第百十四話 女の子にとっては恋愛のバイブルなんです! 神楽坂はピンクの生地に羊が水玉のようにプリントされたパジャマ姿であった。 当人の趣味には合わないそれだが、木乃香が似合うからと買ってきて着せられたものだ。 木乃香の好意を無碍にもできず、なんだかんだで少しばかり気に入ってしまった一品でもある。 そのパジャマのズボンを足元までおろし、白に小さなリボンのついたパンツも丸まり足元に。 震える丸いお尻を便座におろし、だぶついたパジャマの襟元を必死に歯でかみしめている。 彼女は今、覚えたばかりの、教えられたばかりのオナニーにふけっていた。 自分の指先が不毛の割れ目をなぞり、皮に隠れたクリトリスを上から押すように刺激する。 声を押し殺した吐息が口元から漏れ出し、黄金水とば別の液体がぴちょんとトイレに落ちていった。「ふぅ、ふぁっ?!」 愛液が水たまりに落ちる音にさえ怯える様に、ビクリと神楽坂は体を震わせた。 現在時刻は八時過ぎ、トイレの扉の向こうからは木乃香が見ているテレビの音が聞こえてきている。 寮が相部屋ではプライベートな空間も限られ、完全に一人になれるのはトイレかお風呂しかない。 普段お風呂は大浴場を使っているので、また自室でシャワーを浴びるのも不自然。 となると、木乃香の目を盗んでトイレに駆け込み致すわけだが同時に時間もかけられない。(気付かれたら、変に思われ……た、高畑先生) 木乃香に気づかれるのも恥ずかしいが、やる気になった手前中途半端はもっと嫌だ。 一度、木乃香に不審に思われ中途半端なまま寝床についた時は悶々としてなかなか寝付けなかった。 だから妄想のなかで意中の高畑と甘く触れ合うのを想像しようと試みるのだが。 どうしても高畑が自分に優しく微笑みかけたり、もっと先を致す想像ができない、物足りない。(うぅ……結局、また) これに頼ることになるのかと、秘部に触れていない左手で足元に下したパジャマのズボンを探る。 ポケットから引っ張り出したのは携帯電話であり、二、三度操作してとあるものを表示させた。 小瀬からオカズに困ったらとメールで貰った、むつきの写真であった。 スーツ姿で珍しくキリッとしているもの、神楽坂にも良く見せてくれる笑みを浮かべるもの。 極め付けといって良いか、水着を身に着け上半身裸のものさえある。 それらを目にすると、自分の意志とは裏腹に妄想が加速していく。「うぅ」 違うのにと思いつつも、体は正直なものであった。 途端に愛液がポタポタと指の間を滴り、割れ目を弄る指先の動きも体の火照りに合わせ活発化する。(違う、二番目なんだから。オナニーと恋愛は違う、私が好きなのは高畑先生で) そう心の中で繰り返すが、むつきが神楽坂と呼んでくれる声のリフレインが止まらない。「ちが、先生……乙姫先生」 ついに耐え切れず口元からパジャマの襟が零れ落ち、声が零れ落ちる。 後は濁流が堰をきるように、勢いよく流れ出す。 一人で膣まで入れるのは怖いので割れ目をなぞり、ぬめりに指を少しうずもれされていくのみ。 携帯電話を蛇腹状になったズボンの上に落とし、左手は胸元へ。 想像上のむつきが優しく触れるように、その動きをトレースして胸元をまさぐった。 ブラジャーの堅い感触はなく、肌触りの良いパジャマの向こうに直接乳房の柔らかさがある。 なかなかオナニーのタイミングを見計らうのが難しく、最近寝る時はノーブラなのだ。 ピンっとパジャマを押し上げる硬くしこった乳首を親指と人差し指で捏ね上げた。「んぅっ、好き。勘違いしないで、二番目なんだから。私が好きなのは、知ってるでしょ。でも、ぁっ。はぅ、ぁぅっ。好きィ!」 高畑なのかむつきなのか、そもそもむつきは好きなのかそうではないのか。 ぐるぐる考えているうちにそれが来た。 