第百三十六話 嫌わないで、一人にしないで 那波のカレーが、むつきの口に吸い込まれるように消えていく。「ん、お代わり」「あっ、はい」 綺麗になってつきだされたお皿を前に、嬉しいより先に唖然としてしまう。 自信作とは言ったもの特別なものなど、愛情以外はいたって普通のカレーである。 失敗を繰り返したからこそ、普段通りに手慣れた手順と味で作り上げた。 多少、玉ねぎを炒めた時の飴色への変わり具合など、普段よりは注意してみていたかもしれない。 だがその程度で劇的に味が変わるはずがないだろう。 なのにむつきはカレーがまるで飲み物であるかのように食べ、実はこれで二回目のお代わりであった。「むつき、お前……そんなに食べて腹は大丈夫なのか?」「平気、平気。那波、加減しなくて良いから。普通によそってくれ」 エヴァが心配してしまう程の勢いであるが、まだ衰える様子はなさそうだ。「夏美ちゃん、普通よね? 不味くて、逆に演技してるとかないわよね?」「いつも通りのちづ姉のカレーだよ。美味しいから、自信持って」「なら、良いんだけど……」 むつきが余りにも勢いよく食べる為、返って不安にさせたらしい。 那波がカレー皿にご飯をよそいながら、こっそり村上に確認していた。 自分でも一皿平らげた後だというのに、余程自信を喪失していたようだ。「五月、こっちもお代わりネ。うーん、エネルギーが枯渇した体に染み渡るヨ」「研究に没頭していたせいで、昨日の夜から何も食べてませんでしたし。さよさん、私もお願いします」「超さん、葉加瀬……怒りますよ?」 同じくお代わりと空のお皿を差し出した小鈴と聡美は、五月の怒り顔にひゃっと体を縮こまらせた。 二人は研究肌なので寝食を良く忘れるタイプだ。 しかも地下室でひっそりと行うので、誰にも気づかれることがない。 茶々丸か誰かに監視でもさせたいところだが、その生みの親なので平気で記録を改ざんされそうだ。 困ったものだと一旦諦めてカレーをよそった五月だが、ピンとひらめくものがあった。 特に聡美に対し、よそったカレーを渡す際に、お皿と一緒にある言葉を耳元に置いた。「私も余り人の事は言えませんが。あまり不摂生が過ぎると、ガリガリでみすぼらしい体を先生にお見せする事になってしまいますよ」「ぐぅ……可及的速やかに改善案を提出します」「あっはっは、葉加瀬は研究に寄り過ヨ。その点、私は無駄のない完璧ボディネ」「自分が良くても、周りに心配かけちゃ完璧にはほど遠いぞ。亀仙人も言ってたろ。良く動き、良く学び、良く遊び、良く食べて良く休む。お前らは普通なら皆がしたがる、良く休むが抜けてるんだよ」 何気に名言だよなと呟きながら、むつきは三杯目のカレーにスプーンを突き刺した。「先生は意外と漫画を引用されたりしますわね。その割に、お部屋に見当たりませんけれど」「実家にはあるぞ。一人暮らししてた時に、部屋を圧迫するから買うの止めてそれっきりだ。最近のは、お前らが持ち込んだ遊戯室にあるもんぐらいしか読んでないし」「そう言えば、私にも聖典を勧めてきたな」「オタクでもないのに、漫画を聖典って言うなよ」 あやかの指摘に、エヴァがやや懐かし気にヒカルの碁を貸されたことを思い出した。 今やそれを聖典と呼んだことには、おいおいと千雨に突っ込まれたが。「…………」 そんな普段通りのむつきたちのやり取りを前に、那波は胸の前で手の平をギュッと握りしめていた。 今自分が抱いている感情がなんなのか、正確なところは良く分からない。 ただ良く見知ったクラスメイトのはずなのに、奇妙な疎外感を感じてしまう。 その理由を知りたいと、今すぐ聞きたいと思うがグッと我慢する。 まずは自分の我がままをやり遂げてから、村上に言われた通りにやりきることに決めていた。「先生、美味しいですか?」「凄く美味いぞ。流石に四杯目は無理だけどな。さあ、これで完食。ああ、食ったぁ!」 三杯目、最後の一口を放り込み、やり遂げたとでも言う様にむつきが行儀悪く両手を上げた。「今日は本当に良く食べられましたね。はい、お茶をどうぞ」「サンキュー、さよ」 熱いお茶で口の中に残ったカレーの残照を洗い流す様に飲み下す。 喉元をお茶が流れていく熱さにまた唸り、ほっとむつきが息をはいた。「うん、満足。何度も言うと嘘くさいらしいが、美味かった」「お粗末様でした」 むつきの言葉に初デートとして、少しは空回りし続けた努力が報われた想いである。 