「死者を祀る海中の国……どうにも、間抜けなくらい古典に忠実なんだね、六孫王府は」
いなきが入手した水路図を眺めながら、石斛斎は呆れたような嘆息をする。
同意見ではある。日本神話の黄泉国、琉球神話のニライカナイ、西洋ではケルトの神々の楽園ティル・ナ・ノーグと、それに起源を持つアーサー王伝説のアヴァロン。海中に存在するとされる隠り世というのは枚挙に暇が無い。
殯宮発見の翌日、四人が集まっているのは出会茶屋の二階にある一室だった(当然ながら深川滞在初日とは別の店を選んだ)。一刻ほど前に集まって、突貫で用意した情報を元に裏付けを行っている。
「あの白潮の辺りの海中に殯宮がある可能性は、極めて高い」
評議に結論が出たのを確認する意味で、いなきは言った。
「歳城からあの近辺に流れていく水路を調査したが、水質に障気の痕跡が見られた。水草の生長も異常で、魚の突然変異も発生している」
おそらく、潜水艇のようなものを用いて移動したのではないだろうか。そうであれば、地上での目撃証言が存在しないのも道理だ。
「その水路が、海に続いているのも確認した。その近辺に、地上から海中へ向かう隠し通路も発見している……ここだ」
と、地図の一点を指差す。六孫王以外の人間がそこから出入りしているのだろう。
「明日の払暁と共に、ここから侵入する。住居はもう放棄しよう。この……稲村ヶ崎に手頃な廃墟を見つけた。これからここに移動して、行動開始まで身を潜める」
隠し通路の場所とした点の、やや北を示していなきは告げる。
――場所については嘘だ。この場の一人に向けての。
「石斛斎、あんたにはなんだかんだで世話になったが、ここでお別れだ。一応義理から言うが、今日の内に深川から出ろ」
「そうだね、拷問超怖いし……本当の足取りを知らないのに、ともなれば馬鹿らしくもある」
いなきの嘘をあっさり見破って、石斛斎は嘆息する。
その顔を、窓の外に向けて、
「あーあ、でも、せっかくの祭を楽しみたくはあったね」
八幡祭初日の熱気は、密議の場にも侵入してきている。夜になったというのに灯りは煌々と点り、道を埋める人々を照らしている。威勢良く騒ぐ町人、迷子になり泣く子供、啖呵売の口上……
そうした外界とくっきりと色分けされた部屋の中で、いなきは言った。
「こんな場所に足を突っ込むから悪い。あの中に入っていきたいなら、中途半端に関わらずに足を洗うんだな」
「それも義理かい?」
人の良さそうな笑みを浮かべる隻腕の役者。その職業を改めて意識する。その気になれば、嘲笑もごまかせる人間だ。
「人の世話を焼くより先に、自分の面倒を見るんだね。君たちがやろうとしている事、分かってるかな」
「ああ、あれを見ればな」
いなきはそう言って――賑わう路上を見下ろす。
その中の数人に注目していた。商人、職人と各々違った背景を伺わせる服装をしているが、歩き方に見られるものは同一だった。
「とうとう、来たわけか」
猟犬、という背景を彼らの背後に認めて、いなきは呟く。己の背後にいる〝き〟が補足した。
「あの豪眞梅軒と同じ鍛錬法です。芙蓉局の手先でしょう」
「零番方よりはやりやすいな」
「いえ……逆の方向を見て下さい」
妹が窓から顔を見せないようにしつつ指示する方向を、目線だけ振り向けて確認していなきはうめいた。
別の種類の、やはり歩行から鍛え上げられた肉体を伺わせる男女がこの出会茶屋に向かってきている。両者の立ち居振る舞いから練度の程を比べて、こちら側に軍配を上げる。
「さすがに有能だ。事前の情報についてハンデがあるのに、御寝所番と時間差無しに辿り着きやがった」
これが名にし負う奉公衆の密偵零番方の実力、という事か。
「中々、焦げ付いて来たな」
腰帯に差した大小の感触を確認しながらつまらなそうに言い、いなきは立ち上がる。
「俺が行く。〝き〟、打ち合わせ通りの場所に逃げろ。嘘でない方にな。あやめも連れて行け。……石斛斎は、」
「こうなっちゃうと、保身を考えちゃうなぁ」
「……分かった。二人についていけ」
