第十三話 姫って名がつくなら、目指せハッピーエンド 全ての授業が終わり、終わりの夕会の場でのことであった。 むつきも今朝は言い過ぎたと、恐る恐るといった感じで教室に足を踏み入れていた。 夕会と朝会は授業とは違い、礼などしない。 それなのにむつきが教卓につくと同時に雪広が号令を出した。「起立」「ん?」 何がと目を丸くするむつきの目の前で、皆が深々と頭を下げた。「ごめんなさい」 今朝の思慮の足りなさを反省して。「ああ、俺も突然不機嫌になって悪かったな。知って欲しかったのは、事故の怖さだ。座れ、お前ら。これで終わりにしよう」「では、皆さん。着席」 再びの号令で皆が座ったが、一部立ったままの者がいた。 一人は事件を引き起こしてしまった張本人でもある大河内であった。 午後から出席していたとは聞いていたが、見る限りは元気そうである。 その大河内を、親友である和泉や明石、若干席の遠い佐々木はみているだけだったが。 いや、うずうずとはしているようで、溜まらずその輪に加わっていく。 三人で少し慌てる大河内の背を押し、教卓まで連れて来た。「えっと、先生。直ぐにお礼言いたかったんだけど。休みの時間は、皆に捕まってて」「気にすんな。お前が元気ならそれで良い」「うん、先生ありがとう。助けてくれて」 それだけ伝えると、背中にいた三人を押しのけるように席に戻っていく。 救助とは言え、色々と人工呼吸したり背中を直にさすったり。 今にして思えば胸骨圧迫も、美砂より一回り大きな胸に触れそうだった。 半分以上、大河内に意識はなかっただろうが、想像ぐらいつくだろう。「アキラ、なにしてんの。先生に好きですとか、言わなくて良いの」「今言えば、皆公認になれちゃうよ」「ちょっと二人共、朝怒られたばっかやん。アキラも困ってるし、お礼だけにしようって」「感謝してるけど、好きとか……そういうのはちょっと」 明石と佐々木は何やら乗り気そうだが、和泉と大河内が止めていた。 ひそひそ話をしているつもりだろうが、しっかりむつきにも聞こえている。「明石と佐々木、お前ら社会科の宿題追加な」「げげっ、今日社会なかったのに!」「おーぼーだ!」「喧しい。自覚が足りないみたいだから、次の授業までに調べものして発表しろ。学校と言う場で、普段どんな事故が起きてるのか。何に気をつけるべきか」 二人の訴えはあっさりしりぞけ、何人か他にホッと胸を撫で下ろした者をめざとく見つける。 どう見てもあの乗りに加わらなくて良かったと思っている顔だ。 自重できた者にまで罰を与えるつもりはなく、席に着けと大河内以外の三人に言う。「鬱陶しい、しつこいと思うかもしれないが。本当にお前ら、はしゃいだりするのは良いが気をつけろよ。まあ、今日はそれぐら……っと」 そうそうと思い出し、まず一人とむつきは雪広に言った。「雪広、俺の携帯が壊れてしばらく使えん。緊急時には高畑先生、がいるかわからんから。他の先生に掛けてくれ。繋いで貰えるよう頼んどく」「はい、了解しました」 言外に、美砂と長谷川にも壊れた事を伝えておく。 長谷川は兎も角、美砂はなんですとと連絡手段の喪失に頭を抱えていた。 平日は気をつけて社会科資料室で会うか、携帯で連絡をとるしかないのだ。「先生、高畑先生何時帰ってくるの?」「本人に聞け。あの人のスケジュール、本当にどうなってるのか解らん。把握してるの学園長ぐらいじゃねえの?」「木乃香ぁ」「ほいほい、今度お爺ちゃんに聞いとく」 最近本当に姿を見ず、親友に助けを求めるように神楽坂が机にうつ伏せになりながら手を伸ばしている。「それから、大河内」「はい?」 雪広の次に自分に振られるとは思ってもみなかったようだ。 ちょっと惚けたきょとんとした顔で振り向かれる。 背が高く大人びた姿に反して幼い子供のような仕草が微笑ましい。「部長から連絡回ってるかもしれんが。