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No.36842の一覧
[0] あやしや/いなき 六孫王暗殺篇【サイバーパンク剣戟】【完結済】[沖ハサム](2013/03/25 13:08)
[1] プロローグa/兄妹契約[沖ハサム](2013/02/28 20:26)
[2] プロローグb/殺(あや)し屋[沖ハサム](2013/02/28 20:27)
[3] 1a/仮想世界・八百八町[沖ハサム](2013/02/28 20:28)
[4] 1b/妖姫・鎚蜘蛛姫[沖ハサム](2013/02/28 20:28)
[5] 1c/三十六人衆[沖ハサム](2013/02/28 20:29)
[6] 1d/凶手[沖ハサム](2013/02/28 20:29)
[7] 1e/仮痴不癲[沖ハサム](2013/02/28 20:30)
[8] 1f/契約再認[沖ハサム](2013/02/28 20:30)
[9] 2a/芙蓉局[沖ハサム](2013/02/28 20:31)
[10] 2b/深川永代島[沖ハサム](2013/02/28 20:31)
[11] 2c/女帝[沖ハサム](2013/02/28 20:32)
[12] 2d/暗躍の方程式[沖ハサム](2013/02/28 20:33)
[13] 2e/御門八葉[沖ハサム](2013/02/28 20:33)
[14] 2f/好々爺[沖ハサム](2013/02/28 20:34)
[15] 2g/仇敵(師匠)[沖ハサム](2013/02/28 20:34)
[16] 2h/迷走[沖ハサム](2013/02/28 20:34)
[17] 2i/劫火[沖ハサム](2013/02/28 20:35)
[18] 2j/剛刀介者[沖ハサム](2013/02/28 20:35)
[19] 2k/復讐鬼[沖ハサム](2013/03/03 17:54)
[20] 3a/心の分解[沖ハサム](2013/03/01 20:17)
[21] 3b/戦姫[沖ハサム](2013/03/02 21:55)
[22] 3c/少年の矛盾[沖ハサム](2013/03/03 18:08)
[23] 3d/食人貴人[沖ハサム](2013/03/03 18:12)
[24] 3e/隠棲射手[沖ハサム](2013/03/03 18:23)
[25] 3f/転がる石たち[沖ハサム](2013/03/03 18:22)
[26] 3g/遭遇[沖ハサム](2013/03/05 11:48)
[27] 3h/鵺(キマイラ)[沖ハサム](2013/03/18 01:32)
[28] 3i/家族[沖ハサム](2013/03/09 00:42)
[29] 3j/最終戦、開始[沖ハサム](2013/03/15 21:46)
[30] 3k/貴種流離[沖ハサム](2013/03/16 06:40)
[31] 3l/決着[沖ハサム](2013/03/16 20:31)
[32] 3m/鬼哭啾々[沖ハサム](2013/03/17 18:20)
[33] エピローグa/離別[沖ハサム](2013/03/17 07:24)
[34] エピローグb/黄金の季節[沖ハサム](2013/03/17 14:53)
[35] そして[沖ハサム](2013/03/17 14:54)
[36] 後書き[沖ハサム](2013/03/18 01:24)
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[36842] 2g/仇敵(師匠)
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0 前を表示する / 次を表示する
Date: 2013/02/28 20:34
 半壊した道場のそこかしこから漏れてくる陽光を浴びつつ、いなきは呼吸を整える。
 懐から一文銭を六つ取り出して、中空に放った。
 初太刀――抜刀。
 逆袈裟に振るわれた一刀が銭の一枚を擦るように弾き、近くの銭を打ち上げる。陰刀も背後で同じように銭を弾いている。

 今回の型稽古の基本は無外流を選んだ。陽刀は五応の野送りから五箇の響返しに続いて、五応玉光に戻る。陰刀は両車、胸尽し、本腰。銅銭と刀刃の触れあう音ばかりが道場を満たす。足音と呼吸はそれらより遥かに薄い。
 陰中陽、陽中陰で両刀を交叉させ――型から独立する。真・行・草の順序のみを決めて太刀筋は筋肉の動きと相対する敵のイメージに任せた。強大な敵、身体を人外の異形へと変じる憑人。奇襲で仕留めた足影秀郷を想定していた。あの男は百足の憑人だった。強固な皮膚を持ち、斬撃を恐れず膨脹した筋肉を思うさま使って斬りつけてくる。

