第百三十七話 俺のところに来い 次の日の月曜日、お昼休みも半分が過ぎた頃にようやくむつきは動き出した。 那波は体調不良を理由に休んでいる。 村上の方は登校しているのでまずは彼女からなのだが、会話すらできていない。 最近は高畑が毎日来ているので、朝から二-Aに顔を出すことも減り、顔さえ見ていなかった。 ようやく時間が出来たのが今。 さよのお弁当を片手に、二-Aの教室の扉から覗き込む様にして村上に声を掛けた。「村上、悪い。ちょっと聞きたい事があるから来てくれ!」 村上の席は窓際の前から二番目、さよの後ろであった。 既にお昼は食べ終わっているようで周囲から若干浮く形で、頬杖をついて外を眺めていた。 位置的に遠く、またお昼休みの騒がしさに負けない様に声を張り上げる。「…………はい」 一瞬聞こえていなかったかと思うぐらいの間の後に、村上が返事をしながら立ち上がった。 これ以上ないくらいに機嫌は悪いらしい。 近くの席の鳴滝妹が驚いて前の席の長瀬の制服の裾を掴んでいるではないか。 普通に考えて、今の今までむつきが顔すら見せにこなかったせいで間違いないだろう。「そんなに時間はとらせない。そこの社会科資料室な」 どうやら那波の事を聞く前に、村上のご機嫌を伺わなければならないようだ。 とはいえ、お昼になるまでアクションを取れなかった理由位しか説明できないが。 二-Aの教室を離れ、近くの社会科資料室の鍵を開けて村上を中にいれる。 以前、少し掃除をしたので埃っぽさは鳴りを潜めているが、閉め切っているので少し暑い。 ついでに空気の入れ替えと窓を開けてから、パイプ椅子を取り出し村上にも勧めた。「悪い、朝から立て込んでて中々時間が取れなかった」「それは、ちづ姉よりも大事なことなの?」「難しい質問だな。ただの仕事なら多少は放り出したが……」 村上の中学生らしい言葉に、腕を組んで考え込む様にしてむつきは答えた。「土曜日の試合のおかげで、アキラと神楽坂をセットで取材したいって申し込みが殺到してたんだ。神楽坂の特待生の為にも、放っておけなかった」「怒り辛い。明日菜とちづ姉どっちがってのも変だし。はあ、先生はやっぱり先生だね」「何を当たり前のことを。それより、お前の方こそ日曜にあの話を聞かされて、こうして良く平気な顔で二人きりになれたな。多少、疑うとか。狙われてるとか思わないのか?」 那波の事は気がかりだが、村上の肩をほぐす為に、もう少し会話を続ける。 純粋にあまりにもすんなり二人きりになってくれた事に驚いたこともあるが。「ちづ姉はずっと先生しか見てなかったけど、私は他にも見てたからかな。真剣に衣装について喋る長谷川さんとその衣裳部屋。柿崎も将来は美容関係に進みたいって聞いた。先生はいけないことをしたかもしれないけど、酷いことをしたわけじゃないって」 昨日のひかげ荘の三階に足を踏み入れたことを思い出し、村上は自分で納得するように頷いた。「私ね、正直に言うと以前は長谷川さんが苦手だった。私に構うなってオーラを四六時中出して、何考えてるのか分からないところがあって」 千雨がそうしている理由を知ったのは、麻帆良祭前にクラスが分裂しかけた時だ。 千雨と神楽坂の間接的ないがみ合いから、クラスの空気が負のスパイラルに陥った。 そこであやかの提案で茶番を仕掛け、千雨の内心を暴露したあの時である。「でも今は、長谷川さんともっと仲良くなりたいと思ってる。演劇と衣装造りで共通点もあるし、時々口は悪いけど面白い子だし。長谷川さんを変えたのは、先生なんでしょ?」「うーん、どうだろ。千雨が変わろうと思ったのは千雨自身の考えだし、やり方はあやかとかが考えてたからな。どや顔で俺が変えたって言えるほど、うぬぼれてはない」「でも切っ掛けぐらいにはなったんじゃないかな。柿崎が見つけたやりたい事も、あと……委員長のショタコンが治ったのも。保護欲と愛情をはき違えるなって言われた時は、思わず突っ込みそうになった」 特にあやかの件は誰だってそうなる、むつきだってそうなる。「柿崎たちに手を出した事はいけない事だとは分かってるけど。