第十五話 俺も覚悟決めるから 目が覚めた時、まずむつきが感じたのは温かく柔らかな双球であった。 若く張りのあるぷるんぷるんのそれに、自分の顔が埋め込まれていた。 少し寝ぼけていた事もあり、他にそれが誰か思いつかなかった事もある。 ぱふぱふだと胸一杯に香しい体臭を吸い込みながら、胸の感触を楽しんだ。 だが幸せ一杯、男の夢、胸一杯の心境も長くは続かなかった。「あれ……美砂、胸大きくなった? 香水はあまりつけないはずなのに、匂いも違う」 胸の大きさが一回り、さらにもう一つとふた周りほど違う。 最近美砂の胸は急成長を始めたが、それでもさすがにココまでは大きくはない。 布団の暗がりの中で目を凝らしてみれば、乳首の形も記憶のなかと違う気がする。 悲しい男の性かな、おかしいおかしいと思いつつもそれを口に含んで転がしてしまう。「いや、マジでおかしいだろ。今日まだ、木曜だぞ」 平日に美砂が自分とベッド、ここは布団だが。 それを共にするのは明らかにおかしいと、被った布団をまくってこの巨乳の持ち主を見上げた。 まだ朝日は低いが眩しいそれが隙間から差込み、うっと瞳を細める。 その陽の向こうにいた誰かを見て、即座に持ち上げた布団を閉じてしまった。「おかしい、おかしいなんてもんじゃない。乙姫が浦島に玉手箱を渡すぐらい意味不明で不条理な現実だ」 布団を共にしている事がそもそもおかしいのに、その布団の中に逃げ込んだ。 頭を抱えて、視線を彷徨わせ、時々巨乳に目を奪われ。 違う違うと首を振っては混乱し、他にも大河内の体に付着する情事の跡を発見した。 しかもちょっとどころではなく、べっとりと、ありったけ。 お前一体ナニをしたと妙に痛い金玉が、朝なのにへなへなと元気がない反面、どこか満足そうだ。 もしも死に顔なんてものがあれば、安らかに真っ白に燃え尽きている事だろう。「んっ……ぁ」 俺の知らないうちになに一人で満足してんのと、殴りそうになっていると。 頭上の方から大河内の意識が目覚める声が聞こえ、数秒と経たずに布団が持ち上げられた。 朝日のせいか菩薩でも現れたような、穏やかな笑顔であった。「先生、おはッ!?」「ぐぇッ!」 むつきが起きている事に気付くまでは。 一瞬でカッと朝日以上に顔を赤くし、しなやかで白く長い足の膝が持ち上げられる。 むつきの腹部を突き破る程に蹴り上げて、布団から追い出した。 空っぽの腹からでさえ、何かが出そうだった。 そう言えば昨晩ご飯を食べていないと、走馬灯の様にどうでも良い事を思い出しもした。「かはっ。ちょ、息……息ができ」「先生、しっかりして先生!」 自分で蹴りだしておきながら、かき集めたシーツを体に巻き付けたまま大河内が手を伸ばした。 一昨日とは逆で、呼吸が止まったむつきの背中を撫で付ける。 呼吸困難で苦しみながらも、その優しい手つきが最悪の事態だけは避けられたと知った。 強姦、レイプ、風呂で大河内に欲情したまま襲いかかったという。 ただ、どちらにせよ最悪を避け、最善だとしてもきっと救いはない。 というか、この状況での最善とはなんだろうか、誰か教えてくれ。「ぜぇ、はひぃ……」「ごめんね、先生。その昨日、先生凄かったから。それ思い出して、恥ずかしくて」 ほら、終わったと止めの一撃を大河内から頂いてしまった。 体に巻き付けたシーツの中に亀のように首を竦め、上目遣いでの告白である。 もはや神や仏が生めよ増やせと言っても、教育委員会が許さない。 パターン入ったとどこかで感じたのは、間違いではなった。 昨晩生徒の前で土下座して問題起こすなと言いつつ、自分が一番の問題を起こしてどうする。「それでね、先生昨日露天風呂で気を失って……先生、聞いてる?」「あ、ああ。聞いてる」 明らかに聞いていない様子だが、一応と大河内は全てを語った。 むつきが倒れ、冷え切った体を温める為にはコレしかなかったと。 仕方なかったと、他に方法がなかったと。 半分放心状態のむつきが、全く聞いていないにも関わらず。「うんうん、分かってる。俺も覚悟決めるから」 何やら一人で自己完結をして、むつきは布団の上から大河内の肩を掴んだ。「大河内、とりあえず体を洗ってこい。