雪ノ下町は大樹江を挟んだ深川の東側、その外れにある町人のねぐらである。そこで寝起きする男の半分が漁師で、三割が港の雑役夫で、一割が店持ちの商人で、残りが得体の知れないろくでなしの群れ。女たちは朝早くに夫を蹴り出して、適当に家事と内職を切り上げ晩飯の内容を考える。そうして一日を終えるのがここの連中の常であった。あら汁と浅蜊の飯には飽き飽きしており、暇潰しにやる事をやれば嫁が孕んで食い扶持に悩む。餓鬼の遊びは大概釣りだ。
誰もがお定まりの日々に倦んでいて、変化には敏感だった。
三日前に古着屋の裏店に住み着いた若夫婦についても、彼らは物見高かった。
旦那は浪人者のようだ。このご時世浪人が町人の生活圏に流れ着くなどよくある話で、別段珍しくもない。若い身空で家禄を失い町に放り出されたのは哀れだったが、持つべき感想なぞその程度。髪と目の色が一見風変わりで、子供にしつこく言い募られては嫌そうな顔をしている。近頃の子供たちの流行り遊びは、この若者に纏わりついて食うぞコラと脅かされて逃げる事だった。実際に食われた子供はまだいない。
女たちの流行りは、この若侍とその嫁との仲を推察する事だった。
この夫婦、妙に仲が悪い。というより、夫が一方的につんけんしている。
例えば――
若者が朝早くに逃げ出すように(そう見えるのだ)長屋を出ようとして、嫁に呼び止められる。
「だ~り~ん」
「誰がダーリンだこのドアホウ!」
「行ってきますのちゅーがまだよだーりん」
「するか馬鹿!」
「さ、このキス三十種早見表を参照した上でコンボを決めるのよ。一〇ヒット以上でBP(※バカップルポイント)一万点、爆発の特殊効果と共に特になにも起きないわ」
「聞けよ! つーかなにも起きないのかよ!」
「……わたしたちは夫婦、なのでしょう?」
「ぐっ……」
「疑われると~、色々と~、まずい事になってしまうのではないかしら~」
「……この、十六番なら」
「髪ね。なかなかフェティッシュなのかしら、だーりんは」
「屈辱……っ」
若者が羞恥心に顔を歪めながら妻の髪に口づけている様子は、裏店の女二十三人全てが目撃した。
なんだか夫に虐げられている嫁という構図とも違う気もするが、同姓ゆえに女たちは彼の若妻に同情的だった。いかにも良家の生まれ然とした彼女であったが、嫉妬めいたものも挟まず色々と手を焼いた。海を相手に生きる人間は大らかであるべきというのが、深川町民の美風だった。若妻も、面こそにこりともさせないが、冷たい人間では無いようだった。
おそらくは、数ヶ月もすればこの若夫婦も日常の中に溶けて、退屈で、そしてかけがえのないものとして町民に扱われるようになるのだろう。
懸念を一つ、挙げるとすれば。
あの夫は毎日、朝から晩まで、どこで何をしているのだろう?
/
楓座(おかつらざ)は多田神宮門前町である十二所町を拠点とする一座で、大樹江沿いの公許を得た芝居小屋と比べるといささか煤けた風情ではあるが、人の入りはそこそこだった。
いなきは表口から聞こえる喝采の数でそれを把握すると、そのまま回り込んで裏手から楽屋へ入った。顔見世は済んでいるので咎められる事は無いが、裏方、役者の目はいささか煙たげだった。洒落気の世界に、いなきのような無骨者の入る余地は無い。そういう事なのだろう。
左右田石斛斎は逆に、ここで生まれたかのように馴染んでいた。通路の端で、模造刀の束を抱えた小道具の男と歓談などしている。
彼はいなきを見つけると、話相手と愛想笑いして別れ、こちらに近寄ってくる。
「やぁ、新婚さん」
にやにやと笑う男のすねを蹴りつけて黙らせる。
「兄妹揃って粗暴だなぁ……照れなくてもいいのに」
「照れてねーよ!」
香油を塗った長髪を引っ張って耳元でがなる。石斛斎は今度はため息一つして、
「まったく、元服前の小僧じゃあるまいし……幼馴染なんでしょ? 気楽なもんじゃない。どーして更に目つき悪くしてんのさ」
不可解そうな顔の男に、ぼそりといなきは一言。
「……嫁入り前の女だ」
「うっ……わー……天然記念物だ」
石斛斎は、本気で唖然として呟いた。
「違う。……あいつは貴族の娘なんだよ。この旅は記録に残る。将来に影響が」
「余計なお世話ね」
役者らしい声真似で、堂に入った女声を作る石斛斎。
「この話が決まった時、あの子はそれくらい織り込んでたと思うけど?」
「……〝き〟とあやめの二人暮らしでよかった」
「無理無理。きみに貼り付かれるのはなかなか鬱陶しそうだし、ぼろも出る。魚と山犬くらい暮らしぶりが違うもの」
