心のままに書け、というのが書の師匠の教えだった。
精神を統一して泰然自若と筆を振るうべし、などというのはそれが一番格好良く聞こえるからだ、根拠などない、と、身も蓋もへったくれも無い発言をしていた。それではつまらない。せかせかした気分の時、ぐだぐだした気分の時、いらいらした気分の時、その時々の気分そのままで筆を取ってみよ。新しい発見があって、とても面白い。
別にいなきは、その教えに同意している訳ではない。むしろ大雑把過ぎて頷きたくなかった。ただ、習い覚えた書道の心得がそれだけだから踏襲しているだけだ。
せかせか、ぐだぐだ、いらいらとした気分で書いた「氷白玉売ります」の字にどれほどの出来かは判別が付かない。集客効果が見込めるかも不明だ。ただ、店主は納得したらしく、金を払って礼を言ってきた。
二百文ぶんの銭を懐に収めてその場を立ち去る。
――今日の仕事場は布瑠部(ふるべ)という名の神社だった。多田や熊野と比べて遥かに規模は小さく、立地も島の隅のような場所で海岸に程近く、潮の香りすらする。賑わいも相応だった(こんな辺境にまで祭りの空気が侵入しているとも言えるが)。
殯宮のめぼしい候補地はあらかた探し尽くしてしまい、こうした小さい神社を当たる傍ら、祭礼と関連性に乏しい政府施設にも探索の手を広げているが、未だに手掛かりひとつ掴めていない。
「……クソッ」
苛立ちをあらわに、地面を蹴りつける。
――似たタイミングで先日現れたのは鶴翁だったが、今回は別の人間に声を掛けられた。
「いなき様」
妹がこちらの姿に気づき、杖をついて歩み寄ってくる。夜中の密談では連日顔を合わせるが、日の下で見るのは七日ぶりの事だった。
――あの子、最近あなたの事を名前で呼ぶようになったわ。
(……そういう、事なのか?)
内心でそこそこに動揺しつつ、そんな下世話な気分になっている事が申し訳なくもあり――要は、複雑な気持ちでいなきは彼女に話しかけた。今筆を取ればどんな字になるだろう、と思いかけ、数日で職業病じみたものを患ったのかと自嘲もしている。
「どうしてここにいるんだ?」
「楓座がここで勧進興行をするのだそうで」
と、〝き〟は答えた。
「こんな僻地でかよ」
無遠慮にいなきは言った。楓座の役者の程度が低いのか、座主の営業努力が足りないのか。
「昔は欣厭大路で芝居するような大店だったそうですけど、看板役者がいなくなって急速に廃れていったらしいですよ。わたし的にはすっごく眉唾なんですけど」
こちらも遠慮なく言う妹。こちらは、同じ釜の飯を食っているのだから多少加減すべきではないかといなきは思う。
「だってだって、うちの座主、ものすごくうさんくさいです。特に口ヒゲ。怪しすぎて、一座のひとたちには変凹君とか呼ばれてます」
「個人的には、おいそれと小馬鹿にできないあだ名に聞こえるが」
由来不明の気後れ感が沸いてきて、いなきは眉間に皺を寄せる。
「……ここも、外れだった」
砂を噛むように、いなきは報告した。
推理に瑕疵があると感じながらも代案を用意できず、時間も無いのに細い希望に縋って動くだけという有り様。合わせる顔が無かった。
――狐面が、左右に振れた。
「いなき様は、がんばってます」
「そんな言葉で、事態は何も好転しない」
「それでも、わたしは感謝しています」
首のかすかな動きで、彼女が微笑んだ事が分かる。
「あののぼり、いなき様が書いたんですよね?」
先程書いた氷白玉の出店の方を指して、〝き〟は言った。そちらへ向かって歩いて行く。のぼりの前に立つと、筆跡を指先でなぞり出す。
店主は義足、仮面という彼女の風体にあからさまに迷惑げな視線を送っていた。
「俺の妹だ」
いなきはそう告げて、店主に金を渡した。大きな氷塊と水につけた白玉、糖蜜、そして〝き〟を順に指差す。祭の開催まであと二日だが、神主や的屋の親分などに、挨拶代わりに渡すつもりでいたのだろう。
二百文という氷白玉一杯の値段にしては破格の報酬が効いたのか、店主はしぶしぶ氷を割って白玉と一緒に椀に放り込み、糖蜜をかけて彼女に渡した。職人としての信念からか、手を抜いた様子は無かった。
冷えた椀を両手で包むように持ちながら、妹は「つめたいです」と当たり前の事を言った。