 数合の太刀打ちの後、真っ向唐竹割に斬り込む秀郷の頭上へ飛んだ。
 走り高跳びの要領だ。膝を屈めずに強く地面を蹴りつけ、筋力の伸張反射で高い跳躍力を確保する。跳蚤(ハノミ)――師の考案した歩法。
 中空で身を翻し頭上を取ったいなきは、秀郷の皮膚の隙間の首筋に陰刀を刺して消えた。止めの陽刀は、地面を這うように進みつつ足下から腹を斬りつける横薙ぎの太刀。
 手の内の締めで、中空の思い通りの位置に静止した黒刃の上に、六枚の一文銭が直立している。

(最後、左手を斬られたな)

 攻撃のみを念頭に置いた太刀は勢いがある。その速度に対して回避が間に合わなかった。憑人の膂力では切断されたかも知れない。手早く縫合すれば、蠱業遣いのコードハッキングで元に戻る公算は高かったが、回復までの時間はハンデを背負う。一人で闘わなければならない以上は、見過ごせるリスクではなかった。

(……あの男は、真っ当に戦って死にたかっただろうか)

 常在戦場などとは言うが、そんなものは不意を打って勝利を盗んだ者の為の理屈でしかない。敗死した者が怨念を抱くとしても、不当とは言えないだろう。全力の太刀打ちの末の死であれば、武人としては納得の上の――

(……いや、)

 自分を慰めようとしている事に、いなきは気づいた。

(あの男は、死にたくは無かった。そうに決まっているだろうが)

 ちぃん、と一文銭が六枚、床に落ちて倒れる。



 その後いなきは、納刀したまま四半刻も動かなかった。目の前には蜘蛛が一匹、天井から垂れる糸にぶら下がっていた。

「居合の利とは、なんだろう」

 平ら、という印象の声が聞こえてきた。師の、蠱部尚武の声だった。
 蜘蛛の糸を挟んだ先に、半年ほど前の彼の幻を想定する。おそらくは八百八町最強の武人であろう男の外見には、武力を仄めかすものを一片も見出す事ができない。娘が図書館の主なら、この男は司書のような風貌だった。どこにでもいる、特徴の無い男。

 この男を非凡たらしめているのは、実績のみだった。どこの誰にも、決して敗北しない。忌役の同輩であろうと憑人であろうと妖魅であろうと、確実に勝利する。
 だから、闘争の場以外では、ただの男にしか見えなかった。

「本来この技法は、平時、屋内という限定状況でのみ活用されるものだった。考案したものがそう想定していたのだ。小刀で暗殺を企図するものに太刀を手早く抜き放って対抗する為に」

 講釈するように弁を振るう尚武。そしてその声は、どこか生徒を退屈させる響きがあった。

「つまり、互いに闘争を合意した状況での使用は考えられていない。どうしても不利になってしまう。出所が鞘内に限定されれば太刀筋も限られてくる。一般に、鞘の左側が弱点とも言われる。……まぁ、それは工夫をつければどうにでもなるのだが」

 その工夫とやらについては、何年も前に教えられている。そもそも、いなきが居合を表技として用いる事を決めた時に、彼は似たような事を語っていたはずだ。
 それきり、尚武は沈黙した。何か言い出すのをいなきが待っていると、彼はふとぼんやりした声で訪ねてくる。

「いなき君、質問に答えてくれまいか」

 どうやら、最初の話は質問だったらしい。どうも話の組み立てが曖昧な所が、この男にはあった。弟子らしい顔を作って、いなきは答える。

「……先程師が述べた通り、暗殺の対抗手段です。好例は荊軻(けいか)による秦の始皇帝暗殺未遂」

 荊軻という刺客は、匕首を凶器として殿上で始皇帝に斬り掛かった。護衛は殿上に上がる事が許されていなかった為、始皇帝自身が彼に対処せねばならないが、彼の帯剣していた剣は鞘に引っかかって抜けなかった。
 始皇帝は周囲の助言により剣を背負ってようやく抜刀できた。匕首と剣の間合いの差の為に、荊軻はあえなく斬殺されたという。

「これは、間合いの有利不利以外にも、一人だけ凶器を使う自由を得た荊軻の油断があったと考えられます。どうにも皮肉な話ですが、刺客というのはその気の緩みを中々捨てられません。こうした隙を奇襲するのが、居合術の利点です」