朗らかにずけずけと言う役者に、けっ、と吐き捨てる。確かにその通りだった。――それでもこの男の動向を監視する役が必要な以上、消去法で妹しかいない。
――深川の滞在にあたって、最初の方針として定められたのが、二手に分かれる事だった。
芙蓉局との対面で女三人組という印象を植え付けたのは、この為だった。深川は彼女の御膝元。その情報網から漏れる為の工夫が必要だった。
仮痴不癲側にもこちらの動きをある程度隠蔽する必要がある。所詮彼女も味方ではない。
彼女の斡旋する滞在先を選ばず、人の出入りの激しい長屋に隠遁したのはその為で(石斛斎にはどこに住んでいるか教えていない)、また石斛斎に余計な真似をさせないよう監視もしなくてはならなかった。
もっとも、なぜか石斛斎自身が深川に着いてより、仮痴不癲と距離を置く方針を示していた。この芝居小屋も彼女とは関わりの無い昔気質の座主の運営で、彼は飛び込みでここの役者として職を得た。
――なにかと美味しい愛人稼業だったけど、潮時っぽかったしねー。あのおっかない子のそばにこれ以上いると、命がいくつあっても足りない。
なんとも無頼漢らしい物言いだが、真っ向から信用する訳にもいかない。結局、石斛斎の身内という形で〝き〟も一座の厄介になっている。
「この手の人間がいておかしくないのも、この業界くらいだしね」
欠けた左腕の根本を軽く叩いて、石斛斎は言った。
十二次大粛正前の戦乱の時代には、奇形者好みの数奇者(フリークス・オブ・フリークス)を相手にした見世物小屋が存在したと聞くが、その名残か、この世界の芸能業界ははぐれ者に対する間口が広い。渡来人である仮痴不癲もそうだろうし、未那元元羅の治世以降加熱した深川と本土の小競り合いで生まれた戦災被害者についても同じ事が言える。――先程の小道具の男にしろ、顔半分が焼けただれ、潰れていた。
ふと、空想を弄ぶ。
ごく普通の戦争で焼け出されたのなら、己の居場所もこうした所であったはずだ。ここならではの苦労もあっただろうが、少なくとも刀を持つ必要は無かっただろう。どこにいても怯えの目で迎えられるような凶手でない何かになれた。そのはずだ。
――許されざる妄想だ。
「四日程度で、ずいぶん馴染んでるな。水が合うのか?」
先程の物言いに引っ掛ける程度のささやかな洒落気を示し、いなきは聞く。
「オトナの処世術、ってやつさ」
嫌味たらしく抜かす石斛斎。いなきは嫌そうな顔をして、
「看板に名前が無かったな。あんたの腕なら、即花形になっても良いだろうに」
「おや? そこまで買ってくれてたとは、意外だね」
「……別に。腕を披露したから、人望を得たんじゃないのかと思っただけだ」
「逆さ。舞台裏で拍手を浴びるのは斬られ役」
石斛斎はからかうような軽さで言って、
「オトナの処世術、だよ」
警句じみた物言いに、いなきはうんざりと顔を逸らす。しかし、もっともではあった。いなき自身、忌役の大人の武官を叩きのめす度に孤立が深くなっていった気がする。特に気にもならなかったが。
「かわいいかわいい愛妹のこと、聞かないんだ?」
隙をつくような、ぼそりとした一言。
「なんか気持ち悪いぞ、その言い方」
「若者に言われるだけで傷つき具合がひと味違うねぇ、その言葉」
悲しげに言う石斛斎を放っておいて、いなきは軽くうめいた。
「……どうにも、嫌な予感しかしない」
「はっはー、大当たり」
青空と同じくらいに晴れやかで、そして晴れやか以外に特筆する所の無い笑顔を浮かべる石斛斎。よく観察すれば、頬に一滴雨が降っていたりもする。
折良くなのか、悪くなのか。
「――おじ」
いなきの入ってきたのと同じ経路で、芝居小屋の廊下を、杖と義足と生身の三本足が歩いてくる。裏口の軒先で、あきらかに堅気でない男三人ほどが「お嬢、お疲れさんです!」と頭を下げていた。
「……」
「聞きたい? あの子の、ここの座主への借金取り立てから始まった地元ヤクザとの一大活劇」
「いや、いい……」
頭の端で人目を忍ぶ隠密活動という標語が浮かび、ひび割れて崩れていくのを見届けながら、いなきは答える。
「おじ。新参者がこのような所で油を売ってどうします。一座の皆さまにへいこらと茶の一つでも淹れてきてはどうですか」
そばまでやって来て理不尽に手厳しい事を言う〝き〟。仮面だけは狐の面に戻し、一応身元を隠す配慮はしているようだ。
「いなき様、よくお越しになりました」
