自分が誕生を望まれていなかった事は早い内に知らされていた。
――あやめ、か。……待雪は余程あの男を恨んでいたようだ。
祖父と初めて対面したのは四歳の頃だったか。彼の自分を見る目は、好意とはかけ離れていた。悔恨、憎悪、忌避。そんなものに満ちていた。
――お前さえ生まれて来なければ。
祖父は孫娘にそう言ったのだった。
それからずっと、彼女は考え続けていた。自分の名の持つ意味。それの示す事柄について。
考察する暇はいくらでもあった。彼女はあの城の外に出る事を許されなかったから。父はほとんど家におらず、背景のような女中が数人彼女の世話をする以外人との接触も無い。それらも、家事を一人でこなせるようになってからは追い出した。
城の抱える広大な書庫に入り浸った。この世界の内、そして外側について記述された書物を読み続ける事で彼女は時を過ごした。
仮説、考証、反証、正解、誤解、誤謬、止揚、再考、迂回……
七歳の時点で既に、書庫の蔵書は読み尽くしていた。得た知識を並べ、組み上げ、考察を続けるも、答えは出ない。
答えを出さなければ、どう生きていかねばならないか分からないのに。
あと一、二年も考察を続けて芽が出ないのであれば、望みは無いだろう。手頃な自殺の手段を考えるようになった頃、
――あなた、泣いているの?
――うるせぇ。泣いてなんかない。
彼と出会った。
/
いなきが六孫王大樹の放った致死の凶風を躱す為に飛び上がろうとした瞬間、身体の下で「きゃっ」と軽く悲鳴が上がった。
裸の蠱部あやめが、仰向けになってこちらを向いている。いなき自身も何も着ていない。
手狭な小部屋の床に敷かれた、白い敷布の上に二人はいた。
「………………………………………………どういう状況だ、これは」
寝惚けていた事を自覚し、いなきは眉間を摘んで顔をしかめた。
あやめは無表情のまま、右手を握り込み、人差し指と薬指の間から親指を突き出して言った。
「あらだーりん、さっきまで獣のようにわたしを求めてきたのを忘れてしまったというの。なかなかの鬼畜ぶりね」
「ななな……」
なんだとぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!
いなきは力の限り絶叫した。
(え、なぜ? なんで? いつの間に? どうしてこうなった?)
混乱の極みにある中、あやめが言葉を差し込んでくる。
「いやはや、わたしの××を○○して△△する手並みはとても鮮やかなものだったわ」
「……がっ」
「いえほんと、女の扱いについては、さすが非童貞と言うべきものだったわね」
「……あわわわ」
「いいえ。あの白馬の王子様を夢見る処女の幻想を完膚無きに打ち砕くかのような、暴君的振る舞い。さしづめ非道帝とでも呼ぶべきかしら」
「す、すみませぇん……」
「あらあら、このあなたの性奴めに何を謝罪する必要があるというのご主人様」
「既に倒錯的な関係が構築されているー!?」
「ふふふのふ。さてさて、既に話も佳境に入り、他の人間が真顔でシリアスしてるのを全力でうっちゃって、義理の妹だけでは飽きたらず、九歳からの付き合いがある幼馴染を取って食って玩具にして淫欲を教え込んで性的な奴隷に貶めるという仏国書院クラスの外道を働いた感想を迅速に知りたいわねご主人様。ねぇどんな気持ち? ねぇどんな気持ち?」
「即刻死にてぇー!」
なぜか腹筋を撫でさすりながら顔を上気させて言ってくるあやめに、顔面を両手で覆って自己嫌悪にまみれながらいなきは返す。
「ま、死なれては困るわね。ここまでして助けたのだから」
と、あやめは急に冷めて言った。
「あなた、死にかけてたのよ。役者さん……元役者さん曰く、六孫王の特大の呪詛とかいうので」
「……」
いなきは失神する直前の事を思い返す。鵺の絶叫と共に、全身に毒素が駆け巡ったかのような悪寒を感じた。呪い、という表現は確かに図に当たっている。
