第二十五話 だから、必死に我慢した 中間テストも終わり陽だまりが麗らかな五月は過ぎ去って、夏の気配が色濃くなり始める六月。 日々蒸し暑くなり始めると同時に、生徒達は浮き足立ち始めていた。 いや、浮き足立ち始めるどころか、実際に浮き足立っている生徒の方が大半である。 厳しくも辛い中間テストも、結果が良し悪しに関わらず待っているのは麻帆良祭。 仮装や被り物姿で登校するぐらいは大人しいもの。 各部の出し物の宣伝の登りを立てたり、ロボットを走らせたりやりたい放題。 一般入場者用の門も、麻帆良工大の土木作業部の手により製作が開始されていた。 他に気の早い、または当日の宣伝効果を狙って一足早くお店を開くものもいるぐらいだ。 最も、それは余程の人気のお店か、問題を起こさない保障のある者にしか許可されない。 その数少ない出展、超包子にむつきは朝食の為に立ち寄っていた。 電車を改造した調理場とカウンターに、数点のテーブルが露天に並べられている。 カウンターの隅にこそっと隠れるようにしながら、むつきは飲茶を口にしていた。「超、お前何処まで知ってるんだ?」 背後の席は満杯でかなり賑やかなので、誰に聞かれる事もないと目の前の店長に尋ねた。 二年A組の麻帆良最強の頭脳、超鈴音がこの超包子の店主なのだ。 他に四葉五月が料理長、古菲がウェイトレス兼用心棒である。「全てお見通しヨ。お望みなら、先生の預金残高から、ひかげ荘を他人から隠す元になった女性の名前まで。全部あげてみようカ?」「怒っていいやら、笑っていいやら。そんな事を調べてお前、結構暇人だな。教室で喋られたら、残高はともかく後者は怒るが」「プライバシーという言葉ぐらい知ってるネ。調べたのはあくまで、個人的趣味ヨ」 個人的趣味でも調べて把握した時点でプライバシーもなにもないのだが。 とりあえず趣味が悪いと悪態つくと、私もそう思うとニッコリ返された。 じゃあするなよと思いもしたが、重要なのはそこではない。「それで、学校には黙ってて貰えると解釈していいか? わざわざ、漢方くれたってことは」「もちろん、委員長と同じくクラスメイトの幸せを願うのは同じヨ。それも女の幸せとあれば尚更ネ」「それが聞ければ十分。おーい、四葉」 話は終わりとばかりに、別の車両で料理を作り続けている四葉に声をかけた。 熱い火の前で汗だくになって、重たい中華鍋を一生懸命振るっている。 料理人を目指すだけ合って、試食が多いのか他のクラスメイトよりスタイルは正直悪い。 だが夢に向かって駆けるあの汗は、可愛いなど失礼で綺麗の域だ。「美味かったぞ。このまま頑張れば、何時かちゃんとした料理人になれるかもな」「はい、ありがとうございます。一生懸命作るので、また来て下さい先生」 精霊の囁きのような不思議な声が返り、ペコリと頭を下げられた。「五月は既に一人前の料理人ヨ?」「学生、十四歳。そういう枕言葉があるうちは、一人前って言えねえよ。言わせんな、恥ずかしい。本当に俺なんかが、恥ずかしい」「二回言ったという事は、本当に恥ずかしいと思ってるネ」「そうなんだよ、だからニヤニヤ顔を覗きこむな。あ、そうだ。それとアレ、色々楽しめたよ」 生徒に対してどうかと思うが、最後に漢方薬のお礼を言ってむつきは職員室へと向かった。 超包子で食事する為に、元々早めに寮を出た為、何時もより早めについた。 他の先生方の姿が何時もより少ないが、理由はそれだけではないだろう。 特に広域指導員をしている先生、例えば新田などはこの次期は大忙しだ。 何しろただでさえ色々な問題を起こす生徒が、さらに麻帆良祭で浮き足立っている。 その状態で問題を起こすなという注意が何処まで意味のあるものか。 もはや見回りも何かが起こることが前提で行われている事だろう。「あれ、乙姫先生早いですね」「瀬流彦先生……あの、大丈夫ですか?」「え、何が? ハハハ、僕は何時も通りですよ。はぁ……」 糸目なので目は見えないが、無理矢理開いてみれば死んでいる事だろう。 