いや、最終的には普段の行いである料理の腕が無駄な努力を上回ったとも言えるか。 今のむつきの笑顔と言葉を噛みしめる様に、那波は深く頷いて返した。 那波としても最終的には十分に満足できるデートと言えるようになった。 我がままを貫き通して、それを真正面から受け止めて貰って。 だが喉に引っかかった小骨の様な事実が、一つ残ってしまっていた。「さてと……」 息を吹きかけお茶を覚ましながら飲んでいたむつきが、ふいに区切りをつける様に呟いた。 ことりと小さな音を立てて湯のみがテーブルに置かれると、皆の視線が自然とむつきに集まった。「那波、今日のデートはやりきったか? 思い残しはないか?」「はい、やりきりました。ずっと失敗続きでしたが、今では十二分に挽回した思いです。今日は本当に、重ね重ね我がままを言いました」「女の我がままを許すのが男らしいからな。小太郎君、何処でそんなこと覚えて来たんだか」「千草さんが見てるドラマなんだって」 村上よりもたらされた情報に、含蓄ある様なそれが一気に薄っぺらく思えた。「ま、まあ……それはさて置き、本題だ」 テーブルを挟み、対面に座る那波へとむつきは視線を向ける。 那波に加えて、村上も半ば巻き込まれる形ではあるが姿勢を正していた。 特に先に三階の千雨の衣裳部屋を見た村上は、むつきの説明を先んじて予想できているのだろう。 時折、大丈夫かなと心配げな視線を、緊張気味の那波へと向けていた。「このひかげ荘は正真正銘、俺の家だ。最初に言ったが、夏の旅行の時に爺さんから正式に相続もした。代わりに他の遺産は全部放棄したが、それは余談だな。那波が一番聞きたいのはこいつらの事だろ?」 右隣にいたエヴァではなく、むつきは左隣にいた美砂の頭に手を置いた。 ぽんぽんと軽く叩いてから髪をくしゃりと乱暴気味に撫で、後に親しみを込めて髪を梳く。 特に後半の髪を梳くやり方は、教師が生徒に対するそれではない。 髪は女の命とは良く言ったもので、女の子は特に異性に気軽に触れて欲しくはないものだ。 髪に触れられるどころか、手櫛を通され喜ぶなど特定の異性だけ。 実際に美砂は嫌がるどころか、自慢の髪を誇る様に鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌だった。「ここは単なるたまり場ってわけじゃない。俺は生徒である美砂たちと付き合ってる」「たちって……」 たちという複数形に村上が疑問符を浮かべ、軽く視線を巡らせてさらに目を丸くした。「その他大勢にされたのは若干不満だがな」「細かいこと言うなよ。一人一人名を上げてったら、ぽろっと誰か抜けかけねえだろ」「恋人になっていない方を上げた方が、確実かもしれませんわね」「委員長の言う通りネ。春先はまだしも、今や二-Aの八割がたが親愛的の恋人ヨ」 エヴァが私が筆頭だとでもいう様に胸を張り、微笑ましくも呆れながら千雨がそう呟いた。 あやかも誰か抜け掛けないという言葉は否定していなかった。 小鈴までが照れる事も気後れする事もなく、胸を張った集団である。 さよや五月、聡美の三人は気恥ずかしそうにしながら、控えめに手を上げて自己主張していた。「一体……一体、何時から?」 いつの間にか視線をむつきからテーブルの上に落していた那波が蚊の鳴くような声でそう尋ねて来た。「私は今年の四月、一番最初」「私も四月頃にはここにいたけど、厳密に恋人になったのっていつだっけか」「麻帆良祭の後が夕映さんで、千雨さんや私は夏休み前後でしょうか?」「私は夏休みに入ってからです」 美砂に始まり、少々時期があやふやな千雨とあやか、それからさよと続く。 さよは初対面でプロポーズを受け初体験を済ませているが、千雨やあやかはセックスフレンドの時期がある。 恋人になった日と言われても、初体験なのか曖昧な意味でエッチをした日か。 何時からと問われると、良く分かっていない子も多いのであった。「そういえば、柿崎や長谷川さんって初体験済ませて」「もちろん、先生」「まあ、そういうこった」「まさか、委員長たちも……」 いくら何でもと特にあやかや小鈴を見て村上が呟き、満面の笑みで返された時である。 心中で爆発した思いを露わにするように、那波が勢いよく立ち上がった。 