目を開けると、道場の床にぽたぽたと汗を垂らしながらも必死に木剣を素振りしている子供の姿があった。
いなきは自分が目覚めた訳ではなく、夢の中にいる事を悟る。子供がいる場所は町道場の類ではなく、百人単位で人を収容する雷穢忌役の練兵場であり、その子供は平均的な八百八町人の特徴とはかけ離れていながら、渡来人の類とも異なる――金髪、金の眼をしていた。
自分の幼少時代、なのだと思う。
ひたむきに修錬に励む子供の顔を、そうだと確信する事がいなきには出来なかった。
子供の表情には、輝きしか、自分を肯定するものしか存在しなかったからだ。
故郷を滅ぼされた怨恨は、今自分の顔を覆っているものほどの影をあの子供に落としてはいなかった。明確な仇敵の存在があり、それを倒す為に鍛錬を続けている。そこに疑いは一欠片もありはしなかった。
――だって蠱部尚武はおれの村をなくした。みんなをころした軍の大将で、それに、さくやさまをころした悪いやつだ。
あいつをころすことは、正しいことなんだ。
――当時の自分の思考の多くを占めていたものを思い出し、衝動的にあの子供をくびり殺したくなる。
自分を正しく愛せるのは自分だけ、という意見も世にはある。美徳を、努力を、功績を誰より知っているのは自分なのだと。
それならば逆の事も言えるのではないか。
自分を正しく憎めるのは。醜悪、愚劣、罪科の実際を知る事ができるのは、それも自分だけなのだ。
だからいなきは、自分を嫌悪している。
――遠い、と感じる。あの子供と自分との距離がひどくかけ離れたものに見える。
それは、今の自分がどうしようもなく抱える歪みに起因するものだ。
どうしてこうなってしまったのか。
武州の滅亡ですら与えなかった歪みを、あの子供に与えてしまった日はいつか。
はっきりと思い出せる。
十三になる前の、ぬるい雨が降り注ぐ夏の日――
唐突に脇腹を襲った痛みに、眠りの世界から釣り出されるようにして、いなきは跳ね起きた。
「あ、ご、ごめん兄ちゃん」
頭上から申し訳なさそうな声が降りかかってくる。何を謝っているのか分からない。視界が悪く、状況が把握できていない。砂嵐が吹いている。真っ白な嵐がざぁざぁと眼前で荒れ狂っている。自分は、砂漠にでもいるのか。
あれ?
さばくって、なんだっけ?
「……がっ!」
脇腹の痛みより増して神経に障る頭痛に悲鳴をあげる。脳髄を内側から金槌で殴られ続けているような痛み。
(はんどう……はん動……これは、反動だ)
何の、とは思い出せないが。ともかく耐え続けていればこれはいずれ収まる。あれをやった後は、ただひたすら嵐が過ぎるのを待つようにしろと、誰かが言っていた。兄さま、と。なぜか懐かしい響きのする声が聞こえてくる。
――けれど、兄さま。覚えておいて下さい。
巫術は、あなたに適合しない。
おそらくは精神の在り方の問題なのでしょう。あなたは、本来〝専心〟する事にまるで向いていないのです。……あの時見た兄さまの本質は、おそらくそれとは真逆の、
……すいません。なんでもありません。
ともあれ、巫術を使うリスクは、わたし以外の誰であっても発生します。
しかし、あなたは誰よりもそれを大きく被ってしまう。
精神を摩耗させ続ければ、いずれ、還ってこれなくなる。
兄さま、わたしは、
「兄ちゃん! 大丈夫か!」
「……死にそうだ」
耳元で怒鳴りつけてくる子供の声に、幻聴がかき消される。幻聴、と自覚すれば全ての幻覚が消えていく。周囲には吹き荒れる砂嵐など無く、どこぞの廃屋と分かる、壁板のあちこちが剥げた部屋に自分は横たわっていた。
隣にいるのは妹ではなく、更に年若い少年だった。明るい、日なたにある土のような髪色をした――
「し、死ぬとかそんな弱気な事言ってんなよ! おれ、脇腹ふんづけただけだぞ!」
確か、蒲といった――鶴翁の養っている、いや、養っていた子供。
「お前、生きて……」
「うん」
こくり、と蒲は頷いた。
「おれ、鶴じいたちを置いて、ひとりで先に出店に行って……飴を買って戻って来たら……文汰も、なみも、河次も……鶴じいも」
泣き明かした後と分かるかすれた声音が、段々と湿っていく。表情も、一夜を泣いて過ごした為に力が入らず無表情とすら取れるものになっていた。
二度も親を失った子供は、哀しみにくれていた。かつての自分と、同じように。
「でも」
どう声をかけるか迷っていると、蒲はふいにそう声を上げた。かすかな、明るさを交えた声音だった。
そう言えば――といなきは今更に疑問を覚える。この、自分に反感を覚えていた子供がなぜこんな友好的な態度で自分に接するのか。しかも状況からして、蒲は気絶した自分をこの廃屋に運んで面倒を見たようだった。
どうして。そんな道理は、全く存在しないはずなのに。
半ば寝惚けた頭で子供を見つめていると、その口が笑みの形になって言葉を吐いた。
「兄ちゃんが鶴じいの仇を取ってくれたから」
「……え?」
いなきは、ぼやけた頭に不協和音めいたものが響くのを聞いた。想像だにしていなかった言葉を耳にしたような気がする。
この子供は、何を言っているのか。
まとまらない思考に、蒲は次の言葉を差し込んでくる。
「それに、橋で人をいっぱい殺したバケモンも倒して――みんなを守ってくれた。すっげぇ強い侍なんだな、兄ちゃん」
……?
……………………………………………………………………………………?
…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………?
仇を、取った?
みんなを、守った?