頬もげっそりとこけて、もはや別人。 暗がりで出会えば思わず恐怖から悲鳴をあげてしまうかもしれない。 図書館島のカードキーを借りた件で瀬流彦が学園長室に呼び出されて以来、ずっとこうだ。 何がまずかったか聞いても教えて貰えず、むしろもう聞かないでくれと懇願さえされてしまう。 しかし、これはもう誰か女の人を紹介するしか謝罪のしようがない。 むつきが謝罪する事ではないかもしれないが、仲の良い同僚の為である。「瀬流彦先生、もし良かったらですが僕の親戚の姉ちゃんですを紹介しましょうか?」「その話、詳しく。癒し系? 今僕は凄く誰かに癒されたいんです!」 くいついた、他に誰も思いつかず言って見たらすごい食いつかれた。「僕より二つ三つ年上ですが、まあ癒し系ですね。ややぽっちゃり系ですが胸も大きいし。ただ目を放すとふらっといなくなったり、血を吐いて倒れたりしますけど」「姐さん女房、しかもちょっと病弱で儚い癒し系。あと巨乳!」「最後、男としてわかりますけど」 一瞬、紹介を躊躇ってしまったが、ここで止めればこっちが殺されかねない。 一先ず麻帆良祭に呼んでみると伝える。 すると途端にこけていた頬さえ戻りそうな勢いで、コーヒーさえ淹れてくれた。 揉み手で肩凝ってませんかと、もはや卑屈な舎弟の状態であった。 さすがに外聞が悪いし、肩こりなどは休日のマットプレイでスッカリ消えたので止めてもらったが。 むしろ、あの神聖なプレイの後で男になど触れて欲しくはない。「おはようございます、乙姫先生。瀬流彦先生。なんだが、面白いことになってますけど、どうしたんです?」「乙姫先生がついに、癒し系巨乳お姉さんを紹介してくれるって」「瀬流彦先生、テンション上がりすぎ。大声で巨乳とか言わないで下さい。他の先生方、特に女性の先生から睨まれてますよ」「その話、詳しく」 だが全員が全員ではなく、女性であるはずの二ノ宮は全く気にせず食いついてきた。「君達」 しかしながら、三人で顔を寄せ合った瞬間に、やや怒りを抱いた声が落とされた。 やばいと振り返ってみれば、いやににこやかな笑みを浮かべている新田であった。 三人とも同時に、あっこれは怒られると悟っていた。 朝から職員室内で大声で巨乳と言ったり、学生のような事をしていれば当たり前だ。「学生に釣られ、教師まで浮き足立ってどうする。こういう時にこそ、生徒の模範たる教師がまず見本を見せねばならないというのに。しっかりしたまえ、もう君たちも新人というわけでもあるまい」「はい、すみません」「仰るとおりです」「以後、気をつけます」 三人同時に頭を下げ、流れるような連携で謝罪の言葉を連ねた。 その余りの見事さに、職員室のどこかでくすりと笑いが起きるほどだ。「と言うわけで、その話は今日の放課後にでも超包子でするとしよう。教師も人間だ、時と場所を選べば多少は謝意でも問題ない。ちなみに私の奢りだ」 あっ、鬼じゃなくて神だと三人これまた同時に頭を上げた。 そしてその意図を察して、即座に全員自分のデスクに帰って授業の用意を始める。 ここで本当ですかとはしゃげば、奢りが取り消しどころか雷の追加だ。 にやけそうになる顔を押さえつけながら、授業そして担当クラスのあるむつきは朝会の準備を始める。 と言っても、朝会の準備などはクラス名簿の用意と連絡事項の確認ぐらいだが。 どちらにせよ物で釣られるとは学生と変わらないが、新田は満足そうにテキパキ動き始めた三人を眺めてから自分もデスクについていた。「あっと、クラス名簿がないと思ったら」 そして準備中のむつきは、クラス名簿が高畑の手にある事を思い出した。 中間テスト中はずっと戻ってきていたが、恐らくまた何処かへ長期出張だろう。 何時もの事なので、高畑のデスクへと向かい渡されている合鍵で勝手に引き出しを開ける。 本当に何時もの事なので、他の先生方も他人のデスクを勝手に開ける事は注意しない。 右手の一番上の机の引き出しから、生徒名簿を取り出して脇に抱える。 