第十九話 別に。怖くねーシィ? 今この状況は果たして喜ぶべき状況なのか、それとも悲しむべき状況なのだろうか。 先日二年A組に対して宣言した社会科の小テストが終わったのが昨日の金曜日。 結果はそれなりに期待していたのだが、惨敗。 十点満点で平均が三点だったのである。 採点中から薄々感づいてはいたのだが、結果を知った時には職員室のデスクをひっくり返そうかと思った。 もちろんそんな腕力はないが、憤りにも似た感情がそれぐらいあったのだ。 案の定と言うべきか、古菲は天台宗と書くところでなにか武術っぽい流派を羅列するし、空海と答えを書くところで佐々木は古の呼び名のくーへと書くし。 まだ空欄で出すか、禁止されても宗教とか仏教、または兎に角有名な人名で埋めて貰った方がマシである。 昨日はそのままやけ酒を飲み、ひかげ荘に来た美砂とアキラに慰めて貰った。 といっても、性的な意味ではない。 俺教師としての才能ないかもと美砂の膝に縋って泣いたのだ。 ちなみにアキラには、指差して大爆笑した長谷川を追い出して貰っていた。 雪広と和泉は、またやってると冷たい視線だけを置いて露天風呂に直行だ。 嫁と彼女以外、家主への敬意がこれっぽっちもありゃしない。 そして今、むつきは湖の中央にある巨大な施設へとやって来ていた。「これが図書館島か、でっけぇ」 慰めて貰ってそれで終わりでは進歩がないので、貴重な土曜に勉学に励みにきたのだ。 美砂やアキラとイチャイチャしたいのも我慢して。 それがまず悲しむべき状況。 瀬流彦からまた借りた自動車を職員用駐車場に止めて、見上げていた。 真っ白な壁と赤い屋根の麻帆良らしい異国の情緒溢れる建物であった。 たぶん誰かに聞けば、何々調のうんたらと建築様式がわかる事だろう。 遠くには何故か塔まで見え、むつきは車で来たが、学生は基本的には定期船を利用する。 湖の真ん中にあるため、橋こそあるが自転車ではかなりのガッツがいるのだ。 今まで麻帆良女子中の図書館は利用した事があったが、こっちは初めてだ。「しっかり勉強して、腹空かして。モリモリ食べるぞ!」 やや目的からずれた発言をして、玄関口を目指して看板を見ながら歩く。 別に食べるといっても、図書館島は名物ジュースはあっても食べ物はない。 むつきが持っているのは風呂敷に包まれたお弁当。 美砂とアキラが、頑張ってと朝も早くから作ってくれた一品だ。 どうも酒に酔って泣いた時に、お弁当食べたいとか言ったらしい。 それが、唯一の喜ぶべき状況だ。 ほんの少しだけ足取り軽く進み、玄関口からサービスカウンターに向かう。 外で見たより天井も高く、兎に角蔵書が多くてキョロキョロしてしまった。 瀬流彦から預かった専用カードがなければ、見たい本の一つも見つからなかったかもしれない。 そう、わざわざ図書館島に来たのは、瀬流彦がはかどりますよとカード、あと車も貸してくれたからだ。「すみません、このカードを見せれば教師用のスペースに行けるって聞いたんですけど」「はい、間違いありません。所属とお名前をどうぞ」「麻帆良女子中の二年A組の副担任、乙姫むつきですけど」「は?」 聞かれた事を答えたら、何を言ってんのという意味不明な返答をされた。 三角形の鋭角的な眼鏡をした知的美女、纏め上げた黒髪がちょっと塔みたいになっている。 美人司書に眉を潜め聞き返され、こっちが怒られたように感じてしまう。 だが直ぐに何かに気付いたように、その美人司書が改めて問いかけてきた。「失礼ですが、このカードは何方から?」「同じ麻帆良女子中の担当クラスはなし、瀬流彦先生から使ってと渡されたんですけど。これ個人所有らしいですけど、なんで僕支給されてないんですかね。来た事がないから?」 単純に疑問に思って聞いてみたのだが。「そうですか、そうですか。あのクソ糸目、ぶっ殺すぞ」「え?」「失礼」 美女司書から聞いてはいけない言葉が一瞬飛び出したが、気にしない方が身のためだ。 当人も失言と感じたのか、一言謝罪して軽くコホンとあらぶった声を整えた。 「ではこちらのカードをどうぞ。