第三十九話 初恋は大抵叶わんもんさ この感覚久々だよなと、教室の扉の前でむつきはニヤケ顔が止まらなかった。 麻帆良祭の終了は既に休みを挟んで三日前。 毎年六月の第三週の金曜から日曜に掛けて行なわれ、振り替え休日が二日となるのだ。 その二日間は新たに小鈴を嫁候補に向かえ、色々と充実した休日であった。 愛称の件で一悶着もあったが、最終的に一度だけと約束して呼んで、布団に突入したり。 結局夕映はまだ答えを保留中で小鈴も体の事があるのでしばらくは本番は禁止。 これはむつきの方から完治するまで駄目と言ったのだが。 そして本当に久々、むつきは現在出席簿を抱えて朝のホームルームの時間に二年A組の教室の入り口に立っていた。 軽くネクタイを直して、騒がしい教室の扉を開ける。「おはよう、元気が良いのは良い事だが、時間だぞ。席につけ」「あっ、あー……あっと。先生、高畑先生はまたしても出張なのでしょうか?」 早速神楽坂に指差されたが、ハッと気付いてその手は後ろに隠される。 そして涙ながらに、礼儀正しく高畑の行方を尋ねられた。 神楽坂の事は今更であるし、麻帆良祭を挟んで随分な進歩でもあった。「喜べ、神楽坂」「は?」 そんな神楽坂へとむつきは笑いかけ、ここが良いかと黒板の隅に目を付ける。 パソコンから印刷した簡単なエクセル表であり、近くの磁石で張り出した。 一体なんだろうとA四サイズの小さな紙を、皆が手で望遠鏡を作ったりして眺める。「高畑先生の出張スケジュールだ。毎朝、どっちが来るか一喜一憂するのも疲れるだろ。まあ、期末も近いし。七月中も以前程は出張ないぞ」「ええ、本当ですか。コピー、その紙のコピーを」「そう言うと思った。ほれ、他に欲しいやつは主に神楽坂のでコピーしてくれ」 スケジュール表を掲げてきゃーきゃー言いながら、くるくる回る神楽坂も慣れれば微笑ましいものだ。「良かったな、明日菜。でも今ホームルーム中やから座った方がええて」「あっ、そうだった。先生、ありがとう」 ここまで喜ばれると嬉しいが逆にこれぐらいでとこちらが恥ずかしくなる。 色々と女子中学生を凌駕した存在に囲まれていると、神楽坂の純な想いが眩しいぐらいだ。 特に神楽坂の位置をすっ飛ばした美砂達は、微笑ましいねと笑むぐらいであった。「先生、明日菜ばっかりにずるい。私も何か欲しい」「高畑先生のお陰で、賞金がまだ残ってるはず。食堂でまた奢るです!」「お姉ちゃん、さすがにそれは図々しいよ」「またJOJO苑か、美味しいけど体重がねぇ」 佐々木に始まり鳴滝姉妹、止めるかと思いきや釘宮も涎を拭う仕草である。 確かに十万かそこらは残りはした。 休み中にも四葉には注意されたが、既に麻帆良祭は終わってしまったのだ。 近くなり過ぎた教師と生徒の距離感も、修正していかなければならない。 特に期末まで一ヶ月を過ぎたこの時期は特に。「JOJO苑は無理だが、ちゃんとお前らにも素敵なプレゼントだ」「あらあら、どうしましょう。最高級ヒレ肉定食を頂いちゃいましょうか」「ふふ、やるじゃないか先生。金の力で生徒をガッチリキャッチとは。嫌いじゃない。休み時間中にメニューを一通り長めにいかなければな」「いやあ、元の食生活に戻れなきゃ先生に責任とって貰うしかないね」 最後の春日は兎も角として、珍しく那波や龍宮といった大人組みまで釣れた。 やはり麻帆良祭の浮き足立ち感は、大人でさえなかなか拭いがたいらしい。 これはプレゼントしがいがあるとむつきは笑い、一部の面々は苦笑いだ。 その一部とはひかげ荘のメンバーであり、そのプレゼントを知っているからである。 何しろ昨日、夜になるまで一生懸命むつきが作っていたのだから。「ほら、これがそうだ。期末に向けての社会科の小テストだ。