男が、地に降り立つ。
「ああ、う。ぅあああ」
――そして、足を滑らせて転び、うめきながらうずくまった。美しい顔の、口の端から涎がぼたぼたとこぼれて地面に落ちていく。
表情は嬰児、あるいは胎児のように曖昧で、感情と呼ぶべきものが存在しなかった。
魂が、消え失せたかのようだった。
(……こいつ、)
その有り様で、ある程度の確信が持てた。
六孫王大樹は既に廃人同然だ。その精神まで障気で歪めてしまっている。これが累代(るいだい)の魔王全員が避けられなかった末路という事らしい。
――死に方まで決まっているって、どういう気分なのかしらね。
あやめの漏らした言葉が背筋を撫でた。それを払い落とす為に首を振る。
(……どうする)
六孫王大樹が目の前にいる。〝き〟はまだやって来ない。
一つの考えを、いなきは抱いていた。それを行うべきか否か。
(どう、すれば……)
――逡巡に囚われた、その最中に。
六孫王大樹の美貌が、こちらに向いた。幼児が飽きた人形を扱うような加減の無い動きだった。
そして、彼は告げる。
「この男を自分が殺そう」
いなきが考えていた事を。いや。
いなきが数秒後の未来に決断しようとしていた事を。
「……ッ!」
自分の考えであるからこそ分かる。六孫王大樹を殺害する方向に、己の意志は傾きかけていた。
魔王が声を上げる。いなきの未来の意志を代弁する。
「彼女は自分を許さないだろうが。それでも彼女は、自分を恨みながら生きていくだろう。親殺しの罪を抱えて死んで行くよりは……それならば」
「……」
「それならば――ぐげ」
男の声が、唐突に濁り、そして。
「ぐぎ、げ、げが、あががががが、う」
――地面が爆発した。
地面を埋める雑草の群れが急速に発達し、変異し――樹木へと変じた。木々が空を覆い、日を翳らせ、暗き森へと遷移していく。
『許されぬ』
魔王の声は、六孫王大樹の口からは語られなかった。
木々が一斉に口を開き、言葉を述べている。
『汝、夷狄に屈する事まかり成らぬ』
「う、が」
『進撃すべし。侵略者を断じて撃滅すべし。鏖殺すべし』
「あ、ぅあ、ああ」
『汝が名は六孫王、征夷者の頭領なり。万軍傅く者なり。八幡……神の依り代なり』
「や、ぐ、お……」
『汝は王、即ち国家なり』
「ぃ、ぎぃいいい」
『王とは勝利するものである』
「ぅ、ううううううううううう」
『王とは征服するものである』
「うううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう」
『王よ』
『王よ』
『王よ』
『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』『王よ』
「……う、げ」
黒い、風が吹いた。
『わ、レ』
黒風は男の周囲に取り巻き、小型の嵐となる。
『我、征きテ、降シ、伏(お)ろすベシ』
嵐が弾けて――怪物が現出する。
身丈は一丈(三メートル)を超えた程度だろうか。様々な憑人の因子が混じっているであろう点は産衣と同じだが、こちらは人の形態を保っている。
というより――次元が違う。
外見から、憑人の因子を特定できない。巨人という鋳型に詰め込まれた動植物の形質は、あまりに膨大だった。一つの世界――いみじくも〝森〟が述べたように、国家だった。
そしてその国家には思想があった。
より強く。
より速く。
より狂おしく。
外敵を抹殺する為の形に、最適化されている。
国家の名は。
「……鵺(キマイラ)」
自然と、畏怖を滲ませた声がいなきの口からついて出る。
鵺がその左手を振るう。めりめりと音を立てて、腕が変形していく。
手のひらと柄を一体化させたまま、巨大な太刀が発現する。
いや、それを太刀と呼んで良いものか。
ねじくれ、狂い、歪んだただの鉄板に等しい形状は、刀剣に分類する事がそれに関わるものへの冒涜とすら言えるのかも知れない。剣という概念を陵辱し、泥を塗るかのような悪意がそこに含まれていた。
「非刀・獅子王」
背後の石斛斎が、声を上げる。
「ある代の六孫王が、都に跋扈する鵺を退治した恩賞として下賜された刀剣を取り込んだものだ。鉱物型の憑人の因子により補強されているので、原形を留めてなどいないが」
「お前は……」
「戯(たわ)けが。二度も似たような事を言わすな。――気を逸らすな。即死するぞ」
「……っ!」
正面の鵺が、飛んだ。森の枝を弾き飛ばしながら跳躍し、こちらへ墜落するかのように突撃してくる。
鵺の斬撃は、一撃で地面に大穴を穿った。怪物そのものの膂力。
回避するくらいしか考えが及ばなかった。鵺の作ったクレーターを境に、あやめ、石斛斎と分断されてしまった。
「この娘の事は俺が預かる。――大樹と戦え」
豹変した隻腕の役者が述べたのは、脅迫に等しい。彼の言うとおりにしなければ、あやめの安全を保証しないと暗に示していた。
「……っ、クソ!」
舌打ちして、正面の敵に集中する。どちらにせよ六孫王はこちらに狙いを定めている。――敵意を感覚しているのだ。
(受け太刀は言語道断、小さい動作で躱すのも駄目だ。足場を崩される)
小兵の戦いに専念する。小回りを生かして死角から斬りつけ――
距離を取って、思考に没頭していた所に。
二丈(六メートル)を超えた間合いで、六孫王大樹が腕を振るった。
太刀を持つ巨人の左腕が、伸張する。
「……ッ!」
即座に屈んだいなきの頭上を、致死の暴風が通り過ぎていく。
(畜生……実際、常識外れだぞコイツ!)