新規に作成いたしましたので、あちらのエレベーターから四階にどうぞ」「あれ、十五階って聞いて」「四階にどうぞ」 改めて、反論すんなこの野郎とばかりに、強く微笑まれそれ以上何も言えなかった カードだけ受け取って、そそくさと去るのが吉である、きっと恐らく。 あの発言もさっさと記憶の中から除去しておこう。 そして瀬流彦も性格はきつそうだが、美人の知り合いいるじゃんぐらいと思っておこう。 下心ありありでまた車を貸してくれたが、女の子の紹介はいらないだろう。 そそくさというか、こそこそとサービスカウンターを離れ、あちらと言われた方向に歩いていく。「あー、珍しい人発見や」 そんな折、やべ見つかったと肩を竦めたくなる言葉に呼び止められた。「せんせぇー、こんな所でどうしたん?」「木乃香さん、声大きいです。あ、あの……おは、おはようございましゅ」「近衛、声でかいってよ。それと宮崎、落ち着け。別にとって食やしねえよ」 すみませんと蚊の鳴くような声で返されたが。 五メートル程離れているので小さな声が本当に遠い。 おかげで近衛への注意も全く届いていない。「普段会わへん先生に会って、てんしょん上がってもうた。私らは図書館探検部の活動やけど、先生はお休みなのにスーツやん?」「図書館に来るなんて本を読むか勉強だけだろ。ちょいと落ち込む事があってな、色々と取り戻す為に勉強しに来た。こうして生徒に会う可能性もあったしスーツなの」「先生になっても、勉強は続くんですね」「まあ、人間だからな。て言うか、宮崎。電話で話すか? 聞き取るのが大変なんだが」 五メートルも離れていると、宮崎が独り言を言っているようで周囲の目を引いている。 むつきが声をかけているので、何であの距離でと思われる程度だが。 一部微笑まし気というか、頑張れと眼差しを送るのは図書館探検部の先輩等だろうか。「図書館探検部って確か他に」 まだ他にいたと思いだす前に、それは現れた。「甘い、甘酸っぱい濃厚なラヴ臭。意外、それは手作り弁当!」「俺の宝物に怪しい台詞と共に近付くんじゃねえ、早乙女。この乙姫、容赦せん!」「おっ、本当に意外と先生そっちもいける? それはまた別の日に問い詰めるとして、先生それ彼女の手作りでしょ。私のラヴ臭センサーが壊れそうな濃度だよ」 離れろと早乙女の顔面を掴んで遠ざけているうちに、近衛と宮崎の気を引いてしまった。「彼女がおるって噂、本当やったんか。手作り弁当で休日にお勉強か。彼女さんも作りがいがあるえ」「お、応援しますぅ」「応援されるまでもなく、ラヴラヴだこの野郎。休日はいつもしっぽり楽しんどるわ」 ついうっかり、ひかげ荘でのノリを出したのが間違いだった。 忘れてはならないが、彼女達は基本的には純粋無垢な乙女達なのだ。 宮崎の距離が十五メートルともはや壁際に移動し、近衛も三メートル程離れた。「あーあ、やっちゃった。また五メートルに戻すのに三ヶ月はかかるんじゃない?」「早乙女がむしろ距離を縮めている件について」「あっはは、あんなのジャブにもなんない。先生も知って見る? ようこそ、腐女子の世界へって感じで。私の最近のお勧めのカップリングは」「止めろ、聞きたくない!」 眼鏡を上げての早乙女の台詞に、正直怖気が走る。 どこぞの偽博徒のような無駄な足掻きを秘めた声が出てしまった。 一先ず、早乙女はなんとしてでも遠ざけつつ。 風邪はアキラの愛で治ったはずだと、流れ出る嫌な汗をハンカチで拭う。「宮崎、怖がらせた俺の台詞じゃないが。もう少し頑張ろうな。お前その位置、教室だと隣の部屋になっちまうぞ。あと近衛は、その後ろ手に持ったトンカチ仕舞おうな」「正当防衛やから、理論武装もばっちりや」「学園長の孫になんかするって、首がいくつあっても足りねえよ。俺はそろそろ行くから、お前らあんま危険な場所に近付くなよ。だから、お前は俺の宝物に近付くな!」「いいじゃん、ちょっとぐらい見せてよ先生。白いご飯にハートマークとか? それともノリを刻んでスキとか。もー、ラヴ臭がたまらん!」 もの凄くイラッとして拳骨の一発でもと思ったが、自重して振り払い逃げ出した。 