他の教科も作成して先生方に配ったから今日は小テスト地獄だ」 ちなみに別の強化のは小鈴の手を借りての製作である。 他の教科の先生からこれはありがたいとむつきの評価だけが上がったのは申し訳ないが。「まき絵が余計な事言うから。今日のお昼はまき絵の奢りだかんね」「先生、さっきのなし。嘘、プレゼントいらない!」「別にたかが小テストでしょ。本番前なんだし、何点取ったって良いじゃん」 涙混じりに明石が佐々木を指差し、当人もまた半泣き状態であった。 麻帆良祭の気分も抜け切らぬ中での小テスト地獄にまさに教室内は阿鼻叫喚だ。 ただし極一部、早乙女のように投げやりの者がいないわけではない。 このクラスの悪い癖なのだが、エスカレーター式の学校だから、本番じゃないからと力を抜く事が良く良くある。 麻帆良祭のように興味のある事に力を合わせた時は凄いのだが、興味がなくてもしなければいけない事に対しては凄く弱いのだ。「ちなみに、平均点を下回った奴は放課後に居残りテストだ」「ノゥ、そろそろ夏の祭典に向けてお布施本の製作中なのに!」 頭を抱えた早乙女にざまあみろと笑い、いかんいかんと思い出す。 神楽坂の件で順番があべこべになったが、出欠取りが先である。 出席簿を開いてから阿鼻叫喚中の教室内をぐるりと見渡した。 騒いだ生徒が席を立ったりしたら座らせながら、一席ずつ確認していく。 そして気付いたのは、むつきから見て一番左手奥のマグダウェルだ。 サボタージュの多い生徒で、殆ど会話をした事がない生徒の一人だ。 桜咲、龍宮、レイニーデイ、マグダウェル。 この辺りが特に喋った事がない連中で、桜咲や龍宮は事務的な事なら偶に。 本当はここに絡繰も加わっていたはずが、一昨日、昨日の件でわりと喋った。 主にマグダウェルのだらしのない私生活についてであったが。 無口なレイニーデイと、同じく無口だが顔もあまり合わせた事のないマグダウェル。 これはいかんと、期末が終わるまでに事務的な会話ぐらいと心で誓う。「絡繰、マグダウェルどうした?」「申し訳ありません。恒例のサボタージュです」 もはや病弱設定も何処へやら、絡繰のせいかもしれないが堂々のサボタージュ宣言である。 ならばこっちも考えがあると絡繰にマグダウェルへと伝言を頼んだ。「絡繰、マグダウェルは放課後の居残りテストに強制参加な。理由なくサボったら、期末テストも受けさせんて伝えてくれ」 実際、そんな勝手な事をする権限むつきにはないのだが。 普通の女子中学生には十分に通用する脅しであろう。「先生、容赦ないなぁ。強制的にバカレンジャー入隊やん」「エヴァちゃん可愛いし金髪だから、やっぱゴールド?」「私は既に卒業した身なのでノーコメントです」 和泉を筆頭に美砂、夕映とマグダウェルのゴールド就任は確実視されていた。「欠席はマグダウェルだけだな。なら、一次限目の準備をしっかりとな」 そう言ってまだ小テスト地獄の宣言に苦しむ生徒達を置いて退室する。 ただ少し心配なのは、全ての小テストを用意したのがむつきと知れ渡る事だ。 折角ランキング二位を獲得したのに、瞬く間に転がり落ちかねない。 先生方に誰が用意したのか口止めをした方がと緊急用の連絡網のメールを立ち上げる。 ただこんな事で連絡網を使用して良いものか。 ううむと悩んでいると、スーツの裾を後ろから誰かに引っ張られた。「ん、大河……じゃなくて、レイニーデイと雪広か。珍しい取り合わせだがどうした」「それが、先生。先程の小テストを見せて頂く事は可能ですか?」「いや、駄目だろ。何言ってんの?」 当然の返答にですわよねと納得した雪広が、耳打ちでレイニーデイに伝えた。 すると彼女はメモ用紙を取り出し、何かを描き始める。 そして一言二言雪広に問いただしては頷き、またメモに記述を繰り返していった。 