第百三十三話 今日からライバルって事ね ご馳走様と普段の元気さの欠片もない声で神楽坂は呟いた。「明日菜、もうええの?」「うん」 木乃香がまさかと言いたげに尋ねたのには理由がある。 神楽坂のお茶碗の中には、まだご飯が半分ほど残されていたのだ。 他の汁物やおかずも箸で少しつついただけで、食べたというより小鳥がついばんだぐらい。 普段の神楽坂ならば、これぐらい軽くぺろりと平らげお代わりまでするはず。 昼間は元気であったし、木乃香が顔色を見たところ血色が悪いということもない。 ただし、明日菜の様子がおかしいことに心当たりが全くないわけではなかった。「もしかして、今からもう緊張しとるん?」「そうかも。お腹が空いてないわけじゃないんだけど……なんだか、食欲がわかないの」 木乃香の心当たりには、当の本人である神楽坂も思い至っている様子であった。 土曜日である明日は、水泳部の秋の新人大会である。 つまりは明日菜の水泳部員としての正式なデビュー戦なのだ。「考えてみれば、こういう試合みたいなのは初めてで」「そやな、美術部では期日までに物を仕上げれば良いけど。運動部は一発本番やもんな」「一発本番……」 木乃香の言葉でさらに余計なプレッシャーが加わったように神楽坂が肩を落とした。 もちろん、試合に対する不安がないわけではないが、本当の原因はまた別にあるのだろう。 この新人大会の結果次第で、特待生になれるかどうかが決まる。 それだけならまだしも、今回は特定の誰かさんのお世話になり過ぎた。 今まで考えなかった方がおかしいのだが、結果が悪かったらどうなるのだろう。(良い結果が出せなかったら……) ただ想像しただけで、スッと血の気が引く音が聞こえた気がした。(またバイトで忙しくなるから水泳部は辞めなきゃならないし、その前に新しいバイト探さないと。辞めなきゃいけないんだ。辞めたくないな) 悪い考えがグルグルと廻るが、それはそれで一番考えたくない事からの逃避でもあった。 むつきは神楽坂ならと、この話を持ってきてくれたのだ。 その期待に答えられなかったとして、小言の一つも言って来る様な人でない事は知っている。 それでも今、神楽坂は何としてでもその期待に応えたい、応えなければと一種の強迫観念があった。 ちゃんと期待に応えて、またあの声と笑顔で神楽坂と言って欲しい。 もしも応えられず、ため息の一つでもつかれてしまえば、立ち直れない気がする。 チラリと見つめた時計の時刻は、午後八時、十二時間後には学校での集合時刻であった。「明日菜、ほんま大丈夫?」「木乃香……だめ、かも。おかしいな、今日の部活中だって全然こんなことなかったのに」 こんな気弱気な明日菜、しかもそれを表に出すところなど木乃香は初めて見た気がした。 思わず寄り添おうとちゃぶ台に手をついて立ち上がろうとした時である。 聞き覚えのある携帯の着信メロディが流れ、明日菜のみならず木乃香もビクリと体を震わせた。「びっくりした、今の。明日菜の」 驚き体を竦めたものの、それどころではない神楽坂は動く気配はない。 彼女を気遣いつつ、代わりに木乃香は勉強机の上の携帯電話を取りに立ち上がった。 不安そうな神楽坂に寄り添うより優先させたのは、予感めいたものでもあったのかもしれない。 一言断ってから神楽坂の携帯電話のメールの差出人を確認する。 やはり予感はただしかったようだ。「明日菜、乙姫先生からメールやで」「え? 先生から?」 液晶画面を神楽坂に向けるように差し出され、その差出人の名前が目に飛び込んで来る。 携帯電話を受け取り、縋る様な気持ちでメールを開いた。 送られてきた文章を視線で読み上げていく。 時間にして約一分、ついでにもう一度それを読み直し、さらにもう一度読み直す。 最初は信じられない面持ちだったが、読み直す度に唇の端がぴくぴくと持ち上がっていた。「先生、なんて?」「あっ」 肩越しに携帯電話を覗き込まれ、思わず明日菜は胸に抱く様に隠してしまった。 