「みすぼらしい。王の寝所を荒らす賊に相応しい下賤とも言えますが」
太歳宮の正面口らしき巨大な門。その中央に立つ男が、侮蔑もあらわにそう言った。
色気じみたものすら感じさせる美丈夫。更紗(さらさ)の帯で纏めた高級な仕立ての装束、身体のそこかしこを飾り立てる宝石を散りばめた装飾品が、男の位を上げるのでなく、男の格に付き従うかのように適合している。高貴を体現したかのような男。
後方であやめが耳打ちしてくる。
(……初対面でいきなり見た目に言及する。たぶんナルシストよあの人)
(それは見りゃ分かる。……下がってろ)
緊張感の抜ける物言いに、険悪に返す。
内心では、安堵めいたものを感じていた。少なくとも表面上は、あやめに月数の刺してきた言葉が影響しているように見えない。
(影響しているとすれば……俺か)
敵と対峙している時に考えるべき事ではない。男に集中する意味で、悪態をついてみる。
「そっちは随分ぎんぎらときらびやかじゃねぇか。たかが番兵風情の癖に」
「……安い挑発をする。狗に相応の卑しさです」
「の割には、けっこう効いてるようじゃねぇか? 青筋立ってるぜオッサン」
(まぁ、あっちの言う事も的を射てる感じね)
後ろでしつこくつっこみを囁いてくるあやめ。
男はその様子を見てふん、と鼻で笑い、
「御門八葉が一、摂州未那元(せっしゅうみなも)家当主、産衣(うぶぎぬ)。……下種ながら日数、沢瀉、膝丸を倒した実力を認めるがゆえ、近衛筆頭たる私が自ら迎撃する事と相成りました」
やはり安い挑発にプライドを刺激されているのか、男は余計な事まで喋ってきた。
とは言え、人間としての迂闊(うかつ)さが武人としての強弱を決める訳でも無い。少なくとも今まで戦った八葉と同格の怪物である事は確かだ。その相手と、精神を失調し、巫術による強化をこれ以上行えない状態で戦わなければならない。
敗北は許されない。それは元より同じ事だが、今回はそれ以上の重圧がある。
自分の死は背後の女の命脈を絶つ事に繋がる。
(あの女の揺さぶりにはかからない……)
いなきは月数の言葉を、そう決めつけた。そう、思い込む事にした。精神面で崩しにかかる攻撃だったのだと、それ以上考える事をやめた。心に蓋をするように。
「〝き〟はもう、中にいるのか?」
戦端を開く前に問い糾す。産衣は微笑を浮かべながら、
「ええ。ただ、斎姫は月数の幻術で搦手門(裏門)に回り込ませましたから合流は困難ですよ。……まぁ、そのような心配をする必要は、もう貴方にはありませんが」
「気取り屋の遠回しな物言いは鬱陶しいな。……俺は、お前を殺してそこに入る」
刀の柄に手をかけて、抜刀の姿勢を作り告げる。
「……野蛮人が」
嫌悪もあらわに、産衣は吐き捨てた。帯刀していた、荘厳な拵えの大刀を抜き出す。
(……変異しない? なぜだ?)
