第八十九話 腰周りも随分と充実してるだろ? 麻帆良市の近隣にあるとある森、そこには人里を離れるようにポツンと建つログハウスがあった。 ここ二ヵ月程、誰も足を踏み入れる事はなかったその建物に久方ぶりに明かりが灯されようとしていた。 何故か標準の高さより低めに設置された電灯のスイッチへと、小さな手が伸びる。 日本人の肌とは違い、白さと肌の決め細やかさが目に付くソレはエヴァのものだった。 そしてパチンとスイッチを入れ、明かりがつくと同時にくしゅんとくしゃみをした。 実は花粉症を患っているエヴァは、夏場はまだしも場所が悪かったのだ。 何しろひかげ荘に入り浸るようになってから二ヵ月ぶりの帰宅である。 溜まりに溜まったほこりが空気中に充満しており、電灯の静電気もあり浮かび上がったのあろう。 内心、もう売っちゃおうかなと思っているのだが、そんなわけにもいかない。 ひかげ荘に持ち込むには、触れて欲しくない、知って欲しくないものがごまんとあるのだ。「くちゅっ、へくち」「マスター、お鼻を」 背後に控えていた絡繰にちり紙で鼻をかんで貰ったが、まだむずむずする。「ほええ、素敵なお家です。お人形さんも沢山、憧れます」「人形使いらしい、部屋ネ」「見た目は普通の人形ですが……この人形がエヴァンジェリンさんを長年」「どう見ても、普通の人形にしか見えませんね」 明かりに照らされたログハウス内は、外観と同じく家具から何から木材で統一されている。 主に屋内を飾り立てるのは、さよ達が手に取り眺めたエヴァ作のお人形達であった。 今は昼であるし、電灯で照らされているが、夜間明かりがない場合は怖いぐらいの量だ。 特に科学こそ世の歯車を信条にする葉加瀬は、一体どうやってと関節を弄っている。 ただ、一番最後に入ってきた四葉から、普通の人形ではといわれていた。「四葉五月の言う通り、それらは趣味で作った人形だ。なんの変哲もない、お人形さんだ。あまり弄って壊すなよ、結構手間かかっているんだ」「そのまま大きくすれば、私達でも切れそうなお洋服です。囲碁にお茶、エヴァンジェリンさんは器用で女の子らしいですね」「そ、そうか? まあな。無人の建物でひっそり飾られるよりも、誰かに愛でられる方が人形も嬉しいだろう。気に入ったものがあれば、持って行って構わないぞ?」 友人と認めたさよの言葉に上機嫌となり、そんな事を言い出した。 この時、良いんですかと人形を眺めたのはさよと四葉だけ。 いや、元々一行がしばし訪れなかったエヴァの家に来たのはそれだけ理由があるのだ。「後でゆっくり見せて貰うネ。それで、目的のものは?」「慌てるな、私が案内しよう。茶々丸は、すまんが掃除を頼む。妹達を綺麗にしてやれ」「はい、マスター。可愛い妹なら是非、マッチョな弟は死ねば良いのに」「え?」 今何か言わなかったと尋ね返す前に、絡繰はまず空気の入れ替えをと窓に駆け寄っていた。 尋ね返すまでもなく、その対抗意識ありありの弟が誰かはまるわかりだが。 旅行が終わりお役御免と思いきや、ひかげ荘の周囲をショットガン片手に警備中だ。 ちなみに、田中の名前は彼だけのものとなり、他の期待には順次鈴木や佐藤、渡辺など名づけられる事になっている。 むつきたっての希望であった。「おい、茶々丸は大丈夫なのか。そのうち、姉弟対決とかしださないだろうな」「いえ、今の茶々丸を直すなんてとんでもない。以前は、命令された事しかできませんでしたが、強力なライバルの出現に自意識が急速に芽生えています」「自ら交渉して、親愛的にネジ巻きを依頼するぐらいネ。本当、悪い男ヨ。担当クラスの女子生徒の全制覇も」「いけませんよ、超さん」 そう四葉に注意され、小鈴がおっといけないとお口にチャックである。「五月を連れて来たかいがあると言うものネ。また、私が道を外れかけた時はお願いするヨ」「先生に関する事は、既に他人事ではありませんから」 さよはまだしも、傍若無人、科学一筋などなど暴走前の最後の良心である。 そうまでして、小鈴が慎重に押し進めたい事があったのだ。 超鈴音は、とても忙しい。 