心なしか頬が熱く赤く、つい先ほどまでの悲壮さは何処へやら。 心配したえと頬を膨らませる木乃香を前に、全部が全部秘密とはいきそうにはない。「その、ほら……私以外の一年生にもデビューの子が多いから、明日は私だけにずっと構ってられない的な」「せやな。けど、先生の事やからそれだけやないやろ」 下手なごまかしは、木乃香の前では通用しないようだ。「もし結果が駄目でも、水泳部を辞めるとか考えなくて良いとか。他の方法はいくらでもあるとか」「うんうん。それで、それで」 それでも気恥ずかしさから悪あがきを試みたが、にこにこと何時もの笑みを向けられ観念する。「あー、もう。でも明日は、私の事を一番応援してるって!」「そっかそっか。明日の大会の間は、先生にとって明日菜が一番なんか」「ちが、違くないけど。顧問として、そういうアレだから。変な事言わないでよ。木乃香が思ってるのと違うから」「恥ずかしがらんでもええやん。明日は、明日菜が先生を独り占めやな」 えいっと頬を突かれ、ある意味で明日菜以上に木乃香が上機嫌である。 木乃香もちょっとアブノーマルな恋愛に足を突っ込んでいるが、恋話には目がない。 ただただ否定するだけでは逃げられないと、明日菜はちゃぶ台の上のお茶碗を手に取った。 可愛い、可愛いと頬を突いて来る木乃香へと、お茶碗を突きだしながら言った。「木乃香、お代わり」「お代わりて、まだ残っ」「んぐっ……ん、ごく。はい、空っぽ。お代わり!」 食欲不振なにそれとばかりに、神楽坂はお茶碗に残っていたご飯を放り込んでは飲み下した。「良く噛んで食べなあかんえ? それでお腹壊したら、もとこもないやん」「大丈夫、そんな柔じゃないから。明日はぱぱっと勝って、先生に心配し過ぎって言ってあげるわ」 その為の栄養補給とばかりに、お代わりを貰った明日菜はおかずにも手を出し始めた。 何時もの調子、ちょっと前のめりだが先程までの調子よりは断然良い。 木乃香は受け取った茶碗にこんもりとご飯をよそって渡してあげた。「はい、明日菜。折角、ゲン担ぎでとんかつにしたんやから。たくさん食べるえ」「あっ……全然気づいてなかった。まったく、木乃香は良いお嫁さんになれるわ」「明日菜が貰ってくれる?」「そこは刹那さんじゃないの?」「私は欲張りやから、せっちゃんと明日菜の両方にお婿さんになって欲しいえ」「はいはい。木乃香のご飯は何時も美味しいから、いくらでも貰ってあげる」 言われてみればと見おろしたちゃぶ台には、トンカツと千切りのキャベツ。 お味噌汁がさり気にトン汁なのは、豚肉が少し余ったので放り込んだ結果か。 改めて、ちょっと余裕なかったなと神楽坂は先程までの自分を思い返した。 そして、そんな自分をメール一通で元通りにされた事に頬が熱くなる。 いや、それは単純すぎる自分に対してか。(副担任で顧問なんだから応援するのは当たり前だし。当たり前の事を当たり前にわざわざメールされて、拍子抜けって言うか……別に、そういうんじゃないし!) 別にときめいてなんかいないと心の中で自分の言い聞かせる。「でも、明日菜は乙姫先生のことも大好きやしなあ」「ぶっ、ごほ……ぅっ……木乃香!」 そんな小さな抵抗は、木乃香の一言で脆くも崩れ去るわけだが。 決戦前夜とも言える金曜の夜は、神楽坂にとって普段より少しだけ騒がしく老けて行く事になった。 秋の新人大会の当日、むつきは大忙しであった。 予想通りというべきか、予想以上というべきか。 二年生はもう何度も試合を経験しているし、秋の新人大会は二度目である。 彼女たちは大丈夫だったが、主にむつきを忙しくさせたのは、一年生の面々であった。 緊張から何度もトイレに行くのは良いが、そのまま迷子になって戻ってこれない子。 自分の出番が分からない、または泳ぎ切れるか不安で泣きついてくる子。「良いか、一年生は絶対に一人でトイレ行くなよ。先輩について行って貰え。あと出番は確認してからだぞ。良いな、絶対だぞ!」 