やはりこれがないと最近、妙に落ち着かない。(麻帆良祭か、どんな出し物するのか。去年、アイツらなにしてたんだろ) 今年から二年A組の副担任となったので、実は知らないのだ。 そこを含め、色々と話を聞きたいなと思っていると、思わぬ人物が入ってきた。「おはようございます。いや、やはりこの次期の生徒はパワーが凄い。取り押さえる方も、一手間だ」 ハッハッハとタバコの匂いを振り撒きながら現れた高畑であった。「えっ、あれ。高畑先生、出張じゃ」「ん……ああ、ごめんごめん。乙姫君に言ってなかったかな? こういう時ぐらい、あの子達の担任として面倒を見ないと忘れられちゃうからね」 以前、むつきのホームルーム中に入ってきて、何故という目で見られた事が堪えたのだろう。 僅かに残る引き釣りを表情に表しながら、高畑が笑っていた。 その言葉から、しばらく出張は控えて集中するという事だ。 麻帆良祭の間中、当たり前だが担任の高畑が二年A組の面倒を見る。 つまり、副担任であるむつきの出番は、本来の役目どおり控えに降格であった。「そういう事だから、乙姫君もたまにはゆっくり麻帆良祭を楽しんでくれ。大変だろう、あの子達の面倒を毎日みるのは」「は、はは……そう、ですよね。たまにはゆっくり、楽させてもらってすみませン」 最後の方は、思い切りむつきが引きつり、声が裏返って妙に職員室内に響いていた。 他の生徒達に負けず劣らず、いやそれ以上に二年A組の教室もにぎわっていた。 その話題の中心はもちろん、麻帆良祭、それもクラスの出し物であった。 何しろ麻帆良では、学生の自主性を尊重すると、麻帆良祭での金儲けも許されている。 クラスの出し物で得た利益もそのまま生徒のお小遣いに流れる仕組みだ。 普段、欲しいモノが両手では数え切れない思春期の女の子には美味し過ぎる話であった。 もちろんそれは、利益を出せばと言う話なのだが。 二年A組にはあらゆるエキスパートが揃っているので、余程の馬鹿をしない限りはほぼ確実に儲けは出るだろう。「超包子で良かったろ、超包子で。めんどくせえ」「それは無理でしょう。余りに儲けを出しすぎて、クラスの出し物としては禁止。聞こえが良い方では殿堂入りしてしまいましたし」 余りの騒がしさに頭が割れそうだと、抱えていた長谷川が呟いた。 それに答えたのは、最近その隣が定位置と化した雪広である。 二人が超包子と言っているのは、朝にむつきが立ち寄った超の店とは同じだが少し違う。 今年超は超包子を個人出展しているが、元々は一年の時のA組の出し物だったのだ。 麻帆良最強頭脳と当時から呼び声は高かったが、経営の手腕はまだ未知数。 四葉の腕前もまだそれ程広まっておらず、A組の出し物として超が全てを取り仕切った。 そして、儲けを出しすぎてしまったのだ。 全員で利益を割っても百万単位でばら撒かれる始末で、さすがにストップが掛かった。 これが高校生、大学生ならまだしも一年前までランドセルを背負っていた子供である。 とりあえず三万ずつ渡され、残りは親が用意した通帳へと直行、管理された。 それから超包子は殿堂入りとされ、以後は超の個人出展しか認められなくなった。「でも、言葉とは裏腹に楽しみだと顔に書いてありますよ長谷川さん」「まあな、麻帆良には色々と思う所があった私だが。最近は気にならなくなってきた。だってさ、もっと異常で普通な恋愛この目で見てるんだぜ?」「異常で普通、言いえて妙ですが。確かにその通りですわ」 互いに笑いながら、その渦中の人物へと視線を向けた。 美砂は今日だけは惚気る事なく、皆と一緒の麻帆良祭の話題の渦中であった。 話し合い手は同じ部活の椎名と釘宮だ。 机に腰掛けて少々行儀が悪いが、雪広を含めて誰も注意しない。「やっぱり、時代はメイド服でしょ。彼氏も超喜ぶし」「でもさ、それって客層選ばない? 男しか来ないとか、いきなり半分のお客を捨てるのと一緒じゃない。小さい子がいる家族連れもこなさそう」「美砂みたいなカップルもね。