軽口を叩く石斛斎に舌打ちをしてから、〝き〟に指示をする。妹は厭そうにしたが、文句は言わなかった。気が合わないとは言っても、深川にいる間は一番世話になった男だ。
「あやめ、」
「分かっているわよ。いつきちゃんの指示に従うわ」
うるさそうに返してくるあやめに、軽い頷きをよこす。
――芝居も、これで終わりだな。
胸の奥から上って来た言葉を、務めて意識から外し、いなきは三人から背を向けた。
無言のまま、振り向きもせずに部屋を出ると、三つ程奥の部屋に入る。
悲鳴を上げる裸の男女を無視して、いなきは窓に足をかけ、飛び降りた。
着地ざまに零番方の男を一人殴り倒す。〝き〟の方はあやめや石斛斎など足手纏いを抱えている。手練れの追手を優先的に減らしていく必要があった。
「……ッ!」
不意の奇襲に、精鋭の忍と言えど驚きを隠しきれなかった。近場の、声を上げかけた女の顎を蹴り抜いて昏倒させる。
周囲に喧噪が溢れる前に、いなきは駄目押しの揺さぶりをかけた。
「御寝所番の連中までお出ましとは、俺の首は大した人気のようだ!」
この場の、影働きを行うものたちが揃って驚愕の仕草を表わした。
――敵と町人の色分けは済んだ。そして、
(零番方には、てきめんに効いたろう)
足影秀郷の暗殺の主犯を探ってみれば、六孫王府の実質上の首脳が独自に持つ忍に出くわしたのだ。芙蓉局と対立する方丈梢継の勢力下ゆえ、彼らと即座に敵対する――といった安直な人間に、密偵など務まらないだろう。彼らは政治の暗部に関わっているからこそ、その複雑怪奇さも知り尽くしている。
事態は零番方の裁量の及ぶ範囲を大きく逸脱していた。
彼らは迷う。
そして、万金でも購えない希少な時間を空費する。
――いなきは零番方の忍たちを観察する。
一人を除いて、目線は一方向を向いていた。除外された一人に。
ようやく町人が騒ぎ始める。大概が「喧嘩か!」と囃し立てるようにして、物見高い目線をいなきたちに送っている。
その間を最短距離ですり抜けて、いなきの誘導で零番方らが示した、現場指揮官らしき男の前に立った。
「……ッ!」
さすがに手練れである。虚を突かれた驚愕からすぐさま立ち直り、男はこちらに裸拳で打ちかかってきた。
体ごと左に回り込むようにして、拳打をフェイクとして放ってきた本命の膝も含めて躱し、肝臓に肘を叩き込む。肋骨を数本へし折られて、男はその場にもんどり打って悶絶する。
時間にして十秒にも満たない間に指揮系統を完膚無きまでに破壊され、混迷の極みにある忍たち。
彼らの内、進路上にあるものを三人ほど片付けてから、いなきは路上を駆け抜ける。
町人たちはそうした有り様を、狂乱に近い程の歓喜で迎えた。真性の暴力ですら見世物とする好奇心がそこにあった。
それに舌打ちを返しつつ、いなきは走り続けた。
「なん……たるザマだッ!」
一時接収した民家の二階の一室にて。今回深川に侵入したとされる雷穢忌役武官の捕縛作戦を任命された零番方陸番組、その組頭は、路上に散り散りに倒れ伏す部下を痛罵した。ただ一人の男(しかも、一見して子供のような若造)にまんまと出し抜かれるとは、言い訳しようのない失態だった。
――しかし、その後連絡役の部下が届けてきた情報に、彼はいくらか理性を取り戻す。冷や水を被せられたような効果があった。
「なぜ、御寝所番がいる……」
彼は自問を口にする。自己の思考に没頭しかけて――我に返り、部下に下問する。
「連中は抑えているか」
「いえ。彼らもまた捕縛対象を追跡しました。松永、吉岡、聖、鴻上の四名がそれに追従しております」
「御寝所番が対象から離れた時は、聖に尾行させろ。それと、喜瀬、城島は対象の出てきた茶屋を調査。仲間がいるはずだ。……阿波野、大槻、姫島、貴崎、荒木、月島は放っておけ。今日は八幡祭だ。町医が各所に控えている」
「はっ」
命令を聞き届けて部屋から退出する部下から目を逸らし、彼は思考を再開した。
といっても、さして時をかけた訳でもない。奉公衆は縁故の絡む場面が無いとも言えないが、零番方に関しては全くの実力主義であった。その中で一つの隊を任される彼の頭脳は、それなりに明晰である。
(これは……かの雌狐の命脈も途絶えたか?)