何を、言っているのか。
そんな、事実とは真逆の事を。
俺は――
(……そうか)
子供の顔を見て、ようやくいなきは蒲が何を思っているのか気づく。その表情には、あまりに見覚えがあったからだ。
この子供が今、示しているものは、
憧れだ。
――すごいですね、林座(りんざ)さん。
――おれも、林座さんみたいに強く、
ゆるんだ精神の隙間を縫うようにして、過去の言葉がにじり寄ってくる。
それに触れて、現在のいなきは反応を返した。顔を歪ませたのだ。子供が率直に示す愚かさへの、嫌悪に満ちていた。
「……馬鹿餓鬼が」
侮蔑を極めたような一言が、自然と口から漏れる。蒲は、それを察する事もできずに首を傾げた。
そこに、叩き付けるように叫んだ。
「奴らは、俺を追ってきたんだ!」
実際に殴られたように、蒲の顔に驚きが浮かぶ。いつもの、敵を倒す時のようにその隙を突いた。
「俺は九重府の殺し屋で、奴らは六孫王の近衛だ……俺は、俺の敵と戦っただけだ! あの爺さんは、それに巻き込まれて死んだ!」
それが事実だ。いなきは何も守っていない、救っていない。ただ、殺し合っただけだ。
八葉といなき、そのどちらかが欠けれていれば、今夜は誰も死ななかった。この両者は全く同質であり、つまり。
――いなきは腰の小刀を疲労で震える手で抜き付けて、切っ先を蒲に差し出して告げる。
「俺は、お前の仇だ」
人殺しの向ける敵意にただの子供が抗えるはずもなく、ひぅと小動物めいた悲鳴をあげて蒲は逃げていった。壊れて開け放しの扉の向こう、さらさらと雨の降る、明け方の町中へと消えていく。
小さい背中がいなくなると、いなきは床に叩き付けられるように転倒する。疲労しきった精神と肉体の両方が今し方の無理に抗議している。休息の必要があった。
(……駄目だ)
悲鳴を上げる身体に活を入れようとするも、震えるくらいの事しかできない。立ち上がる為の気力が巫術で摩耗しているのだ。
それでも、立たねばならない。
(早く……合流して、殯宮へ入らないと)
追手がかかっている。〝き〟ならば対処は可能だろうが、足手纏いも抱えている現状では楽観視も出来ない。それに、妹の能力の源泉は特殊で、ひとたび消耗すれば大殯の儀の間では回復しない。だから、自分が矢面に立つと約束したのだ。
何より、
(御門八葉とこれ以上、深川で戦うわけには……)
連中の能力は強大で、その上それを制御する気が無い。町中で戦闘を始めれば確実に犠牲が増えていく。
気力が磨り減っているなら、殺意を身体に叩き込んで――いなきは立ち上がった。刀を杖にする訳にもいかないので、廃屋にあった木切れを掴んで歩いて行く。
扉を抜け、外に出る時に、ふと声が漏れる。
「生きてた……」
自分が脅しつけた子供の事を思っていた。喉の奥に、つまるものを感じる。
泣き出さないよう目尻に力を入れつつも、いなきは呟く。
「生きてた……生きてた……生きててくれた……」
蒲が生き残ったのは自分の働きなどでは決してない。己の為の、慰めにしてはいけない。
それでも、感謝すべき事だった。たった一人でも、自分の為に死ななかった人間がいた。それも、恩人が愛した子供が。
「ありがとう、ございます……ありがとうございます……」
神か、仏か、それ以外か。なんでも良かった。あの子供に生存する運命を与えた何かに、満身から感謝を捧げたかった。
町の雑踏は、昨日の大事件で祭りとは違ったざわめきに溢れている。その中でもいなきを認めて、気味悪そうにする者もいた。それでも構わず、いなきはありがとうと呟きながら杖をつき、歩き続けた。
/
惨事の翌朝の永世橋は、人で賑わっていた。
破壊された橋の入り口付近には人払いの立哨がおり、川には十数艘の小船が浮かび、船上の人足が遺体の収容と検分を行っている。
数多くの人間に目撃された青竜蝦の怪物の死体は、もう無くなっている。未明の内に、六孫王府に属する、憑人が起こす事件を専門に始末する連中が片付けたのだ。
町人に聞こえぬ場所で、現場を監督する武士の一人が苦々しくうめいている。目付の職に就くものであった。
惨事の現場はここだけではないと、事件の対処に当たった深川武士らは報告を受けている。永代寺門前町付近の一郭でも多くの人間が焼き殺されており(不幸中の幸いか、火災は雨のおかげで広がらなかった)、橋も他に三基破壊されている。長久橋、八千代橋、磐長橋――下手人は、深川南方の人通りを堰き止めようとしていたらしい。
下手人が深川武士――それも、六孫王府中枢に属する名家の当主である事は、あらゆる手段を用いて隠蔽しなくてはならないと、彼らは決意を固めている。
事件の影響で、八幡祭は中止している。普段鞭打つかの如く使っている民衆の不満の捌け口であるこの催しが中座した今、彼らの悪感情は容易に六孫王府に傾くだろう。暴動が起き、経済活動が停止する。
たとえそれを抑止できたとしても、その為に強いられた消耗は、九重府にとって格好のつけ込み所となるはずだ(現在、方丈梢継の扇動により深川武士の大半は、九重府との戦争を現実的なものとして意識していた)。
いま永世橋にいる、多くが中級以下の武家出身者である深川武士たちは、上層の御門葉家すべてを心から憎みつつ、仕事に従事していた。
彼らの周囲では、民衆が群れを為して様子をうかがっている。野次馬がほとんどだが、一部悲愴な顔つきの者もいた。一夜経っても家族の安否を確認出来ない人々であった。
彼らの一部は立哨に飛びついて、悪し様に蹴り出されている。それを何度か繰り返して諦めると、次は周囲の野次馬たちに声を掛ける。息子を知らないか、母親を知らないか、兄を知らないか。友を知らないか。その内の何人かは、川縁に敷かれた白布の上に横たわる、水ぶくれした遺体の中に家族を見つける。
泣きじゃくる彼らは、ある意味では幸運だっただろう。沢瀉の剛力で破壊された人間は、その多くが原型を留めていない。海へ流された死体もある。町人の一部は、見つけ出す事の叶わぬ家族を、疲れ果てるまで探し続ける事になる。
――ある初老の男に話しかけられた町人たちは、彼をその一人だと思った。
気弱そうな、背筋をやや屈めて歩くその男は、丁寧な言葉遣いで手当たり次第に町人らへ声をかけている。すいません、申し訳ありません、よろしいでしょうか――必ずそうした言葉を前置きする男は、色よい答えを得られずとも、一時も休まず動き続けている。
人々が、彼はこの場にいる全ての人間に同じ事を聞くつもりなのだとすら思うような必死さだった。
二九一人目に話しかけられた女は、男が一心に失せ人を探す様子を見かけていたので、朗らかにその問いかけに応じた。彼の探している人間が生きている事を知っていたのだ。
男は彼女の説明を聞いて、何度もありがとうと言ってから永世橋を離れた。
今宵誰も家族や友人の死ななかった女は、自分の善行を楽しむゆとりすらあった。あの目立つ若者の事を覚えていたおかげで、人助けができたのだと。
あの、金色の髪をした若者が、渡来人の子供に負ぶわれて去って行く方角を、教えられて良かったと。
/
雑踏をかき分けて行く最中に、ふと男は立ち止った。いつもの発作に襲われたのだ。
傘を取り落として、雨にさらされながらぼんやりと雨空を眺め続ける彼は、彼を邪魔に思った町人に小突かれてもその場に立ち尽くしている。周囲の人間が数人、気味悪げに彼を遠巻きするが、気づいてすらいない。
男は、その魂を置いてきた場所へと還っていた。
――振次郎さま、湯の支度ができておりますわよ。
