暗闇の中で、男は目覚めた。
何やら怖ろしい夢を見たような気もするが、忘れてしまった。どちらにせよ、夢は夢でしか無いのだから、起き上がった以上現実に戻り、仕事にかからねばならない。彼の給金を払う主人はいかにも気難しく、寝床でぐだぐだと怠けているのを見れば癇癪を起こしかねなかった。
(……あれ?)
その男は先日、死んだような気がする。路上で首を斬られて。いや、毒を盛られたのだったか。寝惚けているのか、状況をうまく把握できない。
何にせよ、ここから出れば全てが分かるはずだ。起きている連中に色々と聞けば良い。男は濃密な暗がりの中で転びそうになりながら、どうにか立ち上がり、歩き始めた。
どうにも、暗い。
夏には光と熱気の侵略を気軽に許す古い屋敷に、このような場所があっただろうか。踏み締める床は石造りで、冷えた感触を足裏に伝える。吹き込む風も冷たい。
(寒い……)
そう思う。しかし、不可思議な事に身体は震えない。感覚がひどく曖昧だった。歩くたびにつまずきそうになる。
壁に手をつきながら、男はどうにか道を進んでいく。
暗い道は歩く事に飽き飽きしそうな程に長かった。あの屋敷は、ここまで広かっただろうか?
休みたい、と思う。
しかし、身体は歩き続けようとする。
おそらくは、誰かに会うまで止まりたくないとどこかで考えているのだろう、と男は結論づけた。身体の自由が利かないと思い込んでいるだけなのだ。自分で自分の動きを制御できないなんて事、あるはずがないではないか。
それに、道は永遠に続く訳でも無かった。やがて扉が見えてきた。脇にかがり火を焚いている。寒気を感じているからか、男の脚は早まる。
安堵の笑みを浮かべて、木戸を無造作に開ける。
中で出会ったのは、〝誰か〟ではなかった。
「……ヒぃッ、あっ、ぎ」
男の口から、かすれた悲鳴が上がる。
そこそこの広さの石室に、血臭が充満している。
一目で、弄ばれたと分かる死体が散乱していた。床に落ちている胴体には、手足と首のついているものは一つとして無い。他にも、針の生えた鉄柱を抱かされた男、逆に身体中から針を生やした老人。穴の空いた臼のようなものに頭を埋め倒れている女もいる。その中身が無事であるはずのない事は、臼の継ぎ目から漏れる血流と、裸体の股間から漏れる糞尿があからさまに教えている。
頭上から、ぎし、という音が鳴り、男はそちらを向いた。
天井から吊り下げられた鉤を頭に突き刺した子供。
鉤に貫かれ、無くなった顔がこちらを見下ろし――男の理性は決壊した。
「ひぃアああアアアアァアアアああぁアアッ!?」
男は拷問場から背を向け駆け出した。
(夢だ)
そうでない訳が無い。
(夢だ、夢だ、夢だ、夢だ、夢だ、夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ)
なぜって、身体の感触が未だに寝惚けたようになっているから。
このまま走り続けていれば、本当の目覚めがやってくる。尿の一つも漏らしているかも知れない。布団の染みを中間仲間が笑って、自分はしょぼくれた朝を迎える。そうであるに決まっているじゃないか。
丁字路に差し掛かって、男は右に曲がろうとした。
そして、身体は左に曲がった。
「あれっ、あれあれあれっ? あレ? アれ?」
不思議だ。やっぱり、身体が勝手に動いている。
そもそも、なぜこうも走りづらいのか。この身体が、自分のものでないかのようだった。何度も転びそうになり、起き上がり小法師のように不自然に姿勢を回復して走らされる。
「ありっ? ありりりっ?」
恐慌のあまり滑稽な響きの笑い声を発しながら、男は立ち止ろうとする。それでも身体は前に進む。
そして男はようやく、誰かと会った。
暗がりに隠れて、顔しか分からない。女の顔だった。涙と鼻水にまみれて表情も歪み、ひどく醜かった。