私が目で見たモノから言えば、皆が良い方向に変って笑ってる。ちづ姉を除いて……」 まるで手放しでむつきを擁護しているかと思えば、最後にオチが待っていた。 少なくとも、村上がむつきのただれた恋愛事情をどうこう言うつもりはないらしい。 今は寮で心を静養しているであろう、那波に関して以外は。 むしろ村上は、そこまで皆を幸せにできるなら、那波も幸せにしてと訴えているようにも見えた。「那波の様子は、あれから?」「昨日の夜は全く、私がトイレに行くのにも手を放してくれないぐらい。一緒に寝て、朝には少し落ち着いたみたいだけど。ベッドから起き上がる気力はないみたい」 もう少し詳しく聞いてみたが、村上が用意した朝食を残したとはいえ半分は食べてくれたらしい。 本当は看病という理由で村上も休むつもりだったが、那波から学校に行ってと言われたようだ。 村上を送り出して、一人になりたいと思える程度には落ち着いたか。 かと言ってそれは村上が相手であって、むつきやあやかと言った拒絶されたくない相手ではどうか。「那波と会話したいが、そもそも会ってくれるのか」「でも先生、ちづ姉と会って何を話すの? あんなちづ姉見てられないし、協力はしてあげるけど」「会って、那波の意志を確認する。俺に出来るのはそこまでだ」「ちづ姉の意志?」 何故そこで微妙に受け身なのかと、本気で分からないという顔をしていた。「俺の、俺たちの意志はずっと前から決まってるからだ」「決まってるって、どういうこと?」「お前たちが、ひかげ荘を知ったのはつい昨日の事だろ」「うん、クラスの中では知ったのが遅いぐらいなんだよね」「まだ知らない子は数人いるが。今年の四月からこれまで、俺たちは周りに隠して、二-Aの子に明かしてを繰り返して来たんだ。良くも悪くも慣れてるんだよ」 那波については悪い方向に慣れが発生してしまったのでこの様だが。 今までむつきがひかげ荘を知った子に求めて来た事は多くはない。 まず第一に秘密の厳守、これについて今まで一番危うかったのが美砂ぐらいのものである。 むつきに対する特別な行為がなければそれで終わり、しかしあるのならば。「だから今まで通り、俺は那波に向かって両手を広げて来いって言うだけだ」「なにそれ、そんなの来るわけ」「美砂を筆頭に十何人も来たぞ。最近だと、のどかだな」「皆、何考えてんだろ。どうしてそれで飛び込むの、さっぱりわかんない!」 どちらかと言わずとも、村上の感性の方が普通である。 俺も時々分からなくなると思ったむつきだが、黙っておいた。「はあ……何回目のため息だろ。先生が今さら我が身を省みる事がないのは分かった。あとは、ちづ姉がどうしたいかだけってことだよね?」「そうだな。那波がそれでも良いって言うのなら、俺は受け入れる気満々だ。美砂たちも。けど私だけをと言われたら、悪いが無理だ。俺はもう、誰か一人を選んじゃいけないところまで来ちまった」「仮に一人を選んだら、先生が殺されちゃうんじゃないかな。くーちゃんに龍宮さん、刹那さんの武闘派三人にアタナシアさん、千草さんも。うん、殺されちゃうね」「おい、楽しそうに言ってくれるな」 何故か楽しそうに物騒な事を言われ、げんなりと肩を落とす。 これでも苦労してるんだぞと思っていると、村上がパイプ椅子から勢いをつけて立ち上がった。「私ちょっと午後は早退するね。上手く言っておいて」「那波と話ができる様にしてくれるのか?」「純粋にちづ姉が心配なのもあるけど、ちづ姉もまず決めないと。先生の腕の中に飛び込むのか、もう一度ほっぺたにキツイ一発を打つのか。乙女の初恋を砕いたんだもん。仕方ないよね」「その程度なら甘んじて受けるよ。ただし、ひかげ荘の事は秘密にして欲しいが」「ちづ姉が自棄になっても、それは流石に私が止めるよ。皆まで巻き込むのはちょっと違うし」 認めたわけじゃないけどねと一言付け足し、村上は社会科資料室を後にした。 バタバタと足音を立てて教室へと戻り、もう一度社会科資料室の前ですれ違う。 鞄を手に走る姿はとても体調不良に見えないが、さてどういう形で報告するべきか。 素直に那波が心配で何も手につかず、看病する為にという方が村上らしいだろう。 