最終的にメモは無言でむつきに手渡され、それを見たむつきは思い切り青ざめた。 先程見せたのは社会科の小テストだが、一字一句間違いなく写し取られているのだ。 しかも、あろうことか全問正解といういわば模範解答込みである。「まさかとは思うが、あの一瞬でザジが記憶して。雪広、お前答え教えた?」「いえ、読めない字や文法の意味をお伝えしただけですわ」 全開の中間テストで見事バカホワイトに生まれ変わった彼女が満点である。 しかし意味がわからない。 これ程の瞬間記憶術と満点を取る知識があってなぜ成績が悪いのか。 何故だと鼻頭に指を置いて思い悩んでいると、またザジが何か雪広に話しかけていた。「あら、まさか。一年以上も同じ教室で勉学に励みながら、この雪広あやか一生の不覚ですわ」 一体どんな衝撃事実がと、というか何故直接ザジが喋らないのか。「先生、ザジさんは日本語が殆ど読めないと。先程も、答案用紙は瞬間記憶のように絵として理解し、読めない部分は私が教え、聞かされた回答の字もお教えして」「ちょっと待って……マジで?」「マジです」 初めてレイニーデイの声を聞いたのは良いとして、マジですぐらいは言えるらしい。 もしかして普段喋らないのは、無口なだけでなく喋れないからなのか。 良く良く考えても見れば、小鈴のせいで忘れがちだが。 留学生の多いA組でマグダウェル、レイニーデイ、古の留学生組は成績も低空飛行だ。 あれ実は、日本語が難しくてまともにテストが受けられなかっただけなのでは。 古だけはちょっと怪しいが、その疑いはあながち間違っておらずむしろ濃厚である。 まさかと二人をここに留めたまま、教室へと逆戻りであった。「古、いるか?」「先生、どうしたアル?」 少々迷ってから、社会科の小テストを見せて尋ねてみる。「お前、読めない日本語とか文法どれぐらいある?」「んー、答えはわからないけど。コレぐらいなら、半分ぐらいは分かるアル!」「おっ、まさか小テストの問題を見せてくれるのかにゃ?」「違うわ、集るな奪おうとするな!」 明石のトンでも発言を発端に、ならば寄越せとわらわら集ってくる そんな彼女達を掻き分け廊下へと戻り、一息ついてから言った。「古も半分はわからんとさ。まさか、日本語が読めないとか予想外過ぎるだろ。一年の頃、どうしてたんだよ」「超さん、古さん、マグダウェルさんと日本語を喋る事ならバッチリですので。ザジさんが喋る事すらと知ったのは私は割合初期の頃ですが。あまり上達しませんでしたわね」「日常会話は問題ない。暗記した」 暗記とはこれまた怪しい解答で、全く同じ意味の言葉、文法でしか分からないのでは。 本当に極端な例えだと、千円出した時のお釣りが三百円なのか四百円なのか計算はできても文章としては分からないといったところか。 実際は硬貨の数などで私生活としては問題ないだろう。 あとザジの母国語を雪広がマスターしているのも少々気にはなるところだが。 とりあえず、留学生組みは小テスト云々の前に日本語を鍛える必要がある。「雪広、悪いが放課後に超共々付き合ってくれ。日本語講座だ。生憎俺はザジの母国語も中国語はもちろん英語もできん。方針だけは軽く決めるから」「承りました。では古さんにも申し訳ありませんが強制的に放課後の特別授業に参加ということで」「気付いてやれなくてすまんな。期末までにテストで用いる文法は大半覚えような」「感謝します」 気にするなと割合仲の良さ気な二人を見送り、少し教室から離れるように廊下を歩く。 そして携帯電話を取り出すと、出張中の高畑へと電話をかけた。 コールは何度も続き、出ないなと思いながら暑さに根負けして窓を開ける。 外の風も梅雨だけに湿っぽいが、締め切った建物内の淀んだ空気よりましであった。 