「やっぱりぃ、気乗りはしませんわねぇ」
開口一番、そんな間延びした声で宮殿の門前に立つ女は言った。
臭う程に女を主張するかのような容姿をしていた。だらしなく――理路整然とした計算の上で――暗い赤の着物を着崩し、はだけた胸元から白い豊満な乳房を覗かせる。濡れたように輝く髪が緩く波打って、一房谷間に潜り込んでいた。
その有り様に男は獣欲を抱き、女は嫌悪するのだろう。そして彼女の実体を見落とす。
〝き〟は、女の冷徹さを示すかのように静かに鼓動する心音を聞いている。
「こんな子供を殺すなんて。ああ、気が乗りませんわぁ」
などと言いつつも、内心では毛ほども動揺を感じていない。こういう時自分の知覚力が面倒なものに思える。無駄な茶番である事が分かってしまっているのに、それに付き合うのはひどく億劫だった。
「わたしは別に。……あなたのような、色んな意味ででかい女は妬ましいですし」
「女の子のくせに、正直ですのねぇ。……でも、後悔しますわよぉ、後々。具体的には十年くらい経った頃に」
「……?」
「わたくし、占い、得意なんですのよぉ」
と、女は袖からタロットカード、筮竹(ぜいちく)、水晶玉などを出したり消したりする。
「手品師の方が向いていそうです」
「そう仰らず……実際、スゴイんですのよぉ、わたくし」
たたたたた、とトランプを空中でシャッフルするという妙技を披露しつつ、女は言った。やはり占い師というより手品師のスキルに見える。
「当たるも八卦、当たらぬも八卦などという事は申しませんわぁ。……まぁ」
「次にあなたは、『今回は、当てないつもりでいますけどぉ。占いの示す未来の来る前に死んでいただくわけですし』と言います」
「……」
「え? あれ?」
「どうしましたのぉ?」
「……言わないんですか?」
「いぃえぇ、言おうとした事を一言一句違わず当てられてびっくりしてましたのぉ。スゴイんですのねぇ」
「くぅ……っ!」
殴られたように膝をつき、〝き〟はうめいた。
「様式美が崩れました……確かにアレって、当てられた方が付き合ってくれでもしないと成立しない会話芸のような気がします……」
(一度やってみたかっただけのに……だけなのに!)
〝き〟は内心で後悔の海に溺れた。
全力の自制心を燃料に恥辱からリカバーすると、立ち上がって話題を逸らす。女の足下でうずくまっている者を指差して、
「そ、そこのそれは、(手品の)助手かなにかですか」
急に自分に言及された、その丸まった塊はひぃと悲鳴を上げて女の影に隠れる。自分と同い年くらいの少年のようだった。彼は震える声で言う。
「ななな、なんでぼくみたいなゴミムシを気にするんだよぉぉおぅ……隠れてたのに、話しかけるなオーラを出していたのにぃい……」
「ふっ、甘いですね」
あらん限りの上から目線で〝き〟は少年に告げた。くるぶしまでの長い後ろ髪をかき上げて、格好を付けつつ、
「なんか色々充実してる妬ましい連中は、オーラなどという婉曲な防御手段は易々と通り抜けて「どうしたの?」「怖くないよ?」「愛と勇気だけじゃなくて僕とも友達になろう」とか言ってくるのです。あのうざいやつらを黙らせるのは己が拳のみ。身体を鍛えなさい、少年」
「最底辺のコミュニケーション能力保持者の間で優位に立ったからって、浴びる程の優越感に浸る様……もの悲しいですわぁ」
女が呆れた風に口を挟んでくる。空中シャッフルは手遊びのように続けてはいるが。
「……で? いったいあなたたちは何なんですか? 芸人ならこの二週間余りでお腹いっぱいなので、ご退場願いたいのですが」
