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No.36842の一覧
[0] あやしや/いなき 六孫王暗殺篇【サイバーパンク剣戟】【完結済】[沖ハサム](2013/03/25 13:08)
[1] プロローグa/兄妹契約[沖ハサム](2013/02/28 20:26)
[2] プロローグb/殺(あや)し屋[沖ハサム](2013/02/28 20:27)
[3] 1a/仮想世界・八百八町[沖ハサム](2013/02/28 20:28)
[4] 1b/妖姫・鎚蜘蛛姫[沖ハサム](2013/02/28 20:28)
[5] 1c/三十六人衆[沖ハサム](2013/02/28 20:29)
[6] 1d/凶手[沖ハサム](2013/02/28 20:29)
[7] 1e/仮痴不癲[沖ハサム](2013/02/28 20:30)
[8] 1f/契約再認[沖ハサム](2013/02/28 20:30)
[9] 2a/芙蓉局[沖ハサム](2013/02/28 20:31)
[10] 2b/深川永代島[沖ハサム](2013/02/28 20:31)
[11] 2c/女帝[沖ハサム](2013/02/28 20:32)
[12] 2d/暗躍の方程式[沖ハサム](2013/02/28 20:33)
[13] 2e/御門八葉[沖ハサム](2013/02/28 20:33)
[14] 2f/好々爺[沖ハサム](2013/02/28 20:34)
[15] 2g/仇敵(師匠)[沖ハサム](2013/02/28 20:34)
[16] 2h/迷走[沖ハサム](2013/02/28 20:34)
[17] 2i/劫火[沖ハサム](2013/02/28 20:35)
[18] 2j/剛刀介者[沖ハサム](2013/02/28 20:35)
[19] 2k/復讐鬼[沖ハサム](2013/03/03 17:54)
[20] 3a/心の分解[沖ハサム](2013/03/01 20:17)
[21] 3b/戦姫[沖ハサム](2013/03/02 21:55)
[22] 3c/少年の矛盾[沖ハサム](2013/03/03 18:08)
[23] 3d/食人貴人[沖ハサム](2013/03/03 18:12)
[24] 3e/隠棲射手[沖ハサム](2013/03/03 18:23)
[25] 3f/転がる石たち[沖ハサム](2013/03/03 18:22)
[26] 3g/遭遇[沖ハサム](2013/03/05 11:48)
[27] 3h/鵺(キマイラ)[沖ハサム](2013/03/18 01:32)
[28] 3i/家族[沖ハサム](2013/03/09 00:42)
[29] 3j/最終戦、開始[沖ハサム](2013/03/15 21:46)
[30] 3k/貴種流離[沖ハサム](2013/03/16 06:40)
[31] 3l/決着[沖ハサム](2013/03/16 20:31)
[32] 3m/鬼哭啾々[沖ハサム](2013/03/17 18:20)
[33] エピローグa/離別[沖ハサム](2013/03/17 07:24)
[34] エピローグb/黄金の季節[沖ハサム](2013/03/17 14:53)
[35] そして[沖ハサム](2013/03/17 14:54)
[36] 後書き[沖ハサム](2013/03/18 01:24)
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[36842] 2j/剛刀介者
Name: 沖ハサム◆6fa9284d ID:9f69eaa0 前を表示する / 次を表示する
Date: 2013/02/28 20:35
 欣厭大路の二つの道を結ぶ最大の橋梁たる永世橋。
 そこに辿り着いたいなきを、橋の中央で待つ男がいた。

「日数を倒したか」

 それが歓喜に満ちて迎えるべき事柄のように、大造りの顔を笑みへと歪ませつつ、巨大な男は言った。僧兵頭巾を被り、着物の内に帷子(かたびら)を着込んで、手には薙刀を持っている。

「かか。なんとも幸運な男よのォ、儂は。大殯に入り、後は退屈な余生を送るのみと諦めておった所に、このような良き兵(つわもの)とまみえる栄を得るとは。善哉、善哉なり」

 くはっはっははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは。
 快活に天へと哄笑を放つ男に、いなきは問うた。表情は強張り、その声音はすり切れている。