窓の枠に肘をつくようにしてもたれかかり、なんとも言いがたい風に身を任せた。 ひかげ荘は古いのでクーラーがなく、夏は大変そうだとせめて扇風機を買うか。 打ち水なんかも、割合山の方なので効果はあると考えている内に繋がった。「はわぁ、ごめん乙姫君。ちょっと時差がね。何かあったのかい」「今夜ってほぼ間逆じゃないですか。夜分にすみません、ある意味で緊急事態だったもので」 携帯電話の向こうからの第一声は眠そうなあくびからであった。 一体何処へ出張に行ったのか。 さすがにそこまでは把握しておらず謝って良いやら呆れて良いやら。「レイニーデイの事ですが、彼女殆ど日本語が駄目みたいで。テストも殆ど答えは知ってるのに問題が読めず書けないありさまらしくて」「本当かい。彼女無口だから、テストでも明日菜君達よりは好成績だったからね」「確かに言われてみれば、読めないレイニーッ!?」 ふいに体が意志に関係なく、風に浚われるように浮き上がる。 弾んだわけでも、窓枠から身を乗り出したわけでもなく。 なのに体は風に舞う紙風船のごとく、むつきの体を窓枠の外へと押し流していった。 突然声が途切れ、高畑が名を呼んでいるが返答に思考を使う余裕はない。 今むつきの頭を占めているのは、回転する視界、乗り越え落ちていこうとする体。 窓枠の向こう、ここはまだ二階だがこの体勢なら恐らくは頭から落ちる。 落ちる、そう理解したむつきを強い力が押し戻した。 ガシャンっとガラスか何かが割れるような音が聞こえ、力強いその力が引っ張り込んだ。「先生!」 必死なその声の主、神楽坂が力一杯むつきを廊下側に引っ張り込んだのだ。 思い切り尻餅をついて携帯電話も手の中から落ちて廊下の上を滑っていく。 一瞬頭が真っ白になり、時間が経つにつれ廊下でのざわめきが耳に届き始めた。「あれ、俺……」 何がどうなったと半分放心状態で誰ともになく呟く。「先生、窓枠に座ったらあかんよ。明日菜が掴んで引っ張りこまな落ちとったえ」「窓枠、俺がそんな横着すると思うか。新田先生に見つかったら、雷どころじゃない」「けど、ああ焦った。先生ふわふわって、外に落ちそうで」「誰かが俺を押さなかったか?」 当然ながら、神楽坂も近衛も顔を青くして首を横に振った。 むつきの言葉を受け止めるなら、誰かが俺を殺そうとしなかったかと聞いたも同然。 自分の失言を察したむつきは、引きつった笑みを見せながら携帯電話を拾いあげた。 ざわめく他の生徒にもなんでもないと、むしろケツが痛いとおどけてみせる。「買い換えたばっかなのに見事に割れてら。高畑先生と電話中だったのに切れてる。壊れたか?」「えっ、もしかして私の……」「気にすんな、助けられてラッキーだ。で、お前どうした?」「そうよ、先生。これ、期末テスト後の夏休みの間ずっと高畑先生が出張中って!」 話題を摩り替えようと話を振ってみたら、好都合にも高畑の話題であった。 高畑大好きな神楽坂なら、鶏のように即座にむつきの失言も忘れてくれるだろう。 その神楽坂が追いかけてきたのは高畑のスケジュールのせいらしい。「長期休暇中に纏めて集中的に出張をこなして普段来る日を増やすとか言ってたぞ」「折角麻帆良祭で距離も縮まったのに、今年の夏が早くも終わったわ」「お前、本当に高畑先生好きだな」「や、やだ。なに言ってんの乙姫先生。私みたいな子供が、高畑先生のっ!」 ばれてないと何故思っているのか不明だが、そんなものなのか。 バシバシ叩かれて痛いが、一先ず近衛に助けを求めて神楽坂をひっぺがしてもらう。「全く帰って来ないわけじゃないと思うから、もう少し詳しく聞いておいてやる。俺ももう少し高畑先生と仲良くしたいし、遊びにでも誘った時はこっそりお前も偶然を装って誘ってやるよ」「絶対、絶対ですよ。夏休みに高畑先生とデート!」