立ち居振る舞いも、打ち合わせた通りにはなっている。まずは〝身内〟の石斛斎で、次は〝知人〟の若侍。声の響きも、同じ呼び方ではあるがいささか突き放したものを感じる。
――夫婦役は、あやめ様となさって下さい。
胸に小針が刺さったような気分を覚えつつ、いなきは周囲に聞き咎める人がいないのを確かめてから言った。
「おじ?」
「汚仁、つまり加齢による汚らしい脂分が至極不快なひと、という意味です」
「いや、俺は、「おじさん」「おじさま」と呼んだ方が適切なのではないかという意味で言ったんだが……」
「それより僕は今、壮絶ながっかり感を覚えてるよ。正味な話、その呼び方にきゅんと来てたからね。この四日間の浮かれ気分をどうしてくれるのさ」
「知るか……いや、すまん。なんか、その、悪い」
本気でショックを受けている様子の石斛斎に、妙な責任感からいなきは言いかけた悪態を撤回する。
〝き〟は素知らぬ顔で、その傍らに立った。石斛斎から見えぬ位置で背中に触る。
「……構わない」
合図に口頭で返答してから、いなきは言った。
「情報は揃った。明日、仕事をする」
蝋燭の炎が、割れた板壁から吹き込む嘆息めいた外気に揺れる。その時、炎の形作るいなきと〝き〟、石斛斎の影も化物じみた形に膨れた。
多田神宮からやや離れた場所にある分社である。本社がそばにあるので、参る者も少なく廃れてしまった。深夜となればなおさら人気に乏しい。密談には都合の良い場所だった。
「標的……名は、足影秀郷」
車座の入り口側に腰掛けているいなきは、そう前置いて語り始める。
「姓の示す通り、御門葉の出自だ」
――御門葉家。
未那元頼朝の時代、彼が幕府を開くにあたって最も功績を認められた未那元一門の眷属にのみ許された称号である。夜摩名(やまな)家、大宇智(おおうち)家、足影(あしかが)家、鏡(かがみ)家、八州田(やすだ)家、比良賀(ひらが)家、摂州(せっしゅう)未那元家、奥州(おうしゅう)未那元家。この八つの名家から成る。
家格の高さ、それに相応する権力の程は言うまでも無いが、いなきはそれに言及する意図でこの称号を持ち出したのではない。
彼らは未那元の血筋のごく近縁の連なり、つまりほとんどが、強力な憑人である。
「真っ当に戦うには困難な相手だ。憑人の身体能力は、コードハッキングで身体能力を高めた雷穢忌役と比べても驚異的。憑物は血筋と関連が深いから、同族交配でその純度を高めた御門葉の眷属ともなれば、絶望的な開きがある」
いささかの含みを持たせていなきは語る。それを察して、石斛斎が口を挟んでくる。
「つまり、真っ当には戦わないんでしょ?」
「まぁ、そうだ。それについては策がある……」
と、いなきは足影秀郷の暗殺計画、その草案を明かしていく。
それを最後まで聞き終えてから、〝き〟が問うてくる。
「その策を実現するには、彼が夜間、人通りの無い道を歩いている必要があります。どのようにして彼をおびき出すんですか?」
「おびき出す必要なんか無いさ」
いなきはいかにも簡潔に答えた。
「この男自身が、それを望んで行う。間諜で、しかも二股をかけているとあらば後ろ暗さも一際だからな」
芙蓉局陣営はもとより、方丈梢継陣営相手の謀議に参加する時の時刻、道行き、符牒の類まで御寝所番の密偵は把握していた。釈迦の手のひらの上の孫悟空、という言葉がはまり過ぎていて、度の過ぎた諧謔に胸が悪くなる。
「明日、当代六孫王の兄とやらの年忌法要――神道行事だから年祭か――があるが、その後に芙蓉局側が秀郷へ誘いをかける手はずになっている。謀議の場に来るまでの道で殺す」
「芙蓉局陣営の談合である理由は、なにかあるのかい?」
物見遊山じみた顔で、石斛斎が問うて来る。いなきはそれをうさん臭そうに眺める――男が、今の話の急所を的確に突いてきたからだ。
この時機を指定してきたのは、芙蓉局側の方だった。
足影秀郷の動向をこれだけ把握している以上、逆の事を行うのも容易のはずだ。彼の好みそうな情報(エサ)を与えて、喜び勇んで密談に向かう所を仕留める。梢継陣営に脅しをかけるつもりなら、そちらの方が適切だろう。
いなきは、それなりに自信のある推察を解答として述べる。
「おそらく、方丈梢継側の刺客を装わせる為だ」
「なぜ?」
「芙蓉局の陣営の方が遥かに劣勢だからだ。梢継陣営の談合に向かう途中で秀郷が死ねば、彼が二重スパイである事が知れてしまう。その時の動揺が無視できないほど、芙蓉局側の屋台骨は揺らいでいる……加えて、」
政治の生臭さを間近で嗅いだ気分を覚えつつ、いなきは言葉を続けた。