推察を元に今後の歳城の動向を予想し、彼はそう結論づけた。
芙蓉局と忌役の繋がりを証明できれば、今し方の失態も補って余りある。意気込みを新たに、彼はまず待機所を変える事を思いつき、立ち上がる――
『ダァメ』
その背後で、不気味な声がかかる。
『アイツトハボクガ遊ブンダカラ、キミラハ、邪魔ダヨ』
耳元で破裂音のようなものが聞こえ、その正体を確かめる前に彼は床に倒れた。そのまま、起き上がる事は永久に無くなった。
自分の意志では。
祭囃子が聞こえる。
いなきは裏路地に潜みつつ、その楽を聞いていた。
あれから数人追手を片付けつつ、逃走を続けた。〝き〟やあやめ、石斛斎は殯宮の方角に向かっている為、逆の北東方面へ向かった。欣厭大路から離れ、今は永代寺にほど近い場所であると、彼は記憶にある地図を呼び起こして推測する。
路地裏から抜けて、周囲を警戒しながら歩き出す。人混みにまぎれて追手を撒く事には成功したはずだが、逆に人混みから奇襲される事も考えられる。いなきの容姿、特に髪色についてはひどく人目につく。
(笠を手に入れるか。いや、服も替えた方が。……無理か。今日、日用品を売りに出す店は無いはずだ。服も……浴衣を着る訳にも行かないしな)
思案を視界の隅に置くように行いながら、永代寺の方角へ歩いて行く。あれだけ大きい寺院なら、警察組織である侍所の役人が控えているはずだ。騒ぎを嫌う密偵達をやり過ごせるかも知れない。
永代島の門前町に向かう行列に紛れて、足を進める。
大立ち回りを演じた場所から離れると、何事も無かったように、町人たちが祭の風景の中にいるばかりだった。
感傷に浸る暇などないと思いつつも、場違いな自分を意識せざるを得なかった。暴力の余韻が急速に冷めていく。
ハレの日を楽しむ彼らの中で、ただ一人、己だけが血生臭く穢れ、外れている。
(……ちっ)
舌打ちして、後ろ暗さを誤魔化す。
すると、
「立花どのではないか」
偽名で呼ばれる。その相手は、いなきの敵では無かった。
鶴翁が数人ほど間に挟んだ雑踏の中で、こちらを見ていた。蒲や、他の寺小屋の生徒らしき子を連れている。
いなきが彼の足下の子供たちを見たのに気づくと、鶴翁は照れくさそうに微笑む。
「この子たちの奉公先から、引率を頼まれたのだ。暇な爺と便利使いされておる次第で」
決してそれを嫌がっている訳では無いと、子供に目線を送る事で教える。彼らも商家の丁稚奉公から一時だけでも解放した相手を嫌う訳が無く、微笑みを返した。
「奥方は、いらっしゃらぬのか」
と、いなきの周辺を探す鶴翁。
「あ、いえ……」
いなきは、咄嗟に言葉が出てこなかった。
――演技は、終わりのはずだった。
そのはずが、十日ばかりの虚飾の残滓と今対面している。暴力を行使し、どうしようもなく本来の自分に戻ってしまった自分の前に、残酷なまでに己の嘘を信じている老人が現れた。
全てをぶちまけてしまいそうになった。
――俺は、人殺しなのです。
暗がりで、獲物を追うだけの狗なのです。
どうか、蔑んで下さい。
自分には、その場所は遠すぎるのだと、諦めさせて下さい。
(……嘘は、突き通す責任がある、だったな)
騙された人間を慮って弱い身体を鞭打った女の言葉を思い出す事で、いなきは弱きに傾いた思考を切り捨てた。
「妻は、家におります。彼女に土産を頼まれたので」
「左様か。髙良屋の竜頭焼きを御賞味した事がありますかな? 今日、あそこが竜一頭なる特別の菓子を売るのだそうで」
「鶴じい、もう行こうよ。そんなシケた面の兄ちゃんほっといてさ」
「これ、蒲」
袖を引く少年をたしなめると、鶴翁はすまなそうにこちらに頭を下げた。それに緩く首を振って返す。
「いえ、良い話を聞きました。これから、探しに行くとします」
「そうなさるといい」
次は軽く会釈をすると、鶴翁とその一行は、そのまま永代寺の方角へ向かっていった。
それを見送っていると――ふと鶴翁が振り返る。
「立花どの、笑うのだ。祭の輪に入るには、それだけでいい」
「……ありがとうございます」
こちらは深く一礼して、彼が去って行くまでその場に立ち尽くした。
(これで、良いんだよな)
深川の、人並みの不幸と幸福のなか余生を送る老人に、いっとき知遇を得た浪人として記憶に残る。
(良いんだ)
いなきもまた、彼から受け取ったものがあった。かつて持っていたはずの、今は無い穏やかな日常の記憶。
(忘れない)
老人がそれを忘れたとしても構わない。己にとってそれが掛け替えのないものである事は、疑いようが無いのだから。
(ありがとうございます)
もう一度、演技でない礼を胸の内で告げて、いなきは踵を返した。
――祭囃子の楽の中に、不協和音が生まれた。
永代寺の方角から、逆進してくる一団がある。
彼らはそれぞれ楽器を持ち、あるいは歌いながら行進してくる。邦楽の類でない旋律。彼らがそれぞれ演奏する楽器も、ヴァイオリンや金管などだった。その奏でる音は演奏者の腕のせいで、原型を留めながらも奇妙に不快感を催すような質に変じている。