小さくなる後ろ姿に頼んますとむつきは両手を合わせて祈っておいた。 だから数十分後に泣きそうになった村上から電話が入るとは思ってもみなかった。 寮の部屋に那波がいないと。 夏場の熱気は何処へやら、十月半ばの涼し気な風が窓から吹き込みレースのカーテンを揺らしている。 半そでの制服では肌寒いぐらいかもと思った那波だが、身じろぎ一つせず、テーブルの上の冷めた紅茶を見つめていた。 その表情には覇気がなく、また紅茶の水面の揺れを見つめている事にも深い意味はない。 何もする気が起きない、する気になれないのだ。 ふと気づけばため息どころか、呼吸で胸が上下するのも気怠く感じてしまう程に。(何もかも終わってしまった。終わらせてしまったわ) 昨日まであれ程輝いて見えた世界。 初恋の相手だったむつきの一挙一動に心が揺れ、自分がその隣に立てると信じて疑わなかった。 しかし蓋を開けてみれば、自分は一体むつきの何を見て来たのだろうか。 むつきの隣どころか、周囲には既にたくさんの女の子たちがいた。 出遅れたどころの話ではない。 自分がむつきを想って空回りをしている間に、二-Aのどれだけの子がむつきの胸に飛び込んだのか。(雪広の娘である事を誇りに思っているあやかまで……) 極普通の女の子であるのどかたちならまだ分かる。 雪広という一財閥の娘という立場で、幾ら次女とは言え気軽に体を許して良いはずがない。 一体どれほどの覚悟を持って、飛び込んでいったのか。(私は出来なかったわ。いえ、飛び込むかどうか以前の話ね。先生と関係を結ぼうとした自分を棚に上げて、感情の赴くままに嫉妬の炎を燃やして、挙句……) 昨晩の出来事が、那波の脳裏にフラッシュバックする。 むつきに対し平手を振るい、止められぐうの音も出ない程に論破され、それでも止れず暴言を吐いた。 息が詰まる、過呼吸でも起こしたかのようにふらつき那波はぐらりと体を傾けテーブルに手をつく。 紅茶のティーカップが弾み、倒れそうなぐらいに傾き元の位置に戻ろうとカシャンと音を立てる。(落ち、落ち着きなさい千鶴。ゆっくり……息を、ゆっくり) 重くて邪魔な胸を押さえ、ゆっくりと息を吐いて吸おうと試みる。(大丈夫。先生には呆れられ、嫌われたかもしれない。でも皆なら、あやかなら。夏美ちゃんだっている) 初恋は予期せぬ形で失ってしまったが、一人では孤独ではないと言い聞かせる。 中学生になってから一年と半年。 あやかなどはもっと小さな頃から顔を合わせる中で、暴言一つで壊れる仲ではないはずだ。 ちゃんと積み重ねて来たものがある、実家とは違うのだ。「ふう……」 呼吸の乱れを無理やり抑え込み、冷めた紅茶に口をつける。「お待たせしてしまったかしら?」「いえ」「小さな子がなかなかお昼寝してくれなくてね。普段会えない平日に会えたものだから。お姉ちゃん、お姉ちゃんって」 平常心に戻れたつもりでティーカップを置くと、部屋の奥から院長先生がやってきた。 何時もと変わらない穏やかで物静かな眼差しでやれやれと笑っている。 那波の姿は、足蹴く通っている孤児院にあった。 特に意味があって、目的があって足を運んだわけではない。「それにしても驚いたわ。千鶴さんが、こんな平日の昼間にふらふら歩いていたのだから」「私も驚きました」 実はお昼前にやはり学校へ行こうと起きて、制服に着替えたまでは良かったのだ。 しかし寮を出て直ぐに足が駅に向かず、そのままふらふらと行く当てもなく歩きだした。 このままじゃいけないと気力を振り絞ったは良いものの、長続きしなかったのだろう。 今だって、院長先生を手伝い子供たちをあやしても良かったのに、お尻が椅子から浮かなかった。 まるで夢遊病者の様にふらふらしているところを、院長先生に見つけられたのである。「少し休ませて頂いたら、やはり学校に」「良いのよ」 行きますと言う前に、先んじて院長先生がそう呟いた。 皺の奥にある優し気な瞳が、まるで小さな子をあやす様に繰り返す。「気が向かない時に無理をすることはないわ。私も時々は、本当に時々よ。あの子たちの面倒をみる事に疲れてしまうことがあるわ。