分かりきってはいたが、茶番に幕を引く意味で〝き〟は問いかけた。
女はシャッフルしたカードを空中にバラ撒く。絵柄は全てスペードのエースに変わっていた。最後まで手品師じみた振る舞いをして、女は答える。
「三十六人衆、瞞天過海(まんてんかかい)の歌仙、徽子(きし)……出張警備ですわぁ。ふふ、騎士と徽子をかけたんじゃありませんのよぉ」
「……そっちは?」
くだらない事を抜かす女を無視して、再び少年を指差す。ひぃ、とうずくまったまま悲鳴を上げ、意味のある言葉を発する事は無かったが。
代わりに徽子が答えた。
「御門八葉が一、鏡家の当主、楯無(たてなし)さまですのぉ」
「そうですか。わたしは、ただの殺し屋です。その門の向こうにいる男を殺しに来ました。――互いの立場も了解した所で、戦いましょうか」
早口に述べると、〝き〟は今まで自分の身体を支えていた鉄の杖を肩に担いだ。
「あら、せっかちさんですのねぇ。わたくしは未だに躊躇いを覚えておりますのにぃ」
「申し訳ありませんが、わたし、あなたたちに興味がありません」
「……傲慢な子供」
小さく、〝き〟の聴覚でしか捉えられない程の声で徽子は罵った。冷笑家で、冷徹で、冷厳。それが地金なのだろう。
すぐに剥げる仮面。どうしてそんなものを取り繕うのか、〝き〟には不可解で仕方が無い。
「最後に聞きますが、道を譲る気はありませんか?」
「良い、と言った所で信じますのぉ? あなたは。後ろから刺されると考えません?」
「分かりますよ。本当にその気なら」
「ふぅん……なら、わたくしがどう答えるかも分かりますわよねぇ?」
「ええ、そうですね」
自分も茶番に付き合ってしまった事を悔やむ間、〝き〟は空中に飛び出していた。
彼女の義足は膝関節にバネを内臓している。それを強く踏みつけて、反動で跳ね上がったのだ。そこに仙術により強化された筋力と、巫術による体内の知覚がもたらす精密な軽功が加わる事で跳躍の距離は四丈(十二メートル)を遥かに超える。
徽子の無防備な背中を打撃しようと杖を振り上げ――
唐突な脱力感に襲われた。
「……っ?」
そして体内で起きた変調よりも、危険な異変が地上にあった――いや、無かった。
女の背後で怯えていた子供の姿が、そこに無い。
「ご、ごごごごめんなさい」
空中高くに飛び上がった〝き〟の背後で、その声は聞こえた。
「――でも、命令だからァ♪」
唐突に愉悦の色合いに染め上げられた声と共に、少年は左腕を巨大な石と化して彼女の背を殴打した。
「慢心、ですわぁ」
地べたに叩き付けられ、今は楯無の手で押え込まれる〝き〟に、殴りつけるように徽子は告げる。
「自分の能力を絶対視しておりましたのねぇ……確かにそれは、人に軽々しく万能感を覚えさせる技術ですものねぇ。子供がそれを得たのなら、ことさらそれも大きいでしょう」
かつ、かつ、と女が履く、和装に似合わないピンヒールが地面を叩く音がする。遠く、遠くに離れていく。
「だからこそ、子供の玩具を取り上げるようで、気が引けますけれど……内丹に気を練る事で力を得る仙術――わたくしには、それを無効化できますのよ」
ぴくり、と女の言葉に〝き〟の指先が震える。楯無に押え込まれているので、それ以上の動きは許されなかった。
「わたくしたちは、似た物同士ですのよぉ――斎姫」
と、徽子は海底に突き出た岩の一つに腰掛けた。気楽な振る舞い。勝利を確信したような。
それはそうだろう。この状況は明らかに彼女が王手を掛けている。