先程の美女司書の視線が痛かった事もある。 あと数秒騒いでいたら、Mっ気のある人物にはたまらん知的眼鏡美女の叱責が飛んだ事だろう。 セックス中にはSっ気があるむつきには、全く下半身が反応しない仕打ちだが。 いや、表面的にはSなのだが、責められると実はどMというシチュに燃えなくはない。 そこまで考え、俺はここに何しに来たんだと妄想は追い払う。「全く、早乙女の奴は本当に」 ブツブツ言いながらエレベーターの前で、階下へ降りる為のボタンを押して待つ。 まあ、先程のやりとりも、肩から力を抜く為のコミュニケーションだとでも思っておく。 扉の上部にある移動階が分かるランプを目で追っているとチーンと音が鳴った。 開いたエレベーターに入って四階のボタンを押して、扉を閉める。 四階とは地下なのだが、五階までしかなく瀬流彦の言う十五階とはなんだったのか。 カードや車を貸しておいて十五階とか小さい嘘を、嫉妬か。 可愛い彼女がいる自分への嫉妬かと、広い心でゆうゆうと許してしまおう。 もちろん、月曜には美人の知り合いがいるじゃないですかと女の子の紹介を断ってやる。 決してからかわれたのが悔しいからじゃないと、つらつら考えボタンを押した。 そして動き出したエレベーターの中で突然、何者かの声があがった。「ほほう、四階ですか。これは好都合、私達中等部は三階までしか許可が下りませんから」「どうわっ!」 誰もいなかったはずの室内からの突然の声に思わず変な悲鳴がでた。 幽霊でも現れたかのリアクション後、恐る恐る振り向いてみればいたのは小さな女の子。 心臓が口から飛び出る程に人を驚かせたのは、綾瀬である。 ジャングル探検隊のような格好とリュックの装備で、むつきの脇から覗き込むように階層のボタンを見ていた。 確かに二年A組の図書館探検部は四人で、先程三人にまで会った。 だがそれでも、上で会わなかったから、綾瀬がここにいるでは辻褄が合わない。「綾瀬、お前一体何時からどうやって」「先生が職員用のエレベーターを使っているのを見て、こっそり背後から」「お前なあ、来たいなら素直にそう言え。無駄にびびらせんな」 まだドキドキする心臓を押さえながら言うと、これは意外という視線を向けられた。「帰れとは言わないんですか?」「俺は図書館島は初めてなんだよ。ここ結構広いみたいだし、慣れた奴がいた方が本も探し易いだろう。ただ、先にお前の目的を言え。教師フロアに生徒を入れるのは少し問題だし。それ次第では帰らせる」「まだ見ぬ、ジュースの探索です。この図書館島には、摩訶不思議な飲料が売っていますので。丁度、一本持ってますが飲んでみますか?」 手渡されたのは買ってから時間が経っているのか、温くなっていた。 それだけならまだしも、名前が男汁だ。 誰が飲むかと、叩きつけようとしたら飛びつかれて止められた。 ジュースは奪い返され、こんなに美味しいのにと綾瀬が飲み始める。 男汁を小さな少女が飲む、人によっては欲情ものだが、生憎むつきは普通の嗜好だ。 めでたく五月に十四歳となり、当時は十三歳だった女の子に手は出したが。 外見上は殆ど大人と代わらないのでと、そこだけはなんとか自己弁護。「お前よくそんな気持ち悪い名前のジュース飲めるな」「名前は名前、味は味。問題ありません」「割り切ってるのね。でも限度ってもんがあるだろ」 これ言っていいのかなとちょっと迷ったが、驚かされた仕返しだ。「男汁ってようは男の汗か精液だぞ」「ぶふぉっ!」 ほらみろと真実を伝えたら噴き出してむせた綾瀬を、勝ち誇ったように見下ろした。「純粋無垢な乙女に、なんという暴言を。この濃厚男汁に謝ってください!」「そっちかよ。純粋無垢ってさ、宮崎とか近衛はわかるけど。お前とか早乙女ってなんか違うだろ」「パルと同列とはこれまたなんたる暴言」「おい、早乙女の親友。まあ、いいや。ジュースぐらい何本でも奢ってやるから。ちょっと本を探すのを手伝ってくれ。なんか、想像してたより広くて大きいんだここ」 男汁で汚れた口元をハンカチで拭いつつ、交渉成立ですと言ってきた。 特に交渉したつもりもないが、手伝ってくれるのなら問題ない。 