しかし、現在身体の失調は瀕死という程では無かった。感覚は鈍重で、だと言うのに節々の痛みは鮮烈に押し寄せてくるが。
「どうして俺は助かった? お前、何をしたんだ?」
「呪詛によるダメージは、精神に与えられるの」
口をついて出た疑問に、あやめは応じる。
「障気は全ての存在の無意識に作用する……あなたが叩き込まれた呪いは、無意識を歪めて上層の肉体を変調させるもの……なら、救う方法は」
そこであやめは大きく、息を吐く。
「無意識は、共有されている。世界の全ては繋がっている……なら、ネットワークを構築して、データのやり取りをする事も可能よ。あなたの受けた、病魔を」
あやめは、寝転がったまま首を上げる事すらしない。今更ながらいなきは気付いた。彼女の顔色が、紙のように白くなっている。
「わたしが、いくらか引き受けた……性交がネットワークを構築する手段としては最適だったのよ。房中術、立川流……まぁ、いささか古風なやり方だけれど、男女間で精神を共有する手段としてこれ以上のものは無いもの」
「……っ」
あやめの語る言葉を理解して、いなきは怯んだ。
それを誤魔化すように憤激し、怒鳴りつける。
「なぜっ……! なぜ俺を助ける為に、そんな事をするんだ! 俺は、」
「人殺しだから?」
言葉を先取りして封じるように、あやめは告げてくる。
「そうだ……! お前のような人間が、俺を助けるなんて……」
恐怖を振り払うように、いなきは言う。自分を助ける為に、この女が犠牲になるなど許されてはいけない。自分と彼女を、引き替えてはいけない。
価値が釣り合わない。
「なんだか、あなたには気恥ずかしい程に高く買われていたのね」
あやめは見透かしたように――いや、既知の事柄を述べるように言った。
「呪いを共有する時に、ほんの少しあなたの記憶が見えたわ。武州での事……あなたを保護していた女性の事……仇討ちの理由……そしてあなたが、自分を許せない事」
「……そうだ。俺は人殺しで、そして、これからも殺し続ける」
死なない限りは決してそれを止められない。それは、自分の負債だから。
だから。
「あなたは無自覚に、死のうとしている。……いえ、自覚はしているはずよ。あなたは進んで、死地に飛び込もうとしている」
「……っ」
「下らないとか、逃げなんて言わないわ……それほどあなたは傷ついている」
「やめろ……」
それは、単なる自慰でしか無い。そんなものに逃げ込む資格など、自分には無いのだ。
「でも、わたしはあなたに死んで欲しくない」
「なんでだよ……」
顔を歪め、悲嘆するいなきの頭を白い指が抱えた。弱った力で自分の顔まで引き寄せて、口付けする。
「言葉にするのは恥ずかしいから、これで理解しなさい」
あやめは、薄く微笑む。
「なんで……俺に、そんな価値は、」
「あるのよ。わたしには……」
疲労か、あるいは病魔の影響で呼吸を荒くしつつ、あやめは言った。
「人を殺す事の意味を、あなたはわたしに教えてくれた」
「……?」
「あなたの幻想を、崩すようで怖い……わたしを、嫌わないで。お願いだから」
懇願するように言う。それはこの女が述べた、初めての弱音では無かったか。
あやめは、一言告げる。
「わたしは、人を殺めている」
わたしの祖父は、九衛基実と言うの。……そうね、いわゆる大貴族よ。あなた前に、お父さんの蔭位(おんい)で位階を貰う事を不自然に思っていたけれど、つまりこういう事。わたしの叙位は、祖父への配慮なのよ。
でも、あの人が大貴族でない時代……失脚した時があったの。
彼は、失点を取り戻す為に身を切る必要があった。
当時、どこからともなく現れた怪物……蠱部尚武を自分の子飼いにする為に、娘を彼に差し出した。
不本意だったでしょうね。あの人は、娘を愛していたようだから。それでも、当時の彼には彼女しか手持ちの財産と呼ぶべきものが無かった。
復権して、質に入れた彼女を買い戻す事が出来るようになった時には、もう遅かったわ。
