「なんとも豪華絢爛……だったのでしょうね」
太歳宮内部に入ってすぐ、あやめはそう漏らした。
その目線は頭上――海面に向いている。
この建物の天井は、ほとんど破れていた。それだけではない。外壁は砕け、柱は何を支えるでもなく立つのみで、床石は剥がれている。廃墟という他に表現のしようのない荒れ果てた風情だった。
月数の言っていた事を思い出す――大殯の儀の完遂と共に、六孫王の障気によって支えられたこの海中の空間は無くなり、太歳宮は水没するのだ。最長で三百年は使われていた御所は、むしろ原型を留めているのが奇跡なのかも知れない。
「海面の障気から判断するに……一〇〇ヘクタール強ってとこか? 入り組んでるし……こりゃマッピングに苦労するな」
ぶつぶつと呟きながら、いなきは帳面に筆を走らせる。分岐路に差し掛かれば手近な石を拾い上げて、柱に傷を付けて目印とする。真っ正直に考えれば中央部分に六孫王はいるはずなので、中心に向かう道を選んでいく。
「相変わらずあなたって、分かりやすい器用貧乏よねぇ」
「うるせぇ」
それなりにさくさくと迷宮じみた宮殿を攻略していくいなきを見て漏らすあやめに、毒を含めて返す。
「実はわたし、あの産衣って人を拷問でもして道を聞くのかと思ってたわよ」
「意味はないな。あんなのでも近衛だ。殺されても口は割らないだろう。……月数みたいのは例外中の例外だ」
「……まぁ、同意見ね」
筆を走らせながら会話する。
「ところでいなき君、気づいていた? ……地面に」
「ああ。草が生えている」
床板の裂け目から植生が発生している。水草や藻類の類でなく、地上で生まれる類の――花まで生えていた。
大殯の儀に入り、六孫王が太歳宮に入城するまでは海水に浸っていた場所だ。一月程度でこれほど植生が発達する訳が無い。そもそもマングローブやハマボウフウなど耐塩性の強い植物ならまだしも、現在ここに咲く草花の多くは塩害で発育しないはずだ。
「ちなみに……こんなものを拾ったわよ」
と、あやめは言って、手に持った花をいなきに差し出す。
青い薔薇だった。
「……頭の痛くなるふしぎ現象だな、おい」
「まぁ、石橋を叩いて叩いて叩いた挙げ句に渡るのを諦める系男子のあなたにしては、この手のでたらめはストレスでしょうけど」
「不当な人格攻撃を……でもまぁ、お前は好きそうだよな、こういうの」
「ふふーん」
無表情のまま面白そうな声を出すという、特に意味のない顔芸をするあやめ。
いなきは言った。
「六孫王の障気の影響だな」
「名称を付けて分かった気になる。安易よ、いなき君」
興味なさげにまとめたいなきに、あやめは噛みついてきた。
「? 何が言いたいんだよ」
「気にはならないの? そもそも障気というのが何なのか? 周囲の物理現象、生物の突発的な変異をもたらす……」
「AI存在のバグだろう? 現象を再現するエンジンにエラーが起きる事によって、それらは発生している」
「と、大昔のどこかの誰かが言ったのよね。今では誰もそれを、根拠も無しに信じ込んでいる……」
どこか棘のある調子で、あやめはいなきの呈したこの仮想世界における定説に、反旗を翻す。
「なんか反証があるのかよ、あやめセンセイ」
「別に無いわよ」
「無いのかよ」
「だってわたし、憑人って今回深川に来て初めて見たのだもの。やっぱり、データが不足しているわ」
特に恥じる事もなく、確たる根拠も無しに常識に逆らった事を明かすあやめ。いつもの事なので、いなきは肩をすくめるだけで返す。
「でも、」
と、あやめは終わるはずの会話を続行した。手にした青い薔薇を眺めながら、
「ここに来て、手掛かりのようなものは得られたかも知れないわね」
「手掛かり?」
「あの産衣って人は、なんで憑人を食べるとその性質を獲得できるのかしら」
「……む」
「斎姫という存在にしてもそうよ。六孫王は、彼女たちを取り込む事でその憑物に対する制御を獲得する。……そもそも、六孫王という存在は何なのかしら。どうして他の憑人と比べて、こうも別次元の力を備えているの? なぜ代が重なるごとに、その力は大きくなるの?」
「……正直、あまり考えた事が無かったな」
確かにこの女の言う通り、六孫王という存在には不可解な点が多い。斎姫というシステムについてあやめが仮説を立て、産衣の能力を知った今ではその謎は更に深まった。
