二度目の突撃から、その違和感は顕在化していた。
確実に裸拳の範囲外から繰り出された斬撃。しかし、刀は目標を逸れて空を切り、森羅はいなきの間合いを侵略している。
必中のタイミングで、心臓を狙って打ち出された縦拳。それを受けつつも、後方に重心を投げ出すようにして衝撃を殺す。再び地面に転がされて、どうにか距離を離した。
「能(よ)く避ける」
冷徹に述べる森羅。
巫術の反動と憎悪で分解されつつある理性が、その精緻極まる武芸に恐れを成していた。
武術家としての練度において、九重府の暗部、雷穢忌役に勝る存在はあり得ない。彼らの保有する古今東西の武術、運動力学についての知識の質と量は他の追随を許さないものだ。近世レベルに留まる他の勢力とは隔絶した、未来の理論に基づいた術理により彼らは憑人や妖魅などの怪物と戦い得る。――それが八百八町の裏社会における常識であったはずだ。
それが今、子供扱いされているのは忌役のいなきの方だ。
「舞踏は武闘に通ず、などと――駄洒落じみているが」
と、口遊びを述べる余裕すら見せる森羅。
「武術の型は舞踊として伝承される事もある。応用する才覚さえあれば、舞と武の鍛錬にはさして違いが無い。小僧と俺では、経験の格差もある」
大陸の拳法に由来する化勁や軽功を操るいなきをすら超越する、体術。
初めていなきは、この永代島で自分より優れた武術を行使する存在に遭遇している。
「……獣に言葉を用いたのが、愚かか」
森羅は嘲笑する。迷わず三度目の進撃を開始したいなきを見て。
彼の言語能力は既に欠損している。崩壊した精神を殺意で取り繕っているだけだ。問答に意味などない。あるいは対話できる精神があったとしても、その必要を認めなかっただろう。
しかし、無意味な攻撃を繰り返す獣になった訳では無い。単一機能を果たす機械として、いなきは三度目も同じ無策を用いるつもりは無かった。
初手の斬撃を、森羅は掌で軽く押すだけで逸らした。
その残像を消すように、いなきの実体がコンマ数秒遅れて森羅の間合いに突入する。相生剣華、真ノ草。
森羅の唯一の攻撃手段である右腕は、陰刀を防ぐのに用いられた。無条件に命中する――
下方から打ち出された蹴りが、いなきの喉を狙った。
それを回避して、泳いだ身体の前に――銃口が突き出される。
森羅は鏖殺した奉公衆の武装から、短筒を一つ奪っていた。袖口に暗器として隠し、今引き出したのだ。
いなきは、自ら足を滑らせた。勢いをつけて転倒する事で、射線から逃れる。
銃声を間近に聞き、聴覚を麻痺させつつ――皮膚感覚で周囲を知覚し、攻撃目標を定める。
両手だけで身体を支え、蹴りを森羅の足に打ち付ける。
鋼鉄のような感触が、返ってきた。
「時に暴風に晒されながら寸毫(すんごう)も動かぬ剛力も、美しい舞には必要だ」
インパクトの瞬間に筋肉を固めて蹴りを弾くという力技をやってのけた森羅は、そのまま銃を逆さに持ち替えて銃把で殴りかかってくる。
首をねじって躱し、突き出された右腕を抱え込む。捻り折ろうと力を込めて――
「無論、柳の如き撓(しな)やかさも」
加えられた力に逆らわず、森羅は地面に転がった。するり、と。風に舞う紙のようにいなきの身体の下に潜り込む。そして、触れた背中が爆発的な衝撃を生み、いなきを弾き飛ばした。
全身を発条(ばね)として打ち出す投技。右腕を掴む手を引き剥がされ、三丈も吹き飛ばされる。
起き上がった直後の眼前に、投げつけられた太刀の切っ先があった。
「……ッ!」
咄嗟に両手を打ち合わせて、〝黒刃〟取りをする。百度に一度しか成功しないような曲芸で、辛くも致命傷を免れた。