胸の内の不可解をさて置き、産衣の動きに集中する。
彼は剣を胸元で縦に立てて――運動性を損なう、全く意味のない構えだ――刃文を眺めてうっとりと呟いた。
「美しいでしょう……銘は髭切。獅子の子とも言います。摂州未那元家が主家より第一の家臣の証として下賜された宝刀です。麗しい、まるで処女雪の色彩を写し取ったような白銀。なんと美々たる鍛え……」
自分に没頭するように語ると、柄に納めたままのいなきの刀を見やり、冷笑する。
「この名刀と比較されるのが嫌なのですか? 無理もない。下賤はただ、高貴を畏れるのが相応……」
「……確かに、俺の刀はそんなお高く止まって良いもんじゃないがな」
下らない事をのべつまくなしに喋る男に付き合って、いなきは言った。
「こいつを鍛えた妖怪婆はこう言うだろうよ。――こんなの、斬れりゃあいいんだよ」
それだけ吐いて、低い姿勢のまま産衣の間合いに接近する。
「下劣、下賤、下等ぉッ!」
一声吼えて、産衣は太刀を肩に担ぎ直し、斬り下ろす。
見え透いた動き。いなきは左側に半身回り込むように足を送り、陽刀で産衣の斬撃を押し込む。軌道をずらされた刃はいなきの肩を一寸ほど外して空を切った。
そして相生剣華による陰刀が、産衣の首を断つ――
その一瞬に、いなきは見た。男の首が白い岩に覆われていくのを。
岩の肌に防がれた刃を引き、その場を飛び退く。
(鉱物の憑人? ……いや、それ以前に――何かが)
何かが、おかしい。
皮膚の岩石化が男の防御手段なのは明白だ。不可解なのはそこではない。
(問題は、機(タイミング)だ)
産衣は斬撃を受けるほんの一瞬ほど前に岩石化を開始したように見えた。――気づいてから、防御したのだ。
いなきの蠱業である相生剣華、その内の対個人用の技術である真の型は、片方の斬撃を受け太刀させる事を戦術の基軸とする。
攻撃の際には誰であれ、意識は狭窄する。その外側から奇襲を加えるのが業の骨子なのだ。
ほぼ確実に成功する攻撃。例えばここ数日で真の型を使った相手の膝丸は、体表の摩擦を殺して防御したが、それは常時身体を覆う油によるもの。彼は攻撃そのものには気づかなかった。今の産衣の防御は、攻撃を事前に察知しなければ出来ないものだ。
(どうやって、陰刀に気づいた?)
「ただの一合で臆したか、狗め!」
雄々しく猛り、産衣は追撃してくる。構えは、左足を踏み足にして側頭部付近で柄を握り切っ先を突き出す――
(……雄牛(オクス)!?)
一直線の突きを横飛びして躱し、更に退く。
(西洋剣術だと?)
現実世界の、八百八町のモデルとなった国家とは全く別の風土を元に発達した技術体系。
ある時代では東洋人、あるいはその担い手の子孫である西洋人ですら多くが誤解していたが、中世ヨーロッパの剣戟は斬れ味の無い大剣を使った殴り合いじみたものでは無い。甲冑の打撃を主眼に置いたものとは別に切断力に優れた剣も存在するし、それらを扱う技術は合理性に富み、洗練されている。特にドイツで流通した剣術は平時の決闘用に、日本で言う素肌剣法に似た技術が存在する。
産衣が使ったのはその一つだ。練度も高いようで、堂に入った攻撃だった。貴族じみた容姿の男には似合いのものだが――
「逃げずに戦え!」
喝破し、再び雄牛の構えで突き込んでくる産衣。
一度見れば十分だった。彼の目測からやや左にずれて、手首を一撃する。
「ぐぁっ」
打たれた箇所を抑えて、産衣は飛び退いた。
(こいつ、実は…………………………………………………………馬鹿なのか?)
戦闘中だというのに、ついそう思ってしまった。
いなきが今使ったのは〝弧の斬撃(クランプハウ)〟という技術だ。雄牛をいなす為の太刀筋。――ドイツ流剣術の基礎である四つの攻撃には、全て返し技が存在する。
そもそも、ドイツに限らず西洋剣術の技法は基本的に両刃剣を想定している。他にもキヨンという特殊な形状の鐔が必要であるし、バインドという受け太刀から入る技法も折れ易い日本刀では難しい。
戦闘技術とは武器に合わせて構築されていくもの。
日本刀で使う西洋剣術は、その本来の利点を半分も発揮できない。
(……だが)
この程度の理屈も分からない馬鹿が、自分の攻撃を二度も防いだ。
手の内に残る硬質の手応えに痺れながら、感じ続けていた不可解を更に深くする。
理由は不明だが、産衣はいなきの攻撃を察知している。自分の攻撃に意識を集中させた状態であっても。
(……不可能だ)
理屈の上では、そう断言する以外ない。左手で本を読みながら右手で工作を行うようなものだ。構える、振る、手の内を絞る――斬撃という作業は肉体全体の精密な操作が必要だ。防御も同じ。一つだけで神経系というシステムの資源を使い切ってしまう。いなきはその理論に立脚して自身の蠱業、相生剣華を編み出した。
この男は今、それに反証を提示するような行為を当然のように行っている。
産衣には、相生剣華が通用しない?