もてない、非イケメンばっか来るよ。どうせならイケメンが集る企画がいいよねー」 聞き耳を立てていた数名が、椎名の言葉に確かにと頷いていた。 女子中で日々勉学に励み、部活にいそしんいるのだ。 他校の男子生徒との出会いなど余程の偶然に期待するしかない。 図書館探検部の様に、麻帆良全学区合同の部もあるにはあるのだが。 それはそれでライバルが異常に多い。 他校の男子のみならず、他校の女子からそれも年上を含む人たちも虎視眈々と男子を狙っている。 必然的に、偶発的な出会いが狙えると言う矛盾したこの麻帆良祭はお金儲け以上に大切な催しでもあった。「あと肝心なのは、部活での出し物と被らない事だよね。うちは、演目だから関係ないけど。裕奈達は部活で何するの?」「ウチはおおもめ中だにゃあ。水泳部みたいに恒例のたこ焼き屋とか決まってたら楽なのに」「そうでもないよ。伝統の味は守られてるか、店構えは立派か。OGが覗きに来るし。さすがのキャプテンも普段と勝手が違うし手間取ってる」「伝統の味って、水泳部なのに……」 部活に力を入れている者は、そちらの方でも気が抜けないらしい 佐々木のように演目、または作品の展示となるとそれぞれ別の苦労がある。 前者は部の宣伝にもなるので演目の為の練習があるし、校舎は期日までに作品を仕上げねばならなかった。 そんな風に長谷川と雪広がむつきの恋人達を眺めていると、最後の三人が登校してきた。 時間ギリギリ、超包子で朝の時間一杯を使っていた超、四葉、古である。「疲れたアル。超、ウェイトレスのバイトをもっと増やすアルよ」「そうネ。茶々丸もそろそろ、ファジーな対応に挑戦しても良い頃合ネ。よろしいか、エヴァンジェリン」「ふん、好きにしろ。後々、私の為になるからな」「それでは、そのように今日中に装備の換装と行きましょう!」 珍しい事に超がマグダウェルに話し掛け、これまた珍しい事にまともに返事が返っていた。 可愛らしい西洋人形のような姿とは裏腹に、態度の大きそうな言葉であったが。 ただ、四葉にありがとうございますと頭を下げられ、赤くなってはそっぽを向くのがなんとも可愛らしかった。 そして、二年A組が全員揃ったところで、教室の前の扉が開けられた。 既に生徒が全員揃っているので先生以外には考えられない。 雪広もそれを察して長谷川に別れを告げて自分の席へ、他の席でしゃべっていた者も席に戻る。「やあ、おはよう皆。ホームルームを始めるよ」「高畑先生!」 思わぬ高畑の登場に真っ先に反応したのは、やはり神楽坂であった。 立ち上がって両手を胸の前で祈るように重ねあわせ、普段の性格とは裏腹に乙女チックな態度である。「今日も明日菜君は元気がいいね。けど、座ってくれると嬉しいかな」「あっ、はい。ごめんなさい」「なんで?」 だが神楽坂が座るとほぼ同時に、茫然と呟きながら長谷川がつぶやいていた。「長谷川君。ああ、僕がいるのが珍しいかな? はは、乙姫先生にも同じように見られたよ。でもこんな時ぐらい皆の為にいないとね」 むつきも笑っていたからと冗談めかして、高畑が長谷川にそう笑いかけた。 確かにそれは大半の生徒には通用し、笑いを誘ったのは確かだ。 皆もあの事件の事は良く覚えている。 むつきのホームルーム中に高畑が入ってきて気まずい状態となったアレだ。 そりゃそうだと、高畑の冗談を受けてクスクスと笑う。 しかし、全員が全員笑ったわけではなく、むしろ怒りを買う結果となった。「ふざけんじゃねえ!」「ひゃたっ」 怒れるままに長谷川が机を蹴り、ずれたそれが前の席の近衛の席の背もたれにあたった。 驚き次いで軽い痛みを訴えていた。 どちらかというと、驚きの方が大きかったようでアキラのような立派な黒髪が波打っている。「あっ、悪い近衛」「ええよ、びっくりしただけやから」「お嬢様に何をする!」 咄嗟に謝罪し、大丈夫と手を振ってもらえたが、間が悪かった。 誰のかは不明だが、何故か突然立ち上がった桜咲が竹刀袋を手に立ち上がる。 