第百三十五話 今日は帰りたくないんです 現在時刻は午後の四時を過ぎた頃、電車は麻帆良女子中学の女子寮に向けて走っていた。 既に院長先生や子供たちは、孤児院に送り届けた後である。 子供の有無や人数の激減に、超包子の電車も多少は静かに寂しくなると思っていた。 田中さんは運転席で居らず、茶々丸の妹たちは厨房にいたり、車内を掃除したり働いている。 入り口から直ぐの広間にいるのは、むつきと那波、村上に小太郎の四人だけのようなものだ。 二-A全員を収納してまだ余裕のある空間に、那波の声が響いていた。「延長戦、延長戦を申し込みます!」「言いたいことは分かるが……」「先生の御膝でお昼寝して終わりだなんて、あれはあれで幸せでしたけれど。もっとアピールしたい事が一杯、子供好きとかお料理が得意とか」「いや、どっちも知ってるけど。子供好きは今さらで、手作りのお菓子とか良く差し入れてくれるし」 普段の那波からすれば、らしさの欠片もない必死さであった。 半ば想定された事態だが、那波としては膝枕で寝てしまうのは失態に入るらしい。 なんとか挽回せねばとあと十数分で終わるデートの延長を求めていた。 胡坐をかいて湯のみでお茶をすするむつきに、四つん這いで縋りつくような形でだ。 むつきとしては可愛い寝顔が少し見れたし、その後もちょいちょい可愛い姿が見れて満足だが。「なんや、こんな子供っぽい千鶴姉ちゃん初めて見たわ」「子供っぽい、ああ……そうかも。ちづ姉が我儘言うところ、初めて見た」「子供っぽい、しかも我がまま?!」 しかし、そんな自分の姿を妹分と弟分から言いたい放題言われ、ショックを受けたようだ。 必死になればなるほど、空回りは酷くなる。 昨晩は緊張や興奮で眠れず、寝不足からデートの最中に居眠りをする始末。 後者はむつきから言いだした事なので、失態というわけではないのだが。 挙句の果てに、延長戦と子供っぽい我儘を言うなど、もはや挽回のしようがない。「ちづ姉、ごめん言い過ぎた。子供っぽいはないよね」「せやで。ほら、あれやん。女の我ままを許すのが男らしいで」 縋る手が空を切って地面につき、那波は正真正銘の四つん這いで落ち込んでいた。 流石に言い過ぎたと、狼狽した二人が何とかフォローを試みるも届いているのか。「女の我がまま、許すのが……」 いや、悪い意味で届いていたかもしれない。「先生」 がばりと勢いよく顔を上げ、むつきの名を囁くように呼んだ。 そのままむつきの隣に座り直し、体を預ける様にしな垂れかかった。 表情を隠す様に頬に手を当て、憂いを帯びた様な声で呟いた。「今日は帰りたくないんです」 恥ずかしくて言えないと昨晩は思った台詞が、意外にもすんなり飛び出した。 その言葉に含まれた意味には、天と地ほどの差があったが。 言った、言ってしまった。 言ってから死ぬほど恥ずかしくなって、赤面しながらプルプル震え出す。 今この状況で言ったことで、返って子供っぽい気がしてならなくなったのだ。 例えるなら、遊園地の閉園時間が近づく中で、帰りたくないと駄々をこねる幼児のような。「ちづ姉、なりふり構わないにもほどがあるんじゃ。あと、小太郎君の前なんだけど」「夏美姉ちゃん、目塞がれても聞こえとるで。もう、子供の俺じゃフォローしきれんわ」「夏美ちゃん、小太郎君。お願い、もう何も言わないで……」「お前ら、事前に打ち合わせしてないよな? コントか?」 二人から処置なしと言われ、むつきにはコントかと聞かれる始末。 ついに那波は、いじける様に床にのの字を書き始めていた。「はあ、分かったよ」 これでは笑顔でお別れもできず、那波の大切な初デートが台無しだ。