あやめは、一言告げる。
「未那元」
それは産衣、斎姫、六孫王が共有する記号。彼らの起源を示す姓だ。
「未那(まな)の元……ねぇいなき君、唯識論というものを知っている?」
「一応な」
仏教哲学における、ある種先鋭的な論説である――人間の感じている諸現象は、実体の無い個人のイメージでしかないという。
この説の特徴は、人間の認識を八つに分けた事にある。それぞれ五感に対応する眼識(げんしき)、耳識(にしき)、鼻識(びしき)、舌識(ぜっしき)、身識(しんしき)、自覚的な意識は、そのまま意識とする。
残りの二識。これらは無意識の領分である。
無自覚な意識である未那識。そして、その更に下層にある阿頼耶識(あらやしき)。
阿頼耶という名称は蔵を意味するサンスクリット語から来ており、そこには個々人が感じる世界を形成する〝種〟が収まっているのだという。
「そして、一見して人類共通の世界が成立しているのは、阿頼耶識が過去から現在に至るまでの全人類の間で共有されているから、というのがこの話の骨子よ。いわゆる、集合的無意識ね」
再度ユングを引用して、あやめは話をまとめる。
「未那元とは未那識の元……阿頼耶識を象徴しているとしたら? 未那元一族は、他者の無意識から来る力を取り込み、引き出せるとしたら?」
「その能力の為に、産衣は他の憑人の力を、六孫王は斎姫の憑物制御を獲得できる?」
「そして、六孫王は過去の未那元一族の無意識までも引き出している……だから、ここまで途方も無い力を得た」
「……ふむ」
「そして、」
と、あやめは更に言葉を重ねた。周囲をぐるり、と見渡して、
「無意識というのが、世界の諸現象全てに存在するとしたら?」
「……それは、突飛過ぎやしないか?」
「あなたが無意識という言葉を、思考の無自覚な部分として定義しているからでしょう?先程言った通り、思考は後天的な能力よ。無意識とは単に、意識の対義語に過ぎない。思考とは全く異なる形の事象として考え得る……こう言った方が、分かりやすいかしら?」
――魂、と。
あやめは言った。
「植物、鉱物、ありとあらゆるものに魂が宿りうる……八百万の神、って考え方をするわたしたちには馴染みが深いでしょう?」
「アニミズム、って奴だな」
「そうね。つまり無意識=魂に干渉できるのが憑人の能力で、未那元一族はその最先端にいる」
「……あくまで、仮説に過ぎない」
「ま、その通りね」
あやめは自説を固持しなかった。あっさりと翻して――それがこの女の、よく分からない所なのだが――てくてくと歩いて行く。いなきはそれを慌てて追い越し、先頭を歩く。
やがて、通路を抜けて開けた場所に出た。それなりに手広い庭園だった。やはり海底には決して存在しないはずの植生が発生している。
思い出すような風に、いなきは彼女に言う。
「どっちにしろ、俺たちはその六孫王と戦うしかない」
「あなたたちはね。わたしはただ……知る必要があった」
「……何を?」
「世界を変革する、二つの要素。その一つを」
と。
あやめは、そんな言葉を言った。
それは、そもそも彼女はなぜ、この旅についてきたのだろうという疑問を再び呼び起こす。何度目かの問いを再び投げかけようと、いなきは口を開き――
『待ヂヤガレェッデメェッ!!』
後方から生じた濁った叫び声に反応し、あやめを押しのけて間に立った。
怪物(クリーチャー)――現れたのは、そうとしか言い様のない生物だった。
足はこの場で目視できる限り五本あり、手は三本目が背中から生えている。それらは全て人間のものではなく、虎、猿、象、海棲生物の触手……臀部からは鰐の尾が生え、地面をびたびたと叩いている。
顔面は、どこにあるのか分からなかった。増殖した鼻、口、目が身体のそこかしこで蠢いている。
複数の口が、涎を撒き散らしながら罵声を吐く。
『グゾ……暴走ガ抑エラレナイ……ゴンナ、醜イ……見ラレタグナイ……厭ダ……厭ダ……』
肥大化した身体をよろめかせながら、怪物は慟哭(どうこく)めいた声を漏らした。
『シカジ……ワダジハ御門八葉……近衛ノ筆トウ……アノオ片ニハ下賤ノ目ニ触レサゼラレナイ……』
「産衣……なのか?」
あやめを下がらせ、柄に手を掛けながらいなきは戦慄に背筋を震わす。――暴走? どういう事だ?