後ろに椅子を引く間もなく、勢いに負けたそれがガタンと後方に倒れた。 むつきから見て立ち上がった那波を見上げる形となったが、その表情は伺い見る事ができない。 伏せる様にうつむいた彼女の顔が長い髪に隠れる様になっていたからだ。 しかし顔を見ずとも、その心中は立ち上がると同時に振り上げられていた手がはっきりと示していた。 処理しきれなかった感情を暴発させるように、むつきへと目掛けてその手が振り下ろされる。「ッ!」 その程度ならと覚悟して、むつきは奥歯を噛みしめ避ける様子さえ見せない。 だが結果から言うと、那波の手の平がむつきの頬を打つことはなかった。「痛ッ、くっ……」 むつきの頬が叩かれる寸前、那波の腕をアタナシアが掴み取っていたからだ。「放して、ください」「アタナシア……一体何処から、ていうか。放してやってくれ、痛がってるし。力込め過ぎ」「ふん」 むつきに言われ、本当に不承不承と言った感じでアタナシアが那波の手を放した。 それでも気がおさまらない様子で、アタナシアと那波は互いに睨み、睨み返されている。 しかし、本当に何時の間に、それも一体何処から現れたのか。 那波がむつきに手をあげようとした衝撃が、若干ながら薄れてしまう程だ 驚きと別の感情を浮かべているのは、やっちゃったと顔を手の平で押さえている小鈴。 または呆れたような苦笑いを含んだ聡美と五月、さよである。「びっくりした。おい、エヴァンジェリン。お前の姉ちゃんがご立腹……また、いねえし」「エヴァなら、囲碁の対戦予定があると上にいった」「この修羅場で本当にフリーダムね、エヴァちゃん」 千雨が助けを求めてエヴァを探すも、アタナシアが言うには囲碁をしに行ってしまったらしい。 気まぐれ子猫はむつきに貫通されても、性根が変わらないようだ。「待て、急に出て来て。那波にも怒る権利ぐらい」「ない」 宥めるなら組みし易いアタナシアからとむつきも立ち上がったが、即答された。「どうしてですか?」「この場でむつきのただれた恋愛事情に文句をつけられるのは一人だけだからだ。村上夏美、貴様だ」「わ、私ぃ!」 アタナシアの名指しに、椅子から転げ落ちるように机の下に隠れていた村上が素っ頓狂な声を上げた。 当人としては、一番無関係な、第三者のつもりである。 もちろん、姉と慕う那波の恋愛事情なので全く無関係ではないが、なにかを言う立場にない。 今の那波には声も掛けられないので、村上が助けを求めたのはむつきとクラスメイトだった。 しかしその誰もが、何故村上がと小首をかしげているのだから助けにならないではないか。 ここに来る前に寮に帰っておけばと後悔しても、色々と遅い。「あのぉ……私は特に先生に恋愛感情もないし、一番そう言う立場から遠いと思うんですけど」 逃げられないと観念したように、那波を伺いながら村上が小さく、本当に小さい声で意見を試みた。「恋愛感情がないからこそだ。村上夏美、お前は法に守られるべき普通の子供なんだ。だが、那波千鶴。お前は違うな?」「単純に、見た目といった話ではないですよね?」「当たり前だ。貴様、今日のむつきとのデートした上に、事前に超鈴音からピルを貰ったな?」「それは、長谷川さんや柿崎さんが……」「二人は情報を、選択肢を与えただけだ。最終的に貰うと決断したのはお前だ。言い訳がましいことを言うな」 那波の言葉を断ち切る様にピシャリと言ったアタナシアは続けた。「デートが上手く行けば、あわよくば抱いて貰おうと思った。教師であるむつきに、生徒であるお前がだ。お前は自分から法を逸脱しようとした。例えそれが未遂でもだ。だからむつきを非難する立場にないんだ」「だからと言って、教師が生徒に……あっ」「法が正義なら、そうだな。教師は生徒に手を出すべきじゃない。ん? 矛盾しているな。どうしてお前だけが教師であるむつきに手を出されて問題ないんだ?」 完全にぐうの音も出せず、那波は悔し気に唇を噛むだけで何も言えなかった。 何もかも、アタナシアの言う通りだったからだ。 むつきの事を生徒に手を出した犯罪者などと呼べやしない、自分が手を出して欲しかったから。 そうなりたかった、教師と生徒という枠を超えた関係に。(振り上げた私の手は、法や道徳を元にした義でもなんでもない。私自身の我がまま、どうして私じゃないのか。嫉妬、どうして私だけじゃないのかという。