三日間だけ、理由あって俺が水泳部の臨時顧問になった。色々教えてくれ。実際は、そこにいるだけなんだが。良く知らんし」「うん、わかった」「先生、なんか嬉しそう。理由って、先生が女子中学生の水着に目覚めたとか?」 大抵、微エロに繋がりそうな突込みは鳴滝姉である。 実は心の中では低身長の幼児体形を気にしているのかもしれない。「先生、そこんところどう? 最近人気上昇中、若き教師の心の花園。そういう記事なら問題なさそう」「結局ゴシップじゃねえか。俺をターゲットにしても売れねえだろ」「そう思ってるのは案外先生だけかもよ」「はいはい、良かった良かった。お前ら、ひそひそ密談すんな。そこまで飢えてない」 朝倉をあしらっている内に、多くの者がむつきを見ながらひそひそ密談している。 美砂は私で発散してるもんねと、にこにこ顔で、長谷川はやれやれといった感じだ。 他に懲りない明石と佐々木はチャンスチャンスと、大河内にピースサインをしていた。 あまりにしつこいので、知らないとそっぽを向かれていたが。「よし、今日も授業は全部終わり。部活や放課後、楽しんでこいこの野郎」「はーい」 わっと皆が諸手を挙げて、むつきの締めの言葉を喜んだ。 女子中学生である美砂と付き合いながらも、むつきは少々女子中学生というものを甘く見ていたのかもしれない。 色気のない競泳水着とはいえ、数十人が目の前に集れば壮観の一言である。 小さな胸から大きな胸まで、腰つきやすらりと伸びる足も各種色とりどり。 午前中に美砂に抜いてもらわなければ、正直危なかったかもしれない。 まずはそろった部員の前で、部長の口からむつきが臨時顧問として紹介された。 最初にむつきが顧問として行ったのは、昨晩の事故の説明である。 さすがに元顧問が謹慎中や、そのための代理とは明かさなかったが。 勘の良い者はその辺りに気づいている事だろう。 それから大河内もご心配をお掛けしましたと皆の前で頭をさげさせた。「まあ、なんにせよ無事で何よりだが。これだけは知っておいてくれ。今回、事故もあって一時水泳部が活動禁止になりかけた」 当然の事ながらなんでと声も上がり、おちつけとむつきが鎮める。「なりかけた、だ。学園長の温情に訴えて、なんとか許して貰った。大会も近いらしいしな。だが、二度目はない。小さな事故でも、今度こそ活動禁止だ」 特に今年が最後の三年生らしき生徒達が、ごくりと唾を飲み込み喉を鳴らした。 どうやって三年生かと判断したかといえば、他の子と見比べた発育具合だが。 この次期に活動禁止となれば、夏の全国大会への影響は必死である。 むつきの言葉に体を強張らせ、緊張の一つもするだろう。「だから、怪我・事故のないように。それだけは気をつけてくれ。一、二年生は三年生の言う事を良く聞くように。三年生は言うまでもないよな」 後がないという状況は必要以上に三年生を引き締めたからこその台詞だ。「じゃあ、解散。普段通り、練習してくれ」 むつきが解散すると、改めて部長が気合を入れさせていた。 大会が近い事もあるが、気を引き締めると言う意味でも。 青春だねえと懐かしき日々を思い出しつつ、眩しくむつきはそれを眺めた。 生徒達が入念に準備運動に入ったは良いが、自分が何処にいれば良いかわからない。 迷子のようにウロウロとしていると、それに気づいた大河内が近付いてきた。「先生、顧問の先生はだいたいあの椅子にいるよ」 指差されたのはプール際、大きな波が起きれば足がぬれそうな位置に置いてある白い椅子だ。 その場所から考えて、顧問の先生は生徒と同じ水着だったと考えられる。 ただし、現在のむつきは足こそ素足だが、他はいつものスーツ姿であった。 まだ頭痛は完全に治まっておらず、ふらりと倒れてどぼんは避けたい。 春もののスーツも残りこれ一着で、夏物はまだ早いし、冬物はもう熱いのだ。 