だからこそ、種明かしをする余裕もあるのだろう。
「現実史における三十六歌仙、徽子の別名は斎宮女御……その名の示す通り、巫女であった女性ですわぁ。わたくしもまた、巫女としての訓練を受けましたの。主、瞞天過海の商いは〝神域の構築〟……神殿、寺院に魔術的な価値を作る事ですからぁ、それに合った人材として大抜擢されましたのよぉ」
自慢のようで――女はそれをつまらないものと捉えているのが〝き〟には分かる。
それでも、そうしたもので飾るのが女のやり方なのだろう。
女の内面は、どこまでも事務的で、空虚だった。人がそれに触れればおののいてしまう程に。
空虚を飾り立てる言葉を、徽子は並べ続ける。
「と言っても、あなたのようなバカ力はありませんけれどぉ……あなたの専門が、己の内側に神域を作るなら、わたくしは外側」
「……方位、地勢。気の流れですか」
「その通り。……ふふ、取り乱すものと思ってましたのに、お強いんですのねぇ。あるいは鈍いのかしらぁ」
「……続けなさい」
「あら、まぁ。……そうですわよねぇ、お姫様ですもの。謙虚など持ち合わせて産まれてくるはず、ありませんわよねぇ」
くつくつと演技で笑いつつ、徽子は内心の冷気をさらに冷ややかにした。敗北し、組み敷かれた娘の処遇を決定したのだろう。
「方位と場により、存在する気の質、量は変化する……良き流れ、悪き流れ……それを見定める方法論を現実史の古代から人類は考察してきました。風水、気学、九星術、奇門遁甲……」
講釈するように述べる徽子。
「ある時点で、それは完全に解明されたようです。空想と軽んじられた魔術が、科学的に再現されて実体化したわけですわぁ」
「その靴と――眼ですか」
「ご明察。……ふふ、本当に、気持ちの悪い子」
微笑みながら、徽子は左手で着物の裾を捲り、右目にかかる髪をかき上げてみせた。その程度の仕草ですら妖艶に感じられるよう演出されている。
和装に似合わぬ黒色の、内側に電子部品を充満させた靴、それと。
「簡単に光を捨ててしまうところまで、わたくしとそっくりで……本当に気持ち悪い」
「片目は、残っているようですが」
徽子の瞳で機械化されているのは右目だけだ。左目は生身であると分かる。
「ほとんど見えておりませんわよ。分かりますでしょう? 巫女という存在は、概して視力を失っていく傾向にある」
彼女の言う通りではあった。恐山のイタコには盲人あるいは弱視が多い。斎姫というシステムのモデルとなった諏訪の風祝(かぜのはふり)は地下に籠り、光を遠ざけて身を清める。理由は判明していない。
自分の身をモデルケースとして考えれば――巫女の証である幻覚は、聴覚を介して起こりやすいからではないかと思う。
「ともあれ……この靴と義眼が三十六歌仙、徽子の拝領機関、〝一番〟こと〝奇回廊渡天女(くしきみちわたりしおとめ)〟ですわぁ。機能は、この義眼により気の流れを見極め、靴で掻き回す。それで〝極端に良い流れ〟と〝極端に悪い流れ〟を構築する事ができますのよぉ」
かつん、と尖ったヒールが地面に小さな穴を穿つ。
確かに、それでこの場を構成する〝何か〟が、一瞬で変化した。
「今この時は、未那元宗家の人間が保有する属性である、木気を殺す気の流れを構築しておりますの。あなたの仙術の源泉は封印され、機能しておりませんわぁ。……逆に」
長い指先、紅を塗った爪で、徽子は〝き〟を地面に押しつける少年を示した。
「土気で構成された鉱物の憑人である楯無さまは、強化されるように致しました。調子はいかがですかぁ?」
