第八十三話 ひかげ荘を俺にください 花火大会が終了した後、生徒達は判別でお風呂で汗を流してから就寝となった。 その際、那波の風呂を覗こうとしたある意味逞しいつくもは、当然見つかっていた。 現在、美人姉妹総がかりで簀巻きにされ、屋根の上から吊るされている。 なんとまあ、今の時代にあそこまで肉食系になれるものだ。 同じ乙姫家の男児として、血がちゃんと繋がっているのか不思議にもなるのだが。 今はそれどころではないと、愛する愚弟の事は頭から追い出した。 目の前にして立つのは、民宿竜宮にある建物の最奥の部屋。 現在の乙姫家の全てを束ねる爺さんの私室の部屋の襖の前に、むつきは立っていた。「爺さん、入って良いか?」「むつきか、うむしばし待て」 少し待てなど言われた事なく少し不審に思ったが、言われた通りに待った。 中で少しぱたぱたと軽い足音がし、一分と経たない内に入れとの言葉が帰って来た。「爺さん、少し話がって。なんで部屋が暗い、電気つけろよ。まさか、就寝前だった?」「た、たまにはそういう気分になる時も。あっ、待てむつき」 なんか怪しいと部屋の電灯を点けて見れば、それもそのはず。 爺さんの頬には何かがぶつけられたような張れ跡が。 吊るされたつくもにも姉妹から殴られた以外で、似たような張れ跡があったはず。「爺さんもかよ、良い歳こいて。俺も男だから、分かるけど。姉ちゃん達には黙っとく」「そうかそうか、さすが。むつきは分かっとるの。捕まるつくもが鈍なんじゃ」 目標が那波という事だから、怒らないわけで。 これが一班の美砂達を狙ったものなら、スルーで済むはずもない。 ただこれから爺さんに願う事柄を考えると、本当にそうだったらどうしたか分からない。 むつきは開いた襖を後ろ手に閉めると、座布団の上でタバコをふかし始めた爺さんの前に座り込んだ。 崩した胡坐ではなく、これから物事を頼むに当たって正座である。 そんなむつきの態度を察し、さすがの爺さんも真面目な話かとタバコの火を消していた。「それで特別な話か?」「うん、単刀直入に言うよ。ひかげ荘を俺にください。他は何もいりません。結婚したい子達がいる。大勢養わなきゃいけない、だからあそこが欲しいんだ」「ほほう、子達か。娘からは、生徒一人としか聞いとらんが」「母さんには内緒で、爺さんにだけ話すよ。こっちは強請る立場だし」 とてつもない財産を強請るだけあって、口先だけで済ますことは出来なかった。 血の繋がった家族だから甘い判断をという願望がないわけではない。 しかし、これから先の長い年月を口先だけで継承したひかげ荘で過ごす事はできない。「美砂一人だけじゃない。俺の嫁になりたいって子がたくさんいて、どの子も可愛くて選べない。だから全員、嫁にする為にひかげ荘が欲しい」「ほほう、して乳の方は?」「巨乳から貧乳まで。爺さんには悪いが、俺は改宗した。おっぱいに貴賎はない」「そうか、そうか!」 あれ、なにこの会話と祖父相手ながらちょっと微妙に思ってしまった。 真面目な話をしに来たのにやはり、矛先がそちらへ向いてしまう。 このブレなさは、見習うべきなのだろうか。 ブレブレの人生を爆心しているロリコンとしては。「ええよ、ひかげ荘はやろう」「えっ、軽ッ!」「なんじゃ、いらんのか?」「いや、無茶苦茶欲しいけど。あっさりくれ過ぎて。条件とか色々、付けられるのかと思ってたから」 あっさり過ぎて現実感がなく、内心とは裏腹にそれで良いのと返してしまう。「理由は色々あるぞ。おっぱいに貴賎はない、わしはその領域に達する事ができなんだ。孫がわしを超えたのみならず、両手一杯の嫁じゃと。浦島の子せがれは、嫁一人で手一杯だというのに。はっは、勝ったぞひなたの婆め。わしの孫息子の方が上じゃ!」「ああ、そういう理由ね」 爺さんらしいやと、ある意味で納得してしまう答えであった。「お前も妙なところでついとるの。