(これは……確か、)
メンデルスゾーン、真夏の夜の夢より「妖精の行進」
うろ覚えの知識で曲目を思い出す。八百八町にはクラシックの類が舶来音楽として少数ながら流入する。祭の路上演芸としてありえないとは言い切れないが。
不協和音は、それだけでは無かった。
楽団の行進が通り過ぎた後に、それを見ていた町人が悲鳴を上げるのだ。祭の熱狂すら冷ます、本物の恐怖が彼らの顔に刻まれている。
曲が切り替わる。「妖精の行進」の次は声楽「舌先裂けた斑蛇」
ろれつの回らない、子供のように舌足らずな歌声で、楽団の男女が合唱する。
――舌の裂けた斑の蛇。来れば厄介針鼠。
――井守や蝙蝠、足なし蜥蜴よ、悪戯をするな。
――王様に近付くな。
『――アハッ』
子供のように、朗らかな笑い声が聞こえた。どこか人の声として不自然な音程の。
その声と共に、楽団が崩れ落ちる。
「……っ」
倒れ伏し、動かない彼らを見て、いなきの肩が強張った。
後頭部に、大きな空洞を穿たれた死体を見て。
『コノ玩具ハ、モウイラナーイ』
仮面をつけた、小男だった。奇矯な声色では判別が付きづらいが、少年かも知れない。
全身を道化(クラウン)の衣装に包んでいる。首まで襟で隠れており、生身の部分が見えない。
「なんだ、お前は」
枯れた声で、いなきは問うた。
この男は、異質だ。御寝所番や零番方のような密偵ではありえない。彼らのような存在に厳然としてある統制のようなものが感じられない。
それに――死体のいくつかに、見覚えがある。
特にうち六人は、自分の手で先程殴り倒したのだ、忘れる訳が無い。
死体の楽団は、零番方と、おそらくは御寝所番と思われる忍たちで構成されていた。
「六孫王府の者じゃ、無いのか……?」
『ツマンナイ。ナニ、ソノりあくしょん』
戯画的な仕草で、小男は肩をすくめてその場で一回転して見せた。
『ネェ、面白イデショ? ソウナンダヨネ? キミハボクタチノ、トモダチナンダカラサ? 雷穢忌役ノ狗ハソウナンダッテ、オバアサマガ教エテクレタ……』
――いなきはその瞬間に抜刀していた。
即座に接近して、袈裟懸けに小男に切り込む。
敵と伺わせるものが一欠片でもあればそれで、この男に斬り掛かるには十分だった。その存在感は余りに異質で、危険であった。理性と本能がもろともに蟻の形を取って脳髄に集るような、たまらぬ不快感で警告している。
するり、と抵抗無く刀刃は男の肩口から入って抜けた。
「……ッ!」
即座にいなきはその場から飛び退く。斬撃に手応えが存在しなかった。水を斬ったような感触。
『アア~、セッカクノ服ガ台無シ……』
やはり戯画的な仕草でしょげかえる男。今の攻撃に痛痒すら感じていない。
『ガッカリダヨ。楽シンデクレルト思ッテ、催シモノヲタクサン用意シテイタノニ。ホラ、コンナモノダッテ……』
「――貴様ァッ!!」
男が何かを懐から出そうとした時に、後方から叫び声が上がった。
――誰だ、この男は。
現れた老人を見て、一瞬、そう思った。
狂気を起こす一歩手前まで憤怒に汚染されたその表情を、あの朗らかな老人が浮かべる事が、いなきの発想には無かったからだ。
鶴翁は、抜き身の刀を下げて小男に近寄っていこうとしていた。半身を鮮血に染めている。老人の歩みは確かで、それ程の出血をしたとは考えられなかった。
――なぜ。
なぜ、子供を一人も連れていないのだ。
『アレ、サッキノ爺サンジャナイカ』
「貴様、よくも、よくも……!」
『アンタノ萎ビタ首ハ、見栄エガシナイカライラナイヨ?』
と、小男は言って、
懐に入れた手を抜き取って見せた。
男の手に乗るのは、やや歪な球体。
頬の、ふっくらとした、子供の――
『コンナ風ニスルニモ、大キスギルシサ』
男は取り出した首を宙に放り投げる。軽々とした手さばきのトスジャグリングだった。それをただの物体としてしか見ていないと分かる軽やかさ。
子供の首を使って中空に輪の軌道を描き、血管に残った血をびちゃびちゃと浴びながら、男は。
決壊した。
『アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!』
「ああァァアっぁぁあああああああああああああああっ!!」
男の哄笑に釣られたように、鶴翁も理性の箍を叩き壊して突進する。
「――止めろ! そいつに近寄るな!」
鶴翁は、いなきの制止を聞かなかった。老体に力を満たして、突撃の勢いで男の胸を突き刺す。衣装の背から切っ先が生える。気優しい老人が発揮した武力の、もしかしたら生涯最良のものではないかと思えるような一撃。
そして、それには何の意味も価値も存在しなかった。
子供たちの生首が、男の手から離れてぼとぼとと鶴翁の周囲に落ちて転がる。
『ナカナカ、面白カッタヨ、オジイチャン――バイバイ』
男が囁きかけ、そして紅蓮が踊った。