「す、すすす、スゴぉぅク好いぃいいよ……」
喜悦に浸りながら漏らす楯無。その口の端からはよだれが垂れ流されている。
触れられていれば、その体内も感覚できる〝き〟は、少年が薬物を常習している事を知った。弱気に見える彼の、実際の生活をほんの少し空想し、すぐにつまらないものだと悟って止める。
女の声を集中して聞く事にした。
「この機能は、猿丸の〝二十七番〟とはいささか格が違いますわぁ。あの未熟でがさつな猿女の手にあるものの〝原典〟は〝絶叫するもの(アウルゲルミル)〟……現実史の戦争で、電子機器を停止させる電磁波を放出する兵器として使われていたものですのよぉ。そんなもの元から存在しない八百八町の拝領機関の中では、最も改悪された部類ですわぁ……わたくしの〝一番〟は〝九重天上九天瓊台(きゅうちょうてんじょうきゆうてんけいだい)〟という広域の運勢操作兵器を、ただ個人用にダウンサイジングしただけ。性能をほとんどフルに発揮できますの。よって、」
と、内面の冷ややかさを微笑で塗り潰しながら、女は告げた。
「わたくしと対峙する限り、あなたはただの子供……つまり、わたくし、あなたの天敵ですのよぉ」
そこで言葉でなぶるのに飽きたのか、帯から紙巻き煙草の束を抜き、一本咥えて燐寸(マッチ)で火を付ける。
「年端もいかない子供をあの世に送るのは、やはり気が引けますけれどぉ……大きな力に逆らう馬鹿に情けをかける程、わたくし、お優しくはありませんの」
半分ほど煙草を灰にした所で、紫煙と共に吐き捨てて告げた。
「楯無さま――好きにしてよろしいですわ」
その言葉が、少年が自身に課したルールにおいて己の本性を解放する言葉だという事は、彼の心臓が躍るように跳ねた事から理解できた。女がそれを理解した上で言ったのだという事も。
「ヒハッ」
嬌声じみたものを漏らして、少年は〝き〟の背中に拳を叩き付けた。
「……っ」
彼女の小さな身体がバウンドする。玉遊びをするように楯無はその背を殴り続けた。
「がつん、がつん♪」
歌うように、楽しげに少年は拳を振るう。
「がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪ がつん♪」
げらげら、げらげらと嗤いながら、
「キャハっ、キャハはハっ、ごめんねぇ! でも命令だから! 命令だからさァ! オレは悪くないんだよねェ! でしょォ! 徽子さァん! きィ~しぃさァ~ん? 聞いてんのかよそこのエロババアッ!」
「……はいはい、聞いてますわよ」
少年の本性をうんざりする程知っているからか、面倒そうに答える徽子。
楯無は会話する間も〝き〟を殴打する手を休めない。最後に後頭部を一撃してから、その首根を掴んで持ち上げる。
再び目にした少年の顔面の左半分は、既に岩石に覆われていた。変異はそれで収まらず、めりめりと音を立てながら岩石は彼の身体を侵食していく。体格も岩石によって増大して、体長は一丈程にもなっていた。
瞳だけが生身で、獲物を捉えた獣の色合いがそこに宿っている。いや、獣の方がよほど誠実だろう。彼らは獲物で遊ぼうとはしない。
『だいじょうぶ。だいじょォ~ぶ。いきなり背骨を折ったりとか、内臓潰したりとかつまんないコト、しないからさァ。まだ、まだねェ』
「……」
喉首を抑えられて、声が出ない。
〝き〟を遊び道具としてしか見ていないと分かる、嬉々とした声で楯無は言葉を続けた。
『それにしてもよォ、ホぉ~ント馬鹿だよねェ、きみさぁ。あのババアの言った通りさぁ』
