夏の陽炎の中を、祭礼の輿が行く。
輿を頭に見立てた長蛇の体色は清浄の白。列を形作る者共は白の裃(かみしも)を着込み、腰の差料の柄には白紙を巻いている。舌の役を為す露払いらの魔除けの禹歩に合わせた歩みは鈍く、盛夏の大気の分厚さが、油蝉の鳴く音の波が蛇の鱗にのし掛かる。しかし彼らは、周囲の騒々しさに比して不気味とすら思える程の静粛な歩みを止めない。弓持ちが梓弓を担ぎ直す動作も非礼として忌避される。蛇の鱗には少なからぬ数の女も、元服して間も無いであろう少年も含まれていたが、彼らが鱗の並びを乱す事は無かった。
機械的な群体ですらなく、一つの生物として機能していた。
士(さぶらい)、という名の生き物。
神使の白蛇は、段葛(だんかずら)の果ての逃げ水を追ってずるり、ずるりと這い進んでいく。社へ還る為に。
――八百八町(はっぴゃくやちょう)南東の地、深川・永代島に建立された八幡宮は、一度戦乱で焼け落ちて後に再建された。
およそ百年前、識与一二六年の乙未(いつび)の変に端を発する大規模な内乱は、その翌年に一応の休戦協定を結び、小康状態に入る。直後に丘陵地に遷宮された社は要路である永代橋を見下ろす位置にあり、参道は先細りの段葛を配された。有事に前線の陣屋として機能するであろう事は明白だったが、行政府たる九重府(ここのえふ)は形ばかりの抗議を行うのみに留めた。
再戦は確定事項で、とうに芝居の主題としても廃れつつある「破れ橋下の手打ち舟」にて交わされたと双方主張する、序文の時点で既に食い違う「永代橋議定書」の内容は、どちらも縦に読もうと斜めに読もうとその伏線でしかない点のみが共通しており、誰に書かせた芝居の筋でも両軍の将は川から上がるなり八幡神、宗像三女神、双方の氏神の名を記入した起請文を川に捨て、「未那元(みなもと)と多意良(たいら)の戦は神仏も止められぬ」との台詞で結ぶ。
百年後の戯曲家がそう語るのだから、これは予言でもなんでもなく単なる歴史であり――現時点で常備軍の衝突という意味なら二度、小競り合いなら両手足の指に余る程行われており、戯曲家の知り得ない水面下の陰惨な工作は絶えたことすら無い。
深川の八幡宮には、始まりの戦を戦った将の一族を祀る廟がある。既に千年近く続く系譜の根たる初代の祖霊を龍の尾として、代々の御霊が龍の腹を形作り、やがて一頭の龍神に成り上がった暁にはこの戦に勝利をもたらすという。
時の流れに連なる龍。
王、という名の生き物。
未那元宗家当主。
その名跡を、六孫王(ろくそんのう)と称す。
未那元宗家男子の年祭(※年忌法要)は、奉納した神馬を馬場で行軍させる「出征の儀」から始まる。
中興の祖たる九代目六孫王の旗揚げの際随行した八騎と合わせ、十騎と定められており、馬丁の引く空の鞍の白馬は、死者が王であれば王太子を先頭にした二番手に。王子であれば先頭の王と並行する。
今回はそのどちらとも違っている。空の馬が二騎あり、二番手の馬は馬丁の手で引かれるが、先頭の馬の手綱は併行する馬上の武士が握っていた。
浄衣に烏帽子姿の、少壮の男。
武人としては平凡な体格。後続の騎馬武者と比べていかにも見劣りしていた。しかし、総身に雑に鏨(たがね)を入れたような尖った造作の発する圧力が、大男の頭も押さえつけ、振り向かせる。そうした非凡な空気を纏う男であった。
眼前に付き従うべき何者もいないままに、男は泰然自若とした並足で馬を進めていく。
