長い旅の終着点を前にして、少女は川の縁に立っている。
狐を模した面の向かう先にはこの町を血管のように巡る水路があり、水草や停泊する小船によって隠蔽された中に地下へと続く入り口がある。王家の長年秘匿されてきた領域に至る門にしては、あまりにみすぼらしい。
それでも、彼女はそこが終着点へと繋がる門だと確信していた。両目を捨てて獲得した知覚が微かな兆しを嗅ぎ取っている。
病。この、どこかの誰かが計算機の中に創造した仮想世界に特有の。周囲も、己も歪ませて滅ぼしてしまう疫病(えやみ)。その深さ、重さを示すように遠く、広く届いてくる。
己はここにいる、と訴えているようだった。
五年間、自分の手で殺す事を願い続けた――父親が。
それを思うと少女の気は逸る。すぐにでも駆け出したかった。それができないのは、進むべき脚が一本欠けているからではない。
背後には二人の人間がいる。男と女だ。
女の方は少女の斜め後ろに立ち、傘を差して少女が雨に濡れぬよう覆っている。初めて会った頃、あの病室でただ本を読みながらいつまでもそこにいた時と同じように、薄くて、代え難いやさしさ。
少女の内心を明かせば――彼女はそのやさしさに苛立っていた。
やめて。そんな風に気づかわないで。姉さま……あやめ様。なんでそんな事をするの。なんであなたはそうなの。せっかく、せっかくわたしが、あのひととあなたを――
癇癪を起こす一歩手前で心を留めて、少女は無言であり続けている。
もう一人は、男だった。
言うべき事は無い。二週間以上共にいて、常に自分を偽り続けていた男について語るべき事などありはしない。
いつもの通り男は飄々と、何事にも柔らかく甘い断絶を示しながら川に背を向け立っている。
男の本心は結局分からなかった。人間の心理状態まで把握するほど鋭敏な〝五〟感を持つ彼女からすら逃れる程の、完全な演技力。
だが、もしかしたら。
これは単純な事なのではないか。自分の能力に頼りすぎて、とても単純な解答を難しくしてしまっているのではないか。
男の、本当に向きたい場所は。
どうでもいい。この男に対する少女の関心は、どこまでも薄い。
――この、二人だけ。
もう一人足りない。五年前の少女が兄妹になると約束を交わした少年は、まだ現れていない。
少女がその身体と、左目を捧げたひとが。
少女が捧げた以上のものを、別の重責を抱えながらも返し続けてきたひとが。
だから、きっとやって来る。少女の願いに逆らって。
やがて雲に晴れ間が覗き、川沿いの道の果てに稲穂に似た黄金が映る。
少年は、一夜の激闘を明らかにする傷をそこかしこに負っていた。顔色は死人のように青ざめて、足取りは重い。それでも立ち止まりはしない。
これから出会う敵に対しても覚えないであろう恐怖を痛烈に感じ、少女は逃げ出したくなる。
それを鋼鉄よりも硬い自制心で押え込み、彼女は少年に告げた。
「行きます」
「ああ」
感情をなんら交えない言葉に、男は満身創痍を取り繕うように強く応える。
少女は決して、男の方を向かなかった。
そして彼女は狐の面を取る。
未だ成熟しきってはいないというのに、現世の女神という言葉が相応しいほどに少女の美貌は極まっていた。それは少女に流れる血筋によるものだけではない。
何があっても意志を貫徹する。その心の強さが少女の美しさに芯を入れているのだ。
少女は腰に吊っていた龍の面を新たに被り直す。元の狐の面は川に捨てた。彼女は二度とあの面を被る事は無いと決めている。
再びその美貌は隠されたが、狐の面よりも彼女が彼女たるべきとして示すものは損なわれない。
人を化かす狐よりも、彼女の在り方には相応しかった。
人を生贄として、人を滅ぼす獣が。
/
「きれいね」
頭上に蓋をする青を見てあやめが漏らした感想は、その程度のものだった。いなきの方はと言えば、内心驚きに満ちている。
先程侵入した地下水路は海まで続かなかった。それはこの経路が当初の推理に反して、殯宮へ至るものと違う事を示しているのではない。
地下水路は、続かなかった。人の手からなる建造物は。
海水が大きなトンネルの形にくり抜かれて、地下水路の終端から続いていた。
天井から屈曲した陽光が降り注ぐ。壁から潮の香りがして、その向こうでは魚が遊泳している。
「おそらくは、六孫王の障気によるものです」
先頭を杖を突きつつ歩く〝き〟が言った。
「海流を歪めて、道を作っている」
事も無げに妹が口にした事実に、いなきは率直に恐怖を抱いた。これまで決死で倒してきた御門八葉と比べてすらケタが二つ、三つ違う力の強大さではないか。
〝き〟はその気後れを敏感に察した。
「これは勝機なのです、いなき様。大殯の儀も終盤、その上こうして殯宮の維持も行っている。彼の弱体化には拍車がかかっています」
慰めるかのような口調であったが、いなきにとっては弱気を詰られたような気分だった。
