第三話 そう、あれがひかげ荘 件のビジネスホテルは早々に、逃げるようにチェックアウトした。 何しろ昨日、部屋や風呂で声も気にせずに散々楽しんでしまったのだ。 幸い隣は元々美砂の部屋だったので無人だったが、逆側は不明である。 苦情や余計な突込みを受ける前にというわけだ。 ただまだ朝も早く、昨晩は結局まともにご飯も食べられなかったので喫茶店に向かった。 麻帆良でもチェーン展開されているスターブックスである。「お会計はご一緒でよろしかったでしょうか?」「一緒でいいよ」「あっ、先生。私、自分で……あっ」 カウンターでコーヒーとサンドイッチを頼み、会計の店員にむつきが答えると美砂が渋った。 元彼の事もあり、奢られる事に抵抗を示した美砂だが生憎、その財布は空である。 今さらその事を思い出し、シュンとした美砂を撫でイチャつくなら他所へ行けと笑顔の中に少しの苛立ちを見せる店員に千円札を渡す。 お盆でものを受け取り、美砂の手をひいてまだ早朝のせいか空いている店内の特に人がいない席に陣取る。「あのなあ、美砂。金のない学生と比べるな、こっちが悲しくなる。何でもかんでも好きなもんを奢るとは言わないが、飯ぐらい出させろ」「昨日言ってた、男の見栄?」「それもあるが、風潮もな。明らかに年上の男の俺がお前と割り勘でもしてみろ。周りがあの男なにって心で毒づくぞ」「私の先生なんだから、関係ないのに……」 だから素直に奢られろと、やや命令口調で伝える。「あとその先生っての、学校内はそれで良いが、デート中は勘弁してくれ。他にも付き合う上で注意事項は満載だ」「それはなんとなく、分かる。さっきはうっかりカウンターで先生って言っちゃったけど。やっぱりこの関係って隠さないといけないんだよね」 昨晩の分別のない行動は兎も角、美砂も中学生だけあってそれなりには世間を知っている。 テレビのニュースを時々、偶々チャンネルがあっていれば見るぐらいには。 月に一度は言い過ぎかもしれないが、生徒に手を出した教師というニュースは見ることが多い。 今現在、美砂は犯罪をされたなんて思いもしないが、世間はそうとらない。 二人の関係が公になれば、瞬く間に美砂は不幸な少女にカテゴライズされ、むつきは犯罪者に一直線である。「うーん、下手に呼び方変えると学校でぽろっと言っちゃうかも」「俺も、生徒を苗字で統一してるから気をつけねえとな。それと美砂、携帯だせ。俺の連絡先送るから」「あ、うん。欲しい、ちょうだいちょうだい。あ、元彼の消しとかないと」「ちょい待ち」 自分の携帯を取り出し、嫌な顔をした美砂を逆にむつきが止めた。「まだ直ぐに消すな。しばらく着信拒否にして、ほとぼり冷めた三ヶ月後とかに消せ」「言われて見れば……うーん、入ってる事自体嫌だけど、仕方ないっか」 ぷっくり頬を膨らませる美砂を前に、男としての勝利に少し機嫌を良くしながらむつきも携帯を出した。 互いに連絡先を交換し、一安心とは行かない。「お前の携帯って常時ロックって掛かってるか?」「なんで、面倒だからそんな事はしてないけど?」「できればかけとけ。俺が掛けた時とか、メールを椎名とかに見られると面倒だろ。俺の連絡先知ってるのは、今の所お前と雪広ぐらいだ。知られたら、絶対騒がれるだろ」「うん、説明書見てやっとく。それよりも、なんで委員長が先生の携帯番号しってるの?」 そっちの方が大問題だとばかりに、美砂が向かいの席から身を乗り出し凄んでくる。 理由次第じゃただじゃおかねえと、瞳が言葉以上にものを言っていた。「お前、自分で答え言ったろ。委員長だからだよ。高畑、先生は常時出張ってな具合だからほぼ俺が担任みたいなもんだろ。