椅子をプール際から逆、壁際にまで寄せてから座り込む。「ありがとうな、大河内。と言うか」「せ、先生どうし……」「体を庇いながら無言で遠ざかるな、違うっての」 大河内が昨日と同じ水着姿である事に気付き、まじまじと見つめているとすすっと逃げられた。 教室での鳴滝姉の突っ込みでも思い出したようだ。 そそられるか否かで言えば、そそられない事もない。 ただし、そこは美砂が着たらという一文を付け加える必要があった。「お前、昨日の今日で大丈夫なのか?」 純粋にそう疑問に思って尋ねる。 それに加え、ふとシャワー室での不可解な悲鳴を思い出しもした。「うん、二年生で選抜されたの私だけだから。先輩達の最後の全国大会の為にも、絶対にシード権が欲しいんだ」「大丈夫なら良いが、もう行け。怖い先輩が睨んでるぞ、だべってるなって」「人魚姫、憧れの王子様にばっかり構ってないで準備運動しろよ」「ち、違います。止めてください、先輩!」 睨み顔から一転、ニヤケ顔でそう部長が突っ込んでいた。 慌てて大河内がこの場を離れて、何度も違いますといいながら戻っていく。 泣いたり笑ったり照れたり、この二日で今まで知らなかった大河内の顔を良く見る。 なんだか一ヶ月前に駅の構内で泣きじゃくる美砂を見つけた事と重なった。(まさかね。俺は美砂一人で十分幸せだし。感謝はしてるけどって、本人も言ってたしな) そんな事よりも、ちゃんと監視しないとときっちり座り直す。 といっても、まだ準備体操中でそう慌てる事はない。 慌てる事はないのだが、むつきの意思以上に眼球が忙しなく激写してしまう。 前屈した時に突き出され、濃紺の水着に包まれた白く丸い尻の数々。 跳躍運動した時など、揺れる胸、揺れない胸、あいつ乳首立ってねと発見が多い。 腰を回して体を捻った際に、水着がよじれるだけならまだしも腰肉が余った者などマニアックすぎた。 水泳部の顧問、少しいいかもと生徒を叱れない不謹慎な考えが鎌首をもたげる。 実際、あれだけ美砂を楽しんだ下半身が鎌首をもたげそうだ。(やべ、ちょっと反応しちまった) 大人しくしてろと、足を組んで太ももで挟むように押さえつける。 自分の太ももで挟んでも嬉しくともなんともないが。(まあ、実際。水泳部は強豪らしいし、俺みたいなド素人でしかも男が無理だよな。男の先生は文系に回されやすいし) 高畑が運動は得意と聞いているが、美術部の顧問である事などが良い証拠だ。 下手に夢を見るとあとが辛いぞと、今一度真面目に監視を再開する。 そろそろ準備体操も終わりで、ゆっくり観賞が終わりだと言う事もあった。「まずウォームアップ、二十五メートル五本。何時も通り、後ろに追い越されたらレーンを降格。追いついたら昇格」 八レーンに部員達が分かれて並び、列を作り始めた。 第一レーンに大河内がいると言う事は、第一から第八までレベルがあるという事だろう。 部長の言葉を聞く限り、ウォームアップで既に競争が始まっている。 列もきちっと並んでおり、強いわけだと統率感と練習メニューから納得させられた。 これは本気でいやらしい視線を送るのは失礼だ。「始め!」 ピッと部長が笛を吹くと、まず最初の者が飛び込んだ。 シュッと水の中にその姿が消えると、しばしの潜水の後で浮かび上がり水をかき始める。 ただシュッと消えたのは第一から第三辺りまで、第四レーンからは飛沫が強い。 約三秒程経ってから再びの笛。 次に並んでいた者が飛び込み、一つ前の者を追いかけ始める。「お、次は大河内、か?」 生徒間で差別は良くないとは言え、担当クラスの生徒となるとやはり別だ。 だが飛び込み台に立った大河内を見て、違和感が駆け抜けた。 つい先程までは何も感じなかったが、じっと見つめ観察する。 白い、元々白かったがその肌は、顔色は白い。 案の定、ピッと部長の笛がなっても飛び込み台に立ったまま大河内は飛び込まなかった。 