何より、妹はその言葉を本気で信じている。今なら、弱体化してすらこれ程の力を持つ魔王に勝てるのだと。
いなきは自分の敵に対して、それほどの確信を抱けた事は――
「いなき君いなき君、猫に牛乳をやろうとしたら娘にひしゃげたダイオウグソクムシと罵られた。仲を取り持ってくれまいか。土下座。土下座をするから」
この場にいない男の声が阿呆な事を言った。
聞こえた方を向こうとするが――その声がどこで聞こえたか、思い出せない。
(クソッ……)
幻聴が常態化し始めている。巫術の連続行使の影響で、精神のダメージは無視できないほどに大きくなっていた。いなきが妹の言葉に応じず、会話を最小限に留めようとしているのは、自分の思考を正しく言語化できる自信が無かったからだ。そうなれば彼女は自分の異常に気づく。この後の全ての敵と自ら戦おうとして消耗する。
まだ、いなきが戦わねばならない。彼女を勝たせるには。
その為に、自分の状態を把握する。コードハッキングでは精神を改変できない。肉体の傷は治癒しかけているが、最も重要な幻覚の解消の見込みはまるで無かった。
この上四度目の巫術を使ったら、おそらく。
(それでも……)
日数を除けば巫術の恩恵無しに勝利出来なかった。素の自分の能力では、御門八葉には及ばない。
「いなき君。また、あの拙(つたな)い、借り物の業(わざ)に頼ったか」
蠱部尚武の声の幻聴が再び囁きかけてきた。今度は、憐れむような声音で。
過去にも言われた覚えのある言葉。あの時、自分は地べたに這いつくばっていた。深い外傷はなく――相手が、いなきが感覚を増幅して戦ってすら加減して制した事を示している。
「巫術なるものは、君の妹……あの、精神を制御する事にかけて奇跡的な――あるいは悲劇的な――適正を持つ彼女だからこそ強力無比たり得るものだ。〝真逆〟の性質を持つ君は、彼女の一割未満の力を得る為に、瀕死のリスクを負うだろう」
屈辱と絶望に溺れていたあの時の自分は、それを聞く気力も沸かなかった。
「君はそんなにも、速さを求めているのか? なら、その解答、解法すらもが落第点だ」
尚武の言葉にはいつも棘が無い。ただ、事実を列挙するだけのもの。そして弱者は誤魔化しようのない事実を前に挫折する。
こと武術に関する限り、この男は無自覚に弱者を抹殺している。
殺されない為には強くなるしかない。そして、いなきに対する限り尚武はその道を用意している。彼は自分を仇と狙う少年を本気で弟子として扱っている。
「超越した知覚を持たない私に敗れた理由が、分かるだろうか。――私は今、速度において君より遥かに勝っていた」
彼が超人である為に、凡人に理解しがたい半ば禅問答じみた教訓ではあったが。蠱部尚武は常にいなきへ何かを伝えようとしていた。
「時間すらも超える速さだ。それは、誰にも獲得できる……」
「どうかしたのかい?」
実際にこの場にいる人間の声で、幻覚は吹き散らされた。
「いや……」
どうにかそう答えて、相手の方を見る。
左右田石斛斎は虎口も天国に思えるような場に立っているのを自覚していないのか、へらへらと散歩でもするように気軽に歩いている。
「ふぅん。いや、顔色が悪いように見えたからね」
そうは言いつつも、特にいなきに興味を覚えている訳でもない口調。いなきがうるさがっていると、
「なんであなたまでついてくるんですか、石斛斎」
〝き〟が口を挟んできた。指摘された隻腕の役者は右肩だけをすくめて、
「成り行き上ね。ここまで巻き込まれた以上は、ひとりで歩けば余計に危ない。いくらなんでも、見殺しにしたら気分悪いでしょ?」
「え? 別に……」
「いやほら、ちょっとアレだよ、人情とかさ。あるでしょ? さすがに。君にも」
「ごっとんっ」
「え、なに、その擬音」
「わたしがあなたに抱いているうざさと人情を秤に掛けて、前者が傾いた音です」
「少し……大きくない? 大きくなーい?」
などとしょげ返りつつも石斛斎の同行の意志は変わらないようなので、〝き〟は途中で舌打ちを挟んだりもした。かつ、かつと彼女の歩みに合わせて、鉄の義足と杖が生身の薄い足音よりも際だって聞こえる。
そして二人の姿が消失した。
「――え?」
一瞬の出来事に、間抜けな声をいなきは上げた。周囲を見回して二人の姿を探すが、十人ほどの幅のトンネルのどこを見ても石斛斎と〝き〟を見つける事は出来ない。
背中に、ただ一人存在する他人が声を掛けてきた。
「あら、二人とはぐれてしまったわね」
緊張感の無いあやめの口調で、事態を理解してしまった。
自分たちは、敵地で分断された。
もう一度全方位三六〇度、上空(※海上)と地面(※海底)を睨むように見渡しても、人影は後方で佇むあやめのみだった。