 非戦闘態勢の人間を見て、自分が負ける可能性を考えられる人間はそうはいない。古今東西数々の暗殺作戦が失敗に終った原因のほとんどが、そこに帰している。
 いなきの解答を聞いて、「うん、うん」と全く師匠らしくなく尚武は頷いた。

「模範解答だ。……だが、君は戦時にこれを用いている」
「蠱業の特性上、そうせざるを得ません」

 相生剣華は、納刀状態からでないと重ね合わせを発動出来ない。他者の観測から離れていないと刀刃の座標が固定されてしまうのだ。それは蠱部尚武、〝き〟の使う量子化刀法全般に言える。〝き〟は人の目で判別できない極めて微細な変化を基本単位としてあの〝刹那生滅〟を使うし、蠱部尚武の〝蜉蝣(カギロヒ)ノ揺(ユラギ)〟にしても同じだ。

「では、君は、使えない道具と思いつつそれを使っているのか」
「使い勝手をよくする工夫は常に考えていますが」

 当人には皮肉のつもりでないだろう文句に、素っ気なく答えた。蠱部尚武は首を振って、

「探求心を忘れてはいけない。術理なるものの鉱脈が掘り尽くされているという誤解が、現実史における古武術の衰退を招いたのだから」
「はぁ」
「とは言え、私一人ではこの謎に解答する事は難しい。完成された数理に別解を求めるようなものなのだから」
「こと武術に関して、師に解けない謎があるとも思えませんが」
「買いかぶりだ。私は武術なるものを未だ半分ほどしか理解していない。他の者が、一割も理解していないからそう見えるだけだ」

 当人にとっては自慢のつもりではないのであろう、あっさりした口調で尚武は言った。一割未満の連中の一人としては、文句の一つも言いたい所だが。

「あらゆる道において、極みに達したと思うような事はおよそ錯覚に過ぎない。肝に銘じておくといい」
「はっ」
「なので、私は同じ事を娘に聞いてみた」
「師よ」

 いなきは手を上げて蠱部尚武を制止した。

「あやめは素人ですが」
「だが、娘は色んな事を知っている。この稽古着のどうしても落ちない染みも、彼女がどうにかしてくれた。私が彼女とトランプで遊ぼうとした時も、「トランプは一年三六五日を表わしたもので、ジョーカーの二枚目は閏を意味するのよ、お父さん」と教えてくれた」
「その後あいつはトランプ遊びに付き合ってくれましたか」
「いいや」

 首を振って、尚武は答えた。信じがたい事に、体よく煙に巻かれて袖にされた事には気づいていないようだった。

「ともかく、娘は博識だ。われわれのような専門家は固定観念に陥っているかも知れない。素人の意見と、蔑ろにするのはいけない」
「そうですね」

 いなきの棒読みの返事に、「うん」と尚武は頷き、

「彼女が言うには、鞘の内で滑らせる事で斬撃が加速するとの事だった」
「師よ」

 いなきは再び制止した。

「それは……おそらくあいつの読んでいた漫画の話です」
「そうなのか? 鈞天垣の書庫にはそういうものもあるのだな……」

 今の話を理解していないのか、尚武の感心しきったような顔には翳り一つ無かった。むしろより深まったようにすら見えた。

「ともかく、私はその理論を試してみた」
「試したのかよ」

 思わず敬語を忘れて突っ込んだ。

「うん。摩擦が物体の運動に利するという理屈がどうにも不可解だったが……何しろ娘が「かっこいい」と評価していたのだ。私はそのような簡潔でかつ美しい言葉を彼女から貰った事は無い。家では「飯、風呂、寝る」ばかりしか言ってくれないのだ」
「……普通、それは父親の言う台詞のように思えますが」
「五年ほど前までは「お父さん、食事を取りなさい」「お父さん、入浴しなさい」「お父さん、就寝をするといいわ」と言ってくれたのだが、近頃それも短縮気味で」
「同情したくなるような事を言わないでください」

 別段悲しげでもない尚武の表情がむしろ哀れだった。
 彼は拳を握りしめ、振るわせる。この男も娘と同じように、こうして感情を表に出す事は少ないのだが。
 力を込めて、言った。