今日このタイミングで言い出さねば、むつみの新居にと明け渡せと言うつもりじゃったからな」「あっ、ぶねぇ……そうだよ、その可能性も。椎名のおかげか。姉ちゃんには悪いけど、ひかげ荘だけは譲れないんだ」「むつみより大切な子か。うんうん、知らぬ場所で孫は大きくなるもんじゃ。近右衛門君のところに預けて正解じゃったわい。っと、そうそう。近右衛門君で思い出した」 先程まで乳を理由に優良物件を譲ったとは思えぬ真面目な顔に爺さんが変わる。 改めて、何か重大な話がとむつきも姿勢を正す。「木乃香ちゃんじゃったか。あの子に手を出す時は、それなりの覚悟をせいよ」「は?」 一体なんの話しだとは思ったが、現時点で木乃香はひかげ荘に足を踏み入れてしまっている。「風の噂でな。彼女はやんごとない身の上らしい。やんごとないと言えば、あの集団にはそういうのがごろごろしとったがな」「はあ……近衛の実家は既に見てきたから、やんごとないのはわかるけど」「ええ、ええ。生徒に手を出すなら覚悟しろ、そう受け取れ。お前は知らんでも良い事じゃ。孫息子の成長を前に、少しわしも口が滑ったようじゃ」 からからと笑い始めるのは良いのだが、そういう笑いの時はごまかしだ。 爺さんが人に知られたくない、または知らせたくない時は大抵この笑いを浮かべる。 ただそう言う時は、素直に身を引くのが互いの為とも知っていた。「うん、わかったよ。爺さん、ひかげ荘はありがたく頂戴します」「うむ、必要な書類は後日送ろう。これまで管理しとったから、改めて増える手順は微々たるもの。頑張れよ、むつき」「頑張るさ。幸せにしなきゃいけない女の子が沢山いるから。他の男の何倍も頑張らないとね。ひ孫を産むのは姉ちゃんが先だけど、数はこっちが上だから」「おうおう、待っとる待っとるぞ。ひなたの婆が悔しがる光景が眼に浮かぶわい」 最後にもう一度だけ、感謝と就寝の挨拶を述べてむつきは爺さんの部屋を去っていく。 その足取りは、当然の事ながら軽い。 念願のひかげ荘が、爺さんから直接譲渡されたわけだからだ。 口約束ではあるが、その事実は文書などよりも重い。 エロ爺で困った爺さんだが、多くの孫に対して嘘だけはついた事がないからだ。 るんるんと自宅兼民宿の廊下をスキップするほど、浮かれ捲くったむつきが歩む。 その数分後、入れ替わるようにやってきたのは観音とエヴァであった。「失礼します、お爺様」「うむ、邪魔するぞ」「おお、来よったか。入れ、入れ。エヴァとやらはめんこいな、飴玉でも食うか?」 やって来た観音とエヴァに対し、爺さんはむつき対するそれと代わらぬ笑顔で迎え入れた。「全く、人間はちょっと歳をとると直ぐに図太くなるな。私の正体を知っての行為だろ」「お前の正体など知らん、知らん。鬼子か何かだとは年の功で分かるが。ふむ、あとむつきが口にしたアタナシアもお主かな。我が孫ながら、面白い恋愛しとるのう」「ちなみに、お爺様に嘘や見栄は通用しませんので。自然体でどうぞ」「この禿げ頭、これが私の自然体だ」 失敬なとばかりに観音の足を蹴り上げ、エヴァはずかずかと部屋に入っていった。 近右衛門の理事長室に入る時と同様に遠慮は微塵もなく、勝手に座布団に腰掛けた。 そんなエヴァの対応に観音は内心はらはらだが、爺さんが何も言わないので従った。 自分だけでも失礼しますと礼儀正しく入室しては、正座で相対する。「それでは改めて、ご無沙汰しております。お爺様」「そんな禿げ頭下げんでもええ、お主もわしの孫同然じゃ」「おい、その孫の愛しい客人がおいてきぼりだぞ」 私も仲間に入れろとばかりに、平伏した観音のわき腹をげしげし蹴っていた。「なに、観音君の事は以前から知っておったのだがな。とある一件でむつきが世話になっての」「お世話になったのはむしろ私です。乙姫が、大学時代にひかげ荘の件で数々の女性に迫られた件はご存知ですか?」「まあ、聞きかじった程度だが」 大学時代、ひかげ荘を自慢し友人を招待しては宴会を開いていた事があった。 