いなきはしばし硬直する。あまりに早々のトラブルに頭は混沌の極みにあった。巫術の使用で疲弊した脳髄に叩き込まれた混乱は、やたらめったらに無茶苦茶で有耶無耶な化学変化を起こし、
そして、いなきの口から妄言となって上ってくる。
「シューメーカー・レヴィ第9彗星人だ」
頬から汗をたらし、真剣味溢れる表情だったが、よく見ればその瞳はぐるぐると渦を巻いている。
「奴らの銀色トラクター光線Ωで二人は拉致されたんだ。アブダクションの魔の手はここまで迫っていたのか……! クソッ!」
「なんですって!?」
などと驚愕の表情っぽいものを浮かべるあやめ。
「木星に拠点を構えた彼らが人類との接触を図ろうとしている事は予測されていた事としても、こんな場所にまで現れるなんて……まさかいなき君、彼らはレティキュリアンと結託して世にも恐ろしい人間プラントを作る野望を?」
こちらの眼球の動きは(恐るべき事に)正気を示していた。
いなきはくっきりはっきり、明々白々とその意見に頷いて、
「かもな。二人がキャトられる(※キャトルミューティレーションされる)前に反物質ワープ航法を完成させなければ……」
「微力ながら手助けするわ、いなき君!」
「ああ、ありがとう……」
「それにしても、今日のあなたはとても良い感じね。これほどあなたと話が合うと感じたのは初めてよ」
「……え? 話が……合う? お前と?」
そこでいなきは冷却された。数十秒フリーズして、思考を分解して再構築する。
頬の汗を拭って、うめいた。
「どうやら俺は、尋常でないレベルでとち狂っていたようだな……」
「……あら? 今、どういうきっかけで自分が正気を失っている事に気付いたのかしら」
不思議そうに首を傾げるあやめを無視して、いなきは自分の頬を平手ではたく。その程度で揺らぎやすくなっている自我を制御できるとは思わないが、事態は逼迫を極めている。再び世迷言を口にするゆとりなどない。早く〝き〟を捜し出さないと……
視界の端から、嘆息が上がった。
「……幻覚に切り替わったのは、三分ほど前よ」
あやめが言った。
「幻覚だと?」
「おそらくはね。その時に、いつきちゃんと役者さんの後ろ姿に違和感を感じ始めたわ」
指先を顎にあてて思い出すような仕草をしつつ、解説する彼女。
それを聞いて、いなきは頭痛を感じたように頭を押さえた。
その苦悩の理由をあやめは言葉にする。
「素人のわたしに分かる程度の違和感に、あなたは気づかなかった」
「……なんてミスだ」
歯を軋らせて悔恨に浸るいなき。その脇で再び嘆息が上がる。
「あなたの失態は、それではないでしょう?」
「……どういう事だ?」
「不調を申告しなかった事よ」
あやめの声音は、冷淡を示していた。この女は無感動そうにしている事を時折冷たさと誤解されるが、実際は普段の言葉にはそうした色も存在しない。不可解で、曖昧。それが蠱部あやめの常態なのだ。
彼女は、自分を責めているのだ。
「あなたがそれを隠さなければ、いつきちゃんがフォローに回っていたわ」
「……それじゃあ、意味が無いんだよ。まだ六孫王の他に敵が、少なくとも五人いる……ここであいつが戦い始めたら、消耗が大きくなりすぎる」
「それで今、どうなっているのかしら? あなたといつきちゃんは分断された。彼女は、一人で戦う事になるのではないかしら」
「……っ」
いなきがひるんだ隙を突くように、あやめは告げる。
「自分の能力の限界を、認めなさい」
「それじゃあ、目的は果たせないんだよ!」
叫ぶ。みっともなく癇癪を起こしている事は分かっていたが、言葉を押さえつけていた箍が外れてしまった。
「自分の限界なんてとうの昔に気づいている……俺は、弱い……蠱部尚武には到底及ばない……! あいつのような、超越した武人とは違う! それでも限界を自覚して、諦めるなんて許されない……」
叩き付けるように言った。
あやめは再三嘆息する。そして、彼女が示していた冷淡さを消すと、
「今、口論している暇はないでしょう。……あなたの身体、いえ、精神の状態を教えなさい。わたしは、昨夜からのあなたの行動を知らない」
いなきの不調の原因を正しく推察して、聞いてくる。渋っていると、言い聞かせるように言葉を重ねてきた。
「素人の女の助勢も必要なほど弱っている事を自覚しなさい。あなたは今、外界の認識が不安定になっているのでしょう。わたしが気づいた事は指摘してあげる……本当は、さっきもそうすべきだったのだけれど。これはわたしのミスね」
「……違う。俺の不調を知らなかったから発言を控えたんだろう。俺のミスだ」
「……お互い、鬱陶しい自戒合戦はやめにしましょう。きりが無いわ」
「ああ……」
いなきは同意して、先へと歩き出した。何にせよ、この場に留まっていても益は無い。
一歩目を踏み出した後で、「この先は道が続いているように見えるか?」と問いかける。あやめは「ええ」と返した。