「……おそらく、」
背にしたあやめが囁いてくる。
「取り込んだ他の憑人の因子が、制御出来なくなっているのよ。……あの人が戦闘中、二種の憑人の形質しか発現しなかったのはこの為だわ」
「多数の能力を発揮しようとすると、こうなるからか」
産衣という男の美意識からすれば、この姿は耐え難いものだろう。それに今の彼はむしろ弱体化している。手足の動きに統一感が無い。複雑な運動はあれでは不可能だ。
それを分かっていて――
『殺ズ……アノオ方ニ近ヅグ夷狄(イテキ)ハ、ワダジガ、必ズ。ドンナ姿ニ成リ果テテモ……』
あの男は、忠義を尽くそうとしていた。
「あやめ、下がってろよ」
いなきは、後方のあやめに更に後退するよう指示する。
産衣の殺害を決意していた。
「来いよ。お前の敵はここだ……殺してやる、騎士候」
『ぐAッ! GIAッ! アアアアアアアアアアアアッ!!』
鈍く、不様に突撃してくる産衣を確実に仕留める急所を、いなきは観察し――
その位置を、〝何か〟が抉った。
『ガッ……!?』
複数箇所を同時に、不可解な攻撃が襲う。――小さな風切り音を、いなきの耳は捉えていた。
(……ッ!)
敵の攻撃の正体を知り、いなきは半ば恐慌に囚われながらあやめの身体を抱え、その場から全力で逃走した。遮蔽物を探して、庭園の柱の陰に潜り込む。
(……銃撃だと!)
一点の破壊、弓矢と違う目視不可能の速度。あれはまさしく銃弾によるものだった。
その弾雨に晒された産衣は、身体に無数の穴を穿ってその場に倒れ込む。
『マザカッ……薄金、ギザマ……ッ』
それだけの言葉を漏らして、彼は絶命する。
哀れと思わぬでも無かったが、いなきはそれを差し置かざるを得なかった。この攻撃が、いなきの味方によるものであるはずが無い。考え得る唯一の味方である〝き〟は、この攻撃手段を持っていない。
銃撃。
八百八町の銃とは基本的に前装式の滑腔銃(スムースボア)だ。数十メートルも離れれば命中精度は激減し、速射性も期待できない。
産衣を襲った銃撃は、同時に複数命中した上に――今、いなきの視界の範疇に狙撃手の姿が無い。
そして、何よりも不可解なのは――聞こえるはずのものが聞こえなかった。
銃声がしなかったのだ。
(どういう事だ……!)
『あーあ……仲間、撃っちまったよ』
その声は、空から聞こえた。
反射的にそちらへ振り向くが、当然ながら誰もいない。揺れる海中が見えるだけだ。
『旦那もいきなり乱入するから……俺の感覚は、細かい識別に向かないんだよ……あ~あ……気が重てぇ……ああ、忌役の兄ちゃん、お約束の名乗りは上げておくぜ。俺ぁ御門八葉、八州田(やすだ)家当主、薄金(うすかね)だ』
男の声はいかにも気怠げで、空気のように軽かった。
『ああ、この声はな、月数のばあさまの幻術で伝えてもらってる。一応断っとくけど、それ以上の事はさせてねぇぜぇ。あのばあさま、本気であんたらと敵対する気が無いみてぇだわ。特に斎姫にはびびっちまって……この程度の協力をさせんのも、大変だったのよ。っつーわけで、どっかに隠れてるばあさまを探して殺しても意味ねぇからさぁ。一応言ったぜ?』
軽口めかして、薄金と名乗った声は言ってくる。
いなきは会話を聞いている間にも、狙撃手の姿を探している。しかし庭園に男の影すら見当たらなかった。
『ま、俺もばあさまを見習って、あんたらをやり過ごしたって良かったんだがねぇ――』
薄金の、軽薄な声。
その音に混じって、風切り音が聞こえた。
「……ッ!!」
いなきはあやめの頭を押さえつけるようにして、その場に伏せる。飛来する銃弾が頭上を掠めて、柱に穴を穿った。
『あらら、さすがに……この程度じゃ気は散らねぇよなぁ』
などと、気軽な声音で悔しがってみせる薄金。
対していなきは焦燥に駆られつつ、追い立てられるように柱から飛び出した。両手であやめを抱えている。
しかし好機だ。狙撃の方角は柱の弾痕から明らか。その方向に薄金の姿が――
そちらを向いても、庭園の粗雑に生える草花しか無い。
(どういう、事だ……ッ!?)