小瀬や亜子といった補佐がなければ目を回していたことだろう。 地味に活躍したのは、一年生のまとめ役であるのりりんこと朝日のり子だったりした。「先生!」「今度はなんだ?」「明日菜、明日菜の番やて」 亜子に呼ばれ少し声を大きくして問い返すと、ある方向を指さされた。 飛び込み台に向かう集団の中に、確かに神楽坂の姿があった。 どうやら忙し過ぎてむつきも少なからず周りが見えなくなっていたらしい。「明日菜ちゃーん!」「お前ら、声が小さい。そーれ!」「明日菜ちゃーん!」 そんな神楽坂に飛ぶのはやけに野太い声援であった。 若く甲高い黄色い声が多い中で、目立つどころか異様とも言える声色である。 だがそんな声に対して神楽坂は嬉しそうにぶんぶんと手を振り返していた。 おかげで声援なのか歓声なのか不明な声が一際轟く。 そんな彼らは、以前に神楽坂がアルバイトした酒呑の工事現場のおじさんたちであった。 神楽坂の言葉を借りるならば、渋い叔父様たちだろうか。 ちなみにそこには酒呑の姿もあった。「これ、完全に持っていかれた。ピチピチのチアガールよりおじ様とか、明日菜はやっぱレベル高いわ!」「前からそうじゃん。てか、アンタらもレベル高まってんだけど」「にゃはは、否定しきれない。明日菜、がんば!」 もちろん二-Aの面々もあったが、完全にだみ声に飲まれてしまっていた。 毎度のことながら気合い入れて応援に来たチア部の美砂や釘宮は白け、桜子も諦め気味だった。「明日菜ちゃん、変な意味で目立っちゃったのに余裕みたいね」 小瀬が呟いた通り、声援に対して軽く手を振り返す程には余裕が見て取れた。 昨日のメールに対する返信は特になかったが、余計なお世話だったか。 手を振り終えた明日菜はそのまま飛び込み台に立った。 にこやかな笑みは鳴りを潜め、真っ直ぐにゴールの対岸を見つめている。「明日菜さん、頑張ってくださいまし!」「明日菜、願掛けはばっちりや」 あやかや木乃香といった親友二人の声援も耳に届かないぐらいに集中している。 肩を持ち上げるぐらい大きく深呼吸をする様子に、特別な力みなどは感じられない。 適度な緊張感と共に飛び込み台の上で構え、スタートの合図と共に飛びこんだ。 まだまだ練習不足か、入水した時のしぶきは八人の中で一番大きい。 しかし水の底から浮かび上がって来た数秒後。 先頭に立って一番に水を掻き出し始めたのは、神楽坂であった。 頭一つ分ぐらい速い、そう思っていたのも束の間、後続をどんどんと引き離していく。「あれ?」 そのままの勢いでレースも中盤に差し掛かった時、何かに気づいたのは小瀬であった。 見る見るうちに神楽坂は二位との差を身長一つ分、さらにまだ広げている。 きっと他の学校の関係者たちは、こう思っていたことだろう。 どれだけ速くても、麻帆良の人魚姫ではないのだからここからペースが落ちるだろうと。 しかし、小瀬を始めとして水泳部の子たちは知っている。 神楽坂がその麻帆良の人魚姫を毎日追いかけ続けていることを。 麻帆良女子中の二-Aの子たちは知っている。 神楽坂が体力お化けであることを。「ちょっ、明日菜ちゃん」「超える」 嘘でしょと言いたげな小瀬の呟きの後で、アキラが確信めいた面持ちで呟いた。 ざわつく試合会場、少しずつではあるが驚きが広がり始めている。 そして明日菜がぶっちぎりで対岸の壁にタッチした時、そのざわつきが潮が引く様に消えた。「え、なんだ。なんで、神楽坂がなんか反則したか?」「ちゃうよ。先生、アキラの記録ぐらい知っとこうよ」「大河内の記録?」「秋の新人大会の大会記録、ついさっきまではアキラだったんだけど」 わっと試合会場全体が驚きを大いに含んだ歓声に包まれた。 そして当の本人は、突然の事に何が起きているのか良く分かっていない様子だ。 キョロキョロと周囲を伺い、意味が分からず助けてと此方へ視線を向けて来ていた。「アキラや他の子の事はこっちで見てるから、先生行ってあげて」 小瀬にタオルを持たされてから背中を押され、私が何をしたのよとパニック中の神楽坂を迎えに行く。 