――終始、祭礼はその男を実質的な主役として進行した。榊を削り出した木剣を奉幣し、鳴弦の儀の弓頭を務め、祝詞を読み上げる。
「――恐み恐みも申(まお)す」
結びの言霊と共に再拝二拍手一拝し、男は軍勢の跪く境内に降り立つ。
「傾聴せよ!」
中背の男の腹から、巨人の如き大音声が発せられた。声は最後尾まで行き渡り、武者どもを同時に立ち上がらせた。
「まずは、祖霊への尊崇の御志強く、幼少の御身体を押して喪主を勤め遊ばされた王太子殿下に拝礼を」
号令とほぼ同時、誰よりも早く男は隣に待機する輿に跪いた。軍勢がそれに続いて後、立ち上がるのもまた男が誰より早い。自然と、軍勢が男に跪く形になる。
天蓋に吊された幕に覆われる輿は影も映さない。――無人の座である事を、この場の誰もが暗黙の内に了解している。赤子の泣き声で祭礼が中座する事などあってはならない。
「此度の王兄森羅(しげあみ)公の十七年祭は我、方丈梢継(ほうじょうすえつぐ)が殿下の名代として采配する栄誉を賜った。典礼を滞りなく勤め上げる事相叶ったのは、偏に累代の龍王の霊験加護によるものと存ずる。我ら六孫王府五千騎の兵に功徳無し。藩屏を成す一握の石塊に過ぎず、勲を掴む腕も、名乗る口も持たぬ。全ての功は王の手にあり、名は王の頭にある」
応! と、軍勢が声を発し、足踏みが地鳴りを生む。
「王兄殿下は御自ら我らにその志を示すべく、先んじて身罷られた。この祭礼を以て殿下の御霊は神座に赴き龍体の礎となる。かつて我は殿下の近習を勤め、神君元羅(もとあみ)公の再来と讃えられた才気を間近で拝した。追惜の念を一層深く持つものである」
男はそこで一呼吸置く。段の更新を聴衆の誰もが理解する。軍勢を支配する能弁家の才であった。
「――当代龍王もまた、その後を追われるとあれば、この心中、追惜の一言では語り尽くせぬ」
第三者から見れば、とうに疑問に思う事だろう。
祀られるべき死者でもなく、祀る座に口の利けぬ嬰児を立てて。
王はいずこに。
「これより二十日の後、来たる庚申(こうしん)の日に〝大殯(おおもがり)の儀〟は果たされ、当代六孫王・大樹(はるしげ)公がお隠れになる事は周知の通りである」
男は朗々と語る。
「真の忠臣とは主君の死を嘆き歩みを止めるものにあらざる事を我は知る。龍の血は絶えず、より色を濃く次代に受け継がれる。逆臣の巣と化した禁裏には未だ多意良の係累を騙る羽虫が威を恣(ほしいまま)にしている。王太子殿下は三年の御諒闇(ごりょうあん)(※王の喪に服す事)の後即位され、必ずや大逆の徒を喰らい滅ぼす龍頭となりて、簒奪されし高御座に昇るであろう! 院中に参らんと欲する賢者は既にこの場には無く、来るべき戦に屍を晒す愚者のみが立つ! 者共、骨身を尖らせよ! 滅してなお敵の五体を貫く棘であれ! 我は評定衆(ひょうじょうしゅう)筆頭として、六孫王府第一の臣として諸君の規範たらんと欲する! 我らの死するべき時は間近である!」
「オオオォォ――」
鯨波(とき)が空に昇っていく。
軍勢の目が熱狂に眩んでいるのを確かめて、男、方丈梢継はその日初めて素顔を人前に晒した。
誰も気付かなかっただろう。
その男は騎馬の先頭にある時も、榊の剣を捧げる時も、祝詞を読み上げる時も、人目が離れる時には必ずその表情を貼り付けていた。
(……馬鹿共が)
紛れもない倦怠と軽蔑であった。
/
死ねばいいのに、と、女は数年続けて習慣に堕しつつある呪詛を胸中で吐き捨てる。
「茶番、茶番だ。あんなものは」