「いぶりだしだろうな」
「……なるほど」
石斛斎もまた表情を翳らせ、いなきと心境を同期させる。〝き〟も察していない訳ではないはずだが、こちらは呼吸に揺らぎすら無い。
「芙蓉局の側で足影秀郷の死の本当の意味を知るのは、方丈梢継と通じている人間だけだからな。秀郷の死は、こいつらのその後の動きを抑制する効果がある」
「おっかない事だねぇ……けど、おっかないだけだ」
「ああ。どうやらあの女は、裏切り者をそのまま使い続ける以外無い程に、力が不足しているようだ。仮痴不癲の立場が気楽にすら思えてくるな」
「どうだろうね。危険な毒虫を手の中でもてあそぶつもりなだけかも。権力って玩具を扱い馴れた人種には時折、そういう悪癖持ちがいるからねぇ」
皮肉を愉しむように語るこの男が言うべき筋ではないと思うが、どちらにせよ臨時雇いの殺し屋が気にかけるような事ではない。いなきは傍らに置いていた巻物を広げ、灯りの下にさらす。
「これが、足影秀郷の進行経路周辺の地図だ。ここ……この路地に罠を張り、待ち伏せる」
「ねぇ」
隻腕の役者が、口の端を底意地悪そうに吊り上げていなきの言葉を留めた。
「まさか、臨時雇いの殺し屋になりきってるわけ?」
「まさか、だな」
淡白に応じて、いなきは入り口に置いていた木箱を担いで車座の中に戻ってくる。木箱の中には、先程の巻物が束になって、溢れる程に突っ込まれていた。
「永代島造成以来の深川各所の地図、寺社の建立計画の図面だ」
余裕めかした石斛斎の目が、この時ばかりは驚きに見開かれた。
「これ、全部?」
「ああ」
「どうやって手に入れたのさ。帯出禁止でしょ、こういうの」
「政所(まんどころ)の小役人を装って奉行所の蔵をはしごした。芙蓉局に便宜を図らせたんだ。最初に出したこの地図を閲覧する為、という名目で。その場で書き写す訳にもいかなかったんでな、少し時間がかかったが……」
「まさか、そらで写し取ったの? 三百年分の絵図面を全て? 四日で?」
「漏れがあったら意味が無い。時間との勝負でもある」
草を噛んで吐き出したような味気の無さでいなきは言った。目の下には不眠を重ねた為の隈が浮かんでいる。
石斛斎が唖然としている理由は分かる。この仕事がある種の代え難い能力の証明である事も。しかしそれについて優越感を楽しむゆとりなど無い。前言通りに時間は限られており、語るべき言葉は別にある。
「これが指標になる。六孫王の殯宮を探す為の」
四日前。芙蓉局との会談から元の出会茶屋に帰り着いてすぐ、いなきは化粧を落として女装を着替えた。元のひたすら地味で無骨で丈夫な布を使っている以外なんら特徴の無い黒装束に身を包むと、幸福そうにため息をつく。
「落ち着く……」
「あぁ~、もうちょっと鑑賞したかったのに~……」
さめざめと嘆く〝き〟を無視して、畳にあぐらで腰掛ける。
「案の定、殯宮は歳城内には無かったな」
「はい」
無理矢理話題を本題に修正して問いかけると、さすがに妹は気を締めて応じる。
彼女の隣に座るあやめが口を挟んでくる。
「何度か耳にしたけれど、その、殯宮というのは何なのかしら? 字義を考えれば、意味する所は察しがつくのだけれど」
殯――本来は、本葬前に遺体を仮の御所に安置して一定期間過ごすという、古代の習慣である。
六孫王府では、六孫王の自死を粉飾する政治的欺瞞として、この言葉を用いている。
「大殯の儀で、六孫王が滞在し、潔斎する場が殯宮だ。六孫王大樹は十一日前にここに入っている。その後は二十八日間かけて潔斎……断食し、肉体を痛めつけ、衰弱していく」
「……一つ、いえ、二つ質問があるわ」
口に上しかけた人間的な感想を留めて(そうしたものは、いなきにしてもここに来る前に考え尽くしている)、違う内容の疑問を掲げるあやめ。
「城の中にその殯宮が無い、と思う理由は何なのかしら。今回、わたしたちは西の丸のごく一部にしか足を踏み入れていない。それに、探索みたいな事もしていないわ」
「必要無い。あそこに六孫王がいない事だけは確実だ」
確信に満ちた返答に首をかしげるあやめに、隣の〝き〟が言った。
「現在、六孫王の障気は制御できない程に高じているはずです。それ故の大殯の儀なのですから。怪異、病魔の蔓延……周囲にもたらす悪影響は計り知れません」
「そう、六孫王が歳城にいたなら、忌役のようにコードハッキングで耐性を付けた訳でもない一般人にとって、あそこは魔界に等しい。政府機能も麻痺するだろう。城内が平穏そのもの――狐狸の化かし合いじみた争いはしていても――である以上、歳城内に殯宮がある可能性は考えられない」