――ふいに、ぽん、と男と女の間に火が点った。
松明や灯籠の類ではない。何も無い空間が燃えている。男はしばし、その不可思議に我を忘れ、
「ギャアあアアああああああああああああああっ!?」
女の絶叫に、現実へと引き戻される。
女は自分の身体を――手を見ていた。
女のように、細い腕を。
「わ、わたひのっ、うでっ、うでがっ……なんれ、あんたに」
ろれつの回らない声で、女は言った。
その、身体。
ひどく、奇っ怪だった。
裸体の胴は老婆のようにしなびていて、左手は毛深く太い。右手は逆に子供のようだった。
そして、その脚。
見覚えがあるように思えて、仕方が無かった。何度見てもその印象は変わらなかった。
脚の持ち主が誰であるか悟って――男は、女と同じ質の悲鳴を上げた。
『――アア、残念』
唐突に。耳元で、人間のものとは思えない、楽器の音を人の言葉に無理に変えたような声が聞こえてきた。
『人ギョウ劇ハ、コレデオシマイ』
目の前の女の身体が、声の言うように糸の切れた人形じみて落下した。ばらばらの手足、胴体、首がごろりと床に落ちる。
己も同じ有り様なのだろうと直感したのを最後に、男の命も消える。
徽子(きし)が太歳宮(たいさいきゅう)――外では殯宮とのみ呼ばれる祭殿に訪れた時にちょうど、その悪趣味な演芸が行われていた。どうにも、タイミングが悪いですわねぇ、と内心で思いつつも、上品に形作られた顔立ちに表向き変化は無かった。この怪物どもと付き合うには、一欠片も弱味を見せてはならなかったからだ。
「日数(ひかず)さまぁ? 随分と、楽しく遊んでいらっしゃいますねぇ」
皮肉を込めて、眼下の継ぎ接ぎの解けた死体を眺める、ぼろ布で全身を覆い隠した男に告げた。他の連中であれば腕を抱きかかえる小芝居を交えても良かったが、徽子と言えどもこの男だけは厭だった。
あの哀れな犠牲者たちは、通路の頭上が吹き抜けになっており、こうして上空に渡された橋から見物されている事には最後まで気付かなかっただろう。首だけの状態で、視界も誤魔化されていた以上は、知る由もなかっただろうが。
『ウン、楽シイ、ヨ……』
男の感情は、声でしか計りようがない。子供のような笑い声なのだから、子供のように楽しんでいるのだろう。
「――付き合わされる儂は、良い迷惑じゃったがな」
対照的に不機嫌そうな声が、橋の逆側の欄干から聞こえてくる。
「月数(つきかず)さまもぉ、相変わらず、お若くいらっしゃってぇ」
朗らかに応答しながら、徽子は内心で思いきり罵っている。芙蓉局と言いこの女と言い、深川の怪女どもはいとも簡単に老いから解放されている。
「本音が透けておるぞ、歌仙。……見境無く嫉妬するな、鬱陶しい。儂は元服した時の十五の身体のまま、変わらんのが厭わしいわ。かと言って、主の如き淫売の頭目じみた下品な身体になるのは願い下げじゃがの。まぁ、この八百八町には、そのような苦悩を超越する程に長生きしておる腐れ婆もいるが」
本人の言う通り、欄干に背を預けて立つ彼女はどこか人形めいた娘の容姿をしている。ただ表情だけが老獪に歪んでいた。
「いい加減楽隠居といきたいものよ。儂は元来怠け者なのじゃ。同期の西王母めとも気が合わんのは、その為よ。翠書院(すいしょいん)で恥をかかされて以来恨んでおるなどと言われておるが、政であの女に一敗地にまみれて恥に思う程儂はうぬぼれておらんしの」
「そうなされば、よろしいじゃないですのぉ」
面と向かって肉体を揶揄された復讐に、徽子はあてこすりを返す。月数と呼ばれた女は舌打ちして、
「そうもゆかぬわ。比良賀の種はここ数代不作で、八葉に連なるに足る力を持つものがおらぬ。……大宇智家に嫁に出した娘の胎からこの者が生まれるとは、人の生とはまことうまくゆかぬものよ。ま、ひどく趣味の悪い孫に育ったものじゃが」
