第百三十四話 私もいつか、こんな風に誰かを想ってあたふたしたりするのかなあ? 二段ベッドの上段でタオルケットに包まれていた村上は、寝ぼけ眼でふと思った。(おトイレ……) 尿意に起こされ、軽く目元をこすり、おぼろげながらに思い出したのは昨晩の狂乱だ。 水泳部の新人大会にてアキラが当然の様に優勝を決め、神楽坂も表彰台こそ逃したが入賞した。 そのお祝いと称して、ジュースとお菓子でどんちゃん騒ぎ。 就寝前にもトイレに行ったが、少しジュースを飲み過ぎたらしい。 もそもそと寝ぼけ眼のまま寝床から起き上がる。「あふぅ、暗いなぁ」 妙な時間に起きてしまった物だと、おっかなびっくり梯子を下りていく。 ルームメイトが寝ているので、大っぴらに灯りをつけることもままならない。 無事、梯子を踏み外すことなく着地した時、視界の端に何かがよぎった気がした。「ん? ほぁ?!」「夏美ちゃん?」 正直、眠気が吹き飛ぶほどに驚いた。 こんな時間に赤玉の薄明かりの下でぼんやりと人影があったのだ。 正確な時間帯は不明だが、カーテンの向こうは未明と言えるぐらいに暗い。 口から心臓が飛び出すより先に、下半身が洪水になると内股になって手を挟む。 普段、食事を囲むちゃぶ台テーブルの前にいたのは、淡いブルーのネグリジェ姿の那波だった。「な、なにしてるの。ちづ姉、電気もつけずに」「え、いえ……別に、その」 暗がりで時計は見づらく正確な時間は不明だが、まだまだ夜明け前だ。 問われた那波は軽く言葉を濁しながら、そそっと体を傾ける様な仕草を見せた。 なんだろうと村上も体を傾けると、その視線を通せんぼされる。「千鶴さん、隠そうとしても私の視界からは丸見えですわ」「ひゃ、あやかまで。これは、違うのよ?」 那波と村上、二人の二段ベッドとは別のベッドから、新たにあやかから声を掛けられる。 ベッドの落下防止柵に乗り上げる様に体を預けるというはしたない恰好だが、その声色は少し優しかった。「委員長? ちづ姉は何を隠してるの?」「なにも隠してないのよ、夏美ちゃん。本当よ、信じて」「昨晩のどんちゃん騒ぎ中に、こっそり超さんにお願いしたピルですわ」「へぇ、ピルかぁ……あっ」 あやかがこともなげに指摘した為、村上も釣られた様にその名をオウム返しに呟いた。 だが数秒後に、自分が呟いたその名を理解して、何かを察すると同時に頬を赤らめる。 純情無垢な女子中学生ならば、口にするのも躊躇われる言葉だ。 しかも村上は、那波がそれを誰とする為に貰ったかも聞かされていた。 細部は非常にあいまいだが、思わずむつきと那波が裸で抱き合う場面が頭によぎってしまった。 ただどうやら那波も、似たような事が頭をよぎったらしい。 ピルが入った小さな桐箱を隠す様に豊満な胸に抱き、蛍の様に顔を火照らせ俯いている。「とても初々しいですわ」 二人ともに羞恥で頭が一杯で、あやかのそんな言葉が耳に入ることもなかった。 ただまだまだ空が白む前の事である。 寝不足は美容の大敵と、あやかが気を利かせた。「千鶴さん、期待に胸を膨らませるのも良いですが。このままでは、目元にくまを作った状態で先生にお会いすることになりますわよ。眠れなくても、ベッドに入って目を閉じる事をお勧めしますわ」「そうね、あやかの言う通りね」「そ、そうだよ。それに必要になるとまだ決まったわけでもないしね」「え?」 村上の言葉は、はやくこの会話を終わらせて寝る流れに持って行きたい一心である。 しかし那波はそれにとても意表をつかれた思いであった。(あら、そう言えば……絶対そうなると決まったわけではないわね。別に先生からピクニックの後はと言われたわけでも。あっ) 村上の言葉を発端に、ある事に気づいて那波は顔を上げられない程に恥ずかしくなった。 