と、いなきは結論付けた。
――会話の流れが自然と、芙蓉局の情報を待たずに殯宮の探索を行うものになっている点について、誰も疑問を挟まない。傍観者の石斛斎ですらそうだ。
言うまでも無い事だからだ。餌を貰う事に甘んじるならただの飼い犬で、主導権は飼い主に握られてしまう。この場合は、大殯の儀が終わるまで芙蓉局の政敵を抹殺する為に走らされ、手頃な時期に抹殺される羽目になるだろう。
走狗に馴れたいなきは狡兎を狩った後に煮殺されない為の勘所を学んでいるし、武官になったばかりの〝き〟にそれを教え込んでいる。あやめは走狗の頂点である男の娘で、石斛斎も八百八町の後ろ暗い場所で生き残ってきた男だ。
彼女が味方でない事を忘れるような人間は、一人もいない。
「もう一つの疑問は?」
続けて問いかける。
「十一日前から二十八日間、と言ったわね。――旧暦の七月の間、という事になるわ。これに何か意味はあるの?」
十二次大粛正以降の八百八町では、公式な暦法に太陽暦を採用している。そして、それ以前の太陰太陽暦の暦を旧暦としており、この刷新を図っている。四季の区分がはっきりとしたこの国では、暦状の季節感と実際のそれが明らかに食い違う大陸由来の暦法では不具合があったからだ。
しかし、その目論見はうまくいっているとは言い難い。
祭事の基準が未だ旧暦であり――それは、多くの儀式が同じく大陸に由来してこの国に深く根付いた陰陽五行思想と切り離せないからだ。
首をしゃくって、〝き〟に説明を引き継がせる。この手の話題は、彼女の方が専門である。
「この月は、庚(かのえ)……金の陽気が最も高まります。五行相剋によれば金剋木。木気に強く適合する未那元宗家の人間が最も弱体化する時期です。歴代六孫王の大殯の儀もこの月に行われました」
人前で長く喋る事に慣れていない妹は、一呼吸して舌の回りを確認してから、言葉を続ける。
「この考えは、殯宮の場所を特定する際にも適応できます。金気の強い場所である庚の方角、つまり南西に殯宮があると考えられます」
「ちょっといいかな?」
今まで会話から離れていた石斛斎が、口を挟んでくる。〝き〟は露骨に嫌そうな空気を発した。
隻腕の役者は、悲しい風な顔を作ってみせてから、それでも構わず疑問を述べる。
「所詮迷信でしょ? そこまで教条主義的に守るものかな? 安全を考えれば、別の場所に置くものだと思うけど……」
「いや、六孫王府はこの点については儀礼を最重視する」
どうもこの男を嫌い抜いているらしい〝き〟が無駄に攻撃する前に(いなきにとっても相性が良いとは全く言えない種類の人間だが)、いなきは解説を継いだ。
「そもそも、御所の歳城自体が兵理を無視して北東に建築して、正門を北に開いている。あれだけ守備をがちがちに固めておいて、城の配置は本土に近づけ、門の方向もそっちに向けるなんて不自然にも程があるだろ? あれは、北東の木気の強い場所に立ち、北方の水気を招く為のものだ。木比和と、水生木の考えだな」
「北東は鬼門でもありますから、鬼の力を取り込む、という彼ら独特の考えもあります。彼らは六孫王の血統の維持を願う反面、その強大化について努力を投じています。これは迷信ではなく、事実六孫王、そして周囲の血族の能力は代を重ねるごとに高まっています」
言葉の最後に無視できない刺々しさを付け足し、〝き〟は石斛斎に言った。
「この二つの教義を両立する為に、斎姫という存在が作られました。……彼女らがただの迷信を守る為に喰われて死んだのだとすれば、その死には、いったい何の意味があったのですか?」
「……悪かったよ」
目をすがめ、肩をすくめて石斛斎は謝意を示す。〝き〟はそれに答える事無く、彼への感心を切り離した。
「人知れぬ秘事であっても、彼らが儀礼の様式に忠実である事はわたしが保証します。斎姫の斎宮(いつきのみや)は東……木の陰気が留まる乙(きのと)の方角にありました。それに、」
そこで彼女は口ごもる。
いなきは次の句を止めようとしたが、結局彼女は逡巡(しゆんじゆん)したのみで言葉を続けた。
「わたしは、十年間地下に閉じ込められていましたから。光を遮断して潔斎するのは、奥州諏訪の巫女である風祝(かぜのはふり)にならったものと考えられます。八州国時代の方丈家の所領には諏訪信仰が浸透していたので、その影響でしょう」
「……以上の理由から、六孫王の殯宮が南西にある見込みは相当高い」