「冷たくなきゃ不味い食いもんだ。早く食え」
「でも……」
〝き〟は口ごもる。何を遠慮してるのか、と思ったが、ふと気づいた。祭の空気がそよ風ほどに薄まった辺境とは言え、人の数はやはり多い。彼女は周囲の目をはばかっているのだ。
――わたしの顔を見ていいのは、家族だけです。
いなきは頭をかいて、
「近くに寄れ。人除け代わりになってやる」
その提案に、彼女は椀を取り落としかけた。「ぅ。あぅ」などと、なにやら肩を硬直させてうめく妹にいなきは言った。
「お前が隠れるくらいには、俺はでかくなったんだよ」
「……ぅ。で、では、失礼をば」
〝き〟はよろよろと寄ってきて、いなきの胸元辺りで止まると狐面を頭頂部にまでずらした。いなきがその面を右腕で覆って影にすると、そのまましゃくしゃくと無言で椀の中身を食べ始める。白玉を食う甘味なのに、氷を食っている。
「うまいか?」
「……あ、あまあまです」
「お前は、あんまり背、伸びないよな」
「それ、言わないでください……気にしてるんですよぅ」
「悪かったよ」
「いっそ巨人のようにおっきくなりたかったです」
「……そうだな」
「いなき様は、素晴らしいラインの腹筋に成長なさいました」
「……あやめもそうだが、お前らは俺の腹しか見ていないのか」
「いえ、鎖骨と骨盤の形も好みです」
「いや、別の部位にも言及しろと言った訳じゃないんだが」
「ちなみにあやめ様は、首筋と手の指が好きみたいです」
「言わんでいい言わんでいい」
「あやめ様とわたしの趣味は程よく合いますので。何度あの方とフェチトークで夜を明かしたことか」
「……物凄く踏み入りたくない領域だな」
「いなき様の身体のパーツを分割して分け合えたらなぁ、という妄想話が一番盛り上がりました」
「俺は今ここ数年で一番盛り下がったぞ。恐怖で」
それに、預かり知らぬ所で見知った女二人が自分の話をしている、というのは相当恥ずかしい。
「……字」
ぽつり、と〝き〟は言った。
「いつだか、あやめ様と、いなき様の字についても語り合いました。ものすごく素直な字。いつも仏頂面だけれど、書く字を見れば気分がわかると」
「そういう教え方、されてたんだよ」
すねたように答えれば、上を向いた狐面が呟く。
「だから……」
「?」
「おいしかったです」
文脈の繋がらない発言の後、〝き〟は面を被り直していなきから離れた。椀を店主に返して、そのまま「お芝居の準備を手伝わねば」と立ち去っていく。
横目で見れば、店主は舌打ちして、椀に半分以上残った白玉をかきこんでいた。
「――はは、貧乏臭いねぇ。ただでさえしまらない素人演芸にオチがついて、笑い話になっちゃった」
いなきの背後で、店主の様子を人の悪そうな風に笑いながら石斛斎は言った。
「なんで、話に加わらなかったんだ?」
「……君、本気で朴念仁だね」
呆れきった風に、隻腕の役者は肩をすくめる。
いなきは正面を向いたまま反論する。
「俺とあいつに、そういう感情を楽しむゆとりは無い」
「どんな人間も、人生を楽しんでいけない理由なんて無いさ」
「お前との問答は面倒だ」
「お互い興味が無いからねぇ」
あっさりと本音を明かすと、石斛斎はいなきの隣に並ぶ。
「……これだけは伝えておかないと、と思ったんでね」
そう前置きして、
「彼女、暴発しかけてるよ」
「……どういう事だ」
「表向きはおとなしいけどね……たぶん、この探索が失敗したら、単身で歳城に乗り込んで芙蓉局をつるし上げて殯宮の場所を聞き出すつもりでいる」
「……無茶だ」
いなきは尖った目尻を更に攻撃的に細めて、その暴挙を評価した。あの少女の武力であっても、六孫王府五千騎を真正面から敵に回して生き残れるはずがない。
「それは、確かなのか?」
「確かめようは、ないかな。でも、君も今の会話で何かしら感づく事があったんじゃないの?」
「……」
雄弁な沈黙で、いなきは応じた。
そもそも、彼女が無茶や無謀を恐れて引き下がるような人間だったら今この場に立ってすらいない。
「……くそ」
腹の中に煮えた鉛を流し込んだような気分で、いなきは毒づいた。