かつて掌に負った傷に再び創傷を重ね、黒い刃を血に染める。
「そのまま、そこにいろ」
と、未那元森羅がゆるりとした足取りで前進を始めた。真っ直ぐ。一直線の進路を定め、接近してくる。
それには付き合わない。いなきも太刀を納刀し前進するが、歩法を用いて左右に進路を歪めつつ進む。間合いに侵入した際は、側面に回り込む意図がある。
――その時、不可思議が再び生じた。
どれ程進路をずらしても、未那元森羅はその中心にいる。
不可解を覚え、後退する――
「悪手」
眼前に出現した森羅が、そういなきを詰った。
顔面を握り、地面に叩き付ける。
「……がぁっ!」
衝撃に悲鳴を上げつつも、間髪容れず手探りに地面を転倒して逃げ出す。
予測された追撃は無かった。いくらか離れた間合いで、森羅はまごついている。
「……」
いなきの精神が真っ当に機能していれば、不可解を覚えた場面だ。確実な隙に、未那元森羅は止めを刺さなかった。
「……貴様の技術は、雷穢忌役の格付けでは上の下といった所だろう」
交戦した感触を確かめるように、彼は自分の手を掲げて眺めている。
「その歳にしては、これ以上ない練度だ。だが、傑出している訳でも無い。怪人の巣窟である不可知領域で戦う武官と比べれば、一枚落ちる……」
だが、と森羅は拳を握りしめる。眉根を寄せて、疑念を述べる。
「貴様は現に、ただ一人で深川最強の憑人である御門八葉の半数を打倒している。……本来、ありえない事だ。八葉がそれ程弱かったのなら、九重府、妖魅らとの力の均衡を取れはしない」
意図の見えない、無駄言だった。いなきには、そうとしか感じられない。
「なるほど――貴様は、ただの小僧では無いのか」
やはり不可解としか受け取りようのない言葉に、いなきは取り合わなかった。敵が意図の見えない疑念にかかずらっている間に、今の攻撃の正体を考察している。
正中線を完璧に維持した前進。
森羅の技術の根幹はそれだ。こちらの動作を支配下に置いて、自在に操り自分の進路上に捕えている。目線、筋肉の動き、あるいはもっと根本的な存在感。それらを使って、いなきの動きを掌握しているのだ。
その途方も無い技術がもたらす恩恵は、完全な占位。
自分の最大威力を発揮できる姿勢を常に維持したまま、攻撃出来る。そして、敵手には常に不利な位置取りを強いる。
それだけではなく――どうやら森羅は、いなきに〝意識の隙間〟を作り、そこを攻めている。
芸能の極意に、〝離見の見〟というものがある。遥か昔、中世日本を虜にした一芸の開祖たる親子。その内、子の方が述べた言葉だ。
演技における理想的な視点は、完全な客観である。見所(客席)の視点を持つ事で、自身の演技を常に補正し、見所の求めるものと合致させる。
動作を掌握されている――つまり、森羅は相手の視点を盗んでいる。ずば抜けた観察眼によって。
後は占位術と同じ要領で、敵の集中に欠点を作る。生じた意識の隙間に、攻撃を滑り込ませるのだ。
瞬間移動に近い間合いの侵略の正体が、それだ。
防御は不可能だ。自己を偽装でもしない限り、打破しようが無い。
……自己を、偽装。
――一度だけ、打てる博打がある。
いなきは、その場に踏みとどまった。自然体に近い体勢で、佇む。
「慧眼(けいがん)だ」
それだけ述べて、森羅は再接近する。いなきの意図を読んでいたのだ。動きの推察が困難な脱力した姿勢で、距離の把握に集中する。森羅の歩法の対抗策はそれだけだ。ならばいなきは、森羅の歩法を看破した事になる。生きている内に彼の〝所作〟の秘密を見抜いた敵は、数える程しかいない。
だが――
「俺の極意を、廉(やす)く見るなよ小僧」