最初はただ、のどかが余りにも可愛くなったので、むつきと何かあったのではと焦っただけだ。 それでちょっと勇み足で、そう言う関係になっても良いかもと思い避妊方法を求めた。 そこまではまだ良かった。 なのにいつの間にか、那波の中でむつきとセックスする事が確定事項であるかの様にすり替わっていた。 良く良く考えたら、孤児院の子供たちを連れて、院長先生も一緒にピクニックに行くだけ。 昼前に出発して、お昼を食べて子供たちを遊ばせて、帰って来るのは夕方頃になるだろう。 普通ならそこで解散、そこからどうする。(解散しても夏美ちゃんや小太郎君もいるのに、先生が私だけ誘うとかありえないわ) 那波の中のむつきはとても誠実で、これから俺の家に来いよというタイプではない。 じゃあ明日は遅刻するなよと解散するか、時間も遅いからと村上ともども寮に送られるだけだ。 本当に体を許すならば、那波の方から何か間接的にでも合図を送らねば始まらないだろう。 今日は帰りたくない、なんてテンプレート的な台詞でも言えと言うのか。 ムードのある食事後等なら兎も角、子供たちとのほほんとピクニックに行った後に言えやしない。 ピクニック中ずっと悶々と体を持て余していた淫らな女ですと、言うようなものだ。「ちづ姉、突然つっぷしてどうしたの? 頭抱えてるから、寝ちゃってはないよね?」「千鶴さん、おいたわしや」 ピルを前に固まっていた時とは違い、別の意味で羞恥に悶え悩む那波である。 二人から心配されても、羞恥は倍加し、悩みが解決するわけでもない。 しばらくそっとしておくしかないと、あやかは話を完全に変える事にした。「ところで、夏美さんはお手洗いはよろしいので?」「あっ、そうだった。でも、ちづ姉が」「私たちでは力不足ですし、今はそっとしておきましょう。私も少々お花を摘みたく」「そ、そうだね。ごめん、直ぐに済ませてくる」 少しだけ後ろ髪をひかれつつ、尿意を思い出した村上はぱたぱたとトイレへと駆け込んでいった。 残されたのはまだまだ羞恥が引かない那波と、悶々とし始めたあやかである。(ばか、ばかばか私のばか。これじゃあ。まるで。先生に抱いて欲しくて、淫らな事ばかり考えて期待しているみたいな。それで眠れなかったとか。ああ、もう。穴があったら入りたいわ!)(千鶴さんはチャンスがあるだけ……うぅ、話の内容が内容なだけに体が妙に火照って。ああ、先生とおセックスがしたいですわ。おセックス、先生の殿方をあやかの女の子に!) 普段、土日のどちらかはひかげ荘にいて、セックスか、しないにしてもスキンシップをしている。 今日は水泳部の応援から祝賀会と足を運べず、明日は夕方までむつきはいない。 夕方という言い方も曖昧で、ほぼできないと考えて良いだろう。 あやかはひかげ荘でのセックスでストレス発散している面もあるので、完全に抜きは辛い。(こうなったら、一旦オナニーで体を鎮めましょう。先日は亜子さん提案の先生が放課後の教室で我慢できなかった妄想、悪くなかったですわ。何度も謝りながら逆に激しく腰を突き上げる先生……んー、シチュエーションに迷いますわね) 村上がトイレの個室で開放感に満たされる中、那波とあやかは全く違った意味で悶々とし続けていた。 残暑という言葉は遠く、秋晴れの風が心地よいピクニック日和であった。 ピクニックの行先は、麻帆良市内にある緑化公園である。 花壇には秋桜を始めとした秋の花が咲き誇り、公園内のほぼ全てが芝で覆われていた。 家族連れ、または学生の集団などが、ピクニックシートを広げたり、走り回っている。 またハイキング用のコースも用意されているようで、老夫婦や恋人たちが散歩を楽しんでいた。 その中に孤児院の子供たちを連れたむつきたちの姿はあった。