「私は、娘にかっこいいと言われたかったのだ……」
「それで、結局どうなりました」
「鞘を駄目にした。気に入っていたのだが」
「馬鹿じゃねぇのかあんた」

 つい反射的にそう言ってしまった。

「ともあれ、私はその後しばらく居合術の理合を考察するようになった。娘の言葉をきっかけとして」

 何があっても娘を褒めそやしたいらしい八百八町最強の男は、そう言って腰の刀に手を掛け、
 一瞬後には、いなきの視界から消えてみせた。
 全身の震えを抑えつつ右に向き直ると、彼が鼻先に刀を突きつけているのが見える。

「跳蚤や飛蝗(ヒコウ)といった足技を君はよく使う。このように、視界から脱出すれば容易く奇襲できるからだ。視力に長じている君ならではの発想だな。居合術との相性も良い。納刀のままの方が刀を手で持っている状態よりも運動の自由が利き、速度も確保できる」

 やはり生徒を退屈にさせる講師のように語りながら、尚武は納刀した。

「だが、これはある種の憑人など、知覚に優れたものには通用しない。身近な例では君の妹だ。そして、この戦術に嵌り易いのが君と同じ視覚恃みの武術家だ。一眼二足三胆四力……安直な理屈だ。容易に崩せる」

 隔絶した実力を持つものに許された無自覚な傲慢さを見せてから、尚武は次の句を継ぐ。

「この戦型には欠点がある事を、君は自覚しておきなさい。使用を禁じはしない。だが万能ではなく、有能とも言い難い」
「俺は今、あっさりと奇襲を受けましたが。しかもフェイクも交えない、単純な飛蝗でした。俺個人の欠点のみが理由であるとは考えがたいです」

 挑戦的な口調でいなきは反駁する。

「それに、師の武術は虚を突く事が全ての技法の根幹にあります。俺の戦い方はそれに則っている」

 跳蚤や飛蝗などの緩急をつけた移動の他にも、切っ先で目線を誘導し、自身は視界の外に逃れる誘蛾刀、腹筋を操作して見かけの歩行から予測される方向とは逆に移動する水馬(スイバ)など。力頼みの荒武者にはいかにも影の者らしい卑劣な技、と評される技術を、いなきは尚武から教わった。いなきは抵抗を覚えなかった。そうした力頼みの荒武者を、尚武が埃を払う程の労力で仕留めるのを見ているからだ。

「児戯だ」

 それを今、尚武本人が切って捨てた。

「ふむ……これは私の失敗だな。まずは生存を第一の目的とした為に、表面的な技術の伝授に終始してしまった……このような誤解を招いてしまうとは」

 ぶつぶつと、独り言のように述べる。見下されている、と感じていなきは歯噛みする。しかもそれは、尚武の感情に由来する優越感ではなく、いなきの能力が彼の要求に達していないという、ただの事実によるものだった。
 尚武は言った。

「誤解、誤解なのだ。君は、虚を突くという事について、誤った認識を抱いている」

 地球が回転している、というような事を無知な子供に教えるような口調だった。

「虚実、とは意識に生じた1と0なのだ。それは、視覚の内外といった狭い概念ではない。もっと、広範に適応される」

 例えば、と彼は切り出した。

「たった今私の頭上に隕石が降ってきたとしたら、私はあっさりと死ぬだろう。たとえ、ふと思い立ってそちらの方角を見ていたとしてもだ。そのような事象を想定していないのだから」
「……からかってるのですか?」
「そう受け取るのか? しかし、それは度外視しても良い程低確率とは言え、起こりうるのだ。運命の裏切りを考慮しなければ、不慮の死を免れ得ない」
「しかし、そこまで考えていたらキリがありません」
「そうだ。人はそこまで考えない。脳神経の処理能力の限界なのだ。その縛りは、この仮想世界における人間の再現度が完全である以上、われわれにも当然適用される。全ての事象に対して実感し得ない。刀刃を携えて敵と対峙した時も」
「戦いの際に人は集中を高めます」
「それでも不可能だ。外界を完全に認識する為の情報量に対して、意識という資源(リソース)はひどく小さい。虚は無数に存在する。力の想定、速度の想定、間合いの想定、技術の想定、運命の想定……それらに存在する虚を突かれた時、誰であれ確実に敗北する。逆に言えば、勝利とは全て、虚を突くという事なのだ」
「つまりは、哲理の一種ですか」
「うん、そうだな。技術をうんぬんする前に、それを教えておくべきだった」