妻の声だった。彼は、二人きりの時は自分を名で呼ばせるようにしていた。お互い中年と呼べる歳になって久しく、彼女はそうした茶目っ気を恥ずかしがるようにもなったので、頼み込むのは大変だった。それでも、そう呼ばれる事を彼は好んでいた。
千代田振次郎という偽名が、本家に与えられた名よりも、押しつけられた役目の記号でしかない称号よりも身に馴染んでいくような気がして、嬉しかったからだ。
十代の内に深川から本土に移り住んで、もう三十年近くにもなるのだ。わざわざ言い聞かせるようにせずとも、今の身分こそが自分そのものである事に疑いは無いはずなのだが。
きっと自分が幸福過ぎるから、どこかに落ち度を探してしまうのだろう。
欲しくもなかった才能ゆえに家に押しつけられた役目を嫌い、そこから逃げ出した彼は、武家の身分すら明かせずに商人の奉公人から出発した。苦労は多かった。武家の、しかも分家とは言え名家の係累だったのだ。商いの方法は元より、食うに困るという事すら理解してはいなかった。
ただ、彼の世話をした商人は人の良さを売りにした男だった。彼自身も、泥に塗れて生きる民衆にてらい無く敬意を抱けるほど素直だった(水の合わなかった武家階級に対する嫌悪の反動が、多少含まれてはいたが)。主人への忠義は、愛情で返ってきた。それもまた身内の間ですら打算が蠢く上流階級には存在しない美徳だった。
汗水を垂らして働き、友と語らい――そして恋をした。
茶屋の娘だった。奉公人を始めた頃に、腹を空かした彼に手ずからの飯を食わせてくれた。十人並の容姿ではあったが、彼は天上の美姫と信じた。
手代になったのをきっかけに求婚し、それが受け入れられた時は天に引き上げられるような心地だった。感涙する彼に微笑みかけ、初めての夜に全てを捧げてくれた彼女を、必ず幸福にすると誓った。
職責が増え、苦労も多くなったが彼に笑いは絶えなかった。共に重荷を背負ってくれるひとが側にいるのだ。哀しみの入る余地などどこにも無い。
それどころか、喜びは増えるばかりだった。
子供が産まれた。初めての出産でおろおろするばかりの彼に、がんばりますからと妻は笑いかけてくれた。女とは、こうまでも強いのかと思った。
主人と彼の友人であった番頭が老いて引退するのを機に、最も良く働いた彼は番頭の地位を譲られる。がんばれ、と肩を叩かれた時に自分は男として確固たるものを得たのだと思う。
周囲の人々に愛され、それに奉仕で返礼し、更に良いものを受け取る。素晴らしい循環だった。人の世とは、これほどに輝かしかったのか。そう思うと共に、彼らを時折傷付け、搾取する武士や貴族、支配者たちが憎らしくなる。
子は三人産まれた。子供たちが言葉を理解する歳になると必ず、彼は自分の膝に置いて語りかけた。
――父さんはな、昔、侍だったんだ。
――身体に、病のようなものを持っていてな……大丈夫、死ぬようなものじゃないんだよ。
――それの為にな、多分、あのままでいればすごい出世ができたんだと思う。
子供の三人ともが、もったいないと言った。自分が性根から商人になったのだと自覚する瞬間で、それに苦笑しながら彼は子供の頭を撫でる。三人ともにそうした。
――いいんだよ。
――お前たちと、母さん。
――父さんが得た宝物に比べたら、侍である事の価値なんて無いようなものさ。
――愛しているよ。
彼らには、与えねばならなかった。周囲の人々が自分にくれたように、価値のあるものを。そして彼らはそれに応えてくれた。
知己の商家に勉強に出した長男が、逞しくなり帰ってきた。彼だけの女を連れて。
出産を控えた妻と共に自分の手を取り、ありがとうと声をかけてくれた息子。生涯何度目かの感涙の落ちた手は、いつの間にか年老いて皺が寄っていた。
その手に彼は、疑いなく価値を見出せる。
働いた手だ。
妻を抱いた手だ。
子供を撫でた手だ。
――鎗を捨てた手で、これだけの事を為した。
御仏よ、私は、幸福な男です――
数年後、嬲り殺した本家の当主に聞いた話だ。周囲に〝膝丸〟の襲名を伝聞した直後に逐電した分家の若者の為に、夜摩名家は大いに面目を失い、独自に討手を出したものの彼を完全に見失ったのだそうだ。特権意識に凝り固まった彼らは、その当主候補が町人如きに頭を下げて生きる商人に堕ちている事など想像すらしていなかった。
本土に逃げ込んだ事も、捜索の困難を増した。六孫王府は本土に諜報網を持ってはいるが、九重府の苛烈な防諜工作をやり過ごして職務を遂行する精鋭を私用する事は、いくら御門葉家の一つと言えど難しい。何より身内の恥を喧伝して回るような真似をしては本末転倒だった。
裏切り者一人殺す価値と、それに支払うべき代償を天秤にかけた結果、討伐計画は一時中断する。
状況が変わったのは、本家から代理で御門八葉になる人間が決まってからだった。
彼は周囲の人間が密やかに、それでも聞こえよがしに囁く分家の男の代理という肩書きを、大いに憎んだ。彼を殺す事こそが惨めさからの脱却の手段と信じて疑わなかった。再び、彼の討伐が取り沙汰される事になる。
以前の討伐計画と違うのは、その首謀者が追い詰められており、恥も外聞も捨てるのを厭わなかった事。
本土を縄張りとする猟犬を利用するのを、躊躇わなかった事。
あの時も雨が降っていたと彼は思い出す。彼はあの夜の情景を数百、数千、何度となく繰り返して再生していた。
彼は急いで帰路についていた。臨時の商談があって、家を離れていたのだ。息子たちの祝言を数日後に控えていて、家族は準備に忙しかった。そこから自分だけ離れるのを躊躇う彼に、妻は男の出番などありませんと軽口叩いて追い出したのだ。
――ばか、お前、いるだけでもその、家長としてだな。
――仲間はずれが寂しいだけなのでしょう、あなたは。まったく。歳を取っても変わらないこと。
――うぅ。
――なら、土産の一つも買って来て下さいまし。くたびれた子守道具をお下がりにしては、嫁御がかわいそうです。
その通りだと彼は思った。気づかない自分の迂闊さにしょげかえって家を出た。おかげで土産を選ぶのに気合いが入り、更に帰宅を遅くした。
(……あいつは、怒るだろうな)
そう思えば頬が苦笑に引きつる。あれは気遣いの細やかな女だから。怒って、頭のひとつも引っぱたく事で自分を家族の輪に引き込むのだ。息子に嫁を迎えて、関係を構築するのに難しい時期だ。妻は気を揉んでいる事だろう。
それでも、それゆえに。すぐに彼女も家族だと心から受け入れられるようになる。良い嫁だと思う。彼女を捕まえた息子を褒めてやりたくなる。なんだか、かつての自分を自画自賛するかのようで気恥ずかしく、口にした事は無いのだが。
いずれ、言ってやろう。長い時間を共に過ごす女と、うまくやっていく秘訣も教えてやろう。
子が産まれたら、息子はどのように接するのだろう。おそらくは自分とは違う。けれど、自分から学んだものがそこにあるはずだ。
そのようにして、人は繋がり、世界は続いていく。
世界が仮初である事を聞かされた時は絶望もしたが、幸福の実感を前にしてはそれも霞んだ。この手で抱いた妻子が虚構であるなど、彼には受け入れられない言葉だった。
産まれる子を見て、それが電子の情報に過ぎないなどとどうして思えるのか。あの神秘に、奇跡に触れてどうしてそれを否定できるのか。
もうすぐ、己の子がその奇跡の当事者になる。
あの子はその時、どんな顔をするのだろう。
