「いやぁ、君らがいきなり消えちゃった時は焦ったよ~……ここ迷路みたいに入り組んでるからさ、合流出来ずにやばい方々と鉢合わせ、とか考えてびくびくしてたねぇ、いやホント」
べらべらと軽薄にのべつまくなしに喋る左右田石斛斎を黙らせる事も、離れる事も出来なかった。この男が、足を撃たれて動けないいなきを担いで運んでいたからだ。
「うるせぇ」
隻腕の男の右肩に米袋の如く扱われながら、可能な限りの反抗を示す。
「はぁ、ホント君って人のありがたみを考慮しない男だよね。……どうしてもって言うから、刀持たせたまま運んであげてるってのに」
「今この場で戦えるのは俺だけだ。武器を手放せる訳ないだろう」
「耳元でがっちゃがっちゃがっちゃがっちゃ、うるさいんだよねぇ」
「我慢しろ。俺たち忌役は傷の治癒が早いんだ。あと四半刻もすれば歩けるようになる」
「自分の都合ばっかりだなぁ」
面倒臭そうに漏らす石斛斎。
がっちゃがっちゃがっちゃがっちゃがっちゃがっちゃ、と。確かに彼の言う通り、歩くたびに刀の金具がうるさくがなり立てている。太歳宮の天井が破れていなければ、残響してもっと不愉快な音響になっていたかも知れない。
「……あやめ、あんまり先を歩くな」
いささか先行して、周囲を観察などしているあやめに警告する。彼女はそれをしばしの間無視してから、
「……いなき君、これを見て」
と、言ってくる。
石斛斎に肩を借りて床に立ち、痛苦が顔に出ないよう自制しつつそちらへ歩き、彼女の指差す地面を見て、
「……っ」
突発的な嘔吐感に身を竦めた。
おそらくは頭上の海中から落ちてきた魚なのだろう。断言できなかったのは、その形質があまりに魚とかけ離れたものに変異しているからだ。
エラにあたる部分が口になっている。唇がある。歯がある。舌がある。生臭い呼気がある。そして、声を上げている。
――ぉぁぁあっ、……ぉぉぅうう……ぉおぁぅ……
恨めしげな声、と聞こえてしまうのは嫌悪感による思い込みか。
「障気による……突然変異か?」
「そうでしょうね。……なぜ口なの? 地上に落ちたから……呼吸が出来なかったから?」
ぶつぶつと述べて、あやめは唐突に床石の破片を拾い上げて魚の解剖を始めた。脳髄を突き刺して止めを刺し、外皮を切り裂いて開きにして中身を観察する。
「やっぱり。肺が増えている……」
「……ねぇ君、この子って実はとんでもなく異常なんじゃない?」
「……なんだ。今更気付いたのか、お前」
顔色を真っ青にして今にも吐きそうな様子で言う石斛斎に、似たような表情でいなきは返す。
「失敬ね」
血のついた指先を手ぬぐいで拭きながら、あやめは抗議する。男二人は揃って目を逸らした。
(……まぁ、こいつのアレなのは今に始まった事じゃないんだが)
などと思いつつ、しかし、と引っかかりも覚えている。
――わたしには、知る必要があった。
(それがこいつの目的なのか? ……何を知る必要があるってんだ?)
いくら脳裏で疑問を浮かべても、答えは出ない。この女はどこか決定的な所で余人の理解の及ばない所がある。父親と同じように。
諦めていなきは、実際的な言葉を持ち出した。
「怪異の度が深まった。……つまり、この道の奥に」
障気の元、六孫王がいる。
「〝き〟もそこに向かっているはずだ。急ごう」
「とか言いつつ僕を足に使うんだよね。他力本願この上ないよね」
「早く歩けよ」
「イラっとするなぁ……」
ぼやきながら石斛斎は足を前に進めようとして、ふと止まる。
「ちょっと疑問なんだけど」
「あん?」
「この催畸性(さいきせい)、まさか人間に影響したりしないよね?」
「……ぅ」
それは考えていなかった。
――障気が周囲の人間を病ませる事は知られている。精神の失調、内臓機能の退化を起こす憑人の家族は数多い。六孫王の正室、側室などはほぼ例外なく早死にしているのだ。
そうした病魔とは違うが、この突然変異が人間に起こらないとは言い切れない。手足から触手の生えた自分たちを想像して目眩を覚えていると、
「それは無いでしょうね」
あやめがそう応じた。
「障気というのが実際は諸事象の精神に及ぶものである事は、今ではある程度確信を持っているわ。……この魚は、息苦しくて呼吸をしたかったから変異したのよ」
「魚の意志が原因、って言いたいのかい?」
「そうよ。障気は精神が肉体に及ぼす影響を拡大……いえ、ルールを取り払ったのかしら? 陸上で呼吸をしたいと思えば、それが実現するように」