やめろ、と言って聞く訳がない。そうであるから、自分は彼女の進む道を示さねばならなかったのだ。それを果たせずにこのような場所でくすぶっている。度し難い無能だった。
単身、歳城に乗り込んで――いなきには、その協力を持ちかけるそぶりすら見せていない。
妹自身にその意識は無かっただろうが、見限られたようなものだ。
「元から無理があったんだよ」
「言い訳にもならない」
他人事らしい熱の低さでの石斛斎の物言いに、いなきは冷えた言葉を返す。
更に返ってくる言葉は、やはりそよ風のように心地良く演出されていた。あくまで甘く、涼しげに。
「違うよ」
計算し尽くされた、鉄壁の仮面。
「諦めて深川から立ち去れって事。僕の意見は変わらない。君が斎姫を説得してくれて、三人で紫垣城に帰るなら、それが一番良いんだ。その為だったら、僕は協力を惜しまないよ」
「お前に、何ができるってんだよ」
「これでも、深川には自前のコネがあるんだ。仮痴不癲や芙蓉局が面子を潰されたのを根に持って追手を出したとしても、君たちを無事に脱出させてあげられる」
「……話にならねぇよ」
吐き捨てるように、いなきは言った。
「僕が、信用できないかい?」
「当たり前だ。だが、そんなものは問題じゃない」
覗き込むような石斛斎に対して、いなきは正面から向き合った。
「俺たちは、目的を遂げる為に生かされたんだ。それを諦める事は、許されていない」
「思い込みだよ、それは」
微笑みながら、容赦の無い言葉を石斛斎は使った。
「君たちに使命なんてものは無い。錯覚だ。君たちのあきらめを責める人間は、誰もいない」
「いるさ」
男の無理解に侮蔑を滲ませつつ、いなきは告げた。
「夢の中、ふとした日常。どこででも連中は現れて、俺たちのような人間の足を掴んでくる」
石斛斎は蔑みを意に介さず、食い下がってくる。
「やはり、思い込みだ。君も彼女も、死者の方だけを向いて生きている訳じゃない」
「……うるせぇ」
男との会話の煩わしさが限界に達し、いなきは無造作に彼を殴りつけた。頬から血を流しながら、参道に倒れ込む。
「やっぱり、お前との問答は面倒だったな」
周囲の荒っぽい男たちは喧嘩を期待した目線を送ってくる。それを睨み付けて黙らせると、いなきは立ち去っていく。
「蠱部あやめを巻き込みたくない。斎姫には生き残って欲しい。それが、君の本心だ」
手酷く殴られておきながら、男の仮面は微動だにしていない。演出であると、虚構であると理解してはいたが、いなきにはその仮面から発せられた言葉を嘲笑う事はできなかった。
/
最後の一画を書いて、息をついた。
赤地に「でめきん」という至極単純な文句が書かれたのぼりが、晴れ空の下に掲げられる。
海岸そばの、ただの民家である。祭の中心に入っていくにはいささか老いすぎた老婆が、それでも祭典の気分だけは味わおうと設けたものとの事だった。紹介する時、去年まではうまい田楽を食わせたのに、と鶴翁はぼやいていた。
最後の仕事だった。永代島南西部の調査も、この日終った。
殯宮は、見つからなかった。
石斛斎に〝き〟の意志を聞いて以来、永代島全域に調査の手を伸ばしたが、それでも成果は得られなかった。夜を徹し、警備をやり過ごしながら政府の主要施設にも目を向けたが――穴がある事は認めるしかない。所詮、一人で行った仕事だ。
高い堤防を見上げながら(永代島の海面に接する箇所には全て、堤防が築かれている。無論、水害対策というより防衛計画の一環だった)、いなきはあらためてその結果を直視する。表情に苦悩めいたものは無い。そうしたものは、昨夜までに絞り尽くしている。
憑き物が落ちたような顔をしていた。
(……仕方ないな)
〝き〟の強襲計画に乗る。勝算など真夏に霜が降りるくらいのものだったが、万策尽きた以上は是非もない。
「ご苦労様です」
結局、始終いなきの仕事の監督役のような立ち位置に納まっていた鶴翁が声を掛けてきた。
「いえ」
微笑みながら、いなきは応じる。取り繕いをする余裕すら出てきていた。刑死を待つ罪人の気分そのものだと、諧謔じみた気分に更に笑みが深くなる。
「明日の八幡祭に、なんとか間に合った。まぁ、その後は秋への準備をせねばなりませんが」
慣れ親しんだ一年の過ごし方を思い出しつつ、鶴翁は言う。