でこぼこした海底の道を歩きながら、いなきは自分の現状を説明した。巫術という技術を使って御門八葉に対抗した事、これには統合失調症に酷似した精神の失調のリスクがある事、過剰にそれを使用した為に幻覚が常態化しつつある事。
一通り話を聞き終えると、あやめは言った。
「今後金輪際、その技を使うのを止めなさい」
「……けれど、それじゃ」
「おそらく、次の巫術の使用であなたは廃人になるわよ。……お父さんを倒すまで死ねないんでしょう、あなたは」
ある意味で意地の悪いあやめの説得に、いなきは喉をつまらせたようになる。
「……正直、この件に関してはいつきちゃんにも責任はあるわ。あの子だけにしか扱えない技術を人に教えるなんて」
「……俺が、無理に聞いたんだよ」
「それでも、伝えるべきではなかったわ。精神の変容を制御するという事は、特殊な才能を持ち、訓練を受けた女性にしか本来できないものなのよ」
「女にしか、って……どういう事だ?」
問いかけるいなきに、あやめは横合いから顔を覗くように答えた。
「歴史が実証しているわよ。日本もそうだけれど、ヨーロッパでもデルポイの神殿で託宣を受けるのもまた巫女。ある時代から、シャーマンとしての能力を持つ人間はほとんど女になっているわ」
「それは……政治を男が担当し始めたからだろう。中世以前の宿命的な男女の分業制だ」
「理由の一つではあると思うわ。けれど、根本的な原因ではない。別に男と女のどっちが優れているとか、そんなくだらない話をしている訳じゃないの。ある時期以降の男性は、巫(かんなぎ)としての能力を女性に比べて大きく損失してしまった……」
「……なんだか、随分と断言するな。ある時代、ある時期、とかも……何か、根拠があるという事か?」
いなきが問うと、あやめは「ええ」と頷いた。
「ある変化が起こるより前は、男女ともに〝神の声〟を聞いていたのよ」
「……ちょっと待て、いつものお前のオカルト話にかまけてる暇は無いんだが」
「失敬ね。……言い換えるわ。〝出所の不明な声〟を、ある時代の人類は日常的に耳にしていたの」
「全人類が幻覚症状に罹患していた?」
同じく幻覚を患い、そのうえ正体不明の幻術に惑わされつつある中で、いなきは言った。
あやめは首を振る。
「幻覚、というと誤解になるわね。一番適当なのが神の声なのよ。実際にそう扱われていたのだから」
などと言うと、中空に向けて静かに何事かそらんじて見せた。
――そもそも二人を争わせたのは、いかなる神であったのか。
詩、のようであった。聞き覚えがある。
「……イリアス?」
「そうね。美姫ヘレネーの奪い合いに端を発するトロイア戦争、神々の助勢を受けた英雄の戦いを描いた叙事詩。読んだ事はあるようね?」
「ざっと、流し読み程度だ」
知性と知識の欠落した人間は、一定の水準以上の戦いには確実に負けるというのが蠱部尚武の持論だった。紫垣城のデータベース〝啓示の森林(アーラニヤカ)〟から採集した知識の写本を収めた書庫。いなきがあそこに通う頻度はトップであるあやめに次いでいる。だから、このように現実の知識を前提とした会話も行えはする。
「そう。ならいいわ。あれを読んで、不思議に思わなかったかしら。なぜこの話の登場人物は、神さまの言う事をこうもすんなり受け入れてしまうのかって」
「……まぁな」
「それはそうよね。そもそもの発端であるヘレネーのかどわかしだって、よそで女神が勝手に決めた事なのに、無数の求婚者の中で一番の男のメネラーオスと結婚して不満の無い所を、見ず知らずのパリス王子に唯々諾々とついていったのよ」
「でも、それは信仰心ってやつだろ?」
「現代的な解釈ね。ある時期以前の人類にとっては、神とは信じるものじゃなくて、事実として、何ら疑いなく実在するものだったのよ」
「超常的な存在が、本当にいたってのか?」
「物理的な実体を持つ神、という意味なら、今はその話をしているのではないわ。いえ、むしろそういう意味の神の不在を示唆するものなのでしょうね……だって、そんなものがいたら競合してしまうもの」
「競合?」
「この話の神と、よ。人間の代わりに思考を行っていた存在」
と、あやめは言った。
「……その時代では、人間が思考していなかったとでも言うつもりか?」
「その通りよ。――これは、ある時期で行われた人間の心についての想像。その後、人間の心を創造できてしまった為に、忘れ去られた古い話よ」
「……何を言っている?」
「今のは理解しなくてもいいわ。結局の所、わたしの推論でしか無いのだもの」
さぁ、話を続けましょう、とあやめは手を打ち鳴らす。
「神という名の思考の代行者(エージェント)に、人々は意志決定を委ねていた。――さていなき君、この場合の神の正体はなんなのかしら」
「……自分だ」
