに、学校に来てんだか」「ぼろくそ言うな、特に神楽坂。そういうお前は、ちゃんと勉強しに来てるか?」 むつきの返しに藪蛇だったと、神楽坂の視線がそれていく。 そこは当たり前でしょと返すべき場所だと思うのだが。 神楽坂はその為にも、決断するべきことがあると四人にそれぞれソファーを勧めた。 当然のようにザジがむつきの隣に座ってきたが、もはや何もいうまい。 とりあえず空腹のお腹に各自持ってきたお弁当やパンをかじり、軽くお腹を満たしてから切り出した。「で、悩みってのはアレだろ。特待生の」「うん、試しにやってみようかなって。駄目で元々、折角高畑先生と学園長が教えてくれたんだし」 実際考えて提案したのはむつきだが、俺がと主張するまでもないことである。「駄目でとか、明日菜やったら大抵の運動は間違いなしやえ?」「通学中、お嬢様のローラーブレードと普通に併走されてますからね。体育でも陸上部の春日さんと普通に競り合ったり、地区大会ぐらいは余裕では?」「やるからには一番を狙うけど。それで、何処の部活に入れば良いのかわかんなくて」 麻帆良学園は同好会も含めれば、多種多様過ぎる部活が存在する。 楓や鳴滝姉妹のさんぽ部や、木乃香や夕映、宮崎に早乙女が所属する図書館探検部など。 これらは少し極端な例だが、神楽坂が入るべきは世間一般的な運動部だ。 例えば、今少し話に出た陸上部、むつきが実は入って欲しいと願っている水泳部などなど。 それでも両手が数えきれないぐらいに部活は存在し、目移りしてしまうのだろう。「そういう時は、自分がどんな部活に入らなきゃいけないか考えるんだよ。まず個人競技だろ?」 まず忘れちゃいけない大前提を例としてむつきがあげた。「あっ、そうだったわね。チーム競技はちょっと難しそうだし」「折角の神楽坂さんの身体能力を生かせぬまま、足を引っ張られる可能性もあります。あとレギュラーを奪ってしまった場合の報復等、面倒なことがあります」「ザジちゃん、オブラートや。オブラートに包むんや」「意外に毒舌ですね」 それほどでもとにこりと笑ったザジはさておき。「他に、金がかかりそうなのもアウトだろ。テニスとか、剣道も一式そろえると相当だろ?」「剣道は確かに。少しかかりますね」「アーチェリーとか、道具は貸し出してくれる部活ならええんちゃうん?」「あー、別の意味でそれアウトだな」 木乃香がそれならと良さげな案をだしてくれたが、むつきはきっぱり意見を払いのける。「そういう技巧的なのは、神楽坂の身体能力を生かせないだろ。時間的な問題もあるし、ある程度力技で記録をもぎ取れるのが良い。純粋な身体能力で、タイムを競うような」「となれば、陸上部か水泳部です。私なら水泳部を押します」「ザジちゃん、その心は?」「先生が顧問で大河内さんが部長、和泉さんがマネージャ。クラスの関係者がそろっています。それに、大河内さんと神楽坂さんは体系が似ています。彼女のお古の水着があれば、購入の必要もないです」 言い出しにくかった勧誘を、ザジがいかにもな感じで神楽坂に勧めてくれた。 神楽坂自身も改めてザジの言葉を反芻し、確かにと顎に手をかけて頷いている。 思わずナイス、ナイスと叫びながらザジを撫で繰り回したくなったが我慢、我慢であった。 狙い通りでしょうと密かにザジに微笑まれた時は、少し頬が引きつりそうになったが。「か、神楽坂。今ここで決めなくても、部活見学してからって手もあるぞ。今日の放課後、一度水泳部を見に来るか? 試合じゃないんだから、体育の水泳着でも問題ないし」「なら、一度見に来ようかな。全国六位のアキラちゃんがいるし、自分がやっていけるか良い目標になるわよね。先生、放課後お世話になるわ」「ん、大河内達には俺から伝えとくよ」「水泳部か……」 自分が入部、もしくは見学時のことを想像したのか神楽坂がソファーを立って窓際に歩み寄った。 水泳部の監督室には大きなマジックミラーの窓があり、プール全域を見渡すことができる。 今は無人なので水は静かに冬の湖面のようになっていた。 神楽坂の視線が窓の向こうのプールに注がれているところで、くいっとスーツの袖を引っ張られる。 隣に座っていたザジのものであり、むつきの内心を知っていたかのようにグッと親指を立てられた。 今一度、神楽坂が窓の向こうをみているのを確認して、ザジの頭をくしゃっと撫でてやった。 されたザジも、最初はきょとんとしていたがやがてにこりと笑い返してきた。「あっ、ええな」「さて、あまり長いしてはご迷惑でしょうしお暇しましょう」 羨ましそうな木乃香の呟きを聞くや否や、いきなり立ち上がった刹那が手をパチンと叩いて言った。 本当に突然のことで、プールの水の波間に思いをはせていた神楽坂はビクリと振り返っていた。「それもそうね、どうせ放課後来るんだし。誰かにみつからないうちに戻らないと。特に那波さんや本屋ちゃんに変な誤解されてもね」「あ、ですがこのちゃんは別途、先生に相談ごとがあるとか。内密とのことなので、ザジさんも」「わかりました。