力を抜いていようと、関係が無かった。生きている人間ならば、眠っていても操作出来る自信が森羅にはある。
やはり森羅は無傷で攻撃し、今度こそ敵手を殺傷するだろう。
相手が正確に把握していた森羅の位置を、演技により狂わせ、曖昧にする。崩れた領域を盗人のように容易に侵入する。
掌が、敵の心臓を皮膚越しに触る。
しかし、その触感から得た筋肉の情報で、森羅は気付く。
相手は自分を見失っていない。
腕の欠落した左側から、刃の気配。
いなきは、虚像の己を実体に重ねていた。
ほんの少し、一寸にも満たない距離を離して。
その上で陰刀を使う虚像を、森羅に見せつける。虚像は森羅の歩法に操られ、彼の意図通りの動作をする。それに隠された陽刀を使う実体が、森羅の接近を読み切った。
二度同じ手が通用する相手では無い。いなきは唯一の好機に、確実な攻撃を放った。
柄を捻り、鯉口を右側に突き出す。
そして左腕で抜刀する。
斬撃の軌道は、陽刀、陰刀共に右に向かって弧を描き――森羅の左半身に向かって伸びる。
防ぎようのない一手。なぜなら、
森羅の左腕は、欠けているのだから――
一瞬の間に、男の唄をいなきは聞いた。
「ただ闇中に埋木の。さらば埋もれも果てずして」
森羅の左腕の根本から、黒い影が膨れあがった。
左、である。
ある女の遺した助言。
男の憑人は、左半身に変異が集中する。
ある憑人が弄ぶように告げた言葉。
――欠落には、神性が宿る。
「亡心何に残るらん」
黒い影が、いなきの放った黒刃に噛み合い――
刀を粉々に砕いて、荒れ狂った。
/
満ちていた、時代。
家臣に傅かれ、死んだ父を後継し次代の王となる事を全く疑っていなかった十七年前。
彼には弟がいた。
――兄さん。
気優しい男だった。草花を愛し、鳥を慈しむ。城に居座る武人たちには、なよやかで王家に相応しくないと蔑まれる気質を持っていた。だが、彼は――そんな弟が好きだった。
弟は、草花にも、鳥にも手を触れようとしなかった。未那元宗家の障気は全ての生命を蝕み、歪ませる。触れ得ないものを遠くから眺めて、優しげに微笑む。そんな男が愛しくない訳が無かった。
弟の慈愛は、彼にも向けられていた。鬼の巣窟じみた城の中で、家族と呼べる人間は彼しかいなかった。
いや、もう一人。
家族である事を望んだ女がいた。
城の舞台で踊る女に、ひと目で惚れた。生まれついての無頼ゆえに、〝ふう〟という字しか持たなかった女。
彼女は王家に敬意を一欠片も持っていなかったが、だからこそ気兼ねなく語らう事が出来た。言葉を交わす度に、抱く愛情は深まっていった。
やがて、俺のものに――情愛を交わした男女の、当然の帰結を思い、そして。
彼は、怖気に震える。
この一族の抱える業は、愛した女を必ず殺す。
ああ、それでも、それでも――なお。
求めて、しまった。
その時に彼は、自分が抱く強い渇望の正体に気付いてしまった。
彼は、満ちていたのだ――満たされては、いなかった。
地位、財、責務、運命。
自分の生まれる前に存在したものだけだ。彼の人生には自分の望むものを埋めるだけの、隙間が存在しなかったのだ。
そして彼は、全てを失う。優しかった弟が彼に牙を剥き、奪っていった。地位も、女も。
左腕も。
未那元森羅でない、ただの男に成り果てて最初に行った事は、舞踊の鍛錬だった。
――森羅君は、すごく筋が良いよ。いつか、僕と一緒に踊ろう。
〝ふう〟が最初に、自分に微笑みを見せた時に言った言葉だった。過去に縋り付くようにして、身体を動かし続ける。
かつて持っていた六孫王の憑人の力は、あらかた大樹に奪い取られていた。あれは王座に就くものに取り憑く力だ。未那元宗家の精神の集合。あのおぞましく強力な泉に接続する事で、人智を超えた能力を引き出せる。