「理解しがたい話だが……それが俺たちに影響しないという根拠は?」
「そうね……では、いなき君に確認。蠱業遣いが障気の影響を軽減できるってあなた、前に言っていたわね。これは本当?」
「……本当だ。忌役で障気による健康被害を受けた人間はいない。……これについては、確か明らかな実例があった気がするな」
「芙蓉局さんね」
それだけでいなきの意図を察して、答えを述べてくるあやめ。
六孫王の正室、側室などはほぼ例外なく早死にしている――彼女だけが例外なのだ。長年六孫王の側にいながら生存している。
「コードハッキングとは、つまるところ精神制御よ。自身をAIであると自覚し、その精神を操作可能であるという意識から自己を変革して、異能を発現させる……精神制御に長けた蠱業遣いは、精神を歪める障気に耐性がある」
「じゃあ、お前らは?」
「あまり心配いらないでしょうね。こういう言い方は人間賛美みたいで鼻につくけれど……人間の精神活動は高度だもの。自分の形を、相当強固に定めているという事。それに干渉できる程、六孫王の力は強くない。ここまで変化させる事は不可能でしょうね」
解剖された魚を見下ろして、あやめは言う。
いなきはその語尾に、何かを付け足されたのを聞いた気がした。
彼女は「今は、まだ」と言ったような――
「念の為、気を確かに持っておきなさいな、役者さん」
「そうだねぇ」
二人はそうやり取りして、先に進み始める。
進むごとに周囲の怪異が異常性を増していくのが、目に見えて分かるようになってくる。硝子化した外壁、壁から生える樹木、空中を遊泳する海月……異界に迷い込んだ気分になる。
事実、異界なのだろう。一人の男の作り上げた別世界。その中に自分たちは侵入している。
そして、三人はそこに辿り着いた。
広い、ドーム状の空間である。地面は雑草の緑に覆われており、破れた屋根から降り注ぐ光に照らされ青々と輝いている。その光には海の青が含まれていない。
海面が割れて、夏の日差しが降り注いでいるのだ。
「深度が障気の範囲より低い……障気の中心か……」
その意味する所を考えれば感慨に耽る事など出来ない。いなきは石斛斎の肩から降りて、地面に立つ。傷の治癒はほとんど完了している。
周囲を見渡せば――ドームの外壁に貼り付くようにして佇む無数の憑人の群れがあった。
「……っ」
戦慄し、身構える。しかし、
「……いや、あれは」
異形の怪物に変異した彼らは、外皮がささくれ立ち、ひび割れていた。外敵である自分たちを見つけても身じろぎ一つ――そもそも、見てもいない。
死んでいる。それもとうの昔に。
「歴代の御門八葉って所かしら」
あやめが推察する。月数の言っていた、太歳宮の水没によって生き残れなかった〝心中組〟とやらなのか。
「つまり、やっぱりここが」
目的の場所である、という事なのだろう。そして――それは探すまでもなく、ドームの中央にあった。
柩。
一つの体制の首長を祀るものにしては、簡素な木柩だった。飾りと言えば蓋に翡翠をはめ込んで象られる、笹竜胆の家紋くらいだ。
ドームの中には、三人と八葉の死体を除けば人間はいない――あの中にいる可能性が高い。
「墓守に守られて眠っている訳か。……いいご身分だな」
緊張を隠すように、悪態をつく。
すると、あやめが横から言葉を漏らす。
「……当人は、見張られていると感じているのかも」
「?」
「生まれた瞬間に生き方が――死に方まで決まっているって、どういう気分かしらね」
などと、感傷めいた事を言う。
「同情なんてする筋じゃない」
いなきは冷たく返す。
「俺とあいつは、その男を殺しにきたんだ」
今までやってきた事と変わらない。ある一人の人間の未来を永久に遮断する。たとえそれが、あと数日しか保たないものであっても、本質は決して変化しない。
「……行く」
ドームの中央まで足を進め、柩に手を掛ける。最強の憑人、魔王を封じた筺に触れている事を思って、怖気が指先の動きを狂わせる。それを押し殺して、
柩を。
開いた。
「……いない」
木柩の中身は空だった。
「……どういう事かしら」
後方のやや離れた所で待機していたあやめが疑問を浮かべる。いなきはそれに解答を持ってはいなかったが。
「さてな。メシでも食ってるのかね」
などと、軽口めいた無意味な発言しか出来なかった。ともあれ、この場に六孫王はいない。ここが障気の中心である事を考えれば、かなり近い所にはいるのだろうが。