彼女……九衛待雪は蠱部尚武の子を身ごもっていた。けれど彼女は、身体が弱かった。出産に耐えられる体力が無かった。
堕胎しなかったのは……なぜかしらね。彼女はクリスチャンだったらしいから、そのせいかしら。
お父さんと近衛待雪の間に愛情は無かった、とあの人は言っていたわね。終始自分は憎まれていたと。
それでも彼女は出産を断行して、産褥(さんじよく)で死んだわ。
子供の名前は、彼女が考えたものよ。自分を殺して生まれてくる子供に、彼女はこう名付けた。
殺め、と。
「菖蒲(しょうぶ)に菖蒲(あやめ)、なんて駄洒落だと思っていたでしょう?」
冗談めかして言う彼女に、いなきは強い口調で言った。
「それは……お前のせいじゃないだろう! お前は人を殺してなんて」
「いいえ。……あなたなら、分かるはずよ」
欺瞞は許されない、と含みを込めてあやめは告げる。
「わたしの誕生と引替えに、近衛待雪……お母さんは死んだの。それは正しく、わたしによる殺人」
あなたなら分かる、と彼女は言った。殺人者の自分ならばと。
いなきは、自分が彼女の立場だったならばどう思うか仮定し――彼女の言の正しさを認めるしか無かった。
責任の所在は確かに、彼女の周囲にあるのかも知れない。九衛基実が失脚しなければ、蠱部尚武が九衛待雪を受け取らなければ、九衛待雪があやめを身籠もらなければ――九衛待雪は死ぬ事は無かっただろう。
しかし、行為者は。
殺人を実行した人間は、誤魔化しようもない。
蠱部あやめは、生まれ出る為に母親を殺したのだ。
「運命、なんて理屈は生者を慰める欺瞞に過ぎないわ。自覚の無い、無垢な赤子である事も関係無い。わたしの殺人という事実は厳然として存在する」
そして、と彼女は言葉を続ける。
「殺人という現象が周囲に与える影響を、わたしは知った」
あやめの物言いは、あえて無機的な表現を選んでいるようだった。
「祖父は娘を殺したわたしを恨み続けている。……自身の失態で娘を失った悔恨も、大きいのでしょうね。蠱部尚武という本来貴族でない人間との間に生まれたわたしを、一族の恥部として扱った。わたしは城からの外出を禁じられているの……今、初めて外の世界を見ているのよ、わたしは」
「……っ」
なぜ九年も身近にいて、彼女が軟禁に近い状態にある事に気付かなかったのか。自分の察しの悪さに怒りを覚え、いなきは歯噛みする。
「馬鹿ね。知られたくなかったから、隠していたのよ」
それを見透かして、彼女は言う。
「一つ、あなたに問うわ。お母さんを殺さなければ、わたしは生まれる事は無かった。どちらか、一つの命しか選択できなかった」
――ならば殺人は、悪か否や。
「……っ」
「あなた自身の事なら簡単に決められるのにね。あなたらしいわ」
頬に軽く手を触れて、あやめは言う。
「けれどわたしも、それの答えを決められずに考え続けてきたわ。顔も知らない母親を殺したという事実について……」
今更ながら、この女が黒衣を身に纏う理由が推察できた。
蠱部あやめは、紫垣城から出られずに、現実世界の知識を貯蔵した書庫を糧に生活していた。
彼女は、知らなかったのだ。
喪服の色彩が黒であるのは、近代以降の習慣である事を。
文明の程度が近世に近い八百八町では、芙蓉局のように白衣を纏う事が喪に服する事を示しているのだと。
彼女自身も気付いていないのかも知れないが、あやめはずっと母親を悼(いた)んでいる。
それを、殺人についての考察でしか表現出来ないのだ。
「殺人という忌まわしい現象ですら、救われる人間がいる。逆に、慈愛に満ちた行為ですら何かを犠牲にしている。……正義、悪などという単純な概念に頼れば、人はその瑕疵(きず)を忘れてしまう」
「……けれど、それは」
「まぁ、ひとまずは聞いてちょうだい。……これは、とても大事な話なの」
そう言って、あやめはいなきの反論を封じた。