嫉妬を元にした癇癪) 理詰めでここまで誘導され、理解できないと叫ぶほど支離滅裂ではないつもりだ。 しかしおさまらない、理詰めではおさまらない感情がある。「確かに私も褒められない事をしようとしました。けれどだからと言って、先生の行いが肯定されたわけではありません。先生は未成年である生徒に手を出した……」 一度熱された感情は生半可な事では冷える事はない。 アタナシアに押し詰められた理でさえ、感情という名の炎を猛らせる薪となる。 彼女自身が言ったのだ、那波はまだ未遂だと。 自分は未遂だが、むつきは違う。 その先を考えるだけならまだしも、口にしてはどうなるのか。 感情が先走り過ぎていて、考えを巡らせる余裕さえなかった。「先生は許されないことをした犯罪者です!」 そう叫んだ言葉の意味を自覚した瞬間、那波が腰から砕ける様に床の上へとへたり込んでしまった。 色々と情報過多で感情が振り切れてしまったかと、むつきたちは慌てて机の下から覗き込んだ。 女の子座りで呆然としていた那波の瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちていた。 すすり泣くことも、喚き鳴くこともなく、ただ静かに滴が零れ落ちる。「那波、大丈夫か?」 駆け寄って良いものか、悩んだ挙句一先ずむつきが声を掛けると、那波がビクリと震えた。 その視線がむつきに始まり、同じような格好で机の下を覗き込む美砂たちへと移り変わっていく。 今の那波は机の影にいる事を踏まえても顔色が悪い、より一層悪くなっていく。 弾劾の言葉を吐いた側とは思えない、逆に弾劾された側の様な。 まるで暗闇に怯える子供の様でもと思った所で、むつきがある事柄に思い当たった。「大丈夫」 声色を変えて尋ねるのでなく、幼い子をあやし言い聞かせるように呟いた。 四つん這いで机の下を潜り、そっと頭を撫でようとしたら那波が怯え頭を抱え込んだ。「……なさい、ごめんなさい。嫌わないで、一人にしないで」 どうやら本当に悪い方にむつきの予想は当たってしまったらしい。 寂しがり屋で孤独を嫌う那波ならば、むつきの本当の姿を知っても周りに訴えない思っていた。 仲良し二-Aのクラスメイトに拒絶されない為に。 だが実際はむつきの想像以上に那波は孤独を嫌っていた。 むつきを否定した結果、那波は皆に拒絶されることを酷く怖れている。 感情に任せて頭で考えるより先に、むつきを拒絶するような言葉を放ってしまったから。「わ、私は謝らないぞ」 孤独を異常に怖がる那波を、むつき以外の面々は知らない。 特に切っ掛けを与えてしまったアタナシアは、顔を引きつらせ視線を逸らしていた。「誰も責めちゃいないよ。甘く見てたのは俺だ。村上」「はい……ちづ姉、大丈夫だから」「田中さんに寮まで送らせる。那波をなんとかしてやりたいが、宥めている時間がない」 金曜か土曜なら泊まって行けと言えるが、生憎明日は月曜で寮に返さなければならない。 その上、まだ門限こそ厳密にはないが、四月の美砂の行いで生徒の帰宅には気をつけているところがある。 元々、今日は那波に明かす予定ではなく、むつきのミスが目立ったとも言えた。「明日また折をみて話すから、少し落ち着いたら俺は全然気にしてないって伝えてくれるか?」「うん、わかった。ちづ姉、立てる?」 村上が那波を支えようとするが、体格的に一人では支えきれなかった。 かと言って、むつきが手伝おうとしても、那波が怯える上に寮まで入れない。 それを見かねて同室のあやかが他の皆より一歩早く、村上の逆側から支えようとする。「千鶴さん」「ッ!」 だがあやかの声を聞いても那波は体を小さくさせてしまう。「委員長、気にすることないヨ。茶々丸の妹たちに手伝わせるネ。葉加瀬」「茶々丸、聞こえてたら妹を二人ぐらい連れて来て」「どうやら私たち、全員駄目っぽいな。委員長、今日は私の部屋に泊まりに来いよ。お互い、気が休まらないだろ」「そうさせていただきますわ。夏美さんには、押し付けるような形になってしまいますが」「うん、私は大丈夫。何時もちづ姉にはお世話になってるから、これぐらい」 最終的に那波は茶々丸の姉妹二人に支えられて立ち上がった。 しかし顔は伏せたまま、村上の手を強く掴んで決して放さないようにしている。 今の那波にとって村上が唯一のよりどころのようだ。 