蟻が、山に登るようなものだった。
誰かがそう言っていたし、彼女自身もそうだと理解していた。
彼女が紫垣城に収容されて、既に三年弱。右目と右足はもう戻らないにせよ、傷は治癒し、リハビリを終えた彼女は武術の鍛錬を開始した。
木剣を頭上のやや右寄りに突き出すように構える。
左腕は動かさず、右腕を投げ出すようにして打つ。
目標に命中する直前に握りを絞って衝撃を逃さずに伝える。
それだけ。
その、一つだけを繰り返した。
兄が教えたのはそれだけだったから。
彼自身にも、ただの少女が魔王に、右目と右足まで失った上で勝利する手段を見出せなかったから。
稽古相手の丸太を打ち続ける彼女を、人々は嘲笑した。およそ良心的な人間であっても同情した。あるいは怒り、侮蔑した。それらは兄にも向けられた。
――諦めさせろ。
――不可能だという事が分からないのか。
――貴様の愚劣さを人に押しつけて、恥と思わぬのか。
兄はそれらに言い返さなかった。当時既に、彼は周囲から孤立した狂犬として扱われていたが、そうした罵倒にだけは牙を剥かなかった。
それが正しい批判であると思っていたからだろう。
兄を詰る事で己の正義感を満足させていた連中の中で、一人言葉だけでなく行動を示したものがいた。
『君に現実を教えてあげよう。それが君の為だから』
ある男がそう言って、彼女を〝指導〟した。道場での練習試合という形で、彼は彼女を幾度となく打ちのめし、床に這いつくばらせる。
『私にすら勝てないのに、あの魔王に勝つなど夢の又夢。蟻が山に登れば、途中で風雨か餓えで死ぬか、運が良くとも寿命で力尽きる。徒労だよ。君の容姿ならば真っ当な幸福を掴む手段なんていくらでもあるじゃないか』
この男はどこかで、いつも面を被っている彼女の素顔を覗き見たようだ。彼女は少女らしい感性で、男が何を望んでいるか気付いた。紫垣城に収容された時点でも持ち上がっていた話だ。自分を養子として引き取って、いずれは息子、あるいは自分の慰み者とする事を望む貴族は数多くいたらしい。
姉が、父親に頭を下げて彼女の身柄を彼の預かりにしてくれた事で、そうした結末にはならなかったが。
自分が美しい貌を持つ事を彼女は自覚していた。それは血筋に纏わり付く業のようなものだった。
彼女はそれを嫌悪していた。ただ、嘆き悲しむだけであるつもりも無かったが。
『わたしが欲しいなら、そのような気持ち悪い偽善者面をしないで、力で組み敷けばいい』
地面に這いつくばりながら、彼女は男に告げた。
父を殺すと決めた時点で、力が最大の価値であるこの世界の法則を彼女は受け入れている。弱いのならば、強者の思い通りになるしかない。
『けれど』
彼女は既にひるみを覚えていた男に、宣告する。
『それをしている時ならば、わたしにだってお前を殺せる』
――結局その場は男が退散した。
彼女はその事を、兄には伝えなかった。
この直後の事である。
彼女が、初めて人を殺したのは。
相手はこのような小者ではなかった。
六孫王府のある要人が、敵の根城に逃げ込んだ未那元宗家の息女という存在を忌避したのだ。彼女が深川に不利益をもたらす情報を持っている訳では無かったが、何か政治的な取引に使われるかも知れないと。
憑人の暗殺者が九重府の本拠地に派遣される可能性は、早い段階で察知されたが――貴族たちはそれを黙認した。内に抱えた敵の姫など、彼らにとっては厄介者でしか無かった。
だから――兄は数ヶ月、紫垣城外部への派遣が命じられた。
拒否すれば、彼は忌役を放逐される。彼の目的が果たせない。
苦悩する彼に、彼女は一つの事を願った。
自分を守って欲しい、などというものではなく。
自分が魔王に抗しうる程に強くなる、唯一の道。
それを彼女は、知っていたのだ。
/
『じぇねれーたー出力低下……さすぺんどもーどニ移行シマス……』