あの、蠱部尚武と同じように――
(……クソ)
嫌な連想が脳裏に浮かび、胸の内で唾棄する。背後にいる女を意識しないよう、心を押し殺す。
(奴は、完全に俺の蠱業を破ったわけじゃない!)
今度はいなきから飛びかかる。産衣は構えを変えていた。八相に似た、右肩に太刀を立てるような――屋根(フォム・ダッハ)の構え。
それを見て、いなきは身体を沈める。膝に力を圧縮し、前進する力に変換する。蠱部尚武の扱う歩法の一つ、飛蝗(ヒコウ)と呼ばれるものだ。
産衣の予測より一瞬早く、その間合いに侵入する。
(防御ごと斬り飛ばす!)
抜打ちの軌道は産衣の手首を終着点とする。陰陽、どちらの斬撃も。――重撃刀法、相生剣華・草ノ真。
肌を岩石と化そうが、この刀で二重に斬りつければ切断は可能だ。鎚蜘蛛姫が悪辣な魔女だとしても、その鍛えた刀の斬れ味だけは信頼に値する。
――瞬間、二つの声が聞こえた。
一つは、後方から。あやめが彼女らしからぬ切迫した声で「駄目よいなき君!」と叫んでいる。
もう一つは、間近。小さく、そして短い。
「※”#$$」
それが言葉である事を、いなきは自分の経験から知っている。
加速された知覚に引き摺られた声である事を。
だから、産衣が何を言っているかかろうじて聞き取れた。
彼は、「これは防げないな。避けておくか」と言ったのだ――
「……ッ」
二刀が斬りつけるはずの腕が、消失した。
産衣は斬り下ろしに急制動をかけて腕を持ち上げ、いなきの斬撃を回避したのだ。
刀を振り抜いた無防備な姿勢のいなきの胸を、再び振り下ろした産衣の白刃が切り裂いた――
「……っ、は」
大きく産衣から距離を取り、いなきは乱した呼吸を整える。
切り裂かれたのは皮一枚。とは言え、精神的な衝撃はそれ以上だった。
(こいつ……巫術を)
知覚の加速を発動させる事が出来るのか。
ならば、今までの不可解な超反応も理解できる。彼の時間の進みだけが遅いのであれば、思考のリソースに余裕も生まれる。刀の操作をしつつも、筋肉の動きを観察しながら攻め手を読み、備える事は可能だ。
(しかも)
いなきが巫術を発動できるのはせいぜい数秒。更に連続使用には途方もないリスクがある。目前の敵の顔色に、精神を失調したような風は少しも見て取れない。
(〝き〟に近いか、あるいは……同じレベルで巫術を使えるのか、)
「落ち着きなさい! いなき君」
後方からあやめの声がする。さっきはこの声を聞いて身を引かなければ、皮一枚以上の重傷を負っていたはずだ。
彼女は続けて言ってくる。
「さっきの話を忘れたの? 巫術をノーリスクで常時発動できるのは、いつきちゃんだけよ……」
「お前の仮説に過ぎないだろう! 現にこいつは……」
「相手をよく観察しなさい! あなたの視力なら見えるはず――」
苛立たしげに返すいなきに、あやめは声を重ねる。これほど大きな声を彼女が上げるのは、今まで無かった事だった。何よりそこに驚いて、思わず従う。
産衣は明らかな勝勢にありながら、追撃もせず余裕めかして立っていた。腹立たしい程の慢心だが――それが無ければ終っていた。
(何を見ろって……)
敗勢にある人間として焦りつつ、男の姿を見つめる。同姓としては腹の立つ程の美男……
その美貌に、欠点がある。対面した時には存在しなかったものが。
産衣の顔面の各所に薄く、白い筋が浮かんでいる。
(あれは……まさか、神経? あんなに太く……)
そこで、気づいた。彼の超反応をもたらすものを。
「大王烏賊(だいおういか)……」
深海に棲む巨大な無脊椎動物である。この生物の神経の軸索は規格外に太く、他の生物を圧倒する反射速度を持つと言われている。
いなきの漏らした言葉に、ぢぃ、と産衣は歯ぎしりする。
「やはり戦えば、変異は抑えきれないか……このような醜い姿を、下賤の者に……」
悔しげにうめく彼に、いなきは大声を上げた。
「馬鹿な! 鉱物と海棲生物……憑人が二つ以上の特質を持つはずが無い!」
憑人の因子は原則一種だ。膝丸のように近縁の生物間ならともかく、そこまで異質な生物――いや、非生物と生物の混合した憑人などあるものか。