「田中さん、行先変更。いつものスーパーに寄ってくれ」「OK, Boss. あっ、あー。えー、次はー、量と安さが一番の売り。麻帆良コープ業務用スーパー」「いや、駅員の物まねはいいから」 天井のスピーカーから聞こえてくる物まねはともかくとして。 突然の行先変更に、那波のみならず村上や小太郎も、軽く小首をかしげていた。 そんな難しいことではないと、携帯電話を片手に持ちながらむつきは言った。「那波、夕飯作ってくれ。俺は別にそうは思ってないが、汚名返上のチャンス欲しいだろ?」「は、はい。今度こそ、でも今からだとそこまで手の込んだ……いえ、ここは確実に手軽さと美味しさを両立させて家庭的な面を」「お夕飯って、先生の家で?」 チャンスが与えられた途端、目まぐるしく頭を働かせ始めた那波に代わり、村上が基本的な事を聞いて来た。「女子寮に入れるわけないだろ。俺の家でだよ。小太郎君は、それで大丈夫か?」「俺は別に構わへんけど、一応千草姉ちゃんに確認とっとくわ」 男二人で示し合わせる様に携帯電話にて電話を掛けた。 小太郎は今しがた言った通り、保護者へと許可を求めて。 むつきはそろそろ夕飯の準備をし始めていそうなさよへだ。 昨日は誰もひかげ荘に泊まってはおらず、今朝は誰かが来る前に家を出た。 そもそも今、ひかげ荘に誰が何人いて、何処まで夕飯の準備をしているのかむつきは知らない。 普段より少なめだとは思うが、それでも十には届く人数であろう。 色々とメニューを試行錯誤する那波には悪いが、量を作りやすいカレーが食べたいとそれとなく言おうと思うむつきであった。 さよに電話をしたところ、食材は豊富に取り揃えているとのことであった。 良く考えたら、毎週土日は二十人近い人間が三食食べていくのだ。 特にカレーの具材は、日持ちがし、かつ大量に作りやすいのでなおの事、備蓄してある。 駅員のモノマネまでしてくれた田中さんには悪いが、再度の方向転換。 色々と察した千草から帰って来いと言われた小太郎を送り届け、廻り回ってひかげ荘に到着であった。 敷地へと続く石段の前に降ろされた那波と村上は、呆けた様に石段の奥を見つめていた。 まるで奥に由緒ある神社でもありそうな光景だからだろう。 誰も彼も、最初は初々しい反応であった。「ここ上った先だ。初見だとキツイから、荷物は持ってやるよ」「あっ、はい」「これ、上るの……昼間に子供たちと散々走り回ったのに」 昼間の間ずっとむつきに膝枕をして貰っていた那波と違い、村上はうんざりした様子だった。「そんな千段もあるわけじゃないんだから、頑張れ」「ほら、夏美ちゃん。行きましょう」 しぶしぶと言った様子の夏美の手を引き、那波がむつきの後を追って石段に足を掛けた。 日差しは山の木に遮られ、茂みの奥で鳴いている虫がさらに涼しさを強調する。 日中、ずっと陽当たりの良い場所にいただけに、肌寒く感じるぐらいかもしれない。 その石段を慣れた様子で上るむつきの背中を見つめながら、当然の疑問を那波が浮かべた。「先生は職員寮ではなかったのですか?」「春先まではそっちにいたぞ。夏のあの旅行の時に、爺さんの土地と建物強請ったんだよ」「はひぃ、ひぅ……そういえば、先生の家って」「爺さんがなんか色々持ってるだけだよ。それに代わりに、他の財産の相続権は軒並み放棄したし」 爺さんがおかしいだけで、乙姫の家そのものは普通である。 ちょっと田舎にあるので核家族化はおろか、むつきの家と従姉筋のむつみの家が同居しているが。「あれが先生の……家、え?」「旅館の間違いじゃ」「元学生寮のひかげ荘。