緊急時とか、一人ぐらい教えておかないと困るだろ。今の所、かかってきた事はないけどな」「うぅ……仕方ないけど、なんかやだ」「教えちまったもんを今さらな。さすがにコレは勘弁してくれ。本当に何かあった時、困るのはお前ら全員だ。すまん」「あやまんなくても、今のは私の完全なわがままだし。じゃあ、これで許してあげる。あーん」 鳥の巣の小鳥のように口を開けて来たため、サンドイッチを手頃なサイズに千切り放り込んでやった。 指についていたマヨネーズもちろちと舐めとり、ご満悦の様子である。 安い奴めと思わざるを得ないが、逆の事をされたら自分もそうなりそうで何も言えない。「うん、愛が篭ってて大変美味しい。他に、何かある?」「まあ、基本はまわりに気をつけるって事だけだ。とりあえず、お前が中学さえ卒業すれば、付き合ってもヒンシュク買うだけでお咎めはないだろう」「まだ二年近く……あっ、それまでデートって何処で。先生、確か先生用の寮だったよね。家デートも出来ない、どうしようそんなの嫌なんだけど」 コロコロと表情が変わり、今にも泣き出しそうで本気で嫌がっている。 確かに今は早朝と言う事もあって、気軽にデート感覚でいるが昼とかは無理だ。 麻帆良の学生は気軽に東京にまで遊びに来る事も多く、あっさりみつかりかねない。 麻帆良市のなかなど問題外で、普通の女子中学生の思考ではまず無理だと行き着くだろう。「車でもレンタルして遠出すれば良いだろ。それに家デートなら、考えがある」「車、確かにその発想はなかった。けど、家デートは無理でしょ。先生と急に仲良しになったって、頻繁に遊びに行くのも変だし」「ん、なら今日するか家デート。午前中は無理だが、午後なら。あ、その前にお前は帰ったらまず、同室の椎名や釘宮に終電遅れた事を説明しとけ。んで、寝ろ」「結局昨日、連絡してないし。分かった、謝っとく。けど、寝るのはなんで?」 サンドイッチを頬張り、コーヒーで流し込みながら気付いてないなと指摘してやる。 ただし、やや声は潜めるようにして。「そもそも昨日、寝るのが遅かったし。まだ興奮状態かもしれねえ。一度寮に帰ってリラックスして休め。午後は家デート、後は分かるな? 体力蓄えとけよ」「あ、うん……そうだね。だったら、着替えも一緒に」 色々と思い出したのか、それとも下腹部の違和感が残っているのか。 恥ずかしげに赤面してうつむきながら、美砂がなんどか座り直す。 ただし、嫌とは決して言わず、むしろ率先して着替えと言い出す始末だ。 エロくて結構と、思ったむつきだったが、とてつもない思い付きをしてしまった。 とてつもなく怖ろしい、だが男としてコレを願わなければ死んだも同然。 しかしながら、美砂の機嫌を著しく損ねかねない非常に危険なある意味罠でもある。 悩み悩んだ挙句、美砂の才能とエロさに掛けて、提案する事にした。「時に、美砂君」「先生、もう目がエッチ」 やかましいと自覚があるだけに呟き、コホンと咳払いしてから言う。「チアコスの予備など、持ってはいないだろうか」「先生」「くっ、ダメか。一世一代の割と勇気のいる提案だったんだが」 少々の冷たい目線だけで、機嫌を損ねたわけではない事にほんの少し安堵する。「持ってる。今の予備もあるし、一年生の時使ってて色々とサイズが合わなくなったのも。いいよ、先生の為だけに応援してあげる。色々と元気になってくれたら、私も嬉しいし」「お前、サイズきつめのチアコスとかやっぱ天才。幸せ過ぎて怖いぞ、この野郎」「でも、エッチばっかりは嫌だからね。お話してお互いの事を知ったり、エッチ抜きでイチャイチャもしたい。忘れないで」「あっと、ちょい浮かれてた。