鼠を使う実験を思い出すような迷路の中で散らばる死体を見下ろしながら、月数は吐き捨てた。
徽子は艶やかな笑みのまま問うた。
「趣味の悪い?」
「そうじゃ。儂はもっと、玩具を大事に扱うわ。この無駄遣いをたしなめぬとは、儂も孫には甘いという事かの」
吝嗇めいたうめきをもらす彼女。それ以外の人間的な感情はどこにも見えなかった。
結局の所、この女も孫と同じ狂人でしかない。この、深川の武門の頂点に位置する八人の全てに言える事だが。
(……おっと、)
もう少しで、自分の有り様に自覚の無い馬鹿女になる所だったと、徽子は自嘲めいた気分に浸る。
(怪物に寄り添うものはなんとやら……あら? 怪物と闘うものは、でしたっけ)
老若男女の肉体の断片を接合されて弄ばれた死体の成れの果て。ああしたものに情欲を誘うものがある事を徽子は認めざるを得なかった。いつの間にか、口紅の味が口内に広がっている。舌が自然とこぼれて唇を嘗めていたのだ。股座にも、ねばついた熱さを感じている。
だが、ここの連中のように欲望に溺れる気は毛頭無かった。徽子はここに仕事で来ているのだから。
「ところでぇ、月数さま? あたくしがここに来る理由、分かっておりますわよねぇ?」
微笑みを浮かべたままの徽子に張り合うかの如く不機嫌さを保って、月数は舌打ちした。
「承知しておるわ。来るのが遅いとすら思うておった。貴様は我ら〝御門八葉〟の監督役。此度の我らの仕様に文句の一つも言いたいだろうて。八葉全員揃えて待たせておる。ま、詫びの意味も込めての」
言葉と反対に悪びれる風など欠片も無く、月数は言った。
無論、一つや二つの文句で済ませるつもりなど徽子には無い。
徽子とて太歳宮の全容を把握している訳では無いが、通された広間が祭殿の中心部にほど近い場所であるとは察する事が出来た。先程の拷問部屋と同じく床は石造りだが、青みがかった光に満たされていて隅々まで見渡せる。一周を回れば軽い運動になる程の広さの中央に、荘厳な鎧姿の、巨大な武者像が置かれていた。彼女の趣味には合わないが、宝物である事は間違い無い。
徽子と共に入ってきた二人を含め、広間の思い思いの場所に計八人が散らばっている。――武者像の足下に立つ青年だけ、彼女の知らぬ人間だった。
白昼夢を見ているかのような焦点の合わぬ瞳を像に向けて、ああ、うう、とうめいている。口の端から涎が垂れ落ち、薄く緑がかった一枚布の白衣を汚しても気づく様子は無い。自我と呼ぶべきものがどこかに消し飛んでしまっているかのようだった。
「彼を、卑しい好奇心で穢すのであれば……貴女は我らの友人ではありませんよ、徽子殿」
気品を体現したかのような音色の声が、横合いからかかってくる。振り返った先にある男の容姿も、声音の示すものを裏切る事は無かった。
身を包む装束は、鎧直垂の類というより西洋のサーコートめいた改造がされていた。瀟洒な金色の縁飾りの施された織物に位負けしない典雅な顔立ちの男。分家といえど、未那元の相であった。
「産衣(うぶぎぬ)さまぁ、あたくしがそのような不作法な女に見えましたのなら、心外ですわ」
この男もまた、日数とは違う意味で色仕掛けをする気になれない相手だった。御門八葉の取り纏めを行う摂州未那元家当主は、腹の底を容易には見せない。口数の多い月数が「同族嫌悪よ」と茶化した事がある。おそらくはその通りなのだろう。
「いえ、私も女性に恫喝めいたものを述べるのは心苦しいのですが。……最も親しい友なのです、彼は。海魔との長き戦で我らが欠けずに生を全うできたのも、彼の働きなのです」
と、産衣は心底の悲嘆を息に乗せて、口から吐いてみせた。
「それゆえ、彼は傷ついてしまった」
「では、この方があの鎮西八郎(ちんぜいはちろう)さま、ですか」