ほら、足が止まってるぞ」 階段の向こう、やや木々の枝葉に遮られていたそれを見た那波と村上の足は止っていた。 やはり、ひかげ荘は初見の人間にはインパクトが大きい様だ。 木造、屋根瓦の如何にも古めかしい造りと巨大さに、圧倒されていた。 こういう反応をしてくれる子が二-Aの中にあと何人残っている事か。 呆然、唖然としている二人を促す様に指摘し、むつきは一足先に階段を登り切った。 まだショックというか、驚きが抜けきらない二人だったがむつきはどんどん歩いて行ってしまう。 置いて行かれたくない一心で、二人はむつきを追いかけた。「また、何か色々想定と……」「ちづ姉、もう先生相手に何か想定するの止めようよ」 何気に村上には、失礼な事を言われている気もする。「ただいま」「はーい」 玄関の引き戸をがらりと開けると、食堂の奥から返事が帰って来た。 可愛い幼妻のさよの声であり、耳慣れたぱたぱたとスリッパを鳴らす音が聞こえてくる。 その間に玄関わきの掲示板を見上げると、先に聞いてはいたが普段より随分と少ない。 元からここに住んでいるさよやエヴァ、茶々丸を除くと六人。 美砂と千雨、この二人は村上から頼まれたという演劇の衣装の為に詰めていたはずだ。 小鈴と聡美は研究室があるので半分、ここに住んでいるようなものか。 あとは五月とあやかだが、二人は何かやりたい事でもあったのだろう。「あなたさ……先生、お帰りなさいませ。那波さんと村上さんもいらっしゃいです」「さよ、二人を厨房に」「ちょっと待った」 案内してやってくれと言う前に、階段の踊り場から屈んで視線を通す様にしている千雨がいた。「村上、丁度良かったちょっと来てくれ」「長谷川さん? 長谷川さんがどうして……」「上でお前から頼まれた衣装作ってるから、意見聞かせてくれ」「え、あっ……うん」 さよの事はそれとなく聞いていた気がしたが、いきなりの千雨の登場である。 眼を白黒させつつも知らない相手ではない、何度も那波へと振り返りながら村上が玄関で靴を脱いだ。 キョロキョロとひかげ荘の雰囲気に当てられながら、千雨が手招く上への階段を上がっていく。 残された那波が心細そうにしていたので、ぽんとそのむっちりしたお尻を叩いた。「きゃっ」 叩かれたお尻を庇いながら那波が可愛らしい悲鳴を上げる。 女の子なので意外でも何でもないが、普段聞きなれない悲鳴に階段の途中で村上の足が止まっていた。「ほら、呆けてる暇はないぞ。今日は人数が少ないとはいえ、食べ盛りが多いんだから」「え、あの……皆さんの分も、ですか?」「自分だけ美味いカレー食って、他は見てろとか。鬼畜か」「いえ、そのようなつもりは」 与えられたチャンス以上に、聞きたいことが多すぎるのだろう。 むつきの家にいるのが当たり前の様に、極自然といる二-Aの生徒たち。 那波に顔を見せたのはさよに五月、千雨ぐらいだが、それだけでないのは直ぐにわかる。 なにせ玄関先には、各々の在、不在を示す掲示板があるぐらいなのだ。 もっと言うならば、麻帆良女子中学の女子寮に住まう那波だからこそ感じる雰囲気があった。 ひかげ荘から感じる雰囲気が、女子寮の雰囲気と一部重なって感じられる。「全部教えてやる。お前が知りたいことは全部。ただし、お前が作った美味いカレーを食ってからだ」「はあ」 要領を得ず、思考が止まりかけている那波を前に、階段の途中にいた村上が降りて戻って来た。「ちづ姉、ちょっとごめんね」 そう言ってぺちりと小さく鳴る程度の力で、軽く叩く様に那波の頬に手を当てた。 那波と村上で混乱具合に大きな違いはない。 ただ恋の当事者かどうか、そして昼間のむつきとの会話の差が大きかったのだろう。