私のように、泣いてしまうのかな――――――――――――――――――――――――――――――――ざざ―――――――――――――――ざざ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ざ――――――――――――――――――――――――――――シーンが切り替わる。
家の戸口に立つ彼は、懐かしい香りを鼻に吸った。若者の時分に何度か嗅いだような気がするそれの正体を、彼はしばし思い出せなかった。
思い出す事を、脳が拒んだのかも知れない。
築き上げた幸福の瓦解を、受け入れられなかったのかも知れない。
ふらふらと土間に踏み込み、異変を悟ると駆け出した。途端に濃くなった香りの為に、慣れ親しんだ我が家が別の世界のように感じられた。狼藉者に犯された少女のような無残な変化と思えた。
まずは居間で、次男と長女の死体を見つけた。
「……え?」
寝ているかのように穏やかな死相。背後から気づかれぬ内に、喉首を掻き切られたのだ。
庭で腸をはみ出させて絶命する長男は、侵入者に気づいたのだろう。争ったが、勝ち目などなく殺された。
「あ……え……あぃ」
感情に蓋をして、それが漏れているようなうめき声を彼は上げる。おぼつかぬ足取りで、鼻孔に突き刺さる血臭を嗅ぎ分けて進む。もう彼の鼻は、その香りに個人差がある事を覚えてしまった。
妻が死んでいるのは、彼女が生涯の多くを過ごした台所だった。
長熨斗(ながのし)や鰹節の香りが、血臭に混じっている。その場所で彼女は首を割かれて座り込んでいた。温厚な彼女が見せた事の無い烈しい表情で、絶命している。
背後には、守るべきものがあったからなのだろう。
二人の、新しい家族。赤子を胎に宿した女が、妻の背の後ろに隠れている。
彼女も死んでいる事は、見ずとも知れた。妻以外の血の臭いがしていたから。
どさり、と音がする。買ったばかりの子守道具を、今まで抱えて歩いていたのだ。真新しい玩具やゆりかごが、床を流れる血液に浸る。
「みつ」
息子とその妻が名付けようとしていた、命の名を呼んだ。
「振太、小春、冬次」
返事が返ってこない事を確認するように、息子たちの名を呼び、最後に。
「千秋」
妻の名を、呼んだ。
万力に押し潰されるような静寂に苛まれ、そして彼は、
破壊された。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
家のどこかでその声帯を潰す程の絶叫を聞き届けた猟犬は、彼に声をかける事もなく襲い掛かってくる。
その体臭を嗅ぎ取っていた彼は、不意打ちという認識すらしていない。
無造作に妻の握っていた包丁を取り上げて振り返り、首を刺した。腹を刺した。眼球を刺した。二つめも刺した。口蓋を刺した。女陰を刺した。子宮を抜き出して刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。人間の形を失うほど、細かくなるまで。
刺し続ける間、彼は変異を続けていた。幸福の代償に捨てた能力が、その喪失と共にあっさりと戻っている。
(これの為か)
皺が失せ、茶黒い体毛に覆われた手の甲を眺めつつ思う。これを受け継がせない為に、お前たちは私の子も、孫を宿した女までも皆殺しにしたのか。
(鬼畜の所行……なり)
猟犬の――若い女だった――の帰属は知れている。鍛え上げられた肉体、その増強に用いた薬物の香り。ここまで徹底した鍛錬を行うものは奴らしかあり得ない。
雷穢忌役。
世界の虚構を知り、その維持に努めるものども。世界への愛でなく、ただ義務としてそれを行う。感情を挟まず、機械的に殺人をこなす、人間性を欠落させた奴ばら。
彼の憎悪する武士そのものだった。
なぜ、一人しかいないのかと彼は不満に思う。逐電して三十年も経った男とその家族を殺すには十分と考えたのだろうが、彼にとってはまるで物足りなかった。
なぜもっと、敵がいないのか。
(許さぬ)
老境に差し掛かった彼の、残り少ない生涯を定める言葉だった。
(人道を穢す仏敵なり。誅すべし)
残された人生全てを賭けて、奴らを呪う。殺す。根絶やしにする。
――彼は、吼えた。その声は既に、獣そのものであった。
その後彼は深川に帰り、陰口を叩かれるに相応しい脆弱な当主を殺して御門八葉に復帰し、この場に立っている。
(まだ、足りぬ)
殺し足りない。奴らはこの世界から消え去っていない。奴らを殲滅せねばならないのに。己の生はその為にあるのに。
(圧殺する。縊殺する。磔殺する。禁殺する。搏殺する。殴殺する。撃殺する。絞殺する。格殺する。残殺する。刺殺する。斬殺する。射殺する。磔殺する。轢殺する。爆殺する。焚殺する。撲殺する。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す我が身魂の全てを投じて奴らを鏖殺する)
空想から現世に回帰した男の精神は、殺意に満ちていた。
彼は、殺す事しか考えていないのだ。八葉の誰よりも暴走の危険のある彼を制御していた六孫王大樹は、もう彼の側にはいない。
さながら鎖から放たれた猟犬のように、彼は活動する。
彼は既に、雨に混じって流れてくる無数の人体の老廃物から、独特の匂いを探り当てている。日数や沢瀉との戦闘で負傷し、疲労したのだろう。忌役が用いる栄養剤と造血剤、傷薬の匂いだった。それを追っていけば奴に辿り着く。
――匂いの道を遡って、歩いてくるものがあった。
涙の匂いだ。ひと嗅ぎして子供と分かる、乳臭い肌の匂いもある。
衣服に、子供自身のものでない血の香りもしていた。
――確か忌役は、子供に連れられて逃げたのだった。
狂を発した人間特有の短絡さで結論に至り、男は口を割くように笑った。
「奴の、子?」
面白い。愉しい殺し方ができそうだ。
殺意と、興趣を燃料にして男は再び稼働する。雑踏に溢れる人間どもが邪魔だった。
「のけ」
そう命じても、連中は訝しむばかりで言う通りにしない。
「儂は、のけと言ったぞ」
既にその脚は、蹄の形に変わっていた。
/
道に捨てられた笠を被って、いなきは街路を歩いている。
肋の痛みも、だいぶ癒えてきた。
コードハッキングにより治癒力を増強させると共に、忌役が秘伝としている薬剤を用いた為に肋骨の骨折はほぼ治癒していた。街路を歩きながら、薄茶の粉末を練り固めた球形の携帯食もかじる。薬臭く、食える味とは程遠い味覚に吐きそうになる。そのざまは正直情けなかったが、背に腹は替えられない。
おかげで、復調とはほど遠いものの、永代島南西部に辿り着くまでには杖を捨てられそうだった。
ゆっくりとしか歩けない為に、町の様子は厭でも耳に入る。深川は混迷の極みにあった。
六孫王府から弾き出された浪人衆の起こしたテロリズム、という噂が立てば、直後に九重府の侵攻が始まったという噂にすり替わる。かと思えば花火の暴発という間抜け話も持ち上がった。
鬼兵(深川町人向けに流布された憑人の異名)の暴走、という事実も数多くの脚色はされているが、町人の口の端には上っている。この通説が主流になった時の民衆の暴発を考えると、いなきはおぞましさに震える。その責任の大部分が自分に帰していると彼は信じていた。
おそらくは六孫王府がそうならぬよう手を打つのだろうが、今のところ都合の良い虚偽報道を考えあぐねているのか、真実に近いその話を口にする町人は多い。
――死体よ死体。大きなエビ? のばけもんが川で立ち往生してやがった。
――そりゃあ、間違い無く鬼兵じゃあねぇか。クソっ、歳城の侍連中、俺たちを皆殺しにでもする気なのか?