「明日菜、もう予鈴なるから戻りや。あんまはしゃいで皆にばれると、皆もこぞってついてくるえ?」「はっ、それもそうね。秘密、ひみくふっ……乙姫先生ありがとう!」 わーっと結局ははしゃいで神楽坂が教室へと戻っていく。 悪い子ではないし、明るく真っ直ぐな子なのだがテンション上がりすぎると少しウザイ。 A組だから良いが陰湿でありながら妙なリーダーシップを持つ子がいるクラスでは苦労しそうだ。 バレーの時もそうだが、あれでリーダーシップはあるので、私の立場がとか苛められそうである。 高畑ではないが、ちょっと心配な子ではあった。 それじゃあと近衛にも別れを告げようとすると、スーツの裾をつかまれた。 もしや引きとめるにはスーツの裾を掴めと、アキラ辺りから漏れているのだろうか。「どうした、近衛?」「先生こそ、顔が真っ青やえ? 誰かに押された、あれ本当なん?」 高畑命の神楽坂は兎も角、さすがに近衛には誤魔化しは効かなかったようだ。 とはいえ、むつきだって誰かを見たわけではないし、無意識に窓枠に座った可能性もある。 今はまだ怖がらせる返答もできず、笑って誤魔化すしかないのだ。「たぶん、気のせいだ。怖い顔するな、お前らしくない。ほわほわ笑ってる顔、癒されるから結構好きだぞ」「なら、ええけど。先生、彼女おるのに生徒口説いたらあかんえ」「口説いてねえよ。瀬流彦先生とか見てみろ、大人の男は常に癒しを求めてるんだ。その点、あのD組の子とか神楽坂。周りでキャッキャと騒ぐだけで逆効果で、正直上手く行くとは思えないけどな」「ありゃりゃ、応援しとるかと思いきや。先生結構辛口やね」 正直な感想なのである。「初恋は大抵叶わんもんさ、経験者は語るだ。もう少し大人になって相手に憧れるだけじゃなく、思いやれるようになったら。まだ芽はあるんだけどな」「明日菜の代わりに、うちが覚えとくわ。アドバイスありがとうな、先生。授業がんばってや」 お前も名と手を振る近衛を見送って、むつきもまた授業のある教室へと向かった。 あれは本当に自分の不注意なのか、自問自答を繰り返しつつ。 背中にへばりつくシャツの冷えた嫌な汗を感じながら。 それからと言うもの、ハリネズミのように周囲にアンテナを張りつつ過ごした。 その結果、何かあったわけでもなく、とてつもなく疲れただけでった。 逆に常時気を張り詰めすぎて気疲れを起こしてしまう程だ。 職員室に戻った時など、期末前で気が入り過ぎではとさえ周囲に注意された。 小テストを全教科分配った事も多少影響していたのだろうが。 四葉に注意されてなお、麻帆良祭の後の興奮が抜けず、学生時代を思い出して窓枠に座っていただけなのか。 放課後になって気疲れから、肩をほぐしながらA組の教室へと向かった。 小テストはまだ未採点だが、ザジと古、それからマグダウェルへの特別授業である。 昼休みに今一度雪広に小鈴、そこに葉加瀬の学年トップスリーを加え。 日本語対策を話し合って簡単にだがテキストも作成した。 この対策が上手く行けば、特にザジがかなりの得点アップが望める。 古やマグダウェルまで得点アップとなれば、念願の学年最下位ですら突破できるのでは。 A組の担任となる野望の為にも、是非是非ここは乗り切りたいところであった。「って、そこを歩くはマグダウェル」 むつきの視線の先は、窓の外の階下。 校舎裏をとことこ一人で歩く小さなマグダウェルの金髪頭であった。 教室を見上げる事もなく、今まさに手ぶらではあるが帰宅しようとしているようにも見えた。 小テストこそ程々に受けていたようだが、それ以外の授業は殆どをサボタージュ。 一体何の為に日本に留学してまで学びに来たのか。 囲碁部や茶道部である事を考えると、興味のあるそれらはしっかりと学んでいるようだが。 