「田中さん、このシートの端を持って」「OK, Boss」 巨大なブルーシートを一人で敷くのは難しく、ターミネーターならぬ田中さんの手を借りる。 折りたたまれた状態から丁寧にある程度まで開くと、呼吸を合わせて一斉に広げた。 ばさりと軽く舞ったブルーシートは芝生の上に軟着陸し、茶々丸の妹たちが四隅に重石を乗せる。「いっちばーん!」「あっ、ずるーい!」 途端に待ちきれない様子で孤児院の子たちが、背負っていたり肩掛けにしていた鞄を置いた。 そのまま重みから解放された風船の様に、散らばっていく。 超包子の電車の運転手をお願いした田中さんや、茶々丸の妹たちの手を引いて。「お姉ちゃん、お姉ちゃんこっち!」「はい」「おっさんも来いよ!」「HAHAHAHA, Hold up boy」 市内の公園とは言え、十人を超える子供を解き放てば絶対に目が届かなくなる。 それを見越してむつきが小鈴から彼らを借りてきたのだ。 茶々丸は子供の間では有名人らしく、その妹も即座に懐かれていた。 また外見が厳つく当初は警戒されていた田中さんも、持ちネタを披露してからは早かった。 そういえば原作の中でも、アンドロイドは最高の父親なんて台詞があった気がする。 アンドロイドの田中さんと、ガイノイドの茶々丸の妹たちが子守なら任せろと子供たちに追随した。「うわあ、元気元気」「夏美姉ちゃん、なんか年寄りくさ」「ちょ、小太郎君。女の子に……よーし、その挑戦買った。鬼ごっこする子はこの指止れ」「あ、私やるぅ」 小太郎の言葉に触発されたか、子供たちに合せるように言ったのか。 村上が小太郎の腕を掴んで指をたたせ、鬼ごっこをする子を集め始めた。 一度は散らばった子供たちが瞬く間に集まり出し、中心となった小太郎が埋もれる程だ。「村上の台詞じゃないけど、子供は元気だな」「ええ、本当に。今朝もお礼申し上げましたが、改めてありがとうございます。乙姫さん」「主に働いてるのは、田中さんたちなので俺はなにも。秋空の下で美味いご飯が食べられればそれで」 本音を言えばご飯ではなくビールだが、引率の身で流石にそこまでは高望みし過ぎか。 広げられたブルーシートに靴を履いたまま腰を預けるのは、院長先生とむつき、そして那波だけ。 子供たちは全員、良く見れば孤児院と関係ない子も交えて鬼ごっこ大会だ。 そんな大はしゃぎの子供たちに目を細めながらお礼を言われたが、本当にむつきは何もしていない。 言い出しっぺと企画、あとは小鈴から田中さんたちの手を借りたぐらいである。 実際、子供たちはダシにしかすぎず、本当の目的は別にあるのだ。 その言葉を謙遜と受けたか、チラリと那波に視線を向けた院長先生が立ち上がった。「では、まだまだ若い私も子供たちに混ざってきますね」 先程の小太郎の年寄りくさいという言葉を受けての様に聞こえる呟きであった。 しかし、その言葉の裏にはむつきと那波へ後はお若い二人に任せてという意味が込められていた。 院長先生はお年の割に健脚の様で、軽く手を上げて子供たちの中に本当に混ざっていった。「新田先生並みに、あの人にも敵わんな」 どうやらこのピクニックの裏にある那波とのデートは、見破られているらしい。 それに対しどうこう言わず、むしろ歓迎しているように見えるのだが。 肝心の那波が、むつきの隣に座るや否やうつらうつらとし始めていた。 超包子の電車内では必死に我慢していた様子だが、秋晴れの空の下で腰を下ろし、気が抜けたようだ。「那波、その……大丈夫か?」「いえ、寝てませんよ?」 聞かれた那波は、はっと我に返った様に振り返って来たが目元が半分閉じかけている。 さらに自分から寝ていないと、ばらしてしまう有り様だ。「なんだ、昨日の大河内と神楽坂のお祝いで夜更かしでもしてたのか?」「いえ、皆楽しそうにはしゃいでいましたけれど……ぅ、常識的な時間に解散しました」 台詞の途中で不自然に言葉が詰まり、那波がほんの少しだけ顔を強張らせた。 