「今日、俺は人生の真実を悟った」
言葉の通りに、人里離れた山峡で数十年も修行した仙人のような透徹した目で天井――馬車の幌の裏側を眺めながら、いなきはぽつりと呟いた。
「人は皆、一人だ」
あるいは、童謡にいわくの市場に荷馬車で運ばれる仔牛の如くと言うべきか。人生を諦めているという意味ではどちらも大差無いが。
そもそも回りくどい比喩など使わず、求愛する孔雀じみて派手な女物の着物を着て胸に詰め物をし、かつらを被って化粧した当年とって十八になる男と言ってもその悲哀は十分通じるのではないだろうか。
「や、やさぐれないで下さいよぅ」
「裏切り者がなにか言っているな……」
隣席の〝き〟を向かず、天井だけを頑なに見つめて力なく恨み言を述べる。幌の骨組みの上に蛙が乗っていたので、ただひたすらあのようなものになりたいと祈ったりもする。
「う、裏切り者だなんて、そんな……」
こちらもやや身綺麗にした小袖姿の〝き〟は、龍の面の上から(それがある以上多少着飾っても意味は無いと思うが)口元を押さえて嘆いている。
蛙に向かって、言った。
「じゃあ、これを着替えても「それは許しませんけど」
妹が、蛙に語りかけたこちらの言に思い切り被せてくる。その上で一呼吸置いてから、
「それはそれとして、わたしはいつだっていなき様の味方です」
「友好的なだけの敵というんだ、それは」
「えー」
ぼやく妹を無視して蛙を眺めていると、
「こら」
更に向こうのあやめが、叱責してくる。こちらも普段の、地味というにも言葉の足りないような装いを改めていた。
別に、今のやり取りに文句がある訳ではないようだ。こちらの足下を見ながら、
「そんな風に、股を開いて座ってはいけないわ。淑女としてはしたないわよ、おいねちゃん」
「誰がおいねだっ!」
「なによ、裕福な商家の次女として生まれるも、有能な兄姉の日陰にかくれる不遇な少女時代を送り、自分を変えようと一念発起して奥女中の道へ。これから先輩の陰湿ないびりに枕を濡らしつつも、出世の階段を上ったり御家人と道ならぬ恋に溺れたりする予定のしんでれらが~~~るおいねちゃん」
「勝手に安い三文芝居の主役に据えようとするなぁっ!」
一声吼えて掴み掛かろうとして――それを自制する。
巨大な大手門が目の前に見えていた。槍を抱えた番兵らしき若党が駆け寄って御者に誰何する。いくつかのやり取りを経て、彼らは道を開け馬車を通した。
賄(まいない)らしきものを受け取った素振りもなく、実直な――少なくとも、自分の職責を全うする事に何ら曇りを感じていない若者なのだと感じた。
歳は己とほぼ同じ。
やや嫉妬めいたものを覚えながら、それを隠すように、いなきは馬車の去り際に彼へと笑顔を作ってみせた。幌の骨組みから飛び降りた蛙が、窓枠を経由して番兵の頭に乗る。
彼はなぜか、槍を取り落としかけて隣の同僚に脇腹を肘で突かれていた。
「おいねちゃん、罪な女……」
「い、いま、わたしの人生観になにか大きな革命が起きようとしていますっ……」
「お黙りやがれ馬鹿女ども」
窓から笑顔で顔を出したまま、後ろの声に応える。
幌の中に向き直ると、話題の切り替えの為か、いささか語調を落としてあやめが問うてくる。
「それにしても、随分とあっさり通れたものね」
「まぁ、まだ城の入り口だからな。これが本丸の警備となればいささかケタが違う」
「本丸……曲輪って概念をいまいち理解してないのだけれど、紫垣城の入れ子構造とどう違うの?」
「もっと実用的だな……そもそも、歳城の城郭はもう曲輪とも言えない」
見上げる位置にある、二の丸と思しき曲輪、その各所に懸崖のように突き出ている稜堡(りょうほ)を視界に納めつついなきは言った。
稜堡式城郭、あるいは単に形状に由来して星形要塞。中世イタリアを発祥の地とする築城形式である。
火砲の発達により城塞の堅固化志向が廃れる直前の、永久築城におけるある種の到達点だ。データベースから入手できる近代的な築城術と、現在許されている技術の妥協点を見極めて造られたものだった。