「これは、なんだ」
「あん?」
「これはなんだと聞いている!」

 八幡祭の最中でありながら、目抜き通りであるはずの欣厭大路はかつてない程に空疎であった。
 永世橋の橋板には、刺又や突棒、刀槍の類が折られ、あるいは砕かれ散乱している。
 その持ち主である武士たち、そしてそれ以外の橋板に痕跡を残す事のできない、非武装の町人たち――彼らは、橋の下にいた。
 大樹江に浮かぶ小船の間に、本来あるべき隙間は今、存在しない。刻まれ、あるいは砕かれた五体がそれを埋め尽くしている。
 この川は、死体で充満していた。

「おお、これか!」

 男の快活さには、揺らぎ一つ無かった。役者のように良く通る胴間声を使い、男は告げる。

「こうも人が多くては、貴公を見逃すかも知れなかった! それではつまらぬ! ゆえに儂は決めた! 今宵は何人たりともこの橋を通さぬと! ならばここを抜けんとするもの全て我が敵である! 奴ばらめは儂と相対して敗れたものどもよ!」
「お前は……深川の武士ではないのか! 永代島の民を守護するのが役目では」

 いなきは、怖じ気から逃げるように罵声を張り上げる。この男に対してではない。橋の下の死者たちに、痛烈な恐怖を覚えていた。

「青臭い事を申すな、若武者よ」

 対する男の声音には、太陽の如き明朗さしか存在しない。

「そのような下らぬ虚飾に毒されるな。武士の役目とはただ一つ、敵を殺す事のみよ。そうした理屈は、弱者どもが我らの戦の尻馬に乗って利益を得る為に弄した甘言に過ぎぬ。儂らはただ、殺し殺されに耽っているだけで善いのだ」

 平然と言い放った男の瞳の示すものは、あまりに明快だった。そこには、否定、疑念といった類の感情が存在していない。
 この男は真っ直ぐに、己を全肯定しているのだ。
 自分を、信じているのだ。
 ――怪物、であった。

「っ……い」

 そうしたものとは遥か縁遠い苦痛にうめいて、いなきは腰を落として刀の柄に手を掛ける。
 ――何よりもおまえの道は、無関係の人間をゴミのように殺し尽くす屍山血河よ。
 蜘蛛姫の毒に満ちた警句が再び脳裏に反響する。
 ――殺しましょう。屍が水漬く程に――それが叶わぬ時に、死にましょう。
 妹の言葉が、自分の覚悟の不足を責め立てる。実際に水面に浮遊する死者たちを見て、いまさら自分の道の業深さに怯えるなど、なんたる惰弱さかと。
 それでも、問わずにはいられなかった。
 まだ……死ぬのか? どれだけ俺は殺すのだ?
 男はいなきの煩悶など想像すらしていないとばかりの鷹揚さで、薙刀を構えて言い放つ。

「御門八葉が一、足影家当主、沢瀉なり! 若武者よ、参られい!」



   /

 山嶺からの暴風の吹き下ろしじみた薙刀の一撃を、すんでの所で回避する。
 ――現実史では、江戸時代の時点で既に槍の後塵を拝し、婦女の嫁入り道具とまでに形骸化したその武装は、八百八町においては比較的高い地位を得ている。この兵器に価値を見出した未那元家体制が存続しているからでもあるが、何より徒戦にある種の利点を持っているからである(戦闘の様式が都市戦と海戦に限られる八百八町では、騎馬の介入する余地が無い)。
 その利が、いなきの側面から襲い掛かってくる。

「ぬぅあっ!」

 気合いと共に沢瀉が繰り出したのは、薙刀の柄――石突きに装着した小ぶりな刃であった。側面から斬り込もうとしたいなきは、後退を余儀なくされる。
 そこに、果敢に追撃をかける沢瀉。柄の回転の運動力を利用した素早い切り返しで、再び斬撃を繰り出してくる。身体ごと屈めたいなきの頭上すれすれを、ぎらついた刀刃が行き過ぎる。
 古今東西の数々の歩兵武器においても希な攻撃の多彩さを有する薙刀、そしてその性能を活かす男の技術。日数とは真逆の、正攻法の強敵であった。

(近寄れない……!)