むつきの迎えに気づいた神楽坂は、明らかにほっとした様子であった。「先生、なに。なんなのこれ?」「良いから、一先ずあがれ」 真実を知りたがる神楽坂であったが、上がらせることを優先する。 周囲はざわついてはいるが、まだ次の試合が押しているのだ。 不安げな神楽坂の手を掴み、やや力任せにプールサイドへと上がらせた。 タオルを頭から被せるようにし、隅っこへと下がらせる。「それで先生……」「先に拭けよ。ほら、貸してみろ」 プールサイドの隅で帽子を脱がせた神楽坂の髪を拭いてやる。「ちょ、ちょっと先生恥ずかしいから自分でやるわよ。それに今日は私にあんまり」「大会記録だってさ」「へ?」 タオルの隙間から見上げて来た顔は、言われた意味がわからないという呆けたものだ。 むつきだってそもそも秋の新人大会の記録はおろか、それがアキラだとも知らなかった。 さらに水泳に関わり出してから時間が短い神楽坂が知るはずもない。 だから改めて神楽坂の記録を伝え、それが大会記録であるとも教えた。 まだ理解は半分ほどだろうか、軽く唸り出した神楽坂の頭をタオル越しに触れて言った。「十分過ぎる程の成果だろ。全国区のアキラの記録を抜いたんだ。入賞するに越した事はないけど、もう大丈夫だろ。たぶんでしかないが」「あっ……特待生」 そう呟いてから、神楽坂は軽く周囲を見渡した。 その件は水泳部員には秘密なので、それを思っての事だろう。「終わっちゃいないが、結果を見てみれば余裕だったな。全然、緊張した様子もなかったし」「そっ、そうよ。心配しゅ過ぎ。先生の方が緊張してたんじゃないの?」 よし言ってやった、ちょっと噛んだだけど言ってやったと内心でガッツポーズだ。「かもな、今回の件ではお前のことばっかり考えてたし」 ただし、強烈なカウンターがむつきから意図せず放たれてきた。 それはもう、思わず春の頃の様に反射的に殴ってしまいそうなぐらいに強烈だった。 慌てて真っ赤に火照る顔を悟られないようタオルを被り直し、髪を拭く真似をする。(な、ななんでそういうこと。ばっか、ばっかじゃないの私。違うの、先生は特待生のアレをそれして……顔が熱い痛い、にやけ。なんでニヤけてんのよ、もう!) タオルの奥に隠れるのに必死で、神楽坂は手を引かれ歩いていることに気づいていなかった。 そもそも学校ごとに集合場所は決められているので、何時までのプールサイドにはいられない。 そんな神楽坂を我に返したのは、再び巻き起こった試合会場の大歓声であった。 何事とタオルの奥に隠れた神楽坂を引っ張り出す程に大きい。 驚いたのはむつきも同様である。 二人して今度は何だとキョロキョロしていると、プールから誰かが上がって来た。 つい先ほど、神楽坂が大会記録を叩きだしたコースからだ。 帽子を脱ぎ、濡れた髪を軽く振り払ったのは、アキラであった。 軽い足取りでプールサイドに立ち、周囲の視線を集めながら、二人に歩み近づいて来る。 なんだか貫禄というか、強者の余裕の様なものが見えた気がした。「アキラちゃん、ちょっと濡れてるけど使う?」「うん、ありがとう明日菜」 神楽坂から受け取ったタオルで軽く髪を拭き、そのまま肩にタオルを掛ける。 そして一呼吸置いてから、アキラは明日菜を真っ直ぐ見つめて言った。「明日菜が抜いた記録は、一年前の私だから。負けないよ」「へ?」「マジか……」 何のことだと一足先に察したむつきが見上げたのは、アキラの記録が移る電光掲示板だ。 いやいやと、半笑いで目を擦り再度見上げてみても結果は変わらない。 つい先ほど、明日菜が塗り替えたはずの大会記録が、再びアキラに塗り替えられていた。 マジかというか、何処の漫画の世界かと思わずアホかと言いたくなった。「負けないもん」 しかし何故に二度も、しかも二回目は頬を膨らませてちょっと可愛く言ったのか。「じー……」「あっ、これは違う」「痛って、腕が抜ける!」 アキラの視線が繋がれた手にある事に気づいたのは、神楽坂の方が速かった。 