これから描写される三つの殺人は、ほとんど同時刻に起きている。
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――薄金の声を中継する月数の幻術が消えて、彼は戸惑っていた。
変異したその姿は人の形をした植物そのもので、左手は変形し、長銃身のライフルに似た形を取っている。銃口は葯(やく)であり、銃身は花糸である。
(まさか……やられちまったのか? いや、そんなはずは)
太歳宮の破れた天井に向けてその銃を構えたまま――今までの彼の狙撃は、上空に撃ち出された弾丸がその弾道を歪めてあの庭園に飛来していた――うずくまりながら、薄金は思考に没頭する。銃撃を一時中止せざるをえない程の困惑に囚われていた。
月数の居所は薄金にも知らされていないが(いかにも小者の彼女らしい臆病ぶりだ)、少なくとも彼とは離れた場所のはずだ。
斎姫の知覚はどうやら、自分たちが交信に使う化学物質も察知する。彼女が本気を出せば幻術も通用しないし、月数の居所も知れてしまうだろう。だからこそ月数は、戦局に大いに貢献するはずの幻術をロクに使わず、彼らに対して脅威を示していない。最優先で仕留めるべきは薄金なのだと強調して、彼の方に敵意が向くよう誘導している。
――今、実際に斎姫が薄金の背後に立っているのだから、その目論見は成功したというのに、誰が彼女を殺したのだ?
『……もちっと、猶予があると思ったんだがねぇ』
自分に差し迫った脅威を後ろにして、薄金は月数の消息についての疑問を諦めた。
斎姫との距離は三丈(九メートル)ほど。得物は四尺(百二十センチ)程度の鉄杖。自らもまた視覚に頼らない知覚を持つ薄金は、背を向けたままそうした情報を得る事が出来た。
こちらの獲物は銃。攻撃の実体は花粉の散布である為に、近い間合いならば散弾銃に似た広い殺傷範囲を持つ。義足の娘は機動力に欠ける。勝算はある。
二人の間に、言葉は交わされなかった。斎姫は薄金を敵としてしか認識していなかったし、薄金は彼女の声を聞けば情に囚われると分かっていた。自分はただの端役であったとしても、大樹と森羅、そして〝ふう〟、自分の青春は彼らと共にあったのだ。
ただ無造作に薄金は彼女へ銃を向け、弾丸を発射し――同時に心臓を貫かれた。
最期の光景に、彼は己の弾丸の行方を見た。斎姫の得物は鉄杖。そしてそれは、右足の義足に内蔵された鎖に接続されている。
彼女はその鎖を操って、総計十三の弾丸を絡め取って防いだのだ。同時に鉄杖を投げつけて薄金の急所を的確に破壊した。
(……ったく)
馬鹿らしい程の武力の差に、むしろ納得してしまう。
(……ま、いいか)
月数が死んだのなら、自分もこの場で死んだとして不都合は無い。〝自分の仕事〟の余計な手間を省いてくれた誰かに、感謝すら覚える。
心残りはと言えば、あの生意気な娘を殺せなかった事か。自分の心をあっさり見透かした彼女を。
(なぁクソガキよ。俺らみてぇのはいくら頑張ったってよぉ、ろくな事が無ぇのさ……それでも人と関わりたきゃ……誰かに従って生きるしか、無いだろうよ)
ごぶり、と吐血して。最後に自分が人間である事を思い出しながら薄金は絶命した。
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方丈梢継は歳城の廊下を歩いていた。走りはしない。彼はいかなる時もそのような、取り乱していると分かるような有り様は見せない。ただ、走るより早く歩いていた。参謀役の武士数人が着いていくのに困難を覚える程に。
「あの墓守どもは、なぜ今更深川に現れた」
怒鳴りつけたくなるのを自制しつつ、梢継は言った。評議の場まで待ちきれなかったのだ。
答えを期待していた訳では無いが、下問された形の部下は応じるしか無かった。
「……おそらくは、足影秀郷、あの男の殺害を曲解したのでしょう。あれは太歳宮周辺の警護役でありました。大樹公への害意ありと彼らは誤解を」
曲解、誤解、と部下の女は言った。仕事が出来るからこそ側近にいるのだろうが、常識に囚われすぎている。確かに政治的価値が無いからこそ大殯の儀に入った六孫王は軽視されている。より意味のある、例えば二重スパイである彼の殺害による(梢継は既に足影秀郷の行状を洗い尽くしている)芙蓉局陣営への、彼女自身の牽制などといった分かりやすい解釈に傾くのは自然ではある。
しかし、
「ならば、八葉を実際に殺したのは誰だ。下手人は一人と分かっている……奉公衆の憑人に、単身であの怪物めらを倒せる者などおらぬぞ」
「……それは、」
「事実、大樹公は暗殺の脅威に晒されておられるのだ」
口ごもる部下に、表向きの気を配った口調で梢継は告げる。
(ならば……あの女はどこでその利益を得る?)