「模範解答ね。そう、合理的に考えればそういう風に結論せざるを得ないわね。精神、という神。この仮説では、かつての人類は心を分裂させて、片割れを神とした事になっている。分裂した神は幻覚として人間に干渉し、行動の決定権を握った」
重ねて問題よ、と彼女は魚の躍る海水を背景に問いかけてきた。
「統合失調症という病名は、かつてなんと呼ばれていたのかしら」
「……精神分裂病」
「正解(コレクト)。神代の時代というべき時期。全人類の精神は、統合失調症に近い状態にあったのよ。幻覚症状に罹患していた、というあなたの話も十分ではないけれど正しい」
あやめの含みのある物言いはさておいて、いなきは疑問を口にした。
「だが、今はそうじゃない。神代とそれ以降の差はなんだ? 人間はどこから自分で意志決定をするようになった?」
「言語の獲得」
端的に、あやめは告げた。
「今の人を、人たらしめるものはそれよ。体系立った言語を習得する事で、人間は思考を可能とした。過去、現在、未来。異なる世界。別個の人々。等身大の自己を超えた思索が、人類を他の動物と隔絶した存在にした……神の声を聞く能力と、引替えにしてね」
「たかだか幻覚だろう? 正しい進化じゃないのか」
「その言葉はいただけないわね、いなき君。あまりに都合の良すぎる解釈よ。進化なるものは、ただの変化でしかないわ。そしてすべての変化にはマイナスが存在する。――人類が失ったものは、厳密には幻覚に似た何か。そして、それによる恩恵があったと、わたしは考えるわ」
「……その恩恵ってのは?」
「強力さ」
いなきの問いかけに、あやめは一言で応じる。
「未来を予知する巫女、海を割る預言者、不死に近い戦士……はたして、神代の英雄の能力は物語的な誇張だったのかしら? その時期の人間は、本当にそうした力を持っていたとしたら?」
「そんな事、ある訳がないだろう?」
「既に失われた時代よ。わたしたちの常識の範疇で予測する以外にない。……いつきちゃんを見ては、眉唾と言い切るのは難しいわね」
そうあやめは言って、
「あの子が斎姫(ときのひめ)として受けていた訓練は、まさしく神代の巫女の能力を会得する為のものよ。言語が存在せず、視覚も制限された環境で成育する事で、神代の脳の状態を構築し、幻覚を知覚して、これを制御する……今のあの子の能力は、この経験を元にアレンジしたものよ」
〝き〟の能力。架空の臓器を仮定し、そして〝幻覚する〟という仙術による、物理的な限界を超えた怪力と、巫術による超人的な知覚。そしてその異能とコードハッキングを掛け合わせた蠱業、あの恐るべき〝刹那生滅〟。
まさしく、あの娘の力は人の範囲を逸脱している。
「……あいつのような力を、神代の人間は持っていたというのか?」
「んー……厳密には違うわね」
「あん? 話の流れからして、そうなるだろ普通」
「仕方ないのよ。ただあの子が今やっている事は、神代の人間の能力に由来するものだから、本来の力も人智を超えたものだと推察するしかないの」
釈然としない気分のいなきを軽く眇(すが)め見て、フォローの意味かあやめは付け加える。
「ただ、斎姫というシステムを考えた人間はこれを考慮していたはずよ。女性のみを対象にする点は元より、全ての儀礼に明確な目的がある」
「話が戻ったな。女だけが巫覡(ふげき)の能力を会得できる……理由はなんだ?」
「単純な話。脳の器質的な違いよ」
つん、つん、とあやめは人差し指で自分のと、いなきのこめかみを交互につついてみせた。
「左脳、右脳の機能分化の話は分かるわね? 右脳が左半身、左脳が右半身と互い違いの箇所を制御するとか、右脳がイメージ、左脳が言語を司るとか」
「ああ」
「女性の場合、この機能の分化は明確ではないのよ。左右の脳を繋ぐ脳梁、つまり回線が太いの。だから、左脳側から右脳を支配する適正がある」
あやめはいなきの後ろに立って、左右のこめかみを指でつつく。中々鬱陶しいので止めて欲しかった。
再び彼女はいなきの左隣に戻ると、
「幻覚を感じる部分は右脳とされているわ。左半身を司る箇所。いなき君、わたしの周りに幻覚は見えている?」
「見えてない。お前自身が幻でなければ」
「そう? わたしは、ここにいるわよ。信じるかどうかはお好きになさい」
などと冗談めいた事を言うあやめ。
「ともかく、言語の獲得によって人間の精神は神代のそれとは変容してしまった。意識、思考なるものが人間の精神の主座につくようになった。けれどいなき君、神代の能力の代わりに得たこの演算器は、実はとてもロースペックなのよ」
「お前の親父も、確かそんな事を言ってたよ」
「そう? あの人なら実感としてそれを知る事もできるでしょうね……わたしは知識としてよ。思考する人間は、実像そのものとはかけ離れた、極めて低い精度で世界を認識している」
と、あやめは壁面の海水を見る。それがどのように見えているか確認しているのか。