そんな無駄なやりとりをしつつ、ようやくエレベーターは四階に着いた。 ただ場所が問題だった。 エレベーターを出て直ぐに出迎えたのは、轟々と風が蠢く音が聞こえる絶壁。 足元は本棚でできた一本道が奥へと続き、落下防止柵もなければ手すりもない。 本棚の縁から恐る恐る絶壁を覗けば、広がっているのは風が渦巻く闇のみだ。 試しにその辺にあった小石を落としてみると、何時まで経っても着地音がなく、視界からそのまま消えていった。「ではまいりましょう」「待て、待て待て。聞いてない、危ない。なにこれ、作った奴頭おかしいんじゃないの!」 早速と歩き出した綾瀬の肩を掴んで止める。「何をこの程度。これしきの絶壁、スキップしながら渡れなければ図書館探検部など勤まりませんよ」 当たり前の様に呟いた直後、綾瀬が何かに気付いたようにフッと笑った。「もしかして、怖いんですか?」「カッチーン、別に。怖くねーシィ?」 語尾が激しく変な音で上昇したので、更に半眼でフッと笑われた。 多分、男汁の件で噴き出させられた事への小さな反撃なのだろう、本人が小さいだけに。 なんと腹の立つ冷笑であろうか。 本来ならこんな危険な場所から綾瀬を帰らせるべきだが、あの冷笑が心に火をつけた。 綾瀬が先生助けてくださいという状況になるまで、帰らせない。 後で後悔する事になっても知るかと、むつきは先を歩く綾瀬の後を追った。 ずんずん歩いて先を歩かない所が、いかにも小心者である。 それから目的のフロアに、二時間かけてまだ着けないとは思わなかった。 絶壁の次はロッククライミング、しかも降りた先が湖であったのだ。 水深こそ膝までだが、またさらに水の中を十数分も歩かされ革靴の中に水が入って重い。 ジャングル探検隊のような綾瀬の格好が正しかった事を知った時には、全てがボロボロであった。 スーツは埃だらけで、糸が解れて穴が空いた場所まである。 膝下も水で濡れ、革靴などまだ歩く度に中に入った水がじゃぶじゃぶ溢れてきていた。 現在は、途中に見つけた休憩所のベンチにて小休憩中であった。「瀬流彦、あいつ俺もぶっ殺す。ニコやかにとんでもないもん渡しやがって。せめて先に説明しろよ。午前中に本を探して、昼から勉強のつもりがもう昼じゃねえか!」「私は未知のジュースがたらふく、しかも無料で飲めて結構ですが。ああ、このマヨネーズ林檎グラッセの甘酸っぱさと言ったら」「しかも綾瀬のジュースが……小さな紙パックで三百円とか、観光地かよ。樋口さんが一枚吹き飛んだぞ、この野郎」 激しい道中で宝物である手作り弁当を死守できた事だけは、救いであった。 これさえ失った時には、きっと瀬流彦を惨殺死体に変えていた事だろう。 膝の上に風呂敷を広げてみると、真っ白なご飯の上にはノリで頑張っての文字がカタカナでつくられていた。 もの凄く心に染みて、涙で前が良く見えなくなった。 おかずも卵焼きは当然として、から揚げにマッシュポテト、カボチャの煮物と定番の品々だ。 だがそれが良い、そういうのが食べたかったのだ。 涙を拭いていただきますと手を合わせると、ぐーっと腹の虫が鳴った。 待ち望んでいたむつきではなく、少々気まずそうにしている綾瀬のである。 同じベンチの隣の彼女を見てみれば、遠い眼をしながら相変わらずジュースを飲んでいた。 いや、何時の間にかマヨネーズ林檎グラッセから、飲めるラー油トンコツ味に代わっていたが。「お前、飯食わねえの? ほら、十二時過ぎてる。ダイエット中か?」「必要に見えますか、失敬な。ないものをどう食べろと?」「何言ってんの、お前」「だから、ないのです。食べるものが」 言葉の意味を理解するのに時間が掛かったが、とりあえず弁当を遠ざける。 綾瀬が決して届かない、はるか頭上へと。「明らかに恋人の手作りのお弁当をねだるほど、非常識ではありませんよ。既に十分奢って貰ってますし。ジュースでお腹が膨れます」「その厳重装備のリュックにカロリーメイトすらないのか?」「本来なら、装備を補充して午後に潜る予定でしたから。しかしながら、職員用エレベーターの前に先生を見つけたチャンスを前に躊躇はありませんでした。