裏で糸を引いているのが芙蓉局である事を、梢継は疑いすらしなかった。何も証拠が無かったとしても、確信するのに躊躇いは無い。ほぼ梢継の勝勢にある政局。あの女がここで逆転の手を打って来ない訳が無い。
(あと一日か二日もすれば死ぬ男だぞ? ……大樹公に残された仕事など、遺言を残すくらいしか、)
「……ッ!」
閃きは、雷鳴に似た衝撃として梢継を刺した。見苦しい焦燥を晒すのを覚悟して、叫ぶ。
「兵を出せ!! 太歳宮に向かう!」
「だ、弾正忠様! それは……」
「無論衆目に晒されない程度の、最小限の編制でだ! 伝令! 走れ!」
言うまでもない事を述べようとした取り巻きの一人を殴りつけて、急かす。既に体制の移行が完成しかけているとは言え、主の御所に向けた挙兵――彼らの危惧している事態は梢継も承知していたが、時間が惜しい。既に間に合わないのかも知れなかった。
御門八葉全員が殺害されていたら、自分は終わりだ。
「遺言だ」
軍勢に指図の出来る侍大将を叩き出した後、残された取り巻きに向けて梢継は説明した。
「大殯の儀の最中、六孫王陛下は遺言を揮毫(きごう)なされる」
そして、と梢継は告げる。
「それは、六孫王府にとって最優先の下知となる」
周囲が自分の身近な側近に限られているのを確認すると、梢継は便宜上お為ごかしを排除した。
「陛下がその崩御の時まで重んじられている事を示す為の、形式上の措置だ。今では形骸化している……歴代の六孫王がこの時期に正気を保っていた事などないからだ。言葉をろくに理解してすらいない……万一意味のある言葉を遺せたとしても、政治的に問題があれば握りつぶせる」
「それは……露骨過ぎはしませんか?」
疑問を呈した部下の一人への評価を、梢継は下げなかった。その通りだ。六孫王の下命、それも最期に遺したものを無視するなど、この六孫王府で出来るはずが無い。
だから、全ては秘密裏に処理される。
「遺言は六孫王陛下の側近、その序列における最上位者が管理する。……つまり、御門八葉だ。太歳宮の崩壊で生き残った者から遺言は発布される。その前に奴らと交渉すれば、問題は解消されるのだ」
「……なるほど」
「なら、御門八葉が全て死んでいたら?」
梢継は彼らに問いかけた。有能な部下たちだ。その一言だけで彼の意図を読み取って、そして露骨に恐怖に震えた。
「側近の序列の、最上位者……」
六孫王府におけるそれは、議事堂である翠書院の座列で示されている為にこの場の誰もが知っている。六孫王の側に御門八葉が侍り、そのすぐ外側に座る人物。
「芙蓉局だ」
思わず笑い出したくなるような気分で、梢継は言わずもがなの事を捕捉する。
「あの女は、どれだけ自分に都合の良いように遺言を書き換えるだろうな」
それだけ言うと、部下を再び走らせる。事態を飲み込んだ為に彼らの足の進みは、野犬に追い立てられた野兎そのものの速さだった。
それを追い越しながら――上役とは、いかなる時も部下に先んじていなければならない――梢継は思う。
(このような魔手を打ってくるとは)
痛快な気分だった。やはりあの女だ。あの女こそが自分の敵だ。抱く感情は愛情にすら似ていたが、決してそうではない。あの女を自分のものにしたいとは決して思わない。
断じて、殺し合うのだ。
(貴様と戦っている時だけだ。それだけが生の真実を、実感を掴んだ確信を……)
「――梢継様!」
戦いに向かう人の流れに逆らって、一人の部下が息を切らして駆け寄ってくる。
その顔は歓喜に満ちている。
梢継は、その事に悪寒めいたものすら覚えていた。
「芙蓉局が――」
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歳城西の丸の一室に籠って、ロックチェアの肘掛けにもたれつつ。芙蓉局は酒に満たされたグラスを弄んでいた。祝杯の類ではない事は、表情に満ちる憂いが示していた。
この洋室はあの商人、仮痴不癲という少女が自分の計画に一枚噛むにあたって寄越してきたものだ。調度品、高価な酒、この部屋はまるごと彼女の寄贈品である。――彼女の住む世界にとっては端金だ。賄賂にすら当たらない。友好の証、などと彼女は言ったがそれも不適当だろう。社交辞令とでも言った方が良い。
放漫な散財は芙蓉局の好みではなかったが、いつの間にかここに入り浸るようになってしまった。内装は落ち着いた色彩でまとめられており、時間が停滞したような気分になる。それが好ましかった。――数度のやり取りで、自分をこうも把握したか。
(若い芽が、出て来ているのだな……)
この数年、人を見てそう感じる事が多くなった。今では自分に勝利するまでになった方丈梢継。仮痴不癲、斎姫。そしてあの、得体の知れない九衛待雪の娘。
自分が全力で戦っても敗北を予感させる、彼女の老いを突きつけてくる若者たち。
――八葉全員ぶっ殺せる暗殺者、欲しくねー?