沖縄のど田舎から上京し舞い上がっていた事もあったが、純朴な田舎者でもあったのだ。 そこにつけいるように腹黒い女性が群がり、断り続けた挙句に事件は起きた。 とある女性が暴言を吐いた挙句、むつきに殴られたのだ。 恨んだ女性は当時むつきがつき会っていた女性をターゲットに復讐を行なった。 当然、その結果二人は別れる事になったのだが、この話には続きがある。「大学で偶然乙姫と友人になった私ですが、それはもう若さに任せ立腹しまして」「まさか」「そうです、その女性を呪ってしまったのです。良い男を見る度、変顔をしてしまう程度の軽い鈍いですが」「レベル低ッ。いや、現実に生きる女には死活問題だが」 一応、西洋魔術師が掲げる立派な魔法使いは別にしても一般人への手出しはご法度。 普通ならば、観音がこうして外を出て歩いているのも不思議なぐらいんなのだが。「もちろん、即座にばれました。西へ呼び返され、審問沙汰になったのですが。そこへ現れたお爺様が、弁護をしてくれまして。お一人だけでした、私の味方になってくれた方は」「大事な孫息子の仇敵を呪った友人をどうして見捨てられよう。どうじゃ、良い男じゃろ?」「ああ、お前は自分でそう言って駄目にするタイプなのは分かった」 顎鬚を撫でながら自画自賛した爺さんは、こう言う奴だとエヴァは早くも学習した。 したのは良いが、当たり前の疑問が残った。 どう見ても目の前の小さなファンキーハッスル爺さんが、裏の世界に一石を投じられるとは思わない。 魔力や気の欠片も感じないし、言ってしまえばむつきと同じ一般人だ。 一体どんな裏技を使った事か、俄然興味が湧いてくる。「それで、一体どうやって?」「掟が、掟がと煩いからな。言ってやったわ。そんなに嫌ならわしの土地から出てけとな」「は?」 なにその正攻法と、意味が分からなかった。「日本の霊場の五分の一ずつ関西呪術協会と関東魔法協会が手中にしています。また残り五分の一をその他大勢の勢力が抑えています」「まさか、残りの五分の二をこんな爺がと言わんだろうな」「ええ、まさか。残りの五分の一ずつを、お爺様と浦島のひなたお婆様が所有してらっしゃいます」「似たような者じゃないか!」 ここにちゃぶ台があればと、せめてエヴァはお尻の下の座布団を叩きつけた。 資本主義に押されすぎじゃないかと。 本当に魔法は時代じゃないなと心から、座布団を叩きつけていた。「ほれ五十年前に戦争あったじゃろ。あの頃から、ひなたの婆はムカつく事に何かと張り合ってきてな」「その実、張り合っていたのはお爺様です」「ええい、通訳などいらん。だいたい分かる」「戦時中に資料が色々と燃えたのを幸いにちょろまかしてやったんじゃ。誰でもやっとる、やっとる。時効じゃ、時効」 はっはっはと笑う爺さんを前に、エヴァは頭を抑えていた。「開き直った老害ほど、手のつけられんものはない良い証拠だ。ああ、認めてやる。お前は爺の近右衛門の正しく友人だ」「あんな、茄子妖怪と比べられてもなあ」「本当にイラッとする爺だ。むつきは大丈夫だろうな、こんな爺になられたら私は泣くぞ」「乙姫は、家系の中でも少々変わり種ですので。つくも君を見ていれば分かります。あれが、本来の乙姫家の男児です」 むつきがあんな野獣になれば、A組の生徒全員が妊娠するのに一ヶ月はいらない。 今のむつきで良かったと心底ほっとしつつ、ハッと我に返っては顔を振った。 なんだ今の惚れた相手が正常でよかったような反応はという意味で。 もはや手遅れなのに、未だアタナシアの姿でなければ認められない恥ずかしがりやである。「ち、違う。あいつが私の魅力にめろめろで。惚れているからであって」「そっくりですね、お爺様と」「な、なにを言うか。わしは違うぞ。ひなたの婆がわしの邪魔ばっかり、鬱陶しいことにその辺をちょろちょろするから仕方なく」「この爺と同族」 観音の一言に反応した爺さんを見て、エヴァがそれはもう落ち込んだ。 