 男の構築する刃圏の中に、入っていけない。
 理由は、薙刀の刃部と柄を交互に使う事によるリカバーの早さだけではない。刀剣と長柄が相対した時に、前者が確実に被る不利。

(間合いが、広すぎる!)

 沢瀉は自分の巨体と薙刀の長さを掛け合わせた広大な攻撃範囲を正確に把握しており、有効射程の境界でいなきをあしらっている。
 相生剣華を使っても出遅れてしまう程に、彼我の距離は遠かった。

「くっかかかかかかっ! 小兵めが、もっと知恵を絞らんか!」
「小さくは……ねぇよッ!」

 球形の嵐のように薙刀を振り回しつつ叫ぶ沢瀉に、回避を続けつついなきは叫び返す。
 会話で生じた隙に、攻め手を変える。この斬撃を、自由にしては駄目だ。
 薙刀の払いの軌道に、刀刃を差し出して受ける。打点を外しても、大波を全身で浴びたような衝撃が骨身に浸みた。靱性の高いダマスカス刀でなければ折られていたかも知れない。

「ほぉっ!」

 歓声を上げる沢瀉。

「意外な剛力――されど悪手ッ!」

 そう言って男が放ってきたのは、薙刀ではない。
 丸太を引き抜いて取り付けたような太い脚が、払いの方向の逆側から襲い掛かってくる。
 背筋に感じた戦慄を全力で無視して、いなきは蹴撃をしゃがんで避ける。

「もォう一本!」

 気合いと共に、頭上から強襲する薙刀の石突。

「がっ!!」

 こちらも打点を外したが、男の膂力は想像以上だった。背中を痛撃され、そのまま橋板に叩き付けられバウンドする。
 中空でバランスを取ってどうにか足場を確保し、いなきは後退した。

(力技じゃ、勝負にならない……)

 胸の内で、彼我の格差を認める。
 勝利を諦める言葉では無い。十歳になる前から武術に没頭してきたのだ。力で勝てる相手など、今までほとんどいなかった。観察、考察。経験に優れる大人たちと張り合うに必要なものは、思考を絶えず続ける事。
 そして、思考の導き出した戦術のリスクを、受け入れる事。

(小兵と言ったな。なら、その勝ち口に嵌って貰う)

 そう胸中で宣言して、いなきは再び沢瀉の攻撃圏内に侵入する。第一印象に似合わぬ多彩な攻めを回避し続ける。予定調和的な膠着状態であり、それは沢瀉の思い通りの展開だろう。日数との戦闘を経たいなきと、体格に恵まれた沢瀉のスタミナの差は明白であった。動きを鈍らせて被撃するのはいなきの方だ。
 無論、彼はそれを待つつもりなど無い。

(来た!)

 回避の方向によって誘い込んだ、狙い通りの攻撃にいなきは歓声を上げる。狙いは一点、勝機は一瞬、そこに踏み込む。
 下方から斬り上げられる薙刀の石突。その切っ先の根本に足を置き――宙へ飛び上がる。

「……ッ!?」

 沢瀉は困惑の極みにあるのだろう。彼はいなきの姿を捉えられていない。いなきは、ただ男の斬り上げの力を利用して跳躍しただけではないのだ。
 インパクトの瞬間、いなきは己の体内を操作した。
 全身の筋肉、特に深層筋を動作させる事で重心を上昇させ、一瞬、下方にかかる力をゼロにする。
 斬り上げの力を全く殺さず、急加速で上昇する。沢瀉の感じた手応えはほとんど無かったはずだ。

 ゆえに――彼は完全に、いなきの姿を見失う。
 大陸の拳法における、化勁(かけい)、軽功(けいこう)。

(お前たちに憑人の能力があるように、俺たちにもアドバンテージはある)

 沢瀉の無防備な背後に落下する最中、いなきは声に出さず告げる。

(忌役の保有するデータベースに蓄積された武術理論は、お前たちのそれより遥かに広く緻密だ)