思わず、八葉としての称号ではなく通称の方を漏らしてしまった。
――八龍(はちりょう)こと、鎮西八郎。本名を未那元為朝(みなもとのためとも)。
未那元家が開府をした時から御門八葉を務めてきた伝説の武者。基本的に血筋の下るごとに能力を高めていく憑人の中で数人しかいない例外的存在であり、未だに最強と讃えられる。妖魅(産衣の言うように、海戦を主戦場とする深川武士には海魔と呼ぶものも多い)の女王級(クイーンクラス)――旅団ないし師団の旗機(フラッグユニット)を撃破したのは、当代六孫王大樹の他には彼だけだ。つまり、先代までは六孫王そのものより強力な憑人だった事になる。
奥州未那元家――兄と袂を分かった未那元義経の開いた家に養子として(八龍の方が年上であるので、猶子、つまり手続き上の関係だが)迎えられ、彼の死後も歴代の六孫王に仕え続けている。
確かに、人間性の失せたその顔はよく見れば、産衣すら霞む程の神像めいた相。未那元宗家のものであった(血筋の面では、奥州未那元家は宗家である河州未那元家とほとんど同じものだ)。
七百年も戦い続けたのであれば、精神の摩耗も道理だろう。
「我らは、彼をこのまま太歳宮で安らかに過ごさせてやりたいと思っております。それが報恩というものですから」
「素晴らしい心がけですわぁ」
心底感心したような顔を作って、徽子は産衣を褒め称えた。彼も典雅な微笑を崩さない。やや後方で月数が呆れかえった嘆息を漏らしていた。
「無論彼への恩義とは別に、王の宸襟を安んじ奉る責務も、息絶える時まで忘れる事はありませんが」
「側仕えの同輩として、その誠心を学ばせていただきたいものだと、常々思っておりますのよぉ、あたくしは」
付け加えるような産衣の言葉の内に含まれるものと同じものを声に添えて、徽子は応じた。
「ただぁ……外の方々は必ずしも同意見ではありませんのよぉ」
「仕方が無かったのです」
全く疑いようもなく、その言葉を信じているかのように産衣は即答した。
「暗殺されたかの足影秀郷は太歳宮の警護担当でありました。この場所は秘匿されておりますが、それゆえに我らが表立って警護する事も出来ません。周囲の不穏な動きを秘密裏に取り締まるのが、あの男の御役目でした。それが無い今、太歳宮は裸も同然」
積み木を組んで城を建てるかのように理論を構築して、仕上げに天守閣を置くように産衣は結論を述べた。
「それを意図した暗殺である事は明らかです。これはつまり、我らへの攻撃なのです」
三十六人衆の情報網から得た足影秀郷の背景を考えると、必ずしもそうと断言できないが、彼らの立場からすればそう間違いとも出来ない解釈ではある。
とは言え。
「その報復がぁ、彼の関係者総計四十九人を手当たり次第誘拐して拷問する、というのはちょっとやりすぎじゃありませんの?」
事が終った後、彼らの遊び道具として殺すのも含めて、とは言わなかった。
産衣は貴族そのものの顔を優雅に横に振った。
「心外です。報復でなく、防諜と捉えていただきたかった」
「はぁ、防諜。……ですが、深川武士も中には含まれておりますけれどもぉ」
犠牲者の中に、とも言えなかったので曖昧な言い方になってしまった。六孫王府の連中はそこに大いに刺激されて徽子に文句を付けてきたのだが。――何しろ、秀郷暗殺の調査を行っていた零番が犠牲者に含まれている。虎の子の忍を殺され、奉公衆たちは蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。
「便衣の忍をそうと区別する事は難しい」
産衣の答えは、簡潔だった。
「それに、この件に関して、彼らは全く信用に値しません。足影秀郷の暗殺は、彼の政治的背景、行動様式の知悉を前提条件としなければ成立しないものでした。……我らが王を害する意図のあるものが、六孫王府にいる。やりきれない思いです」