地面から吹き出した火焔が、鶴翁の全身を呑み込む。
「ぐぉおおおおおおおお――」
断末魔の悲鳴すら、一瞬のみの事であった。
炎が風に吹き消された後に、全身を炭化させた老人が自重で足を砕き、崩れていくのを、いなきの目は確と見る。
その時、町人たちの理性も破壊された。押し合い、へし合い、少しでもこの怪人から離れようと駆けていく。踏み潰された人間が数人、その中に見られた。
『セッカクノオ祭リナノニ、花火ガ足リナイヨ』
男の声音に、絶望的な程の悪寒を感じた。
周囲へ警告しようとしても間に合わない。この密集ぶりでは意味も無い。いなきは再び男に接近し、今度は首を狙って斬撃を放つ。
仮面が空に舞い、
『バーン』
首から上の消失した男が、言葉を発した。
どこからともなく現れた黒い霧のようなものが、逃げ惑う民衆に纏わり付いて――爆ぜた。
炎が吹き上がり、烈風が荒れ狂う。吹き飛んだ無数の焼死体が民家に叩き付けられて、鶴翁と同じような末路を辿る。
『キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!』
その有り様を見て腹を抱えて笑い転げる男。
思い出したように仮面を拾って被ると、こちらを向く。
『ネェ、ナンデキミハ笑ワナイノ?』
「黙れ……」
『笑ッテクレレバ、ボクノトモダチニナレルノニ』
「黙れ!」
叫んで、一歩退く。感情とは真逆の所作だが、習性と化す程に根付いた戦況の考察が、男の不可解な攻撃手段、防御手段の謎を解くまで、己の攻撃は何の意味も無いと教えている。
――立花どの、笑うのだ。祭の輪に入るには、それだけでいい。
あの老人と酷似した言葉を男が言ったのが、不愉快で仕方が無かった。
納刀し、いなきは吼えた。
「貴様は、殺す」
焦げ付いた殺意を向けられた男は、それをため息一つで応える。
『ツマンナイ。キミハヤッパリ玩具ッテコトニスル。人形ニシテ、キミノトモダチトノ遊ビ道具ニナッテモラウヨ』
男の声には殺意が一欠片も感じられない。ただ、命を玩弄(がんろう)するという意志だけがある。
怖気のするような虚無が、人の形を取ってそこにいる。
『御門八葉ガ一、大宇智家当主、日数。来ナヨ、ニンゲン』
御門八葉――
六孫王府黎明期の激戦にて王を守護した八つの氏族である御門葉家。その頭領であり、各自の家から当代最強の憑人が選出される。
名家でありながら、血筋でなくただ能力のみを当主の資格とする理由は、王の近衛たる事が彼らの存在理由だからだった。その証として、彼らは現実史における源氏の所持していた八領の甲冑の銘を称号として受け継いでいる。
日数、月数、沢瀉、膝丸、薄金、楯無、八龍、産衣。
歴代の八葉と雷穢忌役は数度矛を交えている。彼らを幾度か討ち果たした事も記録されていた――一人の殺害につき数十人の精鋭を損耗した、という記録が。
彼らの能力への畏怖からか、忌役の武官は彼らを他の憑人と区別してこう呼んでいる。
魔人、と。
記録された戦死者には、不可知領域に駐留経験のある一等武官も含まれている事を思いだして、いなきは指先に震えを催した。妖魅との戦闘をこなした掛け値無しの最精鋭。その一人のみと相対しても、いなきは必勝できると言い切れない。
(……だから、なんだ)
指先の震えを、止まらねば切り落とすと念じて静める。
六孫王の近衛たる彼らと戦う事は、避けて通れないと知っていたはずだ。町中でこのような野放図な攻撃を受けるとは思わなかったにせよ、その点だけは予定の範疇だ。
目の前に敵がいる。戦わねば死ぬ。
(なら、殺す)
それだけだ。
いなきは考察する。日数の物言いから、もう自分を殺すのに何ら躊躇いを覚えないだろう事が察せられる。この男は化物気取りで人間を見下しているようだ。いなきを楽に殺せると考えている。常套の手段を用いるはずだ。常套の手段とは何か。散乱する死者はどうやって殺されている――
いなきは即座に前進する。後方で、爆発音と共に熱風が吹き寄せる。
『アハッ』
日数は、犬猫が仕込んだ芸をやり果せた時のような歓声を上げる。その脇腹を切り抜ける進路でいなきは駆けて――
視界の右端で生じた黒い霧を見て、左に飛び退く。吹上げる猛火の余熱が、頬を炙った。
(この、霧だ)
これを爆発させるのが、日数の主要な攻撃手段だ。黒い色彩から火薬の類を想像させたが、黒色火薬に中空で自在に発生し狙い通りに発火する性能など無い。
(奴は憑人だ。この発破術も、その能力に由来する)
日数が何の憑人であるか分かれば、能力も判明する――
『ソォラ、踊レ、踊レェ~』
愉悦に満ちた声で、日数はいなきの周囲に黒霧を次々と生んでいく。以前までの爆発から、黒霧の爆発半径は理解していた。その間を縫うように移動していく。
(なんだこの匂いは……)
度重なる爆発で生じた煙の匂いは、硝煙のものとは違っていた。色も火薬の発火したものとは異なる。この色は――
(石油、か?)