もう一度周囲を見渡しても、人の姿は無かった。
なら、
(……機会、って事か)
いなきは二人の元に戻り――石斛斎とあやめの間に立った。
「……何かな?」
問いかけはしても、察しているのだろう。面白がるように石斛斎は口の端を歪める。
意を決して、いなきは決定的な言葉を吐いた。
「お前は、何者だ」
「……今更、仮痴不癲のスパイだなんて言いたい訳じゃあ、ないんだろうね」
「そうだな。正直、分からん。お前が誰で、何を目的にしているのか」
「ただの役者。ここには巻き込まれて来ただけさ」
「確かに、そうとしか思えない」
それ程までにこの男の韜晦は完璧だった。今でもいなきは何ら確信を持てない。証拠など何一つ無い。
それでも。
「たぶん、月数は死んでいる。殺したのはお前だ」
あの、憑人の魔女はこの男が殺した。いなきはそう考えている。
「薄金の銃撃の止んだ理由は簡単だ。あいつが死んだからだ。殺したのは〝き〟だ。あいつは裏門から入ったから、薄金の位置と近かった」
役者の作る、表情に富んだ無表情とでも言うべきものに少しも変化の無いのを観察しつつ、いなきは推理の組み立てを続ける。
「月数が死んでいる、という根拠は……〝き〟がここに俺たちより早く着いていない事」
「どういう事かな?」
「あの女は必ず、薄金が倒されれば〝き〟を六孫王の居所まで案内するからだ。月数は自分の生き残りを第一に考えている……〝き〟と戦う八葉がいなくなれば、主君を売るのに躊躇いは無いだろう」
現時点で残っている八葉はまだ見ぬ八龍のみ。一人だけでは、二手に分かれたいなきたちを引き付けられない。
月数が死んでいるのなら、似たような事が言える。
薄金を殺したのが〝き〟なら、彼女を殺したのは、誰だ?
「……ふむ」
男は、飄々と隻腕で顎を撫でながら、
「月数と薄金が一緒にいたって可能性は? 斎姫は二人を同時に殺した」
「ありえない。月数は必ず薄金から身を離そうとする」
「なぜ?」
「薄金が、御門八葉の抹殺を意図していたからだ」
いなきはそう、断言した。
「産衣の射殺が誤射なワケあるか。明らかに体格が人間からかけ離れたあいつの急所を、薄金は正確に狙撃していた。……御門八葉と俺たちが戦う事で、芙蓉局たちにメリットがあると月数は言っていた。俺たちに政治的価値は無い。なら、あの女どもにとって死んで都合の良いのは御門八葉の方だ。その都合とやらは知らないが……薄金はあっちに付いたんだ。……ほんの少し会話した程度の俺が気づけたんだ、月数が察していないって事は無いだろう」
言葉を並べ立て、そして結論づける。
「月数を殺したのは〝き〟じゃあない……消去法で考えると、お前しかいない」
「ちょっと、強引過ぎるんじゃないかなぁ。それって第四の人物の存在を仮定すると、すぐに崩れる推理だよね」
「まぁ、そうだな。どうも探偵役には向いていないらしい」
自嘲しつつ、いなきは言った。
「根拠なんてない。ただ、一番の不可解は……お前が今ここにいる事だ。それが、偶然の積み重ねの成り行きだなんて、俺には信じられない」
「……ま、君のような人なら、そうなんだろうけどね」
呆れたような、あるいはばつの悪そうな風に石斛斎は頭を掻いた。
いなきは刀の鯉口を切った。結局の所、官憲の目の届かない所では推理に意味などない。解決手段は野蛮な暴力以外にありえない。
その行使に踏み切ろうと、というよりそれを仄めかそうとした時。
「――僕にかまけてる暇、あるのかな」
石斛斎がそれに先んじた。
「大樹と戦う気なら、一つだけ、教えてあげるよ」
その語る内容に潜むものを感じ取るより先に、彼は続けて述べた。
「六孫王の力を常識で計らない方が良い」
彼の言葉に反応した――のではない。いなきは、それを彼の声より先に耳にした。
「……ぅ、ああ、ぅ」
か細く、弱々しいうめき声、それは上空から聞こえた。
「……っ!」
即座にそちらにいなきは振り向く。
――男が、一人。
空を、歩いていた。
まるでそこに硝子の階段があるかのように、軽々しく、何でもないかのように中空を歩行している。夢遊病患者のような曖昧な足取りだった。
薄く緑がかった白の、一枚布の衣だけ着込んだ男。
男の正体は、疑うべくも無かった。
彼の神々しい程の美しさは、娘が持つそれと全く同じであったから。
――当代六孫王・未那元大樹。