それどころか、スタートの構えさえ見せず水面をじっと見つめていた。「大河内、スタートだよ。ほら」 早くと、後ろの者が大河内の背中を押そうとする。「押すな!」 立ち上がり、突然叫んだむつきの声に驚き、幸いにもその手が止まる。 何事だと視線が集るのも構わず、むつきはスタート台の大河内へと走り寄った。 近くで見ればはっきりと解る震えを確かめ、大河内の手をとって降ろさせた。 足元もおぼつかないようで、昨日のように横抱きにして自ら離れさせる。 壁際に座らせ楽にも垂れさせ、唇まで血の気を失い震える大河内の頬を軽く叩いた。「大河内、しっかりしろ」「ど、どうしよう……先生、どうしよう」 自分の状況に多少自覚はあるのか、ぽろぽろと泣きじゃくっていた。 他の部員達も何事だと、二人を囲むように集ってくる。 その部員をかきわけ、水泳部の部長が事情を聞きにやってきた。「先生、大河内がどうかしましたか?」「わからん、わからんが……心当たりはある。大河内、お前昨日あの時ちゃんとシャワーを浴びたか?」 首を横に振られ、やっぱりかと思った。 シャワーの水でさえ怖かったのだ、プールの水の中に飛び込めるはずがない。 溺れた事によるトラウマか、これは少しむつきの手にはあまる。 特に部長を筆頭に何人かも大河内の事情に気付き始めていた。「これ、まずいんじゃない。大会、もう二週間しか」「大河内なしで……シードなんて取れるわけ」 三年生のある意味情けない台詞に、大河内がびくりと肩を震わせた。 正直な話、腹は立ったが怒るわけにも行かない。 せめてと努めて明るく振舞うぐらいだ。「よし、お前らは練習を続けろ。やっぱ、昨日の今日だ。大河内も体が回復しきってないみたいだ。休ませて様子を見よう。部長、ほら練習練習」 大河内を庇うように、両手を叩いて部長にそう伝える。 上手く意図を汲んでくれと願うと、伝わったようだ。 力強く頷かれ、むつきの望んだ通りに動き出してくれた。 さすが、強豪チームの部長ともなると、他の生徒より頭一つは出来が違う。「はい、ウォームアップ続けるよ。皆、並びなおし。一度泳いだ人は列の後ろね」 その統率力を少しは分けてくれと願いたくなる力で、他の部員を纏めていく。 部長の声に促がされて部員たちもレーンに並びなおす。 その間にむつきはなんとか大河内を起こして、連れて行った。 といっても外や遠くではない。 更衣室の扉の前にまで連れて行き、着替えて来いと指示を出した。「大河内、着替えたら今日はもう帰れ。とりあえず、正式な顧問が復活するまで」「見学、します」「なんでそこだけ頑固かな。だったら、俺のそばにいろ。ふらつかれると、不安だ」「はい」 更衣室の前で待ちながら、プールの監視も同時に行なう。 といっても、あの部長がいる限り大丈夫な気がしてきた。 もはや彼女の方が半ば顧問のように、指示を出したり、フォームの指摘をしたり。 むつきのそんな視線に気付いたのか、振り返り大河内をお願いしますとばかりに頭を下げられた。「完璧か。麻帆良って雪広やら、超やら。完璧な奴が多すぎ。こっちは楽だけど……」「先生、お待たせ」 水着を抜いだせいか、それだけでも精神的に解放されるようで顔色はそこまで悪くない。 だが歩き出したむつきのスーツの腕部分の袖をそっと掴んできた。 まるで昨日、溺れた直後にそうしてきたように。 体は回復しても、まだ心の方が全然回復していないらしい。 その大河内を連れて、顧問用の椅子にまで戻っていった。 むつきがその椅子に座ると、右手のやや後方に体操座りで座り込んだ。 なぜやや後方かという理由は、椅子の隙間からむつきのスーツの裾をつかむ為らしい。 大変可愛らしい行為だが、その表情は真剣で食い入るように皆の練習を見ている。 水が怖いのに、その心は水泳から全く離れてなどいなかった。