――さてのォ。
――鉄砲の一丁でもありゃあなぁ。
――馬ぁ鹿、鬼兵が素人の鉄砲撃ちに仕留められるわけねぇわ。大砲持ち出したとしてもあっさり返り討ちよ。
――ちょうど王様の入れ替わりで連中は慌てふためいてんだ、やりようによっちゃあ……
――大次、てめぇの無茶に俺ら巻き込むんじゃねぇ。
――こりゃあ本物の無鉄砲ってぇ奴だぁな。
――(笑い声)
――茶化すんじゃねぇ。そんじゃ、このまま殺されんのを待ってろってのかよ。
――そいつも早とちりかも知んねぇ。とにかく、落ち着け。様子を見ろ。……鬼兵ってのは怖ぇもんだ。一度海魔との戦に駆り出されて、見た事がある。武士ってなぁ俺たち町衆には及びの付かんもんだと思った。下手に突けば、火傷じゃ済まねぇ。
――……
――……じゃあ、その鬼兵のエビを殺した奴ってなぁ、どこのどいつなんだよ。
――おォ、そいつぁ俺も気になってた。
――ダチのツレの知り合いに聞いた話じゃあ、鬼兵の同士討ちたぁ違う、人間がやったってぇ話だ。
――そういう切り出しならただの噂話に決まってんだが……本当だったら、どえれぇ話だ。
――俺が見た大エビは、並の鬼兵とは比べもんになんねぇでかさだったぞ。
――もっとどえれぇ話って事じゃねぇか。
――何にせよ、そいつが鬼兵をやってくれたおかげで、人死にが減った。良い事だろうさ。
――おぉ、その通りだ。俺もゆうべ、あの橋通ろうとしてたんだよ。くわばらくわばら。
――名も無き志士に万歳、ってぇ奴だぁな。
事実に近い場所から始まって、全く遠い場所に逸れていく噂話を耳にするのは、甚だ不快だった。なぜこの連中は、揃って純粋で、都合の良いように物を捉えようとするのか。
嫌悪すら覚えつつ、いなきは歩みを続ける。
――ふと、異変を感じる。町人の噂話を語る口調に、一部異質なものを感じた。娯楽に興じる他愛なさでなく、本物の焦燥と恐怖が混じっている。
その異端は瞬く間に周囲に伝播し、いなきの耳にも届いた。
「また鬼兵が出た! 御成町で……何人も死んでる!」
いなきは、永代島の地理を完全に頭に叩き込んでいる。御成町、という名前にも聞き覚えがあった。
先程いなきが匿われた廃屋のあった場所に、ほど近かった。
いなきは杖を放り投げて、元来た方向へ駆け出していく。
――道理が、その行動に落第点を付けている。完調に程遠い状態でまた御門八葉と戦えるほど、貴様は強いのかと。早く〝き〟らと合流して殯宮に入らねば、目的が遂げられなくなる。貴様にそれが、許されるのかと。
それを無視して、いなきは身体に鞭を打ち据えるように速度を上げた。
(だめだ、だめだ……だめだ!)
あの子供は、死んではいけない。いなきに一時の平和を与えてくれた恩人が、あの優しい老人が育て、健やかに大人になる事を願った子供なのだ。せめて、それだけでも救われねばならない。
そうでなければ、救われない。償えない。
(だから……!)
世界よ、ほんの少しでも。仮想の、虚構であったとしても。
ただ一欠片でもいい、優しくあって下さい。
奇跡を、俺に下さい――
血臭が近くなる。逃げ出していく町人をかき分けながら進みつつ、彼らを擦り抜けてそれが嗅ぎ取れる事に絶望が深くなる。焦燥に突き出されるようにして走る。何度か転びかけ、町人に殴られもした。それでも構わず走る。
「兄ちゃん……!」
その言葉を聞いた時、安堵で足の力が抜けそうになった。
「蒲……!」
初めて子供の名を呼ぶ。恐怖に震えて、返り血を浴びながらも無傷だった。しがみついてくる子供を抱き上げると、襟を握り潰すほどの力が返ってくる。
「こわ……かった」
蒲の恐怖は当然だった。街路は虐殺の場と化している。家屋の軒先に叩き付けられ、潰された男。五体をばらばらにされて屋根の上に散らばる老婆……死体の数を数え上げれば、きりがなかった。
それを行った憑人は、その場にいなかった。
「奴はどこに行った?」
「分かんない……出たり、消えたりして……あいつ……」
泣きじゃくりながらも、言葉を返してくる蒲。この体勢では、襲われれば対応できない。すぐにでも逃げるか、蒲を下ろして戦わねばならなかった。
その事を、告げようとすると――
「ごめん……兄ちゃん」
不可解な謝罪と同時に、胸に熱感を覚える。そしてそれは、急速に冷却されていった。血液の流出によって。
何度か感じた事のある、刃物で刺された痛みだった。
「お、まえ……」
いなきを突き飛ばして、蒲は後じさった。その震える手には、匕首が握られている。
「あいつ……兄ちゃんを殺さないと、おれを殺すって! どこからでもおれを見て、狙っているって! だから……だから……」
声もまた、震えていた。匕首の柄を握る手は力を込めすぎて、紙のように白い。
蒲は罪悪感に潰されそうになっているのだと、いなきには分かる。
自分も、同じだったから。
血を失い、立っているのが辛かった。その場にへたり込み、いなきは言った。
「……いいんだ」
蒲は、跳ねるように肩を揺らす。
死ぬ前に、この子供の罪悪感を取り除かねばならなかった。死んでしまえばそれは出来なくなる。機会は一度きりだ。
自分で自分を許す事はできない。それはただの欺瞞だから。自分への嫌悪は圧倒的に正しく、か弱い欺瞞を挟む余地が無い。それに晒されれば、人は容易に歪んでしまう。
正しく、許されねばならない。
「俺は、お前の仇だと言った……これでいいんだ」
殺される相手にしか、それはできなかった。
(咲耶様……すいません)
自分はもう、目的を果たせない。間違えてしまった。いや、間違いに耐える強さを維持できなかった。
(いつきにも、申し訳ない事をした)
久々に字でない妹の名を呼ぶ。彼女は強い。武力も、精神も。己のたどり着けぬ領域に達している。きっと彼女は目的を遂げるだろう。己が心配するのは、おこがましくすらあった。
一つだけ気がかりなのは。
(あやめ)
彼女には、最後まで謝罪をすればいいのか、感謝すればいいのか分からない。あの女はいつまでも理解の外側にいるから、自分も何を言えばいいか答えを見つけられない。最後までにあいつの何かを分かってやれれば良かったのだが、と悔しく思う。
いつまでも迷っているわけにはいかない。どうも胸の傷は内臓から逸れており、失血死するにも時間がかかりそうだった。
「首を刺せ。そいつに、見えるように……」
「……っ」
命じられて、よろよろと蒲はこちらに歩いてくる。
匕首を振りかぶり――
覚悟した痛みは、いつまでもやって来なかった。
「できない……っ」
泣きじゃくりながら、蒲は言った。
「鶴じい、知ってたよ……あの男はただの浪人じゃないって。たぶん、後ろ暗い事をやって生きる人間なんだって……だからおれ、鶴じいを守りたくて……兄ちゃんを遠ざけようとして……」
匕首を地に落として、
「でも、鶴じいはおれを叱ったんだ……兄ちゃんは、悲しい人間なんだって……おれ、鶴じいの言ってた事が昨日、やっと分かった。兄ちゃん、泣いてたから……」
泣いてなどいない。自分はそんな正しい人間ではない。
「だから、ごめん、ごめん……」
それでも、この子供は正しい人間だった。優しい人間が育てた、正しい人間だ。
かつてのいなきがしたような、一方通行の愚劣な憧れでなく、相手を憐れむ事もできる子供だった。
「ありが、とう……」
感謝が浮かんで、口から出てきた。頬に触れようと、手を伸ばした。
――子供の身体が跳ねて、胸から象牙色の突起が生える。
『狗の、人がましい猿芝居、甚だ不快なり』
その時まで、この場に無かった声が侮蔑を告げた。
心臓を貫かれて即死した蒲は、そのまま無造作に放り投げられた。家屋の柱に叩き付けられて、地に落ちる。雨が、血を洗い流してその命を曖昧にする。
七尺(二百十メートル)程の、二脚で立つ羚羊(レイヨウ)がいなきを見下ろしている。その手には、蒲を貫いた鎗が握られている。
いなきはようやく放心から還り――直後、羚羊の刺突が襲い掛かる。
横転して逃げ、その先で蒲の死体に触れる。体温の低下や瞳孔の散大などそれと分かる記号はまだ現れない。それでも、命の途切れは明らかに理解できた。
もう、何も言わない。
正しく、健やかにあれたはずの子供は、ここで終ってしまった。
どうしようもなく悟り――いなきは立ち上がった。傷の痛みも疲労も忘れていた。
「貴様」
『外道が子など持つからよ。天罰なり』
――何を、言っているのか、この男は。
そんな勘違いで、この男は蒲を殺したのか。
脳髄が発火したと錯覚するほどの怒りが、総身を巡った。
「貴様ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
『狗めが! その憤激、道理にあたらじ!』
羚羊の魔人は槍を回転させ、穂先をいなきの心臓に向かう軌道に突き出し大喝した。
『御門八葉が一、夜摩名家当主、膝丸なり! 之より、仏敵を誅殺する!』
――君にとっての悪と戦う時が、いずれ来るだろう。
師の声が、突進しかけた足を留める。
――だが、怒りをもって敵に当たる事ほど愚かな事は無い。武術における心(しん)とは善悪とほど遠い、無機質なものだ。慈愛も憎悪も、戦いに悪影響しか与えない不純物だ。
――どうも、普通の人間には理解できない事のようだから、言い換えよう。
――義心ゆえに必ず敵を殺さねばならないのであれば、まずその義心を捨てるのだ。他者の為に、無私を貫く。本当の義侠ならばそれくらい容易いだろう?