八百八町では軍船のみに見られる石炭を用いた蒸気機関、これの発する黒煙に酷似していた。
(石油を発生させる生物なんて、いるのか?)
爆発を回避しながら、推測に手詰まりが起こった事を自覚する。日数の攻撃だけでは推理の材料は乏しい。
――虎穴に入るか。
いなきは決意し、機を待つ。
黒霧の形作る爆発の範囲。上空から俯瞰すれば虫食い穴じみて見えるであろう歪な円の隙間に、日数へと辿り着くか細い道を見出して突進した。
抜刀し、左側から斬り込む。
『オ気ニ入リノ服ヲマタ刻マレルノハ御免ダヨ』
その眼前に黒霧が生じ――爆発の前に、いなきの姿はかき消えた。
『――ア?』
右側から斬り掛かる陽刀が、道化の衣装の背中から入って腹から抜ける。
裂け目の奥に、黒霧が見えた。
斬撃に手応えの無い理由は判明した。この男の身体を構成するものもまた、爆発物と同一の黒霧なのだ。日数は、身体の一部を爆破している。
能力の異常さは理解したが――それでも、正体は判明していない。むしろますます分からなくなった。霧状の動植物などといった、博物学者を発狂させるような代物に心当たりは存在しない。
反撃を警戒して飛び退いたところで、日数がせせら笑う。
『ムダムダ、ボクハ、不死身ナンダカラ』
(……つまり、殺す手段はあるって事か)
憑人が口にした失策に、いなきは匙一杯ぶん程度の安堵を覚える。本当に不死ならそれをわざわざ強調する必要は無い。そして、この状況でそれを言ったという事は――
(あの身体への攻撃には、効果があるという事か?)
日数はそれを危惧しているのだ。
(今の攻撃で被害が無かったのは確かなんだ……それは思い込みか? 霧状の生命体に痛覚があるとも限らない……いや、どちらにせよ、決定的なものでは無かった……それが覆る条件があるのか? 部位? それとも手段? ……くそ、情報が足りない)
何にしても、必要なのはそれだ。いなきはまだ、虎穴に飛び込む必要があった。
「こちらも変わりはしないさ」
いなきは自信を演出した声で憑人に告げる。
「言っちゃなんだが、お前、狙撃が下手だぜ。一晩費やしても俺を捉える事はできないだろうな」
事実ではある。憑人は忌役の蠱業遣いと比べても高い基礎能力故に、慢心からか動きが雑になる傾向がある。その最高峰である日数の発破術には、それに由来する精度の不足が見られる。そうでなければ彼に接近する事すら不可能だったはずだ。
「奉公衆が討伐隊を出してくるまで、俺と遊ぶか? いくら御門八葉とは言え、ここまでやった以上は連中も許しちゃくれんだろうな……」
背後で家屋を焼く猛火に背を炙られつつ、いなきは挑発する。
日数は、けたけたとそれに応じる。
『アンナ連中ニ、玩具ヲトラレルノハヤダナァ~、スゴクイヤダヨ』
ダカラ、と日数は虫の羽音を言葉にしたような声で告げた。
『少シ早イケド、フィナーレト行コウカナ』
再び正面に黒霧が複数発生する。
いなきは前言を証明するように、爆発の安全地帯を即座に見出してそちらへ駆ける――
足首を掴まれ、挙動を封じられた。
「……ッ!」
焦燥と共に足下を見やり、戦慄する。
半身の炭化した、明らかに致死の火傷を負った人間が両手でこちらの足首を抑えている。
「く……そっ!」
その場に倒れ込み、死体の顔面を蹴りつけて引き剥がし、転がって逃れる。
――脱出が遅すぎた。
耳元で鳴り響く轟音。
「ぐ……がっ、あっ!」
間近で爆炎に晒され、衝撃に耐える。地面を転がり身体についた火を消し立ち上がる。
目眩に霞んだ視界の彼方、先程日数が爆破した地点で未だに猛る火焔の奥から、安物の悪夢じみた光景が出現する。
焼けた死体が、こちらに向かって走ってくる。
『D~aaaawn of the Deeeeeeeead……』
指揮者がタクトを振る真似か、緩やかに手振りをしながら日数が言った。
(クソッ、俺は大間抜けだ……こいつには、死体を操る能力もあった!)