 頭の裏をかきながら、本気でばつの悪そうにして尚武は言った。

「その考えに立ってみれば、こうしたものも正解の一つと分かる」

 ――と、彼はいなきの真正面、一丈(3メートル)程の間を空けて対峙した。
 そして、あまりにも真っ正直な正眼(※中段)に構えてみせる。
 ぽつり、と告げた。

「これから君に斬り掛かる。ごく普通の斬り下ろしだ」

 いなきは反射的に腰を落とし、要撃を決意して尚武の全身を観察する。
 ――そして、気づけば彼の額に刃が据えられていた。薄紙一枚ほどの近さだった。
 断じて、尚武から目を放した覚えは無い。

「君は警戒していた。それでも真正面から斬られるのはなぜだろう」

 やはり、退屈な講師めいた口調で尚武は語る。今し方斬殺されかけたいなきは、心を鎮めるのが精一杯だった。

「君が、そして武術的な〝警戒〟〝眼付〟というものが想定しているのは、静が動になる瞬間だからだ。それが無ければ、人は攻撃を察知できない」
「……禅問答のように聞こえますが」
「そうだな。実際には私は動いている。……なぁいなき君、私が最初に教えた全ての術の要諦を復唱してはくれまいか」
「眠るように立ち、立つように歩み、歩むように斬る」
「そうだ。太極拳の言葉で言えば、動静合一だな。全ての運動に要する力を均一化すれば、静と動の区別は消える。……これは可能なのだ。完全な効率の運動を求める、それだけなのだから」
(……軽々しく言ってくれる)

 この男の言う事が余人に実践できるなら、彼の不敗は無かっただろうに。
 だが、いなきはやってみせなければならない。才能の限界という言い訳は、己には決して許されない事だ。
 俺は絶対に、この男を殺さなければならないのだから。
 ――尚武はこちらの目を見て、軽く頷いてから、

「どうやら、諦めてはいないようで何よりだ。力を循環させ、淀みを作らない事、それを心がけなさい」
「……はい」

 ――私の殺し方をいっしょに考えよう。そんなものがあるかどうかは、分からないのだが。
 彼が最初に言った事だった。それがこの二人の間に結ばれた、師弟の契約であった。

「話を戻そう。居合の利について、私は考察してみた」

 ようやくいなきの額から刃を放して、納刀する尚武。

「価値は……あったように思える。武術というものの解の一つが、私の見出していない理がこの技法にある事を予感した」

 何も無い中空に向けて抜刀し、納刀する。瞬き一つぶんの時間すら掛けていなかった。さりげない手遊びですら神業であった。理不尽を感じざるを得なかった。

「抜刀、納刀……1と0だ。今の話と符合しているだろう。虚実、というものに対して私の知り得ぬ領域に至る為の、手掛かりになるかも知れない」

 尚武は武道の師として、いなきに語りかけていた。

「これを、極めなさい。錯覚ではなく、真実この業(システム)の頂点に達するのだ。そうでなければ、君に私を殺す事など永遠に出来はしない」



 ――師の幻は消え、目の前にあるのは天井から垂れ下がった蜘蛛だけになる。

(斬る)

 蜘蛛を、ではない。その糸疣から伸びる糸を、縦に斬る。数ミクロンの糸を切断せずに、中心に裂け目のみ作る。
 そして、蜘蛛自身には糸が斬られた事を気づかせない。
 子供の空想でもありえないような事だ。人が聞けば笑うだろう。

(それでも、できる)

 条件は整っている。あの妖姫の鍛えた刃だ、先端部分はおそらくこの糸より細い。切っ先を正確に把握して刃筋を立てれば不可能ではない。理想的な身体の、その延長としての刀刃の操作ができれば、あるいは。
 四半刻迷い、そしてようやく――起動する。
 最初に、万有引力の力を借りる。全身を脱力させ、下方に落ちる。自重の分の力が発生する。

(力を、循環させる)

 それをどこかに留めてはならない。留まれば淀みとなり、最適効率の運動という理想を容易に破綻させる。それは関節で生じやすい。だが骨でも、筋肉でも同じく発生する。
 運動の起点は腰だ。ここを入り口として、得た自重をまず下がる力に変換する。抜刀術の精度を決めるのは斬り手の精妙さよりも、それ以前の過程、鞘引きだ。
 手で鞘を引く必要は無い。左手は添えるだけで良く、腰を切り、鞘尻を地面に近づける。それはまた、次の過程に繋がっている。