猛禽並みの視力を持ついなきであれば、たとえ即座に逃走しても、あるいは狙撃手の常套手段としてギリースーツなどを着込み、カモフラージュしていても、この距離なら判別が出来たはずだ。
『小諸で抜けりゃ浅間の山に、今朝も三筋の煙立つぅ……』
余裕めかして唄などを歌いつつ、予測の出来ない狙撃を薄金は繰り返してくる。走り続けていなければ回避出来ない。
「……っ」
「いなき君! わたしを置いていきなさい!」
呼吸を乱し始めたいなきに、あやめが胸元で叫んでくる。確かに彼女を抱えたまま走り続ければ、体力もすぐに尽きてしまう。何より両手が塞がり攻撃が出来ない。
手近な茂みの影を探し、あやめをそこに隠そうと――
『浅間根腰の焼野の中にぃ……菖蒲(あやめ)咲くとはしおらしやぁ』
その茂みを、薄金の銃弾が弾き散らした。
「……ッ!」
(この、男……!)
『兄ちゃん、あらかじめ言っとくがよぉ……兄ちゃんとそこの嬢ちゃんが分かれれば、俺ぁまず嬢ちゃんを殺す』
軽薄に――冷酷な地金をほのめかせた声で、薄金は告げた。
『八葉の半分までも倒したアンタを、俺ぁ軽視しねぇ。最も確実な手段で仕留めさせてもらわぁ』
食えない――薄金の本質に、いなきはようやく気づいた。
憑人という超越的な存在でありながら、産衣や日数のように慢心していない。沢瀉のように戦いを楽しんでいない。膝丸のように狂ってはいない。戦闘を義務として処理し、常に最適な手法を採る。
(一番……強敵だぞ、こいつ)
この男には、心理的な隙が無い。産衣の時のような戦況の支配を許すとは思えなかった。
「いなき君、」
もう一度、あやめは自分の名を呼んだ。そして、もう一度、同じ言葉を繰り返した。
「わたしを置いて、いきなさい」
二度目のそれは、意味が全く違っていた。疾走しながら、反射的に怒鳴りつける。
「うるせぇ!」
その背後の芝生を銃弾が抉った。命中精度が向上している。
どこから狙撃しているか――既にその疑問に意味は無かった。薄金は、あらゆる方角から攻撃してくる。前方と思えば後方。左方かと思えば右方。
(射手は複数いるのか……? なら、狙撃の方角が特定できないのも、この速射性も説明がつくが)
いや、それならば多方面から同時に狙撃をすれば良いだけの話だ。銃弾は複数だが、一回の攻撃では必ず同じ方角から飛来している。今敵対している相手は薄金一人だ。
そして彼の射撃の不可解さは、憑人としての能力に由来するのだろう。
だから、その謎を解けば倒せるはずだ。
(それが先か……俺の体力が尽きるのが先か)
廃墟の庭園を疾走しながら、いなきはそう結論づける。人間一人を抱えて走っている今、体力が消耗しきるのはかなり近い。その時までに薄金の攻撃手段を解明しなければ、自分は敗北する――
その見通しの甘さを、敵手は的確に狙ってきた。
いなきの走る進路を、宮殿の倒壊した箇所、柱や壁の残骸が塞いでいた。
誘われたのだ。
(……ッ! 奴には、地の利もあった!)
自分のうかつさを痛罵する。一度地面に伏せて射撃を避けた以上、相手はそれを見越して打ち下ろすような銃撃を加えてくるはずだ。その回避手段は採れない。
いなきは咄嗟に、地面を強く蹴った。
飛び上がって、突き出た柱の一本に到達するとそれを蹴りつけ、中空で一回転する。地面が頭の上になっている瞬間に、薄金の弾丸は眼下の地面を抉っていた。
着地して、再び走る。肩に激痛を覚えていた。
(躱しきれなかったか……!)