飛びかかってくる焼死体の胴体を両断しつつ、いなきは自分を痛罵する。移動しながら今し方負った火傷の程度を知る事は難しかったが、少なくとも手足に問題は無いようだった。
休む間もなく側面に発生した黒霧から離れる。これで黒霧と走る死者、その二種の攻撃に対処せねばならなくなった。
相生剣華の行の型で前方、後方から迫る死者を斬り払いながら、いなきは焦燥にうめいた。
(憑人の〝因子〟は一種が原則……死体の操作も、発破術と同じあの黒い霧によるものだ)
どのような生物が、そんな芸当を可能にする?
解けぬ難問。一息つくのも許さぬ猛攻に晒されながら、それを考える事はいなきの集中を加速度的に磨り減らしていく。
不可避の隙を突き、とうとう死者の一人がいなきの手を掴んだ。
いなきはそちらを向き――瞳の奥に、絶望を宿した。
彼の腕を握る死体。眼球が炭になって崩れた跡の眼窩が、死体の行く末に通じているかのように暗い。
その焼け残った頭皮の一部に、覚えがある。
鶴のように、白髪頭の頂点だけが赤毛の――
『バイバーイ』
けたけたと愉しげな日数の言葉の直後、老人の頭は黒い霧に覆われ――爆ぜた。
――立て。
大編成のオーケストラじみて五月蠅く鳴り響く耳鳴りの中、声が聞こえる。懐かしい、厳しさを含む声。
彼女がそうした声音を使うのは、叱咤の時のみだった。近場に近習のいない時は、武将らしからぬ甘い声をかけてくれたのに。
(咲耶様……俺は)
――主(ぬし)は、敗北してはならぬ。
鈍痛の中、力なく伝えようとした言葉を、口から放つ前に否定された。
声音が、醜く歪んでいく。
――主にそれは許されぬ。
――ほぉら、
夢の中で伸ばされた指が、いなきの腕を差した。それを掴んでいた、半ば炭化した手は肘から先が切り離されている。
――不当に巻き込んだ恩人を斬り刻んでも贖わねばならぬ負債が、主にはあるのだから。
「……っ、ぎ」
完全に目覚めてみれば、指の幻覚は綺麗に消え失せた。周囲を見渡せば、半焼した民家の中に倒れ込んでいるのだと分かる。爆破の衝撃で、吹き飛ばされたのだ。
いなきは鉛を皮膚に貼り付けたように重い上半身を引き起こし、傷の具合を確認する。頬に引き攣れた痛みを覚えて触れてみれば、黒い炭の粉が指につく。顔面が焼けただれている事を想像して恐怖に震えるが、そこまでの激痛は無かった。神経まで焼けるほど重度の火傷なら、既に死んでいるはずだ。
目に映る身体の各所の火傷も、動作に支障の無い範囲に収まっている。
爆破の瞬間、鶴翁の腕を切断して飛び退いた為に。
とうとう力尽きて剥がれた鶴翁の腕を見つめて、いなきは内心で告げる。
(……俺は、死ぬ訳には行かない)
死肉を喰らう悪食の狗となっても、目的を果たすまでは死ねない。
だから、
(俺は殺し続ける……俺の敵を)
お前もその一人だ、日数。
――いなきは、頬を拭った指先を再び見つめる。
(お前の謎を、解いたぞ)
民家から潔く出てきた忌役の少年を認めて、日数は愉悦を深くする。あともう少しで、建物ごと爆破するというつまらない殺し方をする所だったのだ。
火の粉を踏み潰して歩み寄りつつ、忌役は言ってくる。
「聞いた、事がある……」
その足取りはダメージのせいか重い。口調もまたその重さに引きずられたようなものになっている。
「御門八葉たる資格の一つに、〝障気の制御〟があるのだと……本来は周囲の事象を散漫に歪めるのみの障気を操作し、指向性を持たせる……」
と、彼は自分の指先をこちらに見せた。〝日数そのもの〟、その死骸がこびりついている。
「水棲微生物(プランクトン)の集合体……本来なら脆弱な存在を、その技術が強化した。微生物を障気により急速に化学変化させ、炭化水素へと変質、爆破する。人体操作は、脳や神経系に取り憑いたお前の分身が生体電流で操っているのだろう。……それが、お前の能力の正体だ」
『アハッ』
少年の開陳した推理に、日数は感情をこぼすように笑った。
自分を理解された事が、日数には喜ばしかった。やはり雷穢忌役というのはお祖母様の言う通り、他の玩具とはひと味違うようだった。
『スゴイスゴイ、大正解ダヨ。景品ヲ進呈スルヨ』
手振りして、少年の周囲に待機させていた焼死体の操作を開始する。発破の準備も並行して行う。黒霧の操作は中々に困難で、彼の指摘した通り死体操作も発破術も精度に欠けている。練達の武芸者であれば、回避はさほど難しくも無い。だが、物量で押せば問題無く仕留められるだろう――
突進してくる彼らを、忌役は見向きもしなかった。
彼らの間を通り過ぎて、日数と焼死体の間の地面を斬りつけただけだった。
それだけで、死体は操作から離れて自然のままの骸へと還る。
『……エ?』
「お前の能力は理解した。その制約も」
そう言う間にも、少年は爆発寸前の黒霧と日数の間の地面を同じように叩き斬る。霧散して、周囲の火焔にその身を焼け焦がしながら大気を舞う日数の一部たち。
「お前は、どのような方法で知性を保持しているのか? 一定量のプランクトンの配列で〝回路〟を構築しているのだと、俺は推測した。なら発破術と人体操作を行うお前の分身も、同じように思考しているのか? 答えは否だ。これらは攻撃手段である以上流動的で、回路と同一のパッケージングは困難だ。余分に分身を消耗もする。お前は指令を送って、これらを動作させているんだ。回線はこのように、地面に配置している」
少年の冷徹な声を聞き、日数の愉悦が凍る。
「司令塔たるお前と、攻撃を行う分身を分断すれば、お前は無力になる」
『――ヒ』
嗜虐心から反転した恐慌に全身――身体を構築する微生物を振動させ、日数は後じさった。
無力、という言葉が、絶望の色をした電流として全身を駆け巡っていく。
もう自分は無力などでは無くなったはずなのに。
生来の病ゆえに寝所から一歩も出られなかった少年時代。周囲に配置された玩具に、手を伸ばす事すら出来なかった。
――力の制御を覚えよ。さすればお主は、その身の脆弱から解放される。それ以上に、最強にもなれるやも知れぬぞ?