当人は必死にあくびをかみ殺したつもりだろうが、泣きボクロのある目元に涙がにじんでいる。 隠したがっていることを、ことさら暴く程にむつきは子供ではない。 ないが、どう見ても睡眠不足の那波が楽しくお喋りに興じられるとは思えなかった。 初デートで必死に眠いのを我慢し、我慢する結果となった事を悔やむのも可哀想だ。 それに初デートが楽しみで眠れなかったというのも、年頃で可愛らしいではないか。「そうだな。よし、那波」「はい、なんでしょうか?」 むつきは靴を脱いでより深くブルーシートに腰掛け、足を前に投げ出した格好となった。 そして自分の太ももを強調するように、軽くぽんぽんと叩いてみせた。「俺の膝でよければ膝枕してやるぞ」 那波は最初、何を言われたのか分からずきょとんとしていた。「いえ、膝枕でしたらぜひ私が先生を」 ピクニックに来て男性が女性に膝枕をするなど聞いた事もない。 那波としても申し出としては嬉しいが、してあげたい気持ちの方が強い。 むしろその方が想定していたデートの形である。 しかし体は正直なもので、働きが鈍く重い頭は芝生のベッドとむつきの膝枕を欲していた。 切なそうに喉の奥で鳴きながら迷いに迷ったが、睡魔が引き起こす誘惑には勝てなかった。「ではお言葉に甘えて、失礼します」 自分も靴を脱ぎ、むつきの隣に歩み寄って腰を下ろして身を寄せる。 距離が近づくにつれ鼓動が早まる心臓とは裏腹に、ゆっくりとギクシャクしながら体を横たえた。「それじゃあ、首が疲れるだろ」「あっ」 それでも微妙な隙間を残して首の力で接触を避けていると、むつきから駄目押しがなされた。 髪に触れる様に優しく頭を抑えられ、膝枕に埋没させられる。 ジーンズの荒い生地越しに伝わるのは、好いた男の人肌の暖かさであった。 逆に目がさえそうな程に顔が火照り、いっそこのまま眠りに落ちた方が楽だったかもしれない。(ど、どうしましょう。色々と想定が……膝枕をする想定はあっても、されるなんて。そもそもまだ手も繋いだこともないのに。まさに長谷川さんの言っていた通りになってしまって) あの時、千雨はセックスの時の事を言ったが、その前のデートも同じだと那波は思い知らされた。 当初の想定や事前知識など、なんの役にも立たない。 シートに座ったら、お茶を差し出して和やかな談笑、その途中でふと手が触れ合って見つめ合う。 程なくして那波の方からそっと寄り添う様に体を預け、肩に手を回されたりしたり。 最後に秋の風に紛れるぐらいの小さな声で好きの二文字を想いと共に告げるような。 全く持って一つとして、想定通りに動けていなかった。「あの……」「それにしても、デートが楽しみで眠れなかったとか。年頃の女の子らしくて、可愛いな」「か、可愛いですか? 久しぶりに、言われた気がします」 膝枕までして貰う醜態を前に何故にと、不思議そうに那波はむつきを見上げた。 その表情にからかいの様なものはなく、純粋に言葉のままに呟いているようにしか見えなかった。 むつきの大きくて硬い手の平が、那波の長い髪を梳く様に撫でつけてくる。 多少、子ども扱いされていると思いはしたが、嫌かというとそうではない。 女の子とは全く違う手の平に異性こそ感じるが、委ねたくなる不思議な魅力があった。 当初から那波を悩ませていた眠気や緊張が、一撫でされる度に解けていくようだ。「そうやって背伸びして、失敗してちょっと後悔してみたり。お前らの年頃の子は、恋愛に関しては特にそうだよ。皆、最初は失敗して覚えていくもんだ。絶対失敗したくないって思いながら」 見た目相応の大人扱いされるより、なんだか心地よい。 ただ単純に好意を持つ相手とのスキンシップだからかもしれないが。 