その前に、先生こちらに少しお立ちになっていただけますか?」 刹那の微妙な剣幕にその意図はありありと分かるのだが、意外にザジがあっさり引いた。 しかしまた同時に奇妙なお願いをされもする。 ザジに手を引かれむつきが席を立つと、ザジはその背後に回り込んだ。 まるで影踏みをするように、むつきの影の上に立つと軽くステップを踏む様にパンパンと足を鳴らす。 一体なにをしているのか、軽く振り返ったむつきへと彼女は笑い掛けながら言った。「困った時は、私の友達が助けてくれます」「お、おう?」 二-A以外に友達いるのかと一瞬失礼なことを聞きかけたが。 ザジは早くと急かす刹那に背中を押され、神楽坂ともども監督室を後にした。 残されたのは、部屋の主のむつきと特に相談ごとがあると刹那が言った木乃香であった。 しかしその当人は、いきなり刹那に置いてきぼりにされてぽかんとしている。 そしてむつきと目が合うとてへへと照れ笑いした。 一先ずむつきは、監督室の部屋の鍵をしてから改めてソファーに座って両足を大きく広げた。 電車で自分を大きく見せたい高校生ではなく、その広げた足の間、小さな隙間をぽんぽんと叩く。 その意味を察した木乃香が照れ笑いを継続しながら、近寄ってきては勢いをつけて座り込んだ。 むつきの胸に背中や頭を預けると、上を見上げるようにして言った。「せっちゃんに気を使わせてまった。先生、うちもザジちゃんみたいに撫でてや」「あいよ」 言われた通り、歪み一つない大和撫子な木乃香の黒髪に指を通すように撫でつけた。 きゅっと一度体を縮めた木乃香は、むつきの手に力を吸い取られたように脱力していく。 そのままソファーから滑り落ちそうになるぐらいであり、むつきはもう片方の腕をお腹に回した。 食後なのであまりお腹を押さえるのもかわいそうなので、ふわりと触れるだけだ。「ほわぁ、幸せやえ。お腹一杯、せっちゃんかわええ、明日菜にこにこ、先生エッチ」「そんなことをいう奴は、こうだ」「やっ」 スカートからシャツの裾をたぐり、見えた肌色とすぼまりへと手のひらを当てて撫でつける。 木乃香が駄目と手を塞ごうと間に合わず、すべすべのお腹とおへそを指でつつく。「んぅ、お腹壊すからおへそはあかんえ。それに食べたあとやから」「あっ、きゅるきゅる言った」「むぅー、そんなこと言う先生なんてしらへん」 一定以上の好意を抱く相手とはいえ、やはり女の子はお腹の音なんて聞かれたくないのだろう。 頬を膨らませぷいっとそっぽを向いた木乃香が、文字通りへそをまげてしまった。 ちょっとまずかったかなと、お腹に障るのを止めてぎゅっと抱きしめる。 少しだけこちらを向いてくれたが、まだお姫様の機嫌は直りそうにはない。 ちらっと時計を見ると、そろそろお昼休みも残すところ十五分弱といったところか。 このまま木乃香が不機嫌のまま微妙な気持ちでお別れするのは、寂し過ぎる。「木乃香、貴重な時間だから機嫌直してくれよ。俺が悪かった」「親しき仲にも礼儀ありやえ。んー、ほんならうちが喜ぶ一言を言ってくれたら機嫌なおしたる」「例えば?」「教えたら意味あらへんえ。先生がちゃーんと考えて、心を込めてくれたらええよ」 そんなことを言われても、言葉一つで人を喜ばせるのなんてなかなか難しい。 ただここで何かを買ってあげるとか言ったら、絶対怒らせそうなのは分かる。 また、刹那とお似合いだとか仲良しだねとか言っても喜びはしそうだが、なにか違う。 うんうん唸っていると、抱きかかえている木乃香がちらちらと振り返ることが多くなった。 なし崩し的にと出来そうなものだが、折角なので木乃香を喜ばせてみよう。 その為に、改めて木乃香をギュッと抱きしめそっぽをむいた頬に頬ずりするよう頬を合わせた。「木乃香、大好き」 ささやく様にだがはっきりと、好意を伝えるために簡潔に呟いたわけだが。 なんかこう改まって言うと、無茶苦茶恥ずかしくなって来た。 しかも喜ぶ言葉を言ってと言われ、それで告白とか、自意識過剰すぎないだろうか。「ごめん、今のなし。なにそれ、馬鹿じゃないの。ああ……なんか、こう。死にたい」 一気に落ち込み始めるむつきとは裏腹に、「先生、それでうちの機嫌直るやなんて甘々やえ。でも仕方あらへんな、大目に見て機嫌直したる」 しょうがないからなんて言い草の割に、木乃香はにこにこ満面の笑みで振り返っていた。 立場が一気に逆転したように、がっくりうな垂れるむつきの頬をえいっと突く。「うちを落としたかったら、もっと気の利いた言葉やあらへんと」「例えば?」「せやなあ、せっちゃんと仲良しやなっとか明日菜とお似合いやなっとか?」「知ってた」 とりあえず、落ち込み気分を少しの怒りで振り払ったむつきは、木乃香をソファーに押し倒してキス魔の刑に処すことに決めた。 -後書き-ども、えなりんです。原作と異なり、あやかではなく千鶴がのどかにライバル宣言。むつみが言った三人は、ラブひなのしのぶと素子とキツネの三人。ザジのいうお友達はもちろん、あの顔なし的な有あれ。