城外の守りも堅牢そのものだ。大樹江の流れは歳城周辺に入る前に八つに分岐しており、堀を形成している。観察してみた所、番兵の詰め所や組屋敷、政所などの政務施設の配置まで計算されていた。稜堡に設置した火砲の射界は確保しやすく、侵攻する側は侵入経路を見出すのが困難になるような。
紫垣城にこうした工夫は皆無だ。複層城壁の内側へ入っていく門はそれぞれ一つに限定されるが、ただそれだけの話である。城壁そのものも正方形で、稜堡式のような火線の集中効果を見込めるような事も無い。
仮に、九重府九衛軍、六孫王府龍軍の双方が全力を投入して攻城戦を行った場合、紫垣城はどう楽観的に見ても三日で落ち、歳城は悪条件が重なっても三ヶ月は持ちこたえると目されている。
「あら、じゃあ九重府側の方が弱いのね」
しごく単純な感想をあやめは述べる。いなきは首を振り、
「そうとも言えない。まぁ、紫垣城は言ってみれば貴族のワガママから有職故実と八卦読みだけで設計させたようなものだし、兵理もクソも無いんだが」
「おいねちゃん、汚い言葉を使っちゃだめよ」
「うるせぇ。……で、だ。それでも松平家とか戦慣れした連中が口を挟まなかったのは、紫垣城に戦略的価値を認めてないからだ」
もっと正確に言えば、要塞に六孫王府ほどの価値を認めていない。
彼らの側に立ってものを言えば――いくら堅固にした所で、城が攻囲などされた時点で大勢は決している。三ヶ月、あるいはそれ以上かかろうが必ず落ちるのだ。むしろ要人が一箇所に固まってくれれば一網打尽にできる。
裏を返せば、彼らが守勢に立った時の戦略は〝分散〟である。港湾の防衛施設を破られた時点で各所に展開し、地の利を活かしながら市街戦を行う。そこそこ手広い島に過ぎない深川では取り得ない手法である。仮に紫垣城を奪取されたとて、前述の理由からあっさり取り返せる。
その思考には、ある種の含みを感じざるを得ない。
それまでに中身がどれ程荒らされても構わない、という。
むしろ、九衞軍はそれを望んで――
「……ま、そんな事をクソ真面目に考えるような事態が来た時点で、八百八町全体がロクでもない事になる。それは誰も望みはしないさ」
思いついた考えとは別の事を、いなきは口にした。
自分の身を守る盾が信用できないものだなどと教えて、良い気分になる訳もない。
「要は、歳城の守りは紫垣城と比べてとても堅いって事だ。これは戦時に限った事じゃなく、身元の確かな人間以外は猫の子一匹通さないってくらいだ。――本来なら、たとえ三の丸でもこんなにあっさり入れたりはしない」
先程のあやめの疑問が全く正しい事を告げる。別に、それで彼女が嬉しげにする訳でも無かったが。
「どういうからくりなの?」
「これは、石斛斎から聞いた話なんだが」
と、前置きする。当の石斛斎はあっさりと登城を辞退していた。そこまで付き合う義理ないしねー、と。全くもってその通りではある。
「王の入れ替わるこの時期は、大奥の再構築(リストラ)時期でもあるんだそうだ。深川中から次代六孫王に仕える奥女中の候補がやってくる」
「あ、確かに、そのような事を門番が言ってました」
常識外の耳敏さを持つ〝き〟が口を挟んでくる。
「これで今日は九十三組目、とか」
「ま、歳城の後宮教育を修了すれば、つまり花嫁修業免許皆伝。玉の輿が群れ為して迫ってくるくらいだしな。人気職業なんだよ。――そんな大勢の身元をいちいち洗ってたんじゃ本業に差し支えるってわけで、奥女中候補の監督は大奥に一任されている。俺たちは先行審査に合格した事になってるから、あそこまではフリーパスだ」
馬車の窓からいなきが指差した先。
歳城西の丸。
件の、芙蓉局の根城である。
金箔で覆った鋳銅の釈迦如来がこちらを威圧するように見下ろしており、いなきは頭頂に痒みめいた不快感を覚えた。
城内の地下に設けられた仏堂は広く、季節に合わない冷めた空気を内に引き寄せている。