「遠くから見てる分には怖くないのか?」「それもあるかも。ただ、こうしてると怖いって感情より、不思議と安心する。先生言ったから、私が泡になっても掴んでくれるって。泡の底からでもって」 強烈なトラウマも植えつけられたが、救いの言葉も植えつけられたらしい。 なんかパターン入った気がすると、少々の嫌な予感もするが。「それなんだが、なんで泡なんだ。さっきも部長がお前の事を人魚姫って呼んでたが」「えっと、男の人に話すのは恥ずかしいけど。去年、水泳大会で新人賞を取った時に、麻帆良の人魚姫って呼ばれたの」「なる程、それで人魚ひ……大河内、もう少し横に座ってくれ。もしくは場所少しあけるから、椅子に」「先生?」 人魚姫というキーワードを思い浮かべつつ、大河内へと振り返ったのがまずかった。 本人の気が緩んでいた事もあるが、制服のスカートで体操座りである。 大人びた格好とは裏腹な、可愛らしいクマさんパンツが見えた。 ある意味で、大河内らしいと言うべきか。 美砂は大人びたものか、勝負下着とあまり可愛いものは履かないので新鮮だ。 ただ本人はそんな事が思いもよらないらしく、小首をかしげていた。「天然か。可愛いクマさんがこんにちはしてるって言ってるんだ、この野郎」「あっ」 即座に右手でスカートをおさえる大河内だが、それでも左手は離さない。 がっちりむつきのスーツの裾を掴んだまま、相当な重傷だ。 いや、さらに腕の肉ごとスーツをつまんで抗議だけは忘れなかった。「痛い、お前結構力強いのな。本当痛い、ごめんなさい。許してください」「先生、皆をエッチな目で見たらもう一度だから」「いや、見てねーし?」 若干声が裏返ってしまい、余計に疑惑の目を向けられてしまった。「とりあえず、さ」 だから、お喋りはここまでと話題を本筋に持っていった。「大河内、お前しばらく様子見ろ。今晩、風呂で試してみろ。何処まで駄目なのか。あっ、絶対に一人で試すなよ。パニックになって風呂で溺れたくないだろ。明石や佐々木、和泉も呼んどけ」「うん、わかった。先生……もう少し、こうしてて良い?」 袖ぐらい、好きなだけ掴んどけとだらだらお喋りしながらその日の部活は終了していった。 結局、その試みは失敗と終わったらしい。 九時少し前に寮に帰って来て直ぐに、瀬流彦からむつきへと連絡が回ってきた。 経緯その他は全て省き、大河内が大浴場で暴れたと。 幸い、クラスメイトも多くいたらしく、長瀬や古が取り押さえたらしい。 その暴れた本人が泣きながら、むつきの事を呼んでいるそうだ。 たまには動かしてあげないとと言った瀬流彦から彼の愛車とキーを受け取り一路女子寮へ。 少々速度制限を越えたりしながら女子寮へと辿り着くと、クラスメイトが勢ぞろいであった。「おい、大河内はどうしっ。ぐふぅ」 車を降りて聞いた声が終わらないうちに、黒い何かが胸の中に飛び込んできた。 体当たりともとれるそれを放ったのは、大河内その人だ。 文句の一つも出かけたが、胸の中で震えられては叱る事もできない。「で、誰が何をしたんだ? 部活後に分かれた時は、ここまで酷くなかったぞ」 携帯さえあれば美砂か長谷川に聞けたのだが。 美砂は色々と膨れ中で、長谷川も肩を竦めるのみ。「ごめんなさーい。アキラ、許してぇ」 申告したのはちょっと泣いている佐々木であった。「あんな、アキラが水が駄目だって聞いて皆で大浴場に行ったんよ。けど、水が駄目でもお湯ならってまき絵がアキラを押して」「そんな深くないのにパニクッたアキラが大暴れして」「偶然その場に居合わせた拙者と」「私が取り押さえたアル。本能的に暴れたアキラは中々に手ごわかったアルヨ」 和泉から明石へ、さらに長瀬に古と流れるような説明台詞であった。 練習してないよなと疑いたくなるほどに。 実際そんな余裕はなかったろうが、お風呂で良かったとも思えた。 