石斛斎の忠告が身に染みる。他にどんなカードを隠しているか、知れた物ではない。
(気を張れ……とにかく、攻撃を躱し続けろ)
活路を見出すまで――
六孫王大樹の右腕が無数の棘に覆われ、更に三本に増殖して伸び、いなきの伏せる地面に叩き付けられる。かろうじて回避したが、それら右腕は間髪容れず攻撃を仕掛けてくる。先端を付き合わせて回転を始める――回転錐(ドリル)のような形態を取って、突き出された。
必死で横飛びした脇を回転錐は突き抜けて、その先に生える大木の幹を木っ端微塵に削り取って倒壊させた。
(活路を見出す……それまで保つのかよ!)
怖気を催しつつ、うめく。
これまでの憑人とは引き出しのケタが違う。鵺の繰り出す攻撃が予測出来ない。
「小僧! 一つ教えてやろう!」
森の奥で、石斛斎は姿を見せずに声を上げた。
「大樹はそろそろ本腰を入れてかかってくるだろう……六孫王は、障気で間合いを狂わす能力を持っている!」
「……?」
端的に過ぎる助言に怪訝を覚えていると、六孫王大樹は再び攻撃を開始してくる。足を変異、増殖させると乱立する樹木に飛び移り、幹を蹴って移動する。
上空から太刀を握った触手が振り下ろされるのを、かろうじて目視し、回避を――
十歩ぶん、飛び退いたはずだった。
それが三歩程度しか、距離が伸びなかった。
「……っ!?」
恐慌を来しながらも、一瞬の間に可能な限りの策を打つ。身を竦めた上で身体を操作、軽功を発揮する。
六孫王大樹の斬撃で砕け、爆発する地面の勢いに乗って自ら吹き飛ばされる事で、ダメージを緩和する。
紙細工のように軽々と弾き出され、地面を転がりながらもどうにか立ち上がる。砕けた岩石を総身に受け、各所に裂傷の痛みを感じているが、それにかまける暇など無かった。
「空間を……歪ませたのか!」
御門八葉・膝丸と似たような能力だが、ケタが違う。彼が自身にのみ業を適用させていたのを、六孫王大樹は周囲の空間にまで広げている。
間合いは戦闘における最重要のファクターの一つだ。これを自在に操るという能力の価値は計り知れない。
間髪容れず、追撃が飛んでくる。今では六孫王大樹の腕は十を超えていた。それらが上空の木々から雨のように降り注いでくる。
空間歪曲に対応する為、大幅なマージンを取って回避を続けていくも、それは動作に無駄を作る。攻撃が重なる度に姿勢が崩れ、回避のタイミングはシビアになっていく。
「いなき君!」
次に森の奥から聞こえてきたのは、あやめの声だった。
「逃げなさい! あなたじゃ勝ち目が無い、いつきちゃんを……」
言葉が、唐突に途切れた。その事が示す意味を考え、背筋に恐怖が駆ける。
「石斛斎! お前、あやめに何を……」
「口を塞いだだけだ。……逃走は許さぬ。このまま奴と戦い続けろ」
首輪を付けた野犬を扱うような強制力を持つ声音で、石斛斎は告げてくる。なんたる失態だ。この男の正体をもっと早く暴いておくべきだった――!
頭上に意識を振り向ける。樹木を経由して四方八方に移動し、太刀の間合いの遥か遠くから襲撃してくる敵。
(……まずこの状況を覆さなけりゃ、話にならない)
その為に必要な戦術は思いついている。しかし、
(俺に出来るか……?)