悲しげに目を細める産衣。
「しかし今、心痛にかかずらう暇はありません。内患であるなら尚のこと、排除せねば。その為の諜報活動です」
その表情のまま告げられた言葉に、徽子の内心は全く穏やかでない。
彼らの意志は、六孫王府が最も望まない方向に向かっている。彼らは今後も、内患の排除とやらを目的に積極的に暴力を行使する事を宣言しているのだ。
徽子が反論する事を察している上で、産衣はそれを封じる弁を振るった。
「現在、六孫王府は六弁丸さまの御命守護を第一としております。その点に関して、私どもの申し述べるべき事は御座いません。しかし、我らはあくまで当代六孫王大樹公の近習。奉公衆の守護から王が離れ遊ばされた以上は、むしろその責務は重くなったと考えます。務めを果たす事のみが、深川武士の意義でありますれば、此度の仕儀は当然の事なのです。奉公衆の追求を受ける道理はありません」
彼の政治上の立場を表明したような文言だった。大樹の子である六弁丸は大殯の儀の後すぐに元服し〝龍樹(たつしげ)〟と改名、三年経って喪が明ければそのまま即位する手はずになっている。奉公衆の人間は既にこの名で呼んでいるものも多い。
幼名をあえて使うのは、自分たちが名目上は未だ存続する当代六孫王大樹体制の下に属しており、たとえ龍樹体制を害したとしても六孫王府への叛逆には当たらないと主張する意図があった。
「でもぉ……」
なおも食い下がろうとする徽子。――その直後、彼女の見る産衣の背後に、彼を大きく上回る巨体が現れた。
「貴公ら、腹芸も大概にしろ」
中央の武者像より二回り小さい程度の巨漢は、野太い胴間声を苛立たしげに振るわせた。
「掲げる旗で、義の在処が異なるのは論ずるまでもない常識であろうが。意図が食い違えば後は血を流すのみよ。奉公衆の乱破があの下らぬ拷問部屋にて果てたのは、ひとえに連中が他の者と同じく、我らより弱かっただけの事。弱者が強者の思う通りになるのは当然。我らの仕様が気に喰わぬのなら、なぜ奉公衆は我らを討伐する兵を挙げないのだ。女一人遣わして文句を言うだけとは。それでも武士か!」
最後の方は、むしろ文句に近くなっていた。
「要は、弱いのが悪いのだろうが! 死にたくなければ強くなれ! 後進が我が首を獲る程に精強であればむしろ武人の本懐。冥土の旅路に後顧の憂え無しと、歓喜を以てあの世へ進撃するものである! 以上! 連中に伝えておけい!」
(脳筋ですわぁ)
(脳筋ですね)
なぜか、目の前の産衣とこれ以上なく通じ合ったような気がした。お互い言葉を交わすでもなく、表情に変化も無かったが。
まどろっこしい言い合いになったのが鬱陶しいだけなのだ、この男――足影家当主、沢瀉(おもだか)は。
自分の程近い係累であるはずの足影秀郷が死んでいる事について一言も無いのは、彼が負けて死んだから、それだけなのだろう。
「一応、」
助け船というより、場の混乱を収めるつもりで月数が口を出した。
「儂らは拷問……この際、取り繕いは省くが……以外にも調査を行っており、一定の成果は上げておる」
「成果?」
「下手人の見当がついた。というより、その所属が明らかになった」
楽しむようでいて、粘ついたものも感じさせる声色だった。
「足影秀郷を解剖したが……当然じゃろう? ありゃただの死体じゃ……この殺しの手際は実に繊細よ。憑人の力業ではありえぬ。変異前に殺す事に念を入れている点から、我らの性質についても知り尽くしておる。条件に合致するものなど、奴らしかおらぬ」
そこまで聞いて、徽子も月数の言わんとする事を察した。声音に潜む感情の理由も――先代六孫王の御門八葉の内三人は〝彼ら〟の頭領の手にかかっている。八龍を除けば、唯一彼女は当時から八葉の一員だった。