「そもそも、思考は後天的に得たものゆえに、実は人間の精神の核心とは遠い所で機能しているの」
「? どういう事だ」
「現実史のどこかで行われたある実験では、人間の意識は行動に遅れて発生している事が証明されたわ」
「……俺たちは、動いた後に考えている?」
「そう。この考えに立脚すれば、意識というのはあくまで、後天的で、ロースペックな、付属品なのよ。そうでないものの方が遥かに強力なの」
「……無意識」
「そうね。これを高く評価していたのはユングかしら。彼は人間の心の根源にある無意識を自己(ゼルプスト)と名付けていた。これは、人が神になる為に必要なものだと。……それもまた、人工知能の完成と共に廃れていった求道ね」
「どっちにしろ、人間が神になれる訳が無い」
「そうかしら? 人間そのものの思考をする機械を創造した時点で、神の定義の範疇に入っているような気もするけれど」
「……あんまり、認めたくねぇよ」
自分が人造物であるという認識は、八百八町の暗部に関わる以上避けて通れない。そして大抵の人間がそこに劣等感を覚える。創造主、という意味であれば確かに現実の人間は神と言えるが、彼らは崇拝の対象などではない。断じて。
「神に幻想を持ち過ぎよ、いなき君」
それを、この女は軽々しく切って捨てた。
「完全無欠の善なるものなど、この世に存在しない。それどころか、比較的善なるものですらもね」
「お前って、性悪説論者だったっけ?」
「いいえ。……全き悪なるもの、比較的悪なるものもこの世に存在しないわ」
「……よく分からん」
「いいのよ。さ、話を戻しましょうか」
と、あやめは二度目の手拍子をする。
「つまり意識の排除は、肉体をハイスペックな処理装置に預けるという事ね。それでもしかしたらESPの類を獲得するかも知れない、というのが神代の人間の超人説の根拠よ。別に、そんな眉唾な話でなくとも運動性能は確実に向上するわ。……確か、あなたたちの使う言葉に適当なものがあったのではないかしら?」
「……無想」
それは武術におけるある種の理想、あるいは駄法螺(だぼら)だ。
武士なる職業に禅の思想が浸透する事で唱えられた信仰。思考を無くして戦う事が武術家の理想型であるという――当の武術家たちですら妄想として一笑に付すものが多かっただろう。そして、それが正しいといなきも考え続けてきた。
「無想は、可能なのか?」
「おそらくは。まだ、誰もそれを実践した事は無いけれど」
「だから、〝き〟がそうなんじゃないのか?」
「違うと言ってるじゃない。……そもそも、あの子が自我の無い人間に見える?」
「……いや」
「というより、真逆に、見えるのではないかしら?」
真逆。
確かに〝き〟の自己を貫徹する精神力は並のものではない。彼女はただの少女、しかも重傷を負った状態の頃から、八百八町最強の憑人の殺害が可能である事を決して疑わなかった。実現出来る願望として訓練を続けていた。そしてたった五年程度で六孫王に対抗する手段を見出して、修得している。
自我の塊。
「あの子の行っている事は無想の逆なのよ」
あやめはそう前置きして、言葉を続けようとする。
それを、いなきは押し止めた。
「待て、話は後だ。……俺の見えているものは正しいか、あやめ。道の向こうに、」
「女性が一人いるわ」
巫術の後遺症の幻覚でない事を確かめて、いなきは改めて水中通路の奥に立つ女を見つめた。
女、というよりは少女というべき歳頃だろう。濃紺の着物を着付けて、赤い唐傘を差している。あどけなさの残る顔立ちが、こちらに向いていた。
「女性が、一人いると言ったわよ、いなき君」
こちらの内心を見透かして、釘を刺すような口調であやめが囁く。
「たぶん見た目通りの年齢じゃないわ。型にはまりすぎてる」
「……?」
「年頃そのものに見えるよう取り繕ってる、って事よ。そこまで自分を客観視するのは、あの仮痴不癲(かちふてん)さんでも出来ていなかったわね。まぁ、年の功ってやつよ」
「分かった。油断はしない」
歩きながらも腰に下げた刀の具合を確かめ、即座に抜き打てるよう用意をする。
まだ距離がかなり開いている時に、女がこちらに声を掛けてきた。
「どうやら、勘の良い女を連れとるようじゃのぉ」
微笑む。それだけで少女の印象はがらりと変わる。鎚蜘蛛姫や芙蓉局あたりの示していたものと同じような老獪さ。
「儂に戦る気は無いよ。ただの案内人じゃ。……それに、この儂に触れる事はできんよ」
と、少女は自分の顔面に手で触れる。彼女の像が、ぐにゃりと歪んだ。
「貴様らと斎姫を分断したのは儂の幻術じゃ。……御門八葉が一、比良賀(ひらが)家当主、月数(つきかず)。短い間ながら、よしなに」
(……幻術)
少女の語る言葉を無視して、いなきは思考に没頭した。戦意が無いなど嘘に決まっているし、ならば能力を考察する事は無意味ではない。