「下劣、下賤、下等……そして不勉強」
露骨に侮蔑し、産衣は告げる。
「我ら未那元一族は、他の憑人を喰らって己の力と出来る。これこそが未那元の貴顕たる所以」
「……な、に」
平然と、男は、誇らしげにすらして。
自分が人喰いである事を明かした。
いなきの驚愕の理由を察したか、産衣はそれを鼻で笑う。
「全ての他者に対して捕食者である。これ以上に明確な上位者の証があるのですか? 人間は喰われない事をもって万物の霊長を名乗るではありませんか」
「本気で……言ってるのか」
「ええ。もちろん。……お前はまともな人間ではない、などと月並みな事を言うつもりのようですから、月並みな答えを返しましょう。――我ら未那元一族は、人間以上なのですよ」
増強された知覚から自分の心理を読み取って告げる産衣。
八葉全てに感じる、隔絶した精神。今回産衣が見せたそれは他の者より生々しく、粘ついたものだった。
会話の無駄を悟り、戦闘態勢を取る。だが、どのように戦えば良いのか。
(結局、巫術と変わらないだろうが)
後方のあやめを意識して毒づく。別に彼女の責任という訳では無いが。
単に魔術的な作用でなく、生物的な特性であるだけだ。人間以上の知覚を持っている事に違いは無い。
加えて、大王烏賊とは視神経の発達した生物でもある。深海を生息する為に少ない光量でものを見る為だ。
巫術、視力。
いなきの持っていたアドバンテージを、それ以上のレベルで保持しているのだ、この相手は。
(クソ……どう攻略する?)
飛車角落ちで将棋を打っているような気分だった。相手が悪手を重ねるから、なんとか生き残っているに過ぎない。
「今、お前のアドバイス結局何の役にも立ってねーじゃねーか、とか思ったでしょう」
(なんて勘の良い女だ……!)
背中にちくちくと刺すように告げてくるあやめに、怖気すら覚える。
そして彼女は次に、背中を押すように告げてきた。
「いなき君は、結局巫術を使ってもお父さんに勝てなかったのでしょう?」
「今そんな話をしてる場合じゃ、」
「いいから!」
「ああ、その通りだよ畜生!」
「なら、彼のように戦いなさい!」
「馬――」
馬鹿、と言おうとした。
出来るか、そんな事が。蠱部尚武のような異次元の兵法を、自分如きが真似など出来るものか。
あの男の戦い方は誰にも――
「誰にも、出来るはずなのだが」
なんとも都合良く、あるいは悪く、蠱部尚武の幻聴が復活する。この幻聴がかつて神の声と呼ばれていたなどと聞いた後では、趣味の悪い諧謔に笑い出したくもなってくる。
いなきの混乱を差し置いて、横で囁きかける武神の声。
「私の兵法は、何ら特別なものではない」
(それは、あんたの勘違いだ。俺みたいな凡人には、)
「それだ」
幻聴が、刺すように告げる。
「その思い込みは意志によるものではないか。意志とは確かに、か弱いかも知れない。しかしそれだけが唯一、等身大の自分の外に及ぶ力だ。己に克つなどという途方も無い行為は意志無くしては不可能なのだ。己に負ける事すら、意志というか弱く、広大な力が無くては出来はしない」
(認められるか! 実際にあんたとの実力差は計りきれないくらいにあるんだ……それがただ、自分の心一つで覆るなんて)
要は自分に都合の良い助言を、自分が最も強いと信じている人間の口を使って語りかけているだけなのだ、この幻聴は。単なる自作自演だ――
「づっ!?」
などと考えている脳を、衝撃が揺さぶった。蚊帳の外に飽きた産衣のものでは無い。あやめが投げつけた石が後頭部に命中したのだ。
「この石頭! 頑固者! いいから――一度くらい、馬鹿みたいに自分を信じなさい!」
「そうだ。娘の言う通りだ」
幻聴ですら娘の言葉を全肯定する蠱部尚武が、あやめに追従する。
「こんの……馬鹿親子!」
産衣に聞こえる事も構わず罵声を張り上げて――いなきはその場で刀を抜いた。
抜刀術を基礎とする、己の戦術を捨てた。
あやめと、尚武の助言を受け入れている。