まるで早朝のまどろみの中にいる様な気分で、那波は普段なら気遣ってしない質問をぶつけた。「先生も、失敗したんですか?」「それを俺に聞くか。知ってるだろ、俺の初恋相手」「むつみさん、ですよね?」 特に事前に考えていたわけでもなく、自然と問いかけ、笑って返された。 むつきの初恋の話は、二-Aの生徒ならば全員知っている。 従姉のお姉さんがそうであり、悪い虫を追い払おうと空回りし続けたと。「まともな恋愛も大学になってからだな。あっ、結局失敗したっけ」「意外ですね」「そうでもないさ。田舎から出て来たおのぼりさんで、凄く傷つけた人もいる」 それこそ意外だと、那波はまさかとでも言いたげであった。「ちょっと、色々あってな」 流石にひかげ荘もそうだが、それにまつわるあの痛ましい事件は話題にするにはそぐわない。 むつきはただそぐわないからと口を閉ざし、ちょっと昔を思い出しただけだ。 遠い過去という程に前ではないが、もう昔の事である。 しかし、那波はそうは受け取らなかったらしい。 髪を撫で続けていたむつきの手を取り、頬ずりするかのように自分の頬に当てた。「どうした?」「私が知っている先生は、優しくて誠実で……大人らしい大人だと思います」「はっは、まさか。生徒のお前に言うセリフじゃないけど、俺だってまだ大人になりきれない、なれてない部分がたくさんある。俺の当面の目標は、新田先生だし」 ひかげ荘という裏を知らないにしても、過大評価過ぎるとむつきは笑い飛ばした。「そうでしょうか?」「大人は子供が思う程に、自分の事を大人だとは思ってないぞ。相対的には大人だと思ってはいても。俺は大人だと威張ってる人に限って子供だったりもするだろ?」「そうかもしれませんけれど、難しいです」 那波の言葉の最後の方は、消え入りそうな程に小さかった。 先程からのやり取りも半ば眠っているのか、少し言葉が舌足らず気味である。 その那波がもぞもぞと動き、寝返りをうとうとしていた。 大きな胸を重そうによいしょと持ち上げ、顔がむつきのお腹へ向く様に。 那波の格好は白いブラウスに、焦げ茶色のタイトなロングワンピースなので着崩れはない。「おいおい、こっち向くんかい」「んぅ……先生の匂いがします」 より内側に近づかれ、那波の鼻先はむつきが着るシャツに触れそうな程だった。 何時からかは不明だが、那波はほとんど意識がないのではないか。 体も胎児の様に丸め始めており、子供がむずがるような声を上げていた。「先生」「ん?」「せんせぇ」 なにを求められているのか分からないので、取りあえず那波の肩をぽんぽんと叩いた。 自分の心音と合わせる様にタイミングよく。 それで満足したのか、那波はむずがるのを止めていた。 完全に二人の会話は途絶していたが、それに対して何かを言ってくることもない。 余程、眠たかったのだろう。 今ならば、那波が寝入っていると断言できた。「はは、これでまた後でなんで寝ちゃったとか悔やむんだろうな」 肩を叩く合間に、うりうりと那波の柔らかな頬をつついてみる。 それから冷えると行けないので、念の為に羽織っていた上着をそっとかけて置く。 子守唄でも歌った方が良いかと何気なしに考えていると、声を潜めて名を呼ばれた。「先生、ちづ姉は寝ちゃった?」「村上か。ぐっすり、お休みだ」 まだ小太郎を含む子供たちは、キャッキャと走り回っている。 村上も那波が非常に眠そうにしているのに気づいていたので、心配になって見に来たのだろう。 これを見ろとむつきが寝入る那波を指さし、村上もまたそっと上から覗き込んでから言った。「あんまりちづ姉の寝顔は見ないであげてね」「いや、無茶言うなよ。こんな貴重な光景を心に刻まないで、他にどう暇を潰せと?」「初デートで居眠りもショックなのに、油断した顔を観察され続けたら二重にショックだと思うよ」「仕方ないな。