要求される技術の精密性は、本来いなきの手に余るものだ。賽の目を十度繰り返し思い通りにするのに等しい博打だ。
(だが、出来なければ死ぬ……)
石斛斎に掌握されているあやめの命も、どうなるか分からない。奴の目的が判明していないのだから。
いなきは呼吸を整え、決意を固めた。
十数合は回避に徹した。それだけでも神経を削る作業だ。雨のように降り注いでくる鵺の触手。しかも回避行動を常に空間湾曲によって狂わされる。直撃こそ受けないものの、攻撃の余波で体中に裂傷が刻まれる。
やがて限界が身近に感じられるようになってくる。失血が進み、体力が寸刻みで削られていく。賭を打つ為の余力が無くなろうとしていた。
まだ、まだだ。準備が終わっていない。まだ――
(……今!)
いなきはその好機に、一際巨大な木の幹に背を預けた。背後からの攻撃を六孫王大樹の選択肢より除外する為だ。
正面を見据え、備える――
飛来する鵺の触手は、五本。
いなきの目が視認しようとしているのは、それでは無い。
鵺の移動で吹き散らされ、宙を舞う木の葉。
風にのってゆるゆると落下するそれらが、触手の周囲で歪む。
それは、気流とは異なる流れを観測させた。
いなきは眼球の毛細血管が破れる程にそれらを注視し、六孫王大樹の空間湾曲を読み切った。
ただ、一歩。それだけの回避行動。
予感していた被弾は無く、紙一重で鵺の触手はいなきの身体を捉えず空を切る。
最小限の回避は、いなきに初めて、六孫王大樹への全力の反撃を許した。
陽刀、陰刀。斬り下ろしと斬り上げの二重斬撃が鵺の触手の一本を、その身体から切り離す。
『みぎゅいいいいいイイイイイイEeEイイイEイイ――っ!!』
甲高い、声帯すらも人外のそれへと変異した怪物の悲鳴が上がる。
(……成功!)
心中で歓声を上げながら、いなきはその場から離脱する。綱渡りにも程がある手段だが、今の攻撃でコツは掴んだ。同じ事を繰り返すのは、不可能ではない。
(このまま何度か削れるか……? いや、)
――いなきの予感した通りに、頭上からの一方的な強襲を諦めた六孫王大樹は地面に降り立った。
(それでも一歩、進みはしたか……)
安堵とはかけ離れた心境で、いなきは呟く。六孫王大樹が陸上に位置取りした事でこちらの攻撃の届く可能性は生まれたが、逆に相手の攻撃精度も向上するはずだ。序盤の地上戦とその後の木の幹からの攻撃では、前者がより多彩であった。後者が移動に意識を割いていたからだろう。
それをかいくぐり、己の間合いに入らねばならない。先程よりも増して確率の低い博打に身を投じる事を思い、背筋が震える。
――そう、いなきは想定した。
しかし、六孫王大樹は。
『……』
十本程に増えた触手で長大な太刀の刃を直に掴み、天高く掲げ、腰を落とした。
「……ッ!」
いなきは、六孫王大樹の次の攻撃手段を悟った。それは奇しくも、というより運命的な合致をしていたからだ。
娘と、同一起源の術理。
(示現流……蜻蛉)
六孫王大樹の取った構えは、そう呼ばれるものだ。現実史のある時代、ある南方の国で考案されたあまりに単純にして野蛮――そして、至極合理的な技術。
八相に似た、頭の横で柄を握り、太刀を垂直に掲げた構えから、猿叫と呼ばれる奇声を発して突撃し全力で斬り伏せる〝掛り〟という攻撃を流派の基礎にして奥義とする。
古代の蛮族そのものの振る舞いとして忌避された業は、その価値を近代、幕末の時代に示した。戦乱が銃砲火器の投入が必要な程に深まるより以前、京都という古都の都市戦において、それを扱う凶手の要人暗殺が多数の成功を収めた事実をもって。
その後彼らを要する薩摩藩が倒幕に成功、国家の支配者に成り代わった点を考えれば――勝利者の剣と呼ぶべきものだ。
(決着(ケリ)を付ける気か……)
史的価値を考慮せずとも、必殺の技術である。その基本思想はたった二つの言葉で語り尽くせるものだ。
敵を崩し、我を通す。
猿叫と突撃によって敵を恐れさせ、正確な判断を封じ、かつ自分は恐れの裏返し、即ち狂気に乗る形で己の限界を引き出す。戦慣れした人間ならではの、恐怖の価値を知り尽くした刀法だ。