全身を覆う快感という名の風船が膨らみ切って爆発するように、一番大きな瞬間が。 ふいに立ち上がりたくなるような、不思議な感覚。 まだオナニーを知って数日だが、それが何にも代えがたい程に気持ち良い事は知っていた。「ひぅ、いぐ。乙姫先生で、乙……イクぅっ!」 段々と前かがみになり意図せず、愛液が染みだす膣口へと指先が触れた。 その奥まで触れられるあの感覚、もっともっと欲しいと思った時であった。 うっかり声を潜めるのを忘れ、割と大きな声で叫んでしまいながら神楽坂は絶頂を迎えた。 血の巡りが津波の様に広がり頭が真っ白に、昔誰かに言われたような空っぽになる。 脱力すると同時に、神楽坂は体を起こしてそのまま便座の蓋に背中を預ける様に天井を見上げた。 白熱電球が今の神楽坂の脳内の様に真っ白な光で照らしてきていた。 焦点のはっきりしない瞳で、べっとりと愛液がついた右手を持ち上げて見つめる。「イッちゃった……また、乙ひ」「明日菜?」 絶頂の余韻と少しの虚しさにさいなまれる中、トイレのドアをノックされ思わず体を跳ね起こした。「こっ、ここ。木乃香?!」「なんや大声聞こえたから、お腹痛いん? その割に、乙姫先生って」「な、なにが? そ、そうだ。携帯でゲームしてたら、熱中しちゃって。乙姫先生なんて気のせい!」 慌ててズボンの上に落とした携帯電話を拾い上げ、木乃香に見せる様にドアに見せる。「明日菜、女の子がお腹とお尻冷やしたらあかんえ」「うん」「あとゲームしとるんやったら、代わって。うち結構待っとるんやけど」「え? え゛?」 慌てていたせいで愛液に濡れた手で携帯電話を拾ってしまったのもアレだが。 この直後に木乃香が使うのかと、神楽坂はすんすんと鼻をならした。 大きな方ではないので大丈夫だとは思うが、それとも慣れてしまったからか。 芳香剤の匂いさえ今は感じられず、変な匂いがしないか無茶苦茶気になり始めた。「ちょっ、ちょっと待って。できれば一時間ほど」「無理やて、明日菜なにしとるん?! おトイレぇ、お茶飲み過ぎたえ」「お願い、せめて十分!」「明日菜ぁ、明日のお弁当塩なし具なしのおにぎり一個にするえ!」 当たり前だが木乃香から却下が下され、神楽坂は慌ててトイレットペーパーで手と割れ目を拭いた。 あと遅きに失しているが、愛液がついてしまった携帯電話も。 急いだつもりでも木乃香からノックで催促を受けて、身だしなみも整えないまま交代である。 エチケットなので一応木乃香がトイレに飛び込んだあとは、その場を離れたが。 気づかれないか、色々と怖くなって神楽坂は二段ベッドの上に逃げ込んでタオルケットを頭まで羽織った。(気付かれてませんように、気づかれてませんように。もう、木乃香の顔見れない。明日からオナニー何処でしよう。トイレはもういや!) タオルケットの中で顔を真っ赤にし、胎児のように体を丸めて心の中で絶叫する。 そこに至っても、まだオナニーを止めるという選択肢が思い浮かばない程度にははまっているらしい。 ドキドキしながら翌日を迎えた神楽坂は、普段通りの木乃香のふるまいに心底安堵したものである。 これならトイレでも良いかなと、オナニーにはまりつつある事に気づかず気楽にそう思うぐらいに。 ただそれで神楽坂の悩みが何一つなくなるわけでもなかった。 まだ完全には決めかねている水泳部への入部もそうだし、実際にバイトを辞めるかどうかもだ。 工事現場の方はまだ良いが、新聞配達の方は明日菜が二人分、多いと三人分働いている。 いきなり辞めたら迷惑だろうし、残された人たちに自分の分がふりかかると思うと辞め辛い。 それにオナニーの為に一杯エッチな妄想をするのに高畑だと駄目で、むつきだと平気なのか。(私が好きなのは高畑先生だもん) 授業と授業の間、短い休み時間を机に突っ伏し腕枕に顔を突っ込みながら改めて考える。 