鎧武者が全身から蒸気を発して放熱し、活動を停止するのを確認して彼はようやく警戒を解いた。
彼と八龍の戦闘の舞台となったのは、太歳宮で最も道幅が広く装飾が華美(「かつて」、「だった」、と捕捉すべきだが)な一直線の長い通路で、その為伊賦夜殿廊(いぶやでんろう)などと勿体ぶった名も付けられていたが、今では面影めいたものすら破壊され尽くしていた。
外壁、地面のそこかしこに大穴が穿たれ、天井は砕かれて骨組が露出している。惨状としか言い様の無い有り様。
もっとも、遥か以前からここは手入れする事も無駄とされて廃墟同然ではあったのだが。
(どうにか……消耗を抑えられたか)
胸中で彼は安堵する。奥の手をここで使ってしまっては、大樹と戦えない。
ただ、奥の手を使い渋ったのは八龍も同じだ。あの伝説の魔技を持ち出されては、力の節約どころか、この場で廃墟に似合いの骸に成り果てていた可能性もあり得る。
この戦闘機械が自分との戦いに本気を出さず、今は力の回復に努めている理由を彼は考える。
(貴様も……あの娘の接近を感じ取ったか)
今この太歳宮において、彼よりも大樹にとっての脅威である少女に。
(たった五年で、ここまで……)
寒気すら覚えるが、一方で納得もしていた。
自分は運命に背を向け、逃げた男でしか無い。立ち向かう事を選んだあの二人の娘と差があるのは当然なのだろう。
あの娘なら、どんな手段を使っても大樹の前に立つ。それはあの五年前、右の目と足を食われた直後の彼女を見た瞬間から予感していた事だったではないか。
(……だが、させる訳には行かぬ)
彼はよろめく身体を奮い立たせ、歩み始める。己も体力を消耗した。どこかで身体を休めねばならない。忌役の小僧はあの奇妙な娘に担がれて通路の奥へと逃げていった。これ以上の義理を果たす理由は無い。
斎姫と接触する気も無かった。仮面が剥がれ落ちた、今となっては。
/
彼女が仮面を付ける事を、兄は人見知りから、あるいは自分の容姿が招くトラブルを予防する為と解釈していたが。
彼女は物心ついた頃から、仮面で視界を制限していた。彼女にとってそれが自然だったから、という理由が大きかったのだ。
あの、地下の斎宮で仮面の着用を強いられていたのは、他の人間が訪問する時に彼らの為の光源が必要だったからだ。彼女自身は、光から遠ざけられていなくてはならなかった(姉はそれを、意識変容(アルタード・ステイツ)を常態化する為の措置と推察していた)。
斎宮に人が訪れるのは、彼女に〝舞〟を指導する為だ。未那元宗家に相伝される、太刀を用いた神楽舞。その修得もまた、斎姫としての祭礼の一部だった。
言葉を用いる事が出来ぬ為に、指導は犬の躾よりも苛烈な体罰を伴った。
視界を封じられたまま、肌を鞭で打たれ、痣(あざ)を各所に作りながら半日近く踊り続ける。
生まれた時からそれを日常としていた彼女は、苦痛とも思わなかった。というより、苦痛の概念を理解していなかった。
今思い返せば、それがどれ程過酷であったかも知れる。
ただ、後に知った事は、それだけではない。
あの〝舞〟は、常人には到底実行不可能な運動で構成されていた。
彼女はそれを、八歳の時点で完全に習得していたのに。
/
そして、家族は再会する。
「いつきちゃん……」
伊賦夜殿廊と呼ばれる通路。その向こうから歩いてくる妹の名を、姉は呼んだ。彼女の肩には瀕死の兄が担がれており、姉の弱い身体では支えきれず、時折よろめく。それでも彼を手放す事はしなかった。
義足の妹は杖をつきながら、ゆっくりと、しかし確実な歩みで通路を進んで行く。
――そして、姉と傷ついた兄を通り過ぎていった。
「……」
姉は、抗議を一つも漏らさなかった。この先に妹の父親がいる。血縁で結びついた、殺すべき相手が。彼女は彼を斬殺する為に生きてきたのだ。人生の全てを、捧げてきたのだ。