ブンッと音が出る程に荒々しく解かれ、両手をふりながらアキラに弁明をはかる。 実際、水泳だろうが恋愛的意味でもアキラがぶっちぎりなわけだが。 特に後者に関しては神楽坂も知らないのだから、必死であった。「お前ら、じゃれるのも良いけど決められたスペースでやりなさい」「ちょっと、事の発端が言うセリフ?!」「えっと、そうだ。わー、タオルで前が見えない。困っちゃった」「転ぶから、普通に止めなさい」 どうやら神楽坂が手を引かれていた現場を見て、理由は一応知っていたらしい。 見えない見えないとコントを始めたアキラは、頭をコツンと叩いておいた。 今晩はちょっとアキラを多めに構ってやらねばならないかもしれない。 明日は孤児院の子供たちを連れてハイキングの予定なので、あまり腰に負担を掛けたくないのだが。 キャンキャン、わんわん煩い二人を連れて、むつきは小瀬と亜子たちがいるスペースへと戻っていった。(でもまあ、神楽坂の件はひとまず一段落だな) 少しだけ肩の荷が下りたと、思ったむつきであったが。 まだまだ初めての子は多い為、直ぐに忙殺されることになる。 ちなみに試合の最終的な結果はアキラが一位、ペース配分が分からず毎回全力だった神楽坂は自慢の体力も及ばず途中でバテて四位と表彰台には一歩届かなかった。 更衣室の中にあるベンチに、水着から着替えもせずに神楽坂は座り込んでいた。「ああ、もう。試合よりも疲れたぁ」 更衣室の中には既に神楽坂と、今まさに水着を脱ごうとしているアキラしかいない。 その理由は、大会終了後に麻帆良の地方紙の取材を受けたからだ。 アキラは元々全国区の選手なので当然だが、そこに惜しくも表彰台を逃した神楽坂も誘われた。 色々と衝撃的なデビュー、大会記録合戦だったので良い話のネタだったのだろう。 もっとも、慣れているアキラは兎も角、初めてづくしの神楽坂はたまったものではなかった。「明日菜、はやく着替えないと体冷えちゃうよ?」「うん。アキラちゃんいつも試合の後はこうなの?」「今日ほどじゃないけどね。んしょ」 肩紐を外しながらアキラが思い出したのは、去年の今頃だった。 一年生にして大会記録を叩きだし、麻帆良の人魚姫と呼ばれる切っ掛けとなった取材だ。 今にして思えば凄く焦って何を喋ったのか全く覚えていない。 あれから度々取材を受ける事があり、慣れたといえば慣れたのだろう。「ねえ、明日菜」「ん? どうしたの?」 着替えもそこそこに、アキラはまだベンチで足を投げ出している神楽坂に振り返った。 小首をかしげる神楽坂を前にとある気持ちが沸き上がり、うんと納得する。「明日菜が水泳部に入ってくれて良かった」「ど、どうしたの急に?」 やや唐突なアキラの言葉に、照れる以前に戸惑った様子だった。「ああ、ごめん。わけわからないよね。えっと、元々嬉しかったよ。明日菜が水泳部に入ってくれて、毎日一緒に泳げて楽しかったし。でもね、今日はちょっと違って」 慌てて両手を振って謝りながら、しどろもどろにアキラは続けた。「明日菜が私の記録を抜いた時、素直に凄いって思った。でもね、同時に負けたくないって思った。あっ、違うよ。先生の事じゃなくて、水泳の事」「うん、それは分かるけど。話の流れ的に」「だよね。私ね、水泳で負けたくないって思ったの初めてなんだ。夏の大会の決勝で実力が出せずに六位に終わって泣いた事もあるけど、負けたのが悔しかったわけじゃない。今まではずっと泳げれば、速く泳げれば満足だった。今日みたいに負けたくないって思ったのは初めて」 今までアキラはただただ水泳が、泳ぐことが大好きなだけの女の子だった。 周囲は彼女を水泳選手として見ているが、彼女自身はそう思っていなかった部分がある。 好きに泳いで結果が勝手について来ただけ。 しかし、今日は泳ぐ事よりも先に結果が欲しいと思った。 特定の誰かと比較して、彼女よりも神楽坂よりも速く泳ぎたいと思わされた。「だから明日菜のこと、ライバルって思って良い?」