そうだな、考えとく」 よろしいと、若干手綱を握られた感があったが、概ね二人は幸せであった。 付き合う上での注意事項も、基本はバレないようにという本心である。 呼び名、携帯電話、デートの仕方、とりあえず今思いつく事は全てあげた なのであとは、貴重な時間を使う為に、再びサンドイッチを食べさせあったり、結局はイチャついた。 麻帆良に戻ってきたのは十時少し前であり、一先ずむつきは美砂を女子寮に送ってきた。 一応麻帆良市内に入ってからは、指示通り普段の関係の薄い副担任と生徒の間柄。 互いにそっけない別れをして、お互いに寂しさを抱えると言うジレンマを起こしもしたが。 それから直ぐに、麻帆良女子中に向かい、何故かその建物内に存在する学園長室へと向かった。 とりあえずは、昨日の結末の報告と、今後の方針の決定である。「2-A副担任の乙姫むつきです」「うむ、入ってくれてかまわんよ」 無駄に豪華な学園長室の前で名乗りとノックをし、学園長の返答を待って失礼しますと言って入室する。 毎度の事ながら、平教員が麻帆良全体の学校の長に会うと言うのは緊張するものだ。 まさに雲の上の人、実際に雲の上に住んでいそうな雰囲気の人ではあるが。 学園長室で待っていたのは、当然の事ながら学園長その人。 それから美砂の担任である高畑、学年主任の新田。 他には風紀委員や寮長、指導教員のしずなの十名には満たないがそれなりの人数である。「さて、これで全員揃ったわけだが、まず張本人の乙姫君に子細を聞こうかの」「昨晩、東京の駅で2-Aの柿崎美砂を保護しました。終電を過ぎており途方に暮れていた為、近くのビジネスホテルに泊めました。現在は寮に帰り、ルームメイトに謝罪と共にゆっくり休めと伝えてあります」 美砂が彼氏云々で終電を逃した事や、自分とのっぴきならない関係となった事は当然伝えない。 普段以上に緊張しているのは、それがあるせいかとむつきは唾を飲み込んだ。「うむ、終電をのう……」「学園長、やはり寮生である以上、門限がないと言うのが今回の一番の問題ではないでしょうか。せめて門限があればそれに注意し、逃したとしても帰寮不可能などという今回のような問題は発生しません!」 ちらりと学園長がとある方向を見た瞬間、間髪入れずその人物が問題を提起した。 その人とは教師一筋四十年、鬼の新田こと学年主任の新田である。 やっぱりこの問題が出たかと、むつきは当然のように思っていた。 麻帆良の数ある寮は、強制ではなく通えない者が入るというスタンスで強制ではない。 言ってしまえば学園が用意したアパートであり、厳格なルールなど殆どなかった。 あるとすれば大浴場の利用時間や食堂の利用時間といった、公共の場のルールぐらいだ。「私も新田先生の意見に賛成です。今回は乙姫先生が偶然居合わせた事で事なきを得ましたが、こんな偶然早々あるとも」「風紀委員としましても、別に十八時までと厳しい事は言いませんが。せめて二十時など常識的な門限は必要かと」 寮長に続いて風紀委員の先生も同様の発言を行なった。 普通に考えたら、寮と名が付き、生徒を預かっている以上その提起は避けられない。 ただし、条件がと個人的な意見も交え、むつきも手を挙げて発言した。「基本、僕も新田先生達の意見には賛成ですが、仮に門限を定めるにしてもワンクッションおいていただけないでしょうか」「ワンクッションとな?」 新田を含め、学園長もむつきの意見にどういう意味かとその真意を促がしてきた。「はい、先程も意見のあった通り厳しい門限も問題ですが。現状の無法地帯にいきなりルールを定めれば当然不満も出ます。