「続いての問答。あなた、〝管理された楽園(ディストピア)〟は何故生まれると思う?」
それは、現実史のある時代のフィクションで隆盛した概念だ。楽園――世界平和、全人類の幸福という願望を皮肉る寓話として語られる社会。技術がある水準に達すると、社会の在り方に手を加えられるようになる。その結果、理想の実現と引き替えに個人を殺す牢獄に変化してしまうという。
「あなただって、考えた事はあるでしょう? わたしたちのような存在を作り出すような社会なら、きっと歪んでいるのではないかと」
「……それは、そうだ」
「正しい形で社会が発展すれば、こんな病巣は生まれない……そう思ってはいないかしら」
反意を促す意図で、あやめは言った。
「残念だけれど、正しい発展なんてものは存在しないわ。技術の進歩は、社会を絶対にディストピア化させる。そもそも、ディストピアの対義語であるユートピアの語意は〝あるはずのない場所〟よ。理想郷の追求は、どこまでもそれらしい、歪みを内包した、近似のものにしかなりえない。歪みの拡大を避けたいのであれば、技術の使用を、理想の実現を放棄するしかない」
「……老荘思想か」
「そうね。老子曰くの無何有郷(むかゆうきょう)。技術を活用しない世界。まぁ、これもまた、歪んだ理想郷のいち形態に過ぎないように思えるけれど」
「……なぜ、人間は理想を実現出来ないんだ」
「人の抱く理想が全て、本質的には〝苦悩の排除〟だから」
と、あやめは言った。
「世界平和、全人類の幸福……つまり、誰も苦しまない世界よ」
「それの、どこが悪い」
いなきは反射的に反駁(はんばく)した。誰も死ななければ、幸福に生きられれば。武州の崩壊なんて起こらず、自分の負債も生まれる事は無かった。この苦悩は、存在しなかった。
その思考を留めるようにいなきの手を握り、あやめは告げた。
「苦悩が、心の基幹だからよ。それを失うというのはつまり、心を失う事」
そして、うわごとのように続ける。
「わたしは何度も、何度もシミュレートした……この、シミュレーターの箱庭の中で。誰も死なない世界。苦悩の排除された世界……わたしは、それについて考えなくてはならなかったから。……特に、あなたの行く末を観察したわ」
彼女はいなきの顔を、両手で触れる。存在を確かめるように。
「苦悩の排除された世界で、あなたは、あなたではなくなっていた」
それは、とあやめは続けて言った。
――虚無に囚われた世界。
「苦悩とは、自己否定だから。それは、自分の信義を否定しうる存在を、他者を認めるという事よ。自分に疑念を抱かなくなった瞬間、人は他者の存在を忘れる。それが、心を失い、虚無に取り憑かれるという事……そうなれば人は、他者を目的の為に無感動に、いいえ、無自覚に殺す存在になってしまう」
「それは……」
「機械よ」
あやめは、断定した。
「それは、ただの機械」
「俺たちは、最初から」
「いいえ」
言いさした言葉を、あやめは強く封じる。
「あなたは機械なんかじゃない。決して」
いなきの胸に冷えた手を当てて、告げる。
「この世界に生きる人々も、機械なんかじゃない。人造品であったとしても、人間の定義の範疇にある。――だから、機械になってしまってはいけない。苦悩を排除した時……自分を信じて疑わなくなってしまった瞬間、人は機械になる。あの鎚蜘蛛姫や、月数……あるいは、外の世界の人類のように。疑い、苦悩し続けて生きなさい、いなき君。あなたが自分を許す事が出来なくても、わたしはそんなあなたが好きよ」
「……結局、言ってるじゃねぇか」
「あら、そうね」
「俺は……」
その先の言葉を、いなきは言えなかった。
自分は、この女の父親を殺さなければならないのだ。
故郷の実在を証明する。
それはいなき個人の意志を封殺して存在する、使命だ。命を、使う理由。
いなきが彼女をどう思っていようと、それを諦める事は許されない。
――あなた、泣いているの?