自業自得です。お気になさらずどうぞ」「ならいいけど。じゃあ、改めていただきます」 お昼はお弁当だが、夜はお前らを食べちゃうぞと意気揚々とお箸を伸ばした時、再びぐーっと綾瀬のお腹が鳴った。 しばし互いに無言であったが、何かを諦めたようにむつきは箸をおいた。「あのさあ、コントじゃねえんだけど。食わせろよ、弁当。初めて作って貰ったんだよ。さらに初手料理とダブルビンゴなんだよ!」「しつこいですね。ですから」 今度はぐーだけでなく、ぐるぐるとお腹が緩くなりそうな音さえ聞こえた。 明らかに水分の取りすぎであり、これ以上飲ませると危なそうだ。 帰ったら謝ろうと決心し、せめて頑張ってのノリを片側に寄せる。 それからご飯からおかずに至るまで全て、半分だけ食べて綾瀬の横に置いた。「食え、この後におよんで断ると俺も怒るぞ。俺の彼女の飯が食えねえのかって」「そこまで言われては、申し訳ありませんが頂きます」 ちゃんと謝罪ができるだけ、まだマシか。 これが早乙女ならいやーごめんねと、笑って済ませかねない。 本当に世話のかかる生徒が多いと思っていると、綾瀬がまず箸だけを手に取った。 そしてハンカチを取り出すと、箸の先端を拭き始める。「分かるけど、そうしたくなるのは分かるけど。女の子だもんね、潔癖だもんね。想像以上だよ、まだ何も気にせず笑いながら食う早乙女の方がマシだよ!」「失礼は重々承知ですが、さすがに間接キスとなると躊躇が……」「たく、ちょっとトイレで頭冷やしてくる。ちゃんと片して、包んどけよ」「申し訳ない」 再度の謝罪に、大人気なかったかなと反省しつつトイレへ向かう。 少々時間を空ける為に、個室で二人にメールを送った。 大変美味しゅうございましたと。 それから未だ目的地に付けない事も添え、帰りは遅くなるかもとも。 美砂からは露天風呂で体を磨いて待ってるとキスマークが、アキラからは頑張って作ったから先生も頑張ってと。 返信内容から、微妙にアキラのみ頑張った感じを受けるのだが。 他にメールがないか確認すると、長谷川からであったが良い予感はしない。 先生の事を面白おかしくブログにアップしたら、超ウケたとあった。 思わず携帯を投げ捨てかけたが、お弁当により胸に灯った愛で耐えた。 他には雪広からひかげ荘の特にぼろい部分のリフォーム相談、和泉の格好良い男の子がいないという愚痴だった。 前者は爺さんに相談してみると返し、後者には理想が高すぎると返しておいた。 そうこうしているうちに十五分は過ぎたろうか。 食が細い女の子でも、一人黙々と食べれば終わっているだろうと個室を立った。「おーい、綾瀬。食い終わったか?」 トイレに行く前と変わらず、ベンチの上にいた綾瀬に後ろから声をかける。 すると突然の事で驚いたのか、ビクリと震えた綾瀬が風呂敷包みを落とした 大切なものをとばかりに、あたふたと拾っていたが中身は既に空だ。 さすがに空箱を落とされて怒るほど、心は狭くないつもりである。「あー、気にすんな綾瀬。それとさっきは言い過ぎた。早速、目的のフロアに行くぞ。トイレはちゃんと行ったか? この先、どこに休憩地点があるかわからないし。お前随分と水分とってたろ。行っとけよ」「ら、大丈夫です。先を急ぎましょう」 噛んだ頬をパチンと叩いて、綾瀬が先を歩き始めた。 なにやら、酷く動揺しているような。 そんなに彼女の弁当を半分奪ってしまった事を気にしているのか。「綾瀬、本当に気にするな。結局、弁当は半分は食べたんだし。美味かったって送ったら、ちゃんと頑張ってとか、帰りを待ってるとか可愛い返事が帰って来たよ」「そうですか、それを聞いて安心しました」 先を歩いていた綾瀬が振り返り答えたものの、何か口元が引きつっていた。 もはや、様子がおかしいと怪しむレベルではなく、確実に何かがおかしい。 トイレに行く前と、帰って来た後で何が違う。 空腹が満腹になった事がまずあげられたが、それが何かおかしいだろうか。 綾瀬の体は小さいので半分とはいえ男の弁当の量が多かったとか。 