お前を寮に送るから。それと、今日のお昼休みに時間をくれ。話がある」「分かった。入ってくるね」 キョロキョロと辺りを見渡した大河内が、布団を纏ったまま衣類の回収に入った。 ベストやシャツ、キュロットと畳まれもせず脱ぎ散らかされた光景がもう、アレだ。 胸の中で砕け散った僅かな希望の欠片すら、ロードローラーで踏み固められていく。 車体と同じく黄色い服を着た運転手が、ロードローラーだと楽しそうに叫んでいた。 想像の中でその黄色い人に殴りかかったら、見事に殴り返された。 無駄無駄とラッシュされながら、妄想でさえ勝てないとかもう駄目だ。「先生」「ん?」 体に巻き付けたシーツを衣服代わりに、お風呂へ向かう大河内が振り返った。「元気になったみたいでよかった。力になれて、嬉しかった」 こっちが恥ずかしくなるぐらいの、嬉しそうな笑顔に顔を背けたくなる。 先程した決意が揺らぎそうで、パタパタと廊下を走っていく大河内を見送ってから頬を叩いた。 ヤッてしまったものは仕方がない。 もう後は、出来るだけ周囲に迷惑を掛けないように潔い決断を見せるだけだ。 短い、とても短い夢だった。 上手く行かなかった辛く苦しい三年間と、最近の楽しかった一ヶ月を思い出した。「本当に楽しかったよな。泣くな、俺」 今直ぐにでも美砂によしよしと慰められたいが、もはやそれも叶わない。 潔い決断、それは決して美砂にとって良い決断ではないかもしれないのだ。 混乱した頭で下した決断だが、それでも大人として教師として下さねばなるまい。 何もない畳の上で座る自分を見下ろし、次いで主のいなくなった布団を見る。 まだ二人分の温もりが残って良そうなそれは良いとして、大河内がいない。 当たり前だ、お風呂にいかせたのだから。 水恐怖症の大河内を一人で、お風呂にだ。「ちょっと待て、大河内!」 行くなと手を伸ばしても、その辺りに大河内がいるはずもない。 既に最後の言葉から数分は経っているのだ。 女の子は服を脱がす、ではなく脱ぐのも一苦労だが、今の大河内はシーツ一枚。 今頃は既に湯船の中でパニックを起こしているかもと、襖を蹴倒し走り出した。 途中こけそうになりながらも露天風呂を目指し、暖簾をくぐって脱衣所へ。 次いで脱衣所をばたばたと駆け抜け、引き戸を開けて露天風呂に飛び込み叫んだ。「大河内、無事か。何処だ、しっかりしろ。泡になってないか!」 湯煙をかきわけ、露天風呂の岩場に駆け寄るも、その姿形も見えない。「え、先生?」 いや、むつきの後ろにいた。 体の洗い場で椅子に座り、お湯でカラスの濡れ羽色になった髪を洗っていた。 ちゃっかりシャワーを浴びながら、全然平気そうに。「き、きゃーッ!」 だが昨日とは違い、その格好は全裸であり、再びそのしなやかな足が振るわれた。 お昼休み、美砂と長谷川は珍しくと言うべきか、進路指導室へと足を向けていた。 普段あり得ない事なのだが、隙を見つけてむつきが話しかけてきたのだ。 お昼休みになったら、進路指導室に来てくれと。 長谷川はその時の真面目な顔つきに感じるものがあったが、美砂は別の意味に受け取っていた。 何しろむつきの携帯が壊れてから、一切の連絡ができないのだ。 放課後も待てずに、お昼休みの間だけでもと。 イチャイチャかそれとも濃厚なセックスか、今から下腹部がジンっと期待してしまう。「ねえ、長谷川。忙しくない? いいよ、私だけで行ってくるから。ほら、言ってたじゃない。ネットは一人で静かに、救われてなきゃって」「絶対、お前が考えてるようなお誘いじゃねえから。私までも誘われた時点で、気づけ」「あっそうか、うんうんそっか。エッチしてる間、見張りは必要だし。御免ね、長谷川。一人だけ幸せになっちゃって。今度なにか奢ってあげるから」「うぜぇ、このリア充マジでうぜぇ」 そんな美砂のおピンクモードも、進路指導室の扉を開けるまでであった。 扉を開けたその先に、先客がいたからだ。 むつきではなく、大河内に和泉、それから委員長までと少々珍しい取り合わせで。 三人は部屋の中央にぽつんと鎮座させられている机に椅子を持ち寄り、なにか喋っていた。 そして二人に気付くと、何故にと、いささか赤味のさした頬と一緒に小首をかしげる。