「なんか、アキラちゃんらしい」 座っている自分に対して、ねっと伺う様に言って来た事に神楽坂は笑みがこぼれた。 一瞬にして慣れない取材で蓄積した疲れが吹き飛んだ気がして立ち上がる。「それじゃあ、今日からライバルって事ね。まだ一度も勝ったことない私で良ければ」「大丈夫、これからもずっと負けないから」「それライバルって言うの、負けっぱなしは性に合わないんだけど!」「でも負けて上げない」 大人しそうに見えて意外と負けず嫌いなアキラと、根っからの負けん気が強い明日菜。 似ていないようで根っ子の部分は似た者同士かもしれない。 どちらともなく笑みを深めて、笑い合う。 思い出のアルバムの中に輝く名シーンの様な光景なのだが、やっぱり二人も二-Aの一員である。 そろそろ突っ込んでも良いかなと、やや頬を染めた神楽坂がアキラへと指摘した。「アキラちゃん」「なに?」「ずっとおっぱい丸出しなんだけど」「あっ……」 水着の肩紐を外して脱ぎだした途中で話し始めたアキラの自業自得なのだが。 思い出のアルバムの中でアキラはずっと水着は脱ぎ掛けで、おっぱいがぷるぷる震えていたのだ。 女同士とは言え、ライバル宣言の間もとアキラは胸を隠して神楽咲に背を向けた。「見た?」「アキラちゃんぐらい大きいと自然と目に入っちゃうわよ」「明日菜とそんなに変わらないと思うよ。たぶん」「いや、私そんな腕から零れ落ちそうにはならないと思うけど……」 神楽坂の言う通り、隠した腕の中からあふれ出しそうである。「アキラちゃんのおっぱい綺麗……」 思わず同性ながらそんな事を呟いてしまうぐらいに。 ただそれを聞いてのアキラの次の発言には、面食らった。「触ってみる?」「え……でも、ちょっとだけ」 普段、寮の大浴場で時間が重なったりして、見たことがないわけではない。 この状況のせいだろうか。 更衣室で二人きりでライバル宣言をされ、心の距離と意外にも何かが縮まったような異質な感じ。 なんとなく雰囲気に流されただけとも言うが。 アキラの言葉に、神楽坂は殆ど躊躇をせずに頷いて返した。「そっとね」「うん」 つい先ほどまでドラマにしてもおかしくない青春を送っておきながら一体何をしているのか。(やば、なんかドキドキしてきた。アキラちゃんのおっぱい柔らかそう)(あれ、なんでこんな……あれれ?) お互い意味不明な雰囲気のまま、言葉通りにする。 アキラは気恥ずかし気に隠そうとしていた両腕を取り払い、ゆさっとおっぱいを露わにした。 他人のおっぱいをマジマジと見るのは初めてかもと、神楽坂は高鳴る鼓動と共に手を伸ばす。 蛇口から水を受け止める様に手の平を上にして、支える様に指先を振れさせる。「んっ」 ふにっと持ち上げようとしたが、重量感があり過ぎて軽くたわむだけだった。 重たいと何度か持ち上げようとするたびに、アキラの口から悩まし気な吐息が漏れる。「えっと、あの……なんか、私だけ触るのも。そうだ、アキラちゃん私のも触ってみる?」 ブレーキ、奴は置いて来た。 この雰囲気にはついて来れないからなとばかりに、さらに神楽坂が焦って口を滑らせる。 よせばよいのに、慌ててアキラと同じように水着の肩紐を外すおまけ付きだ。 アキラより心持ち小さいが、同年代では明らかに大きな乳房がたぷんと弾む。「明日菜のおっぱいも綺麗だよ。可愛い」「ちょっ、アキラちゃん。そこは……」 初々しい神楽坂とは異なり、男と女の両方の相手になれているアキラである。 神楽坂の様に下から軽く触れる様に支えるでなく、指先を鎖骨の下あたりから胸に沿って這わせた。 胸のふくらみに沿って山を登り、薄紅色の突起には直接触れず、乳輪を描く様に指が走った。(わっわ、なんかアキラちゃんエッチ) ライバルってこういうのじゃないよねと思ったが、乳首に触れられた途端に吹き飛んだ。「んぅ」 指先で軽く弾く様に弄ばれ、終いには乳房に埋める様に突かれた。 不思議なことに触れられているのは胸のはずなのに、腰回りにしびれが走った気がする。 