九年前、そう語りかけて来た彼女について何を思っているかなど。
「それで良いわよ」
と、あやめはいなきの胸に当てた手を、軽く押した。衰弱している為に酷く弱い。
「もう、行きなさい。いつきちゃんを迎えに。三人で一緒に帰りましょう」
「あいつは、ここで死ぬつもりでいる。……家族に殉じて」
「わたしたちだって、家族よ。わたしは絶対に自分の家族を守る。死なせてなんかあげない」
「……そうかよ」
強硬に言ってくるあやめの手を握り返して、いなきは応じる。たまには素直に、この女の言う通りにしてやって良いだろう、そんな気分になっていた。
立ち上がって小屋に脱ぎ散らかされた衣類を着込み、大小を帯に差す。身体は未だ不調を訴えているが、動けない程では無かった。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
その簡素なやり取りは、永代島で夫婦を演じた時を思い出すものだった。
いなきが立ち去った後、入れ替わりに小部屋に侵入してくる存在を見て、あやめは安堵した。どうにか、彼を先に送り出す事が出来た。
「……焦って探さずとも、彼はあなたと戦う事になるわよ。元役者さん」
自分の目的はそれだけではないと、彼は告げる。無論、あやめはそれを理解している。
「いいわ。やりなさい。……彼へ言うべき事は言いました」
いや、本当は、一つだけ。言わなかった事がある。とても重要な事を。
この男に彼が勝利する為の、唯一の道を。
蠱部尚武と近似の存在になり得る方法を。
――彼は気付いていない。あるいは、無意識にその思考のプロセスを辿る事に封印をかけているのか。
彼の蠱業、並列起動抜刀術(デュアル・ブート)、相生剣華。
自分を分割して存在させるという事がどういう意味か。その異質さが、何を示しているのか。
「……わたしにも、決められない事はあるのね」
自嘲めいて、間近の男を無視しひとりごちる。
(人類はそれを失う事と引替えに、自立する為の道に乗った。……だから、その状態に回帰したならば、彼の運命は歪んでしまう)
それは彼に、死よりも辛い苦痛を強いてしまうかも知れない。
(けれど、そうならざるを得ない)
この男が確実に彼を殺す力を持っている以上、彼はどうあっても自身の心の特性を引き出されてしまう。それは、彼の意識の外側に存在する強制力だからだ。
「……?」
いつまでも自分が思索を続けられる事に、あやめは疑問を覚えた。この男が自分の殺害を躊躇う理由など、無いはずなのだが。
彼は、あやめの目線に反応して疑問を伝えてくる。
――お前は、何者だ。
なぜ、武力を一つも持たないのにあの小僧を勝たせる事が出来た。
なぜ、あの小僧を治癒する方法を知っている。
なぜ、そこまで全てを見通している。
お前は、何者なのだ。
もしや。
〝唯一の人〟なのか?
「さてね」
と、あやめははぐらかした。
「そんな下らない事を聞くよりも、あなたのすべき事をしたらどうかしら?」
その助言に、男はそうだなと肯定して、鋭い刃をあやめの首元に送り込んだ。
/
女の命を刈り取って、彼はつまらなそうに嘆息する。
刃を振るった場所とは遥かに離れた場所で、崩れた瓦礫の上に腰掛けて人を待つ。待ち人もまた、つまらない少年だ。運命を変える程の力を持たず、それを認める事が出来ないまま、叶わぬ目的にあがく若者。
(そして)
彼は短い付き合いで、少年の表情に滲む無自覚な疲労を見抜いていた。あの若者は、長い努力に軋み、疲れている。弱者が身に過ぎた大望を持つ為の、当然の代償。
やがては耐えられず、全てから逃げ出すのだろう。人生から落伍し、世を捨てて、無為に日々を過ごすただの男になる。
そんな、つまらない少年だ。
――自身が少年についてそこまで嫌悪を覚える理由について、彼は深く考えない。気分の良い答えを導き出せる気がしなかった。
どちらにせよ、考察に大した意味は無い。少年の、救われない、無益な人生はここで終わる。この深い海の底で藻屑となって朽ち果てる。
己がそうする。
――待ち人よりも先に、招かれざる客がやってくる。その正体を知覚している彼は皮肉に苦笑する。王を守護する藩屏(はんぺい)であるはずの彼らの足音は、寝所を荒らす強盗じみて荒々しく無粋だ。
彼らがようやく、自分に気付く。
「誰だッ!」
「奉公衆か。……梢継め、芙蓉局の計略は既に意味をなさぬというのに、派兵の中断を怠ったか」
誰何の声を完全に無視して、彼は八十人程の武装した兵団を見下ろす。
「それ程に宿敵を失ったのが痛手か。……まぁ、分からぬでも無いが」
遠く離れた城で失意に沈む男について、軽い共感を覚える。彼は、二人の間に巡る感情を男女としてのものなどと安い邪推をしなかった。その程度には、人間の心の機微を理解している。それはあの城にいた頃でなく、現在までの十七年間で覚えたものが多くはあったが。