しかも即座にであれば、当然その原因が何処かと生徒は考え探します」「確かに、柿崎君が原因と知れたら……うちのクラスはまだしも、ちょっと柿崎君の立場が悪くなりかねないね」「ええ、ですので一定の期間。もしくは、段階を経て最終的に門限を規定とした方が良いと思います」 今まで黙っていた高畑が急に食いついた為、若干不審に思ったが真意を汲んでくれてはいたので何も言わなかった。「確か、今回の柿崎君の件はどこまで広まっていましたかな?」「彼女のクラスの委員長である雪広さんとルームメイトの椎名さんと釘宮さん。私が把握しているのはそれぐらいで……2-Aの事ですから、何時の間にか全員知っていてもおかしくはないかと」「うちのクラスですからね」「僕のクラスだからね」 異口同音でむつきと高畑が同意し、他の先生もほぼ同意見のようだ。「分かった。まずはこの件を職員会議に上げて、再度意見を求める事としようかの。当事者の皆も、今一度意見をまとめ発言してくれるとありがたい」 この時、当然のように張り切ったのは新田であった。「分かりました。試案を纏めておきます。乙姫君、その時は若い君の意見も聞きたいのだが構わないかね?」「ええ、もちろんです。一番の当事者ですから」「うむ、君も休日出勤の上にリフレッシュ中に柿崎君を保護してしまい疲れているだろう。今日はもうあがって休みなさい。試案は明日までに私がまとめておく。学園長、かまいませんね」「うむ、皆も休日にご苦労じゃった。あと高畑君は少し残ってくれんか。相談、したい事があるからの」 新田とむつき、学園長と高畑と平とお上の微妙な関係が一瞬見えたようだが。 一先ずこの件に関しては、もっと公の場で話し合われることとなった。 むつきも一歩間違えれば生徒間で美砂が槍玉に挙げられるような事態は避けられ、ほっとした。 そして早速と言うべきか、それでは失礼しますといの一番に学園長室を後にし、美砂との家デートの計画を練り始めた。 椎名や釘宮、委員長に簡単に謝罪した美砂は、言われた通り午前中一杯はベッドの住人であった。 自分でも気付かなかったが、本当にまだ軽い興奮状態だったらしい。 何時もの部屋に戻って直ぐに睡魔に襲われ、同時に股の間にぴりぴりとした痛みを感じた。 破瓜により血が出たのだから怪我には違いないと、昨晩の情事を思い出す。 パジャマに着替え、ベッドの上でゴロゴロ転がっていたら釘宮に引かれたりもしたが。 何時の間にかと言う感じで、意識を手放し寝入ってしまっていた。 次に起きたのは、携帯のメールの着信音であり、時間を確認すると十一時半であった。 メールはむつきからであり、ネットの地図が添付されていた。 起きたら飯を食わずに、添付した地図の場所に来てくれと特に時間指定はなしでだ。「先生の寮がある方角じゃないよね、絶対」 メールを受け取って直ぐに、美砂は愛しい人に会う為に準備を始めた。 上機嫌でシャワーを浴びて身だしなみを整え、服を選び軽くメイクをする。 昨日は黒のワンピースだったが、家デートを考えごろごろしやすいショートパンツ。 ただし、まだまだ夕方や夜は寒いので黒のストッキング。 黒で続いてしまったので上着は白い花柄シャツと、羽織るだけのカーディガン。 そして忘れちゃいけないと、着替えも選び、チアコスの予備をバッグに詰めた。 実は最後のが一番難しく、予定もなくテレビを見ていた釘宮の目を避けるのに苦労したものだ。 そして現在、美砂はメールに添付された地図を片手に、その場所を目指していた。 学生寮からは少し電車で揺られた先にある森に程近い近い坂道の途中。 結構遠いかもと、バッグを持つ手に痺れを感じながら行き着いた先は、階段であった。 