 少なくとも武術家として相対したならば、いなきは深川武士の誰にも遅れを取るつもりは無かった。
 ――沢瀉の背を斬りつける事で、いなきは自身の位置を彼に教える。
 分厚い岩のような背筋に、深々と切っ先が潜り込んだ。駄目押しに、相生剣華・草ノ行――峰を陰刀で押し込む事で更に傷を抉る。
 胸腔奥深くの肺に斬り込んだ手応えを感じ、いなきはその場から飛び退く。鼬の最後っ屁よろしくの一撃を喰らっては面白くない。
 それは、勝敗が決した事を確信した思考である。
 ――そして、その想定は直後に裏切られる。

「くはっ」

 巨漢は背を向けたまま、

「ぐあっははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははッ!」

 濁った哄笑を上げた。
 明らかに呼吸器に損傷を受けたと分かる声でありながら、そこに苦痛の色は一欠片も存在していない。
 沢瀉がこちらを振り向く。口の端には、やはり血の泡が浮かんでいる。

「好い、やはり好い。強者との血沸く戦は愉しい。海魔の率直な強さも素晴らしいが、こういう搦手も有りだのォ。致命傷を受けたのも、初めてである! 痛い! とんでもなく痛い! おぉ、痛快という言葉はこういう事を言うのか!」

 冗談めかして言い放ち、更に哄笑を重ねる。
 いなきの内心は、彼の剛胆とは程遠い所にあった。

「効いて、いないのか……?」

 戦慄を込めて思わず口にすると、沢瀉はそれを聞き咎めて、

「いいや? 申したであろう。間違い無く貴公の太刀は我が命に届いておる……ふむ。あと一刻もすれば絶命するか」

 まるで他人事のようだった。いなきの一撃は、巨漢の肉体を傷付けてもその精神には何ら損傷を与えていない。
 口元から赤黒い血の筋を流しつつも、これまでと変化の無い快活さで沢瀉は言った。

「貴公と決着を付けるには、十分よ」

 ――ぎぢり、と。
 巨漢の筋肉が、更に膨れた。
 内に着込んだ帷子ごと僧兵の衣が破れ、そこから覗くのは深緑の外皮。
 武術家として相対したならば、深川武士の誰ともいなきは負けるつもりは無い。
 そして、深川武士の頂点たる御門八葉は、武術家などといった脆弱な存在ではない。

「愚げっ、ゲ臥ッ、がががガGAGAGAGAAA阿亜AAあAAAAAAAAッ!!」

 その音は人のものとはかけ離れた怪奇を示しながらも、どこか赤子の産声に似ていた。
 変異を遂げた沢瀉――巨大な、人型の甲殻生物の、漆黒の眼球がいなきを捉える。
 感性の奥底から発してきた警告が、いなきを後方へ飛ばせた。橋の欄干を超えて、川を眼下にする中空へと。
 遠く離れて沢瀉の全容を見定め、その脅威の姿を知る。
 高々と掲げられた、右腕の倍ほどにも肥大化した左腕の鎌。

『斬ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアンッ!!』

 裂帛の叫声――その瞬間、それ以外には何の音も存在しなかった。
 遥か天空に構えられた鎌は、そこから消失していたというのに。
 いなきはその理由を知る――音より先に推進する斬撃の発した衝撃波(ソニックブーム)を受け、吹き飛ばされる事で。

「があっ!」

 悲鳴を発しながらも、いなきは全力で体感覚の把握に集中する。衝撃波の威力ゆえに、滞空時間が長かったのが幸いした。天地の位置を把握し、落下点を見定める。最適の受け身の体勢を取り――後は、全てを覚悟するしかない。
 大樹江に滞留する小船の一つに着地、というより墜落し、船ごと一丈(3メートル)も押し流されてようやく止まる。
 身体の発する信号を全て無視して即座に立つ。直後、肋骨に激痛を覚えたが、それについて考えるのは後回しだ。

 沢瀉の周囲は、惨憺たるものだった。
 いなきの落下した地点より十丈(30メートル)も離れたそこでは、攻撃の余波で永世橋が破壊され、橋板の破片を川の中に散乱させている。
 それらの中央にあって、水中に半身を沈めた巨大な甲殻生物。

(青竜蝦(シャコ)……か!)