呪いの対象である男は女を犯しながら、別の誰かを呪っている。その事が彼女にとっては更に恨めしい。好き勝手言える相手がいるだけ、おまえはずいぶんとましな方だ。
男は唇をすぼめてやや白目を剥き、ふぅふぅと吐息を上げる。知性をまるで感じない顔面が、思い出したように繰り言を述べる。加減を知らない男の抽送に布団がずれ、畳が背に擦れて痛むが、女は声も上げない。この離れでいくら泣き叫んでも母屋の者には聞こえない事はとうに知っていたし、そもそも囲われ者の妾を気に留めるような奇特な人間などここにはいない。
切れ切れで順序もちぐはぐな屋敷の主人の物言いを冷め切った頭で要約すると、こうだ。
ここ数年、破竹の勢いで台頭していったある男がいる。
方丈〝梢継〟――その名が示す通り、深川・六孫王府の政治中枢の実権を握っていた一族の分家筋に過ぎないこの男は、卓抜した政治手腕により瞬く間に自分の活躍出来る舞台を仕立ててみせた。形骸化していた評定衆という主要氏族の代表からなる合議制を復活させ、常備軍である奉公衆の支持を背景に本家の力を蚕食し始めた。
この男を語る時の言いぐさである〝虎に翼の生えたが如き〟というのは、龍を王の象徴に立てる六孫王府において、出世頭を讃える言葉として最上級のものだ。
そして、ついにこの翼虎は本家を爪の下に敷く。
十七年前に死んだ当代六孫王の実兄・森羅公の追善供養は、彼が実権を掌握した事を示す為の御披露目(パフォーマンス)に過ぎない。生まれたばかりの赤ん坊を次代の王に立て、その後見人として方丈梢継は大いに権勢を振るうであろう――あなかしこ。
そして、方丈宗家に取り入って美味い汁を啜っていたこの男はそれが面白くない。女の目には、日に日に色褪せていくかのような屋敷の斜陽ぶりが見て取れた。
男の性情からして、単純な嫉妬の方が割合が大きかろうが――どうやら一時期、件の男を配下に置いていた事もあるらしい。それが逆に、今では男の使い走りでもしなければ妾を囲うのもおぼつかない。
好い気味だ――と女は嗤う。一度でも下に敷く立場にあったなら、なぜその好機に男を殺さなかったのか。凡愚は釣り損ねた稚魚が自分を食い滅ぼす鮫である事に気付かない。大物ぶって時機を見逃した言い訳を述べ立てる。
今となってはもう遅い。男は俎板の上の鯉だ。傑物たるべき人間は小さな禍根も決して許さない。自身の道を遮るものは小石でも排除する。自身の過去を知る愚物を永らえさせておく理由など、殺す順序が後ろの方であるというだけでしかないだろう。没落貴族出身の女はその事を身に染みて知っている。呪いの成就が近い事を確信すれば、むしろ男を哀れむ気持ちすら生まれてくる。
「――糞ッ!!」
男は玻璃(グラス)の椀の中身を一息に呷って投げ捨てる。
宙に投げ出された酒精が玉を作り、そこに留まる。
その不可思議を皮切りに、幼児の見る悪夢のような光景が現れる。
「クそ、屎、Kuソッ!」
男の顔面の左半分が歪む。皮膚が引き攣れ、黒ずみ、石片のように荒れ果てる。頬、額が裂けて三つになった眼球は白目が失せており、屈辱と恐怖の色を隠す。太股を這い回る無数の脚の感触に、女は震える。
男は、〝ばけもの〟だった。
「たダの人ゲン風情ガッ……!!」
百足(ムカデ)の面をした男はそう喚いて、女の首に右手をかける。窒息の恍惚に女は涙した。これより一刻程もかけて、気を失い小便を漏らすまで男は女を責め立てるのだ。怪物として振る舞う以外に、この男の人生には縋り付くべき縁(よすが)が無い。