祖母の甘い言葉を思い出す。父も母もとうに日数を捨てていて、他家から時折訪れる彼女のみが自分の肉親だった。意趣返しに両親を殺す手助けも、彼女がしてくれた。
かつての無力さを思い出し、全ての自信が瓦解する。寄る辺となるのは彼女だけだった。
『オバアサマ、オバアサマァッ!!』
恐怖の対象でしか無くなった少年から背を向け、日数は逃走する。
――日数が最初の場所からほとんど動いていないのは、この身体が移動に不向きである為だ。
健脚の武人から逃げおおせるはずもなく、日数が振り返れば忌役の少年はほぼ間近に迫っていた。
『ヒィアァアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!』
日数は奥の手を遣う。左手を切り離して、少年に投げつけ――爆破した。
吹き上がる猛火。少年が紅蓮に包まれて影すら消える。
『ヒッ、ヒハハッ、ヤッタァ!』
「――市井と縁の無い武家のお前に、一つ教えてやる」
その声は、炎の奥からから聞こえてくる。
火焔を突き抜けて飛び出してきた少年は、身体の前面を暗緑色の布で覆っていた。それを投げ捨てつつ、
「民家にはこうしたものが、必ず数枚ある。難燃繊維製の防火布だ」
『……ア、ア』
「そこの、それによる事故の対策だな」
少年は指差した。日数の頭上を。
既に彼が投げつけていた、灯明の油を納めた壷がそこにある。
――少年は無造作に鞘から刀身を抜き放ち、壷を叩き割った。
ぶちまけられた油が日数に降り注ぎ、瞬く間に、周囲の火の粉により着火する。
『ピギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!』
瞬時に全身を侵食する熱感に、日数は絶叫した。
斬撃は良い。打撃も効かない。銃撃もそうだ。
だが、これだけは。
全身を隈無く焼き尽くされれば、日数の思考を構築する回路が維持出来なくなる!
『焼ケル、焼ケルヨォッ! 分カラナクナル、ボクガ、分カラナクナル! 消エルケルるるルるルルるるルるるるRRRるるるるるRるぅ!』
「俺は、貴様を殺すと言った」
焚き火を眺めるような無感動な目で、のたうつ日数を見送る忌役の少年。
「だがこれは、仇討ちなどではない。ましてや断罪などでも……貴様は正しかった。俺とお前は、まさに同類だ」
彼はそう告げて、日数に背を向け立ち去っていく。
『ウ……Gu……Rう……オバァ……サマ……』
日数は最期の思考を終えて、少年と逆の方角へ吹く風に溶け、流されていった。
戦いを終えてみれば、周囲の家屋のほとんどが全焼していた。更に火の手が外側へ広がろうとしている。逃げていった町人を追い掛けるように。
火傷の痛みと、軽い酸欠に喘ぎながら、いなきは炎の広がり行く南西の方角へと歩き出し――不意に、後方を向く。
あそこのどこかに、鶴翁の欠片があるのだろう。無残に殺された子供たちがいるのだろう。顔も知らぬ無数の死人が落ちているのだろう。
いなきを追ってきた猟犬に、ついでのように噛み殺された人々。
――何よりもおまえの道は、無関係の人間をゴミのように殺し尽くす屍山血河よ。
かつて妖姫の言っていた通りになった。さすがは八百八町最長老。騙すつもりがなければ、おおむね正しい。
笑い出したくなりながら、それを奥歯を噛みしめる事で自制して、いなきは歩みを再開する。