「どうしたの、柿崎。それに長谷川まで」「あれ? どゆこと、私らは乙姫先生に呼ばれて」「そうなん? 私達もやけど。正確にはアキラだけど。私達は付き添いと言うか。ね、委員長」「その通りですわ。これも麗しいクラス愛」 大河内に尋ねられ美砂が答えると、和泉と雪広が頬を染めつつそう返してきた。 少々芝居がかかった雪広の身振り手振りは、何時も通りだ。 今にも背後から飾り立てられた御花がぶわっと咲き誇りそうである。「ねえ、長谷川。私、すごく嫌な予感がするんだけど」「奇遇だな、私もだ。何かやらかしたか、また先走ってるな。あの豆腐メンタル」「誰が豆腐メンタルだ、この野郎。遅れてすまんが、早く入れ」 そう特に長谷川が辛辣な言葉でむつきを評すると、その本人が現れた。 表面上は何時も通りに、特に何かある様子でもなく。 遅れた理由は特別どうという事もなく、瀬流彦にしつこく纏わりつかれただけだ。 朝になって車を返しに来て、お風呂上りの女の子の良い匂いつきともなれば怒りもするだろう。 僕だってまだ女の子を乗せた事なかったのにと、アレな方向の怒りだったが。 とにかく入れと、二人の肩を押して進路指導室に入れる。 そのまま自分も入ってくるが、雪広と和泉の存在に少しだけ固まった。「えっと、ちょっとこれから三人の個人的な進路相談なんだが」「先生、うちら知っとるし。昨日、直前にアキラに相談されて。パニクッた私が」「この雪広あやかを頼ったというわけです」 何故かむつきから視線を大きくそらしつつ、そう説明してきた。 大河内に視線で確かめると、カーッと赤くなって俯いてしまった。 どうやら、一線を越える前に親友である和泉に相談し、雪広にまで広まったと。 そんな余裕があったら逃げろよとも思ったが。 覚えていない昨晩を思い出そうとしても、下手な希望を抱くだけなので無視した。「オッケー、分かった。今さら、一人や二人増えても一緒だ。柿崎も長谷川も椅子持って来い。机の周りに集まれ」 進路指導室は元々使われなくなった教室を再利用したものであった。 教室の後ろ側、黒板とは間逆の位置にはこれまた使用されなくなった机が押し込み、片付けられている。 そこからむつきのを含め、三つの椅子を持ってきて座った。 席順としては、むつきを基準にして右と左にそれぞれ美砂と長谷川が。 机を一つ挟んだ向こう側、正面に大河内で、左右に和泉と雪広である。 その一人一人を順に、まずはむつきが見渡していった。 美砂は不安そうな顔でむつきを見ており、長谷川は何したと剣呑な顔だ。 大河内はきょとんとしており、和泉と雪広は相変わらず顔を赤くしてむつきを直視していない。 最後の二人はむつきも良く分からないが、深呼吸を一つして最後の覚悟を決めて言った。「こちら」 右手を上げて手のひらを上に、バスガイドがするようにして。「現在、俺が結婚を前提にお付き合いしている柿崎美砂です」「は?」 重なった声は、もちろんそれを知らなかった大河内に和泉、そして委員長だ。「な、何を突然暴露してるだァー。許さん。私の今までの苦労を返せ!」「いやぁ、まいったな。先生いきなり、心の準備も。そうです。彼女してまーす」「お前も惚気相手が増えたみたいに簡単に喜ぶな。これフラグだから、上げて下げるパターン!」 冷静と言うべきか、一人突っ込みに忙しい長谷川は正解であった。「美砂、よく聞いてくれ。こちら」 再びバスガイドのように、手のひらを上にして大河内を見るよう促がした。 一瞬まだ隠しとおせると迷ったが、迷うなと自分を叱咤してさっさと言い放った。「俺が浮気をしてしまった大河内アキラさんです」「ァー」「ほらみろ、言った通りじゃねえか」 壊れたファミコンのように一定の音を口から出しながら、美砂が固まった。 本当にナニかしやがったと、千雨は崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。 そこで先に固まっていた三人が復活し、あたふたと不思議な踊りを始める。 誰が何か言うべきか、おろおろと。 委員長である雪広さえ普段の冷静さを失ってしまい、結構珍しい光景だ。