行灯の形作る奇形の影法師を眺めつつ、女はもう一度呪詛を吐く。男がこの姿になった時に周囲に起こる障りは、女の身体も蝕んでいた。三年も前に一度子を産んでからは孕む様子も無い。好かった、と女は思う。追いやるように僻地に売り飛ばした双子が今どのような姿をしているか、彼女は知りたくも無い。
女は朦朧としながら、夢を見るように時を遣り過ごす。そのようにして全てを虚ろにする術をいつからか彼女は覚えていた。
(……そう言えば)
男がしばしば漏らす言葉を、女は思い出す。
この世界はどこかのだれかが見る夢で、自分たちは夢を賑やかす為に仕立てられた人形に過ぎず――男の異容は、それを示す一つの証しであるのだと。
浮世を嘆くあまりに狂ったかと最初は思ったが、その言葉は、気付けば足下にあった泥沼のように女を捉えた。
夢ですら己のものでない生に、何の意味があるのか……
そうして女は、化物に掻き抱かれるよりも疎ましい空虚な眠りに落ちた。
翌朝、男の死を知らされた直後、女は長年の居室であるこの離れに火を放ち、毒杯を呷った。
男には正妻に産ませた継嗣があったが、数年後に不行状を咎められて改易された後首を括り、この家は煙のように消え失せたという。
/
気を失った女を下女に任せて、男は屋敷を出て行く。とうに九つ(※午前零時)を知らせる時の鐘が鳴った夜更けであった。昼間の、巨人の身体の内にあるような熱気と違った、総身に絡む生温さを覚えつつ男は歩む。人目を忍ぶ道行きである事は明らかで、迂回路を数度経由し、一度は逆行するなどして執拗に尾行を警戒している。襦袢が汗で張り付き不快を極めたが、駕籠掻きに尋問の手が回る事を考えると徒歩で移動するしかない。
武家町の小路の一つに入り、四分の一程まで進んだ時、後ろに人の気配を感じたような気がした。
振り向くが、自分の影しかない。
風声鶴唳――どうにも、己の肝は随分と細かったようだ。
無尽灯というガス燃料式の照明器具が〝解放〟されたのは二十年ほど昔の話で、指呼の間も見えない真暗闇の領域は減りつつあった。辻斬りを警戒しての措置だが、間者(スパイ)にとっては邪魔になる。
背筋の緊張を解きほぐそうと息を吐いた時、首筋に毒の風が吹付けられた。
思い過ごしとするには余りにも存在感のある悪寒に、男は振り返る。
灯明の影と光の境界線を草履で踏みにじり、白い頭巾付の二重廻し(インバネス)姿の男が立っていた。
路地の出口と外套姿の男の立ち位置まで、半町(※約五十五メートル)はある。築地の塀は二丈(※約六メートル)と、乗り越えられる高さでは無い。男が余所見をしていた時間は三秒も無く、駆け足の音など聞こえなかった。怪談じみた出現に指先が強張る――
「侍所所司代、足影秀郷(あしかがひでさと)殿とお見受けする」
「何者だ!」
実際的な意味を持つ問いかけに、男は現実に引き戻された。誰何の声を上げる。
外套姿の男は応えず――
既に腰間の刀刃を抜き放っていた。
二尺四寸(約七十二センチメートル)程の、特に工夫の無い打刀――地肌の色のみを除いて。
暗闇からぬるりと生まれ出てきたような黒色の切っ先が、灯明の下に晒される。
誤解しようもない所作であった。男は戦意を固めて腰の大刀に手を掛ける。刺客との距離はおよそ三間(※約五・四メートル)。構えから初手を予測する。片手持ちのまま、切っ先と柄をこちらからは点としか見えない配置に保ちつつ、顔の高さまで持ち上げて――
視界の下の端で、人魂じみた金色の髪が揺れた。