むつきのばら色の人生のサポートもあれば、自身が女の子として幸せにもならなければならない。 はたまた、むつきを脅かす者があれば戦い、その未然予防も。「こっちだ」 そう言ったエヴァンジェリンの案内で向かったのはログハウスの奥。 切れ込みのある床の蓋を開けた先の地下室。 一階分程続いた階段の先は、どうやら倉庫か物置のようだ。 少々埃っぽいそこで待ち構えていたのは、見知らぬ少女の恨み節であった。「オイ、シバラク見ナイウチニ随分ト肌ガ若返ッテルジャネエカ」「腰周りも随分と充実してるだろ? 迎えに来たわけではないが、偶には連れて行くか」「迎エニ来タンジャネノカヨ」 一体何処からと葉加瀬や四葉が周囲を見渡す中で、答えたエヴァがしゃがみ込んだ。 埃だらけの床に落ちていた一体の人形を手で払いつつ喋りかけている。 この光景をむつきが見たら、また寂しかったかとぶわっと涙を流しそうだが。 見えない妖精さんに続く、お人形さんのお友達というわけではない。 先程の少女の声はエヴァの裏声でもなく、きちんと人形の口から零れ落ちていた。「ほほう、コレがエヴァンジェリンの長年の相棒ネ。超鈴音、貴方のご主人とは何れ竿姉妹になる予定ネ」「オイオイ、知ラネエ間ニ随分ト面白イコトニ。ナギノ奴デモ」 次の瞬間、エヴァが喋る人形の頭を乱暴にぽかぽか叩いたのは許されるべき事か。「ふん、ナギよりむつきの方が何倍も凄いぞ。それはもう、私に夢中でな。一緒に住もうってプロポーズもされた。いや、奴が知らないだけで既に一緒に住んでるが」「誰ダ、コノ雌豚ノ眼ヲシタゴ主人似ノ誰カハ? マア、良イ。ソイツ斬ッテ!?」 手に持つ包丁のような刃物は飾りと思いきや、人形が両手で二本刃をシャンシャンと鳴らす。 そうしたのは良いのだが、次の瞬間人形を襲ったのは敵意の塊だ。 ご主人と呼んだエヴァのみならず、小鈴からも絶対零度の視線が射抜く。「マサカ、一般人?」「イエス、です?」 ぶっ殺すぞという視線を止めないエヴァと小鈴の代わりに答えたのは葉加瀬だ。「目ノ前ニ暴漢ガ現レタラ?」「状況にもよりますが、他に誰も居なければ必死に逃げます。生徒が居れば、犯人に殴られつつ引きとめ逃げろと叫ぶ人です」 続く質問に答えたのはさよで、聞くや否や人形は反応に困ったようだ。「ドウヤラ俺ハ、長年放置サレ壊レタヨウダ。スマンナ、ゴ主人。先ニ逝クゼ」「人形が死ぬか、馬鹿。お前はむつきとは違う意味で、人生最良のパートナーだ。放置してすまんな。ひかげ荘に連れていくから人生を嘆くな。だが、あまり目立つ行為はするなよ」 包丁のような刃物を持つ人形、これを絡繰の姉、茶々ゼロというのだが。 茶々ゼロの首根っこを掴み、エヴァは再度案内を始めた。 とは言っても、この倉庫もそこまで広いわけでもなく。 少し視線をめぐらせれば、お目当てのものは即座に見つかる事となった。 エヴァ一人では抱えて持ち上げられなさそうな、台座に安置されたボトルシップだ。 ただし、巨大な瓶の中は帆船ではなく、ビーチと一体化した塔の模型である。「ふん、相当の実力者でなければ所有し、維持もままならない一品だ」「倉庫デ埃カブッテルケドナ」 喧しいと再度茶々ゼロを殴りつけたエヴァが、そのボトルシップの前に立った。 薄暗かった倉庫内を照らす魔方陣がボトルシップの台座を中心に広がる。 次の瞬間、エヴァの姿は倉庫内の何処にも消えてしまう。 良く良く眼を凝らせば、ボトルシップ内の塔の屋上にその姿を見受けられたろうが。「はわわ、エヴァンジェリンさんが消えてしまいましたよ!」「全く、エヴァンジェリンはせっかちネ」「一時間、待ちぼうけですか。テーブルに使えそうなものは……」「私、絡繰さんに紅茶セットを貰ってきますね?」 一人慌てたのはさよぐらいのもので、小鈴以下はやってしまったと苦笑いだ。 早速、とある理由で一時間暇になってしまったと行動に移った。 薄暗い倉庫の中でのお茶会だとばかりに、テーブルや椅子を倉庫内であさったり。 ほっと一息、絡繰も掃除を中断して、旅行中の思い出話に華を割かせる。 