相手は身の丈三メートルの巨人で、魔王と恐れられる存在である。その惹起する恐れは尋常なものではない。
(……そして、)
それだけではない、といなきは確信している。六孫王の障気が高ぶり熱に変化して、周囲に陽炎を生んでいる。これから使う技は、間違い無くこの魔王の奥義だ。
妖魅と長年渡り合ってきた憑人の王の秘太刀が、その程度のタネしか持たない訳が無い。
心理的な作用のみならぬ、物理的な裏付けがあるはずだ。それはおそらく、
(……縮地)
六孫王大樹の特性である空間湾曲を考慮して、技術の本質を予測し適切な名称を引き出した。
名前の通り、地を縮めたが如き速度の疾走、という武術的な誇張表現。
しかしこの鵺に限っては、誇張でなく実際に地面を縮める事が出来る。空間を歪めながら移動し、物理的な制約を遥かに超えた速度を引き出せる。
それがおそらく、鵺・六孫王大樹の奥義。
一方的な勝利を得る事が出来ぬと見るや、全力で仕留めにかかる。果断であった。
こちらも、決断をしなければならない。
(……巫術)
常識外の速度の突撃を見切り、反撃するには知覚を増幅するしかない。
――次の巫術の使用で、廃人になる。
あやめの忠告が背筋を震わせる。しかし、それ無しでこの敵には対抗出来ない。
いなきは内心の底の部分で、はっきりと、確かに、己の生還を諦めた。
「……来い」
柄に手を掛け、致死の瞬間を待つ――
いなきの予測は、正鵠(せいこく)を得ていた。
歴代六孫王の奥義「鬼一口(おにひとくち)」は示現流の掛りを原型とした秘術。突撃を空間湾曲の作用で加速する縮地法である。ある代の六孫王が現実史の武術に手を染め、それに改変を加えたものだった。
だが、しかし。
六孫王はこの世界における機械知性、その進化の最先端に位置する存在である。
未那元大樹。
歴史は、彼によって塗り潰されていた。彼固有の才覚でなく、一つの一族の千年に及ぶ思いの累積によって。
その思いとは、希望か、絶望か、愛情か、怨念か。
否――既に定義する事すら叶わない混沌なのだろう。
そして六孫王大樹は、己の身に秘める混沌を世界に表出する――
鵺の全身に口が生まれた。
いなきが正体不明の怖気に反応するよりも先に、
口が、一斉に。
『きょ
脳髄にイメージが叩き込まれる【ざざ】。
誕生直前に煮殺【呪】された死胎蛋(バロット)。四肢をもがれ【呪呪】た赤子。巣の中の幼虫を喰らって主に成り代わるジ【呪呪%呪’】ガバチ。脳髄を寄生虫に操られ鳥に食われる【呪呪呪****呪呪呪呪**呪】蝸牛。蟷螂の孵化。百立方メートルの筺の中に人間が七千三百十九人【呪呪ノロ呪呪呪呪呪呪呪呪%$%$呪呪】、小さく圧縮されて詰め込まれた【のろい】。同じ筺が三百一万二千三百十一個。死体はいくつ?【呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪】実は誰も死んでません【呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪】ぎしぎしぐしゃぐしゃ痛い痛い【呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪】マダラハサミウサギとチョコレートオオワシが交尾しました【呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪】人間が生まれました。【呪呪】。【呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪】???【呪呪呪呪呪呪呪】??????????????????????????【呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪】人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに? 人間ってなぁに?
死ね。
(がっ、ぎ、ぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ――ッッッ!!)