(……糞)
舌打ちして、頭を冷やす意味でも一端距離を取る。
もどかしいが、蠱部尚武の言う通りだ。膝丸が冷静さを欠けば一瞬で心臓を抉ってくる相手である事は、間違いない。
(あの時、まったく気配が無かった)
そうでなければ対処の出来ないはずが無い。
膝丸は羚羊の憑人だ。憑人の因子は原則一種のみだが、この種族の場合は分けて考えねばならない。
羚羊、という名称が示す生物群は恐ろしく広範に及ぶ。健脚なウシ科の生物全般の呼称なのだ。インパラ、ヌー、スプリングボック、ハーテビースト……
その内の、エランドという種は体温を低下させて体内の水分を節約する。――その特質は、戦闘では気配の遮断として寄与するのではないか。
(エランドの特性が濃い憑人なのか……?)
予測するが、裏付けに乏しい。やはり実際に太刀を交えて探るしかない。
膝丸の持つ、異様な形状の槍を見る。
穂先は螺旋のなりそこないのように捩れ曲り、色合いは象牙色に近い。
その正体は、膝丸の頭部を見れば明らかだった。左側の角が欠損している。折り取ったそれを柄に装着しているのだ。
間合いは一丈(三メートル)を優に超えている。
鎗――銃火器登場以前の世界観における、歩兵武器の完成形。
現実史においては南北朝時代に登場し、その後の戦闘を一変させ、戦国時代の時点では「鎗を止める剣無し」とまで言わしめる程、刀剣に対する優位を示し続けた武装。
斬・打の技法も多彩で、古流の香取神道流などには接近戦の技術まで存在するが――最も恐るべきは、
『KYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY――ッ!』
金属質な響きの咆吼と共に、膝丸の全身が肥大化した――そう錯覚させる程の突進。
三丈もあった距離が、一瞬で零になる。
「ぢッ!」
真っ直ぐに心臓を狙ってきた刺突を、必死に横飛びして躱す。
この単純な突撃こそが鎗使いの最も強力で、何より確実な技だ。視界に映るのは切っ先の点でしかなく、受けはおろか見切りも並の眼力では許さない。このように大きく回避する程度しか、為す術が無い。
加えて、
(なんて脚力だ……!)
いなきの側面を通り過ぎていった膝丸は、既に路地の遥か遠くに辿り着いている。
羚羊の多くが発達した脚を持ち、その恩恵を受けた速度を誇る。
走行に特化した種は時速九〇キロメートルにも達すると言われる。最速の動物と言われるチーターに迫り、かつチーターには無い持久力がある。総合力の観点で言えば、地上で最も優秀な運動能力を持つ生物の一つだった。
膝丸の速度は沢瀉の持つ超音速には程遠いが、彼が音速を超えた運動を行えるのは斬撃のみだった。膝丸は身体ごと高速で移動する。
今いる街路は広く、鎗の間合いと羚羊の脚力を存分に活かせる。膝丸は突撃を繰り返すだけで、いなきに攻撃の余地を与えない。そのまま命中するのを待てば良い。
完成された敗北への道筋を思い描いて、いなきは。
その場で柄を掌握し、抜刀の構えを取ったまま――停止した。
『愚か! おおお愚か愚かか愚かかかかか! 愚かなりィイイイ!』
膝丸は自身が最も望む愚策を差し出され、狂乱しつつ突撃を敢行する。破れかぶれの受け太刀で刺突を止めようなど、生存を放棄するようなものだった。羚羊の脚が実現する人外の突撃衝力を人間の腕力で受け止める手段など無い――
(馬鹿が! 速さに溺れやがって!)
無造作に突進する魔人を心中で痛罵し、いなきは太刀を抜いた。
猛禽を捕捉するいなきの視力なら――この突撃に対応するのは、不可能ではない。
迫る切っ先の点から速度を概算、それが間合いに侵入する機を見極めて先端部に叩き付けるような斬撃を落とす。
インパクトの瞬間、全身の筋肉を締める。
接触の際に手の内を締め、衝撃を殺さずに対象に伝えるのは剣術の基本だが、琉球唐手の教えでは身体全体にそれを適用する。チンクチ、と呼ばれる技法だった。
体重と速度を全て載せた太刀を受け、穂先が地に沈む。
加えて、駄目押しの陰刀を同じ箇所に叩き込む。――相生剣華・草ノ真。
二刀で押し込まれた鎗は、軌道を下方にねじ曲げられていなきの足下に突き刺さった。
『ぐぬゥッ!?』
(慢心に眩んだまま、死ね!)
柄に伝わる衝撃に手を痺れさせ立ち止った膝丸に、憎悪を込めて通告していなきは飛びかかった。
横薙ぎの斬撃が首筋に触れ、そのまま抜けて――
(……何!?)
異様な手応えに、いなきは驚愕する。膝丸の首を落とすはずの太刀は、その体毛に接触して滑っていった。
飛び退いて退避し、黒刃の状態を確認して、その現象の理由を知る。
刃は、油に濡れていた。
――ウォーターバックと呼ばれる種は、水辺で生息する為に、発達した汗腺から油を分泌する事で水に浸るのを防いでいるという。
(体表の油で、摩擦を減殺しているのか……!?)
物体の切断とは、刃部と対象の摩擦により破壊を起こす現象である。その摩擦が無ければ、斬撃の威力は無きに等しくなる。
この敵は、斬れないのだ。
(剣術家の天敵か……!)