温く、そして病的な甘い匂いのする吐息が肌にかかる程の近さで、
『ウマい事逃げられたんだから、そのまま隠れてりゃいいのに。自分の身体の復讐? せっかく残った片目潰してまでする事なの? 本末転倒じゃない? それとも、』
結びの言葉を彩る感情は、傷口を見出したかのように、深い喜悦に染め上げられていた。
『お母さんのォ~、かたきィ~、ってやつぅ?』
岩肌の切れ目から、赤い舌が伸びる。
『お母さん、お母さん、お母さんねぇ……〝あんなの〟の為に、健気な事だねェ』
「……」
『あいつ、昔はスゴぉイ芸者だったんだってねぇ。オレが見た時は影も形もなくなっちゃってたけどォ』
「……」
『だってさぁ、ただの人間がガキ孕むくらいあの腐れバケモンとF×××♪ したんだぜぇ? その間ずっとアイツの障気漬け。身体は結構もってたんだけどさぁ、中身はブッ壊れちゃって当然じゃん? 赤ん坊みたいにさァ、所構わず糞尿垂れ流してあーうーあーうーうっせェ~の。あんなイカれて座敷牢にぶち込まれた廃人ババアの仇取る為に毎日毎日がんばって修行して、目ん玉までえぐってさぁ~。ホントバカ♪ バカ丸出し♪ひは、ひははははははは! キャハハハハハッ! ――で、ここでオレの玩具になってオシマイなわけだけど』
――と、
楯無は巨大化した指先で無造作に、〝き〟の着物の帯を袴ごと引きずり下ろした。胸元から股座にかけて、少女の身体が露になる。
赤い舌が、白い裸身の腹をちろりと舐めた。
『実はさぁ、一回未那元のオンナ犯ってみたかったんだよォ。アイツら揃いも揃ってすこぶるつきじゃんか。ブチ込んで、コワして、ヨゴして、ダメにしてやりたかったんだよォ~。きひひひひひひひひひひひひ……ほぉら、お顔を見せてくだちゃいねぇ』
と、楯無は愉悦に歪んだ声を上げつつ、岩の指を〝き〟の龍面に掛ける――
(くだらない……)
その有り様を冷淡に見つつ、徽子は呟く。
もちろん楯無の幼稚な残虐性についてもそうだが、わざわざこんな所まで殺されにやってきた斎姫の幼稚な傲慢さもくだらない、無益なものとしか彼女には思えない。
勝てるとでも思ったのか? たかだがか数人の子供の集まりが、小さく、その上仮想のものとは言え国家を二分する人間の一人を相手取って。六孫王自身の力はともかく、その周囲に侍る権力、システム、いわゆる社会といったもの。個人を容易く蹂躙する存在に逆らうなど、愚かとしか言い様が無い。
現に、彼らは良いように操られてしまっている。後は用済みのものとして、始末されるだけだ。
(……子供だわ)
くだらない、愚かな、弱いものでしかない。
煙草の二本目を出して、咥え――彼らから目を離した。
直後、徽子の眼前に地面に、楯無の巨体が叩き付けられた。
「……え?」
咥えた煙草を吐き落とした徽子に、楯無の上に立つ裸身の少女が告げる。
「裸はともかく、顔を見る事は許しません。――あなたたちは、わたしにとってどうでも良い、有象無象ですので」
『う、が……テメぇ』
それを挑発と勘違いしたか、楯無はうつぶせの姿勢から拳を振り回して当てずっぽうに斎姫を攻撃しようとする。
運良く、それは少女の顔面に真っ直ぐに伸びていった。
そして彼女の細い指一本に押されただけですかされた。
「身体を鍛えていればよかったですね、少年。生来の力に頼ったあなたの動きは無駄だらけです。いかなる激流も流れをずらし、その外側に立てば意味が無い。――少し大人しくしてなさい」
そう言って彼女は、左足を地に残し、右足の義足を振り上げた。
ざくん、と蹴りを受けたとは思えない音と共に楯無の拳が切り離される。