遠間ゆえに察知出来た。主の身を離れた刀と外套が一瞬ふわりと浮いて落ちていく。囮の切っ先を目に付け、こちらの目線を引きずる芸は堂に入ったものだった。当の刺客は這うような低い姿勢で跳んでいた。明色の外套の内の衣の色は、闇に溶ける黒。工夫を尽くした奇襲。
既に男の足下に踏み込んでいる。残った脇差で斬り付ける意図か。
男は既に迎撃の算段を付けていた。刺客は最後まで視界の外に逃げる腹であったのだろうが、己の――憑人(セリアンスロープ)の視野の広さを考慮していなかった。抜打ちを放つ機は失ってしまったが、小刀の狭い間合いであれば組打ちでの対処が可能だ。柄から手を離し、牽制の熊手を放ち――
ざぐんっ――と。
男は、命の抜け落ちる音を聞いた。
――男は二つの失策を犯していた。
一つは、刺客の呼びかけに応えてしまった事。最初から変化して先手を打てば展開は違ったものになっていたはずが、敵の正体を探ろうとして〝待ち〟を選んでしまった。不安定な立場にある政治的動物故の心の動きを、敵手に利用されてしまった形になる。
もう一つは、刺客の接近に、安易に視野を狭めてしまった事。持ち上げられた大刀を、ただの囮として捨てたと思い込んでしまった。
これは条理の外側の戦い。
男が人間を超えた怪物であるなら、
刺客は人智を外れた異能を用いた。
政敵の存在を意識するあまり、男は自らの、怪物の一族の最大の宿敵を忘れてしまった――
いかなる不可思議によるものか、刺客の手を離れたはずの刀は今、男の首に突き立っている。
その柄を握って、刺客は駄目押しに刃を斬り抜ける。首の可動域が不自然に広がり、男はこめかみを肩に付けた奇妙な姿勢でぐらりと地に落下する。
最期の光景に、男は返り血に髪を濡らす刺客の横顔を見る。少年と言って差し支えない若さ。
それよりも、眼の色が男の気を引いた。
髪色と同じ金色でありながら、どうしようもなく色彩に欠ける沼のような瞳。
それが己を見下ろしながら、今更最初の問いに応じた。
「――殺(あや)し屋だよ」
/
凶手は刃にこびりついた血脂を、薬液を含ませた懐紙で拭う。応急処置だ。明け方までに本格的な洗浄をしなければ、憑人の血液の障気(しょうき)で刀身が腐食する。
「――おい」
汚れた懐紙を放り捨てて、彼は路地の出口へ苛立たしげに声を掛けた。今は死体となって地に伏せる男が入ってきた道の影から、小柄な娘が現れる。
地面に触れる程の長さの髪を後ろで纏め、袴を穿いた男装。裾から覗く右足は鎧のように無骨な鉄の義足で、首ほどまでの高さの鉄杖を支えにその足を進める。何より奇怪なのは、顔に貼り付けた龍面であった。
おずおずと近寄ってくる娘の足を止める、尖った言葉を吐く。
「誰が、手を貸せと言った」
「……申し訳ありません」
鉄杖を掻き抱いて、娘は面に覆われた顔を伏せる。
「――コワいねェ」
頭上から被さってくる軽い声。凶手が振り仰げば、土塀の屋根に寝釈迦よろしくの姿勢で小路を見下ろす男の姿があった。孔雀と蛇の性交をあしらった鮮やかな赤の羽織、黒檀の羅宇(らう)、金無垢の雁首の煙管、実用とはかけ離れた華美な拵の刀、香油を塗った長髪……身を飾るものを全て書き連ねれば巻紙が痩せ細る程豪華絢爛な伊達男は、暗殺者と死体が揃って佇む路地では仲間外れにされたように浮いている。
一つだけ――左の袖がだらりと平らかに垂れ下がっている。
隻腕の侠客は、凶手の眼におどけた仕草で応じ、
「お姫様は、ちょいと目を貸しただけじゃないの」