苦々しく、いなきはうめいた。
『小賢し。かつ汚らわし』
膝丸は悠々と地に突き立つ鎗を引き抜くと、侮蔑しながら唾を吐いた。変異した姿で行われる人間的な仕草は、冗談のような異様さがあった。
『殺しの手管に、かくも精通するとは。五徳を捨て、生命を無価値と断じ、噛み殺す事になんら罪悪感を覚えぬ狗の証なり』
「貴様が、それを言うのか……! 子供を殺した貴様が!」
『――正義なり』
膝丸は、あっさりと、あまりに簡単に。
そんな言葉を、言った。
『忌役の子となれば、その穢れた業をいずれ受け継ぐのであろう。罪無き民がその毒牙にかかるとあれば、若い芽といえど摘むより他無し』
「蒲は、俺の子などではない……! 貴様が殺したのは、その罪無き民とやらだ!」
悲鳴のように言葉を叩き付ける。
膝丸はその言葉に、何ら痛痒を感じていなかった。感情の見えない獣の相であるのに、それだけは厭でも理解できる。
『否。罪人なり。貴様の子でないのなら、悪を前にして正義を断行せぬ事こそが罪なり。忌役を前にして、その狗の獣臭、牙に染み付く血の臭いを嗅ぎ取れぬ事、嫌悪を惹起(じやつき)せぬ事、殺意を抱かぬ事、甚だ罪なり。仏罰の執行者たる儂の道を塞ぐ事、罪なり。全て全て全て、死罪に値する咎なり』
――断絶、していた。
話の通じない事においては日数、沢瀉も同じであったが、この男は更に一段と、常人とかけ離れた場所にその精神を置いている。
別世界にいるかのような遠さを覚える。
『狗と語らう事に価値など無し。耳が腐れる、舌が穢れる』
そう告げて、膝丸は身を屈めた。筋肉の軋みがこちらに聞こえる程の力の圧縮。
『その血で以て、清めるより他無し』
その姿が、消失した。
「……ッ!」
全身を走った悪寒に引き摺りだされるように、いなきは横に飛ぶ。
離脱した後の地面に、鎗が突き刺さり――再び消える。
直感からいなきは上空を見た。雨雲から、明らかに雨滴でない巨大な塊が落ちてくる。
戦慄しつつ身を躱し、膝丸の攻めをやり過ごそうと――
二度目の着地は、跳躍へ繋がらなかった。
『ぐるぅっ!』
膝丸は着地の衝撃を強靱な筋肉で殺し、うなり声と共に鎗を払って来る。いなきはかろうじて後方へ飛び退いて躱す。
――今膝丸が披露しているように、羚羊の本領は走行ではなく、跳躍だ。
滞空の隙を、追撃された。
「がぁっ!?」
砲弾じみた体当たりに弾き飛ばされて、いなきは街路に転がる。倒れ伏している暇などなく、転倒の勢いで立ち上がって走る。
今や、一瞬たりとも止まる訳に行かなくなった。
気配を薄弱にして、地上と空中を行き来する三次元的な攻撃を仕掛けてくる膝丸。これではいなきが視力に優れていようと意味が無かった。相手は〝視界〟に収まらないのだから。
勘だけで回避行動を続けるも、当てずっぽうがいつまでも通用するはずが無い。
事実、十数も膝丸の攻撃を受ける内に、被撃し始める。直撃こそないものの裂傷と打撲は更に動きを鈍くする。全力疾走の疲労の影響も無視できなくなっていた。
殺されるのは時間の問題だ。
(死ぬ、のか……?)
実体を持つかのような確かな予感を呟く。
(このまま、何も出来ずに……この男は蒲を、あの老人が健やかに育つ事を願った子供を、殺したのに)
仇すら討てずに、不様に死ぬのか。
(いやだ)
子供の駄々に似た心境でそれを拒絶し――すがりつくように、容易で、危険な術に依存する。
――精神を摩耗させ続ければ、いずれ、還ってこれなくなる。
妹の忠告が耳朶を打ち、それを背後の遠くへと放り捨てる。
いなきは再び、巫術の起動処理を精神に叩き込んだ。
――雨が、静止する。
視覚の機能を皮膚感覚が代行し、全方位を感覚の支配下に置く。
羚羊の魔人は、いなきの背後から襲い掛かってきていた。
その影から離れて斬りつける事を選択しない。あえてその場から動かず、突き出された鎗を紙一重で回避する。それと交換するように、振り抜かないまま肩越しに太刀を突上げる。
『――ごッ』
胸に刀を差し込まれて、膝丸は鮮血を吐き出しいなきの顔を汚した。
体幹に沿った重心を捉えて突きを放てば、摩擦の減殺に意味は無い。
いなきはそのまま、膝丸を串刺しにした太刀を投げるように振り、その身体を地に叩き付けた。傷付けられた胸を大地に痛打された膝丸は、咳き込みながらのたうち回る。
致命的な隙だった。巫術の反動が現れ始め、ふらつく足をもどかしく叱咤して倒れ伏す膝丸に駆け寄る。
(殺す)
確実に殺す。なんとしても、この男だけは殺さねばならない。
悪を為した自覚すら無く、ただ利己によって子供を殺したこの男だけは、許す訳にはいかない。
震える指で太刀を逆手に持ち替え、突き下ろす構えを取り、いなきは殺意を囁いた。
「死……ね」
――みつ。
涙に震える声が、その耳朶を打つ。
既に膝丸は致命傷を負っていた。一秒ごとに喪失していく命を前にして、どこか遠くを見るように、震えながら何かを言っている。
命乞いでは、無かった。
『嫁御……振太……小春……冬次――千秋』
ここにいない誰かに呼びかけながら、最後に。
『すまない……私は、仇を、討てなかった……』
足下をすくい取られたように、膝から力が抜けていった。
「な……にを、言っている」
いなきの問いかけに、膝丸は一言も応えなかった。彼は、どこか別の世界を見つめているのだ。
消えてしまった、どこかを。
膝丸の狂気の源泉を理解し、いなきから殺意が霧散した。
(忌役に、家族を殺されたのか……?)
なら、それならば。
己の殺意に、道理があるのか?
罪無き、ただ憑物という病を得ただけの人間を殺した事のある自分に。
――仇は、どちらだ?
いなきの逡巡は、その敵対者に戦意を回復させる程に長かった。
『がぁああああああああああああああああああッ!!』
脇に取り落としていた鎗を掴むと、立ち上がった勢いで突進してくる。
いなきもその時には己の失策に気付き、飛び退いて撃墜の構えを取る。胸から大量の出血をしている膝丸の速度は、大幅に減衰している。腕力も同じのはずだ。巫術はおろか、相生剣華を使用するまでもなく防御は可能――
『夜摩劫心流鎗術、奥伝』
膝丸の巨躯が、瞬間歪んだ。
『振魂(ふるみたま)』
低い姿勢から一直線に突き出された鎗の穂先が、真上から襲撃してきた。
「な……ッ!」
驚愕の間も無く、左肩を突き刺される。激痛を感じる前に弾き飛ばされ、いなきは街路に転がった。
俯せに倒れながら、膝丸の姿を見る。陽炎の向こう側にいるような曖昧な像を。
(障気で……刺突の軌道を歪ませたのか!)