「ア、アキラ。先生としちゃったの!?」「一部始終電話でこの耳に致しましたが、そのような事は一切。音だけですので、全く気がつきもせず!」「してない、してない。風邪でダウンした先生をその、裸で暖めたけど。そこまでは。先生も最後だけは守ってくれたし!」「ちょっと待った!」 そんな三人に対して、話がおかしいと待ったを掛けたのがむつきであった。 その顔からはだらだらと汗が流れており、想定外の事態である事は明白だ。 今にして思い出したが、そういえば悩まされていた頭痛も今朝からない。 どれだけ混乱してるの俺と、今さら気付かされもした。「大河内、風邪ってなに? 俺、お前に浴衣を着せて風呂に入れてから記憶がなくて。起きたらお前が全裸で一緒に寝てて。ついムラムラと襲っちまったんじゃ」「違う、襲われない。あの時、パンツだけは履いてたし。先生意識もなくて、その状態でちょっとだけ襲われたけど」「やっぱ襲ってんじゃねえか!」「先生お待ちください。アレを襲うと表現して良いかは別問題。命を落としかけ、生物としては止むない事かと。この雪広あやか、裁判上でも証言いたします」「さりげに委員長、先生が捕まる前提やん。あかん、あかんてそんな事は!」 一つの教室に六人もいると言うのに、誰一人として冷静な者はいなかった。 本来こういう場では、教師であるむつきが静めるべきだが、事の張本人だ。 しかも生徒を自宅のような場所に連れ込みレイプしたかどうかの瀬戸際。 冷静になれという方が無理で、となると次は委員長である雪広である。 ただし彼女も盗聴行為で色々な意味で興奮して、実は寝不足気味であった。 後は似たり寄ったりで、長谷川などは勝手にしろと椅子にだらしなく座って不貞腐れてさえいた。「全員、黙れやこの野郎」 そこで両腕を胸の前で組み、いわゆるガイナ立ちで威圧したのは美砂であった。 以前、むつきが意図して連絡を断った時と、全く同じ状態である。 那波が発する黒々しいオーラと遜色ないものを発しながら、ギロリと全員を睨みつけた。 思わず、砕けた格好で座っていた長谷川も、姿勢正しく座りなおしている。 修羅場が形勢される前に、既に美砂に修羅が下りてきていた。「アキラ、もう一度説明。昨日、ひかげ荘に先生が連れて行ったのは知ってる。それで?」「浴衣を着て、先生と一緒に露天風呂に入った。ちょっとずつ水を克服して、肩までなら浸かれるようになって。ゆっくりお話してたら、先生が倒れてお湯に沈んだ」「で、そこで亜子と委員長は?」「私は、アキラから泣きながら先生が死んじゃうって連絡受けて。でもアキラ、パニック起こしてて良くわからんくて。委員長呼んで」「居場所もわからないとの事でしたので、私が指示を。先生を拭いて、寝かせて。それから本人の許可をとって人肌で暖めなさいと」 相変わらず腕を組みながら、美砂が視線を彼氏ことむつきへと向けた。「風呂のついでに水を克服させようと一緒に入って、昔の話。確か、小さい頃に銭湯で泳いだのが好きになった切っ掛けとか。そこから記憶がない」 今ようやく昨晩の出来事を思い出し、心中を搾り出すように言った。「だから、まずは美砂達関係者に説明してから。皆がどうにか納得できる形で罪を償って、その上で教師辞めようかと」 途中までうんうん間違ってないと大河内は頷いていたが、罪を償う止めるという部分でガタと椅子を鳴らした。 この時ばかりは、美砂もぴくりと眉を動かしており、和泉や雪広も決断にびっくりしている。 お互いの状況説明は済んだので、美砂はこれ以上むつきが馬鹿な事を考える前にと判決を長谷川に促がした さすがにこの状況で自分が冷静ではないと理解しているようだ。 その長谷川は、やっぱりそうなるかと、聞かされた内容を頭の中で咀嚼した。 それが終わると、これしかないなと後頭部の髪を無造作にかきながら言った。「判決、先生のギルティ。有罪だ」「待って、長谷川。私は襲われたなんて思ってないし、水もちょっとは克服できて」「落ち着け、大河内。問題はそこじゃねえんだよ。好いた惚れたは、当人達の自由。例え教師と生徒でも、それを否定したら柿崎の否定にも繋がるし」 自分だけでは止められそうにないので、美砂の射抜くような視線で止めてもらった。