いささか印象の薄い――おそらく後ろ暗い任に就く為に、そうした訓練をされた――女中の案内で通されたのがこの場所で、彼女自身は既に退席しており、そして芙蓉局は未だに現れていない。いなきらのみが床に座している。
〝き〟を先頭に、やや背後に側仕えのようにあやめが座し、いなきは更に後方に控える。
事前の打ち合わせに即した配置である。
――今回、俺は一言も口を出さない。
そう彼女らに宣言している。老獪な女政治家と聞く芙蓉局相手では、すぐぼろが出ると思った為だ。
別に女装を知られる事が恥ずかしいからではない(間違い無く死ぬほど恥ずかしいが)。
女三人連れ、という印象を相手に抱かせる事が、後々活きてくるはずだからだ。
(……それにしても)
仏像を軽く視界の端に納めながら、意外、という感想をいなきは抱いていた。
釈迦像を祀る事は、未那元本家が中世のある時期から曹洞宗を保護優遇している事を思えばむしろ常識と言える(現実史に沿えば臨済宗のはずだが、この齟齬の理由は今となっては不明だ)。
だが、芙蓉局は無宗教と認知されていたはずだ。そもそも、夫の死後落飾し院号を得ていないからこそこの名で通っている。
八百八町の武家社会は現実のそれほどに仏教への帰依は深くないが、明らかに慣例を破っている。夫への不義と取られて求心力を失いかねない行為だ。
そうした批判を退けているのは――
「――端女、その仏が気になるか?」
堂の広さに比べて数少ない燭台に載る蝋燭のあいまいな灯りの外、影になった場所から声が上がった。
影はゆっくりと形を成しながらこちらへ近付いてくる――真逆の色に彩られて。
女の全身は白で構成されていた。典型的な五衣唐衣裳、いわゆる十二単。ただし、袿(うちき)から表衣まで白一色の構成など、宮廷の定める襲(かさね)の色目には存在しない。
指先も、髪色すら白く――総身で喪に服している、とかつて余人に感激を込めて語られた通りの姿。
芙蓉局その人である事に間違いは無い。しかし。
(若過ぎる……どういう事だ?)
化粧気の薄いのは、女がその必要を認めていないからだと分かる。野花摘みを楽しむ乙女と言ってすら差し支えない相貌。彼女が貴族出身である以上、鎚蜘蛛姫のように人外の生命力を持っているはずが無い……
「どうした? 私は、愚鈍を憎むたちなのだがな」
酷薄を音に移したかのような声音。それがいなきへと突きつけられていた。答えられる訳もなく、ただ座したまま平伏する。
「遅参のごまかしに人を恫喝とは……名にし負う芙蓉局にしては、随分と安い真似をします」
そこに〝き〟の助け船が入る。こちらもまた、負けず劣らず真夏に寒気を催させる声色をしていた。
芙蓉局は彼女を初めて認識したかのように目を細め、冷笑を浮かべてみせた。途端に、少女めいた顔に海千山千の老獪といった風味が付け足される。
いなきは怖気を覚えていた。女というのは、こうも容易く印象を変えてみせるものなのかと。――妹についても、同じものを感じている。
白装束の女は、〝き〟の前に立ちその頭を見下ろす。肉食獣が縄張りを侵略した同種の獣の頭を押さえつける様を連想させる仕草だった。
「なるほど、貴様が〝ふう〟の娘か。なんとも……過去に戻ったような錯覚を覚える。あの女もまた、その声で出会い頭に生意気を抜かした……」
昔を懐かしむように呟き――唐突に、〝き〟の龍面を引き剥がしてみせた。顎を掴んで自分の方に顔を向かせる。
「顔立ちは未那元の筋よの。どうにも、嫉妬を禁じ得ぬ」
言葉に反して、口調は愉しむかのようだった。
「――憤怒の相すら麗しいとあっては、な」
それが、背中を伺うしかないいなきの知り得なかった妹の表情であった。彼女は冷えた敵意を瞬時に殺意へと焼け焦がしていた。
「わたしの顔を見ていいのは、家族だけです」
「家の繋がりはあったはずなのだが?」