部活中、あの時大河内の背を押そうとした部員を止めなければ同じ事がプールで起きていたはずだ。 その時、むつき一人であばれる大河内を取り押さえられたかどうか。「とりあえず、大丈夫だから落ち着け大河内。お前以上に佐々木が泣いてるぞ」 友達思いな大河内の性格を少し利用して、「アキラぁ、ごべん」「う、うん。もう落ち着いたから。怒ってもないし。まき絵、泣かないで良いから」 プールの時のようにむつきのスーツの袖を掴みながら、佐々木に手を伸ばした。 慰める立場が逆にも思えるが、頭を撫でられ佐々木がしゃくりあげる。 むつきから大河内へ、さらに佐々木へと手が繋がり変な構図であった。「どうでも良いけど、アキラはなんで先生を呼んだの? こういう場合、まき絵は抜きとしても亜子とかゆーなの出番じゃない」 少々刺々しい言葉を放ったのは、美砂であった。 どうでも良いと前置きしつつ、かなり気にしている様子である。 彼氏と連絡が途絶えている間に、特定の女の子と親しくされれば不機嫌にもなるだろう。 ただ、このような不特定多数がいるような場ではもう少し自重して欲しいが。 長谷川もあくびをし興味なさげを装っているが、内心はらはらしている。 風呂上りというわけでもなさそうなのに、その頬に一筋の汗が過ぎっていた。「たぶん、条件反射って奴だ。昨日、溺れたのも強烈な印象らしいが、その後に俺に言われた台詞も印象的だったみたいでな」「ほほう、それは興味深いですにゃあ」 にやにやと笑う明石は捨て置き、弁解するように特に美砂に向けて言った。「大河内、水泳部で人魚姫って呼ばれてるみたいで、溺れた時に泡みたいに消えるんだって思ったらしくてな。俺が泡になっても、何度でも掴んでやる。泡の底からでも何度でも引きずりだしてやるって」 言い訳の仕方を間違えた事は、美砂の反応から明らかであった。 浮気かこの野郎と周りをはばからず、剣呑な瞳をむつきにむけていた。 長谷川も言うか普通とばかりに、深い溜息をついている。 だがその二人の認識は決して間違いではなかったようだ。「凄い……また不謹慎って怒られるかもだけど演劇みたい。人魚姫と王子様だ」「おぉ、久々のラヴ臭が。アキラ、あんた既に先生にぞっこんラブじゃないの。絶対そうだって、パニックになった時に先生を呼んだのが良い証拠だって!」「美砂ののろけは正直腹立つけど、大河内の控えめな恋は面白い。いいぞ、もっとやれ!」「人魚姫と王子様。お爺さんの乙姫、浦島話並みに凄いです」 村上に始まり、もっとも火を注いだ早乙女、知らず親友の恋敵を応援する釘宮。 それからこそこそっと呟いた宮崎等々。 もう既に九時を回ろうと言う時間を前に、寮の前で大騒ぎであった。 大河内は皆に詰め寄られ必死に違うといっているが、むつきも大いに困っていた。 詰め寄る皆の輪に加わらず、こめかみを引きつらせている美砂である。 凄くややこしい、正式に付き合っている自分達は必死に隠しているのに、そうでない大河内とのありもしない関係が歓迎されるなど。「お前ら、夜に騒ぐな。いいから、部屋に戻って寝ろ。大河内も、誰か部屋に」「せ、先生。お風呂、入りたい。昨日はお母さんに濡れタオルで拭いてもらったりしただけで。怖いけど、先生が手を握っててくれたら」「お前もなに言ってんの!?」 一先ず皆を追い返し帰ろうとしたところを、手を握られ止められた。 プールで抓られた時も思ったが、凄く力が強くて振りほどけない。「くそ、どいつもこいつも!」 そう叫んだ瞬間、一瞬目の前がぐらりと揺れた。 頭に血が上りすぎたかは不明だが、この騒ぎを鎮める方が先だ。 これで騒ぎの原因が大河内ともなれば、今度こそ水泳部が活動禁止になりかねない。 そうなってしまえば、もはや大河内の居場所は水泳部になくなってしまう。 大声を出さずにしかも騒がしい彼女達を静かにさせる方法などあるか。 