「まず、一つ。自分の体調管理も満足していなかったこと。社会人としてあるまじき行為だ。学生の私の台詞じゃないけど。体調が悪いのに、生徒を乗せて車を運転するな。事故ったらどうする。それに結局、助けようとした大河内が迷惑してる」「はい、おっしゃる通りです」「その二、アンタは教師であって医者じゃない。悪化したらどうする。運良く、効果のある治療行為だったみたいだが」「すみません」 みるみるうちに座席の上でむつきが小さくなっていく。「これで最後、大河内という生徒に入れ込みすぎた事だ。校内で溺れたのを助けたり、水泳部の危機に尽力したのは良い。だが寮から車で連れ出したのはアウト。公私の区別がついてない」 最後の最後で、ふらりと力尽きたようにむつきは机の上に倒れこんだ。 腕を枕にして、肩を震わせ鼻をすする。 疑うまでもなく、限界を超えてしまったらしい。 いつもの事だと言えば、それまでなのだが。 そこでようやく美砂も大魔神を止めて、隣に座って慰め始めた。「先生、今回はちょっと頑張り過ぎちゃっただけ。よしよし、泣かないの」「泣いてぐぅ、ねえ。ちょっと玉ねぎが目に染みただけだ」 普段とは違うちょっとの強がりは、大河内達がいるからだ。「玉ねぎなんて何処にあるんだか。強がらなくて良いの。この場に皆いるけど、世界一可愛い彼女もいるんだから」 止めてやさしく背中を撫でないでと願うも、言葉にしなければ止めては貰えず。 駄目泣いちゃう、我慢我慢と心で呟くのも限界であった。 教師として男として、恋人にしか見せない弱みがチラチラと頭を見せる。「一杯泣いて、また頑張ろっか」 そう美砂が呟いたのが、最後の一線だった。 もう無理だ、見栄を張るのも限界だと、むつきが体の向きを変えて抱きついた。「美砂、美砂ぁ……」 大河内や雪広、和泉の前でさえ、もはや我慢できなかったらしい。 何時も通りと言えばその通り、美砂の名前を呟きながら泣き出した。 唖然としている三人の前で、子供のように。「百年の恋も冷めるような光景だろ?」 呆気に取られる大河内達へと、長谷川がにやりと笑いながら今の状況を評した。 むつきの有罪は本音だが、その後はわざと追い詰めるように言ったのは間違いない。「え、だって。以前は頼りなかったけど、最近は先生ちょと格好良いところもあって」「私も、見所のある方だと見直して……」 長谷川の台詞に対して、大いに戸惑い頷きかねない和泉と雪広であった。 新人特有の堅さを三年も掛けて溶かし、ようやく目が出始めた希望の塊。 生徒の人気もようやく高まり始め、和泉などにも格好良いと時折思われるぐらい。 そのむつきが、半分に近い年齢の少女に抱きついて泣いているのだ。 弱くてなさけなくて、格好悪いだけの男。 思春期まっさかりの恋と憧れの区別もつかない頃合の少女には、そう見えてもおかしい事はなにもない。「私も知ったのは最近だけど。男なんて、上っ面の見栄を剥いちまえばこんなもんだ。弱っちくてなさけなくて。でも支えてくれる誰かがいれば、一時的にでも神より強くだってなれる」「長谷川の言葉、なんとなく分かる。溺れた私を助けてくれた先生は、神様よりもずっと力強い王子様だった。けど、昨日は、震えて弱った先生は小さな子供みたいだった」「こいつは、想定外。柿崎のためにも諦めさせるつもりだったんだが。王子様の正体がこんななさけない男だって思わせて」「それは嘘、長谷川は罪だって言わなかった。私が先生を好きになって、覚悟の上で温めてあげた事を。意味はちょっと違うけど、先生と寝た事を」 普通に、人命救助だしと長谷川は深くは突っ込まなかった。「先生に彼女が、既に柿崎がいた事は正直いって悔しい。それでも私は先生が好き。だから、彼女でなくてもお嫁さんになれなくても良い」 あれこいつ何言ってるのと、台詞のおかしさに一番最初に気づいたのは長谷川だ。 和泉や雪広はこれが愛とばかりに、大河内の台詞に聞き入っていた。「私、先生のお妾さんになる」「ぶばぅッ、げほ。やば、変なところに何か」「先生しっかり、ほら落ち着いて」 泣いていたむつきでさえ噴き出し、むせる程の破壊力であった。