殺意と愛情は、時に区別がつかない程に似通ってしまう事も知っている。
「……だが」
あくまで近き軍勢ではなく遠き男に、彼は語りかける。戦慣れした奉公衆は、戦場で遭遇した不可解な男への対応を即座に決めている。武器を構えて、彼の周囲に展開していた。それでもなお、彼は軍勢に何ら感慨を覚えなかった。
遠くへ、告げる。
「失策の代償は高くつく。精兵を失い、痛みから学ぶがよい」
そして、彼は地上に降り立った。
その着地には、音が一切生まれなかった。
初めて彼は、軍勢に視線を振り向ける。
「貴様らは即刻、不敬の罪科を贖(あがな)え」
/
いなきが辿り着いたのは、六孫王大樹がいたのと同じように広大な半球状の広間だった。
「境元之間(きょうげんのま)……などと、この部屋は名付けられている」
静かな声が、風の流れに乗って届いてくる。
「由来は記紀神話だ。境(さか)は坂(さか)。死者と生者を分かつ境目。黄泉路である黄泉比良坂の出入口。……いや、出口であろうな。人生は一方通行であり、死という変化は不可逆だ。死者の復活など、幻想に過ぎない」
物語るように声を流してくる、広間の中央に佇む人物。
「それもまた戯言か。我らにとって意味のある事は、ここが根堅州之間(ねのかたすのま)――大樹のいるあの広間の目前であり、程近くに斎姫もいるという事だ」
「……石斛斎……なのか?」
彼を見て、確信を持てずにいなきは問いかけた。孔雀と蛇の性交を模した傾いた装束、刃を潰した使い物にならない太刀。何より、左腕の欠落。
だが、顔だけがこれまでの彼とは違っていた――かけ離れていた。
美しい、男だった。
ただの美しさではない。人と隔絶した美貌。他者を陶酔させ、跪く事を心から望んでしまうような神域の相。それはただ、端正なのではない。人相の示す運命によるもの。あらかじめ磁性を持つ鉱物のようなものだ。
ある一族の抱える、美しさという銘の業(カルマ)を、今の彼は示していた。
「化粧も役者の技の内、とかつて貴様に言ったはずだが」
美しい男は、共通の過去を引合いにして答えとした。
「無論、それだけでこの未那元の相を誤魔化せる訳では無い。……この貌が人の心理に与える影響は、我らの精神に起因するものだ。心までも演じきれば、人相も封印出来る。左右田石斛斎という人格を仮定する事で、俺は別の人生を手に入れた。だから、そうだな、貴様の問いかけには否と答えるのが相応だろう。俺は、左右田石斛斎ではない」
隻腕の男は、そう言って。
静謐な、そして威厳を含んだ声音で名乗る。
「未那元森羅(みなもとのしげあみ)。この奥で眠る六孫王大樹の兄、そして斎姫の伯父だ」
「……死んだんじゃ、無かったのかよ」
「死者が復活する事など無いが、死者が死者のままこの街を徘徊する事などありふれている。AI存在に生命の定義が適応されるのか? という疑念とはまた、別の話として」
戯れのように告げて、石斛斎――未那元森羅は地面に横たわる物体を足蹴にした。比喩などではない、実際の死者を。
広間は死体に溢れていた。鼻孔に馴れた血臭が香る。
全てが武装しており、数は七十から八十ほど。彼らの携える鎗や剣が床に散乱している。憑人も含まれており、人外の形態に変異したままの死体もある。
「お前が……やったのか」
信じがたかった。これだけの人数を、一人も逃さず仕留めるなどと。――彼ら兵団が逃走していないのは明らかだ。森羅は六孫王の御所を塞ぐように立っている。退路は今し方、いなきがやってきた入り口にしか無い。そしていなきは兵士の一人とも遭遇しなかった。
森羅の身体に、欠落した左腕以外の傷は見当たらなかった。この男は武装した兵団を、無傷のまま、短期間で鏖殺したのだ。
怖気を催している間に、森羅は問いかけに応じてくる。
「六孫王府にとって既に俺は死人だ。矛を向けてくる以上、敵でしかない」
「こいつらは、深川の武士なのか……」
「そうだ。歳城の陰謀家どもの走狗よ。敵である以前に、下らぬ計略に王家を利用している時点で万死に値する」
苛烈な言葉だった。この男は全てに韜晦するかつての役者とは真逆。全てに、明快な解答を用意し、実行する。
王者の精神。
「お前の目的は、なんだ」
ならば、未那元森羅への問いかけは意味があるのかも知れない。そう考えていなきは質問を重ねた。
再び彼は、明確に解答する。
「大樹を殺す」
「……なぜ」
「俺の左腕を奪ったのは、あの男だ。唯一愛した女も、奴に奪われた。彼女は知性を失い、堕ち果てた挙げ句に大樹に殺された」
殺す理由として、これ以上のものはあるまい、と。森羅は言った。
「だが、それだけが理由ならこんな場所には来なかっただろう。俺の憎悪はとうに色褪せていた。石斛斎としての人生は、それなりに満足行くものだったからな」
と、森羅は前置きする。いなきが抱いた疑念をおそらく先取りして。
この男はなぜ、仇を前にしてここに佇んでいるのか?