不思議とどうにかなってしまうような気がしていた。普段の自分からすれば考えられない、自暴自棄にも似た心境にあった。今からでも遅くない、馬鹿な真似はやめて自分の信ずる合理性に従えと、そう警告する自分が頭の片隅にいる。
それを押しのけて、いなきは思考に没頭した。
飛車角落ちで将棋を指す心地――蠱部尚武であれば、その程度のハンデはものともしない。
あの男の、武術の他に見るべき所があるとすればそこだった。盤上遊戯の類でも無類の強さを誇る。棋界の有段者にも鼻歌交じりで勝利していた。
武術と同じだ、とあの男は言うのだ。
相手の力、自分の力を元に未来を予測する。終着手まで読み切るだけで、勝利は容易く手に入る。どんな速さも及ばない未来に自分はいるのだから――などと。
(……そんなレベルまで読み切らなくてもいい)
それはやはり、蠱部尚武だけに許された異質のスキルだ。いなきには相手の心技体を本人以上に見透かすなどと、桁外れの深さの読みは出来ない。
だが、勝率を五分にする程度の事は可能なはずだ。
(相手は……生物的な特性として人間以上の知覚、反応速度を持っている)
まず、それが一つ。
そしてもう一つ――この産衣という男は過剰に慢心している。
「お喋りはすんだのですか?」
などとせせら笑いながら、余裕めかして立っている。心理的優位にありながら追撃を行わなかった。ただの人間に対して圧倒的なアドバンテージを持っているのだから無根拠の自惚れとも言えないだろう。事実、地力で勝てる相手ではない。他の八葉、例えば沢瀉のような攻撃速度や強力さは無いが、この男は常に相手に対して先に占位するのだ。自分が沢瀉を倒した時と同じ敗北を再現する羽目になる。それを知るからこその余裕だ。
だから、そこにつけ込む。
いなきは、切っ先を地面に向けた下段構えを取る。――ほう、と産衣の眉が跳ね上がった。
西洋剣術の構えの一つ。愚者(アルバー)と呼ばれるものだ。
興を覚えたと分かる表情を確かめて、いなきは産衣に告げる。
「騎士侯(グラーフ)――決闘(ジョスト)と行こうぜ」
(……どうやら、ただ愚劣な狗ではないようですね)
相手の構えを見て、興趣に浸りながら産衣はそう感想する。自分の習い覚えた勇壮かつ剛胆な西洋剣術をあの若者は知っているようだ。
(とはいえ、芸に長じた利口な狗に変わった程度ですが)
とあらば上位者である己がすべき事は、ただ一つ。その芸に付き合うのだ。
それを軽くあしらって遊んでやり、飽きてしまえば――飼い主に飽きられた愛玩動物の末路などただ一つだ。
相手は先程の突撃とは変わって、静かに接近してきている。間合いを精密に支配する為だろう。摺り足で、じりじりと迫る。
涙ぐましい努力に、吹き出しそうになる。
対照的に、産衣は無造作に敵に歩み寄っていった。散歩でもするかのように、気軽に。
そして相手より先に攻撃可能距離に入った事を察し、最適な位置に踏み足を付ける。――時間の感覚が只人とはまるで違う彼であるからこそ可能な業。
産衣が取った構えは再び上段。王者のように高みから愚者をたたき落とす、彼の好む構図であった。
忌役の狗は、産衣にやや遅れて、しかしただの人間にしては上出来な反応速度によって太刀を振り上げた。
黒と白の刃が絡む。
敵の刃を滑るようにして逸らし、産衣は斬撃を突きに変じる。相手は産衣の斬撃の力を使って、押し出されるように横にずれ、それを躱(かわ)す。そして上段に取って斬り下ろしてくる。
産衣はそれを刃で受け、太刀を回した。今度は柄を、相手の顔面に向けて突き出す。敵は一合目に産衣が行った技法を使い、受けられた斬撃を突きに変化させ彼の胸元に突き出す事で産衣の柄突きを止めた。
――予定調和のような剣の舞(ソードダンス)。太刀技の巧者が織りなす剣戟のタペストリー。
(おお……)
人の限界に迫る鍛錬を己に課す、雷穢忌役の技術の精緻さは産衣の琴線に触れるものがあった。反射速度に決定的な格差がありながらも、未だに食らいついている。
致死の斬撃を交換しながらも産衣は陶酔に浸る。――最終的に自分が勝つ事を知っているからこその余裕であった。
(私の速さはまだ上がるぞ、狗!)