酒の苦みを快く感じるようになった大人のように、〝き〟から差し出された敵意を扱う芙蓉局。両者に血の繋がりは無い。彼女は子を成さなかったと聞いている。
「いや、それも無かったか。貴様はとうに廃妃されている。当然だな。役割を放棄した者を御家は決して認めぬ。……貴様は、我々と何ら関わりの無いただの孤児だ。この場で殺した所で、特に腹も痛まぬ」
「それは、こちらも同じ事です」
両者に情の交換は一切無い。その条約を取り交した事を認め、彼女らは一時沈黙する。
いなきには、〝き〟がこうした寸鉄めいた言葉を使うのが意外に思えた。本来は、実際の暴力でものを言う。
さすがに城内に武器となる鉄杖を持ち込む事は出来なかったので、木製のものに替えている。武力の乏しさから自制している――わけが無い。この少女が、そんなにかわいらしいものではない事をいなきは知り尽くしている。
理由は、芙蓉局が出てきた影の奥にあった。
闇に目が慣れた事もあるが、何よりその大作りな輪郭は影の中でも陰影が判別しやすかった。僧形の大男。骨格も、目も鼻も口も、指先も大きい。
光を反射するような武装は携行していないが、何らかの攻撃手段を持っている事は確実だった。
「……あなたはよほど、好き放題にしているようです」
〝き〟が殴れない代わりに皮肉を突き出せば、芙蓉局は驚いた、というような顔を作って、
「なんだ、やつに気づいたか。……あれはそうした心配がいらぬ者よ。大陸の作法にならってな」
――つまり、宦官(かんがん)か。
外見からは去勢しているとは全く伺わせない強面の男の方に手のひらを向ける事で指し示し、芙蓉局は告げる。
「豪眞梅軒(ごうまばいけん)。疑わしいとあらば、見せてやっても良いぞ?」
「御方(おんかた)の仰せとあらば」
「いりません」
印象を裏切らない太い声を〝き〟が遮る。
芙蓉局は、人の悪い微笑みを浮かべると、ようやくいなきたちの対面に座した。
「無論、外にも人を控えさせておる。ここは六孫王の膝元、貴様らなどいつでもひねり潰せる事を知っておけ」
何とも親切な。鼠に自分の家での振る舞い方を一々ご指導してくれるとは。つまりは、浅井長政が織田信長に両口を縛った袋を送ったようなものか――場違いなおかしさを覚えて、いなきは口の端を歪ませる。
「……それで? 今日はどういった御用向きかな?」
問いかける芙蓉局に対して、〝き〟が応じる。
「殯宮の場所をお教え願いたい」
「……大樹を殺すか? 己の父親を?」
「はい。殺します」
少女の声音は、神託を告げる女神(アテナ)めいた超然とした冷厳を湛えていた。
そう思えば、対する芙蓉局は一人だけで神を嘲笑する道化のようであった。
「あの男にとっては、なんとも、救いのない話よの」
宮廷出身の女特有の婉曲表現といなきは受け取った。少なくとも、彼女の要請を拒絶する意図はそこに含まれていなかった。
言葉の含みを正しく受け取られたのを察したか、芙蓉局は続ける。
「危うい所であったが、世嗣は生まれた。未那元大樹にもう価値は無いのだ。奴とて、現世で行う仕事などもう遺言を書くくらいしか無い」
路傍の石に抱くような無機質な感慨だけが、その声に乗っていた。
いなきの胸の内に冷風が吹く。義理とは言え祖母に無価値と断じられ、娘に殺意を抱かれている。なるほど、全く救いが無い。
「是非もあるまいよ――あの男とて、実兄を殺して王座についたのだから」
音程を一段落として、彼女は秘事を明かした。
「王太子、未那元森羅……十七年前、大樹は兄を手に掛けて、奴のものであった地位も、女も奪いとった獣よ。今となっては私しか知らぬ話だ。御家騒動など起きてはならなかったのだ。暗殺で御家が絶えたとて貴族や親王を後釜にできた現実世界の鎌倉幕府とは違う。未那元宗家の存続は、深川六孫王府のそれと直結している。その血筋を絶やさぬ為には、如何なる手段も肯定される」
芙蓉局に目に見える変化は無かった。しかし、背後の大男の肩がやや強張る。何かを思いだしたかのように。