「混乱する気持ちは凄く分かる。私だってそうだもん」「夏美ちゃん」「でも問い詰めるのは後の方が良いよ」 特にむつきへの援護のつもりはない。 村上はあくまで那波の絶対的な味方なのだから、これは助言である。「ちづ姉が年相応に我ままを言える相手って、凄く貴重だと思う。でもね、思い出して。そもそも今日のデートは、テストでトップテンに入るのが条件だったはずだよ」「そう言えば、そうだったわね」「実はさっぱり忘れてたでしょ」 村上のジト眼に珍しく、ついっと那波の視線がそれた。「まあ、それはともかく。当初の約束を果たせなかったのにデートして貰って、さらに物足りないからって家にまで押しかけて。これで我がまま二つ目、ここで先に問い詰めるのは三つ目だよ」「うっ……そ、そうね」「まずは美味しいカレーを作って、我がままを清算しなきゃ。色々と聞くのは、それから。ちゃんと全部教えてくれるって言ってるんだし。たぶんそうすれば、ちづ姉は恋をしてるだけの状態から恋愛に変えられる」「恋から恋愛に?」「先生の受け売りだけど。気持ちを一方的に押し付けるのが恋で、相手の事を考えて動くのが恋愛」 だよねと、那波の横から顔を覗かせる様に尋ねられ、むつきは微妙な笑みを浮かべた。 村上に半ば相談されたとはいえ、気恥ずかしさを通り越した台詞を良くも吐いたものだと。 蕁麻疹が出そうなむつきはさておき、その台詞は那波の心には響いたようだ。 目の前に立つ村上をギュッと抱きしめ、心を落ち着けさせるように一度深呼吸をする。 そして何処からともなくハンカチを取り出し、ほろりと流れる涙を拭いた。「夏美ちゃん、立派になって。もう何処へお嫁に出ても恥ずかしくないわね」「まだ行かないよ。というか、相手がいないよ!」「またまた、夏美ちゃんったら」 照れ隠しと頬を突く那波は、普段の調子が戻ってきたように見える。「もう、ちょっと後悔しちゃうよ」「ううん、ありがとう夏美ちゃん」 突かれた頬を膨らませる村上を再度抱きしめ、心の底から那波はそう呟いた。 ひかげ荘やむつき、二-Aの謎が気にならないかと言えばうそになる。 しかし、物事には順序があるのだ。 村上の言う通り、まずは那波がむつきに対して行った我がままの数々を清算するのが先である。「さよさん、手伝っていただけますか?」「もちろんです!」「私も力の限り、お手伝いしますよ」「というわけで」 さよと五月の協力を取り付けた那波が、真っ直ぐにむつきの瞳を見つめていった。「先生はカレーができるまで、お待ちください」「大丈夫そうだな。凄く、腹減らして待ってるぞ」「ええ、期待していてください」 つい数時間、数分前までの那波なら、むつきの言葉にプレッシャーを感じた事だろう。 しかし今は村上のおかげで吹っ切れたというべきか。 存分にとでも言う様に笑みを浮かべる程だった。 むつきは風呂へ向かおうと半身になって那波へと手を上げ、ちらりとさよと五月に視線を飛ばした。 那波の面倒を見てやってくれと。(お任せください、あなた様)(今日はサポートに徹します) 二人からも視線で返され、むつきは踵を返して自室へと足を向けた。 部屋着に着替えるついでに、一風呂浴びる為である。 珍しく一人で温泉に浸かることができたたむつきは、浴衣姿で手団扇を扇ぎながら廊下を歩いていた。 食堂の方からは夕餉の匂いが少なからず漂ってきている。 ただまだカレー粉の投入前なのか、スパイシーなあの匂いは含まれてはいなかった。 それでもそろそろ夕暮れの良い時間帯なので、匂いがすきっ腹を刺激し始めていた。 深呼吸でもするようにそれらの匂いを嗅ぎ、自然と頬が緩み、ふと呟く。