私ももう少し素直になろうかなっと思う程に。 同族嫌悪を思う前に、人の振りを見て我が振りを直そうと思った次第である。「さて、エヴァ殿が我を省みて乙姫に股を開く覚悟を決めたところで」「妙な解釈をするな禿げ頭!」「これは剃ってるだけですが?」「揶揄に生真面目に返すなぼけ!」 ぶんっと殴りかかれば割とあっさり避けられ、どうにも古い友人を思い出した。「いえ、至って真面目な。乙姫の状況についてです。正直に言いますと、かなりまずい状況です。エヴァ殿は、既にご承知でしょうが」「ん? 近右衛門の孫にはまだ手を出して無さそうだったが?」「まだ、確かにまだですが。恐らくは時間の問題かと」 ひかげ荘の秘密を知っているかのような言葉に、エヴァが方眉をあげた。「と言うか、さらっとお前ひかげ荘の全てを知ってそうだな。お前、本当に奴の親友か?」「ええ、神に誓って」「坊主が神に誓うな、仏はどうした。お前のそういうところが、本当に信用ならん。むつきを裏切ってみろ、私が即座に八つ裂きにしてやるからな」「と、このように伝説の魔法使いはそのへんの石ころのような乙姫にそれはもうベタ惚れで」 どうしてもそっちへ持って行きたいかと、髪を掻き毟りながらエヴァも覚悟を決めた。「ああ、そうだ。好きなんだよ。小石を投げれば当たるような何処にでもいるような無力なくせに頑張りやなアレが。好きだ愛してると甘く囁かれながら貫かれたいんだよ。奴の子供を生みたい。どうだ、これで満足か!」「なんか、孫は可愛いが持て過ぎてもアレだな。男として腹立つのう」「お前らは本当、私をどうしたい!」 爺さんの言い草に、姉妹には百五十フィート圏内を絶対零度にしてやろうかと思った。 思ったが、そんな事をすれば愛しい、今しがたそう認めてしまったむつきも氷の中だ。 本当ちょっと魔法で小突けば死んでしまうか弱すぎる男である。 なんであんなのにと、そう思ってしまうのは二度目であった。 以前もなんであんな馬鹿にと思ったが、今回はなんであんな弱いと思い方が変わっただけ。 ぜえぜえと肩で息をするエヴァへと、ぬけぬけと観音は言ってのけた。「安心しました、貴方が心底乙姫を想っている事が分かり」「次、私に疑念を抱けば殺っ。氷柱でその尻を貫いて痔にしてやるからな」「乙姫の嫁に疑念など、愚問です」 本当にぬけぬけと、面の皮の厚い坊主もいたものだ。「話を戻そうかの。それで、何がまずいんじゃ?」「お爺様もご承知のとおり、近衛近右衛門の孫娘である木乃香嬢はやんごとなきお方。その方がいるクラスがまともであるはずがありません」「私がいるぐらいだしな」「さらに、タレ込みが。来年の二月頃に、西洋魔法使いのさるお方のご子息が麻帆良学園にやって来るとも。それも二年A組の教育実習生として」 この時、さも重大そうに観音が口にした割には爺さんもエヴァもきょとんとしていた。 察しが悪いとかではなく、それの何処が重要情報か情報そのものが不足している。 さるお方のご子息と言っても、さるお方など五万といる。 どこぞの国の皇太子から、大臣はたまた貴族級なのか。 ただ、箸にも棒にも掛からないさるお方のご子息を孫娘のクラスに放り込むだろうか。 あの近右衛門が、爺さん曰く茄子妖怪が。「うわっ、凄く嫌な想像が頭を駆け巡ったぞ。もしかして、赤毛?」「仏教徒ですが、イエスと答えさせていただきます」「どこぞの世界を救っちゃったり、大群相手に千の雷を放っちゃったり」「このままイエスと言い続ければ、改宗したと認めさせられそうな程にイエスです」 うわちゃあっとエヴァが小さな手のひらで顔を覆っていた。 ただ、一般人の爺さんは今一掴み損ねていたが、そこはやはり年の功である。「赤毛に救世主、千の雷。アレか。魔法世界を救った坊主の話か?」「と言うか、貴様本当に一般人か? 色々と、知り過ぎだろう」「ひなたの糞婆のせいじゃ。