ただそれで腹が下ったり、動けないのなら、もう少し休憩所にいればよかっただけだ。 綾瀬は先を急ぐように歩いており、引き離されないように足を速めると綾瀬もまた離れていく。 まるでむつきから逃げるようにも見えた。 確かに綾瀬を叱るような事を言ってしまったが、謝罪したし聞いて安心したとも。 ならば他にと、一番最初に違和感を感じた時点にまで遡った。 声をかけた時に体を震わせ、弁当箱を落とし、やけに慌てて拾っていた。「弁当箱」 ビクンと綾瀬が体を震わせ、歩くのを止める。 やはりかと、風呂敷の包みを解いてみると、名刺サイズの紙片が二枚零れ落ちてきた。 最初は気づかなかったが、それを裏返してみるとメッセージカードであった。 一つは美砂から、もう一つはアキラからである。 要約すると二人共に日頃の感謝と、好きになって良かったという意味を込めたメッセージだ。 もはや考えるまでもない、メッセージカードを読まずに弁当箱を渡し、綾瀬が気付いた。 差出人には、美砂とアキラという名前がしっかり書かれている。 苗字がないが、二枚のメッセージカードの差出人は、彼女も知る生徒の名前である。 それに美砂は兎も角、アキラとカタカナで書かれる女の子の名前は珍しい。 確信にはまだ至ってなさそうだが、時間の問題だろう。「とんだサプライズだよ、この野郎」 このメッセージカードが綾瀬の興味を引いたかは別にして、危険分子である事に代わりはない。 危険分子の対処は、排除か取り込むかだが。 生徒を排除なんてできるはずもなく、結局は取り込んでしまうしかない。 誠心誠意、関係を説明して、土下座してでも内密にと。 結論から言えば、綾瀬は内密にする事を約束してくれた。 というより、綾瀬自身せざるを得ない心境に追い込まれたのだ。 綾瀬を連れてひかげ荘に帰った時、当たり前だが大騒ぎになった。 管理人室に皆を集め、事情を説明するとまずアキラがぼろぼろと泣き始めた。 むつきが抱きしめて慰めても、一向に泣き止む気配はなかった。「ごめ……ごめんなさい。私が、メッセージカード入れようって」「もう、いいから。綾瀬も秘密にするって約束してくれたし。大丈夫だって」「アキラは私が満足に手伝えなくて、それで気遣ってメッセージカードって提案しただけ。どちらかというと、私のせいだから」 泣き崩れるアキラをむつきが抱きとめ、後ろから美砂も抱きしめ背中をぽんぽんと叩く。 教師と生徒の恋愛、それも二股なのだが、この光景を見せられては言葉を噤むしかない。「改めて確認ですが、先生は柿崎さんとアキラさんと付き合っていて。他の方は? 全員が全員、ひかげ荘に囲われた愛人ではないと?」「当たり前だ。誰がこの豆腐メンタルに体ひらくか。私はどちらかというと、先生の天敵だ。ジャッジメント、裁定者」「そうなると私は、最終的な断罪者でしょうか。お二方が不幸を感じた場合には、容赦なく先生を訴え潰します」「二人とも酷い、そんな事を考えてたんだ。でも、私もそんなに先生の事は好きじゃないかな。二股はするし、下ネタ言うし。おかげでまともな目線で男の子を見れなくなったし」 順に長谷川、雪広、和泉の言葉を聞いて、綾瀬が眉根をひそめた。 このクラスメイトと副担任の先生の関係が理解出来ない。 ひかげ荘という秘密の場所を共有しながら、友人や恋人よりも敵が多い。 しかも内部で堂々と私は敵ですと潜みもしない敵だ。 ただ、その敵は先生のあそこが駄目、ここが駄目と良い笑顔で笑いながら喋っている。 あげつらっていると言うよりは、影のない笑い話に興じているかのように。「味方よりも、敵が多いハーレムとは意味不明過ぎます」 哲学研究会の一人として弁論で理論的な発言をするだけに、不条理な関係が分からなかった。「お前ら、俺がアキラを慰めるのに忙しいからって好き勝手言いやがって、この野郎」「怒るなよ、先生。大河内もそろそろ泣き止めよ、先生困ってるぞ」「まだ、無理……うぅ、先生」「それに、今回は誰も悪くないと私は思う」 まだしゃくり上げているアキラを慰めるように、長谷川が言った。「メッセージカード、注意深く弁当箱の下に隠したんだろ? 