普段クールな彼女の怒声と異常に鋭い眼光なだけに、かなり長谷川もびびった。 いや、びびったのは長谷川だけではないらしい。 桜咲の前の鳴滝姉はピンと背筋を伸ばして硬直し、左隣の気の弱い宮崎など半分白目を剥いている。 右隣の釘宮など壁に背中を張り付けるようにして及び腰だ。 座席が遠い近いに関わらず、皆似たようなもので豪胆な者ほどそれを受け流している。「桜咲さん、長谷川さんの態度は確かに問題でしたがそれを使って何をするつもりですか?」 その豪胆な人の一人である後ろの座席の四葉が、別種の威圧感で桜咲を責める。 いくらなんでも竹刀を持ち出すのはやりすぎだと。「せっちゃん……あかんよ。千雨ちゃん、ちゃんと謝ってくれたし」「ぁっ、申し訳ありません」 近衛からも振り上げた拳の下ろし場所を完全に塞がれ、小さくなって座った。 あと座っていないのは長谷川だけであり、皆の視線が集中する。 怒気をそらされた長谷川も、コレには困ってしまう。 完全にお祭りムードは霧散しており、最悪の状態だ。 嫌な汗が噴き出し小学生時代の思いだしたくもない思い出までもが、頭の中を駆け巡る。 常識と現実の狭間で誰からも理解されない、頭がおかしい奴だと言われ続けた闇の時代。 その闇に吸い込まれそうな長谷川を救い出したのは、光の髪を持つ数少ない友人であった。「高畑先生」 挙手をして立ち上がり、長谷川に集っていた視線を自分へと手綱を取るように集めた。「長谷川さんは今日は重い日なので保健室に連れて行きます。私も少々……」「えっ、ああ。そう、そうか。じゃあ、しょうがない」 生理を理由にされると、それ以上男性教諭は深くは踏み込めない。 そこにどんな不条理な思いがしてもだ。 事実、困ったなと高畑は後頭部に手を当てて、笑っている。「さあ、長谷川さん」「ああ、悪いな委員長」 本当に助かったと、泣きそうな顔を肩を借りるようにして隠して退室する。 扉を閉めてすぐに教室はざわめきだし、高畑が必死に鎮めている声が遠い。 当たり前だが、一番騒いでいるのは高畑に惚れている神楽坂であった。 理由は不明ながら、不明だからこそか正当な理由なく高畑が怒鳴られたのだ。 恋する乙女ならば、好きな相手の擁護に経つのが当然だろう。 それはともかく、雪広は少し足早に長谷川を教室から遠ざけていく。 足元がおぼつかなく、ひかげ荘内での元気さを微塵も見せず、むしろ弱々しく呟いた。「やっちまった、最悪だ。柿崎や大河内ならまだしも、私が真っ先にぶち切れてどうするよ」「気持ちは分かりますが。いえ、むしろ良かったかもしれません。下手にあのお二人に感情的になられたら、何を口走った事か。良くやったとは口が裂けても言えませんが、最悪の事態こそ避けられました」「ああ、くそ。先生の気持ちが良く分かる。辛い時、優しくされると凄く泣きたくなる。てか、涙もう流れてた」 袖口で無造作に涙を拭いながら、長谷川が心境を吐露する。「なあ、可哀想だろ先生。アイツ、単純だから絶対自分がしきるつもりでいたぞ。そりゃさ、高畑も去年一年は世話になったさ。けど、感謝する程じゃねえ。普通に、普通の先生だ」「私も、神楽坂さんとの喧嘩で行過ぎた場合には何度か止められていますわ。あの方の教育方針は基本的には放任。本当に危険な場合等にだけ、手を貸したり止めるですから」「それは知らねえけど。てか、どうでも良い」 去年は去年、それも高速で現在という時間を生きる女子中学生なのだ。 一年も前の事を言われても、濃い毎日に記憶は瞬く間に塗りつぶされていく。 特にむつきと美砂の関係を知ってから、濃厚で楽しい毎日を生きてきた長谷川にとっては。「去年はそれなりに評価する。だけど今年はだめ教師だろ。この二ヵ月で、どれだけ担任として働いたよ。良くて二割、八割は先生だろ。中間はまだしも、麻帆良祭ぐらいとか。引きこもりの癖に修学旅行だけ行くとか言い出す学生かよ」「否定はしませんが。忘れてはいけません、先生方は教師。大人は組織の序列に従う義務があります。