あの軽薄な妖姫、鎚蜘蛛姫がそう持ちかけてきたのは数ヶ月ほど前。その一言をきっかけにして計画は即座に組み上がった。彼女のつてで仮痴不癲が参入し、お膳立てを整え、斎姫らを待った。
彼女らの能力は疑わしくすらあったが。永代島で三人まで殺し、今太歳宮に入っているのだから、さすがはあの妖姫のお眼鏡に適った武人という所か。
薄金。あの虚無に取り憑かれてしまった男を取り込んで念を押した以上、計画の完遂は確実だろう。外敵に気が向いている今なら、あの男であれば他の連中の背中を刺せるはずだ。
例外と言えばあの規格外。八龍であろうか。
しかしあの男が外部に殺意以外の意志を伝える事などありえない。計画に支障は発生しない。
もう勝利に手を掛けているように思える――
(私は、それに戸惑いを覚えているのか?)
他人を掌握する事に慣れきった自分が、自己評価について自信を持てなかった。飲めない酒を手の内で転がすような意味のない真似は、普段の彼女はしない事だ。
老化を誤魔化す為に内臓は退化しており、ろくにものも食べられない。ましてやアルコールなど、今の自分にとっては劇薬でしかない。若い時分は趣味であったが、今ではこうして眺める事くらいしか出来ない。酒の側としても、不本意なのだろうと思う。
そうまでして、この深川を維持してきた。上級武士の一族による硬直した体制を、御寝所番を使った内部工作で健全化し、出自による差別をいくらか軽減した。その結果台頭してきた方丈梢継に自分は追い詰められているのだが。
ならば彼らに敗北して、後進に後を譲り退場する? 自分はそこまで聞き分けの良い人間ではない。
(……私が排除した連中も、そう思っていたのだろうな)
この計略の犠牲になった深川の町人たちは、それを考える事すら出来なかったのだろう。何も知らずに死んでいったのだ。
それでも自分は、計画を止める事などしなかっただろうが。
芙蓉局は誰もいない部屋の中で、孤独に独白する。
「発展、成長なるものは、正義ではない」
彼女が若者たちと全力で戦う事に疑問を持たないのは、その為だ。
「断っておくが、それが悪と言いたい訳ではない。……ただ、全ての変化には犠牲が発生するのだ。私はそれが、変化により獲得できるものと等価なのだと思う」
発達した技術と引替えに、このような仮初の世界を作って己を慰める程に、心のどこかを弱体化させてしまった現実世界の人類のように。
「世界の発展という願いは、どれ程言葉を飾り立てても、その本質は現在を悪と断じ、実現すべき未来を善と定義するものだ。でなければ、実現すべき、などという言葉を用いたりはしない。……切り捨てられた現在は過去に追いやられ、顧みられずに暗がりでわだかまる……そんな行為が、正しくあるはずがない」
ならば、世界は変化してはいけないのか?