山の頂上まで続いているのではと思えるような、長い長いのぼり階段。 まさかと思い確認の為に電話を掛けてみようとすると、「おお、グッドタイミングだな美砂。ようこそ、ひかげ荘へ」 ビニール袋を手にしたむつきがいた。「昨日というか今日と言うか、お嬢様ちっくな格好も良いが。お前の元気さが一目で見える今の格好も良いな」「そう、ありがとう先生……じゃなくて、嬉しいけど!」 褒められて照れ照れと笑ったのも一瞬のこと。「先生、ひかげ荘ってなに。っていうか、山に続く階段しかないんだけど」「ここはちょい木の陰に隠れてるが、少し上れば分かるぞ。ほら、荷物持ってやるから」「やっぱり上るんだ。うぇぇ……」「まあ、初めてだとそんな感じか。俺は慣れてるからな」 うな垂れる美砂の手荷物を持ってやり、ついでにその背中を押してやる。 はなはだテンションダウンした美砂であったが、それもこの階段の向こうにあるものを見上げるまでであった。 階段の最初の踊り場のように広い場所にでると、その先にある建物が見えた。 三階、または四階建てに見える木造の旅館のような何か。「先生、アレ」「そう、あれがひかげ荘」 名前とかではなくと、美砂はもどかしくなって自分の足で階段を駆け足で上り始めた。 百段は楽にありそうなそれを走って登れば、幾ら若い美砂でも息切れは必死だった。 だがそれ以上に、目の前に見えた建物に心を奪われていたのだ。 階段を上りきった頃には薄っすら汗をかき、息も上がって真っ直ぐ立てなかった。 それでもなんとか膝に力を入れて、目の前の巨大な建物を改めて仰ぎ見る。「うわぁ……」 麻帆良市の古い西洋のモダンな街とは対照的な、和装木造の旅館。 年期の入った古さがまた味をだしており、入り口の引き戸から女将が出てきても驚かない。 本当にコレは何かと振り返ってみると、ゆっくり階段を上ってきたむつきが答えてくれた。「俺の爺さんが所有してる元旅館、学生寮を経て今は使われていないひかげ荘。爺さんは世界中を飛び回ってるから、俺が管理してるんだよ」「凄い、凄い。ここなら誰にも気兼ねなんていらないじゃん」「まあな、街外れだし、山の周辺一帯は爺さんの土地だから誰も来ない。でも驚くのはまだ早いぞ。簡単に案内してやるから、待ってろよ」 これまた年期の入った古臭い鍵で正面玄関を開けると、少々埃っぽい匂いに迎えられる。 今は使われていないというだけあって、人の出入りが殆どないからだろう。 たまには掃除しないとなと苦笑いするむつきに、確かにと美砂は同意するしかない。 だが多少埃っぽくてもひかげ荘を間近にした興奮は収まらなかった。 荷物を管理人室らしき、唯一掃除が行き届いた場所に置き、むつきの後に続く。 元旅館や寮だけあって内部構造は単純で中央の階段を中心線に対象の造りらしい。 部屋も一部屋一部屋大きな違いはなく、日当りや部屋の位置の高さぐらいということだ。 木造の軋みを上げる階段を登り、辿り着いたのは一番上の三階部分。 その一室に連れてこられ、やはりそこも埃っぽかったがむつきの見せたかったものはもちろん別だ。 三階の窓の先から広がる光景。 それは山の中腹部分であるこのひかげ荘から一望できる麻帆良の街並みであった。 ひかげ荘へと歩いてきた最寄りの駅はもちろん、遠くには麻帆良女子中が見えた。 もちろん、麻帆良市のシンボルともいえる世界樹などばっちりだ。「わぁ……」「街並みは夜の方がもっと綺麗だぞ。それから、あっち見てみろ」「あっち?」 むつきが指差したのは眼前に広がる光景の何処かではなく、殆ど真下。 正面玄関からはずれた旅館の側面。 