ざざ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ざ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――呪い(ノイズ)が全身を駆け巡る。
いなきは既に、受けた攻撃を理解する為の理性を砕かれていた。
「ごぼっ」
全身の穴から血液を吐き出して、そのまま卒倒する。
/
「……ッ!」
大樹の「百鬼冶業(ひゃっきやぎょう)」をまともに喰らった忌役の小僧が倒れるのを見て、押さえつけた娘の身体が小さく跳ねた。
石斛斎と名乗っていた男は、彼女から手を離す。彼女が自分の手に噛みついてでも脱出しようとしているのに気付いたからだ。残った右腕は大事にしなければならない。彼の左腕を切断した男が目の前にいるのだから、よりその戒めは強く感じられた。
少年の元に駆け寄ろうとしている娘に、親切心に近い心境で声をかける。
「無駄だぞ、娘」
確定された未来を、彼は予告した。
「小僧は死ぬ。……あの猿叫は本来攻撃の前段階に過ぎぬが、大樹の代で特大の呪詛にまで昇華している。蠱業遣いであろうと全身を病魔に冒される」
というより、蠱業遣いだからこそ即死せずにいられるのだ。
とは言え、恩恵はそれきりだ。あの少年は呪詛の作用で多臓器不全(MOF)に陥っているはずだ。生命維持に必要な器官が機能していない以上、半刻ももたないだろう。
この娘が死者を前に泣き喚きたいのであれば、それを止めるつもりは彼には無いが――
娘は、そのような感傷を抱いていないようだった。こちらを強く睨み付け、告げる。
「彼を助けて」
「そんな義理は無い」
あの小僧の働きで、大樹は瀕死の状態に重ねて消耗の烈しい業(わざ)を用いたのだから、助けにはなったが。
――大樹は少年に止めを刺す事はしなかった。というより、出来なかった。
『うう……ぉ、ぁあ』
鵺はか細くうめいて、太刀を地面に突き立てその場に膝をついている。呪詛の放出によって、残り少ない生命が更に削られたのだ。
彼の見立てでは、あと半日もしない内に大樹は死ぬ。
狙い通り、というよりそれ以上の働きをあの少年はしてくれたが、だからと言って彼が下賤の子供に手を貸す事は無い。
「何より、意味が無い。……貴様は俺の話を聞いていなかったのか? 奴はもう助からない」
「助かる」
強く告げる娘。しかし、直後その顔を翳らせる。
「……いえ、正直に言えば博打よ。でも五分の見込みくらいはあるわ」
ならば希望的観測を差し引いて、三割という所か。その程度の確率でも彼には信じがたかった。あの致命の呪言を聞いて生き残った人間を、未だに彼は知らない。救う術があるなどと、世迷言にしか聞こえない。
「その為には、彼を安全な所に運びたいの。手を貸して」
「義理は無いと言っている」
貴重な右腕をそのような些末事に使えはしない。
「別に、あの子に本気で憎まれたい訳じゃないでしょう?」
「……ち」
やはり、恐ろしく勘の良い女だ。彼の急所に気付いている。
「……この場で決着を付ければ、その煩悶(はんもん)に意味は無い」
瀕死の大樹が目の前にいるのだ。今なら自分でも殺せる。十七年前に始まった全ての禍根を始末できる。
「そうはならないわ」
不可思議な程確信的に、その娘は言った。彼がそれを問い糾そうとした、瞬間。
大気が、鳴動した。
『守護対象ノばいたる低下ヲ確認』
忘れられるはずのない無機質な声に、ぎぃ、と彼は歯噛みした。その間にも声は語り続ける。
『起動ふらぐON。休眠もーどOFF……起動過程(ぶーとしーくえんす)実行開始……ぷらいまりぶーとろーだRUN……くりあ……せかんだりぶーとろーだRUN……くりあ』
「やはり、アレが立ちはだかるか……」
憑人の歴史の中でも最大の異端、あの最強の魔人が。
『おぺれーてぃんぐしすてむ起動……王権防衛しすてむ〝八龍〟、戦闘行動ニ移行シマス』
結びの言葉を告げた瞬間、彼の後方の森が爆ぜた。
現れたのは巨大な鎧姿の武者像。
御門八葉最後の魔人、奥州未那元家当主、八龍。
――身体を構成する鉱物を操作し、自身を機械化させた憑人だ。
『脅威査定処理開始……最優先抹殺対象ヲ確認シマシタ』
と、武者像の兜の奥の眼光が、こちらをにらみ据える。
鎧の四肢の部分が開閉し、内側から刃を突出させる。
全身凶器と言うべき姿に変化した八龍を前に、彼は舌打ちした。この男と大樹を同時に相手にする力は無い。
「……お願い」
一人で逃走をしようとした所を、隣の娘は刺すように言葉を挟んでくる。本当に勘が働く。
――いや。
(……何者だ?)
この娘は、八龍の妨害を予見していた。それが勘などという月並みなものだろうか。
それだけではない。彼女が仮痴不癲と交渉し、自分の同行を認めさせた時の事を、彼は自分の能力で盗聴している。
――捨て駒にならなそうなのって、彼だけだったし。
捨て駒にも使えない無能、という文脈であの小僧は読み取ったようだが、この場に至っては、違った意味に感じられてくる。
(どこまで知っている……いや、読んでいるのだ?)
武術的な素養の無い事は確認している。ただの、無力な小娘。それが何故。
今考えるべき事では無い。八龍の攻撃が始まる前に、足の遅い娘を背負って彼は走り出した。右手であの小僧を抱え込めば二人分。こんなどうでも良い連中を救う為に、この己が走らねばならないとは。
(大樹……俺は戻ってきた)
広間から脱出する前に、うずくまる魔王に向けて宣告する。
(お前を、殺す為に)