おそらくは、今し方彼女が述べた事を隠蔽する為に骨を折った人物なのだろう。今となっては私しか知らぬ――そのような状況を作った事も含めて。
「奴には苦労をさせられた……その後の勤めで借りを精算したとも言えるが、元より泥を被って得たものだ。泥中に返すのが相応ではないか?」
「……つまり、ただで教える気は無いと?」
「当然だ。貴様にも泥を被って貰う。雷穢忌役……あの泥の中で駆け回る狗になったのだろう。まったく似合いの仕事ではないか?」
暗殺。彼女は、それを示唆している。
「ちょうど、始末する塵が手元にある事だしな。……侍所所司代、足影秀郷。敵の派閥に潜り込ませていた男だが、どうやらあちらに寝返ったらしい。二重スパイ、というやつだな。どうやら、少しはものの見える男のようだ」
自らが敗勢にある事を諧謔を込めて語りながら、その直後に。
「この男を殺せ」
――何事かを言いかけた〝き〟を、いなきは制止した。彼女に意志を伝えるには、唇を動かすだけで良い。
次いでの受け答えを彼女に指示する。その通りの文言で彼女は述べた。
「必要なものが、いくつか」
そう前置きして、いなきが提示した事柄を〝き〟は挙げていく。
「整えさせよう」
芙蓉局の返答に、後方の豪眞梅軒が頷く仕草をする。
「では、仕遂げた時に再びここに来ます」
〝き〟がそう告げて、立ち上がろうとする。それもいなきの指示だ。これ以上芙蓉局に何かを言わせても益は無い。
――老獪な女は、そうした呼吸を読むのに長けていた。
「待て」
一言、それでこの場の全員を制止させると、芙蓉局は一人舞台を演じるように語る。
「駄賃に、棚上げしていた事を教えてやる。……あの仏だがな」
と、仏堂に座す巨像を示す。
「作は蓮済(れんぜい)……済派(さいは)という流派に属する仏師であった。私の娘時分に、そこそこの名で通っていた男だよ。数年前に老衰で死んだと聞いている。流派そのものもこの時絶えた」
彼女が何を伝えようとしているのか、計りかねた。しかし意味がある事なのだ。女が酔狂でこの話をしているのであれば、その瞳にこぼれる程充満する情念は説明がつかない。
「かつて、この男を招いた事がある。最初に奴の手がけたものを目にした時より、気にかかっていたのだ――なぜこの仏は、人を銅に溶かし込んで仕立ててあるのかと」
思わず、仏像の方を振り返ってしまった。女はその様を可笑しげに見やりながら言葉を続ける。
「流派の教えにございますれば、と蓮済は答えた。済派は、三百年前までは京の五山の仏をも造った名門だったのだぞ? それが連綿と人身御供を相伝し続けていたのだ。私は唖然としていた。蓮済個人の狂気と見込んでいたからだ。当然ではないか? 狂は、教え伝える事はできぬ」
そこで女は、軋むように笑った。自嘲の笑みだった。
「と、考えて自分の馬鹿さ加減に気づいた。われらもまた、同じ狂習を連綿と伝え続けてきたではないかと」
――〝き〟の指先だけが、その言葉に反応を示した。
「その代の六孫王の種より生まれた初の姫、これを〝斎姫〟と名付け、穢れから遠ざけるべし。言葉を教えず、肉食を禁じ、日の当たらぬ場所で潔斎させよ。――齢十を迎えるまで」
朗々と、祝詞を語るがごとく言葉を吟ずる芙蓉局。実際、彼女はある種の祭事を語っているのだ。
ある種の祭事を――その贄に。
「陰の気を極めた浄き娘、これを王に喰らわせるべし。王の身のうちに狂う憑物を鎮める為に。斎とは〝食すべき時〟の意である」
そこで言葉を句切ると、彼女は〝き〟へと語りかける。
「蓮済は言った。造仏の道、未だ途上ゆえ、然らば正道邪道、外道の区別も無し。然れども御仏の現身(うつせみ)を世に象る事には是非も無し。――人が、救いを欲しているのだから」
石を積み上げて城壁を作るように、芙蓉局は言葉を紡いでいく。
そして、断罪するように問いかけた。
「なぜ、貴様はここにいる?」
卑しい鼠を見るかのような軽蔑が、そこに潜んでいた。