人間、好きな事でも、やらなくちゃいけない事でも嫌になる時ぐらいあるわよ」「はい……」 特別、なにか聞かれたわけではない。 普通ならば、聞かれてもおかしくはないのにだ。 院長先生は、子供たちのハイキングに託けてむつきと那波がデートをしていたことを知っている。 実質、ハイキング中は那波がむつきの膝で眠りこけていただけだが。 そんな那波が翌日にふらふらと学校へも行かずに、彷徨う様に歩いていたのだから。「少し風が冷たいかしら、ちょっとごめんなさい。子供たちの部屋の窓を閉めてくるわ。何時までも夏のつもりじゃ駄目ね」 そう言って今一度席を立った院長先生が、奥へと引っ込み、数分と経たずに戻って来る。 本当に子供部屋の窓を閉めて来ただけなのだろう。 椅子に座る前に台所からやかんを持ってきて、自分と那波の分の紅茶を入れ直してくれた。「なにも、聞かないんですか?」 湯気の立つ紅茶を差し出された時、ついに耐え切れなかったように那波が尋ねた。「そう聞くのは、喋りたい事が何かあるのかしら?」 質問に質問を重ねられ、ドキリと胸が跳ねる。 喋られる、はずがない。 むつきが自分の生徒達と、那波のクラスメイト達と付き合っていたなどと。 しかもただ付き合うだけでなく、自宅に招いて淫らな行為を繰り返していた。「いえ……」 怒りも嫉妬も今はない、なのにどうしてだろう。 秋の風よりも寂しく冷たい風が、胸にぽっかりと空いた穴を通り抜けていく。「あら?」 ぽとりと涙が一粒、零れ落ちた。「やだ、止らない。すみません、なんでもないんです」 慌てて目元を擦り上げるも、後から後から溢れ出して間に合わない。 悲しさや寂しさなんて何も感じていないはずなのに。 分からなくなった自分の感情が形になって目の前に現れた様にこぼれ続ける。 一粒こぼれる度にそれを否定し続けていると、院長先生がいつの間にか隣にいた。 肩に優しく手を置かれ、那波の泣き顔を覗き込む様にして微笑みかけてくる。「人間はね、強すぎる感情を持つと自分でも理解しきれない時があるの。大きな絵を間近で見ると、何が描いてあるのか分からないみたいに。今の千鶴さんがそう」「だって、もう大丈夫。平気なんです」「じゃあ、どうして千鶴ちゃんは泣いているのかしら」「わかんない。わかんない!」 胸元で包み込む様にかき抱かれ、撫でられる。 少し硬い手の平で撫でられながらちゃん付で呼ばれたからか、言葉遣いが幼くなった。「泣きたい時は、泣いて良いのよ。無理に大人ぶって気持ちに整理をつける必要はないわ。大人になると、泣きたくても泣けないことが多いの。だから、今は一杯、一杯泣いて良いの」「院長先生、私……私ね。やっぱり、乙姫先生のことが好きなの」「ええ、知ってるわ。一緒にアップルパイも練習したわね。とても良い恋をしていると思っていたわ」「でも、失敗しちゃった。一杯、一杯間違えちゃったの!」 那波が一番悔やんでいるのは、自身の失敗である。 突然のことで嫉妬が先行し、売り言葉に買い言葉でむつきを罵ってしまった。 何一つむつきの事情を聞かないまま。 むつきが本当に悪い大人で、自分の生徒を獣欲が赴くままに食い散らかす様な人であったのなら。 那波に対しても、何度もチャンスはあったはずなのだ。 なのに露骨なアピールも口説きもせず、那波の相談や我がままに嫌な顔せずいつも付き合ってくれていた。 あれだけ自分の話を聞いてくれたむつきの話を、逆に那波は殆ど何も聞いていない。 いや、聞こうともしなかったのだ。「もっと私が、先生の話をちゃんと。だけどもう、嫌われちゃった。どうしよう、どうしたら良いの」「あらあら、いつも大人ぶってる千鶴ちゃんらしくない。悪いことをしたと思ったら、どうしたら良いのかしら?」「ごめんなさい、する」「そうね、千鶴ちゃんも分かってるじゃない」「でも、怖いの。許して貰えなかったら……」 院長先生が優しく諭してくれても、結局のところ那波の感情はそこへ戻ってしまう。 人一倍人に嫌われたり、疎ましく思われることが怖いが故に。「その心配はきっと、いらないわ」 老人特有の勘とでも言うのか、耳が遠いようで良いのだろう。 