奴が世界全土、あちらこちら哀れに流され捲くるから。助けるこちらの身にもなってみろ。世界中探しても見当たらないと思ったら火星にいるとは」「火星?」 何故魔法世界の話から火星が出てくるのか、ついにボケたかとエヴァはスルーした。「兎に角、その赤毛馬鹿の大事に大事にされたひよこが預けられるクラス。良く良く考えれば色々と集めたものだ。仮に従者にするにしても……」「既に乙姫に半数近く、喰い散らかされています」「いやらしい言い方をするな。アレはアレで精一杯愛そうとしているのだ。口を開くな、禿げ。ううむ、未来の英雄候補が従者を取られたとか汚点以外の何モノでもないな」「…………」 つまりそういう事かと、エヴァが視線を向けたが観音は無言のままだ。「…………」 考え事かと待ってはみても、無言のまま。 もうちょっと、あと少しだけ、そう我慢してみようと思ったが無理だった。「喋らんか!」「いえ、私のような若輩がぺらぺらと。口を出すなと仰られましたし」「ええい、本当に面倒くさい性格だな貴様。拗ねても可愛くないわ」「そうでした、失礼を。エヴァ殿の好みは……」 チラッとむつきが向かった自室方面へと観音が視線を向けたが、エヴァは我慢した。 過去どれだけ思い起こしてもこれだけ我慢した事は始めてだと思う程に。「ふぅ……落ち着け、私。つまりは、汚点の原因であるむつきが無かった事にされる可能性もあると?」「幸い乙姫はお爺様の孫ですから、そこまでは。ただ裏のひかげ荘を知らずとも、関東魔法協会の理事長が想定した以上に乙姫は生徒と絆を深め過ぎました」 穿った見方をすれば、女子中学という極度に男性の少ない環境で純粋培養されてきた女子生徒達。 唯一の男性である担任の高畑も出張三昧で接触は極度に低い。 そこへ男性と呼ぶには早くとも、男の子と呼べる異物を放り込めば化学反応は必須。「くだくだと面倒臭いのう」 もはや近右衛門を悪に例えるように顔を突き合わせていた観音とエヴァを切って捨てたのは爺さんであった。 右手の小指で鼻をほじり、鼻くそをこねこねした後でピンと指で弾きながら。 大事な孫のピンチであるのにくだらんとでも言いそうな態度である。「お爺様、これは本当に乙姫の」「裏を知りはしても踏み込んだ事のない貴様にはわからんかもしれんが。近右衛門は本当に侮れん老害だぞ。貴様とは違った意味で」「んな事言っても、わしはわしの知る近右衛門君しか知らんし。待っとれ」 二人に説得されても聞く耳を持たない爺さんは、着物の袖口から携帯電話を取り出した。 本当に爺かと思うような指捌きでコールをかける。 エヴァや観音にも聞こえる大きさで、着信前のトゥルルと言う音が何度も鳴った。 四回、いや五回目の途中でその音は途切れ、特にエヴァが良く知る声が聞こえてきた。「おおう、珍しい事もあるもんじゃ。なんか用かのう、乙ちゃん」「懐かしいのう、あんまり連絡せんですまんの近ちゃん」 真面目な雰囲気の話し合いの直後に、老人同士の軽い挨拶にずっこけた。 いや、幼馴染とはいくつになってもそんなものなのかもしれないが。 特に幼馴染など当に墓の下で微生物に喰らい尽くされたエヴァには共感など無理だ。「電話という事は、わしの可愛い孫達は無事に着いたようじゃのう」「着いとる、着いとる。ほんに可愛い孫達よ、千鶴ちゃんなど特におっぱいでかくてわし好みじゃわい。近ちゃんも、悪い男よのう。未だに生徒の尻を撫で回しとるのか?」「それがのう、ついに女子中を追い出されて。いやいや、乙ちゃんには負けるわい。まだひなたちゃんを追いかけ回しとると聞くが?」「はっ、あの糞婆がぽっくり行っとらんかこのわしがわざわざ出向いて確かめてやっておるんじゃ。なのにあの婆、笑いもせず一言目には帰れじゃて」 なんだか老人同士の長話が始まりそうで、エヴァと観音は必死にさっさと切ってのブロックサイン中だ。 当然、分かっとるとばかりに、爺さんは握りこぶしに親指を立てて返していた。