「……言葉遊びに付き合う気は無いぞ」
――周到に計画された暗殺だった。
対象である足影秀郷は、人目を憚る密会の為に暗所を選んで移動していた。しかし例外として、灯明の複数設置されたこの小路だけは通過せねばならない。
暗所に順応した視力は、灯明に紛れる黄色がかった白色の外套を知覚出来なかった。
凶手は更に一つ仕掛けを施す。
秀郷の注意力がもう少し足りていれば、小路の照明の数が増えている事に気付いただろう。
街灯の屋根に縄を結びつけ連結し、その間に用意した灯明を吊る。
目的は、光を被せる事にある。複数の光源に照らされた箇所に立つ物体は、影が希薄になる。現代で言う所の無影灯、外科手術用の照明器具の原理だ。
秀郷は刺客が突然目の前に現れたと考えたが、実際にはこの凶手は、用意された眼前の死角を歩いてきたのだ。そして、明所に慣れ始めた視界が再び暗闇に潜るよう照明の位置が調整された死地で、両者は対峙した――
「か、風向きが」
娘はおっかなびっくりと言う。
「変わって、きて……こちらが風下になりました」
匂いで、悟られてしまうのではないかと――細々とした声で、ようやく娘は主張を絞り出した。
憑人の鋭敏な五感を警戒して、常道である暗所の仕事を中止したのだ。暗がりから明るい場所に出て安堵した人間が視覚頼みに陥るという心理を利用したとはいえ、その危険はあり得た。
娘が路地の角から秀郷に視線を送って振り向かせた時に距離を稼いでいなければ、もう二、三間ほど遠間で察知されていただろう。戦いの趨勢に大いに影響する距離だ。
「その時はその時だ。俺が次善の策も用意していない愚図に見えるのか、お前は」
凶手は冷たく返して、娘の口をつぐませる。
指先が白む程杖を握り込んだ左手に、しばし目をやってから――
つまらなそうな顔をして、言った。
「……分かっている。この相手は強かった。まともにやれば勝てなかったかもな」
抜き身のままであった刀を鞘内に納める。――指先の震えが治まる前に納刀すれば、手を切っていたかも知れなかった。
娘が頑なに首を横振りして、
「そんな事ないです! ただ、足影は未那元分家でも位の高い一族で、血が濃くて。力も相応の」
「あーあー、もういい。言うな」
空いた右手をひらひらと振って、続く言葉を遮る。
「それでも、少しは信用しろ。十度に一度の勝ちを先に拾う術くらいは叩き込んできたつもりだ」
「……はい」
弛緩しかけた空気を混ぜ返す、頭上の声。
「謙遜が過ぎると嫌味ったらしいねぇ。楽勝だったじゃない」
「はん。素人には分からねぇよ」
伊達男に冷笑で返すが、こちらは柳のように受け流した。立て板に水を流すようなお喋りを続ける。
「余人の理解を遠ざけるその態度、好くないねぇ。芸が衰退するね。知ってる? 十八番(おはこ)って言葉は台本を立派な箱に入れて後生大事に閉まっていた事から来てるそうだよ。この手の悪弊をそのままにしとくと、いつか歌舞伎も「玄人好み」って箱に詰め込まれて大衆から見えない場所に仕舞われちゃうだろうね。能みたいにさ。予言するよ。きみはその辺どう思う?」
「知るかよ。それに、俺の芸は一代限りだ」
「ああもったいなやもったいなや。せっかくの手品なのに。それにしてもすごいねぇ、あの芸は。あの時、きみがもう一人現れて、柄尻を打ち合わせて刀を弾き飛ばした」
先程の飛刀術を思い返しているのか。座り直して、考え込んだ後伊達男は言い直す。