それから丁度、一時間後半泣き状態のエヴァが再び辺りを照らす魔方陣と共に現れた。「き、貴様ら。何故直ぐにやってこん。一日も、待ちぼうけを食らわされ。出るに出れないしぐす……茶々丸は裏切ってお茶をしているし」「申し訳ありません、マスター。まさか、たった一日でお体が夜泣きなさるとは。即座に先生にお慰めいただき。私もそろそろネジ巻きを」「妹マデ、一体俺ノ知ラネエ内ニ何ガ。怖ロシイナ、ソノ乙姫ッテ奴ハ」 ぺこぺこ謝っているのはさよぐらいのものだ。「エヴァンジェリンが早とちりしただけネ。貸して欲しいとは言ったが、中に入るつもりは毛頭ないネ。親愛的と共に歩む時間を自ら削るとか、馬鹿げているヨ」「そうですね、他者より時間を有効に使えるようにみせかけ、その実きちんと寿命を削ってしまいます。もっと、有効に時の流れが違う空間を使うべきです」「何を言っているのだ、貴様ら」 あのボトルシップ内は、現実空間と時の流れが違い現実の一時間が一日となる。 反面、一度入れば二十四時間は扉が開かない制約もあるのだが。 現実の短期間で濃密な作業・修行が出来ると魔法使いの間では喉から手が出る程に欲しい一品だ。 その使い方が謝っていると指摘されても、生粋の魔法使いであるエヴァンジェリンはなんのことやら。「確かに施設は借り受けたいネ。けれど、中に入るのは茶々丸の姉妹のみ。私達は外から指示をするだけ。研究所ではなく、工場。プラントという意味ネ」「経過は別荘内で。結果だけを見て指示を出す。研究時間の短縮か。お前らしい使い方だ。なら、これは後で貴様の研究所に運ぶよう手配しておこう」「高価なものネ。それなりの対価は」「いらん」 値段にすれば億はくだらない一品だが、まさかの対価は不要という発言である。「当時、私はその場にいなかたが。ひかげ荘内で金の話はするな、そうむつきが言ったんだろう。だから、いらん。だが、私とさよが人になる研究は優先しろよ?」「横入りで申し訳ないですが、私からもお願いします。私もいずれ、ちゃんと先生との赤ちゃん欲しいですし。二学期から、復学の予定ですのでどうか」 そうだったよなと、エヴァが確認した視線の先にいたのは四葉だ。「お友達同士、物の貸し借りで金銭はいけません。先生が知れば怒られます。正しいと思いますので、今夜はエヴァンジェリンさんがお好きなおかずを作りますね?」「おっ、これはラッキーだ。と言うわけだ、いらんもんはいらん」「ならありがたく借り受けるネ。エヴァンジェリンはまだしも、さよさんの復学については一先ずこれを」「お守りですか?」 小鈴がふよふよ浮かんでいたさよに手渡したのは、お守りであった。 安産祈願と書かれているのは、ご愛嬌。 目の前で頷かれたさよがそれを首に掛けると、体に急激に重みが加わった気がした。 さらにあるのかないのか、ハッキリしない足もしっかりと。 倉庫の埃っぽい地面について、トントンっと足元を叩くことさえ出来た。「超包子の特性車両にも使った手段ネ。小型化した魔力集積回路が、お守りの中に入れられてるから首から提げている間はほとんど人間と代わらないネ」「わあ、ありがとうございます。エヴァンジェリンさん、ちょっと失礼します。うぅ、小さいです。可愛いです」「こら、撫でるな。良かったな、さよ」 旅行からまだ時間は経っていないが、ひかげ荘外でのスキンシップにまた感動ものだ。 エヴァも照れてはいるが、振りほどきもせず。 心底良かったなと囲碁仲間、もはや親友と呼んで差し支えないさよの背中を撫でた。 一体、このご主人に似た誰かは誰だと苦悩する殺人人形を床にぽとんと落としつつ。「さて、親友同士感動の対面を果たしたところで。これなら、おっと」 葉加瀬や四葉と同様に、満足気に頷いた小鈴が呟き、鳴り響いた携帯電話を手にとった。 ディスプレイに映し出された名前は、朝倉の二文字だ。「もしもしヨ」「超りん、予想通り学園長が食いついてきた。場所も確保したし、これから一時間後で良い?」 現在、和美がいるのは女子中を追い出されて以降、場所を移した学園長室だ。 学園都市の中央、すべての学校から足を向け易い場所だ。 