「斎姫……彼女の忘れ形見を止めるのが、一番の理由だ。あれが父殺しをするのを、彼女は望むまい。しかしあの娘の意志は強靱すぎる。何があろうとも、大樹の前に立つだろう」
森羅はそう言って、そして即座に言葉を翻す。
「そう思っていたのだが」
「……?」
「小僧。貴様だ。貴様の為に、あの娘は目的を一時切り捨てた。あれはこの五年で、黄泉で待つ両親よりも強固な繋がりを築いていたらしい」
「……なんだと」
「貴様を守る為に、斎姫は最強の八葉と戦い、完全に消耗した」
「……っ!」
心臓を刺されたような罪悪感を、いなきは抱いた。妹が超人としての力を振るう為の源泉を、自分の為に消費し尽くした。そうさせない為の戦いであったのに、最後の最後で自分はしくじってしまった。
そして、そうであっても。
「そうであっても、あの娘は大樹と戦おうとしている。ただの娘に成り下がっても、まだ」
そうだ。
力の有無は、彼女の意志に何ら影響しない。どれだけ弱っても、勝ち目が無くても、戦おうとする。
だからこそ、自分は妹の戦う力を失わせてはいけなかったのに。
「俺が力であれを止める事は容易に思える。しかし、出来ないかも知れない。道理を超えて、あれは目的を果たしてしまうかも知れない。……だから、貴様だ」
悔恨に浸るいなきを現世に返す、森羅の言葉。
「貴様を殺す。あの娘の憎悪の対象をこちらに向ける。それが唯一、あの娘に父殺しを忘れさせる方法だ。小僧、お前は、俺に殺されろ」
「……断る。退け」
妄言を切り捨てて、いなきは足を進めた。〝き〟はこの向こうにいるのだろう。止められないのであれば共に戦う。
この男の武力は計り知れないが、だからこそかかずらっている暇は無い。逃走すべく、男の肉体を注視して攻撃の兆候を探る――
「そう来ると思っていた。……だから俺は、あの娘を殺した」
何――か。
聞き逃してはならない(聞いてはならない)言葉を、聞いた。
「……何と、言った」
思わず足を止めて、問いかける。
未那元森羅は、明確に答える。
「蠱部あやめを、俺が殺した」
彼の解答は、言葉のみではなかった。
男は広い袖の中に何かを抱えていた。芝居の幕を開けるように、右腕の中に抱えたものを開陳する。
女の、頭部。
――あれ――は――違う――そんなはずは――嘘だ――だってどうやって――嘘だ嘘だ嘘だ――
狂乱の一歩手前で、否定する。しかし。
その長い黒髪には、覚えがあった。夜のように、暗く、静かな。
――あなた、泣いているの?
九年前に、そう語りかけてきた。
それからずっと、付かず離れず過ごしてきた。
家族のように――
「憎悪を、俺に向け「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ッッッ!!」
男の戯言を最後までいなきは聞かなかった。永代島で遭遇した殺人とは、明らかに違った反応。怒り? そんな人間的な情動ではあり得ない。
知性ある人間からかけ離れ、獣よりもなお下等に堕ちた咆吼を上げながら突貫する。
最速、最短、必殺。
それ以外の全てが意味を失い奈落の底へ廃棄される。
躊躇い無く最後の巫術を起動し、知覚を加速させた。生存本能、使命、義務は殺意の前に塵芥と化している。
極限の軽功で、一秒も待たず森羅の前に到達。
抜刀し――
「哀れな、獣よ」
首筋に激痛が出現した。
巫術により増幅された知覚の中に、予期すら許さず差し込まれた森羅の手刀。
打ち倒されて地面を大きく転がり、いなきは即座に立ち上がった。
首根から吹き出し、肌を温く暖める血流。それとは逆に、身体の奥は失血で冷え込み始める。
それでもいなきの心は、一色に染まっている。
未那元森羅を殺す。
それ以外に、自分の存在理由を認めない。その道義を、理非を、功罪を考えない。ただ殺す。
「貴様をここで、終わらせてやる」
王の威風を纏って宣告する未那元森羅を、常人には触れ得ぬ尊きものを。
殺す為の機械となる。