よしよしと那波の頭を撫でながら院長先生が窓の外を見た。 そこから見えるのは孤児院の塀に囲まれた庭先、視線はさらにその塀の外側に向いている。 流石に塀の向こう側まで見通せているわけではないが、音で見えている様なものだ。 遠くから段々と近づいて来るエンジン音、やや急ブレーキ気味にそれが塀の向こう側で止った。 そこでようやく那波も、誰かが車を降りて慌てて走っていく音を耳で捕えられた。「院長先生、那波が」 門から飛び込み、窓からちらりと院長先生の姿を目に止めたのだろう。 玄関に回ったり、挨拶する間も惜しんで声を掛けて来ていた。 咄嗟に那波が院長先生の影に隠れようとしたが、もう遅い。 窓にかじり付く様に身を乗り出したむつきの視線は、悪戯を見とがめられた子供の様な那波を見つけていた。「良かった。やっぱりここか。心配したぞ、那波」「心配?」 へなへなと窓枠に上半身をへたり込ませたむつきの言葉に、那波がちらりと顔を覗かせた。「心配、どうして……」「どうしても、こうしてもあるか。那波、良いか。逃げるなよ、そこにいろよ。院長先生、ちゃんと捕まえておいてくださいね。本当に、お願いします!」「ええ、もちろんです。玄関から、どうぞ」「え、あっ……」 抱きしめるでなく、キュッと捕獲された那波は逃げるタイミングを逸していた。 いや、むつきの心配という言葉を聞いてそのつもりはなかったのだが。 こう幼い子に向けて捕まえたとされるようにしては、逃げたくなるのが人間の性である。「院長先生、あの……まだ、心の準備。私、目赤くなってませんか? 頬が腫れぼったいとか」「今の千鶴ちゃんは、ウサギさんみたいなおめめよ」「だめ、放してください。せめて、顔を洗わせてください」「ふふ、暴れちゃだめよ千鶴ちゃん。お迎えが来たから、大人しくしてましょうね」「あと、私もうそんな子供じゃありません!」「あらあら、さっきまでわんわん泣いていた子が。大人ぶりたい年頃なのね」 玄関から上がってからは、急ぎ足でやって来たむつきは呆気にとられた。「なんだこれ」 院長先生に子供の様に抱きしめられた那波が、放してくださいと抵抗していた。 さながら祖母に歳不相応に可愛がられている孫のような光景である。 とても情緒不安定になって寮を飛び出した様には、とても見えなかった。「えっと、那波……迎えに来たんだが」「先生、今の私。あの、ちょっと見せられない顔で。謝りたくても」「なんでお前が謝るんだ? 謝るのはこっちだ。本当はもう少し落ち着いて話すつもりだったんだが」 とは言え、院長先生がいるこの場でべらべらしゃべるわけにもいかず。 かと言ってもうこれ以上は、話を拗らせたくもない。 だから単刀直入に、むつきはとてもシンプルな行動に出ることにした。 恐らくはこの程度ならと。 ある程度、那波の気持ちを察しているであろう院長先生なら見逃してくれると思ったのだ。「那波、千鶴……来い。この際、細かいことはさて置き。俺のところに来い」「先生?」 事前に村上に宣言した通り、むつきは両腕を広げた。「顔をみられたくないなら、伏せたままでも良い。俺のところに来い」「先生……」「行きなさい、千鶴さん。貴方はもっと我がままになって良いの。言いたい事を、やりたい事をして良いの。自分の我がままを、気持ちを全力で受け止めてくれる人は貴重なのだから」 昨日、村上にも同じような事を言われたはずだった。 周りから年齢以上に大人に見られやすい那波は、自分からも大人の様な態度をとっていた。 同じ年齢の妹分という村上がいたり、子供好きが高じて孤児院に入り浸っていることもある。 周りの我がままや気持ちを受け入れる事はどんどん上手くなったが、逆に自分の気持ちを露わにすることが知らず苦手になっていたのだろう。 そのつもりが本人になかったからこそ、余計に。「先生!」 だから一切の遠慮なく、那波は自分がしたい様にむつきの腕の中に飛び込んだ。 抱きしめられるより先に自分からむつきの背に腕を回して抱きしめる。「先生、好きです」「おう、知ってる」「それから、またアップルパイ作ったら食べてください」「いくらでも、むしろ作ってくれ」「もう少し強く抱きしめて、もう一度千鶴って名前で。