「ところで、近ちゃん。わしの孫が、随分と近ちゃんにとって邪魔者らしいと風の噂で聞いたんじゃが?」 全然分かってねえっと、もはやエヴァも観音も慌てるばかりだ。「…………はぁ?」 もうこいつら、馬鹿なんじゃないんだろうかと言うような近右衛門の聞こえないふりだ。 必死こいて近右衛門の悪巧みを暴こうとしていた自分達の方が馬鹿なんじゃないかと思うぐらいに。 それとも、爺さんのペースに巻き込まれたか、単に幼馴染に弱いだけか。 誰しも、他人が想像もしないような部分に弱点があるのかもしれない。「ついに耄碌したか。まあ、ええわい。近右衛門君、わしは君を信頼して孫を頼んだ」「う、うむ……彼は良くやって」「その孫に手を出してみろ。わしは、全てを賭して近右衛門と争うぞ」 あれ、このお爺さんはもしや、やる時はやる爺なのか。 出来れば若い時代に会ってみたかったと、エヴァが思ったのも刹那の間であった。「孫に手を出せば、わしが昔代筆したさよちゃんへのラブレターを全国生中継で朗読してやるからな!」 次に受話器へと向けて叫んだ爺さんの台詞にやっぱりかと肩を落とした。「ちょっ、なんでアレを。アレは結局初心なわしには手渡せんで。焼いて捨ててくれと」「がっはっは、こんな事もあろうかとな。表面上とは違い、近ちゃんは初心じゃからな。スカート捲って嫌われるのが関の山なのが哀れでな。その純な気持ちを大事に……」 はて、調子良く喋っていた爺さんが何かを思い出したように言葉を止めた。 その間、携帯電話の向こうで喋っている近右衛門は放置である。「エヴァ、確かむつきの生徒に相坂さよという御椀型おっぱいの子がおらんかったか?」「その形容はいるのか。確かにいるが、それがどうかし……ん、さよ?」 今しがた、爺さんは携帯電話の向こう側の近右衛門にさよちゃんに宛てたと言わなかっただろうか。 さよ本人の生前の記憶が曖昧で、分かっているのは五十年以上前に死んだ事だが。 爺さんの確認や表情のにやつきから、エヴァの想像はそれ程間違ってはいまい。「ちょっと貸せ」 そう言うや否や、エヴァは爺さんの手から携帯電話を奪っていた。「おい爺」「ひょっ、エヴァ何故乙ちゃんの携帯に?!」「面白い話を聞かせて貰ったぞ。そうか、さよは貴様の初恋の相手か」「いやあぁ、一番知られたくない相手に。わしの初心で青臭い青春時代の思い出がぁ!」 イカ臭いの間違いだろうと突っ込みたいが、おちょくるのはまた今度だ。「知ってると思うがな、近右衛門」「これ以上いたいけな爺を」「私と乙姫は付き合っていてな。もちろん、幻術で姿を変えた方で」「マジで。あのおっぱいと尻と太股を好き勝手に?」 どうして男はこうなんだとも思ったが、そういうものなのだろう。 さっさとしなびた爺は枯れろよとも思ったのだが。 目の前でこんなのにとエヴァを品定めしている爺や、電話の向こうで生唾飲み込んだ近右衛門と言い。 戦前から生きる爺はどうしてこう、肉食系を通り越して性欲魔なのか。 むつきにこの十分の一でも、「性欲魔人と化して押し倒し、ちょめちょめしてくれたらなぁ」「私の心中を代弁するな、というか。ちょめちょめって、古いな貴様!」 邪魔するなと、観音を振り払うように裏拳を放ったが見事にかわされつつ。「兎に角、二度目はない。以前もむついは、魔法使いに殺されかけているんだ。知らんとは言わせんぞ。わ、私の。その、なんだ。か、彼氏に手を出してみろ。麻帆良は即日、コキュートスと化すぞ!」 最後の方はテンパって良く意味の分からない事を叫んでしまったが。 と言うか、にやにやとこそこそ耳打ちする爺さんと観音を腕をぶんぶん振って追い払う。 言ってしまった、彼って言ってしまったと赤面しながら。 ムキーっと何に対してかムキになるエヴァの手から、するっと爺さんが携帯を取り返す。 しかも手際よく、エヴァのぐるぐるパンチの処理を観音に任せつつ。「そういうわけじゃ、近ちゃん。