確かに留学生なら何れは母国に帰るので、日本の学校の成績など構うまいといったところか。 それはそれで彼女の自己主張、考えなのかもしれないが。「おーい、マグダウェル」「ん? げっ、乙姫か」 窓を開けてむつきが呼びかけると、いかにも面倒そうにだが反応をしてくれた。 呼び捨てなのは、さん付けの習慣がないからか。 本当に相手の国の事情をしらないと、留学生の相手は何処まで叱るべきか難しい。 かすかに聞こえた声から、ザジよりは日常会話もくだけてできそうなのだが。「折角憧れの日本に来たんだ。正しい日本語を覚える為の授業やるぞ。学年トップスリーも協賛の安心授業だ。囲碁とか、茶道の参考書を読む時なんか役立つぞ」「貴様より、よっぽど日本の文化に詳しいぞ。舐めるな、この若造が」「お前、やっぱり言葉使い無茶苦茶じゃないか。将来、日本のパーティとかに参加した時とか困るぞ。そうだな、物でつるのもなんだが。囲碁の面白い参考書、見せてやろうか?」「な、なに?」 プライドが高そうな割に、割と普通の手に引っかかった。「今は手元にないけど、全巻揃えて読ませてやるからさ」「全巻、多いのか。そんな参考書、聞いた事も。大抵は一冊か、上下巻。ぐぬぬ……」「悩むぐらいなら、一度だけ。今日だけでも顔出してみろ。今行くから、待ってろ」 マグダウェルが迷ったこの好機を逃してなるものかと、一方的に言いつけ走る。 放課後なので多少はと階段を飛ばして走り、一目散にマグダウェルの元へ。 階段を降りて校舎の裏手に周り、まだマグダウェルはいた。 本当はいけないのだが、走って良かったと思いながら手を振って到着を知らせる。「おーい、マグダッ!」 マグダウェルの数メートル手前、振っていた手に何かが触れて痛みが走った。 咄嗟に胸元に抱き寄せた右手の甲には一滴の液体が。 煙を発して熱なのか、痛みが断続的に襲い慌ててスーツでそれを拭う。 肌の上に伸びてはそこからまた痛みが走り、悪態をつきながら必死で拭った。 一体なんだったのか、火傷をしたように引きつる手の甲の肌に息を吹きかけ見上げた。 飛行機が何か輸送中の液体でも零したのか、想像できたのはそれぐらい。 だが見上げた空は梅雨時らしく、液体の透明な色一色であった。「バケツ」 が引っくり返ったような雨と思う間もなく、謎の液体がむつきに降りかかる。「若造!」 その瞬間、金色の塊がむつきの腕を引っ張り体勢を崩させて投げつけた。 ピンポン玉の様に比喩ではなく、本当に軽々しく割りと大き目の体が跳んだ。 バケツの水とすれ違うように体が回転しながら空を舞い、やがて当然のように落ちた。 ばしゃりと地面の上で弾けた水とは全く異なる場所の地面の上へと。 背中から落ちたので肺の中の空気が一気に抜け咳き込んだが、全くの軽傷だ。 ただ突然の連続、混乱の極みで息を整えるのに随分と手間取ってしまった。「ごほっ、痛てぇ。一体何が、起こって……」 這いつくばり、背中を後ろ手にした手で押さえながら振り返った。 決して見間違いではない、あの水は地面の上で濃い煙を発生させていた。 地面の土はまだしも、芝生といった草花がジュウジュウとおかしな音をたてて溶ける。 もしくは高速で燃えてさえいるのか、さっぱり意味が分からない。 ただ唯一あの液体が猛毒、もしくは硫酸のような劇薬であったという事だ。 咄嗟に上の階を見上げると、校舎で窓が開いた階層があり、あそこは理科室のはず。 誰かが間違えて捨てた、それとも狙われたのか。「くっ」 膝が笑い立てそうになく、心細さから思わず美砂達を呼ぼうとして止めた。 携帯が壊れている事もあるが、こんな危険な事態にあの子達を巻き込めるはずもない。 まずは新田に相談し、学園長それから必要であれば警察に。 しかしこれで二回しかも一日でとなると、狙われた可能性しか考えられない。