止められるはずが無い。
止まるはずが無い、と妹自身も思っている。
三者の座標が交叉し、離れて行こうとした――しかし。
『最優先抹殺対象、きるぞーんニ侵入。さすぺんどもーど解除』
妹の知覚は、数百メートルは先の巨大な鎧武者が発した音声を聞き取っていた。
『最大攻撃〝艘崩(ふねくずし)〟ヲ発動シマス。一時的ニ人格ヲ復旧、自己暗示こまんどヲ解凍シマス……』
鎧武者の言葉は妹には理解出来なかったが、その意図する攻撃は理解出来た。鎧武者の内部で動作する機構が、それを示している。
弓による、射撃。
――八龍、あるいは未那元為朝。
仮想世界史における数々の怪物的な逸話を持つこの男の、最も有名な伝説は割腹自殺を図る直前に行ったものだろう。
氏族の政争に端を発した闘争に敗れ、手の腱を切られて遠島に流された彼は、当然の如く回復し再び蜂起した。しかしそれは即座に朝廷の知る所となる。
討伐軍が編制され、彼の元へ殺到した。
島の海岸から、海上を埋め尽くすが如く立ち並ぶ軍船を見て、彼は――一矢で報いた。
ただ、一矢。
それが一つの船を打ち砕き、船員ごと海の藻屑と変えた。
伝説の魔技・艘崩。その正体は――
『帝釈天ノ加護ヲ以テ仏敵ニ一矢献上ス……』
奥義を行使する為に、一時的に精神を人間であった頃の状態に引き戻した八龍。機械的な音声でなく、生物的な声音で言葉を語り、形態を変異させていく。下半身が無数の根と化して地面に突き刺さり身体を固定、左腕が二丈まで伸張、そして二叉に開閉する。
根から地電流を吸い上げ、体内で精製される琥珀、電気石(トルマリン)により魔術的な増幅を施される。膨大な電力供給の余波のアーク放電が発生し、大気中に伝播(でんぱ)する。
二叉に分かれた砲身が、通電する。
――未那元宗家の魔術的な属性は木気、つまり雷を象徴とする。
その特性に最も忠実なのが、御門八葉、八龍の奥義。
電磁気力により発射される一矢。
電磁投射飛箭(レールガン)・艘崩。
『中ラザルハ死』
『貫カザルハ死』
『久シカラズハ死』
致死の宣告を並べる八龍。
妹は、己が取るべき行動を知っている。
このまま逃走するのだ。あの攻撃は巨大な目標を狙うには適切だろうが、人間一人を倒すには過剰で、無駄が多すぎる。義足の自分でも十分に回避出来る。
そして、兄と姉は避けられずに死ぬだろう。
断じてそうすべきだ。彼女の目的は、この先にいる血の繋がった父親、同じく血縁で結びついた母親を殺した男を殺す事。血の繋がらない家族ごっこの兄姉を守護する事では決して無い。
彼女はその為に生きてきた。
人生を、捧げてきた。
自分だけでなく、この兄も生贄とした。彼女はそういう人間なのだ。今更彼らを使い潰す事に、何の躊躇いがあろうか。
『射殺サザルハ死……之、弓箭ノ道也』
呪言が完成する。鎧武者の内奥の力が最高潮に達する。
致命的な瞬間の中で、妹は、失神した兄の言葉を聞いた。
「いつき……」
自分を強化する為にまず捨てた、人としての名前。
斎姫、〝き〟などという役割でない、家族だけが呼ぶ自分の名前。三十六人衆、歌仙、御門八葉、六孫王。彼らのようなこの町の奥深くに蠢く怪物になる為に、彼らと同じく捨てなければならなかったもの。
それを、兄は呼んだ。
「俺が、なんとかしてやる……から……だから」
瀕死の最中での、か細い言葉。彼女はそれを聞き取った。
――もう、泣くな。
「……っ」
妹は、即座に動いた。
身体の支えとしていた鉄杖の両端を掴み、開くように引き摺り出す。
白く輝く大太刀の刀身を。
柄を両手で握り、彼女は天空に向けて突き出した。兄が、奇しくも、運命的と評価した父親と同一起源の構え。――野太刀自顕流、右蜻蛉。
彼女の秘術の、起点となる姿勢である。
六孫王大樹の百鬼冶業が動とすれば、彼女のそれは静。その場で腰を落とし、静止する。侵略を迎撃する防衛の術。