通信機器が発達した現代、中央という意味は薄れ気味だがそれでも学園統括の長。 やはり責任者は中央にという古いが、理に叶った場所に新たに建てたられた。 その学園長室へと、和美は取材と称して尋ね、さよの名前を零して来た所なのだ。 食いついたとは当然、学園長がさよに会ってみたいと言ったということである。「十分ヨ、これから向かうネ」「了解、なんの悪巧みか知らないけど。先生に怒られない程度にしときなよ。私も嫌われたくないから、覗きは遠慮しとく」「これは珍しい。皆と竿姉妹になる決意でも?」「さっ、それはどうかな。んじゃ、また夜にでもひかげ荘でね」 ぶつっと携帯電話が切れ、それはもう悪い顔で小鈴は笑ってみせた。「ちょっと悪い事をしてくるネ。だから四葉と葉加瀬はここまでヨ。大丈夫、保険的意味合いが強いから、親愛的にも怒られない範疇ネ」「うーん、超さんがそう仰るなら。私はエヴァンジェリンさんの別荘をプラント化できるよう先に茶々丸とひかげ荘に帰ってますね」「私も、お夕飯のお買い物にいかないといけません。茶々丸さん、この別荘を運んだ後でおつきあい願えますか? お礼に先生の好きなおかず、レシピと一緒に教えてさしあげます」「是非、喜んで。代わりに、マスターの好みをお教えします」 何故か敬礼付きで四葉に返答した絡繰は置いておいて。 超は鍵となるさよを連れ、あとは物見遊山のエヴァと茶々ゼロを連れ目的の場所へと向かった。 安産祈願のお守りを身につけたさよは、一人ぽつんと麻帆良都市内の小さな公園にいた。 これまた小さな公園にお似合いな小さなベンチで人を待っているのだ。 一体誰が来るのか、あえて教えて貰ってはいないが、直前の小鈴と和美の電話は聞いている。 恐らくやって来るのは学園長なのだが、その学園長が何故自分に会いたいのか。 それがさっぱり判らない。 生前、会った事があるのかもしれないが、そんな記憶など欠片もなく。 小鈴やエヴァも何も教えてくれず、あるがまま思った通り受け答えれば良いとだけ言って何処かへ言ってしまった。 少々手持ち無沙汰で、ポケットサイズの囲碁教本を取り出し読みふける。 sai@evaは連戦連勝中のネット碁界きっての最強棋士だが、sai@sayoはへっぽこもへっぽこ。 十回中一回はむつきに負ける程だ。 しかし、夫婦で碁敵というのもそれはそれでと、お互い切磋琢磨できるので嬉しいものだ。 はやくひかげ荘に帰り、キュッと抱き締められ可愛がられたいと足をぶらぶら。 直ぐにハッとなっては、昼間からエッチなのはと囲碁教本に眼を落とした時だ。「囲碁はお好きかのう?」「えっ、囲碁と言うか。囲碁を通じて、人と通じ合える事が」 通じ合えるというか、物理的に繋がる事が出来るのが一番嬉しいのだが。 ふいに問いかけられ、思うがままを答えた相手は学園長であった。 この熱い日差しの中、ご老体にも関わらず日傘も差さず、されど肉体のないさよと同じように汗もかかず。 さよの答えに髭同様に長い眉で隠れた瞳が、少しだけ驚くのがわかった。「若いのに感心じゃ、一手どうじゃ。老人の我が侭を聞いてはくれんかのう」「私のような、へぼ棋士でよければ」 着流しの懐へと学園長が手を差し込むと、ぬっと碁盤と碁石が出てきた。 明らかにその質量が入るはずがといった大きさのそれがである。 一応エヴァ達から裏の事を聞いているさよは、本物の魔法使いさんだと驚いていた。 なにしろ、秘密を明かされはしたものの、エヴァ達は普段なかなか魔法を使わない。 手品みたいとまっすぐきらきらした瞳で碁盤を見つめていた。 それから互いに碁石を握り合い、先手後手を決める。「先手は私ですね。あっ、始めまして。相坂さよと申します。よろしくお願いします」「おうおう、これはわしも礼儀知らずで。近衛近右衛門じゃ、この麻帆良学園で学園長をしとる」 知ってますとにっこり笑った後、麻帆良女子中二年A組ですとさよがつけたしゲームスタートであった。 宣言通り、先手となったさよが囲碁教本を片手にちょこんと白石を置いた。 