差出人も名前だけで苗字はなし」「うん、ひっく……間違って、先生以外に見られたら大変だから」「でだ、肝心の先生が見逃したわけだが、別に悪くない。どうせ、弁当を作って貰えた事に舞い上がってたんだろうけど。それでも隠されたサプライズのメッセージカードだ」「飯に頑張ってってメッセージが既にあったしな」 まさかメッセージが二つもあったとは、思いもしなかった。 これでメッセージカードが、弁当の上にあれば別だが、それだと誰かに見つかり易い。 第三者がなんだこれと冷かしただけでも終わりだ。「綾瀬も、ジュース目的で先生について行ったわけだが。多少強引だったが先生が引率を了承してるし、弁当も先生から食えって差し出されたんだ」「ごり押しはしたつもりですが、ルールを侵したつもりはありません」「最後に、綾瀬を連れて来た先生の判断は正しいと思う。こいつ、絶対先生の彼女が誰か調べたぞ。それだけなら良いが、図書館探検部の面々に相談してみろ。特に早乙女。事実の確認もせず、そうに違いないって噂広めてたぞ」「実際そうだったわけですが。パルの親友として、それは保障します。絶対、そうしてます」 嫌な保障もあったものだが、親友が言うからにはそうなのだろう。 例えここに綾瀬がいなくとも、満場一致でそうすると言われたろうが。「まあ、誰も悪くないってのは逆に言えば皆が少しずつ悪かったって事なんだけどな」「第三者に見られる可能性のあったメッセージカード」 最後に大番狂わせで全員が悪いと言い出した長谷川の言葉を聞いて、美砂が呟いた。「俺は弁当があったのに、黙って着いてきた綾瀬の同行を軽々しく許したこと」「私は、他人のメッセージカードを迂闊にも読んでしまったこと」「確かに、皆さん少しずつ悪いですわね」「これ、もう良いんやないかな。犯人探ししなくても」 綾瀬までも自分の悪かった点を挙げ、雪広や和泉も言葉は違うが意見は同じだった。 皆が少しずつ悪く、けれど大事にはならなかったのでとりあえず問題ないと。「隠し事なんて何時かばれるもんだけど、これを期に先生だけでなく私や委員長、和泉。今回加わった綾瀬も気をつけようぜ」「私や」「うちも?」 綾瀬は視線を向けただけだが、雪広や和泉は私もと尋ね返していた。「ひかげ荘ってさ、乙姫先生が管理してるだけあってまさしく竜宮城なんだよ」 長谷川の言葉に、最初は誰しもが首を傾げていた。「外界から隔絶された、本来の自分でいられる場所。先生達は言うまでもなく、教師と生徒と言う立場を隠さなきゃいけないけど、ここなら何しても良い」「実際、してらっしゃいますわね。週末に遊びに来るたびにギシギシと」「もうちょっと節度は持って欲しいやんか。先生がデレてるとイラッとするし」「なんと言われようと構わん。俺は絶対美砂やアキラと幸せになる」 両腕に二人を抱きかかえ、そうむつきが豪語していた。 全員、それが成就するよう助力はするつもりだが、イラッとするのは仕方がない。「でも本来の自分って、長谷川達ってなんかあった?」「お前が言うか、柿崎。表向きは地味な生徒だが、裏ではコスプレネットアイドル。だけどここではそのどちらでもない。衣装作成が趣味の口の悪い女子中学生だ」「それが長谷川の見つけた本当の自分か。だから最近、お前テンション振り切れてたのか。てか口が悪いと思うなら自重しろ、俺はナイーブなんだよ」「知ってるけど、止めらんね。先生、絶対Mの素質あるって。先生が相手なら、一日中でも悪口を言い続けられる自信がある」 止めてお願いと、むつきが耳を塞ぐように美砂に抱きつき、アキラに頭を撫でられる。「雪広財閥は、麻帆良都市全体に多額な出資をしています。この麻帆良にいる限り、私は財閥令嬢の立場をとらされます。例え学校でも。もちろんクラスメイトの皆さんは好きですが。このひかげ荘だけは、雪広財閥とは無縁です」「成績優秀、容姿端麗の委員長でもそういうのあるや。私はなんやろ、やっぱ背中の傷かな。けど最近、気にならなくなってきた。むしろありがたい? これ、良い男の人を見分ける道具にもなるし。傷を見ても、私を手放さない人。それが多分、私の理想」「よく分かりました。