 後退の力を左足に集約させ、地面を蹴る。大地の反発を加えて、更に力を増加させ右の足で踏み込む。右半身を突出させ、斬り手を推進する。斬撃の軌道に沿うように鞘を置けば、その存在は無いも同じだ。気がつけば――刀は抜けている。
 後は、これを振り下ろすだけで良い。理想の軌道を寸分違わず、切っ先はなぞっている。

(完璧だ)

 この精度の斬撃ならば、鋼鉄も易々と両断できる。いわんや蜘蛛の糸をなど。

(完成された、俺の抜刀術だ)

 ――そしてそれは、あの男には通用しない。
 十人並みの達人の領域は、あの男の爪先ほどの位置にある。蠱部尚武はこれと同じ事が出来て、そしてあっさりとそれを捨ててしまう。
 あの男は強者である事に拘らない。強さを、勝利の必須条件と捉えていない。時に彼は弱くなる。詐術の類ではなく、本当に、幼児並に心技体を弱体化させる。

 そして、勝つ。人が見れば、不可解としか言えない結果を導き出す。
 蠱部尚武の武術理論は、勝利へ至る方程式は人間の理解の外側にある。
 次元が違う。
 こと武術に関する限り、あの男の存在は別次元にある。ただの人間が空間までしか観測できないのを、時間まで把握しているようなものだ。

 武の、神。
 人に、倒せる相手では無い――
 ぽとり、と、蜘蛛が道場の床板に落ちて、近場の破れた穴から床下に逃げていった。

「惜しかったわね」

 振り返れば、道場の入り口に女が佇んでいた。今し方幻想であってすらいなきに敗北感を味わわせた男の娘。
 納刀して、壁の裂け目に引っ掛けていた手ぬぐいを取り上げ汗を拭いつつ、毒づく。

「見てんなよ、馬鹿」
「滴る汗、上気した顔、乱れた襟から覗く鎖骨と贅肉の無い大胸筋」
「視てんじゃねーよ馬鹿!」
「この間女装させた時も思ったけれど、あなたの身体はとてもわたし好み」
「こっ、この助平!」
「腹筋をもっと見せて頂戴」
「俺に近寄るなぁっ!」
「ふふふ生娘じゃああるまいに」
「ひぃっ!」

 すたすたと気軽に近寄ってくるあやめに、本気の逃走を決意する。
 そして彼女は、荒れた道場の床板の腐った部分を踏み抜いて腰まで埋まった。

「……」
「……」
「おい、大丈夫か」

 近寄って手を貸すが、彼女は無表情のまま、

「今のは決して、わたしの質量があなたのそれよりも重力加速度の縛りに囚われている、というわけではないという事を承伏しなければ、あなたに助けられてあげる事はできないわ」
「いや、そんな事は思ってないが……床板があちこち腐ってんだよ。ここ、潰れてから結構経ってるらしいし」

 雪ノ下からやや離れた位置にあるこの道場は、主家が取りつぶされて浪人になった連中が数人、金を出し合って建てたものとの事だった。一時期そこそこの盛況さであったそうだが(八百八町の治安の悪さ故に、町人は常に護身に熱心だ)、師範たちに不幸が続いて廃れていき、最後の者が権利書を本土の知人に譲って死んで以来、その知人はここを放置している。
 やはり、よくある話である。
 引き上げたあやめが、服についた砂を払いながら言う。

「わざわざ道場を探してまで稽古するだなんて、」
「……別に、当然の事だ」
「マゾなの?」
「違うわ!」

 一瞬でも照れくさい気分になった自分が愚かだった。

「三野さん三野さん、聞いて下さい。夫がちゃんばら遊びに夢中でわたしに構ってくれません」
「妙な小芝居をするな!」

 耳に何かを当てるような手真似でどこかに話しかけるあやめに怒鳴りつける。

「なによ。わたし今、架空の御意見番三野文太(さんのぶんた)さんに冷め切った夫婦生活の愚痴を聞いてもらっていて忙しいのよ」
「有閑マダムそのものじゃねーか!」
「三野さん三野さん、夫の無理解が悲しいです。井戸端会議も習い事もお昼寝も主婦にとっては大事な仕事なのに、お前は暇人だな、という心ない言葉にいつも傷付けられて」
「いや……それは、完璧な暇人じゃないか?」
「浅薄ね。時間の過ごし方の評価なんて、曖昧なものよ。わたしにはあなたやお父さんのやってる事が、ただのちゃんばら遊びに見えるもの」
「無理矢理話を戻したな……」