『ひぎぁあああああああああああああああっ!!』
激痛にのたうち回ろうとしても、楯無の巨体は身じろぎ一つしない。少女の足一本で押さえつけられた結果、それを出来ずにいるのだ。
――斎姫の仙術は、復活している。
「なぜ……あなたの力は封じたはず!」
「機械に頼った未熟な技術しか持たないのに、早合点するものではありません」
優越感、などは交えず。ただ事実を羅列するという調子で彼女は告げる。
「まぁ……実際窮地ではありました。確かに、仙術を無効化される事をわたしは想定していなかった。〝再構築〟の完了までに止めを刺されればわたしの負けでしたよ。あなたの敗因は、このような馬鹿を尖兵にした事です」
「再……構築?」
「仙術というシステムを無効化されるなら、別のシステムで作り替えれば良い」
あまりに端的な斎姫の説明は、素人には理解できなかっただろう。だが専門家である徽子には、少女の行った行為が、その途方も無さと共に悟る事ができた。
斎姫は語る。
「内丹に気を練るという方法論は大陸の道教に由来するもの。あなたが仙術を無効化できるのは、同一起源の風水の方法論で気の流れを操るからでしょう。だから、わたしは今仙術と異なる方法論で己を強化しています。体内に八つの気門(チャクラ)を仮定し、それを開く事で力を獲得する……ヨーガという煉気法です」
「馬鹿な……こんな、即席で!」
「そう思うのは、あなたが機械の力を借りねば気の流れも見えないような凡才だからです。魔術の類で異なっているのは表現法でしかありません。骨子を理解できれば、大陸、印度は元より東西の区別も容易く取り払える」
「……っ」
やはり、少女の語る言葉には優越感は含まれていない。ただ、事実を事実として語る淡白さだけがある。
だが、それに劣等感を覚える人間については全く考慮していない。
超越者、王者の精神。
少女は裸身を人に見られているのに羞恥の一つも抱いていない。徽子と楯無を自分と同格の人間と認めていないのだ。有象無象、という言葉のまま彼女は自分たちを認識している。
棄てられた姫でありながら、彼女はその尊さを失っていない。
王者に逆らった凡俗の末路は、一つしかない。
(……巨大なものに逆らったのは、私の方だったようね)
――彼女の主の命は、斎姫を殺せというものだった。しかし、あの狂人の命令は字義通りに受け取って良いものでは無い。
(遊ばれた)
心から悔恨しつつ、徽子はうめく。
瞞天過海の目的は、楯無――いや、御門八葉の誰かと斎姫を戦わせる事だったのだ。補助的な能力しか持たない徽子は、八葉を随行するしか無い。
斎姫がここまで強力であるなど、瞞天過海は漏らさなかった。知らぬ訳が無かっただろうに。
こうした結末を、瞞天過海は予測していたはずだ。
自分は何かヘマをやらかしただろうか? 裏切りを予感させるような行動を取っただろうか? あの主の不興を買い、見捨てられるような何かを。
(……いいえ)
それなりに主の人格を知悉している彼女は、その予想を否定した。瞞天過海がそんな真っ当な理由で部下を処断するはずが無い。
あの女は、他者の命などどうでも良い。
自分が歌仙拵の儀仗刀を持っていないのは、瞞天過海がその脇差を喰って処分したからだ。――信頼すべき部下など、あの女は必要としていない。
強いて彼女に落ち度があるならば、そんな人物に従った事だろう。
どうしようもない敗北感にまみれつつ、しかし徽子は凄絶に笑った。
(とは言え、大人は恥を気安く捨てる事ができるのよ!)