 今し方受けた攻撃を考えても、疑いようが無い。青竜蝦という海棲生物は鎌状の補脚を持っており、これを叩き付ける事で貝を割り、捕食する。
 その際、補脚の速度は音速に達するとされる。
 御門八葉の怪人、沢瀉の場合はそれだけではないと、いなきはその全身を観察して理解する。
 通常の青竜蝦とは違い一本のみの、補脚の役をこなす左腕。それが変異を続けている。
 いなきが注目したのはその逆側、右腕だった。

 左腕の肥大化が進むとともに、右腕の体積が減少している。左腕が、右腕の肉を吸収しているのだ。
 障気で自分の肉体を歪ませ、その組成を変化させている。
 右腕を喰らって、更に強大になっていく左腕。特に、関節が増殖している。
 運動の速度を決定する要因の一つに、柔軟性がある。関節の増加はそれに寄与する。今、それが百節にも達した左腕が保持する速度は、先程と比べても桁違いだろう。
 厳然と、理解する。
 ――俺には、勝てない。

 状況の本質は、先程までと同じだった。沢瀉が保有する広い間合いを、いなきが攻略するという。
 ただ、彼我の能力差が格段に開いており、いなきの勝利の可能性をゼロにしている。
 沢瀉の攻撃範囲は三倍ほどにも伸張し、何より、速度が人間の知覚に捉えられる領分を大きく逸脱している。
 猛禽とほぼ同性能のいなきの視力であっても不可能だった。
 相手はただ、間合いに入ったものを自身の最大の武装で攻撃するだけで良い。単純明快で、強力無比の剛剣。

 ――〝き〟と、同一の戦型。
 それが彼女より遥かに劣るとしても、いなきに対処出来る範囲を超えている以上は同じ事だった。
 逃げる、という選択肢は存在しない。川は、水棲生物たる青竜蝦の領域だった。この場で逃走を始めても追いつかれる公算が大きい。
 倒すしかない。
 そして、沢瀉の能力がいなきを超越している以上は――自身の能力の、限界を超える必要がある。
 その手段を、いなきは教わっている。
 それを教えたのは師では無かった。

(同一の戦型……それでいて、この男があいつより劣るのは……あいつが、絶対的な知覚圏を持っているからだ)

 ――瞑想の効果とは、意識の変容です。世界そのものが変質する訳ではありません。ただ、流入する情報の入り口が広くなる為に、世界の観え方が変わるのです。空間も、そして時間も、あるいは言葉にすらできぬ観念も。
 妹はそう言った。
 ――わたしは、それを修得する事のみを目的とする環境で育てられました……だからこれだけは、あなたに教えられます。けれど、
 戦闘に不要な回想は切り捨てて、いなきは習い覚えた技を行使する。

(〝巫術〟――鏡花水月)

 呪文(コマンド)を自身に入力する。戦闘中に瞑想状態に入るには、こうして意識にスイッチを作る必要があった。パッケージングされた瞑想の工程を解凍して、処理をRUNする。
 未那元宗家第一王女・斎姫が修得している瞑想術は、一般的な通説である思考からの解放とは真逆のものだ。目的を設定し、過程を明確にイメージする事で完成される。存思、と彼女は呼んでいた。

 いなきの場合は、鏡花水月――鏡に映る花、水に映る月を掌握する事を空想する。その為に即した精神を構築する事で、己の心を超人の領域に引き上げる。
 五感の概念を捨てる。
 思考の基幹は脳髄ではない。
 皮膚、毛髪、眼球、筋肉、骨格、内臓、全てが思考し、全てが感覚する。

(速く)最大倍率の顕微鏡で覗くように(疾く)イメージの花と月を観測する(もっと)花の細胞、月の鉱物の組成を寸刻みで解体し、情報を喰らい尽くす(遅い)人の感覚でフィルタリングされていた美しいそれらの実相を把握すれば(鈍い)吐き気を催す程に醜かった(はやく)捕食をする。ガスがある。萎れる。滅びる(はヤク)それを無視して更に深く深く深く深く深く観測を続ける(は)完全にその存在を理解する(や)そうすれば人の手に触れ得ぬものを握り潰したのと同じ事(く)己の精神は、人間を超える――
 そして、内観世界から帰還する。