今だって高畑の顔やあのタバコの匂いを思い出すと胸がドキドキするのだ。 こんなに乙女の心を高鳴らせておいて、これが恋でなければなになのか。(でも……) 意中の高畑ではなく恋愛感情がないはずのむつきを思い出しても不思議な感じがするのだ。 悪いものではなく、胸がじんわり暖かい。 何時でも見守っていてくれるような、困ったらいつでも駆けつけてくれそうな。 絶対助けてくれる、そう確信できる高い信頼。 実際、なんども気にかけて貰っては助けて貰っている。 何しろ高畑が好きだと言っても皆苦笑いか本当に笑うかだが、むつきは肯定して手助けしてくれた。(もしこれが逆の立場だったら) 仮にもし仮に、自分がむつきを好きで高畑に助けを求めたらどうしてくれるだろう。 きっと助けてくれると思いたかったが、現実問題として高畑は出張がやけに多かった。「ねえねえ、明日菜」「んあ?」 色々思い悩んでいる時に声をかけられ、思わず間抜けな返事をしてしまった。 隣の美砂の机に軽く腰かけ、上から手招きしながら喋り掛けて来たのは春日だ。「どうしたの美空ちゃん、珍しいわね。体育の時以外で話しかけてくるの」「そう? あのさ、明日菜が運動部に入るって噂聞いたんだけど本当? もし本当ならこなかけて来いって次期部長に言われちゃってさ。他の部の子も、結構明日菜狙ってるよ」 ほらと廊下を指さされ振り返ってみれば、見覚えのある別クラスの子が数人教室を覗き込んでいた。 春日に指さされ、様々な反応を返してくれる。 思わず逃げ出す子や、アピールするように手を振る子などもいた。 何度かむつきに食堂等で相談したので、その辺りからでも漏れたのだろうか。「悪いわね、美空ちゃん。私、どうせ入るなら水泳部にするから。もう、体験入部しちゃったし、あとは一応入部届け出すだけ」「そうだよ、明日菜はうちら水泳部のもんやから。明日菜の体は売約済みやんね」「亜子、なんかその言い方いやらしいよ。春日さん、そういうわけだから」「あちゃー、一歩遅かったか」 話していた内容が聞こえたのか、亜子がやって来て明日菜に抱き付き、アキラが春日にそう言った。 だが遅かったという口ぶりとは裏腹に、春日はこれで肩の荷が下りたとばかりに腕で大きくバッテンを作る。 一体何をしているかと思えば、先ほどから教室を覗いていた子の一人への合図らしい。 どうやら陸上部の次期部長らしく、春日のジェスチャーを見てがっくり肩を落として消えていった。 他の子も、見込みなしを感じ取ってか一人、また一人と自分の教室へ戻り始める。「危な、他の部も明日菜狙っとったんか。でもついにうちに入部決めてくれたん?」「入部届を貰ったって先生からは聞いてないけど」「一応書いたけど、まだ出してない」 私が預かろうかと亜子が差し出した手に、神楽坂はポケットの中の入部届を私はしなかった。「ごめん、亜子ちゃん。入るなら水泳部だけど……もう少し考えさせて」「明日菜は大事なことやし、ええけど。新人大会へのエントリーもあるし、早いほうがええよ?」「小瀬先輩、明日菜が早く入部しないか毎日わくわく待ってる」「うん、個人的にもあの体験入部は楽しかったわよ」 どうにも歯切れの悪い明日菜を見て、亜子とアキラは顔を見合わせていた。 なにか悩んでいるようだが、水泳部の部長とマネージャーがあれこれ聞いても催促にしか聞こえない。 そして明日菜が頼りにできるであろうむつきもまた、水泳部の顧問である。 そうなると明日菜が身の回りのことで相談できる相手は、限られてきてしまう。「なんか良くわかんないけど、明日菜。悩みがあるなら、一度うちに来てみる?」「割と冷静に考えて、美空ちゃんにお悩み相談はしないけど?」「いや、そうじゃなくて。