「……いや、ちょっと違うな。刀を飛ばしたきみと、そこの彼に斬り込むきみが同時に現れて、動作の後に残る方を選んだ。そんな感じだ。あの瞬間の、きみの気配の曖昧さは……〝雷穢忌役(らいえのいみやく)〟ってのはみんなこんな芸を持ってるのかい? どういう仕掛けなの?」
「……あんたの宗旨はどうであれな、自分の芸のタネを進んで明かしたがる芸人なんてそうはいねぇよ。特に武芸ってのはな。手前の命に関わる」
毒づきながらも、凶手は内心舌を巻いていた。深い理解だ。この男の述べた言葉は、己の〝相生剣華〟の本質を正確に捉えている。
「一つだけ教えてやる。俺たちはこの芸を、蠱業(まじわざ)って呼んでいる」
「ふぅん。外連(けれん)だねぇ」
お箱の中身はともかく、名前にはさして興味は無いらしい。伊達男は気も漫ろに呟いて、
「……ところでさ、きみが片付けた梯子を持ってきてくれないかな。このままここにいて誰かに見つかると、もしかしたら非常に不幸せな誤解を招くおそれがあるような気もしないでもないよ」
「飛び降りろよ」
「この塀、僕が三人直立で肩車したのより高いんだけど」
「行灯と縄はお前が片付けろよ」
彼の抗弁を端から無視して、凶手は撤収を始める。放り捨てた外套を拾って肩に掛け、
「――行くぞ」
初めて、この場に立つ最後の一人に声を掛けた。
一言で言えば、黒い女だった。
夜の暗がりが柔い黒であれば、女の黒は硬く鋭く、同じ色合いの中にありながら強く存在を主張した。衣服と髪と瞳の黒色に対して、白い肌が目を眩ませる程に際立つ。
中程まで髪の毛で覆った背を、凶手の側に晒して、女は塀に立てかけた死体の首の位置を直している。指先に落ちた血が川となって手首に流れる。
凶手は、殺人の時でさえ発しなかった敵意を露に女を恫喝する。
「やめろ。無意味な事をするな」
それを無視して、女は男の着衣を直すと、どこで拾ってきたのか懐から胡蝶蘭を出してその胸元に挿した。軽く手を合わせてから立ち上がり、凶手へ向き直って応える。
「意味は、あると思うのだけれど」
「それを決める事の出来る人間はもういなくなった」
「あなたの見解は知った事ではないけれど……そうね、確かに悪い事をしたかも知れないわね。あなたに」
「……っ」
大声で喚き立てたくなるのを、胸を押さえつけて自制する。今すぐに立ち去らねばならないと言うのに。それでも我慢が難しい。
「知った風な口を利くな、お前は――」
「やめなよ、死者が目覚めるぞ」
頭上の声が興奮を静めた。
凶手は舌打ち一つして、女を押しのけ路地の出口に向かう。
龍面が覆い隠していても分かる、もの言いたげな風情で、隻脚の娘が立っている。その頭に手を置く。
「〝き〟」
左手の傷で、少女に触れた。
「心配するな。この仕事でいくらかの時間を稼げるだろう。〝大殯の儀〟までに六孫王のいる殯宮は必ず見つける。必ず、奴が死ぬ前にお前を奴の前に立たせてやる」
娘は迷う仕草をして――凶手の胸に手を当てる。
「にい――いなき様」
左手の傷で、少年に触れた。
いなき、と呼ばれた凶手は誓いを告げる。
「お前の前に立つ奴は全て俺が殺す。俺は、お前の仇討ちを遂げさせる――お前に必ず、お前の右目と右足、そして母親を奪った男……父親を、殺させてやる」
時季は夏。
ひたすらに真っ直ぐで、溺れる程の熱情に溢れ、刻一刻と変化して、風のように駆け抜ける。暴悪と清純と狂気と夢想が混ざって滾り、別の姿に成ろうとして足掻く、焼けた坩堝のように熱い時代――
子が親を殺すような、傲慢の季節。