高い塀と屋根で見え辛いが、何やら煙が立ち上っているのが見えた。 ゴミを燃やすような黒い煙ではなく、水蒸気のように白い煙である。「なにあれ、湯気が見えるけど」「まあ、普通どの部屋からも覗けない場所にあるからな。温泉だよ、温泉」「温泉!?」 まさかそんな物がと美砂が振り返った速度は首が跳んでいきそうな程だった。「売るほどはねえけど、山のどっかに源泉があるらしい。浄化装置の点検もかねて、午前中に動かしておいたから何時でも入れるぞ」「入りたい、入りたい。旅館に温泉、二人占めなんて……」 もはや何処から喜んで良いやらといった様子の美砂であったが、さすがに出来過ぎであった。 昨晩まで、むつきの事など欠片も知らない美砂であったが、少しは知っていた。 正直社会科の授業が面白くなかったり、女生徒に人気というわけでもなく。 まあ年齢が割合近いため、気安い態度をとられてはいたが。 舐められているのではという疑いが、紙一重ともいえた。 彼女がいたという話は聞いた事がない、下世話な話だがこれ程までに物持ちなのにだ。 女の視点から見て、こんな良い物件はそうそうないと思えた。「先生、二つ質問。正直、先生って玉の輿? なんで彼女いなかったの? それとひかげ荘って、暗そう。ひなた荘の方が良いんじゃない?」「こんな宝物、おいそれと親しくもねえ奴に教えねえよ。ダチでもほんの数人しか知らねえ。教えたら二度と温泉に入れたり、無料で泊めさせないって口止めしてる」 つまり、それ程までに美砂に入れ込んでいるという事でもある。 美砂としては今の自分が彼女なので、いなかった理由はどうでも良くなった。 玉の輿は嬉しいが、順番的に本人を好きになったのが先なのでそこまで感情を左右するものでもない。 ただ、ひかげ荘という暗い名前だけはなんとも気になるものである。「名前は正直、爺さんの恥部になるんだが。昔から爺さん、幼馴染だった婆さんにぞっこんで、世界中飛び回っているその人の尻を未だに追いかけてるんだわ」「一途って言っていいのかな?」「ストーカーのレベルだよアレは。ただ、爺さん意地っ張りで九十近いのに未だに素直じゃなくてな。その婆さんがひなた荘って旅館を持ってて、俺の方が凄いとか幼稚園児並みの事を言い出して」「このひかげ荘を作ったと……会いたいような、会いたくないような」 情熱は認めるがいささか粘着質だと、しかも捻くれ屋でと笑うしかない。 確かにそれは恥部だが、温泉等々恩恵に預かる身としては頭が下がる思いである。 例え本人の恋が成就せずとも、孫の恋が上々であれば本望だろう。 甚だ、美砂の勝手な思いではあるのだが。「まあ、その辺は飯でも食いながら話してやるよ。俺は結構、お前の事を知ってるつもりだが。お前、俺の事殆ど知らねえだろ?」「だって、昨晩まで本当にただの先生だったんだったし。あ、でも一つ知ってる」「ん、生徒に知られるようなまともな情報なんてないと思うが」 一定の距離は取ってたつもりというむつきに、悪戯っぽく笑った美砂が囁いた。「生徒にチアコスさせてエッチしようとする変態」「変態は認めるが、訂正しろ。美砂にチアコスさせた上でエッチしたいんだ」「ちゃんと持ってきたけど、お預け。家デートが先、それも私をちゃんと満足させたら。持ってたビニール袋ってなんなの?」 この俺にぬかりはないとばかりに、両腕を組んで誇らしげにむつきが答えた。「お好み焼きの材料。用意が簡単だから、イチャつきながら準備ができる。作るのが簡単だからイチャつきながら作れる。食べるのが、以下略。どうだ?」「うん、良い。そういうのがしたかった。先生、早く準備。もうお昼過ぎてるし、おなかぺこぺこ。