深川の八幡祭は三日かけて行われる。八幡宮から出発した大御輿が、各所の寺社仏閣を練り歩いて三日後に戻ってくる。神道、仏教の区分があまりにいい加減に思えるが、その点については八幡祭が宗教的な祭典というより、民衆のガス抜きに過ぎないという実態に沿ったものなのだろう。
この祭の最終日に、大殯の儀は完遂するのだ。
「なに、のぼり書きの口は無くなろうとも、そこもとは十分に顔を売った。看板、品書き、仕事はいくらでもありましょう。某も、若い書人を売り込むのは楽しい」
鶴翁は気軽そうに胸を叩いてみせる。面倒見の良い老人だった。彼の寺小屋の生徒は蒲という少年のみならず、両親を失って商家で奉公する子供ばかりだ。高潔で閉鎖的な武家社会ではつまはじきにされたであろう、率直に過ぎる優しさだが、純粋な武士ではないいなきには好ましかった。
羨ましくも、あった。
そうした内心を一度も見せる事なく、いなきは彼に別れを告げようとしていた。
「申し訳ありませんが、字書きの仕事はこれきりです」
「そうなのですか?」
「本土の方へ。妻の親類の仕事を手伝う事になっているのです」
「……残念だ。本当に」
念を押さずとも、本当に残念がっていると分かる気落ちした表情で、鶴翁は呟く。
「……その、申し訳ない。立花殿にとっては、より望ましい道なのでしょうに」
「いえ。……主の形見に使い所を見つけられた。それは俺にとって、得がたい事でした」
「そう言ってくれるのであれば、某も救われる」
老人は、好好爺然とした、しかしそれだけでない味のある微笑みを浮かべる。
――その顔が、いなきの背後の方へ向いて、きょとんとしたものに変わった。
「ご婦人、いかがされた」
釣られて、いなきも背後を見る。
蠱部あやめが、そこに佇んでいた。
「……お前」
「おお。立花殿の御新造か」
単に呼びかけただけなのだが、それを勘違いして(夫婦を偽装している以上、全く勘違いでもないのがややこしいが)、鶴翁が声をあげた。
あやめは鶴翁に向けて頭を下げる。静かな、そして周囲に自分の持つ静けさを与えるような仕草だった。波音が強まって聞こえてくるようにすら思えた。
「長らくご挨拶もせず、申し訳ありませんでした。主人が、大変お世話になりました」
「いや、いやいや、頭を上げてくだされ」
あわてたように手振りする鶴翁。
――あやめには、今日で仕事を辞める事など言ってはいない。
(……本当に、厭になるほど鋭い女だよお前は)
老人の背後で、いなきは顔をしかめる。悟りの境地めいた気分に、冷や水を浴びせかけられたような気がしていた。それは、ただの自暴自棄に過ぎないのだと。
(他に、どうしようがあるってんだよ)
そう思えば、内心は荒れに荒れた。
耐えろ、とある者は言った。
諦めろ、とある者は言った。
いなきには無理な話だった。〝き〟もそうだろう。
いなきの背後には、人の記憶からすら消失した故郷がある。
妹もまた、失った母親を忘れられない。刻まれた傷を消す事も。
目的を果たさなければ、自分に生きる価値などない。その使命だけが、孤児として出会った二人を兄妹として結びつける縁だった。
そして、その使命とは人間の行いうる最も醜悪な手段で遂行される。
(なぜ、こんな人殺しに関わろうとする)
何より、いなきが殺そうとしているのは、彼女が愛している父親だというのに。
――だから、一つだけ。それを楽しみにして、生きなさい。
そんな言葉をかける価値など、俺にありはしない。
癇癪を起こし、叫び出したくなる。不眠を重ねたからか、焦燥からか、理性の堤がひどくもろくなっているのを感じていた。
堤防に罅が入るのを自覚して――
「あなた」
静かな声に、呼びかけられる。
蠱部あやめは、いなきの、墨に汚れた手を取って胸元に引き寄せて、
朗らかに微笑んだ。
「がんばりましたね」
――芝居だ。
この女と自分は夫婦ではない。虚飾にまみれた偽りの関係だ。あやめはいなきの偽装に付き合って、人前でそれらしい演技をしているに過ぎない。それも、石斛斎のような完成された仮面ではなく、感情を表に出すのが苦手なこの女らしいぎこちない笑顔だった。
それがなぜ、こうも抗いがたく感じてしまうのだろう。
「……ああ。家に帰ろう、お前」