 ようやく小芝居を切り上げて、あやめがこちらに向き直る。湖面じみたその眼を見て、いなきは言った。

「遊びじゃあない。これで斬れば、実際に人は死ぬ」
「遊びでも人は死ぬわよ。そんなの、意識の違いでしかないじゃない」

 結局、彼女はいなきの言う事に屁理屈で返す。それに反論して言い争いになるのが常である。
 しかし、今回は違った。

「あなた、楽しそうだったわよ」
「……っ」

 呼吸が止まるような警句だった。

「身につけた技術を振るう事に、喜びを伴わないわけが無いわ。たとえそれが、人殺しの業でも」
「……自制は、するさ」
「そういう事が言いたかったわけじゃないのだけれど……まぁ、いいわ」

 どうでもよさそうにあやめは、口にしかけた言葉をあっさり捨てた。隔絶した武人の娘であるこの女は、武術には全く興味を覚えていないようだった。

「言いたい事は、別にあるのよ」

 その予感はしていた。その武術に全く興味の無い彼女が、こんな所に用も無いのに来る訳もない。

「なんだよ」

 いなきが促すと、あやめは静かに切り出した。

「迷ったのだけれど、一度は聞いておかなければならない事だから」

 その言葉に、いなきはやや驚いた。迷う、というような事のほとんど無い女だと思っていたのだ。
 しかし、実際に逡巡が見て取れる。身体の重心が変わって、床板がきしむ音がすると、ようやく彼女は口を開く。

「わたしと暮らすのは、やっぱり、おかしい事なのではないかしら」
「……何を言ってる? 夫婦の芝居は必要だって、お前も同意して」
「わたしとなら、芝居だとしても」

 被せるように声を上げる。

「いつきちゃんとなら、芝居にせずとも良かったのではないかしら、という意味だったのだけれど」

 さりげない言葉だったが、切り込むような響きがあった。何事かを切り崩し、解体するような。
 あやめは、その事には物怖じを感じてはいないようだった。

「したんでしょう? あの子と」
「……そういうの、口に出すなよ」

 顔を逸らして、いなきはうめいた。思い出すまいとしていた率直的な、肉の感触が手の中に蘇ってくる。下腹部にも、自分が穢れた生物である証拠に思えてくるような熱が生じる。

「……契約みたいなもんなんだよ。別に、そういう仲になったわけじゃ」
「あやめパンチ!」
「いってぇっ!」

 ひ弱なこの女らしからぬ、なんというか人類の半分の重みを乗せたような拳に一撃されていなきは転倒した。
 生ごみを見るような目をして、あやめは言った。

「知らぬ間に、都合の良い体だけの関係を構築するような小賢しい男に成り下がったようね、いなき君。見下げ果てたわ」
「そういう意味じゃねぇ!」
「まったく……わたしは、道中あなたとあの子がいちゃこらしている間のイラつきを解消する為に、こんなものまで用意していたのに」

 と、懐から人形を取り出す。細工は丁寧なのに、造形は極めて地味な男の人形。

「お父さん人形。彼の枕元から採取した髪の毛が数十本ほど折り込まれているわ。これに虐待の限りを尽くすと、とてもすかっとした気分になれます」
「お前、最低の娘だな」
「ちなみにわたし、彼の寝所には一日しか侵入していないわ。……一日で数十本の髪の毛が枕元に落ちていた事には、さすがに哀れを催したわね」
「……それは、その、言ってやるな」
「あなたといつきちゃんがいちゃこらしないなら、これも不要よ。あげるわ」

 あやめは、父親を模した人形をあまりにぞんざいにこちらへ投げ渡した。

「ちなみに、それへの攻撃はお父さんに効果があるわよ」
「……いやいや、そんなわけないだろう」
「本当よ。あの人を間近で観察しながら、人形のお腹に針を刺しつつ「お父さんのお腹が痛くなりますように」とお祈りしてみたけれど、実際に腹痛を感じているようだったし」
「それは全く別の原因から来る腹痛だ」