そして高畑先生は担任、乙姫先生は副担任。補佐である乙姫先生が、高畑先生の役目を奪って良いわけではありません」「知るか、大人の事情なんて。勝手にルール作って、私らに関係ないだろ。私を宥めるためだろうけど。あんまり、高畑の味方みたいな事を言ってると友達止めるぞ」「そのような何でも意見を合わせるような友人はこちらから願い下げですが。それでも、私にも思うところぐらいあります」 今にも泣き喚きそうになる長谷川に四苦八苦しながら、雪広も静かに怒りの炎を胸に燻らせていた。 久方ぶりの進路指導室にて、むつきは頭を抱えていた。 テーブルを挟んだ向こう側にいる長谷川も似たようなもので、二人して机に頭を乗せている。 真面目に進路指導をする態度ではないが、必死さはその比ではない。 二人、そばに雪広も控えているが、話題はもちろん長谷川のぶち切れ事件である。「お前、なにしてんの。ホームルーム後、戻ってきた高畑先生にすまないねとか肩に手を置いて謝られた俺の気持ちにもなれよぉ」「ぶち切れた理由悟られてんのかよ。てか、勘の良い奴は大抵気付いてんな。もう、教室に戻れねぇ。大人しい眼鏡美少女のキャラ設定が」「自分で美少女とか、この野郎。それどころじゃ、ねえっての」 うわあ、嫌だあと二人して同じように机の上の頭をごろごろした。 現在は一時限目であり、本来はむつきも授業に向かわなければならない時間帯である。 ただ、やはり生徒が教師にむかって怒鳴りつけた、いわば事件であった。 放置などできず、むしろ率先して新田が授業の調整をしてくれた。 君の方が親しいからと長谷川の話を良く聞いて、しかも報告してくれと。 正直、出来るかと放課後のおごりを放棄してまで叫びたかった。「皆さんからも、私に絶えずメールが舞い込んでいますが。これは授業になっていませんね」「正直怖いんだが、少しだけ読んでくれよ」「適当に、いくつか。春日さん、長谷川って乙姫先生好きなの? 朝倉さん、教師と生徒の怪しい関係? 夏美さん、付き合ってるのかな?」「死のう」 突然席を立ち、それだけを呟いて長谷川が進路指導室の窓をからからと開けた。 前者二人はある意味馬鹿なので良いが、真面目な村上にさえそう思われたのだ。 さよなら私の人生と、最後の最後だけは楽しかったとお別れを告げようとする。 当然の事ながら、むつきにはがい締めにされて止められたが。「死ぬ程嫌か、この野郎。お前にどう思われようと構わんが、ちょっぴり傷ついたぞ!」「お願い、本当に死なせてくれ。こんな変態鬼畜絶倫教師を好きだと思われてるとか、屈辱以外のなにものでもねえよ!」「先生が可愛そうだって泣いていた人とは思えない発言ですわね。もしや、これが噂のツンデレという奴でしょうか?」「言うなよ、本人の前で。誰だ箱入りな委員長にツンデレなんて俗語……教えたの私だ!」 顔を真っ赤にして委員長に詰め寄ろうとするも、はがい締めにされたままだ。「落ち着けって、長谷川。照れんなよ」「にやにやしてる顔が隠しきれてねえんだよ、キメェ。私に浮気してみろ、十秒でお前のストロー食い千切ってやるよ!」「すまん、長谷川。俺眼鏡属性ってないんだ」「調子にのりやがって、ぶっ殺す。世界のネットアイドルちう様を振るとか、私の信者どもが黙ってねえぞ、この野郎!」 うがあっと一頻り暴れ、疲れた長谷川がようやく大人しくなった。 まだ一時限目は開始から二十分程なのでまだ余裕はある。 長谷川は元より、むつきも今一度深呼吸をしては心を落ち着けた。 雪広が立ちっぱなしだったと、今さらながらに気付いて椅子を勧める。 そんな事にも気づけない程に、長谷川もむつきも動揺していたのだ。「まあ、冗談はここまでにしてだ」「気分の悪い冗談もあったもんだ。よし、先生そこの窓から飛び降りてくれよ。私の胸がスッとするから」「本調子に戻ってくれて結構。でも、改めて聞く事もそうないんだよな。報告の仕方を考える必要はあるけど」 長谷川もこの期に及んで否定はすまいが、要はむつきを思って怒ったのだ。 