てか、さりげにひどい。うちって言うのは、教会。うちの神父様は結構評判良いんだよ。穏やかで優しいし、懺悔室を使えば直接会う必要もないしね。秘密やプライバシーも厳守されるよ?」「ああ、なんか乙姫先生も一度相談させて貰ったって言ってた気が……」 そこでまたしてもむつきを思い出してしまったが、一々気にしていてはきりがない。「それっていつでもやってるの? あっ、でもさすがに男の人には」「それならそれで、うちにはシスターもいるっすよ」 ほら人気投票で一位を取ったと春日が話をふると、神楽坂でなく亜子やアキラがああっと声をあげた。 そのシスターを話題に三人が盛り上がる中、神楽坂は行ってみようかなと思い始めていた。 ちなみに当時、高畑の応援団として力みまくっていた神楽坂はシャークティを見たことがなかった。 放課後、神楽坂は一人で春日がお世話になっている教会にやって来た。 入り口の前で見上げた教会は、麻帆良にマッチする西洋風の建物だが珍しいことは珍しい。 真っ白な壁に濃紺の屋根、入り口の扉は日本の一般的な扉よりも随分と大きかった。 窓も不必要と思えるほどに枠が多く、開けられるのかなんて疑問が浮かぶ。 麻帆良にはミッション系の聖ウルスラ女子高等学校があるが、神楽坂にはまだ縁遠い場所だ。 中学を卒業後には通う可能性が無きにしも非ずなのだが、通う自分を想像したことすらない。 時間にして一年と半年後、今を生きる女子中学生には難しいことであった。「ごめんくださーい」 扉についているノッカーを完全無視して、神楽坂は直接手で扉を叩いた。 ガンガンと無粋な、それこそ借金取りでも来たような音が鳴り響く。「はいはい」 しばし神楽坂が待っていると、開かれた扉から温厚そうな表情の神父が顔を出した。 真っ黒なのローブのような出で立ちに十字架のマークがついていれば神楽坂でもわかる。 この人が春日の言っていた神父様かと、なんとなく雰囲気で良い人なんだなと思った。「あの美空ちゃ、春日さんから」「ええ、聞いております。シスターは既に懺悔室にいますよ。顔が知られると告解し辛いこともあるでしょう。このまま懺悔室に案内いたしましょう」「はい、よろしくお願いします。シスターさんも、私を知らないんですか?」「ええ、もちろんですよ。我々は神に代わって懺悔や悩みを聞き届けるのです。聞き届け迷いを晴らすことが目的であり、相手が誰であるか知る必要もありません」 神楽坂は難しいことは分からなかったが、お互いに誰か知らないというのはある種の安心感があった。 色々な人にお世話になっている現在、神楽坂は人に頼ることに躊躇や戸惑いを覚える。 それでもなりふり構わず、色々とむつきにはお世話になっているが。 いやだからこそか。 頼り相談した相手が分からなければ、遠慮のしようもない。「さあこの中です。私は奥にいますので、終了次第ご自由にお帰りください」「はい、ありがとうございます。神父さん」 礼拝堂の中を神父の後についていくと、並べられた長椅子の一番前にそれはあった。 良く分からない飾りが彫られた木製の電話ボックスのような小さな部屋である。 中は薄暗く、腰かけるための椅子とその正面に反対側と繋がる鉄網が見えた。 なんとなく気配を感じるのでシスターは既に準備万端なのだろう。 扉を開けてどうぞと言ってくれた神父にお礼を言って、神楽坂は懺悔室の中で腰を落ち着ける。 最後にごゆっくりと言われたのに会釈で返しながら、神楽坂は真っ直ぐに前を見た。「えーっと」「迷える子羊よ、主を前にその胸のうちを告白しなさい」 懺悔室は扉を閉めると本当に真っ暗で、迷っているうちに鉄網の向こうから声が聞こえた。 とても穏やかで懺悔室の暗闇に身体が溶け込んでしまいそうになるほどに落ち着いた声である。 