「雷穢忌役が、深川に来ていると?」
先回りして徽子が問う。
月数の答える前に、それは遮られた――大気の軋みによって。
「いぃい忌みみみみやゃやや役ぅうううう……」
それまでは武者像と徽子たちに背を向け、中空を睨んでいただけの初老の男がばね仕掛けの――壊れたばね仕掛けの――玩具のように振り向き、そして一瞬で彼女らの前に降り立った。既に変異しかけている。左足の先が、蹄の形に変わっていた。
彼の跳躍で砕けた後浮遊したままだった石床の破片が、障気の影響を離れて落ちる。
「ききききゃつめらはははぁっ、どこだ、どこだどこだどこだおおお女、おおおお教えろ、教えろろろろろ」
涎を撒き散らしながら接近する男に、徽子は拝領機関の使用を決意して――
巨大な拳が眼前を通り過ぎて男のいた床に突き立つのを見て、矛を納める。
「ご、ごご、ごめん、膝丸(ひざまる)さん……で、でも、命令、だから」
拳が戻っていく先を見れば、小柄な少年が背を屈めて、後方に飛び退いた初老の男を見ている。卑屈な色で瞳は満たされていた。
「ゆ、許して……ぼくが悪かったんです、ぜ、ぜんぶぼくのせいなんです。先々月鴉の糞に当てられたのも先月犬に小便引っ掛けられたのも今朝のごはんが嫌いな昆布だったのも世界が平和じゃないのもぜんぶぜんぶぼくが悪いんです……」
ぶつぶつぶつぶつと、いつまでも弁解なのやら何なのやら分からない呟きを漏らしながら、少年はずりずりと後退していく。やがて、日の当たらない場所おおお、などと言って広間の端に逃げ込む。
「――うかつだぜェ、産衣の旦那」
からかうように、今まで広間のいかにもどっちつかずといった位置であぐらをかき、事態を静観していた男が言った。
「忌役の話題が絡むと膝丸の爺様がどうなるか、分かってんだろうよ? 客人にもしもの事があっちゃあいけねェだろ? 個人的にも、好い女に傷が付くのはつまらんしねェ」
「あらあら、薄金(うすかね)さまったらぁ」
「なぁに、礼はいらねぇ。……でも、後でその乳、揉ませてくれてもいいんだぜ?」
「うふふ」
徽子は男の要請に鉄壁の艶笑で応じる。ちぇっ、と薄金と呼ばれた男はおどけてみせた。
産衣が嘆息して言う。
「薄金。貴方自身が動けばいいでしょう。楯無(たてなし)に命じて自分は横着する悪癖を直せと、何度も言ったはずです」
「悪いね旦那。俺ぁ大地に根を張るように生きたい男なのよ。それに、俺、確実に〝心中組〟だしよォ。短い余生は好きにやらせてくれや」
剽げて応じてみせると、薄金はその場で寝転がって歌い始めた。「箱根八里はァ馬でも越すが……越すに越されぬ大井川ァ……」
まったく、と呆れたように嘆息を重ねると、産衣は徽子の方に向き直った。
「話が逸れてしまい申し訳ありません。……ですが、お分かりになりましたでしょう?我らが王を害さんとする君側の奸は、事もあろうに六孫王府の大敵と手を組んでいるのです。そのような佞奸が今後六弁丸さまの側に侍る事は、深川六孫王府の未来に禍根ともなりましょう。断じて、撃滅すべきです」
「必ずしもぉ、そうとは言えないのではありませんか?」
徽子の言葉は、事実を根拠にしていた。九重府自体はともかくとして、その麾下にある暗殺者の集団である雷穢忌役については、六孫王府の敵対者と断言するのは難しい。
あくまで彼らの目的は仮想世界の安定維持であり、時には貴族の思惑と明らかに逆行する事もある。
明確な事例は、事情を知るものの間では暴君そのものである未那元元羅暗殺である。当時、深川の大粛正まで決意していた貴族たちを出し抜くようにして、元羅の弟双樹(ふたしげ)公と結託して元羅を暗殺している。当然、事態は秘密裏に処理された為に彼らに見返りは無い。貴族に恨まれ、少なからぬ損害を背負いすらした。