部外者の石斛斎の目を逸らす意味で、いなきは話題を打ち切った。彼の目の色に、好奇心めいたものが宿った訳でも無かったが。
「これで大まかな見当はついた。後は、細かく詰めていく事になるわけだが……」
「で、その細かい詰めってやつがこれになるわけだ」
四日前の記憶を継ぎつつ、いなきは言った。
「実際の情報と、紙面の情報を照らし合わせて齟齬を探す。隠し部屋なり通路なりの痕跡が、そこに現れるはずだ。つまり、これからは足で回る必要がある……」
「一つ、聞いても良い?」
石斛斎が問いかけてくる。いなきは首をしゃくるだけで発言を促した。第三者の視点を得る事には意味があるように思えたからだ。
「六孫王の御所に怪異と病魔が蔓延するって事なら、それが目印になるんじゃないの?」
「それは難しいでしょう。殯宮は、彼の障気を減衰させる場ですから。悪影響は最小限に抑えられるはずです。大殯の儀は何度も繰り返されてきましたので、そうした手抜かりがあるのでしたら今頃九重府側にも知れています」
横合いから〝き〟が口を挟んでくる。四日間の内にいくらか慣れたのか、語りかける声音も未だ棘はあるが、自然にはなってきている。生来が人見知りする娘なので、離れた場所にやる事に不安はあったのだが、杞憂のようだった。
内心の安堵はさておいて、いなきは会話に参加する。
「小さな変化はあるんじゃないのか? その一帯だけ風邪が流行っているだとか。それに、殯宮への移動の時はどうなんだ?」
「その間くらいなら、障気の制御ができるのではないでしょうか」
「それでも、トラブルの一つくらいはあったかも知れない。その辺りも念頭に、聞き込みをしておこう」
あちこちを嗅ぎ回っても目立たないような工夫を考えねばならないな、と頭の裏で考えつついなきは言う。
再び、石斛斎が問うてくる。
「殯宮の探索の算段はついてるようだけど……なら、なんで芙蓉局から受けた仕事をやるつもりなのかな? もう彼女に用は無いんでしょ?」
――強いて、断言するようにいなきは答えた。
「この仕事が一つの楔になるからだ」
「楔?」
「もし、足影秀郷を殺さなかったとしたら、芙蓉局は俺たちへの追手を手配するだろう。雷穢忌役相手なら、奉公衆の〝零番方〟……御寝所番とは比べ物にならない戦闘的な忍を使う口実として十分だ」
芙蓉局の私兵とも言える御寝所番と違い、奉公衆はあくまで深川六孫王府所属の軍事組織だ。方丈梢継を支持しているとは言え、正式な軍令には従うほかない。
「彼の暗殺後は、事情が変わってくる。俺の描いた絵図は、六孫王府の事情に深く通じていないと実行できないと誰の目にも分かるよう整えてある。連中は内通者の存在を確信して動くだろう。芙蓉局は俺たちの存在を隠蔽するか、自ら抹殺するかしか選びようが無くなる」
つまり、この暗殺で彼女の弱味を作る事になる訳だ。
芙蓉局が自分たちの制御を諦め、後者の選択を決意するのには時間がかかるだろう。実行には更に時が必要だ。殯宮を探索する為の猶予期間を稼げる事になる。
「なるほど、なるほど」
石斛斎は、幼児が満点の答案を差し出してきた時のような微笑みを浮かべる。
「まったくの君の都合で、この男は殺される訳だね」
「――そうだ。俺の都合だ」
その皮肉を正面から受けて、いなきは応じた。
「わたしたちの都合です」
横から、冷酷な声で〝き〟が言った。
石斛斎は肩をすくめて、
「どちらでも良いさ。その仕様は、まさしくこの町の侍だよ。大した狗っぷりだ……」
彼の発した言葉は、第三者の視点としてまさに正しく、有益であった。いなきは己がどれほど穢れた存在か、あらためて再確認した。
/
識与二五六年、深川に起きる最大の政変。それに関わる全ての人間にとっての契機となる八月七日は、焼けつくような酷暑だった。
「暑いねぇ」
扇子で顔を扇ぎながら、石斛斎が言う。熱気に溶けたように、たれ気味の眦が更に下がっている。
それを無視しつついなきは欣厭大路を少し東に逸れた支道の一つを歩いてゆく。大小は長屋に置いてきており、装束も町人風に着替えている。出かける前にあやめは「不機嫌なやくざね。近寄りたくないわ」と彼の変装の出来を評した。どうも、この険の深さは取れる事は無いらしい。この顔を真っ当な奥女中候補に見えるよう仕立ててみせた石斛斎の化粧の腕は、かなりのものだったのだろう。
当の彼女は普段と変わらぬ黒い小袖姿で、隻腕の役者が口に上した言葉をやまびこのように「暑いわね」と返している。その横顔には汗のひとしずくも浮いていない。
