日が中天に上る頃にようやく、いなきは蝉の鳴き声に乗ってくるかのように押し寄せる熱気に敗北した。ため息をついたのだ。
路上の端に止めた台車の縁に腰掛けて、水筒の水を飲み干す。とうにぬるくなっており、竹の青臭さばかりが際立ちひどく不味かった。日傘を付けてはいるが、酷暑の熱気は影の中にも侵入してくる。
日傘は、買ったのではない。一昨日の売れ残りだった。
(商売ってのは、難しいもんなんだな)
今日の売れ残りは木彫りの人形だった。台車に飾り台と共に五十体ほど積み込まれており、二体が路上に落ちている。関節は一応可動式であるが、逆にそのせいで惨殺死体のような不気味な倒れ方をしていた。
(それなりに力作だったんだが)
日傘も人形も、いなきが自前で拵えたものだった。実用品が売れなければ玩具を、という考えが安直だったのか、結局こちらでも一銭のもうけすら出ていない。
偵察の為の偽装なのだから、行商人になりきる必要は無いとは言え、ここまで実が出ないと気落ちもする。それに、
(聞き込みの方には、不都合が出る)
こうして偽装の上で、永代島南西の各所、特に寺社を見分していってはいるが、外側から観察するくらいしか出来ていない。侵入したとしてもばれれば騒ぎになるし、時間もかかる。周囲の住民の生の声を聞けば、調査は効率よく進むはずなのだ。
この点で〝き〟を頼る事は、魚に空を飛べと言うようなものだった。石斛斎が芝居小屋での彼女の有り様を実に美事な演技で再現してくれた。
『厠はどこですか、おじ』
『……駄目だよ君、女の子がそういう事、男に聞いちゃ』
『なにを勘違いしているのですか、この変態』
『あだだだだっ、この子僕の鎖骨を本気でへし折ろうとしているううっ』
『まったく、いやらしい』
『うぅ……じゃあなんなのさ』
『わたしはいま、おなかが空いているのです』
『?』
『察しの悪い人ですね。見知らぬ土地で、見知らぬ人間しかいないのです。落ち着いて食事できるのはそこくらいのものじゃありませんか』
『堂々と情けない事を言わないでよ』
『ふん。初対面の人間に「こんにちわ」と挨拶できるあなたには理解できないでしょうね。あんな恐ろしい真似を平然とするなんて。もし世間話を切り出されたら、殴り倒して逃走する他ないじゃないですか』
『ごめん。君のその思考回路は確かに理解できない』
『持てる者とはそういうものです。嫉妬のあまり殺意すら覚えます』
『……なんか、暴力だけがコミュニケーション手段として突出した人間って、物凄く迷惑だなぁ』
まぁ、予想できた事ではある。紫垣城でも、彼女の話相手などあやめと自分くらいしかいなかった。十歳からここまで足かけ五年。リハビリ期間を除くとたった四年で憑人に対抗する力を練成する事に成功はしたが、おかげで妹は武術ぼけとでも言うべき病気に罹患してしまったような気がする。
とは言え、自分にも町にうまく溶け込む能力は無かったようだったが。落ちた人形を眺めて、今し方起きた事件を反芻(はんすう)しつつそれを自覚する。
しかし、こんな間抜けな理由で目的を諦めるわけにはいかない。
(どうにかしないとな……)
「――ご苦労さまです」
老人が一人近付いてくる事には気付いていた。しかし、声をかけてくるとは思わなかった。
日傘を取って、軽く会釈をする。相手は簡素な着流し姿ながら姿勢は良く、明らかに武家の楽隠居らしい風情で、礼儀にうるさそうな印象があったからだ。――二度も揉めてはさすがに目立ちすぎる。
「いえ。売れ行きはいささか芳しくなく」
丁重に受け答えると、老人は微笑みながら首を振って、
「あの、やくざ者を追い払った事にですよ」
(見られていたのか)
彼はつい数分前、縄張りを主張し、見かじめを求めてきた侠客をいささか乱暴にあしらった事を言っているようだった。
「下らぬ喧嘩です。ねぎらっていただく必要など」