そして、兄の相生剣華に対しても彼女の秘術は対照的であった。
全身を運動させる抜刀術を使う事は、義足の彼女には叶わない。その為重ね合わせを長く維持する事に、意味は無かった。そもそも重ね合わせを長く、広範に維持するなどという真似は〝兄のような存在〟にしか許されない理不尽なのだ。
彼女は極めて短く、狭く異能を発現させる。
ただ、刹那。
七十五分の一秒ほどの重ね合わせ。
距離もまた、刹那(アトメートル)単位となる。天頂に掲げた太刀の座標を、極めて微細な――一アトメートル程度の距離にずらすように。
それが斬撃に相当する移動として成立する為には、同じ動作を、刹那の間に、無限に近い数繰り返す必要がある。
さながら蟻が、山頂に到達するが如く。
両目を潰して視界を捨て、完全な巫術を会得した彼女にしか実行不可能のプロセスを経て、完成された斬撃は――雷速に至る。
それが、彼女の秘術。
量子転換刀(フリップフロップ)・刹那生滅。
――八龍の雷箭(らいせん)が射出される。弾体が融解しかける程の速度。人類に知覚する事を許さない神速の一矢。
それを彼女は、斬り、弾いた。
極超音速の飛箭の持つ莫大な運動エネルギーを殺す為に、仙術により限界まで筋力を強化している。弾き飛ばされた弾体が太歳宮の破れた天井を飛び越えて海中に突入、海水を蒸発させながら空に突き抜けて弾体自身も解け崩れた。
それだけの威力を封殺した代償は、彼女に重くのしかかる。
彼女が意識下に蓄積した能力の源泉が、大きく削り取られる。
――消耗したのは鎧武者も同じだった。
〝艘崩〟の弾体は彼の身体を構成する鉱物。つまり鎧武者は、自分の身体を矢に変えて撃ち出しているのだ。
しかし、鎧武者は止まらない。地電流を取り込み充電を開始、再度身体から矢を精製し砲身に装填する。
彼女もまた止まらなかった。限られた力を躊躇い無く注ぎ込んで自身を強化、次の攻撃に備える。
無惨な消耗戦が始まった。身体を削り取って攻撃する鎧武者と、自分の心を消費して迎撃する彼女。一瞬として休む事無く、一方が決定的な手段を打つ事の無いまま攻防は繰り返される。それ故に、両者は摩耗し続けていく。
――二人の怪物の力は、互角だった。
勝敗を分ける差があるとすれば。
『お……おォ』
鎧武者は数百年の戦いを経て、とうに老いていた事か。
十七射目を迎撃した時点で、鎧武者の体勢が崩れる。それでも射線は維持していた。驚嘆すべき執念。
しかしそれは、二十一射目で完全に崩壊した。大地に突き刺さった根が生命力を失い渇いて崩れ、鎧武者は倒れ伏す。
決着――
「あぁあああああああああああ――っ!!」
余力を振り絞って、彼女は太刀を正面に向かって投げつけた。高熱の雷箭が通過した余熱で生まれた陽炎を切り裂いて、それは――鎧武者の、倒れ伏す前の位置に向けて直進していた。
鎧武者が立ち上がる事を、彼女は予見していた。鎧武者は白刃を胸に受けて、ごぼりと濁った声を漏らす。
ただ一矢、撃ち放つ余力を彼は残していた。彼女が勝利を確信し、気を抜く瞬間に攻撃を加えるつもりでいた。返し手を見越して、それを封ずる一手を彼女は放ったのだ。
最強の魔人である自身を完全に敗北せしめた士(さむらい)を見据え、彼は生前の心のまま告げた。
『……美事、なり』
そして、中身が完全に空洞化したただの鎧と成り果てて、その場に崩れ、絶命する。
彼女は刀の鞘でどうにか自身を支え、立っている。
鎧武者を打倒した代償は、彼女が目的の為に蓄積していた能力の全てであった。仙術は使えず、鉛のように身体が重い。
姉は既に、兄を連れて立ち去っている。彼女は自身の為すべき事を間違えない。だから、兄も助かるのだろう。手遅れであったならとうに墓穴を掘っている。姉はそういう女だ。
とりあえずは心配の必要が無い事を確かめて、彼女はその場に倒れ伏した。