「あの大義も解さぬ流浪の遊女が、全てを御破算にしかけた。情に駆られて貴様を逃がした。大樹があの時〝ふう〟を手に掛けていなければ、私が殺していた所だ。奴の為に御家は、この千年で最も危機に瀕した。あれから致命的に大樹の憑物は進行したのだ……かろうじて六弁丸(ろくべんまる)が間に合ってくれた……未那元宗家も、深川六孫王府そのものも滅んでいた所だったのだ……」
滲むような言葉に、初めていなきは女の老いを、疲れを感じた。
しかしそれは一瞬だけの事だった。芙蓉局は老いを強固さで覆い隠し糾弾を続ける。
「それで、貴様はなんだ? 母親と不具にされた己の仇と、御家に弓引くか。小人の極みよ。貴様は死ぬのが道理であったのだ。それが生き恥をさらしただけでなく、狗に堕ちて、醜悪な怨念を向けるなど。このような、虚仮威しまで用いて」
〝き〟から剥ぎ取った龍面を汚らわしげに弄びつつ、軽蔑もあらわに彼女は言った。
「生き延びる為に、どれほど卑しい真似をした? 自儘に振る舞う為に誰に取り入った?誰にその肉を貪らせた? その美貌で、美声で、誰に甘えてみせたのだ?」
「……ッ!」
奥歯が軋む。いなき自身のものだった。
〝き〟の顔は、こちらからは見えない。
自制心を絞り出すようにして、いなきは伝えた。
(挑発だ)
この女は、自分たちの頭を押さえようとしている。主導権を握りたがっている。
暴力に馴れた狗に首輪をつける方法など、一つしかない。
己も、暴れてみせる事だ。
(奴は、事によっては俺たちのうち誰かを殺すつもりでいる)
芙蓉局の立ち位置に立ってみれば、至極容易な想像だった。こちらが提示できた彼女にとっての利益など、無いよりはましという程度のものに過ぎない。手綱を緩めて御せなくなれば厄介、多少過激な手法を採っても自分の腹は痛まない。
こちらが圧倒的に不利――戦力的にもそうだ。仮痴不癲の時とは違う。豪眞梅軒には未熟な猿丸と違って隙が無い。仏堂の外に待機しているはずの手勢が駆け込むまで、芙蓉局を守りきるだろう。その後、非武装で非戦闘員まで抱えたいなき達がこの場を切り抜ける望みなど、富くじの突留を引き当てるより薄い。
芙蓉局に暴力の行使を決意させてはならない。この場は耐えなければならない。
耐えなければ――
(糞……ッ)
俺の家族が、辱められている。妹が恥を耐えているのに、何も出来ない。
俺のせいで刻まれた恥だというのに、何も――
薄い足音が、すぐ近くでした。
注目していなかった人間が急に動き出せば、誰であれ咄嗟に反応などできない。この場の全ての者に生まれた隙をついて、その女は自分の庭を歩くように白装束の女の前に立ち、
無造作に、頬を張った。
「なっ……」
思わず、声が出た。
蠱部あやめが振り抜いた手を下ろす。その目には平素と同じ、とらえどころの無い感情しか浮かんでいなかった。声もまた、寝言のように自然だった。
「彼女にも、誇りがあります」
そっと、誰も気づかぬ程の動きで芙蓉局から龍面を奪うと、それを〝き〟の顔に被せてから言った。
「それをあなたが傷付けるのであれば、許すわけにはいきません。わたしは、この子の姉ですから」
いなきは、膝を浮かせかけていた。手のひらを、彼女の背中に向けて開き、閉じ――胸の内に沸いた熱を持て余し、扱いかねている。
それを誤魔化す為に、別の事を思う。
(……どうする)
今、芙蓉局にはあやめが手頃な贄に見えているだろう。影の奥の豪眞梅軒は主への攻撃に、明らかに戦闘態勢を取っていた。梅軒の、彼女への暴力を妨害すればこの場は致命的に荒れる。目的の達成は絶望的になる。
(俺には、為さねばならない事がある)
蠱部あやめの父、蠱部尚武を殺す。その為にこの九年間があった。
仇の娘を守る為に、それを無とする事などあってはならない。それは己に許された命の使い道ではない。
(為さねば、ならない事が……)
豪眞梅軒が、決定的な前進、その一歩目を踏み出そうとする。
(……畜生!)