胸中で吼えて、集中を更に深くする。彼の世界だけが時の進みを遅くし、敵対者に対する先手を常に保証する。
敵手は歯噛みして明らかに焦燥しながらも、ギアを上げた産衣の斬撃を更に受け続けた。並の相手ならもう、察知の出来ない程産衣の間合いの占有は早いというのに。
とは言え、ぼろが出始めてはいる。相手は防戦一方だ。
当然の成り行きである。〝必ず当たる位置〟に立つ事は未だ出来ていないにせよ、産衣は常に〝最も斬りやすい位置〟に先に立っている。対して敵は力学的なエネルギーの確保が不十分なまま、産衣の全力の攻撃を受けなくてはならない。
いずれ決定的な崩壊が訪れる。その未来を産衣は嗜虐に満ち足りながら待つだけで良いのだ。
(くふ)
あくまで上品に微笑を作る。貴顕は常に取り乱さない。暴力であっても優雅に楽しむ。
――予測された瞬間がやってくる。その一合の衝撃で、敵の握力が無視できない程に麻痺した。次の一撃はどうあっても受けられない。
相手の繰り出すのは上段からの斬り下ろし。己は下段から迎え撃つ。
(その下品な剣を弾き飛ばして、絶望させながら喉を突くことにしましょう……!)
果たして産衣の斬り上げに敵の斬撃は押し負けて、刀はその手から離れ――
黒い光沢の無い刃が、産衣の視界を塞いだ。
(……!?)
超人的な視覚を持ち、それに知覚のほとんどを依存した産衣は初めて焦燥を抱き、屈んで相手の姿を視界に収めようとして。
そして、その視力を永遠に失った。
「ぐぁああああああああああああああっ!! ああっ!」
両目を切り裂かれて後退する産衣から距離を取り、いなきは苛烈な剣戟で乱れた呼吸を整える。その右手には、抜き放った小太刀が握られていた。
(なんとか……上手くいったか)
蠱部尚武が得意とする戦況の読解――そして、操作に。
最初いなきが愚者の構えを取った実際の意図は、産衣を〝型にはめる〟事にあった。西洋剣術という共通のコミュニケーションを提示する事で、予定調和の、半ば型稽古的な応酬を誘い出した。
騎士候、決闘――この敵が好みそうな語彙を用いる事で、彼の取り得る選択肢から他のものを排除もしている。
攻め手、受け手に意外性が無い以上、受けに徹すれば数分は攻防を続ける事が可能だ。
その時間が、産衣の思考を更に限定的なものにする。
この戦いの勝敗が、いなきの防御の崩壊をもって決するのだと。
相手が最も油断する瞬間。いなきは彼が予想していない行動を取る。
「きっ……さまァッ! それでも武士か! 刀を捨てるとは!」
さすがに勘付いた産衣が、憤怒に彩られた声音で叫び散らす。顔面を手のひらで押さえ、隙間から血液と房水を指の隙間からこぼしながら。
最後の一合。そのインパクトの瞬間、いなきは受け手を柔くした。丁度跳ね上がった太刀が産衣の視界を塞ぐように。
この男の知覚は視力恃みだ。いくら処理速度に優れていようと、インプットさえ無ければ意味が無い。超人的な視力に頼り切っていた産衣は、視野の消失に混乱し――その復旧を第一に考える。
この場合は視界を埋める刃から逃れる事だ。
いなきはそれを、迎え撃ってやれば良い。
(……アドバイス、役に立っちまったじゃねぇか)
後方の女を意識しながら胸中で呟く。彼女の助言で、相手の特性を事前に知ったからこその戦術だった。
(完成された巫術の遣い手なら……この手にははまらなかった)
〝き〟がその強さを手に入れる為にまず行った事は、視覚の放棄だった。