弾丸が一つ、肩口に命中している。腕力が自覚できるほどに落ちていっている。あやめを取り落とさないように、抱え込むようにしなければならなかった。
「い、なき君……!」
「なんだ! 文句なら後で言え!」
「違うわ……弾丸を」
圧迫され、苦しげにしながらもあやめは言葉を吐いた。
「弾丸を、見なさい」
と、いなきの肩に触れる。傷口を刺激されて痛みに顔をしかめるが、あやめはそれに構わずその肩から何かをつまみ上げていなきに見せた。
弾丸の破片。何かの、皮のようだった。棘の生えた――
「……!」
いなきは薄金の狙撃の正体を悟った。走りながら周囲を見渡す。植物に囲まれた庭園。なぜ彼は、ここを戦場に選んだのか。狙撃のしやすい開けた空間だから? それもあるだろうが。
(木を隠すには森の中……って事か)
いなきは逃走の進路を変えた。庭園の出口。彼らが入ってきた通路に戻ろうとしている。
(薄金は……植物の憑人だ)
そして、彼の射撃で発射される弾丸は――花粉だ。
(風媒花……いや、それだけじゃない。障気も使って、弾丸の軌道を補正している)
例えば桑の一種はその花粉を、音速の半分ほどの速度で射出する事が出来るという。憑人として誇張された能力であれば、十分人間を銃殺するに足る威力が実現する。
ならば、この庭園は薄金の必勝を確約する殺傷領域(キルゾーン)だ。木を隠すには森の中。ここで彼を発見する事は極めて困難だ。
(まずはここから撤退する……)
薄金の姿を視認できる状態で暗殺する。その隙は必ずあるはずだ。
自分が逃走しようとしている事を悟らせないよう、迂回しながら出口に向かい――それは成功する。
開かれた門を潜り抜けて、確実に薄金の射界から逃れた――
『鳥が、籠に入ったねぇ』
風切り音が、壁に遮られた空間で甲高く響き、
薄金の銃弾は、いなきの足に命中した。
「がっ、あ……!」
腿を撃ち抜かれた。いなきはその場に倒れ込み、激痛にうめく。
「いなき君!」
転倒する間際に地面に下ろしたあやめが、いなきに駆け寄ろうとする。
「馬鹿! 来るんじゃない!」
罵声を上げて押し止めようとするが、彼女は耳を貸さずいなきの側に寄ってきて屈み込んだ。予測された、彼女への銃撃は無かった。
(いつでも仕留められるから、余裕ぶってるのか……)
戦闘の最中に感じた男の冷徹さからすれば考えがたい事だったが、それ以外に何かあるとも思えない。
いつ狙撃されるとも分からない恐怖の中、訪れたのは銃弾でなく言葉だった。
『推理を誤ったねぇ。……俺ぁ、あの庭園にいた訳じゃあないんだわ、これが』
「どういう……事だ」
『たぶん、俺が植物の憑人である事は見抜いたんだろうがねぇ……俺が、植物と交信できる事までは見破れなかったようだぁな』
「植物と、交信……」
薄金の漏らした言葉と――彼がどうやら、月数と離れた場所で情報をやり取りしている事。
二つの要素を繋ぐ推測を組み上げて、いなきは喉の奥でうなった。
「化学物質……インフォケミカルか」
植物とはその場から動く事は出来ないが、それゆえに遠隔の生物に干渉する能力を多く持つ。花粉はその代表として――他に、化学物質の散布がある。
殺菌作用のあるフィトンチッドや、他の植物の生育を阻害したり、昆虫を誘因するアレロケミカルなど。
後者は、同種個体間に作用するフェロモンと合わせて生化学的信号物質、インフォケミカルと呼ばれる。
それを介して、植物の感覚した事柄を薄金は受信出来る。
ならば、庭園のみを彼のテリトリーと考えたのは間違いだった。この太歳宮にはあちこちに草花が生えている。
『そーそー。いやぁ、あんた博学だぁなぁ。俺にゃあ、びびっと来る? ってだけの話なんだがねぇ』
「……なら、お前の本体は」
『ああ。太歳宮の、丁度あんたらのいる所の反対側だね。――悪いね、最初からあんたにゃ勝ち目無かったんだわ』
「……畜生」