このちょこんというのがみそであり、人差し指と親指で摘んでである。「ほっほ、まだこう格好良くは置けんかのう」 どうじゃ見ろとばかりに、学園長が一指し指と中指で黒石を挟み、盤上にパチンと良い音で落とした。「はぁ、格好良いです。憧れますぅ」「ほっほ」 次の手番、さよも真似て見たが直ぐに上手くいくはずもない。 碁石を挟んだ二本の指はぷるぷると震えており、そんな状態で盤上に置けるはずもなかった。 盤上から数センチ上、そこまできてようやくパチンと置こうとしたのだが。 叩きつけた瞬間、碁石が指先から弾け飛び盤上の上をつるつると滑っていた。「あっ」 意図した場所とは全然違う場所に石が置かれてしまい、そっと学園長を見上げた。「かまわんよ。置きなおしなさい」「すみませんですぅ」 結局、人差し指と親指でちょんっと摘み上げ、ちょんっと置いた。 恥ずかしすぎると白い肌を紅潮させ、さよはあせあせと教本の影に顔を隠す。 そんなさよを前に学園長は朗らかに笑っているだけだ。 肉体がないので汗は出ないが、それでも汗が出るような気がしてハンカチで額を拭う。「木陰とは言え、夏場はやはり暑いのう」 着流しをぱたぱたしつつ学園長がそう呟くと、蒸し暑さを押し流す爽やかな風が吹いた。 気持ち良いですと、数秒瞳を閉じてその風に吹かれているとパチンと音が鳴った。「昔のう、君にそっくりな子がいたんじゃ」 碁石を新たにちょこんと摘んでいると、そんな呟きが耳に届いた。 自分にそっくりな、まさか幽霊か。 怖いですと自分を棚にあげ、碁石を持つ手がぷるぷる震える。 ふっと笑った学園長の笑みにて、もちろん違う事は直ぐに察せられた。 同級生さんかなと、碁石を盤上に置きながらそのそっくりさんを思い浮かべる。「わしも、当時は奥手でのう。こうして、女子と差し向かいで碁を打つなどとても。振られても、振られてもアタックし続ける親友が羨ましゅうて」「凄いですね、そんなに迫られたら断りきれるか自信ないです」 もちろん、むつきと出会う前ならと心の中だけで呟きを付け足す。「そうか、そうか。なら、今からでもアタックしてみようかのう。どうじゃ、相坂君。こんな爺でよければ、付き合ってみるかの?」「学園長さんは、木乃香さんのお爺さんです? ならご結婚されて、浮気は駄目です」「なあに、先立たれて数年。ノーカンじゃ、ノーカン」「学園長さんの手番ですよ」 とりあえず、求婚を交わす為に、あせあせと順番を促がした。 ただほっほと笑っている学園長を見上げ、からかわれた事には直ぐに気付いたが。 頬をぷっくり、絶対に勝ちますと囲碁教本と睨めっこしつつ盤上を眺める。 盤上に穴が空くほど視線を込め、うんうん唸るさよを前に懐かしげに学園長が眼を細めた。「懐かしいのう」 その小さな呟きはもちろん、さよに届かない。 女子と差し向かいで碁を打つなどと言いはしたが、当時一度だけ碁を打った事があった。 それは初恋の相手へと話し掛ける事もできなかった近右衛門を心配し、親友がセッティングしてくれたのだ。 一人で碁を教わるのは恥ずかしいからと、生前のさよを誘って。 その時もこんな暑い夏場であった。 ただそれ以上、その時自分がさよを前にして何を喋ったのか全然覚えていない。 むしろ親友の方が親しげに話しかけ、もの凄く嫉妬したような。 懐かしき遠い、今となっては取り返す事もできない若き青春の一幕だ。 ただ一つ、明確に覚えている事があった。「三つ子の魂百まで、かのう」 さよが口にした、囲碁を通じて、人と通じ合える事が。 彼女が覚えていて口にしたのか、自らその答えに辿り着いたのか。 当時、囲碁が好きなんですねと問いかけられ、学園長が答えた台詞がそれだ。 盤上に碁石を打ちつつ、思わず涙が零れ落ちそうな目元にぐっと力をいれた。「ちょっと待っててくださいね」 そう呟いたさよは、当時五十年以上前からちっとも変わらない。 可愛らしい外見も、祖父ほども離れた相手と真剣に囲碁を挑む純真さも。 当時に時が止まり幽霊をしていたから当然なのだが。 それだけに眩い、当時から変わらぬ初恋の相手と、何もかも変わってしまった自分。 