美味しいの一杯食べたら、シェイプアップも兼ねてチアコスで踊っちゃう、先生の上で」「くそ、可愛いな俺の彼女はこの野郎。ついてこい、美味しい奴を食わせてやる」「あー、美味しいの食べさせて一杯踊らせる気だ。やーらしー」 片腕に美砂を抱きつかせ、はやくもイチャつきながら二人は管理人室に舞い戻る。 布団のないコタツテーブルの上に置かれたビニール袋が待っていた。 早速駆け寄った美砂が、材料を確認するように一つ一つ取り出していく。 どうやら、普段使っていないだけあって食器の類もないようで紙皿と割り箸さえ入っている。「先生、これからここ頻繁に使おうよ。私、色々持ってくるから。毎回、紙のお皿とかなんだか風情がない」「風情って、まあ言いたい事はわかるが。ああ、なんなら好きな部屋一個自分の部屋にしていいぞ。どうせ誰も使ってないし。掃除は必要だが」「んー、凄い魅力的だけど先生はこの部屋なんでしょ?」「土地の権利書とか、大事な資料とかもあるからな」 他の部屋は、あって歴史と埃ぐらいのもので空っぽだが管理人室は違う。 憧れの婆さんに対抗して作った寮だが、それなりに爺さんの思い出も詰まっている。 当時の学生の写真など、勝手に物を捨てるなとはきつく言いつかっていた。「だったら、この部屋が良い。もしくは、隣? 折角の家デートで別の部屋とか意味わかんない」 キャベツに紅しょうがと材料を歌うように取り出しながら、美砂がそう言った。 欲のないといえるのか、欲に正直なのか。 美砂がそれで良いならと、むつきも特に何も言わずに材料や食器類、ペットボトルなどをより分ける。 そしてふと、ビニール袋が空になったわけでもなく、美砂の手がとまった。 頬を少々赤くし、しょうがないなと照れ笑いながらそれを取り出した。「コンドーム、もう普通食べ物と一緒に入れるかな。しかも十箱、先生やる気出し過ぎ」 体持つかなと美砂も嫌がった様子はない。 むしろ初めてみるコンドームに対し、どうやって使うのかと興味深々である。「どんな絶倫だ、俺は。買い置き用や持ち運び用を含んでんだよ。考えても見ろ、盛り上がったときにゴムがなかったら買いに行くのに十分や十五分で戻ってこれないぞ」「あの階段もあるし、辺鄙なのが珠に傷かあ」「昨日は酔った勢いで生でしたが、もうしないぞ。きちんとした避妊は、お前を守る事にも繋がるんだ。好きだからこそ、つけるもんだ」 本音の本音は生で好きなだけ中だししたいが、それではただのクズである。 生徒に手を出したクズ教師ではあるが、人間としてそこまで落ちる気はない。 決意を込めて呟くと、突然美砂が立ち上がってとことこ近付いてきた。 むつきの前でクルリと回転して背を向けると、胡坐の上に座り込んでくる。 猫のように丸くなりながら、赤い顔をコンドームの箱で隠しながらむつきを見上げて呟く。「昨日の今日だからあまり遅くまではいられないけど、一杯これ使おうね」「俺を悶え殺す気か。腹ごしらえが先、空腹じゃ一回で限界だぞ」「美味しいお好み焼きたべて、頑張ろう先生。一杯先生の上で可愛く踊るから」「既に家デートの目的が変わっている件について。望むところだが、食うのが先。じゃねえと、先にお前から食っちまうぞ、この野郎」 かばりと覆いかぶさろうとすると、嬉しそうに悲鳴を上げながら美砂が逃げだした。 ご飯とイチャつくのが先とばかりに、材料の選別に戻る。 むつきも異論はないようで、ホットプレートを出したり粉溶き用の水を持ってきたり。 たった二人だがわいわいとはしゃぎながらお好み焼きを作り始めた。-後書き-ども、えなりんです。arcadiaが落ちていた間の分は一斉更新です。後書きは八話で。