「子供を守ったのです。十分、ねぎらうに値する。一度目に脅かされた時は頭を下げ、争いを避けていたのを見れば、尚の事」
どうやらこの老人、暇を持て余していたらしい。事の成り行きを全て見ていたようだ。
最初の客となるはずだった子供二人を相手にしていた時、再びあの侠客が現れた。祭も間近になるとよくいる手合いで、昼間から酒気を帯びていた。癇癪を起こして子供に殴りかかろうとしたので、叩きのめす羽目になった。派手な行動は慎みたかったというのに。
「それにしても、あの子たちには困ったものだ。救った相手に怯えて逃げ出すとは」
路上に落ちた人形を見て、憤慨しつつ彼は言った。
「暴力の本質ですよ。突き詰めれば、大判小判を手に焼野が原に佇む羽目になる」
「一介の若武者が、儚い事を仰る」
いなきはその言葉を聞いて、老人に対する警戒の度を強めた。町人の偽装をしている以上、表道具は持ち込んでいない。台車の奥に隠しておく事も考えたが、咎められれば言い訳が利かないので諦めた。
もしこの男が芙蓉局なり奉公衆なりの遣わした密偵なら、素手で倒さねばならない。
「おや、違いましたか? あの身のこなしは、名の知れた流派にて学んだものとお見受けしましたが」
いなきの内心に反し、老人が好好爺然として問うてくるので、抱いた警戒をやや弱めつつ答えた。
「町人かも知れませんよ。分かるでしょう? 市井にも玄人はだしの武芸を遣うものが多い」
「ええ。武士が身内の争いにかまけて役目を果たしていない証です。嘆かわしい事だ」
九重府、六孫王府ともに警察力にさほど力を入れていない事を皮肉りつつ、彼は言った。
「それはそれとして。市井の武術は護身、娯楽といったもの。そこもとの技は、正真正銘、戦場に立つ為のもの。老体ながら、目は見えるのです」
「お見それしました。……ただの素浪人です。主家の改易を受けて町に住み処を得ました」
こうした場合に詐称する経歴を使って、老人へ応じた。本土、深川の区別無く、権力闘争の結果生まれる浪人たちは八百八町が慢性的に抱える病だ。どこにでもある話を、わざわざ疑ったりはしない。
現に、老人は自身も似た記憶がある事を思い出すように、首を頷かせた。
「お若いのに、哀れな事だ」
「まぁ、身体は動きますので。どのようにでも暮らしてゆけます。妻にはまだ子もありませんし」
「奥方がおわすのか……」
余計な事を言ったかも知れない。老人は黙り込んで、何事かを思案しだした。
「ふむ、ふむ……ん?」
こちらを無遠慮に観察して、老人が最後に目を止めたのはいなき自身ではなく、その腰掛ける台車。正確にはそこに立てかけられたのぼりだった。
「この字は、そこもとが?」
「ええ」
こちらの答えを待たず、老人はのぼりに近寄り、人形売りますといった平凡な文句を食い入るように見つめている。
「御家流(※公式書体)とは、違いますな」
「主が考えました。まぁ、形見のようなもので」
「そうですか……いや、これは、中々面白い。味のある字だ」
最後にそう言うと、のぼりからようやく身体を離して老人は言った。
「仕事を紹介しましょう」
唐突な提案に、いなきは面喰らう。
「は?」
「大小差しで歩く事を憚る事も無く、特に今の時期はそれなりの儲けになる……どうだろうか」
「申し訳ありません……どうも急な話で、よく飲み込めず」
「おお、これは失礼した」
慌てて老人は詫びる。
「某(それがし)は、榊原と申す者。致仕(※退官)してここに根付いてより長いもので、この辺りの町人には鶴翁(かくおう)とのみ呼ばれております。……ほら、そこもとと同じ」
鶴という徒名の理由は分かりやすかった。頭頂部の毛だけが赤毛なのだ。彼の言葉は毛髪の色合いが一風変わっているもの同士、という意味なのだろう。
それがとっておきの冗談であるかのように笑うと、鶴翁は次の句を継いだ。