「ちっ、私とした事が。しかし、笑えるな。爺が中等部を追い出され、タカミチは地球の裏側。聞かん坊の一人や二人出ると思いきや。狙ったのが若造一人とは」「マグダウェル?」「若造、生まれたての小鹿のように足全体が笑っているぞ。立てなければ、人を呼んでやろうか?」 妙に挑発的でむしろ生き生きとした言葉に顔をあげ、そこでようやく気付いた。 俺は馬鹿かと、笑う膝を殴りつける。 笑っている場合かと何度も殴りぬけ、ガクガクと膝を揺らしながらも立ち上がった。 膝を酷使して体を伸び上がらせたまま、スーツの上着を脱いだ。「お、おい無茶はするな。すっ転んで酸に顔を突っ込むのが関の山だぞ」 放心なんかしている場合ではない。 心配そうな口ぶりに変わったマグダウェルの目の前で、スーツの上着を地面に叩きつける。 ジュゥとスーツの上着が謎の液体に覆いかぶさり奇妙な音を立てるも、吸い込ませるように踏みならした。 一時この場を離れても、泥だらけの汚いスーツなど誰も近付き拾わないだろう。 それから奥歯が割れそうな程に食い縛り、地面を踏み抜くつもりでマグダウェルを抱え上げた。「こら、気安く触るな」「喋るな、直ぐに保健室に連れて行ってやる。犯人探しはその後だ!」 マグダウェルの右腕が、あの液体を浴びてぼろぼろになっていたのだ。 白い肌は見るも無残に血に塗れ、溶けた皮が血と肉と混ざりグロテスクとさえ言えた。 彼女自身痛みに顔をしかめる事すらしないが、それは逆に痛みが超越しているからか。 小さな女の子のしかも腕に痕でも残れば大惨事である。 頼むからこけるな俺と膝が再び笑い出すのを堪えて走った。 オリンピックに出れば世界新でも出そうな勢いで、一目散にだ。 何事だと面食らう生徒達を縫うように走り、保健室のドアを蹴り破くように突入して保険医の沖田へとまくし立てた。「沖田先生、マグダウェルを。理科室の下で酸か何かが降って来て、腕が。早くしないと痕が、治りますかね!」「あら、これは……」 なんて事と口に両手を当てて沖田が驚いていた。 ただしその視線はマグダウェルの右腕ではなく、全体を捉えている。 マグダウェルをお姫様抱っこしたむつきを含め、酷く落ち着く払ってだ。 今にもくすりと笑いそうだが、焦っているむつきは気付かない。「いい加減にせんか、眠りの霧!」 最後に物理と付け加えたくなるような、謎の液薬が入った試験管での一撃であった。 ぱりんと割れた試験管から漏れた液体が霧となってむつきの顔全体を覆う。 かくんと膝が折れては崩れ落ち、保健室の床の上でごちんと頭を打っていた。 もちろんマグダウェルはその前に腕の中を脱出しては着地を成功させている。 怪我をした腕はだらんとしているが、逆側の腕は組むように胸元にあった。「ふんっ……大げさな奴め。貴様も、何を笑っている。森、じゃなくて沖田」「名前変わって五年なんだけどまだ慣れないのね。でもそりゃ、笑うわよ。天下の悪の魔法使いが一般人の男性にお姫様抱っこで担ぎ込まれたら。腕を見せて、そろそろ満月の頃とは言え、痛い事は痛いでしょ?」「この程度、くそ。せめて満月だったら瞬く間に治っているものを」「悪態ついても仕方がないでしょ。とりあえず、乙姫先生はぽーん」 ややおっとりとした口調ながら、意外な豪腕にてむつきの体はベッドの上にダイブである。「ほら、おいでエヴァちゃん」「お前、それで良く立派な魔法使いを目指してるって言えるな」「昔の話よ、エヴァちゃん並みにピチピチだった頃の。あん、悔しい何時触ってもすべすべで甘いミルクの少女臭がたまんないわ。うち男の子二人だし、エヴァちゃんみたいな女の子が良かったのに」「欲求不満か。旦那にでも三人目を頼め。