敵勢を引き離す事が可能な点から、その幻術とやらが広範に及ぶものである事は推察できる。憑人としてのいかなる特性がそのような技術を実現するのか。
視力の無い〝き〟をはめた事から、視覚に訴えかける類のものではないはずだが。
――くつくつと、笑い声がした。
「おうおう、やはり雷穢忌役よのぉ」
どこか、数年来会わなかった知己に偶然遭遇したかのような懐かしさ――そんなものを感じさせる笑みを浮かべ、月数は歩きだした。その後をついていく間にも、彼女は語る。
「まずは敵味方。そして敵と区分けすればその全てを疑ってかかる。判を押したように似たり寄ったりの連中じゃ」
「……当たり前だ。そもそもお前は、六孫王の近衛だろう」
ぴりつきながら、いなきは応じる。
月数はつまらなそうに嘆息した。
「くだらん。……大樹は既に柩に入っておる。このような、大仰でかび臭い柩にの。あと一日二日で死ぬと分かっておるものを守る理由がどこにある?」
と、言ってから肩をすくめて、
「同じく、いちいち殺しに来る理由も無い。……主らは藪を突いて蛇を出したのじゃよ。主らの争いに巻き込まれて死んだ人間は百を下らぬそうだ。全く、無益な死よ」
「……」
いなきは奥歯を噛みしめる。死者の側に立てば、まさしくこの女の言葉は正しい。彼らは単なるとばっちりで人生を終えた。
「それと。町人以外の、突き殺した蛇についても考えてもらいたいものじゃ。――主が最初に殺した日数、あれは儂の孫よ」
「……そうなのか」
「比良賀家と大宇智(おおうち)家は御門葉の中でも繋がりが深くての。あれは嫁に出した娘が産んだ子じゃ。紛れもない外道に育ったが、不憫な男でもあった。近親婚を繰り返したせいで生来の障害を抱えておって、憑人の力を御する事ができるまで寝たきりじゃった。……娘は箱入りだからの、そんな日数を扱いかねるとあっさり捨てた」
「……だからって、人を殺して良い理由には」
言いかけて、その思い違いに気付き慌てて止める。月数は見逃さなかったが。
「それを殺し屋の主が言うのか? くく、ひひ……冗談にしても――悪質じゃのぉ」
的確に、老獪に、少女にしか見えない憑人はいなきの精神を抉ってくる。
「その通り。人を殺して良い理由などない。大量虐殺を行った人間であれの。殺人が悪、という標語を信ずるのであれば、刑罰による殺害も許されぬ。大昔のお偉い人間は悪人一人を殺して万の善人を救う事を活人剣(かつにんけん)などと嘯(うそぶ)きおったが、そんなもん欺瞞よ。違うか?」
「……違わない」
断じて、違わない。
死が。ある日唐突に未来を遮断される事がどういうものか、いなきは九年前に知った。
それを人に強いる事は、許されてはならない。
だから、自分は。
「本来なら儂は、日数を殺した主を仇と恨み、戦わねばならん立場よ。……そうした時、主はどうするのかね?」
「俺は……」
「うちの子をいじめるのは、止めていただけないかしら?」
あやめが、口を挟んできた。
「あなた、知り合いの憑人にとてもよく似ているわ。――とうに人間が死んでも何も感じなくなってる癖に、気まぐれだけで人のふりをしている。そんな気まぐれで、彼を振り回さないでちょうだい」
「人のふり、ねぇ……儂は人間ではないのかね?」
面白そうに問いかけてくる月数に、あやめは「ええ」と断言した。
「その女性と同じ。人間を俯瞰でしか見れないような存在は、神か悪魔のどちらかよ。あなたは、どっちかしらね」
「悪魔の方が好みじゃのぉ。……その婆も、そう言うとったのではないかね?」
「やっぱり、蜘蛛のおばさま……鎚蜘蛛姫を御存知なのね?」
「おうよ。娘時分に師事しておった。幻術も奴の手解きじゃ。……気が合わなくなって、袂を分かったがの」
「人を化かす所は、そっくりに見えるが」
いなきは言う。彼の方も、あやめの言葉でようやく気づいた。自分が弄ばれた事を。
「日数は、最期にあんたの事を呼んでたよ」
彼女が孫の死に哀しみを覚えていない事を。
「く、ひひ」
にたぁり、と。老獪を通り越して化物のように月数は笑む。
「本当に、珍しい程に初心な男よ」
結局、彼女は日数の死に様については何も興味を示さなかった。
「おいおい、勘違いをするなよ。儂はそれなりにあの男を可愛がっておった。憑物の制御術を教授してもやったし。活動できるようになってからも……奴は両親を恨んどったからの、復讐に手を貸してやりもした」
「……あんたの娘でもあるだろうが」
「人を殺して悪い理由など無い」
などと、月数は最初持ち出した意見をあっさり翻した。