「寺子屋を営んでおります。そこもとが救ったのは、某の筆子(※生徒)です。改めて礼を言わせて戴きたい」
「……いえ、大した事では」
そういう事か、と得心しつついなきは答えた。
「謙遜なさるな。某は、借りを返したいのです。まずは話だけでも聞いてもらえぬか」
礼というより、要請のような口調だった。それなりに強引な老人のようだ。
いなきは折れて、「分かりました」と答える。鶴翁は破顔してついてくるよう促し、歩き出した。武家の者らしく、矍鑠(かくしゃく)とした足取りだった。
その足をふと止めて、彼は聞いてきた。
「そこもとの名を教えてはもらえぬか」
「立花です」
事実を一部まじえていなきは詐称した。いなき自身は百姓の出だったが、祖父の代に帰農するまでは武士だったのだと言う。立花とは、その頃の祖父の姓だった。
鶴翁は、続けて問うた。
「よろしければ、主の名も教えてもらえるだろうか。これでも顔が広かったのだ。知人かも知れぬ」
ほがらかで、何のてらいも無い老人の顔を見て、いなきは答える。
「――本庄左近……咲耶(さくや)様です」
老人はしばし考え込む仕草をして、
「すまぬが、寡聞にして存じ上げぬ」
「いえ。分かっていた事ですので」
「それで、のぼりの字書きというわけね」
囲炉裏の中の鍋の具合を見つつ、あやめは言った。
「ああ。……なんだか、渡りに船って感じがし過ぎて釈然としないが」
鍋座の彼女の右側、横座に腰掛けたいなきは答える。
実際、鶴翁の提案はいなきの窮状に見事に合致するものだった。
八幡祭の規模は永代島全土に及ぶもので、出店は各所に存在する。当然それは、寺社内とその門前町に集中している。出店ののぼり書きというのは、情報を得るのにうってつけだ。神職、僧侶と会話する機会もあるだろう。浪人という事で話がついているので、帯刀していても不自然が無い。
鶴翁の顔の広さは、さっそく午後から始まった仕事で十分に理解している。寺小屋の師匠の癖に、彼は的屋の類とも繋がりがあった。一言二言で仕事の契約を取り付け、日が暮れるまで働かされた。その上明後日まで予約を入れられている。
「明日は早朝から行く事になった」
「そう。お弁当は腕によりをかけるから楽しみにしていてね、だーりん」
「そのいかがわしい新妻キャラをやめてくれればとても良い提案なんだが……」
鍋の匂いを嗅ぎながらいなきは言う。夕食は魚のあらと味噌と、いくらかの野菜で仕立てた汁物と、浅蜊を加えて炊き込んだ飯。深川町人の普段の献立そのもので、この長屋に滞在して以来こればかり食わされているが飽きが来ない。味付けを毎回変えているのだ。
この女は普段より、なぜか貴族のくせに奉公人一人雇わず、家事の全てを自分で行っていた。他に趣味として室内庭園を持っているが、こちらの草花の世話にしても人の手を借りない(いなきや〝き〟は何度か手伝わされたが)。彼女の好みではあるのだろうが、普通は好む好まぬに関わらず下人に任せるものだ。貴顕の常識に明らかに反している。貴族とは、人を使う事で内外に己の貴さを示すものだ。
おかげで夫婦の偽装に役立っているとは言え、不可解だった。
「なぁ、お前――」
「良いこと、だと思うわ」
菜箸で鍋をかき混ぜながら、あやめはふと漏らした。
「あなたの字、わたしも好きだもの」
「……何も出ないぞ」
あぐらをかいた膝を揺すりながら、いなきは顔を逸らした。あやめはこちらを見もせずに言ってくる。
「行商とか向いてなさそうだったし。……その話のやくざ者に絡まれたとき、あなたなんて言われたのかしら」
「……知らん」
「てめぇどこのシマのもんだ、とかかしら」
いなきは沈黙した。一言一句違わなかった。
「眉間に皺が寄ってるからよ。寝顔は可愛いのに」
「気色の悪い事を言うな。俺は男だぞ」
「あなたって、妙な所で古臭いわね」