まだ十分にいけるだろ」 椅子に座る沖田の膝の上で腕を杖に灯る不思議な光で癒されながら尋ねる。 髪の上から首筋にくんかくんかされ、若干鬱陶しいが。 かれこれ十五年の付き合いなので今さらでもあった。 初めて麻帆良女子中に入学した当初、西洋美幼女だと周りが壁を作る中で今回のように初対面で抱きつかれくんかくんかされた頃が懐かしい。「だって帰って来ても子供の遊び相手で疲れて、私の夜の相手までもたないんだもん。エヴァちゃんに貰った衣装、昔は嬉々として押し倒してくれたのに今じゃ疲れてるからって嫌そうにするだけで」「一度、ぶちのめしにいって良いか?」「駄目よ、彼一般人だから。旧友を暖めるのはここまで、何があったの?」「ああ、どっかの魔法使いが若造を殺そうとしてたみたいでな。よりにもよって、この悪の大魔法使いの目と鼻の先で。舐められたものだ」 沖田はふーんと言うだけで、特別驚いた様子も見せなかった。 一応、誰かに恨まれるような人間じゃないと思うけどとむつきを擁護したが。「人間程に歪な生命は他に類を見ない。確かに若造も若輩ながら色々と頑張ってはいるが。全ての人間がそれを歓迎するわけではない。特に我が道を邪魔されたと逆恨みした時は特に」「あら、その様子だと犯人は既に心当たりがあるようね」「私を誰だと思っている。目の前での犯行だ。直接姿こそ見ていないとは言え、後を追う方法は色々とッ!?」 咄嗟に沖田の膝を飛び降りたマグダウェルが身構えた。 膝の上にマグダウェルがいたため反応が遅れたが、沖田も白衣の袖からタクトのような物を取り出した。 まさかマグダウェルがいる上に沖田までいるこの場に襲撃をかけるとは。 余程の馬鹿か、世間知らずか。 その馬鹿は、麻帆良最強の頭脳を持つ馬鹿はゆっくりと怒りを胸に灯して入り口から現れた。「その話、詳しく聞かせて欲しいネ」 マグダウェルですら咄嗟に身構える殺気をみなぎらせながら、小鈴がベッドに近付く。 頭でも打ったのかうっと呻いているむつきの頬に触れ、怒りをさらに昇華させる。「ホームルーム後、明日菜サンが触れたせいで魔力残照が崩壊して追跡が不能に。おかげで後手後手に回ってしまったネ」「貴様か、驚かすな。別に教えても構わんが。私好みの結末ぐらい、対価として貰えるんだろうな?」「当然ネ、超鈴音は基本的に戦わない。けど、今回のように親愛的に事が及んだ場合は別。私の全知全能を持って断罪を下すヨ」 そう言った小鈴は携帯電話をとある人物へとつなげた。「私だ、仕事の依頼かい。超」「龍宮サン、スナイプして欲しい人がいるネ」「この学園にいる間は、学園長から命に関わる依頼は受けるなと契約が」「三億出すネ」 途端に電話の向こう側の声は途切れ、阿呆かコイツとマグダウェルも沖田も超を見ていた。 若干沖田は羨望の眼差しと言うか、今にも分けてと言い出しそうだが。「超、私も人間だミスぐらいする。銃の暴発などアメリカでは日常茶飯事だ」「そうネ、怖いよ銃社会は。本当に怖いネ」 くっくっくと互いに笑い、ただ一言電話の向こうから契約成立だと呟かれた。 -後書き-ども、えなりんです。サスペンス風にしようとして失敗したお話wザジが喋らない理由はまだ言語を勉強中だからって事にしました。そして、何故か魔界の言葉を喋れるあやか。知らないうちに英才教育受けてます。あと最後に出てきた保険医は半オリキャラ。原作の麻帆良祭で、ネギと刹那に眠り薬盛った人です。なんであんなことしたのかなと考えてたら、エヴァと同級生になってました。変えられる過去なら変えてあげたい、そんな考えの持ち主です。挫折しちゃってますけどね、けどエヴァとは今でも友人です。後々、おもろい事になりますこの保健医。エヴァの恋の応援団的な意味で。次回はA組のゴルゴの活躍です。直ぐにエロ話にいっちゃいますけどね。水曜更新です。