『※%##@――』

 十丈ほどの近くで、青竜蝦の発声器官らしき箇所から何か音が聞こえている。違うといなきは思う。感覚が加速している時の、言葉の捉え方はこうじゃない。早く修正しろ。まだ間に合う。相手は実際にはまだひと文字ぶんも発声を終えてない。

『この姿には正直なりとう無かったのだが……』

 などと沢瀉は身じろぎしながら、

『あ』
「あまりに早く終ってしまうのでな、愉しめぬ」

 遅すぎる言葉に、先回りする。沢瀉の発言を予知するのは簡単だった。憑人の筋肉のゆるみがその倦怠を教えている。声帯と舌の動きを観察すれば口調まで真似が出来る。

「よく分からぬが、面白い。――まだ、興ずる価値はあるようだ!」

 沢瀉の発しようとした次の言葉を完全に盗み取って――いなきは疾駆した。
 船の縁を蹴って、次の船へ飛び移る。沢瀉へ至る道筋を最短距離で踏破する。

『くはっ!』
「八艘跳とは、洒落が利いておるわッ!」

 加速した知覚の中での、自分の動きのあまりの鈍さに、いなきは焦燥感すら抱いた。体内を感覚し、修正を繰り返し、動作を最適化させる。鍛錬を尽くしたと思っていたが、運動の無駄は手の付け所に迷う程に多かった。
 五艘目の船の縁を蹴った時、船は反動で揺れなくなった。
 軽功の精度が、自重を消すまでに向上したのだ。
 あと〇.五〇七一秒で八艘目――沢瀉の攻撃射程に到達する。
 速くはなった。しかし、超音速には程遠い。あくまでいなきは、人間の肉体が発揮できる性能の限界に到達したに過ぎないのだから。

 ――八艘目の縁に、左足の爪先が、触れる。
 既に鯉口は切られ(沢瀉はまだいなきの、自分の射程内への侵入を知覚していない)
 自重を再び地に落とし(まだ気づかない)
 不安定な足場を崩さぬ、最小の力加減で踏み込む(今、感知した)
 発生した反動を体内で循環させる(補脚の筋肉が駆動する)
 切っ先が鞘から抜ける(補脚が推進を始める)
 ――振り下ろされた補脚の関節の内、半ばにある一つに切っ先が一寸、潜り込んだ。
 それが斬撃を、小さく押した。沢瀉の〝鎌〟はいなきの頭上遠くを通過し、水面に叩き付けられる。

 だが、それだけでは不足。
 鎌より遥かに広い攻撃範囲を持つ、超音速の恩恵である衝撃波。
 ――巫術による超感覚は、自然現象も知覚の範疇に納めている。
 粘った空気の塊を、相生剣華で具象化した陰刀が切り裂いた。
 吹き荒れる乱流。だが、肉体を破壊する程ではない。
 足場から、強い力が発生する。沢瀉の斬撃による衝撃で水面が盛り上がり始めている。いなきは再び軽功を使い、水面の爆発に乗って跳躍した。
 そこで、集中が切れる。

「……っ!」

 情報量の減少にパニックを起しかけつつも、摩耗した精神を更に酷使してそれを押し止め、姿勢を立て直す。落ち着け! どちらにせよここからはもう感覚の増幅は必要無い!
 沢瀉の首にしがみついて、甲殻の隙間から首を刺した。

『ごあ……っ!』

 口から吐き出された血泡が、いなきの頬を濡らした。
 それだけでは足りぬと、いなきは貫手を沢瀉の眼球に突き刺す。水晶体を押し潰した不快な感触を無視して更に深く手を潜らせ、脳を探す。今仕留め切らなければ、自分は負ける!
 柔く生暖かい手応えを指先に感じ、それを掻き回した。