村上自身、それを理解して痛いぐらいに強い力で握られていても、文句一つ言わない。 むしろ今の那波の心中を労わる様に、手を重ねて包み込む様にしていた。「心配だから、私もこのまま寮に帰るね」「だな、こんなメンタルで衣装作りたくないし。今日来てなかった奴に説明もいるだろ」「茶々丸の姉妹の事もあるし、一旦帰るネ」「我々は研究の途中なのでまた戻ってきますが」 美砂や千雨、委員長も同じ超包子の電車で帰るようだ。 小鈴と聡美は何か寮をごまかす手段があるのか、元々寮側が把握できていないのか。 那波はひかげ荘を出て超包子の電車に乗るまでの間、一度も顔をあげる事はなかった。 周囲の特にむつきの関係者からの視線を避ける様に、怯え続ける様に。 むつきが那波にまた明日なと一言付け加える事さえできない。 せいぜいが、美砂たちに俺が話すから変に那波へアクションを起こすなと告げるぐらいだった。「不味かったな。もう少し計画的に……」 那波を乗せた超包子の電車を見送り、道の角を曲がって消えた頃にぽつりとむつきは呟いた。 折角、挽回できたはずの那波のデートが最後の最後でまた壊れてしまった。 ひかげ荘に戻ろうと、石段を登りながら今日一日を振り返る。 元々は、今日に那波へと明かす心算はなかった。 いや、全くなかったかと言われれば、なかったとも言えない。「のどかへの説明が行き当たりばったりで、上手く行ったからな」 同じように、いやさらにその前から。 皆が皆、一様に受け入れ、それでもと言ってくれるものだと甘い考えが少なからずあった。「全部、都合の良い様に考えてたんだ。那波だって、喜んで嫁になってくれるって」 石段を登りきる頃には、全て自分の甘さが招いた結果だと結論付けられた。 いや、甘いというのならあの状態の那波を返したのも甘い。 あの状態の那波が警察や父兄に事を明かすとは思えないが、村上がどう動くかは分からなかった。 アタナシアが言う様に、現時点で正面からむつきを弾劾できる資格を持っているのは村上である。 監視・監督者という意味では釘宮もそうだが、彼女も黙認していた事実がある。「まあ、なんにせよ」 ひかげ荘の玄関を開けて、もう一人の怯える子犬を見つめる。「むつき……」「アタナシアのせいじゃないって言ったろ」 悪い意味で那波をたきつけてしまったアタナシアが、ご主人様の帰りを待つ子犬の様におろおろしていた。 むつきが帰って来た瞬間、ぱっと明るくなった表情がまた沈んでいく。 怒られるかなとビクビクしている彼女の頭を撫で、ギュッと抱きしめてやる。 耳元で今一度、アタナシアのせいじゃないと言い聞かせ、程なくしてアタナシアの緊張がほどけて行った。「わ、私は……宮崎のどかの様に、反骨心で持って言い返して来るものだとばかり」「そう言うのを俺が期待してなかったわけじゃない。よしよし、大丈夫。大丈夫」「むつき、すまん」「結果的にはああなったけど、本当なら俺が事前に察して止めるべきだったんだ。アタナシアはあれで良いんだ。後は俺が何とかするから」 安心した反動か、ぐすぐすと鼻を鳴らし始めたアタナシアをさらに抱きしめる。 しかし、姉がこんなにも心細くなっているのに、妹である気まぐれ子猫は何をしているのか。 囲碁がそんなに大事かと、今度お尻ぺんぺんしてやると密かにむつきは心の閻魔帳につけておいた。「今日はもう、お風呂に入って寝よう。一晩中、ギュってしててやるから」「一緒に入ってくれるか?」「流石に駄目。そんな気分じゃないし。仮に暴走してヤッちゃったら、凹むから」「ケチ、でも好き。大好き」「はいはい、意外とアタナシアもエヴァと同じぐらい甘えん坊だな」 背を屈ませ、胸元に頬ずりしてくるアタナシアをエヴァにするようにあやす。 しばらく彼女の好きにさせ、それから風呂に行かせる。 今日は五月が帰ったので、さよ一人であの人数分の洗い物をさせるわけにはいかない。 むつきも手伝ってからさよもお風呂に入れ、三人で抱き合いながら眠るのだ。(エヴァは罰として、ハブだな。ハブ) 全然、罰になっていないことを知らないむつきであった。-後書き-ども、えなりんです。千鶴のトラウマ発動により水入り。あそこで素直に寮に返しちゃうのもどうかと思ったんですが。もう少しむつきには粘らせた方が良かったのか……次回にもう少し千鶴のアレコレやってからになります。それでは次回も未定です。