何かないかとぐるぐる考える中で、もはや怒り心頭の美砂と長谷川が見えた。 美砂ではない、長谷川である。 その時、記憶の中で長谷川をどん引きさせたとある行動が思い浮かんだ。「お願いします!」 頭の中で歯車が合致した案とは、土下座であった。 スーツが汚れるのも構わず地面の上に、勢いをつけ過ぎて額をぶつける程に。 狙い通り自尊心を投げ捨てる事で、一瞬にして周りが静まり返った。「頼むから騒がないでくれ。限界なんだよ、後がないんだよ。今何か問題起こしたら水泳部は活動禁止。自分のせいでそうなったら大河内がどうするか、わかるだろ?」「せ、先生いいよそこまで。私が、水泳部を止めれば……もう、私泳げないし」「簡単に止めるって言うんじゃねえ、この野郎。人魚姫が泳ぐの止めたら、そこでお話が崩壊するだろ。姫って名がつくなら、目指せハッピーエンド」「真面目な場面で非常に無粋ですが。人魚姫はどちらかというと悲恋です」 本当に無粋だこの野郎と綾瀬の突っ込みでむつきは立ち上がった。「うるせえ、実は人魚姫のお話なんて知らねえんだよ。俺は乙姫だ。別の話出身なんだ悪いか。兎に角、お前らは部屋に戻って寝ろ」 誠意が伝わったようで、皆ばつが悪そうに主にアキラにちゃかした事を謝ってから戻っていく。 同じ日に二度怒られてむつきに謝り辛いという事もあるだろう。 何かを言おうとチラリとむつきを見ては、ペコリと謝るぐらいで精一杯の者もいる。 むつきとしても、今は速やかに各自部屋に戻ってくれればそれで良い。「私も部屋に。先生我が侭言って……あっ、おでこ。血が」「お、石か何かで切ったか? かすり傷だ、それより。お前まで帰ってどうする」「え?」「風呂、入りたいんだろ。女の子だもんな。それと良い考えを思いついた。良いところに、連れて行ってやるよ」 戸惑う大河内を、瀬流彦から借りた彼の愛車の助手席に押し込んだ。 瀬流彦はまだ誰も乗せた事ないけどと笑っていた事もあったが。 心の中で謝っておく。 生徒とは言え、借りた自分の方が先に女の子を乗せてしまったと。 星空の向こうで、瀬流彦が何時もの笑みを浮かべている気がした。 それから運転席に回ろうとすると、周囲を気にしながら誰かが寮から出てくる。「先生」 かすれるような、けれど確実に聞き取れたその声は美砂であった。「タオルと絆創膏、使って」「お前、怒ってたんじゃ……」 その二つを受け取りつつ、むつきも声を潜めて返す。「怒ってたけど、騒いでたのは皆だけだもん。先生の目、私の大好きな強い瞳だった。先生が先生してる時の目だった」「そっか、ありがとうな。それと、理由あって大河内にひかげ荘教える。正確な場所までは教えないから、勘弁してくれ」「ん、私は世界一可愛い彼女だから我慢する。アキラの水恐怖症、直してあげるつもりでしょ。それに、お風呂に入れない気持ち解るし」「大河内がいなけりゃ、抱きしめてた。んじゃ、行ってくる」 せめてと美砂とハイタッチし、むつきは今度こそ運転席へと回った。 美砂から借りたタオルで額の血を拭き、バックミラーを見つつ絆創膏を張る。 この程度なら、関係を疑われるまでもないだろう。 愛の力を額に貼り付け、準備は万端。「大河内、飛ばせば三十分ぐらいで着くから。もう少しだけ、我慢してくれ」「うん、もう我が侭言わないって決めたから」 大河内の了承を得て、むつきはギアを入れてからアクセルを踏み込んだ。 -後書き-ども、えなりんです。それにしても主人公、順調に正常な判断を失い中。あとあと千雨が突っ込みますが。色々アウトな行動をしっぱなし。さて、順調といえばアキラもなんですが。一応は自分で望んでひかげ荘にIN。そして次回が偶数話ともなれば……分かりますね?人魚姫なのに蜘蛛の巣ことひかげ荘に。その内心はつり橋効果どころか、刷り込まれてます。恋って勘違いだから良いよね。それでは次回は土曜日です。