神楽坂は母親というものを知らないが、もしいたらこんな声なのだろうかと自然に思えた程に。 まだ何も話していないうちから来てよかったと自然に笑みがこぼれていった。「あのそんなに大したことじゃ、私からすると大したこと。世界が終わるより大事なことなんですけど」「はい、物事の感じ方は人それぞれ。貴方がどう感じ、なにを思ったかが大切です」「私、好きな人がいるんです」「え゛?」 つい先ほど心の内に芽生えた安らかさが一瞬で消え失せるような、ある意味で失礼な呟きだった。「え?」「こほん、大丈夫神は常に試練を与えた私を見ていてください。都合よくこれが、私の手元に」 いやまさかと思わず聞き返すと、鉄網の向こうから空気を作り直すような咳ばらいが小さく聞こえた。 なにか震えるような声でぶつぶつつぶやき始めたが、詳細は神楽坂には聞こえなかった。 反動というものもあるだろうが、鉄網の向こうのまだ見ぬシスターへと急激に不信感が芽生え始める。 見えていないはずだがそんな神楽坂の視線を感じたように、努めて綺麗な声色でこういわれた。「どうぞ、続けてください」 微妙に納得はいかなかったが、相談を持ち掛けた手前ここで帰るとも言えない。「私には好きな人がいるんです。子供の頃に面倒を見てくれて、憧れてる人が。でもいざ自分の気持ちを知ると、なかなか勇気が出せなくて。そしたら別の男の人が凄く助けてくれてました」「憧れが恋愛に転化するパターンですね、解ります」 鉄網の向こうでなにか紙をペラペラめくる謎の音が聞こえたが続ける。「でも、何度もお世話になる内に助けてくれていた人が気になり始めたというか。好きな人は変わりません、けど気になるんです。時々、私が好きな人が誰なのかわからなくなるぐらいに」「王道という奴ですね、なるほど」 またしてもペラッと何かがめくられる音が聞こえた。「二人とも全然タイプは違うんですよ。好きな人は渋くてなんでもできて格好良い。もう一人は、なんだろ。別に格好良くはないけど、優しいし。でもその人に皆が集まるというか、太陽みたいな人?」「これが三角関係、春日から没収した参考書の通り……」「って、参考書ってなによ!」「あっ、いやこれは違うんです!」 鉄網の向こうから聞こえた不審な単語に、神楽坂の不信感が一気に爆発した。 なにか変だ変だと思っていたら案の定、必死の言い訳も怒りを助長するガソリンにしかならない。 悪戯好きの春日の言うことなんて間に受けるんじゃなかった。 鉄網に指を突っ込み顔を見てやると破壊を試みたが、頭をよぎる弁償の二文字がそれを引き留める。 ならばせめてその化けの皮をと、神楽坂は懺悔室を飛び出して行った。 教会の内部構造など知らないが表の懺悔室の裏側とあいまいな考えで裏手に回ろうとする。 その時、曲がり角でばったり別かどうかは不明だが一人のシスターさんと鉢合わせした。 思わずぶつかりそうになった神楽坂に、穏やかな微笑と共に彼女はこう言った。「なんですか、騒々しい。ここは関係者以外立ち入り禁止ですよ?」「あっ、ごめんなさい。でも!」「ほら、落ち着きなさい。女の子はお淑やかに。今私が聖書の一節を読んでさしあげますから、それを聞いて心を落ち着かせなさい」「…………」 そう言って懐からシスターが聖書と呼んだそれを取り出したわけだが。「それ、聖書じゃなくて少女漫画なんですけど」 キラキラした瞳で謎のポーズを取る女の子と背景に星のきらめきを纏った男の子がいる拍子である。 ある意味で、早乙女辺りに言わせれば聖書の一つかもしれない。 しかしいくらなんでも、教会のシスターがそれを聖書と言い張るのは難しいものがあった。 案の定、少女漫画を手にしていたのは神楽坂の相談相手だったシャークティだ。「せ、聖書です。女の子にとっては恋愛のバイブルなんです!」