「深川では何かしらの深謀遠慮がぁ、働いているのかも」
「考慮に値しない発言です」
産衣は一言で切って捨てた。
「確かに、元羅公の例など、非常の時に彼らを利用する事もありましたが、大樹公の治世に過誤はありませんでした。走狗を遣わされる覚えなどありません」
「ええ、もちろん、もちろんですわぁ。かの御方が賢君である事に疑いを持つわけではありませんのよぉ」
お為ごかしであった。確かに六孫王大樹は悪政の類は敷かなかったが、特に善い君主であった訳でもない。そもそも、本来六孫王府の政務はほとんど方丈家をはじめとした評定衆が行っているのだ。元羅の暴走以降、その傾向は更に強くなっている。大樹の実権など無いに等しい。
深川にとっての六孫王の存在意義は、権威の象徴――そして、妖魅に対抗する兵器の二つでしかない。
産衣の目が鋭く細められた。徽子は失態を悟る。世辞と現実が、さすがに解離しすぎていた。
尖った声音で、産衣は告げる。
「我らは、己が主君がそうした粉飾のもと、道具として使い潰される様を間近で見てきました。……その最期まで穢すのであれば、深川永代島の全てを我らは敵として扱うでしょう」
気品で満たされた表情の奥に見えたもの、それは正しく怨念であった。
産衣もまた、まさしく仮想世界・八百八町の虚無に触れたものだった。生の実感を他者に求め、依存し、その守護にのみ全身全霊を尽くす。その過程でどれ程の犠牲を払っても一顧だにしない。
彼は、空虚な己を忠義のみで埋め尽くしたのだ。
主君への害意を受けた今、彼はその忠義を怨念として周囲へ振り向けている。
(これはぁ……ムダですわねぇ)
元より勝算の薄いと見込んでいた説得を、徽子は今完全に切り上げた。彼は己の意志を断固として曲げないだろう。他の七人も(魂が半ば以上現世から離れている八龍はともかく)同じだ。
認めたくは無いが、沢瀉が口にした単純な理屈に状況が支配されている。御門八葉の暴走を止めるには、彼らを討伐するしかない。
しかし、少なくとも現時点での挙兵は不可能だ。騒ぎが大きくなり過ぎるし、下手をすれば九衛軍との膠着状態の維持と妖魅侵略への防衛という本来の意義に影響する程に、兵団が損耗する可能性がある。対妖魅の決戦兵力である御門葉家当主、御門八葉の武力はそれ程のものだ。
次代の御門八葉の養成も済んではおらず、月数など大殯の儀完遂後の〝生き残り組〟と目される者は、今は大樹の側についている。何より、前述の理由で彼らは決して損耗してはならない。
彼らを止める手段は存在しない。
(まぁ、主のご命令を全うする事には、不都合はありませんけどぉ)
それでも、彼女は事の成り行きを憂えずにはいられない程には常識的だった。この説得に失敗する事が何を意味するか、察しているのだ。
――日数が何も発言していないのは、既にこの場にいない為である。
沢瀉と膝丸もまた、広間から出て行こうとしている。太歳宮の出口の方向だった。
「儂は行かんぞ。この場で大樹公を守護するのが本来の役目だからの」
「俺ぁめんどいから」
「薄金、少しは言葉を取り繕わんか、馬鹿もんめ」
月数と薄金が軽口をたたき合ってそれぞれ別の方向へ出ていく。楯無は広間の隅にうずくまったまま動かない。八龍はふらふらと夢遊病じみた足取りで、どこかへ消えていこうとしていた。
「やれやれ」
産衣は苛烈な怨念を、再び高貴な表情で覆い隠していた。自分の望む通りの展開になったのだから、そんなものを晒す必要は無くなったという事だろう。
誰の目線からも外れ、徽子は初めて表情を翳らせた。
(町に出たのは日数、沢瀉、膝丸の三人……奉公衆が重い腰を上げるまでに、一体何人死ぬのかしらね)
どう言葉で取り繕っても、彼らの意図する所は一つだ。
御門八葉は、永代島に死と破壊を撒き散らすつもりなのだ。