「贅沢になったもんだ、俺も」 一年前は下手をすれば休日であろうと、カップ麺やコンビニの弁当であった。 風俗で散財し過ぎて普通の外食にすら事欠いていることすらあったが。 それが今や、可愛い幼な妻のみならず、可愛い生徒までもが競って飯を作ってくれるのだ。「先に風呂貰ったぞ。調子はどうだ?」 食堂の扉を開け、調理の熱気に出迎えられながらむつきがそう問いかける。 先に反応したのはさよと五月だが、一歩譲る様に鍋の前の那波へと視線を投じた。「はい、バッチリ自信作です」 一呼吸おいて振り返った那波は、これが本当の私とでも言いたげな顔つきであった。 どうやら今度こそ理想、または想定通りにいったらしい。 ふんすと少しばかり鼻息が荒くなってさえいた。 さよと五月のフォローあってこそかもしれないが、それは言わぬが花だろう。「先生、おビールは飲まれますか?」「止めとく。折角、那波が作ってくれたカレーを酔った状態で食うのはな」「でしたら、そろそろ千雨さんたちを呼びにいって貰えますか? カレーもルーを投入するばかりですし。良いですよね、那波さん」「あっ、夏美ちゃんの事をすっかり……先生、よろしくお願いします」「お安い御用だ」 さよのお伺いに断りをいれると、五月からお願いをされた。 演劇の衣装関係にどっぷりはまって、時間も忘れているのか誰も降りてこない。 那波からも許可が出たので、行ってきますと軽く手を上げてむつきは食堂を後にした。 その間に那波はカレーの仕上げにかかり、さよと五月は食器を並べたりするようだ。 二人を那波のサポートにつけて良かったと改めて思いながら、再び玄関ホールへと戻った。 階段を前に上を見上げたが誰も降りてくる気配はなく、にぎやかな声が上の方から聞こえてくるばかり。「随分と盛り上がってるな」 そう呟いてから、それもそうかと思い直した。 千雨の衣装への情熱は元より、クラスメイトの村上とはいえ外部からの初めての依頼だ。 美砂も綺麗になる為の方法を追求するというぼんやりした将来像から、熱が入っているだろう。 単純にお使いとして呼びに行くだけでなく、二人の具合が純粋に気になって来た。 間違いなくキラキラしてるだろうなと二人の表情を想像しながら階段に足を掛ける。「ほら、鏡見て鏡。長谷川、全身鏡を持てい。どうよ、夏美ちゃん。女の子に地味子なんて子はいない。私に言わせれば、自分の魅せ方を知らないだけ」「私が動かすのかよ。あー、キャスター付きが欲しくなるな。よっと、これで見えるか? 笑えるぐらいに変り過ぎだろ。全然、良いんじゃね。私と同じでクラスで地味子に扮してるだけかと思ったけど」「別に扮してるわけじゃ……これが、私? 本当に?」「あら、知りませんでしたの? 私や千鶴さんは、夏美さん以上に貴方の魅力に気づいていましたわ。こちらのドレスなどもお似合いになってよろしいかと」 三階まで上がると、流石に騒いでいる会話の内容まで聞こえて来ていた。 この様子ではむつきが階段を上る足音や気配などに、気づいてすらいないだろう。 今のむつきはロリコン鬼畜変態教師ではなく似非紳士である。 このままふすまを開ければラッキースケベになると、軽くノックして声を掛けた。「おーい、お前らそろそろ那波のカレーができるぞ」 もちろん、声を掛けたからといって自分からは開けない。「あ? 先生、なにか言ったか?」 ふすまを中から開けたのは、部屋の主である千雨であった。 それは良いのだが、むつきの声同様に察しや思いやりまでも届いていなかったらしい。 彼女たちからすれば突然現れたにも等しいむつきの登場に、姿見の前に立った村上が硬直している。 