「違う、と私は信ずる」
それだけは確信を込めて、芙蓉局は言った。
「現在過去未来の人間がそれぞれ、停滞を望まず、力を尽くすからこそ世界は成立している。それが無ければ人は滅びる……赤の女王仮説というものだったか」
過去に読んだ書物を記憶から呼び起こして――老化しつつある脳では、昔より思い出すのが遅かったが――芙蓉局は独白を続ける。
「ただ、盲信してはならないのだ。成長という美しい言葉で、自分の行為を善であるなどと思い込んでは……犠牲を忘れてはいけない。変化を推進する自分の罪を、責任を。そして、それらは償えない事を」
罪は償えるという誤解は、やはり犠牲を軽んじさせる。
「それを軽んじて、忘れてしまえば、人は虚無に囚われる……だから」
結論づけるように、芙蓉局は言った。
「私を殺すという変化を求めるならば、それを忘れないで欲しい――森羅」
薄暗い部屋の隅、目視できない空間に向けて。
既に命は諦めていた。豪眞梅軒は計画の為に走らせていてこの場におらず、自分を守る事が出来ない。
「お前が来ると思っていた……お前は、大樹を道具にする私を許さないだろうから」
まだ少しの猶予をくれるらしく、その間に芙蓉局は伝えるべき言葉を並べた。
「すまんな。梢継の独裁を許す訳にもいかなかったのだ」
野心の強い男だ。成り行き次第では、六孫王に成り代わって自分が主導者になろうとするかも知れない。自分はそれを防ぐ力を持たねばならなかった。
「奴では不足なのだ。……近い内に、この世界は決定的な変化を迎える。九年前、あの不可解な武州の争いから予感はしていたが……あの娘に会って確信した」
世界を変革する因子、その二つの内の一つの実在を。
ならば我々は、もう一つの因子を育てなければならない。
「変化に戸惑い、絶望する人々を救う者が必要なのだ。利害を超えて人を導く程の存在……王が。未那元一族は途絶えてはならない。彼らの辿る道が、やがてそこに到達する」
だから、と芙蓉局は語り始める。政治に生きてきた彼女の、最後の交渉だった。
「お前が私の後を継げ、森羅。梢継を牽制しろ。龍を支えるには、虎は二頭必要なのだ。……なに、お前であってもあれは手こずるさ」
あの男は決定的な所で虚無を拒める者だから。彼の子供の時に対面して以来、それを確信して育ててきた彼女であるからこそ分かる。
「あれは自分の歩む道に絶望したとしても進む事を止めない。何を犠牲にして戦い続けてきたか、決して忘れないからだ。自己を否定しながらも自己を貫徹する事を疑わない男だ……はは、まるで、惚気のようじゃないか。私が惚れたのは、生涯でたった一人だと言うのに」
自嘲しながらも思う。なんだ。あれやこれやと言っていても、自分はあの男を後継者と認めていたのではないか。
だからこそ、あの時自分は「いつか私を殺しに来い。それが出来たら、私の全てをくれてやる」などと言ってしまったのだ。
そして今、梢継は間に合わず自分は森羅に殺される。落第点だ、馬鹿者め。
「ま……頑張りやぁ」
その言葉を最後に、芙蓉局は心臓を貫かれた。
絶命する間際に見た夢は、幸福なものだった。――あのひと、覚樹(さとしげ)さまと再会できたのだから。
――すまない。私は化物なのだ。君に女としての幸せをやる事はできない。
紫垣城の貴族に追いやられて、親子ほども年の離れた男に差し出された。それでも彼らの言う通り間諜として振る舞うしかなかった弱い少女に、彼はそう言ったのだ。
娘を喰らい、そして彼女を産んだ側室を障気で病ませて殺した後の事だった。そうまでして永らえた命も、もう少しで終ろうとしている。
――私に出来るのは、君の世界をほんの少しだけ変える手助けをするくらいの事だ。
あの、孫そっくりに不器用で哀れな人は、彼女に自由だけを差し出した。それまでのがんじがらめの自分には存在しなかったものを。
けれど、それを与えられるだけだったなら、好きになりはしなかったのだろうが。
妻子を自ら殺して、絶望だけを抱いて死んでいく男。そんなに悲しい人間を見た事が無かったから。
芙蓉局、という名前を持たなかった頃の彼女は、初めて与えられた自由を使って、不自由になる事を選んだ。
――なら、わたしは、あなたの世界をほんの少しだけ変えていきます。……あなたがいなくなっても、ずっと。
小娘の他愛ない言葉を聞いて、彼は。
――そうか。ありがとう。
薄く微笑んで、そう言ったのだった。
そんな口約束を守って生きてきた自分は、きっと愚かだったのだろう。当時の姿のまま、心ばかりが老いていって。過ちを為した。罪も犯した。
けれど、幻想の彼はやはり薄く微笑んでいたから。
彼女はこう言ったのだ。
「覚樹さま。わたしはちゃんと、がんばりましたよ」