――全ては終わったんだ。
それが、自分の名前以外で最初に記憶した言葉だった。
その後、少女は地を這いずり始めた。
元いた場所とさして変わらない清潔で、胸の痛むような空気の漂う宮殿の中、両手で床を掻いて進む。爪が割れる程に力を入れても、いくらも進まない。腿から先の消え失せた右足では地虫の真似すら難しかった。数刻もかけて通路の端に辿り着いては病床へ連れ戻されるのを繰り返した。昼に見張りが立てば夜に抜け出した。渡された鎮静剤は飲む振りをして捨てた。激痛に苛まれたが、それでも自分はここに留まる訳にはいかなかった。
しばらくしてから、医者と、監視役を押しつけられた同心が彼女を牢に幽閉する事を相談しているのを聞いた。彼女が言葉を覚えつつあるのを知らなかったのだろう。看護人が渡した書物を読み、人の会話を聞いて、彼女は言語を獲得していた。
初めの言葉の意味も知った。
だから、閉じ込められる訳にはいかなかった。
苦痛を枷のように引き摺りながら、少女は必死で宮殿をさまよった。覚えたばかりで、上手く伝わるか自信の無い言葉を絞り出す。それの名前を、その持ち主達へと。この宮殿には、そうした人間が数多くいたのだ。
――〝けん〟を、おしえてください。
きっとそれは、自分に必要なものだ。
暗い穴となった右目から、赤い血が流れて包帯を染める。消えた眼球が見定めた最後の光景がいつまでも、右半分の視界の中にある。
引き裂かれた女と、引き裂いた怪物が。
(……ってない)
這いずる少女を遠巻きにして、忌避の目線を注ぐ群衆の中、少女は吐き出すように胸の内に言葉を落とした。
(おわって……ない)
言葉を作る事で力が生まれる。一度では砂粒ほどの儚さで、だから何度でも繰り返した。
(おわってない、おわってない、おわってなんかない……っ!)
――殺さないと。
あの怪物を、殺さなければ。
そうでなければ――
(だから……だから……っ)
〝それ〟を、わたしにください。
お願いします。
お願いしますから。
だれか――
「これが、欲しいのか」
いつの間にか、群衆から一人が進み出て、彼女の前に立っていた。
この場にいる誰よりも小さくて――誰よりも怖い顔をしていた。
周囲の群衆の作る円は檻のようで、少年は檻に入り込んできた狼のようだった。
怯える少女に、少年はもう一度繰り返した。
「これが、欲しいのか」
そうして少女の前に跪くと、容れ物に収まっていたそれを抜き放った。
きらきらと光って、きれいな銀色の羽根のようだった。
吸い込まれるように少女はその輝きに見入って、首を頷かせた。
少年は、そうか、と呟いて。
銀の羽根を、その手で握り込んで隠した。
少女の目の前に、羽根の根本が差し出された。
「取れ」
望んでいたものを渡された喜びよりも、脅された恐怖に突き動かされて、少女は羽根の根本を握って引いた。
少年は怖い顔のまま眉一つ動かさず、獣の口のように裂けた掌を差し出した。
「これが〝剣〟だ」
少年の言葉を正しく理解する知恵が、少女にはあった。
それは、とても怖い事だった。受け入れてこの先に進めば、自分は必ず不幸になる。この少年は悪魔の使いだ。全ては終わったんだ――あの言葉は福音だった。
恐ろしさに柄から手を離しかけて――
こぼさないよう、強く握り込んだ。
少年はそれを見定めて、「そうか」と言った。
初めて、怖い顔でない顔になった。
今この時の少女には、それを怖い顔でない顔としか表現できなくて。
だから、羽根を自分の掌に押し当てて、引いた。
〝あの時〟と同じ鮮烈な痛みが走る。
少女は、少年の提示したものだけでは足りない理解をその激痛で補った。
これが、剣か。
左手を、涙のように流れ落ちていく血を眺めて、少女はそれを少年の左手に重ねた。
濃さの違う赤が混じって、互いの腕を辿っていく。
少女は、覚えたばかりの言葉を使って、誓いを告げた。
「これで、わたしたちは〝きょうだい〟です――にいさま」