方法はもの凄く悪かったのだが。 もう少し色をつけて、むつきに世話になって楽しみにしてたが、高畑が横から入り込んで担任を奪って怒ったぐらいか。「駄目だろ、これただの高畑先生の悪口じゃねえか」「良いから、そのまま報告しろよ。高畑の野郎、担任止めろって言ってたって」「だから職員室での立場とか色々考えてくれ。大人は面倒なの、特に派閥とか」 ついうっかり口を滑らせ、長谷川に何ソレという目をされた。 咄嗟に口を塞ぐがもちろん遅く、興味津々の視線にさらされてしまう。 余程漏らしてはいけないことなのか、興味を移した長谷川ににやにや詰め寄られる。 そこへ助け舟を出してくれたのは、雪広であった。 聡い彼女ならば、教師間の微妙な力関係すらある程度把握している可能性もあるが。「失礼ながら、また社会科資料室にて泣き崩れているのかと思ったのですが」「本当に失礼だな、この野郎」 ただし、その助け舟は底に穴が空いていたようなものだったが。「他のひかげ荘メンバー、特に美砂とアキラには言うなよ?」 美砂やアキラから、長谷川大丈夫というメールを思いだしつつ。 この二人ならばと、先に事件こそ起こしたが長谷川と雪広を信頼して口を割った。「今朝、高畑先生が現れた時は、麻帆良祭の間は任せてくれって言われた時は頭が真っ白になったよ。けどさ、担任がいるからって副担任が教室に顔を出しちゃいけないわけじゃないだろ?」「でもよ、アンタ取り仕切りたかったんだろ?」「まあな、でも俺が仕切るよりお前らが楽しむほうが大事だ。だから、必死に我慢した。変なしこりを残さず、目一杯楽しんで欲しかった。俺がいつもの様に慰められたら、下手すりゃA組が真っ二つに割れるだろ」 神楽坂の高畑派にひかげ荘の乙姫派という意味でだ。 それ以外のクラスメイトがどっちにつくかは、また不明だが。 そうなったら麻帆良祭どころではなく、A組の存続の危機ですらあった。 まだ二年は始まったばかりで、卒業まで二年近くある。 ここで妙なしこりを残せば、まだたくさんある中学生活の良い思い出が作りづらくなってしまう。「聞かなきゃ、良かった。私がもうやっちゃったじゃねえか。割れる前兆ありありだよ」「そこは俺がなんとか、お昼休みにおどけにでも」「それは少々お待ちください」 むつきが道化にでもなって笑われにでも行けばと提案した所で、雪広から待ったがかかった。 そして見せてきたのは、彼女の携帯電話である。 その画面に映し出されているのは、一通のメールだ。 差出人は神楽坂であり、文面は怒りの四つ角マークから初めっていた。 内容は長谷川の居場所を尋ねており、一度ガツンと言ってやるわとお怒りモードだ。 高畑が麻帆良祭を取り仕切ると、幸せ絶頂時に長谷川が怒鳴ったのである意味当然か。「アイツに腕力でこられたら、私軽く死ねるぞ」「ご安心を、アスナさんは私以外に余程の事がなければ暴力は振るいませんわ」「それもどうかと思うが。前兆どころか、もうひびはいってるじゃねえか。アイツが耳元で喚いたら、長谷川二度目のぶち切れ確実だろ」 もうどうしようと、再び机に頭を乗せて二人がごろごろする。「既にひびの入った壷を修復しても、値が元に戻る事はありません。一度それを捨て、土から焼き上げるしかありませんわ」「高度な言い回しをありがとう、つまり?」「下手に取り繕うより、いっそ割ってしまいましょう」 何を言ってんのこの人と、むつきのみならず長谷川も雪広を見上げていた。 -後書き-ども、えなりんです。新章、のっけから主人公が弾き飛ばされました。話の中心が若干、千雨とあやかに。前回以前三回連続でエッチ回だったので、今回は三回連続日常回です。いや、麻帆良祭編ってだけで既に日常じゃないですが。誤って千雨大爆発。それをフォローするあやかとか、これ美砂より親友チックです。なんだかんだで仲が良い二人です。ちなみに、高畑が全然学校に来ない理由はちょっとしたら出てきます。まあ、簡単に想像できるでしょうが。それでは次回は水曜です。