呆れたように漏らすと、あやめは椀にあら汁を注ぎ、飯の椀と共に盆に載せて差し出してくる。
受け取って、箸を付ける――
ふと、気づく。
今のやり取りが、あまりにも自然であった事に。まるで本物の夫婦であるかのようだった。
――裏切りだ。
「全て、偽物だ」
椀と箸を置いて、いなきは言った。
「得た仕事も、お前とこうしている事も、全てが虚構だ」
線を引かねばならなかった。自分と、彼女の距離を知らしめねばならなかった。
あやめは一言。
「そうね」
彼女が、いなきの言い分にすぐ同意するのは、珍しい事だった。
手を動かすついでのように、彼女は会話する。囲炉裏に砂をかけ火を消しつつ、
「所詮は期限つきのお芝居。夢にはいつか終わりが来る。忘れないように、しなければね」
「おい、義助が日に当てられた! 日陰に運ぶぞ!」
深川熊野神社の境内では、祭の準備も佳境に入った所だった。金槌の音や怒号の飛び交う中だとこちらも声を張らねばならなかった。
担架を呼んでは時間がかかりすぎる。ぐったりとした大男を火消担ぎ(ファイヤーマンズキャリー)で社殿の影に運んで下ろす。男の的屋仲間から冷や水を受け取って、ゆっくり飲めと指図しいなきはその場から離れた。
「さっすがお武家さんだ。鍛え方が違わぁな」
「うるせぇ一守、字書きに手汗をかかせんなってんだよ」
櫓の側に設えた足場から声を掛けてくる鳶の男に、大声で返す。
男はかっか、と笑ってから近場の弟子をひっぱたく。木材を地面に落として割ったからだ。
「てめぇ! 深川で木ぃ割るってなぁてめぇのドタマかち割るのと同じって、何度言やぁ分かんだ!」
頭領の癇癪に、細い足場で器用に土下座する弟子。
あの男の言い草はいささか大げさだが、全くの嘘でもない。そこそこ手広な島に過ぎない深川では、木材を自前で調達する手段が無い。植林するには領地が不足しすぎている。
九重府とは敵対しているので、中立の品川から輸入するしかないのだが、彼らは商人である以上算盤勘定に容赦が無い。深川の材木の価格は本土より遥かに高騰している。
――軍事政権の常で、六孫王府はこうした時常に、町人の困窮に追い打ちをかける。
彼らが希少な材木を軍船の資材として独占した為に、民間で手に入れるには更に金を積まねばならなくなった。
そんな状況下、深川の材木問屋が細々と買い込んだ木材をこの時期に放出する事で、この祭典は成り立っていた。それでも資材は毎年不足し、自分の家を解体して屋台や櫓を組むような連中すらいる。
それを不可解と思ってしまうのは、いなきがよそ者だからなのだろう。
(大した盛況っぷりだ)
参道の端に佇んで、手ぬぐいで汗を拭いつつ周囲を見回す。人いきれで夏の熱気に拍車がかかったかのように暑かった。そんな中、男も女も汗みずくになりながら働いている。
「――いささか、面喰らうでしょう」
声を掛けてきたのは、鶴翁だった。周囲に彼の生徒らしい子供たちがまとわりついている。
「ええ、少し」
会釈を返しつつ答えれば、老人は若返ったように笑い、
「年に一度きりの楽しみなのです。思い切りやらねばつまらない」
「そういうものですか」
「そういうものです。仕事は、お済みのようですな」
周囲ののぼりを数旗見て、鶴翁は言った。二割ほどがいなきの書いたものだった。残りは古株の書家の師匠が書いている。
かじっただけのにわか書道家にしては上出来、というより本職の人間に申し訳ない気分になるくらいだった。
「すぐ、次の仕事にかかれます」
「お若いからか、そこもとはややせっかちですな」
催促のつもりで言った言葉を、やんわりと非難する鶴翁。
彼の言う通り、いなきは焦っていた。そしてそれは、彼の思慮の範囲外の理由によるものだった。
――殯宮の探索はいっこうに進まなかった。
既にこの仕事に就いて三日が経過しているが、訪問した場所で実のある情報は得られていない。予想された、周辺の町人の体調不良なども確認出来なかった。