ハンカチ持ってるか? 眩しそうだったから掛けたって言えば良いだろ」「おお、うん。それならちづ姉も少しは気が楽になるかな」 スカートのポケットからハンカチを取り出し、靴を脱いでブルーシートに上がり込みながら軽くパンと叩く様に開く。 むつきの目の前、那波の傍にしゃがみ込み、名目上は日よけの為にかけてあげた。 肌触りがくすぐったかったのか、少し那波が身じろぎをしたが大丈夫そうである。 ふうっと焦りから一息ついた村上が、おもむろにこう言った。「ちづ姉だけどね。今日の事が楽し……いや、まあちょっと先走ったり、空回りもしたけど。ずっと楽しみだったみたい。それこそ、遠足前の子供みたいに」 何故か途中で言葉を途切れさせ、乾いた笑いと冷や汗の様なものを浮かべていたが。 むつきにというよりは、自分自身にでも尋ねる様に呟いた。「私もいつか、こんな風に誰かを想ってあたふたしたりするのかなあ?」 身近な人間の恋と、秋という切なくなりやすい季節柄か。 その声にはほんの微かな憂いを帯びていた。 思春期真っ只中の中学生らしい疑問だが、むつきにしてみれば答えは一つであった。「するだろ、そりゃ。誰だって、何時か誰かに恋するもんだ」「そうなんだろうけど。想像もつかないというか、私なんかに」「女の子が私なんかになんて言うんじゃありません」 言葉尻に一瞬垣間見えた村上の劣等感を前に、むつきは軽く叱るように言った。「恋したことないから、想像つかないのは分かる。でもそれで、なんで私なんかにってなるんだ?」「うちのクラスは可愛い子ぞろいで、スタイル良い子が多いし」「そこは否定できんが、お前だって可愛いぞ? スタイルなんて、お前これから成長期だろ。というか、恋に可愛いもスタイルも関係ないぞ?」「へ、なんで? だって」「恋ってのは、一方通行だからだよ。誰かを好きになって、一目散になりふり構わず私を見てって」 むつきの言葉を聞いて失礼ながら、村上はチラリと那波を見下ろしてしまった。 那波は村上が先ほど言ったように可愛いというか綺麗だし、スタイルも凄く良い。 しかし現状、その想いは限りなく一方通行である。 こうしてむつきが受け止めてくれてはいるが、受け入れるとは一言も言ってはいない。 けれど確かに那波はむつきに恋をして、振り向てい欲しいと足掻いていた。「なんとなくわかったけど。それじゃあ、恋愛にならないよね?」「相手の好みがあるからな。さっきお前が言ったみたいに顔立ちやスタイル、他に年上、年下の年齢。大人になって来ると相手の年収だったり、立場ってのもあるな。教師と生徒」 何気なく始めた疑問であったが、村上は今や真剣に頷いていた。「百点満点の相手と恋愛できるなんて稀。恋は盲目か、皆何処かで大なり、小なり妥協する」「妥協って言葉はちょっと……」「なら、現実を知るだ。お前、テレビで見たアイドルと付き合えると思うか?」「そんなこと思ってる人、いないんじゃない?」「世の中は広いんだぞ……本当に」 主題から外れすぎるので、詳しくはむつきは口を閉ざした。 話の内容次第では、少しホラーになってしまうので。「明るくて、可愛くて、スタイルが良くて、実家が金持ちで、あとは何だ……経験ないけどエッチな事に興味深々で? そんな相手の条件すべてに合致しなくて良いんだよ。むしろ、嫌だろ。そうじゃなきゃ嫌だって、現実見えてない奴」「嫌って言うか、怖いよそんな人」「そんな奴いたら、俺だって怖いよ。だからさ、将来お前が誰かに恋したら、相手が何を望んでるのか良く見てみろ。外見の好みは難しいが、趣味に理解を求めてるとか。これ結構、男は求めてるぞ」「ちなみに、先生の趣味は?」 後で那波にでも教えるつもりか、村上が唐突に尋ねて来た。 以前は風俗通いだったが、今はもう止めたし、言えるはずもない。 