なにしろ隣ではあやかが次のドレスを手にし、美砂が村上の背中のジッパーを降ろしていた。 フルーツの皮を剥くように、村上のドレスの上半身が剥かれ掛かっていたのだ。 ストラップレスの黒いブラジャーで胸元は保護されていたものの、それは正真正銘の下着である。「ひゃ」「千雨さん!」 村上の硬直が解けて悲鳴を上げる寸前。 咄嗟に彼女の前にあやかが立ち、手にしていたドレスを広げカーテンの様にして視線を遮った。「あっ、やべ。おら!」「痛って!」 そこで一先ず良かったはずだが、その場の勢いという奴であろう。 むつきは何もしていないのに千雨に蹴り飛ばされ、荒々しく襖は閉じ直された。「馬鹿、長谷川なにしてんの!」「仕方ねえだろ。先生に裸見られても、喜ぶか誘惑する奴しか普段いなかったし!」「口論は良いから。柿崎、背中のジッパー上げて、上げてぇ!」「夏美さん、いっそこちらのドレスにお色直しを」「もうそんなお姫様気分じゃないよ、委員長!」 廊下で理不尽にも尻もちをつかされている間、ドタバタと別の意味で室内は喧騒に包まれる。 再び中から襖が開けられるまでに、五分以上を要した。 高々ジッパーを上げるだけでそれだけ掛かったというより、村上の心境が落ち着くのを待ったせいだろう。「先生、いや悪い悪い。まあ、許可なく村上の半裸を見た罰ってことで」「お前な、いくらなんでも蹴るなよ。不意打ち過ぎて、無様に尻もちついたぞ」 まだじんわりと痛む尻に手を当て、改めてむつきは千雨の頭越しに室内に視線を向けた。 案の定というべきか、村上はあやかの後ろに隠れるようにして顔を殆ど隠している。 細身のあやかでは隠しきれないドレスの裾が見えているが、勿体ないことこの上ない。「先生に悪気はなかったから、ちづ姉には黙っててあげる」「変にこじれるから、そうしてくれ」「ていうか、折角だからちゃんと先生に、というか。男の人の意見も聞いてみない?」「ですわね。女の子の意見ばかりでは、夏美さんの頑なな心も信じてくれませんし」「私が頑ななのは、現状別の理由なんだけど。うぅ……全く、もう」 そう言いつつも、そろそろとあやかの背後から出てくるのだから見て貰いたかったのだろう。 むつきにというよりは、人生で一番着飾った瞬間を持った他の誰かにも見て欲しいという意味で。「凄く可愛い、こりゃ綺麗の部類にも一歩足を踏み込んでるか」 それがむつきの素直な感想であり、三人が騒いでいた理由も納得できるものであった。 村上が来ているのはレモンイエローが明るく可愛いスイートハートネックのドレスである。 バストは現役中学生としては並みのサイズであり、寄せて上げても谷間は厳しいのだろう。 胸元の膨らみの寂しさをごまかす様に、白い花のワンポイントが飾られていた。 またスカート部分は折り重なるカーテンの様な膝丈のカスケードフリル。 今の村上にお題をつけるなら、初めての社交界と言ったところか。 中学生らしい初々しさと、一歩大人に踏み込もうと背伸びした感じが可愛らしい。「んー、良く見たら化粧でそばかすも隠してるのか」「私が化粧してあげたんだ。やっぱ、女の子の魅力を引き出すのって超楽しい!」「柿崎、押さないで。先生の顔が近い。顔近い」 後ろから村上の肩口に顔を乗せる様に、美砂がそうアピールしてきた。 どうやら順当に自分のやりたい事への魅力に取りつかれているようだ。「本当に可愛いぞ。見違えた」「なんだかあまり連呼されると逆に嘘くさくかんじちゃうよ」「お前なあ。日本男児はシャイだから、こんなに褒めてくれないぞ。同年代なんか特に、照れるかして可愛くねーしとか普通に言って来るぐらいだぞ」「あー、なんか分かるかも。