「うわ、思いっきりパルみたいなこと言った。やっぱりアンタじゃない。こっちが真面目に相談してるのに、そんなもの引用しようっての?!」「しょうがないじゃないですか、聖書は心構えばっかりで」「おや、どうかされましたか?」 廊下で言い合っていると、変わらぬ穏やかな笑みを浮かべた神父が近くの部屋から顔を出した。 ごく自然に神楽坂の視線がそちらへそれた時、シャークティは未だとその横をすり抜けていった。 しっかりと少女漫画を胸に抱きながら、また駄目だったと逃げるように。 実際、もう駄目だと全力で逃げ出していた。「待ちなさいよ!」 即座に神楽坂も追いかけ始めるが、シャークティの足はことのほか速かった。 教会を飛び出し、何処へと周りを見渡したころにはその姿は小さく修道服でなければ見失っていたことだろう。 あと西日のせいか、妙にその姿が輝いて見えていたがたぶんそちらは気のせいだ。「待ちなさーい!」 だがいくら早くても足手は足にまとわりつく長いスカートがある。 それに神楽坂は体力だけは自信があったのだ。 小さくなっていくシャークティを捕まえようと、思い切り地面を蹴った。 しかし、神楽坂が思った以上にシャークティは足が速い。 うかうかしていれば曲がり角などで本当に見失ってしまうかと思う程に。 短い間隔で曲がり角が来たときなんかは、本当に見失ったと思うことがあった。 その度に何故シスターが全力疾走と不審がる人々の視線がなければ危うかったことだろう。 そして同時に、振り切れない神楽坂に追われたシャークティも心底焦っていた。 全力疾走なのである、それこそ魔法を使って身体を強化し素人では到底追いつけないはず。 なのに鬼の形相で追いかける神楽坂は、諦めないだけでなく確実に間を詰めてくる。 走り出して何分経ったことか、確実に横腹も痛くなって来た頃には神楽坂の手が伸ばされていた。 三十センチ、十センチ、その手がついにシャークティの肩を掴もうとした時であった。 するりと手は彼女の肩とすれ違い、歯を食いしばるようにして神楽坂はシャークティを追い抜いた。 負けた、そんな言葉がシャークティの両肩に落ちてくると同時に、神楽坂も両腕を上げて叫んだ。「勝ったぁ……うげ、一気に来た。一気に疲れ、しゃべ、辛い」「ぜえ、ぜえ。まさか追い抜かれるとは、ふふ……そう、主は言っているのですね。私の様な者は敗者がお似合いだと。どうせ、彼氏いない歴イコール年齢よ!」「そうなの?!」「どうせ私の恋愛相談なんて虚構よ、中身の伴っていない空っぽなのよ!」 正直、横腹が痛くてそれどころではないのだが、顔を両手で覆って泣き出した人を放っておけない。 例えそれが自分よりも年上で、人を導く立場にいるであろう人でも。 どこをどう走ってきたかあまり覚えていないが、なんとなく見覚えのあるここは学校区域だ。 人目につくのもまずかろうと、神楽坂はシャークティを励ましながら近くの公園へ連れていった。 適当なベンチに座らせると、絶対どこか行かないでねと念を押してから飲み物を買ってきた。「ほら、これでも飲んで落ち着いて。良い大人が泣かないでよ、対処に困るわ」「ありがとう、とても美空の同級生と思えない心配りだわ」 一頻り泣きはらしたおかげか、シャークティも少し落ち着いたらしい。 褐色の肌を羞恥に染めながらも、春日に皮肉を飛ばしながらは受け取ったジュースに口をつけた。「で、なにがあったわけシスターさん。なんだか尋常じゃない雰囲気だけど。恋愛相談はダメだった?」「先日、その恋愛相談でとある男性を激しく傷つけてしまい、その恋人に言われたんです。私の言葉に中身がないと、上辺だけの薄っぺらい言葉だと」「うわあ、なにがあったか知らないけど酷いこと言うわね。もっとも、少女漫画片手に相談受けられたら、私だってそう思ったけど」「申し訳ありません。