大人となり年老い、社会の裏を知り、むしろ裏から社会を操る身分となった。 汚い事も、意に反した事も、仕方のない、これも魔法世界または東西の為と。 染みる、さよの眩しさが、変わらない彼女が。 先程の告白紛いの言葉さえ、純白の彼女を汚したようで恥ずかしくなる程に。「どうかしましたか? やっぱり、暑いですか?」「ぁっ」 何時の間にか手番が回ってきていた。 さよに覗き込まれるように見上げられ、ハッと我に返る。「ほっほ、いかんいかん。もしわしに勝てたらジュースでも奢ってやろうかと思っておってな」「ジュースですか。はい、頑張っちゃいますよ。覚悟してくださいね」 もう、何もかも遅いと、取り返すには全て遅すぎたとその笑顔の前で思った。 これ以上彼女に触れて、当時の思い出さえ汚してしまわないように。 親友に言われ、何かを取り戻せるかとも思ったが、過ぎ去った過去は変えられない。 そんな事は数十年も前に分かっていたはずなのに。「これで最後じゃな」「むぅ、まだ負けてませんよぉ」 最後の意味が違うが、どちらの意味でも同じである。 これでさよに会うのはコレで最後。 と言うよりも、心が決まった。 今さら引き返して、元の位置に戻るまで人生の時間が残されているとも限らない。 折角の親友の助言ではあったが、引き返すことはならない。 例えそれが汚れた道だろうと、一度そこに足を踏み入れたなら後は突き進むだけ。 例え世の人々から老害といわれようと、その老害を倒し世を正すのは何時も若者。 その若者に立ちはだかる悪となり、正しく若い次なる世代に倒されるのもまた一興。「うーんうーん、どこに置いて良いか判らないですぅ」「ほっほ、ただでは負けてはやらんて。わしにも意地があるからのう」「学園長さん、意地悪ですぅ」 そう、立ちはだかるからにはギリギリ超えられない壁でなくてはならない。 そうでなければ、若者も倒しがいがないというものだ。 精々、悪い老害になって意地悪してやろうかのうと悪い顔で笑う。 せめてもう少しだけ、懐かしき日々に浸り最後のお別れを心の中だけで呟きつつ。 祖父と孫、そんな間柄のように囲碁を打つ二人から少し離れた場所。 公園内の茂みの中に、例の光学迷彩マントを被り、更に気配まで消す影が二つあった。 それは二人のやり取りの全てを覗いていた小鈴とエヴァである。 特に小鈴の手には周囲の隠しカメラやマイク、更には衛星からの画像を操る小型端末があった。「ふん、ここで今さら清く正しくなどと言い出せば一思いに人生を終わらせてやったものを」「エヴァンジェリン、涙拭くね」「誰も泣いとらん、これまでの自分に重ねたり!」 良いから拭けと差し出されたハンカチで、うるうる潤んだ瞳にそっと触れさせる。 実際、これまで幾多もの人間を置いて生きてきた為に、学園長の気持ちが少なからずわかったのだ。 判ったのだが、完全に同意仕切れないのはやはり隣の小鈴のせいであった。「お前、これ本当に全部録画しているのか?」「当然、先生のお爺様が切った奥の手。しかし、相手に知られて手は奥の手とはとても。銀髪の鋭い目付きの人が言ったネ。奥の手を使うなら、さらに奥の手を持てと」「生徒に告った学園長、ワイドショーの格好のネタだな。爺も、さすがに麻帆良祭に続きこんなゴシップが公になっては学園長を降りざるを得まい」 面倒臭い奴に眼を付けられたものだと、自分を棚に挙げ溜息をつくエヴァであった。 ちなみにさよと学園長の囲碁対決は、もちろんさよの負け。 だが楽しかったと学園長にお茶を奢ってもらい、一人明るい場所でご満悦のさよであった。-後書き-ども、えなりんです。さよと学園長の50年ぶりぐらいの邂逅話でした。むつきの祖父に指摘されてほいほい改心するようではだめだめです。なので、老害と認識したうえで学園長には突き抜けて貰うことにしました。悪には悪の美学があるとは、誰のセリフだったでしょうか。未来ある若者に倒されるまでが学園長の美学です。まあ、このお話でそんな戦闘寄りのシリアスなんてありませんが。それでは次回は来週の土曜更新です。