〝き〟は、いなきと同じく無言のまま、彼のやや後方を杖突きながら歩いている。
「この真夏日で、よくがんばるものだわ」
あやめが道を見渡しつつ呟いた。各所にやぐらや演台の骨組みが組まれており、町人が忙しなく動き回っている。一つの茶屋が軒先に「祭」と書いたのぼりを立てかけていた。
「八幡祭が近いからねぇ」
この場で最も町に溶け込んで見える石斛斎が、物見遊山そのものの調子で説明した。
本通りである欣厭大路から外れている以上、いくらか見劣りするものである事は間違いないのだが、それでも面喰らうほどに賑わっている。喧噪の中、四人はいささか声を大きくして会話しなければならなかった。
「町人は、気を使わないのかしら?」
かつての政府要人の法要がたった今進行中であり、なおかつ首長の死が間近である事を考慮してのあやめの疑問に、石斛斎はにへらと笑って答える。
「お上の事情なんて、知ったこっちゃないのさ。高い税を取り立てて、見返りと言えばどんぱちの火の粉をこっちに飛ばしてくるばかり。気を使う理由なんてどこにもない。武家の連中にしても、この程度は黙認するしかないんだ。民衆のガス抜きは必要だからね。本土だってそうでしょ?」
「そうなの?」
いなきの方を向いて確認してくるあやめ。いなきはその言葉を受け、片眉を上げて怪訝そうにした。
「なんだよ、祭に行った事が無いのかお前」
貴族だろうと忍びで祭の見物くらいはできる。外出しなくても、紫垣城の外側の城壁から高みの見物を決め込む連中は少なくないし、この時期はそうした子女たちが数多いはずだ。深川と本土の共通の事情とやらを確かめる機会は事欠かない。
「ったく、引きこもりも大概にしろよ」
呆れた響きの言葉をもらす。
――ふいに、〝き〟がこちらの姿に目線(というより面の瞳)を合わせた。何かを言いたそうにしている。
「分かってるさ。これは遊びじゃない」
彼女の気分を察して、雑談に参加した事を詫びると、妹は「いえ、あの……」と口ごもった。
「?」
「……そ、そうですね。われわれは祭を楽しみに来たわけじゃないこと、忘れないでください」
内容のとげとげしさの割に力なく言うと、〝き〟はそれきり狐面を正面に向けた。遊び人そのものといった風情の石斛斎を除けば、この中で一番祭を楽しみに来た子供に見える。
やがて目的の場所に辿り着く。――白い裃を着込んだ若い武士が二人、道を塞いでいるのが目印だった。
祭の準備に加わらない野次馬もそこそこおり、彼らに混じるように四人は立った。武士たちは野次馬が増えていく事に露骨に嫌そうな顔をした。彼らの塞ぐ道の向こうには、広い通りが見える。
奥大道という名で、石斛斎の話では、数百人規模の人数で歳城から法要の行われる八幡宮に向かうにはここを通過する以外無いのだそうだ。
「……来ましたね」
〝き〟が言った。それから行進の音が聞こえてくるのに、しばらく時間がかかった。
彼女の知覚が広いのと――行進する武士の一団が、あまりに静かだった為だ。
先頭の神職が大幣を振るい、足踏みをする魔除けの音を除けばそら寒い程に静謐である。この道だけが世界から切り離されているとすら思った。しかし、幽鬼の類では無い。列を形作る人々の目は意志の輝きがあった。儀礼を機械的にこなす怠惰な人間には、決して表れない色が。
上層の人間の思惑は擦れ違っていても、彼らが未那元という一つの家に対して本物の忠誠を抱いている事が分かる。体制を維持する為の方便ではなく、尽くすべき主君として扱っている。
その誠心は畏怖に値した。彼らの信奉の対象を殺す人間として、怯えを催す程に。
「宮司の後ろの男が、方丈梢継だな」
内心で抱いた感想を棚上げして、いなきは言った。祭の喧噪はほど近く、衛視役の武士が、自分たちの組織の大幹部を呼び捨てられた事に気付いた様子は無い。
白蛇の鼻先の位置、と言えばいいのか。後続からやや間を空けて、明らかに上位者である事を周囲に示しつつ行進する男。
兵団の強固な支持を得て分家からのし上がった男にしては、意外な程に平凡な体格をしていた。後方の武士があからさまに屈強な偉丈夫である為に、余計その点が強調される。容貌にしても、後ろで祭の準備をする町人に似た顔立ちのものは数多くいるだろう。
それでいて、不思議な程に目を引いた。彼は、後方の屈強な武士より遥かに目立っていた。
(……力だ)