人間が受け取る外界の情報の大部分を占めるそれを捨てる事で、彼女はまず体内の掌握を行ったのだ。その上で残りの感覚器官を増幅し、多角的な情報の取得を可能とした。今では彼女は、健常者以上に物が〝観える〟。不可視の電磁波ですら。
あるいは、微細な化学物質ですら。
(つまり……あいつ、わざと幻術にかかったんだ)
いなきの不調など既に見通していて、その負担を軽減する為に。自分が矢面に立つといういなきの宣言を守るには、彼のそばを離れなくてはならなかった。
(……気に食わねぇ)
そのような婉曲な気の使い方をされる程に、弱い自分が。
視覚に依存した相手を突き崩す戦法にしても、いなきが蠱部尚武にやられた事を再現したに過ぎない。そして、度重なる攻撃に耐えた己の刀。それを鍛えたのはあの悪質な妖姫、鎚蜘蛛姫だ。
周囲の人間に力を借りて、ようやく勝てたのだ。
(……ちっ)
舌打ちして、苛立ちをぶつけるように産衣の顎を蹴り抜いた。彼の強靱さの根幹であった視力を失った今、産衣は容易く攻撃を受けて昏倒する。
それだけで済ませるべきではない。戦力のあらかたを失ったにせよこの男は御門八葉だ。生かしておいて予想外の反撃をされれば、いなきは負けるかも知れない。
この場で、とどめを刺すべきだ。
いなきは落ちた自分の太刀を拾い上げて、眠る男の延髄を狙って構える。
――後方の女の、視線を感じた。
「……」
いなきは胸の奥に溜まったものを息として吐き出し、力を抜くと振り上げた刀を納刀する。あやめの方へ振り返り、
「行くぞ」
と声をかけ、太歳宮の入り口に向かって歩いて行く。
「――なんで、殺さねーのよ?」
刀の強度が勝利の一因になった、などと思ったからか、次の幻聴は鎚蜘蛛姫の声で語りかけてきた。
それを無視して、いなきは進む。しつこく、子供のように甲高い声が問い詰めてくる。
「こいつ、紛れもねー人喰いの悪党だぜ? この場で殺した方が世の為人の為ってぇやつじゃん? ほぉらぁ、〝悪党〟っつー都合の良ぃ~い言葉で心理的な枷を取っ払ってやったんだぜ? ぶっ殺しちゃおうぜー? キルしちゃおうぜー? 一人殺すも二人殺すも百人殺すも一緒じゃんよー? くかか」
記憶から生まれた妖姫の再現度は、中々のものだった。実際にあの女が言いそうな、人を惑わす毒に満ちた言葉。
「蠱部あやめに、責任が生まれる事を考えたんだろ?」
獲物を痺れさせ、捕食する為の言葉。
「実質、あいつの助言がお前を勝たせたようなモンだからにゃー。あのまま産衣を殺したら、お嬢にも責任があるかも知れない。おめーはそれを考えた」
くけけ、と人間味を含まない笑い声を漏らして、鎚蜘蛛姫の幻聴は言う。
「あいつだけは、手を血で汚して欲しくねーってか? 相変わらず初心なぼーやで……悪質だよなぁ?」
糸で絡め取るように、彼女は告げる。
「斎姫……未那元いつきは、キッチリ殺し屋の〝き〟に仕立てたのによ」
ぎり、と。いなきの奥歯がこすれる。わめき散らすのを自制する為に、歯を軽く磨り減らす程に噛みしめていた。
「かえーそーによー。よりにもよっておめーが手ぇ差し伸べなけりゃ、あのお姫様はこんな屍山血河の道に踏み込む事も無かったろーに。親殺しなんて因業な願いを諦めて、平和に暮らせてたはずだよなー? ……あいつが人殺しになんのは良くて、蠱部あやめは嫌。なんとも――悪質な、差別だよなー?」
ふひひひひひ……と嘲笑を残して、鎚蜘蛛姫の幻影は霞のように消えていった。
自分の心には、どんなごまかしも通用しない。無視できない痛苦に顔を歪ませながら――それでもいなきは、足を止めなかった。
なればこそ、だからこそ。
自分は、妹に責任を負わねばならないのだ。