 この女と会話していると、蠱部尚武への同情心が梅雨時の水溜まりのように募ってくる。それを狙っているのかと思う時もある。
 嘆息して、立ち上がる。

「本当に、そういうのじゃないんだ……お前には分からねぇよ」

 ――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……
 ――弱くて、すいません……
 妹の恥は、人に口にできる事ではない。いなきが口ごもっていると、あやめが言葉を先んじてくる。

「あの子、最近あなたの事を名前で呼ぶようになったわ。そう思っているのは、あなただけなのではないかしら」
「馬鹿な事を言うな」
「馬鹿なこと、かしら」
「そうだ」

 いなきはそう断じて、

「俺とあいつがそういう楽しみを持つ事に、意味なんか無い。あいつだって、それを分かってる」
「意味が、無い?」
「だってそうだろうが」

 あやめの問いかけに頭をかき、顔を逸らして告げる。

「俺がお前の父親を殺した後、俺は忌役の連中に報復で殺される。奴と戦った後に、連中と戦う余力が残っているはずが無い。……俺は、それで終わりだ」

 この、滅んだ国から一人生き残った孤児の物語はそこまでだ。〝き〟にしても、同じようなものだろう。目的を果たした後、生きる事を考えていない。
 母親を殺され生き残った彼女の物語も、六孫王大樹を殺した時点で終わる。

「だから……」

 いなきは言いかけた言葉を封じられる。胸ぐらを、強い力で掴まれ引き寄せられた。
 刃めいて尖った眼差しが、間近にあった。

「許さないわ」

 女の恫喝に何ら効力の無い事は知っている。蠱部あやめは、父親と違い武力など持っていない。
 それでも、いなきは心底から怯えた。

「……何を」
「あの人と殺し合う事について、わたしは口を挾まない。それはあなたと彼の契約であるし、何よりわたしは武門の娘なのだから」

 まさしく武家の子女らしく、冷厳に彼女は告げる。

「それでも、あなたが彼から何も受け取らずに死んで行くというのであれば、許せる事ではないわ」
「黙れ……」
「たとえ憎悪で繋がっていたとしても、あなたは彼の弟子なのだから。責任がある。彼を、後継する責任が」
「黙れ……!」

 あやめの手を掴み、振りほどく。
 ――責任など、負えるか。
 あのような男の全てを受け継ぐなど、俺に耐えられはしない。

「俺は、奴を殺すだけだ。その為にこの町に遣わされたただの狗だ」
「その手綱を握ってるのは、誰なの」
「……どうせお前は、知りはしない。かつて知っていたとしても、覚えてはいない」

 吐き捨てて、いなきは踵を返そうとした。
 ――それを振り返ってしまったのは、背後で重たげな音が聞こえたからだ。何かが、抵抗感無く落ちるような音。

「……馬鹿、この暑さで出歩くからだ」

 軽口めいて聞こえるよう意識しながら言い、貧血で倒れたあやめを抱え上げる。彼女は振り払おうとしたが、手に力が無い。
 ――古馴染だ。この女の身体が強くは無い事は知っている。毎年、冬場には咳き込んでいた。
 夏場は、強い日差しの下で姿を見た記憶は少なかった。

「一時休戦だ。家まで送る」
「……いい。それより、聞きなさい」

 呼吸を荒くして――熱中症の類も心配しなくてはならないようだ――それでも彼女はいなきの襟を握りしめている。そこだけに集中させたように、力がこもっていた。

「あの人を倒したとしたら、忌役の頭領にでもなりなさい。いつきちゃんも娶って」
「夢物語だ。そんな都合良く行くか」
「そうよ。都合の良い夢想を実現するつもりで、あの人と戦いなさい。わたしからも、何か……一つだけ、なんでも言う事を聞いてあげるから」

 くすり、と薄く、非常に薄く彼女は微笑んでみせた。

「本当は、妾にでもなって仕えるのが相応なのでしょうけど……そこまでするわけにもいかないわ。わたしはこれでも、父を愛しているのよ」
「知ってるよ。だからこそ始末が悪くもあるが」
「なんの事か分からないわ」
「いや、お前は父親への愛情表現を本気で考え直した方がいいからな」
「とにかく」

 あやめは一言、強く声を上げて、

「……だから、一つだけ。それを楽しみにして、生きなさい」

 彼女の言葉には応えず、いなきはその身体を抱えて道場を抜け出した。
 まさしく蠱部あやめは蠱部尚武の娘だと悟る。いなきの抱く劣等感は、彼に抱くものと厭になるほど似ていた。


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