言い換えれば、確信だろうか。歩む動作一つをとっても、方丈梢継は確たるイメージを持って行っているのではないかとすら思える。彼はおそらく、何に対しても決して曖昧な感情を抱かないのだろう。己の間違いや、能力の欠点を自覚した時であっても誤魔化す事が無い。そして彼の抱く確信は周囲に伝播し、揺るがぬ自信を燃え立たせる。
月並みな言葉だが、カリスマの持ち主なのだ。そしてそれは、才覚よりも、彼の意志の強固さによる所が大きい。
――芙蓉局は勝てないだろう、といなきは確信めいた思いを抱いた。彼女の人心掌握術は一度の邂逅でも怖ろしい程に理解できたが、彼女個人の能力に恃んだ体制は彼女固有の欠点から免れ得ない。そして、欠点の無い人間は存在しない。更に、老いと共にそれは拡大していく。
「……あの人は、哀れね」
歳城の方角を向いて、そう言ったのはあやめだった。どうやら、偶然にも似たような感想を抱いていたらしい。
その言葉の真意は推し量れた。あの老政治家は孤独であり、老い衰えた自分を助けるものも無く、時勢に乗った若者に敗れ去るのだ。
「判官贔屓もたいがいにしろよ」
いなきは感傷も棚上げして毒づいた。通り過ぎていく梢継から目を逸らし、そこから三十列以上後方にいる中年男を向く。
「俺たちが気にするのは、あれだ。人相書きで見たのと同じ顔……足影秀郷だ」
四十を過ぎた頃合いだろうが、肉体は頑健そうだった。そして、あの男にも時勢から見離された衰えが見えた。御門葉の一族に連なり、侍所所司代という要職に就く人間にしては、そのまま六孫王府内の序列を表わすのであろう法要の列の位置も下がりすぎている。眉間に刻まれた皺は深く、人生に敗北しており、それを受け入れる事に耐え難い苦痛を抱いている男という印象を強くした。
政治家としてはそうであっても、武術家としてはまた違った見解が必要な男だった。精強な憑人である事はもとより、武芸に優れた才能を示した男である事は芙蓉局からの情報で知らされている。公式試合では多くの入賞暦があり、外洋での非公式戦――妖魅との戦闘で、現時点までに歩兵級(ポーンクラス)を八機撃破。不可知領域で戦う雷穢忌役の一等武官たちと比べても見劣りしない戦績だった。
(変異する前にカタを付けるべきだろうな)
歩行の安定から彼の武力の充実を確かめて、いなきはそう結論づけた。憑人は、その能力を完全に発揮する為には形態を変異させる必要がある。獣人(セリアンスロープ)の名の通り、彼らは他の動植物の因子を取り込む事で、人外の能力を発揮しているのだ。負傷を最低限に抑えるには、人間態の時を叩くべきだった。
「行くぞ」
いなきは踵を返した。この場で見ておくべきものは全て見た。後は、計画実行の為の準備を行うだけだ。
(まるで、祭の支度だな)
いなきは、後ろ暗い仕事に従事する人間特有の諧謔を弄ぶ。顔つきは面白みとは真逆の強張りに支配されていたが。
剣呑極まる感情をかなりの努力を払って緩め、あやめの方を向いた。帰宅を促そうとしたのだ。
彼女はなぜか「んー」とうなって武士の列を眺めている。
「なんだよ」
「いえ……五日前からそれとなく気づいていたような、それでも気のせいにしたかったような」
要領を得ない呟きを続けて、
「ねぇいなき君、あなた、自分が生まれてこの方の勘違いを発見した時、どうする?」
「あん?」
不可解な質問にいなきは怪訝に首を傾げる。
「そりゃあ……正しい方に変えるんじゃないか?」
「それは正論だけれど、これはこれで気に入っているというか……たぶん、似合わないのよね」
「……何が言いたいんだ? お前」
「こっちの話よ。気にしなくてもいいわ」
結局、何について考えているのか明かさずにあやめは話題を打ち切った。
そうした事はこの女にはよくあるので、いなきも追求はせず、置いておいた自分の用件を持ち出す。
「お前、もう帰れよ。駕籠を呼んでやるから」
「え、嫌よ?」
あっさりと、あやめは答えた。
「今回のあなたの仕事には、わたしもついていくわ」
そして――
「お前の前に立つ奴は全て俺が殺す。俺は、お前の仇討ちを遂げさせる――お前に必ず、父親を殺させてやる」
全ての仕事を終えた後、死体のそばでいなきは妹に誓いの言葉を述べた。
深川へ向かう船上で既に交わしたものを繰り返したのは、己の背を無感動そうに見ている女への当てつけの為だった。
その内心は、苦渋に満ちていた。
(なぜ、関わろうとする)
見ろ。これが俺だ。人に牙を食い込ませる事しか出来ない狗だ。自分の為に人を地獄に落とす恥知らずだ。血の臭いが染み付いた殺人者だ。
なぜ、触れようとする。
人を殺めた事のないお前が、なぜ。