でもこれぐらいしたら小太郎君も流石に、女の子扱いしてくれるのかな?」 むつきが余りにも可愛いを繰り返す為、村上は呆れた様に姿見へと振り返った。 改めて自分の変身ぶりに感心し、最後にぽつりとそんな事を洩らした。 昼間に気を使わなくて良いと、女の子扱いされていなかったことがそれなりに悔しかったのだろう。 とはいえそのやり取りを見ていなかった、美砂たちにはとても意味深な呟きに聞こえていた。「聞いた、長谷川。夏美ちゃんってば可愛い顔して年下狙いの肉食系だったみたい」「小太郎って何歳だっけ。小学生はないだろ、小学生は。精通もしてなさそうだから、セックスもできないんじゃね? 村上、目を覚ませ。今のお前なら逆に大学生や高校生がナンパしてくるクラスだぞ」「夏美さん、保護欲と恋愛感情をごちゃ混ぜにしてはいけませんわよ」「ちょっと、特に長谷川さん!」 自業自得な面はあるが、心外だとばかりに村上が両手を上げて抵抗していた。「聞いて、ちゃんと聞いて。お昼にね、小太郎君がなんて言ったと思う? 女の子は面倒だからモテたくないって言うだけならまだしも。私のことを気を使わなくて良いから楽とか言うんだよ」「小太郎君って妙に老成してるところあるよね。馬鹿っぽいけど」「女は男が護らなとか、コッチコチの古臭い考えしてるしな。ていうか、小太郎はたぶん無意識だけど、村上逆に意識されてね? あれ? 矛盾してるか?」「それこそ矛盾していますが、合っていますわ。夏美さん、言外に彼女にするなら夏美さんが良いと言われたも同然と思うのですが」 昼間にあえてむつきが黙っていた点を、千雨やあやかがずばずば切り込んでいく。 村上も全くの無意識であったので、切り込まれた傷口からじわりと何かしらの感情が漏れる。 瞳を強く閉じてんーっと考え込み、じわりじわりと耳の辺りが紅く染まっていった。「あ、あははは。まさか、まっさかー! だって小太郎君は、まだ仮面ライダーとかテレビにかじり付いて見てるような子で」「先生も偶に見てるよね」「ザッピングしてる時にやってたら、懐かしいなっていう意味でな。それより、ほら。那波のカレーが……ここまで香って来てるぞ」 美砂の突っ込みを肯定しつつ、可愛そうなので話題を変えて上げた。 村上と小太郎の様に全く意識していなかった同氏は、変に意識させると往々にしてこじれる事がある。 村上は可愛い生徒であるし、小太郎も弟分のようなものだ。 できれば幼い恋に発展するかもわからないそれは、暖かく見守ってやりたいところであった。「やべ、先生襖閉じてくれ。衣装に匂いが移る。私たちは着替えてから行くから」「あいよ」 案の定、衣装第一の千雨がまずカレーの匂いに反応し、直前までの話題を綺麗さっぱり忘れてしまう。 先生ありがとうと両手を合わせる村上に軽く手を上げ、むつきは部屋を後にする。「あっ、夏美ちゃんは脱ぐの待った。その前に写真撮っておこうよ。朝倉いないから、携帯だけど」「そうだな。自分に自信が無くなったら、写真見て自分の可愛さを思い出せ」「皆の中で、私ってどれだけ自分に自信ない子なの。演劇なら名わき役として結構、自信が」「そこは主演女優と言いませんと」 階段の途中で聞こえて来た声に、もう少し掛かりそうだなと肩を竦めるむつきであった。-後書き-ども、えなりんです。別に焦らしているわけではないのですが……千鶴の本番は百三十八話の予定です。千鶴回のはずが、ちょいちょい村上が入って来る。ただし小太郎の嫁なのでむつきは半裸まで。それもどうかと思いますが。もうワンクッション置いてから、千鶴のエロ回です。いや本当ですよ。では、もう少しだけお待ちを。