いなきが、合理とかけ離れた思考に基づいて肉体を駆動させようとした時。
「――梅軒、待て」
芙蓉局が、影の中の従者に灯りの下に出る事を禁じた。
彼女は頬を張られた事実など無いかのように、白い肌の赤に染まった箇所に触れもせず、あやめの顔を見ている。
あやめは既に、芙蓉局の前に座り直していた。この幼馴染は、礼儀にうるさい訳でもない癖にそれを自分が固守する事にはこだわっている。人を見下ろすような不作法は、彼女の好むところでは無い。
彼女がいなきに背を向けて座った事で、その表情を伺う事はできなくなったが、それでもどういう顔つきをしているかは分かる。老獪な芙蓉局ですら、あの女の顔から意味のある心の動きを掴む事は難しいだろう。
それでも、白装束の女はしばし観察を続けた。
その後、呆けたように呟く。
「そなた、待雪(まつゆき)の娘か……?」
「ええ」
ごく淡白に、あやめは答える。
「つくづく、懐かしい事の起きる夜だ……」
そこでようやく、思い出したかのように芙蓉局は頬を押さえた。
「あれもずいぶんと生意気な娘だった。まったく、面憎い親子よ」
「そうでしょうか」
「基実(もとざね)殿は息災か? 存命であるとは知っているが」
「よく分かりません。顔を合わせたのは、三年も昔ですから」
「そうか。あの哀れな男らしい仕様ではある……あれは、ずいぶんと悪い時期に貧乏籤を引いてしまったのだ……無論、そなたに同情すべき由など無いが」
「祖父の事はあまり考えません。面倒なので」
「はん。食えぬ奴だ……そうか、あの蠱部尚武の娘でもあったのだったな、そなたは」
昔話めいた事を語り、場の空気が弛緩してしまったのに気づいたのか、芙蓉局は空気の淀みを振り払うように手を動かしてみせた。
「言うべき事も、言いたい事も言った。もう貴様らに用など無い」
計略を取りやめ、この場からの無傷の生還を許す――政治的動物そのものである彼女にとって、最大限の謝罪であった。
「帰して、良かったのですか」
三人が去った後の仏堂で、咎めるように梅軒が問うてきた。
――いや、この男が己を咎める事などありえない。この気後れは、芙蓉局自身が、己の行動に咎めるべき事を感じている証だ。
はぐらかすように、彼女は応じる。
「構わぬ。……別に、昔馴染みの孫を殺す事を躊躇ったのではないぞ」
九衛基実(このえもとざね)は幼少の頃からの付き合いであったし、その後の政変で不遇をかこった者同士としての同情めいたものも感じている。その娘については共感すら覚える。それでも、たとえ彼ら自身であったとしても謀略に組み込む事に抵抗はない。いわんや見知らぬ血縁者など、だ。
だが、と芙蓉局は前置きして述べる。
「筋書きを壊す即興(アドリブ)を、他の役者が見せていたのでな」
「最後尾の者ですか? 確かに、よほど動揺していたようですが」
「あの者だけではないよ」
「斎姫も? まさか」
梅軒は意外げな風に言った。当然だろう。梅軒もまた、芙蓉局と同じく斎姫の表情を見ていたのだ。冷徹を体現したような鉄面皮を。
あの娘は、目的に必要とあらば肉親でも切り捨てる。その覚悟を固めていた。たとえ梅軒がこの場であの娘を八つ裂きにしても、指一本動かす気も無かったはずだ。
頭の中では、そうだったろう。
「分からぬ……だが、実際に事を起こせば、動いていたかも知れん。兆候、とも言えない。かすかな……しかし無視できなかった」
「御方の深慮とあらば、是非も無し」
忠犬じみた仕草で梅軒は、芙蓉局の曖昧な不安に応じた。そして、無思考の奴隷ではない事も示す。
「此度の仕掛けは、〝計略の要〟に御座いますれば、まず過誤の無き事が大事」
「その通りだ。あの狗共には、私の書いた脚本通りに演じてもらわねばならん」
梢継との政争に逆転し、再び権勢を得る為には。
「御意」
それだけ言って、梅軒は闇の奥に消えた。
仏堂には、芙蓉局が一人きりになった。いや、釈迦像の中に押し込められた死人を含めれば二人か。
慈愛ばかりを示す古拙の微笑を見上げて、彼女は蓮済の最後の言葉を思い出した。
――この仏に溶け込んでいるのは、我が娘です。
蓮済はその後弟子も取らず、己の冥土の旅路に数百年続いた流派を道連れとした。
「……貴様は、臆病者だ」
仏に向けて、唾棄するように告げる。鋳銅の仏像はそれに報復してくる事も無かったが。
打たれた頬を押さえる。
(……それにしても)
侍従が駕籠を担ぎ現れるまでの間、芙蓉局の思考を占めていたのはある一つの事柄のみだった。
(あの娘は、生かしておいてよかったのか? 殺すべきだったのか?)