そらから……」「千鶴、これぐらいで良いか?」「もう少し、もっと」 本当は力が強くて苦しいぐらいだったが、我が侭が止まらなかった。「それから、先生の事を教えてください。たくさん、たくさん知りたいです。逆に私の事も一杯知ってください。こんな我儘な私でも、受け入れて貰えますか?」「こんな可愛い我がままなら、いくらでも聞いてやるよ」「先生、そんなに何でも許されたら……本当に我がまま一杯言ってしまいます」「それがお前の本心なら、受け止めるのが俺とあの場所の役目だ。そこのところも説明しないとな」 あの場所と言われ、千鶴に思い当たる場所と言えば一つしかなかった。 むつきの家、皆がたまり場として使っているひかげ荘である。 何故自分の本心をさらけ出すことが、むつきのみならずその家にも関わって来るのか。 皆が知っているのに、私が知らない事だと千鶴が頬を膨らませて拗ねる。 むつきの肩口に顔を埋め、首筋にでも噛みつこうかと思ったところである事に気づいた。「あの、院長先生……」「あら、もう良いのかしら?」 むつきの腕の中で必死に振り返ろうと首を曲げるも、その姿を見る事は叶わなかった。 しかしからかいの成分のない純粋な問いかけに、まだ足りないとむつきを抱きしめ直すか迷う。 最終的にむつきの腕の中におさまることを選んだ千鶴の代わりに、むつきが言葉にした。「あー……院長先生、以前から察してはいたかもしれませんが」「ええ、知っていましたとも。多少、たきつけた事もありますし」「たきつけた?」「いえいえ、なんでもありませんとも」 むつきと千鶴を孤児院の倉庫に二人きりになる様に閉じ込めた事である。 もちろん、それを知っているのは当人と千鶴の二人だけであった。「俺と千鶴は教師と生徒ですが……できればこのことは見逃しては貰えないでしょうか? 千鶴、ほんの少しだけ待ってくれ」 名残惜しげにする千鶴を宥め、一度抱き合うのを止めてむつきは院長先生へと頭を下げた。 これには幸せ満開だった千鶴もハッと我に返る様に、むつきにならって頭を下げる。 もちろん、勝算あってこそのお願いであったが、次の院長先生の言葉に血の気が引いた。「さあ、どうしましょう」 思わず下げた頭をあげて、そう楽し気に呟いた院長先生を凝視してしまった。「そうね。では、こうしましょうか。千鶴さんも乙姫さんも、お互いに我がままを言い合って、受け入れ合って、幸せな恋人であり続けられるのなら見逃しましょう」「それはもちろん、お約束します。千鶴の我がままをたくさん聞いて、俺も我がままをたくさん言います」「院長先生、ありがとうございます」「それでももし、なにか嫌になることがあればまたここに泣きにいらっしゃい。乙姫さんが迎えに来るまでは、匿ってあげるわ。どうにも乙姫さんはモテそうだから、時々はヤキモキさせてあげなさい」 この人は千鶴のみならず、むつきの周囲にいる女の子たちの影でも見えているのか。 千鶴は少し微笑んでからはいと答えたが、むつきは曖昧に笑うことしかできないでいた。 それにしてもと、ふとむつきは思った。 千鶴が孤児院に足蹴く通っていたのは、何も子供好きだったからだけではないのかもしれないと。(案外、院長先生に理想の親の影を見てたのかもな) もちろん、あえて根掘り葉掘り聞くような事柄ではなかった。 千鶴自身が無自覚かもしれないし、大事なのはそこではない。 むつき以外にも我がままを言える相手、頼れる相手がいる事は悪いことではないのだから。-後書き-ども、えなりんです。今回のお話は、むつきと千鶴というより千鶴と院長先生が主。千鶴が子供らしく我がままを言える相手は、他にもいたよと。千鶴がそのことに全く気付いていない点も、またむつきと違う点でしょう。ちなみに、千鶴が実家を毛嫌いしてる理由は特に考えてません。お話の流れ的に、なんとなくそうなっただけで。沖縄で落とし穴に落ちた時にチラッと書いたかもしれませんが。ちみつな設定という奴です。それでは次回ようやっと千鶴の本番回です。なんだかんだで千鶴も長かった……