『ごあAAAアァあAああああああああああああああああああああああっ!!』

 沢瀉は絶叫を上げて身体を振り回す。いなきは吹き飛ばされて、川の対岸に落ちた。

「……ぐっ」

 既に折られていた肋骨に衝撃を受けて、苦痛にうめきながら、それでもいなきは動き続ける。地虫のように這って、逃げようとしていた。万策尽きた。戦う力が残っていない。その上、すぐにでも反動がやってくる。そこを襲われたら確実に死ぬ――

『待てい! 若武者よ!』

 その背に、声がかかった。振り向けば、川に立ち尽くしたまま沢瀉が静かにこちらを視ている。

『逃げずとも良い。貴公の勝ちだ。間も無く儂は死ぬ。……勝者の背中を、儂の末期の風景とせんでくれ』

 青竜蝦の魔人の声は、どこまでも安らいでいた。

『九千百五十八』

 沢瀉は一言、その数字を告げる。

『戦を、儂は人の数で覚える。勝ちもした。負けもした。強者もいた。弱者もいた。愉しくもあった。つまらなくもあった。何にせよ、儂は戦しか知らず、他の事を覚えてもおらん。当然、戦で死ぬものと思うていた』

 不意に、沢瀉はうめき声を上げる。命の終わりを示すそれすらも、今は小さかった。
 あるいは、耐えたのかも知れない。雄々しく、あくまで武士らしく。

『だから、大殯まで生き残ってしまったのは、我が一生の不覚であったのだ。倦怠に満ちた死を迎えるはずだったのを、この大樹江にて貴公とまみえた縁。儂は御仏の加護とも思うておる。このような仮初の庭にも、そんなものがあったのだな』

 怪物の面相に表情の判別などつきようも無かったが、それでも、男が笑っている事はどうしようもなく理解できる。
 一言、沢瀉は言った。

『ありがとう』

 それきり、魔人は沈黙した。立ったまま、絶命したのだ。
 その足下には、砕かれて死んだ人々がいる。
 水面に浮遊する肉塊――それに、雨がひとしずく落ちた。
 ぽつ、ぽつ、と。やがて本降りになるまで、いなきはその場に倒れ伏し、

「ふざ……けるなッ!」

 地面を掴んで、叫んだ。

「笑って死ねるような奴がッ! 礼を言って死ぬような奴がッ! どうして殺すんだ!こんな……なんで」

 頬が雨に濡れる。涙などではない。断じて。
 泣いて自分を慰める資格など――

「お前には、無いよな」

 水面から、声が聞こえた。

「……っ」

 浮かぶ死者が一人、立ち上がってこちらを見ている。それをきっかけに、一人、また一人と死者が水面に立ってこちらを見定める。
 その死者の群れには、ここで死んだのではない鶴翁の姿も混じっていた。

「ヒっ」

 幻覚と分かっていても、悲鳴を上げてしまう。

(……反動だ)

 巫術の反動。精神の酷使は当然、精神に負荷をかける。幻視、幻聴、妄想。思考の混乱。〝き〟は巫病と古風な呼び方でそれを呼んだが、病理学上は違った名がついている。
 統合失調症(スキゾフレニア)と。
 ――鶴翁が、自分を見ている。眼球が焼け落ちて窪んだ眼で。

「そこもとの戦いに、某は巻き込まれた。この無垢な子供たちまで」

 その周囲に、自分の首を抱えた子供たちが現れる。

「貴様に何の資格があって、そんな真似ができるというのだ」

 死者の問いかけに、いなきは答える言葉を何も持たなかった。事実、自分にそんな特別さなど、資格など、ありはしないのだから。

「なら、なぜ続ける?」

 幻覚ゆえに、自分の思考そのままに鶴翁は問いかけた。

「これ以上そこもとの為の死者を増やしたくはないのなら、貴様はここで朽ち果てるべきだ。そうではないのか?」

 その通りなのかも知れない。いや、きっとそうなのだろう。
 そう思考した瞬間に、堰き止められていた疲労が雨と共に降りかかってきた。
 暗幕のように落ちてくる眠りに、いなきは感謝した。己が無数に重ねた罪の姿を、これで見る事はなくなるのだから。


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