色々と切羽詰まっていたのです」 彼女が今一度懐から取り出したそれを、神楽坂は断りを入れてから受け取った。 内容は割とありきたりで、幼馴染の男女のクラスにイケメン転校生がやって来たことから始まる三角関係のストーリーだ。 しかも不思議なことに、なんの特技もない主人公が何故かイケメンに持てまくる。 主軸は三角関係だが随所にイケメンが散りばめられ、主人公の気持ちを知っては去っていく。「これは酷い。現実はこんな甘くないのよ。所詮相手にとって私はその他大勢の一人なのよ!」「ですが先ほど、三角関係を構築中だと」「違うわよ、両想いなんて一つもない。私が勝手に憧れて、勝手にお世話になって。この少女漫画の主人公みたいに、都合の良い居心地の良いぬるま湯につかってただけなのかな」「居心地の良いぬるま湯ですか?」「ずっと何も行動しないのに憧れているだけ。私を助けてくれる優しさに甘えて、告白する気もないのにずるずると。中途半端なのよ」 口にした通り、むつきには色々と高畑のことで気を使って貰ったが実に結びついていない。 それは助けられて普段よりも高畑に近づけたところで満足してしまったからだ。 高畑のスケジュールを知った上で、那波や宮崎のようにアプローチするわけでもない。 一緒に行った夏祭りも木乃香や刹那が一緒であり、二人にお願いしてはぐれた振りをすることもなく。 近づけただけで隣に立てただけで満足し、向き合う気持ちが何一つなかった。 それで気づいて貰おうだなんて、それこそ少女漫画の主人公並みに図々しい。「決めた、私告白する。駄目でもなんでも良い、できれば叶えたいけど。バイトを辞めて、水泳部に入る。中途半端はもうしたくないから」「遠い昔の偉大な人は言いました。わずかな勇気が本当の魔法。少年少女よ大志を抱け、その一歩が世界を変える」「聖書の言葉ですか?」「いえ、偉大な技術をこの世に残した偉人の言葉です。今、ふと思い出しました」「わずかな勇気が本当の魔法、か」 本当の魔法というフレーズは少し謎だが、胸にストンとはまる言葉であった。 なにしろ今目の前にあるありふれた夕暮れの光景が、とても煌めいて見えたから。 まるで世界が変わってしまったかのように、神楽坂には見えた。 この素晴らしい世界を独り占めするのは勿体ないと、神楽坂は振り返ってシャークティの手を取った。「シスターさんも、暗い顔してないでわずかな勇気出そう」「私が、わずかな勇気をですか?」「人を傷つけて悩んでたってなにも解決しない。勇気を出して、行動しなきゃ。私もまだ実際に告白したわけじゃないから、偉そうなことは言えないけど。わずかな勇気が本当の魔法」「少年少女よ大志を抱け、その一歩が世界を変える。さすがに少女という年齢ではないですが……」 神楽坂の言う通りだと、シャークティは彼女の勇気を見て思った。 今こうしてシャークティが後悔に苛まれていても、むつきの例のアレが治るわけではない。 具体的な対処は不明だが、今シャークティができることは懺悔することだ。 自らの罪を省みて全てを告白し、それから行動を決める。 そうでなければ今日の神楽坂の懺悔の時の様に、後悔の種をまた生み出しかねない。「私は恋というものが分かりませんが、貴方の恋が幸せなものになりますようお祈りいたします」「ありがとう、シスターさん。なんだかすっきりしたし、私頑張る。懺悔に来て良かった」「ふふ、こんな私でもまだ誰かのお役にたてることが分かって良かったです」 それじゃあと、お互いに懺悔室で出会った時の沈んだ顔は止めて晴れ晴れしい笑顔で別れを告げた。 -後書き-ども、えなりんです。明日菜、小さな勇気の言葉をネギより先に聞く。シャークティ、微妙に復活。主人公、全く話にでてこずw