「な、何を考えてんだ。頭大丈夫か、お前。あのリア充どもを、これ以上調子つかせんな!」「そうだよ、せめて柿崎から奪うとか。もっとまともな手段だってあるやん?」「亜子さん、それはとてもまともな方法とは。えー、多重婚可能な国に国籍を移し、至極全うに。ご安心を、クラスメイトの為にもこの雪広あやか。雪広財閥の全てをかけて」「アホ、何処が全うだ。思い切り、金の力でものを言わせようとしてんじゃねえか!」「ですが柿崎さんも大河内さんも、私の大切なクラスメイト。少々強引な手段をとろうとお二人が幸せになれるのなら」 さりげにむつきを省き二人を幸せにとボケた委員長を、長谷川が叩いて黙らせる。「落ち着いて、皆。ちゃんと考えた上でのことだから」 それの何処がと突っ込みたいが、むせ終わったむつきも、ギュッと抱きついた美砂も大河内を見た。 一体それのどこがちゃんと考えた上での事なのか。「人魚姫って、真実を伝えて王子様を村娘から略奪しようとして、どうしようもなくなっちゃって泡になって消えたから。大人しくお妾さんになれば、悲恋にならなかったんじゃないかって」 当たり前の事ながら、それの何処が良く考えた上でだと五つの声が重なった。 結局のところ、全員が全員納得できる償いなんてあるはずもなく。 その日の放課後は、帰りの夕会が終わって直ぐに皆でひかげ荘へと向かった。 むつきは本当は水泳部の顧問があったのだが、周囲には大河内を病院にと臨時代行の臨時代行を出した。 変わって貰った瀬流彦にはお詫びだと、水泳部のエロさを淡々と語り、ガッチリ握手を交わしたので問題ない。 色々と教師としては、お互いに大問題だが若いのだから仕方がない。 そして、皆とは美砂と長谷川は当然として、大河内、それから和泉と委員長だ。 全員が浴衣を見に纏い、露天風呂にて思い思いの場所、岩場に腰をかけた。 岩場から浴衣から伸びる素足だけをお湯につけ、足湯のごとく温めている。 浴衣の下は裸なので肩まで浸かっても問題ないのだが。「ほら、大河内。頑張れ、頑張れ。一回だけ、顔つけてみろ」「アキラ、頑張ってや」「うん、んー……ぷはっ」 泳ぐにしては広いとも言えない露天風呂内を、応援を受けながら大河内が泳いでいた。 むつきに両手を引っ張られ、水面上に顔を出しながら小さな子が泳ぎを教えて貰うように。 バタバタと足を漕ぐので、肩まで浸かっていては飛び跳ねる水滴で気分が台無しである。 最も、全員がそんなアキラを疎ましく思わず、むしろ微笑ましく見つめていた。 大河内もまだお湯に顔をつける時は目を瞑っているが、この分では復帰も早い事だろう。「それにしても、驚きましたわ。麻帆良にこのような場所が。風情溢れる温泉旅館。私のランキングでも上位に食い込む場所ですわ」 やや冷たくなってきた春風に、夕日で黄金に光る髪をたなびかせながら委員長が評した。 風は出てきたが、足元のお湯が温かいので全く気にならない。「あんたの基準は一体どうなってんだ。まあ、私らの知らない世界だろうけど」「私は先生さえいれば何処でもパラダイスだけど」 きっちり浴衣を着込んだ皆とは異なり、セクシー気味に着崩した美砂が惚気る。 またかこの野郎と顔を崩したのは長谷川ぐらい。 委員長は少し考え込むようにし、大河内の応援中でもそれが聞こえたのか羨ましそうにする和泉。 大河内自身は、泳ぐのに必死であまり聞こえてなさそうだ。「それで、どうなさるのです柿崎さん」「ん、なにが?」「決まってんだろ、大河内の事だよ」「私も混ぜてや。アキラの大事なことやし。結局、先生も柿崎も答え返しとらへんやん」 委員長の問いかけに呆けた美砂へと、長谷川や和泉が聞きたいと言ってきた。「うーん、どうしよ」 それは拒絶でもなく、認めるわけでもなくどっちつかずの呟きであった。 大河内による衝撃の告白から、時間を置いた事もある。 感情的になるには時間が空きすぎ、かといって答えを出すには短すぎた。 だから今は、思ったままを言葉にするしかなかった。「一ヶ月」「ん?」 短く区切られた単語の呟きに、どういう意味だと長谷川が眉をしかめた。「だいたい一ヶ月の差なんだってば。