その思案は、ことによると、これから骨を折らねばならない陰謀よりも深いものだったかも知れなかった。
「………………………………………………寿命が縮んだぞ」
帰りの馬車の中で、いなきはうめいた。鏡が前にあれば、数日絶食したかのようなやつれた顔が見られたはずだ(この時彼は、自分が化粧している事を忘れている)。
女二人は平然としているのが、いささか情けなくもあったが。
「申し訳なかったわね。勝手に動いて」
「いや……」
珍しくも素直に謝罪するあやめに、いなきは口ごもる。確かに彼女の行動は理性で考えれば状況をひどく悪くしただけのものだ。それでも責める気分にはなれない。どうしても。
ため息をついて、話題を変えた。
「あの手の若作りした妖怪婆の厄介さは知ってるだろ? そんなのとやり合って無事だったんだ。善哉、善哉、ってやつだよ」
すると、あやめがいなきの方を向いて言った。
「いなき君、彼女は蜘蛛のおばさまとは違うわ。言葉を慎みなさい」
「……あん?」
この場で芙蓉局を庇う発言が出て来る事は意外で、いなきはぽかんとした。
あやめは、平素通りのつかみ所の無い表情のまま言った。
「黄金が寄ってくる人間は、黄金では幸せになれない人間よ。不老もまた然りでしょうね」
「……あの女は、」
ぼそり、とあやめの隣で〝き〟が呟いた。がさついた声音だった。
「おそらく自己改竄(コードハッキング)で代謝を制限しています。髪色の変化もその影響でしょう」
代謝を制限――それは、つまり。
「わたしたちの逆です。運動機能は著しく低下しています。日常生活すら苦痛に感じているはず。立って歩くのも困難でしょう」
身近に立てば人の体内まで把握する〝き〟であるからこそ察せた事であった。芙蓉局の傲岸不遜そのものといった表情に、そうした翳りは皆無だった。
「つまりは、人並み以上の覚悟でああしているという事……彼女の誇りよ。侮辱してはいけません」
たしなめる響きで、あやめは言う。
「でも……わたしは、嫌いです」
対して、〝き〟が着物の縁を握りしめつつ漏らした。
「若さを維持するのは、見目で人の心を奪うため、力を持つ人間に媚びるため……女を使って、人に取り入ってるのはあいつじゃないですかっ……」
絞り出すように、妹は憤激している。
彼女が仮痴不癲や石斛斎に冷酷な理由が分かった。仮痴不癲については彼女の公言した通り。おそらく石斛斎も、芸人ならではの古式ゆかしい陰間(※男娼)で身を立てている事が伺えた。
彼らとて生存の為の行いであり、彼女の潔癖に過ぎる評価は理不尽ですらある――しかし、この娘はまだ十五の少女なのだ。
仮面で覆ってもなお顔を隠すように首を竦める妹に、いなきは掛けるべき言葉を持たない。彼であるからこそ、できない事だった。
代わりに、あやめが彼女の肩を抱いた。
馬の蹄の音、車輪が石畳を削る音、ばねの軋む音、虫の鳴き声。
そうした音だけがしばし、夏の夜を占めていた。