立っていられず腰が引けて後ろにさがった神楽坂は、ベンチに舞い戻る様に尻もちをついた。 心なしか呼吸が乱れ、自然と内股になった足の付け根に違和感が滲んだ。 違和感というか、滲んだのは体液だが。「どうしよう、明日菜が可愛い」「駄目、アキラちゃん。皆、待ってるし」「ちょっとだけだから。キスはしないから」「待って、だめ……」 ベンチにへたり込んだ神楽坂に馬乗りになるように、アキラが身を乗り出す。 ただし、神楽坂の皆が待っているという言葉は本当であった。「大河内先輩、それに神楽坂先輩。まさか、疲れて眠っちゃった……」 バンッと少し強めに扉を開けて、一年生のまとめ役ののりりんが飛び込んできた。 どうやら本当に皆を待たせていたようだ。 使い走りとして彼女が派遣されてくる程度には。 そんな彼女が見てしまったのは、水着が半脱ぎの神楽坂とアキラである。 これがただ着替えの途中だけなら良かったが、ベンチにへたり込む神楽坂をアキラが押し倒していた。 ぼしゅっと音を立てて顔を真っ赤にしたのは、のりりんの方だったが。「おっ、お邪魔しましたァ!」 開けた時よりも激しく扉を閉めた彼女は、バタバタと走って行ってしまう。「ま、待ってのり子ちゃん違うの!」 誤解ではないが誤解と言うしかなく、締まった扉に神楽坂が懸命に手を伸ばした。 幸か不幸か、何故かのりりんはまたバタバタと戻って来たが。 今度は扉を開けず、やや上ずった声ながら彼女はこう言って来た。「あの、私そう言うことの知識無くて。三十分ぐらいで良いですか? 皆には、うっかり寝ちゃってて起こして来ましたって言っておきますから。私、口堅いですから。理解ある方だと思いますから!」「そんな理解のされ方も嫌だってば!」「あと、神楽坂先輩が受けで、大河内先輩が攻めなのは意外な感じでした!」「そんな感想は本当にいらないから!」 融通が利き過ぎるのも問題か。「終わった。もう、アキ……あれ?」「明日菜、そろそろ本当に着替えよう。風邪引いちゃうよ」 早くどいてと言おうとしたアキラは、既にロッカーの前に舞い戻っていた。 しかも今しがたの行為や後輩に見られたことなどなかったかのように。 その姿が余りにも堂々とし過ぎていて、一瞬神楽坂は夢でも見ていたのかと思う程だった。「のりりんは律儀な子だから、広めたりなんかしないよ。それに仮に口を滑らせても、私と明日菜が先生の事が好きだって皆が知ってることだし」「それもそっか……ん? ちょっとアキラちゃんまで、私が好きなのは高畑先生であって、乙姫先生じゃ」「え、そのつもりで、特に言いわけなかっただけだけど」「え?」 墓穴を幾つ掘れば済むのか。「明日菜、負けないよ」「水泳の事ね、大丈夫分かってるわよ!」「うん、水泳のことだよ。明日菜はそうじゃなかったかもしれないけど」「水泳の事に決まってるじゃない。うん、決まってる」 もう色々と無かった事にして、二人で着替えを済ませてしまう事にした。 ただし、麻帆良学園への送迎バスへと戻って、盛大にからかわれることとなる。 確かにのりりんは義理堅く一年生にしてはしっかりした子なのだが、三年生の小瀬に敵うはずもない。 真っ赤な顔で興奮して帰って来た彼女は、口を割らされたのだ。 ただ一言、更衣室でエッチなことしてましたと。-後書き-ども、えなりんです。水泳大会って雰囲気が良く分からず、描写がふわっとしてます。オリンピックとかなら稀にテレビで見ますが。中学生の大会で電光掲示板にタイムとか出るんでしょうか……さて、今回のメインは明日菜で、アキラを添えて。二人が名実ともにライバル関係(意味深)になった回でした。あんまりにも青春し過ぎて、ボケならぬ百合に走らずにはいられませんでした。まあ、アキラは元より、明日菜も木乃香と刹那のおかげで理解ある方ですしね。これで明日菜のメイン回はクリスマスぐらいまでないと思います。あとは那波回をやって、そろそろ馬鹿回とかもやりたい。では次回の更新は未定です。