私が先生を好きになったのと、アキラが先生を好きになったの」「それがどうかしましたか?」「だって、私が元彼に強引に迫られたのが一ヵ月後だったら。きっとアキラの方が先に先生と付き合ってた。そう思わない?」「よう分からんけど。言われてみれば、せやな。溺れたところを助けてもらって、水恐怖症を一緒に治そうと頑張って、逆に風邪引いた先生を暖めて」 美砂のいないむつきが、プールに飛び込み大河内を助け出すバイタリティがあったかは別として。 今回の件が、そっくりそのまま行なわれたらそうなったであろう。 一方が教師で一方が生徒であれ、現在までむつきと美砂は付き合ってきた。 その美砂がいなければ、責任を取ってむつきがアキラと付き合っていてもおかしくはない。「んな事、考えたってしょうがないだろ。現実、お前が先に先生と付き合って、大河内は後だ。恋愛なんて早い者勝ちだろ? 例え、切欠の偶然が先か後かでも」「そうなんだけど、その偶然だからこそ怖いの。たかが偶然に振り回されて。立場逆なら私絶対にふざけんなって叫んでた。なんで、どうして私じゃ駄目なの。たった一ヶ月の差なのにって」「言い出したら、きりがありませんわ。例え偶然に振り回されたとしても、好きになった気持ちは互いに嘘ではなかったはずです」「その証拠に、生徒の前でうっかり泣いちゃうぐらいだし」 乱暴粗暴、強引で見栄っ張りで女の子の事をちっとも理解してくれない男の子の弱さ。 正直なところ、美砂に振られたらむつきは自殺でもするんじゃないだろうか。「例え偶然に振り回されても、なんかむかつく。ねえ、先生」「おう、どうした美砂。大河内、ちょっと休憩。オーバーワークは、また事故るぞ」「うん、そうだね。休憩、休憩」 むつきに言われ、つつつっと大河内が遠慮がちに距離をとっていく。「既に、正妻と妾で上下関係が生まれている件について」「やかましい、長谷川」 長谷川の突っ込みは、腕を振ってしりぞけ、むつきは腰に手を当てて美砂を見た。 別にそのポーズそのものにはあまり意味はない。 美砂とおまけで長谷川、それから好意を寄せてくれた大河内。 その三人はまだしも、和泉や委員長にまで泣いているところを見られ恥ずかしいのだ。 一人身の時は酒でも飲まないと泣く事すらできなかったが、最近凄く涙腺が弱くなっている気がする。 違うぞ、俺はもっと強いんだぞというポーズでもあるのだが。 これが男の見栄かと、既にその弱さを知った彼女らには見抜かれていたが。「私の事とか、教師だとか。そういうの全部抜きで思ったように答えて。先生、好きって言ってくれたアキラと付き合いたい? セックスしたい?」「えほっ、な……なんてはしたない言葉をお使いになるのですか!」「セック、セッ」「おーい、和泉がしゃっくり起こしたみたいになってんぞ」 昨日と今日で、お嬢様らしくなく何度噴き出してしまったことか。 和泉もまともに使った事も、目にした事もあまりない言葉に完全にショートしていた。 しかも親友の視線は問いかけられたむつきに釘付けである。 女の友情などそんなもんかと、仕方ねえなとばかりに長谷川が背中をさすってやった。「お、俺は……」 俺の彼女は一体何を言い出すのかと思いつつ、むつきはチラリと大河内を見た。 一瞬目が合い、期待を込めたそれに耐えかね、視線をそらして行った。 昨日のように黒髪は綺麗に結い上げられ、濡れた浴衣ははだけ気味。 今朝方に埋もれたあの巨乳が、チラリと見えている。 胸から腰までは帯のせいでガッチリガードされているが、股下辺りからまた無防備だ。 むつきの腹を二度も抉ったあのしなやかな足が魔性の魅力と衝撃の恐怖でもって誘ってくる。 あの体を昨晩、自由に蹂躙しつくしたなど全くもって覚えていない。「ありゃ、性欲に負けてる顔だな」「長谷川、ちょっと黙れ」 ええいと被りを振って、改めて体ではなく大河内を真正面から見つめた。 お妾さんでもと、ある意味で都合の良い女でとまで言ってくれた大河内。 たかが溺れたところを助けただけでとは言わない。 正直、むつきでも美女に助け、と考え俺はイケメンじゃねえしと捨てた。 ちょっと悲しくなった。