皆さんは、先生と仲間とか絆とかで結ばれているわけではなく、このひかげ荘が好き。それが共通の認識なんですね。ならば、改めて私も秘密を共有する事を誓いましょう。本当の自分とやらをここで見つけるつもりはありませんが」 綾瀬が思う本当の自分は、一年生の頃に見つけ済みだからだ。 同じ二年A組、同じ図書館探検部、宮崎のどかの隣にいる自分の事である。 そんな綾瀬の誓いに、先程までぼろぼろ泣いていたアキラが一番ほっとしていた。 ここに来る理由は各自それぞれだが、このひかげ荘が好き。 色々と問題を起こすむつきの事もあるが、ここが好きだからもう少し付き合ってやろう。 むつき本人としては微妙な関係だが、訴えられるよりはマシである。 だからこんなにこの場に惹かれるのかと、皆もしんみりしていたのは数秒の事だ。「よし、なら気持ちも新たに先生の奢りで寿司の出前でもとるか」「待て、こら長谷川。お前らちょっと前にたらふく焼肉食わせたろ。何をまたたかろうとしてんだ。雪広、お前……お前、えっと」「なにか?」 先程、財閥とは無関係と言った雪広に今ここで財閥の娘だろなどとは言えない。 雪広はにっこり笑っているが、言ったら殺すと微笑みで殺しに掛かってきている。「なんでもねえよ、畜生。分かったよ、寿司だな。特上でもなんでも頼んでやるよ。くそ、今から美砂との結婚資金溜めようとしてたのに。計画倒れだよ、この野郎」「先生、私グアムが良い。外国でパーッと、クラスメイト全員連れて」「俺の話聞いてたの、世界一可愛い嫁は。計画倒れ、できるかそんなもん」「甲斐性ねえな、先生。柿崎、安心しろお前のウェディングドレスぐらい私が作ってやるよ。エロエロ初夜仕様も込みで」 口の悪い女子中学生が、男もいるのに下ネタを含み言い始めた。「本当、長谷川。ならいっそひかげ荘でやっちゃう? 皆の前で、先生が私に入刀とか」「俺の世界一可愛い嫁が下ネタに目覚めた件について。訴えるぞ長谷川」「あの先生……私も、ウェディングドレス着たい。チャペルとかまでは望まないから。二人だけで静かに」「俺にはまだ天使が残ってた。婚姻届と結婚式は別だからな、普通に教会でやれば良い」 下ネタで盛り上がる美砂と長谷川を放置し、健気な事を言い出したアキラを抱きしめる。 この子だけが唯一の癒しとばかりにだ。 もう皆に見られてもいいから、このまま押し倒そうとして背筋が凍った。 雪広が耳に当てている携帯の向こうへ喋りかけた言葉に。「はい、最特上の寿司を七人前でおいくらに。時価? 全く問題ありません」「凄い委員長、最特上って初めて聞いた。どんな凄いお寿司やろ」「金箔を乗せた寿司が一つは絶対にあるです。委員長、わさび醤油ジュースとかないか聞いて貰っても?」「何してんのお前ら、最特上なんて俺も初めて聞いたよ!」 携帯を取り上げたむつきが、電話の向こうにペコペコ謝りながらキャンセルでと頼んでいる。 その動きは油の切れたロボットのようにギシギシとぎこちない。 よほど、背筋が凍るような気分を味わったようだ。 雪広を含め、むつきの天敵と証した長谷川達がブーイングすると睨んでくる程に。 だからむつきは、精一杯の抗議として百円寿司に電話し、普通のお寿司のサビ抜きを頼んでやった。 クソガキ、お子様と最大限の皮肉を込めて。 -後書き-ども、えなりんです。今回も後半以外は凄く普通のお話でした。あとネギまなのに十九話にして、少しだけ魔法でました。ニアミスですけどw幻の十五階に何があったかと言えば、魔法先生用の学習スペースです。この一冊で貴方も立派な先生に的な本があるところ。瀬流彦、女の子紹介してもらおうとちょい必死すぎ。速攻バレた瀬流彦の運命は、少し後の話で出てきます。今回のように、主人公は魔法にはニアミスはしてもかかわりません。魔法関係者が隠す感じですかね。瀬流彦は……うん、別にばらすつもりはなかったんですけどね。凄く勉強になった → ありがとう、瀬流彦先生 → 女の子紹介しますと狙ってただけなので。瀬流彦ェ……と言うわけで、次回は土曜日。エロパート、千雨達ハーレム外の四人のメイン回です。