内心で吐き捨てて、徽子は岩を蹴って逃走を始め――
足が、動かなかった。
楯無から切り出した尖った岩石が、彼女の両足を拝領機関ごと貫いて地面に突き刺さっている。
「……あっ! ああっ!」
「許しません。わたしの望む以外の全ての行動を。逃走、闘争の区別なく、あなたたちの自由をわたしは許しません」
激痛に悲鳴を上げる徽子に、威厳すら感じさせる声で斎姫は告げた。
「そして、生存の自由も。……あの幻術にわざとかかって、兄さまと別れてみましたが、見込み通りの成果が得られそうです。あの人は不可視の攻撃や刀剣の通用しない防御には為す術が無いでしょうから……良かった、この場で減らせて」
『ヒッ、ヒィッ!』
剣呑な言葉に、楯無が怯える。徽子は別の印象をその言葉に抱いていた。
冷淡さや殺意を持たない、安堵に満ちた声音。
この娘は、殺す時ですら私たちの方を向いていない。
「とは言え、刀を抜くなと兄さまに厳命されていますので」
『そ、そうなの? なら、』
「だから――撲(なぐ)り殺しますね」
『はへ?』
間の抜けた声を上げた楯無の顔面に、斎姫は小さな拳を叩き付けた。
柔な、少女の手にしか見えないそれは削岩機の如く楯無の身体を削り取った。
『ごっ』
濁った声を上げる楯無、その巨体にのし掛かって斎姫は拳を振るい続けた。先程と真逆の光景――その動機ですら逆。嗜虐心、言い換えれば愛情に似たものを込めていた楯無に対し、少女は彼に何ら興味を抱いていない。ひたすら作業的に撲り続ける。刻一刻と楯無の身体は損失して、小さくなっていく。
『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』『ごっ』
やがて海底に彼女の拳が届いた。
砂塵と化した楯無の残骸が、その周囲にばら撒かれている。
「さて、次はあなたです」
即座に楯無の存在を忘却したかのように、斎姫はこちらに向き直った。
「わたしの知りたい事を話してくれれば、あなたは助けましょう」
「知りたい事? いったい……」
誤魔化そうとした徽子の身体の、一番斎姫に近い部分――右手の指先が彼女の義足で蹴り飛ばされた。
「ぎっ! いぃいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!」
砕けて関節がでたらめに増えた指を抱えて、狂う程の激痛に乱れる徽子に何ら配慮せず、斎姫は詰問を続ける。
「あなたのような冷静な人間が気づいていない訳がないでしょう。……あなたは、わたしを殺せるものとして余計な事を喋り過ぎた」
首根を握り込んで、斎姫は告げる。
「わたしが斎姫である事、能力の詳細、仮痴不癲と接触している事……ほぼ全ての情報を把握している。出所はどこです? この件の絵図を引いているのは、一体誰ですか?」
「……」
「黙秘しますか。……そんな事に、意味は無いのに」
無機質な龍面の奥で、ぽつり、と彼女は囁く。
「あの子供が下衆である事や、あなたが冷徹な人間である事は、いくら誤魔化してもすぐに分かる。顔を見るだけで」
少女は、不可解を覚えていた。それは、彼女がこちらに初めて向けた生身の感情だった。
「なんでみんな、素顔を晒して生きられるのですか? 表情筋が、呼吸が、目線が、全てがあなたたちの心を外に示しているのに。それを晒して生きるのが、怖くないんですか? わたしは怖くてたまらないのに」
それもまた、少女が強くなる為の代償なのか。武術の鍛錬に費やした時間、眼球――そして超越した知覚による、人の心がひどくあけすけであるという錯覚。理屈で否定したとしても、どうしようもなく囚われてしまう心の楔。
同情めいたものも覚えたが、復讐心が勝った。
「あなたの主、瞞天過海とは、おそらく――」
「あなたのような人間にも、心を見せたくない相手がおりますのねぇ」
少女を制止するには、それで十分だった。
「恥ずかしい、醜い、卑しい心を見せて……嫌われたくない相手が」
「……ッ!」
ほら、子供を怒らせるのは、こんなにも簡単だ。
首をへし折られながらも、徽子の微笑は損なわれなかった。
(私の……勝ちねぇ)
生命が消失して、醸し出す妖艶さも曖昧になった女。地面に倒れてもなお嗤う彼女を見下ろして、〝き〟は悔しげに呟く。
「わたしとあなたは、似てなんかいない」
羨望が、その声には含まれていた。
「わたしが光を捨てた時は、怖くて、怖くて……人に頼らないと、できやしなかった」