「いきなり落ち込まれましたけど……」「これが豆腐メンタル? なんか引け目を感じたみたいやん」 長谷川のみならず、雪広や和泉にまで内心を見抜かれてしまった。 違う、本当の俺はそうじゃないと背筋を伸ばし、「男のちっぽけな見栄はいいから。先生、どうなの?」「はい、すみません。もう少し、時間を下さい」 正妻にまで見栄を奪われた。「あー、だからアンタ駄目なんだよ。大河内とセックスしたい、孕ませたいって言うだけだろ。何を迷う必要があんだよ」「長谷川さん、女性は常にエレガントに。しかしながら優柔不断、この決断力のなさは正直……」「変態、先生の変態。アキラをそんな目で見てたなんて。いややわ。先輩も、上辺やなく中までちゃんと見たらそうなんやろか」「なにこれ、俺を晒す会なの? なんで好きな子と、好きになってくれた子の前で苛められてるの?」 ずぶずぶと、お湯の中に沈みこんでいくむつきの前に手が差し伸べられた。 正妻である美砂は、まだ露天風呂の岩場の上である。 他にブスブスむつきを刺している三人はありえず、残るは一人だけだ。 さし伸ばされた手に触れると、にっこり笑いながらキュッと握られた。「先生が選んだ選択肢なら、私は全部受け入れられる。例え、断られたとしても。だから、好きです。私を先生のお妾さんにしてください」 正直、あざといと言わざるを得ないが、煮え切らないむつきには効果的な言葉であった。「好きかどうかは、まだ分からん。けどセックスしたいって思うぐらい魅力的に感じる。というかアキラを孕ませたい、孕ませたい。今、ここで!」「え、先生ちょっと待っ」 くるりと大河内の体をコマの様に回し、背中が見えてから両肩に手を置いて止める。 それから軽く背中をおして、目の前の岩場に手をつけさせ腰を掴んだ。 背中を押したのとは逆に、腰を引いて突き出させ、そこまでであった。「勝手にここでとかつけたすな!」 長谷川に投げつけられた風呂桶が、見事むつきをヘッドショットした。「今、今ここでと申しませんでした。柿崎さん、貴方達普段ここで」「してるよ。大丈夫、ちゃんと洗ってるから。浄化装置だって動いてるし」「おいぃぃぃ、私も初耳だぞそれ。なんてもんに私ら、浸からせてんだ。妊娠したらどうする!」「妊し、あふぅ」 まさか自分が衝撃的な大人の世界に巻き込まれるとはと、和泉が真っ先に気を失った。 ぱしゃりとお湯に沈むが、またしても親友はヘッドショットされたむつきを助けるので忙しい。 親友の面倒ぐらいみろと、これまた長谷川の出番であった。 先に逃げ出した雪広の手もかり、和泉の救助を行なう。「あははは、先生と二人きりも悪くなかったけど。やっぱ賑やかなのも好き。心の準備はまだだけど、今まで通り楽しくやっていけるんじゃないの?」 救助される和泉や、眼を回し大河内改め、アキラに介抱されるむつきを指差し美砂が笑う。 お猪口に注いだ酒でもあれば、くいっと飲みかねない雰囲気であった。 女子力の戦闘力は不明ながら、またしても男子力があがっている。「なに、勝手に綺麗に纏めようとしてんだ。柿崎」「許せませんわ、この風情あふれる情緒をふしだらな世界に巻き込むとは。柿崎さん」「けほ、少し飲んじゃった。柿崎ぃ」 その美砂の後ろに、怒りをそなえた三人の乙女達が立っていた。「は、ははっ……やっぱ、だめ?」 精子に溺れて溺死しろ、三者三様の言葉ながら要約するとそうだった。 背中を蹴りだされた美砂が、むつきに重なるように落ちてお湯を盛大に跳ね上げた。 当然の事ながら、その後露天風呂や食堂など公共の場でのセックスは禁止された。 -後書き-ども、えなりんです。一応、表面上は二人共納得ずくで、二股決定。二股というか、アキラがお妾さんポジ。そもそもなんで二番目がアキラだったかというと、この人魚姫ネタの為ってのも結構大きい。本当に、昔話は不条理なのも多く。乙姫が浦島に玉手箱渡したり、人魚姫がお妾で満足しなかったり。玉手箱の件はググって色々調べたんですが、明確な回答はないみたいです。と言うわけで、ひかげ荘には美砂と長谷川に続き三人がチェックイン。割と良識派が入ってますね、ブレーキ役というか。進んでアクセル踏んじゃう子はもう少し先です。それでは次回は水曜です。えなりんでした。