この件は、ひなたの婆にも伝えとくからな。妙な事をすれば、現在近ちゃんに貸してる土地は全部引き払うつもりで。それで関西の方に渡すから」「そんな事をすれば、東西のバランスが。裏の世界で戦争が」「わし、表の住人じゃしぃ? 孫の方が大事じゃしぃ? なあ、近ちゃん。最近思っとったんじゃが、近ちゃん変わったのう」 今までのようなからかいとは違い、少々寂しげな呟きに携帯電話の向こう側の近右衛門は無言であった。「わしも、先達がぽろぽろ死んでしまう昨今。大人と呼んで差し支えない歳じゃ。わしの知らん苦労を一杯近ちゃんが抱えとる事は想像つく。けどな、変わらないものはあってしかるべきだとも思う」「乙ちゃんは、昔から変わらずおっぱい大好きで。ひなたちゃんを追いかけ回しておるのう」 いやそこは変われよとは、突っ込んではいけない時なのだろう。「ひなたの糞婆は、すぐ傍に良い男がいるにも関わらず何処じゃ何処じゃと世界中を探しまわっておる。なれど、近ちゃん。近ちゃんはどうじゃ? 今の近ちゃんは、あの頃と同じ気持ちでさよちゃんへのラブレターの文面を思いつくかのう?」「つかん、のじゃろうな。純粋に相手を思う前に、それが東の魔法使いの為にどう役立つか、為になるか。さよちゃんの事など、これっぽっちも考えとらん」「なら、考えるべきじゃろうて。何時までも純でないなら、ちゃんと前に立ってラブレターを渡せ。新たに書き直して、当時の文面のまま近ちゃんに送る」「ちゃんと前に立って。そうか、気付いてしもうたか。さすが、服の上からとは言え一度みたおっぱいは忘れんのう、乙ちゃんは」 何故こいつらは、良い話の途中で落とさなきゃ気がすまないのか。「おっぱいこそ女体の至高の神秘。あのふくらみ柔らかさ、ちょっとのアクセントの乳首。全てにおいて完璧、もはや他になにもいらない!」「なにおう、女体の究極の神秘は尻じゃ。何故男と女であそこまで違う。そこに意味が、無限の宇宙があるんじゃ。良い女は尻がでかい。まずはそこからじゃ!」「うん、云十年前と変わらぬやり取り。またな、近ちゃん」「お互い、論破し合える時まで。まだまだ死ねんわい」 ピッとろくでもない別れの挨拶の後に、爺さんの手により携帯電話は切られた。 切られたのは良いのだが、なんであろうか。 一仕事やり終えた顔の爺さんは良いとして、エヴァと観音のこの脱力感は。 爺さんの影響なのか、おふざけ大好きな観音はまだしも特にエヴァの脱力感が凄い。 麻帆良の爺一人でも面倒なのに、もう一人追加されただけでここまで疲れるとは。 男はやはり若いのに限ると、当然のように思い出したのはむつきだった。 肌の上に浮かんだ汗さえ一瞬にして気化するように、ぼふりと赤面により湯気が舞う。「い、言っちゃった。彼って、私の彼氏。恥ずか死、産まれて初めて。死ぬぅ!」 赤面する顔を両手で抑えながら、ごろごろと畳みの上を転がる幼女。 爺さんを相手取った脱力感より、羞恥心の方が上回ったらしい。「これでも、この方。六百歳を超える大魔法使いにして不死の吸血鬼でして」「まともに恋愛もした事の無いおぼこなど、子供じゃ子供」「そう言えるのは、お爺様だからですが」 偉大な方だと爺さんを横目でみつつ、転がるエヴァに視線を落とした。「恥ずかしいけど、気持ち良い。キュン死もするかも。むつきにギュってされないと死ぬ! でも余計にキュンキュンしてまた死んじゃう。不死で良かった。何回でもキュン死できるよ!」「たった今、私もそう思った次第です」 相変わらずごろごろ転がるエヴァを前に、観音も考えを改めるのに時間はかからなかった。-後書き-ども、えなりんです。このお話の一番のチートは爺さんとひなた婆さんに違いない。あとその二人に敵対されたら、近右衛門が詰む。今回はそんなお話でした。あとアルなみに厄介な観音と、キュン死したいエヴァでした。それでは次回は土曜日です。もう少しだけ沖縄のお話なんです。