柄のしなりを利用して同等の効果をもたらす鎗術は存在するが――膝丸のそれは桁が違った。刺突の始動点から予測される攻撃範囲を大きく逸脱している。
『オ……アァ』
いなきの隙を前にしても、膝丸は即座に追撃してはこなかった。出来なかったのだ。この男の殺意は、攻撃が可能であればそれを決して躊躇わない。
胸の中心を突き刺された膝丸は、その穴から生命を漏出させていた。失血死を間近にして、身動きを取れずにいる。
それでも、といなきは確信を胸に抱く。
(それでも、止めを刺しにくる。絶対に)
『儂は……殺す』
確信を裏付けるように、膝丸の足が一歩、こちらに動いた。
『命ある……限り。貴様らを、許さぬ。殺す……殺すのだ……』
醸成された怨念を口にして、残った右側の角を根本から折り、口金付近に接続する。
二叉鎗――あれはおそらく、それぞれが独自の軌道を描く。膝丸の能力を考えると、その可能性が最も高い。似たような二方同時攻撃の術を持ついなきであるからこそ、そう直感した。
その優位も理解している。あの業は、一対一の対人戦ならばほぼ確実に命中する。一箇所を防御する事で狭窄した意識の隙を突くのがこの技術の要訣だ。人は意識を分割できない。
神経系の機能限界の外側を突く攻撃だ、当たらぬ訳が無い。
軌道の読めない刺突に、そんな駄目押しまでされては。
(勝ち目が……無い)
認めるしかない。万全ですら防御の困難な攻撃を前にして、自分は満身創痍。蒲に刺された傷から血を失い過ぎ、そして今刺された左肩は感触が失せている。倒れ伏したまま、立ち上がる事すら出来ない。
何より、
(俺は、敗北を受け入れてしまっている)
膝丸はまさしく、狂っていた。周囲に死を振りまく事になんら躊躇いを覚えぬ、憎悪のみを満身に満たした怪物だった。家族を皆殺しにされた恨みゆえとしても、許される行いではない。討伐する権利は、誰にもある。
いなきにだけ、それが無い。
膝丸を狂わせた行いと同質、同価値の殺人を経験している自分にだけは、あの男を憎む権利が存在しなかった。
前進を続ける、羚羊の魔人。それに抗う資格が、己には――
「資格は無くとも、義務はある」
怖気のする声が、背後からした。
(咲耶……様)
巫術の反動による幻覚だ。実体ではない。主は既に死に、それどころか、
「消滅している。記録からも、記憶からも」
目の前に殺気に満ちた敵がありながら、いなきは後方を振り向く事にこそ怯えた。彼女がどのような表情をしているのか、確かめたくなかった。
雨よりも冷えた声音が降り注ぐ。
「私だけではない。主を除く武州の民すべてが、存在した痕跡すらも抹消された。今や我らは亡霊ですらない。我らはいない。どこにもいない……どこかに、確かに、いたはずなのに」
怨念を込めて、背後の主は言った。
「主は、敗北を許されぬ。主の戦いは、主個人の仇討ちではないのだから」
そうだ。
ただ恨んでいたなら。膝丸のように故郷を滅ぼした雷穢忌役を憎んでいたなら、その全てを殺す為に戦っていた。そして、そのおぞましさに耐えられず諦めていただろう。初めての殺人に、あれ程に苛まれたのだから。
怯える子供を突き動かしたものは。
「証」
主は一言で、解答を述べた。
「我らが存在した証を立てよ。誰もが主の全てを、その出自、背景すらも無視できぬような大業を為せ。――この世界最強の武人を、討ち果たすのだ。あの、私を殺した蠱部尚武を。なれば主には、このような敵に敗れる事は、絶対に許されない」
「……けれど」
「許されぬ」
主は再び言葉を繰り返して、いなきの反駁を止めた。
「それが悪であったとしても、主は進まねばならぬ。殺さねばならぬ。主ただ一人の罪科を代償に、我ら全ての実在を証明せよ。それが、主の義務だ」
主の言葉をきっかけに、亡者は増殖した。水溜まりから這い出るようにして、肉の腐れて崩れた人々が現れ、いなきに近寄ってくる。
「……ヒッ」
怯えて、悲鳴を上げる。
許されぬ。
許されぬ。
許されぬ。
戦え。
戦え。
――戦え!!
「ヒアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
喉を引き裂くような絶叫を放って立ち上がり、いなきは膝丸に向かって突撃する。
『振m%$$#$&&&!』
膝丸の気合いは途中から間延びし、聞き取れなくなった。巫術を起動したのだ。二度続けての鏡花水月の使用が己の精神にどういう影響をもたらすか明らかだったが、そうしなければ倒せない。倒さなければ、義務を果たせない。
下方から股下を抉ろうとする刺突。その根本に右手のみで抜いた小刀を叩き込んで、切断する。
後方から頭部を砕こうとする二つ目の鎗を、疾走を加速する事で逸らした。
そして両者は激突する。
『……ごぷっ』
膝丸が濁ったうめきを漏らす。いなきの背中には、彼が吐いた血液が降りかかっていた。
小太刀を使った相生剣華、その陽刀が膝丸の胸に空いた穴を塞ぎ、さらに抉っている。
心臓を貫いた手応えに、縋り付くように力を込める。無駄な力だ。震える指が、その刺突の不様さを示している。
倒れ込む膝丸に巻き込まれて、いなきはその巨躯に被さるようにして転んだ。それでもなお、口の端から悲鳴のなり損ないを漏らしながら切っ先を握る。
その耳元に、囁き声が聞こえた。幻聴ではない、実感を伴った呪言。
『この……人殺しめ』
言葉を吐くと共に、膝丸の身体から力が抜けた。変異が解けて、現れたのはどこにでもいる初老の男の死体だった。遠い昔の平温を伺わせる、温厚な顔立ちの男。
どこか、鶴翁に似ていた。
――最初の殺人を思い出す。
十三歳になる直前に、雷穢忌役の男が一人自分に声をかけてきた。林座という男の取り巻きだった。林座は強く、周囲の人間に慕われていたから、こうした連中が多くいたのだ。
いなきもまた、その一人だった。
『お前もそろそろ、元服が近い。仕事の一つもしてもらわねばな』
その要請を一人前と認められた証とすら思った。愚かだった。
男には、悪気は無かったのだろう。己の思い込みに近い事を考えてすらいたのかも知れない。
いなきは、自分の腕を試す機会を得たと喜んだ。相手はどんな憑人なのだろう。きっと手強い相手なのだろうが、自分は負けない。
その愚かな慢心に、林座は取り合わなかった。若い犬に狩りを覚えさせる為に、仕留めやすい獲物を選んだ。
深川から流れてきたその憑人は、老いた女だった。既に戦う力はおろか、戦意すら存在していなかった。敵を見定めるためと近寄ったいなきの頭を撫で、菓子をくれすらした。
――林座さん、あの人は悪人ではありません。
林座にそう申し開きしたいなきを殴り、彼は冷ややかに告げる。
『ならばもう、お前は必要無い』
憧れが瓦解した瞬間だった。
しかし、失望だけ抱いてその場から逃げる事は、自分には許されなかった。
雷穢忌役から追放されたら、蠱部尚武と接触する機会は無くなる。
義務を、果たせなくなる。
いなきは林座に土下座をして、老婆の家に戻った。
返り血を浴びて帰還した少年を、仲間たちは歓待で迎えてくれた。最初に声をかけてきた男が言った。
――大人になったな。
いなきには、その言葉が理解できなかった。渇いた声で、だまれと返して彼らから去った。その後二度と彼らとは馴れ合わなかった。
温い雨の降る夏の日。
歪んだ狗に成り果てた時のこと。
いなきはあの日と似たぬるい雨と、ぬるい血を浴びながら空を見上げる。
――あの人を倒したとしたら、忌役の頭領にでもなりなさい。いつきちゃんも娶って。
あやめの言葉を思い出す。
そんな事は許されない。これ程の罪を抱えて、幸福を得るなど。
使命を果たした時、己は死なねばならない。
「だから、その時までは……」
そう呟いて、いなきは膝丸の死体から小太刀を抜いて鞘に納め、歩き出した。