ならば何かと考えてみたものの、何かあっただろうか。 まかり間違っても、美砂たち生徒に手を出したのは趣味ではない。「あれ? えっと、趣味じゃないけど偶には飲んで帰っても許してください。先に連絡入れるんで」「別に飲みに行けば良いんじゃないの?」「村上、俺と付き合うか?」「んー、ちづ姉に悪いし止めとく。できれば同年代が良いかなあ」 冗談とは言え、これが条件の不一致かと村上はふんふん頷いていた。「そんなわけで、恋も恋愛も不安がることはない。さっき言ったみたいなコツは多少あるが」「うん、でもその前に恋しないと。できれば素敵な人が見つかると良いけど」「条件が曖昧だったり、なさすぎるのも良くないぞ。幾つか、これだけはってのは持っとけよ」「夏美姉ちゃん、人を鬼ごっこに引っ張り込んどいてなにしとんねんな」 恋に恋焦がれるどころか、恋する前から抱いていた不安は解消されたらしい。 いつかそのうちと多少なりとも前向きになった村上を、迎えに来た小さな影があった。 この関西地方の特徴的な口調の人間は、むつきや村上の周りではそう多くはない。 特にそれが男の子と呼べるような少年であればなおさら。「小太郎君、どうしたの?」「どうしたも、こうしたもあるかい。むつき兄ちゃん、千鶴姉ちゃんに加えて夏美姉ちゃんまで独り占めするの止めてんか。チビ共にお姉ちゃんは、お姉ちゃんはって聞かれる身にもなってや」 確かに子供たちに人気者の那波と村上の両方を手元に置いたのは失敗だったか。「悪い、悪い。けど、那波は寝ちゃってるから、村上」「はいはい、ちづ姉の幸せの為に頑張るよ。小太郎君、行こう」「まあ、チビ共には夏美姉ちゃんで我慢してもらおか。あたっ」 それはないだろうという台詞を小太郎が漏らし、思わずと言った風に村上が頭を叩いた。 もちろん、軽くではあるのだが、全くと腰に手を当てながら村上は憤っている。「もう、小太郎君。そんなんじゃ、女の子にモテないよ?」 これがつい先ほどまで、恋できるかなと不安がっていた村上の言葉である。「女は色々と気を使わなあかんから面倒やん。俺はモテたない」「いや、ちょっと待って。私、小太郎君に気を使われたことあったっけ?」「あるわけないやん。夏美姉ちゃんは気を使わんでもええから。俺も気が楽やわ」「ちょっと、それどういうこと。私、女の子!」 ムキーと村上が両手を上げると、すらこらさっさと小太郎が逃げ出した。 つい先ほどまでの会話を、村上は覚えているのだろうか。 何歳差だっけと指折り数えて、むつきは途中で放り出した。 どちらからの一方通行か分からないが、来るかもしれないし、来ないかもしれない。 相談されたら、またその時にでも受けれ上げれば良いのである。「さて、暇になっちまったな」 話し相手がいなくなり、那波はまだまだお眠り中で起きる気配は微塵もないのである。 そのままむつきも秋の日差しの下で居眠りをしたりして時間を潰すほかない。 結局、お昼を食べに皆が戻って来ても那波が起きる事はなかった。 寝ぼけ眼で起き上がり、むつきの膝でと慌てるのは午後三時を過ぎた辺りである。 改めて自分の迂闊さを呪い、デートの延長戦を申し込んでくるのは自明の理であった。-後書き-ども、えなりんです。ピクニックに見せかけた千鶴とのデートではなく、こた夏。圧倒的、こた夏!まあ、冗談ですが。特に意味もなく、のどかと千鶴を対照的に書いてます。内気だけど意外とデートには慣れてるのどか。斜交的だけどデートに全く不慣れな千鶴。のどかは元々、むつきとのデート経験があり、同世代ともありますしね。言い寄られ過ぎて避けてた千鶴とは経験が違いすぎます。初デートで居眠りしてただけとか、相当だと思います。ですので、延長戦です。千鶴回はもう少し続くんじゃ。次回の更新は未定です。