歯噛みする。実際、最初から彼の能力を知っていたとしても、銃撃を避けながら薄金を探索するのは不可能だっただろう。いざとなれば巫術の行使も考えていたが、数秒しか保たない裏技はこの場で意味のあるものでは無かった。そして機動力を殺された今となっては、あらゆる反攻を封じられている。
状況は既に詰んでいた。
だから、言葉を弄する余裕もあるのだろう。
『……敵をなぶるのは、俺ぁ好かないんだけどねぇ。他の連中と違って、力、強くねぇからさ。油断してる余裕無ぇんだわ』
薄金はそう言って――苦い物を口にしたような声を上げる。
『けどよ……未練だねぇ。俺ぁ自分で思ってる程達観出来てないらしいや』
「……?」
『おめぇさんは、半端者だってんだよ』
男は声に、初めて棘を含めた。
『目的があるってんなら、なぜその娘を切り捨てねぇ? その嬢ちゃんを抱えてたら絶対に勝てないって分かってただろうがよ』
「……っ」
『そんだけじゃねぇ。なぜ関係の無い斎姫の仇討ちに手を貸す? たぶんあんたはもっともらしい言い訳を用意してんだろうけどよ。……そりゃあ単に、あんたが斎姫を切り捨てられねぇのを誤魔化してるだけだ』
薄金の詰りに、抵抗が出来ない。六孫王暗殺の実績をもって不可知領域の蠱部尚武に近付く――確かに自分の使命のみを考えたらもっと他にリスクの低い、確実な手段があったはずだ。
いなきはそれに、無自覚に目をつぶった――いや。
自覚は、していたのだろう。
『意志が弱ぇんだよ、あんた。小者なんだ』
唾棄するように、薄金は宣告する。
『小者にゃ大業は為せねぇ。その程度の道理にいつまでも気づかないで駆けずり回って、結果どうなったよ? 周りの人間山ほど巻き添えにして、もうすぐ俺の弾丸でくたばる。……それとも、そのお嬢ちゃんを殺してあんたを生かせば、自分の馬鹿さ加減を思い知って、ちったぁマトモに生きていくのかね?』
「やめろ……っ!」
『……はん。その程度の奴が、しゃしゃり出て来るんじゃねぇよ』
侮蔑に声を尖らせる薄金。いなきは、何も言い返す事が出来なかった。
「……逃げろ」
敗北感に喘ぎながら、かろうじて、いなきはあやめにそう告げる。
彼女一人を逃がす成算すら絶望的だろうが、やらないよりはましだ。
その言葉を受けて、彼女は。
「黙りなさい」
と、いなきの脇に手を絡めて、引き摺っていこうとする。男一人を動かすにはあまりにか細い力だった。
「死にたいのか! 俺を置いていけと言ってるんだ!」
「うるさい」
「たまには俺の言う事を聞けよ!」
「同意見、ね……いつもいつも、あなたはわたしの言う事を聞かない」
苦しげに呼吸し、顔をしかめながら彼女は言った。
「全く、あなたとは気が合わないわ」
などと、悪態をつく。
「けれど、そんなものは、家族を助けない理由にはならないのよ」
引く手に必死の力を込めながら、彼女はそう言った。
そして、中空を睨み付けて薄金に逆らう言葉を吐いた。
「関係無くなんて、ない……あの子はわたしたちの妹だから」
『家族ごっこだ』
「理解して、もらう気はないわ……でも」
耳元で聞くあやめの声は、怒りを含んでいた。
「あなたの自己嫌悪を、彼に押しつけないで」
『……』
「さっきの言葉、自分に言ってるようだったわよ。意志の弱い小者……それはあなたも同じなのではないかしら」
『……女を殺す趣味は、無かったんだがねぇ』
薄金の声音が殺意を帯びる。いなきは反射的にあやめを引き倒して、上に被さる。
弾丸が飛来し、いなきの生命を弾き散らす――
確実に起こるはずの未来までの猶予である一瞬は、数秒になり、数分を超えて。
「……?」
いつまで経っても銃撃の風切り音がせず、目を開く。
眼前には、左右田石斛斎が呆れた風に二人を見下ろす姿があった。
「いや、いくらなんでも君ら、こんな所で……節操なさ過ぎなんじゃない?」
何を勘違いしているのか、軽薄な男はそう言った。