「善悪なんてもんは、所詮社会をほどほどに維持する為の皮よ。容易に裏返るし、裏もかける。善人、悪人などと大雑把な区分には必ずつっこみどころが出来るものよ。裏側の無い物体が存在しないように、表側の無い物体が存在しないように。自分の全き正しさ、あるいは自分の全き悪しきを信じている人間――前者が数多いのは知れた事じゃが、こういう人間も意外といる。どこぞの誰かのようにな――はただの馬鹿じゃな」
「……似たような事を言う奴が、どこかにいたな」
皮肉は無視して、隣を歩くあやめを意識しつつ答える。
彼女が月数のような無慈悲な――いや、虚無的な人間であるとは思えないが。
「……ま、儂は日数で遊ぶのは面白がっておったが、もう死んでしもうた人間の仇討ちに熱を入れるなどまっぴら。そういう事じゃ」
月数は無情極まる言葉を平然と用いて、それきり日数の話題を切り捨てた。別口で語りを続ける。
「大樹の護衛にしてもそうじゃ。仲間の手前、幻術による消極的な援助はするがそれ以上の事は面倒じゃの。危うくもある。儂は蜃(シン)の憑人……戦闘力に見るべき所が無い。積極的に戦いに参加すれば討ち取られる可能性もある。儂は〝生き残り組〟じゃから無茶をして死ぬ気など無いよ」
「……生き残り組?」
「この太歳宮(たいさいきゅう)……主らは多分殯宮と呼んでおるこの御所は、大樹の障気によって維持されておる。奴が死ねばここは即座に水没する。御門八葉には三十六歌仙のような一蓮托生の義務などないが、近衛である以上最期の瞬間まで王を護衛せねばならん。結果的に、水中で活動できる特殊な憑人……日数や沢瀉、儂のような水気の憑物持ちしか生き残れん」
「……確か、沢瀉は大殯の儀の完遂と共に死ぬみたいな事を言っていたが」
「あやつは馬鹿じゃからのぉ。この話を理解してたかどうか分からん。……いや、普通に殉死する気でいたのかも知れんが」
個人的には前者の説の信憑性が高いと、沢瀉と直に戦ったいなきは思う。まぁ、武人としてイメージされる像そのものであったような男だ。後者でも不思議は無いが。
――それにしても、この女は本当に戦う気が無いようだ。
自分が何の憑人か明かしてしまっている。
蜃――大蛤の妖怪と言われている。
吐き出す気が空中に楼閣を作り出す――蜃気楼の語源となった存在である。
おそらくは、大気中に何かしらの化学物質を散布して幻覚にはめる能力なのではないか。作用する場所は嗅覚の可能性が高い。視覚の存在しない〝き〟が幻術にかかっているし、五感の中で最もダイレクトに脳神経に作用するのが「匂い」なのだ。嗅覚情報は大脳辺縁系に直接届く。ここは人間の記憶や自律神経、感情を司る箇所である。
能力の手掛かりを簡単に教える。この女は、
「熱意が無いのね、あなたは」
いなきの内心を代弁するように、あやめが言った。
へらへらと、月数は応じる。
「そうじゃ。鎚蜘蛛姫と気の合わん所はそこよ。芙蓉局とも会うたであろう? あやつも同じじゃ。人生を賭した求道? この世界の未来? なんでそんな下らんもんに入れあげるのやら、儂にはさっぱりじゃ。命を擲つような大望を持たず、ほどほどに悪事を楽しみ、時折善行を為して生きる……おい小娘、主は人のふりと言うておったが、これこそ真っ当な人間の在り方じゃろうが?」
「必要なものが欠けているわ」
「……必要なもの?」
「答える必要を感じないわね。あなたはもう、人間を止めてしまってるのだから」
あやめは普段見せない、冷徹な声で月数へ告げる。
彼女の倦怠に満ちた風情は、その程度で変化する事は無かったが。
「ま、相互理解は諦める事とするかの。……ともあれ儂は、ちょっとした幻術で他の連中の都合の良いよう場を整えるだけじゃ。――斎姫は先行させたからの、今頃戦端を開いておる事じゃろうて」
その語る内容にいなきは違和感を感じたが、それを追求するのを迷う内に、月数が言葉を被せてきた。
「主らには、しばしこの辺りをうろついてもらうぞ。儂の本体は太歳宮の中じゃから、殺して幻術を解く事もできん。なに、四半刻もかからんだろうて。……斎姫が死体になるには」
舌先で傷を弄くるような言葉を使う月数に、いなきは感じた違和感をさておいて問いかけた。
「あいつと戦っている憑人は、御門八葉か?」
「そうじゃ。八葉が一人。もう一人、余計者がついておるがの」
「もう一つ。そいつは、俺の殺した連中より強いか? 奴らは格下の先遣隊だから永代島に現れたのか?」
「……? いいや。当主の寄合所帯だからの。便宜上の取り纏め役は存在するが、序列の類や命令系統などは存在せん」
「そうか。――ならいい」
確かに、この女の言う通り嗅覚に作用する(と思われる)幻覚を防御する事は困難だ。〝き〟の元に駆けつける事は出来ないだろう。
だからいなきは、妥協をせざるを得ない。
日数、沢瀉、膝丸――あの程度の連中と同格なら、〝き〟は力を温存して戦える。
不安材料を述べたつもりが、相手が安堵しているという不可解に顔をしかめる月数に、いなきは告げた。
「あいつは、けた違いだ」