永代島南西部の探索を、早く終える必要があるといなきは感じ始めている。
(当初の推理が外れていたとしたら……計画を練り直さないと)
いつぞや石斛斎の言っていた事が、正解だったのかも知れない。残り一月足らずと余命が定められているとは言え、六孫王は国家元首だ。祭礼の規則より警護の利便性を優先していたとしても、全く不思議ではない。
(一から出直すとしたら、もう猶予は無い)
大殯の儀の期限だけでなく、芙蓉局の忍耐力も考慮しなければならない。彼女が指定した会合は既に放置している。暴走の意図を感じ取ったはずだ。彼女が自分たちの暗殺を決断するのが明日でも、今この瞬間であってもおかしくないだろう。既に背後にいるかも知れない――
「痛っ」
後頭部にちくりと刺さる感触に、我に返る。
「しけたツラしてんなよ、兄ちゃん」
鶴翁の連れの子供の一人がいつの間にか背後に回り込んでおり、手に持った風車を振り回している。他にも帯に数本差し込んでおり、その内一本を投げつけたのだろう。
「これ、蒲(がま)」
たしなめる鶴翁に舌打ちで返し、蒲と呼ばれた子供は本殿の方へ逃げていった。
「申し訳ない」
「いえ……」
頭を下げる鶴翁へ、そぞろげに返す。いささか自虐的な気分だった。子供に背後を取られるとは、よほど余裕を無くしていたらしい。
「あの子には、祭で思い切り遊ばせてやると、毎日の粗食を我慢させていたもので」
「……耳が痛いですね」
実際には皮肉として差し出された言葉に、苦笑しながらいなきは答えた。そして、その背景にあるものに気づく。
「あなたが養っているのですか?」
あの子供が鶴翁の子でない事は明白だった。年が離れすぎているし、何より渡来人らしい彫りの深い顔立ちをしており、髪の色も明るかった。
ええ、と老人は頷く。
「数少ない自慢だが、某はそこそこに顔が広い。あの子の両親とも知己だった」
彼が過去形を用いた理由は、問うまでも無かった。
「父親が渡来人として差別を受け、ろくな職を得られなかった。母親は病を患っていた。六孫王府が重税を取り立てた。……そのどれかが無かったら、父親が武家の蔵に盗みに入った咎で刑死する事も無く、あの子は今も両親の側にいただろう。この町には、不幸が多すぎる」
過去を中空に写して鑑賞するような目つきで、鶴翁は語る。
そして、下らぬ不幸自慢です、などとおどけるように前置きして、
「某の息子は十年ほど前、海で死にました。武功を挙げれば再び仕官させてやる、と言われて。馬鹿な男でした。死に様も間抜けなもので、海魔ではなく、王の鬼の力に祟られたのだそうです」
鬼の力とは、障気という毒気の一般に流布された表現だ。特に六孫王の出陣した戦の情報は九重府には隠蔽されているが、隠しようもない――深川武士の死者数については知れている。
彼らのほとんどが生き残らない。妖魅の攻撃はもとより、鶴翁の言ったように、六孫王の障気に中てられて死ぬ事も多い。
歳城の武士たちが命を惜しんでいる訳では無いのだろう、無いのだろうが――彼らが死にすぎては六孫王府が機能しなくなる。
結果として、六孫王の近習は障気に耐えうる憑人か、正式な武士以外の傭兵で構成される。彼の息子も、その一人だったのだろう。
「何をそれほどに焦っていたのかは分からぬが」
老人が主語を抜いて発言した理由は、察する事が出来る。
「耐えよ――その一言だけ教えてやれば良かった。今でも某は、悔やんでおる」
老人は半ば、こちらに語りかけていた。
刃向かうように、いなきは答える。
「耐えて……事が都合良く回るわけでもありませんよ」
「左様。しかし、若者は時に地獄を前にしても進もうとする」
老人が最後に口にした言葉は、やはりいなきには受け入れがたいものだった。
「その後ろ姿は、人が見れば哀しみしか催さないのだ」