いなきは引き寄せられるように、甘やかな嘘で応じた。
自分に帰る家などもう、無いはずなのに。
――いや、先日は説教めいたことを申して、今は恥ずかしい思いだ。
――良き奥方だ。この方がいれば、某が爺臭い繰り言を抜かすなど差し出がましくござった。
そう言って、鶴翁は二人を送り出した。
「ねぇ、いなき君、気づいていたかしら。あのお爺さん鼻の右側の穴に長い鼻毛がいっぽん出ていたわよ。わたし、笑いを堪えるのが大変だったわ。もう我慢しなくてもいいわよね。ぷーくすくす」
「台無しだなお前」
老人から遠く離れた所で、負ぶわれながら耳元で語りかけてくる声にうんざりと答えるいなき。
「だって、茶化さない事には、この有り様は中々恥ずかしいわ」
「無理をするからだ」
――鶴翁から別れた途端に、あやめは危うく倒れかけた。雪ノ下から永代島の南西の端まで、どこにいるとも分からないいなきを探し歩いたのだ。その無理は先日よりも更に、ひ弱い身体に祟るだろう。
「だって、」
もう一度、同じように言い訳がましい前置きをするあやめ。
「わたしたちが夫婦である事は、あくまで演技に過ぎないけれど……この町では、本当の事なのよ。信じている人がいる。嘘を突き通すのが、責任というものではないかしら」
「……くそ真面目な女だ」
「渡世とは、そういうものなのでしょう?」
「俺の知ってる世の連中ってのは、もっと手前勝手にやってるさ」
聞くまでも無い事をなぜか問い糾してくるあやめに、素っ気なくいなきは言った。「そうなの……」などと彼女は独り言らしく声を漏らす。
――この町では、自分たちが夫婦である事は真実。
いなきはそれを、不快には思えなかった。
使命という首輪に繋がれた狗ではなく、ただの人であれたなら。このような事が、日常であったなら。それはなんと幸せな事だろうか。
故郷に、そして妹に負うべき責任を放棄して――
「それにしても、この辺りには漁師がいないのね」
あまりに手前勝手な方向へ傾きかけた思考を、あやめの言葉が留めた。軒先に網も釣り竿も、船も置かれていないい民家の群れを不思議そうに眺めている。
取り繕うように、いなきは気軽そうに聞こえるよう応じる。
「……そりゃそうだ。東側と違って、九衛軍の軍船に攻撃される可能性がある方角だからな。漁の利便よりも、軍事上の都合が優先されるさ」
威圧感を覚える程に高い堤防を、首をしゃくって示す。一般の立ち入りを禁じた入り口を通してしかその上に昇る事は不可能で、梯子をかければ罪に問われるので釣りもできない。
あやめはそれでも納得しないようだった。
「でも、さっきの所では出目金を売るのでしょう?」
「馬鹿かお前。金魚は淡水魚だ。濾過された深川の水路でしか……」
――自分で口にした言葉に、かすかな違和感。
それをたぐり寄せて――殴りつけられたような閃きに、大声を上げた。
「馬鹿は、俺だ」
突然の豹変に面喰らうあやめを路上に降ろし、堤防に触れる。壁面の手触りを確かめながら、
「現実の知識に囚われていた。出目金――琉金の突然変異種なんてものは、八百八町には存在しない」
鶴翁が、最後の客である老婆を紹介した時の発言を思い出す。
――でめきん、というものを売るのだそうで。目玉の飛び出た珍しい金魚です。
あの老人だけが出目金という種の金魚が存在するのを知らなかったのではない。老婆が、元から存在する名前でその金魚を呼んでいたのではない。
彼女は、その珍しい形の魚を、見たままに名付けたのだ。
畸形に変異した魚を。
「水、水、水だ……」
興奮して、言葉を繰り返しながらいなきは壁面の観察を続ける。――指をかけられる窪みが、堤防の頂上まで続いている箇所を見つけると、そこから昇り始める。
「南西――その、方位の条件さえ合っていれば良かったんだ。永代島の外であっても」
登攀をやり遂げて、堤防の頂上に立ち――予想を裏付ける光景を見た。
「白潮だ」
八町(※約八五〇メートル)程先からの海面が、白みがかった色合いに変色している。半径五町ほどの真円の形であった。
海中の過剰な富栄養化により、プランクトンが大量に死亡し、その死骸が滞留しているのだ。
「見つけた。……あれが、六孫王の殯宮だ」