森羅はその資格を失ってしまったが――幾ばくかのリンクは残っていた。
能力を行使する事は出来ず、しかし自分の身体と精神をいつ喰らい尽くすか分からない憑物(バグ)。
差し迫った危機を忘れて、踊り続けた。欠けてしまったものを、埋めるように。
――芸能を行う人間は、かつて〝ワザオキ〟と呼ばれていた。
その意は、〝神の業を招(お)く〟である。
神代。岩戸に隠れた天照大神を招いた天鈿女を発祥とする、シャーマニズムの原点。
彼は計らずとも、解答に到達していた事になる。
神を制御する、方法論に。
/
未那元森羅の行使する〝鬼手(きしゅ)〟は、鵺・六孫王大樹と同じく無数の憑物の集合体である。黒色の影に見えるのは、限界まで圧縮されているからだ。
本来の体積は、彼らの戦う境元之間とほぼ同等。
形態は自在に変化し、それを引き延ばす事で得られる最大射程は、この場から歳城にいた芙蓉局に届く程度。
また、森羅は自身を憑物と切り離す事で心身のダメージを軽減している。故に、鬼手の精神は森羅から独立している。彼にとってはやっかいな同居人と言うべき存在だった。
使い続ければ侵食は避けられず、命令は聞くが完全に支配下に置ける訳でもない。
だが逆に、恩恵もある。森羅自身の知覚に縛られない〝鬼手〟は、人間の領分を遥かに超えた攻撃速度を持ち、森羅自身の動作とは関わりなく推進する。
森羅と相対する敵は、達人・未那元森羅と憑物・鬼手を同時に攻略しなければならない。
「……詰みだ」
大刀を折られ、自身は吹き飛ばされて地面に倒れ伏す少年に向けて森羅は告げる。
「俺の左腕は凶暴だ。すぐにでも貴様の首を刎ねようとする。あるいは、俺が手ずから貴様を殺しても良い」
無傷の森羅に対して、少年は満身創痍であった。大刀を微塵に砕かれ、首を抉った傷から未だ血液は溢れる。
――その状態で、己の必殺の攻撃を二度も防いだのは不可解だったが。
初回の接触で仕留めるつもりが、あの少年は致命打を紙一重で躱している。二度目の追撃は、少年固有の技術、蠱業による陰刀により防御された。森羅の〝所作〟は敵手の意識に間隙を作る芸だ。反応出来るはずは、無かったのだが。
それでも、〝鬼手〟まで用いて攻撃するのだ。もう奇跡は起こり得ない。
そもそも放っておいても、少年は自滅を間近にしている。巫術なる精神を消耗する技術の反動で、その思考は崩壊していた。今では、まともに対話も出来ない。
つまらない、と思う。
問答が出来たのであれば、森羅の抱える憤怒を叩き付けながら殺してやれただろうに。
「なぜ……ここに斎姫を連れて来た」
無駄と分かっている詰問を、森羅は口にした。
「貴様があれを怪物に鍛え上げた為に、斎姫は父殺しの業を背負おうとしている。俺は、そんな事をさせる為にあの娘を逃がしたのではない」
――森羅君、たった一つだけ、お願いを聞いて。こんな事を君に頼むのは恥知らずだと分かってる。君に、聞く義理は無い事も。けれど。
――娘を、助けて。
未だ人としての知性を残していた頃の、〝ふう〟の言葉。森羅はそれを遺言と受け取った。聞き入れる事に、躊躇いは無かった。
未那元の最も重要な祭礼に介入する為には長い準備を要した。斎姫を救った時には既に、彼女は深く傷ついており、〝ふう〟も大樹に殺されていた。
――全ては終わったんだ。
彼は遁走する船の中で、そう呟いていた。終わりにすべきだった。愛情も、喜びも、希望も。快いものは全て砕け散り、残骸の向こうには憎悪と悲嘆と絶望だけがある。そんなものに、この娘を関わらせる訳には行かなかった。だから、自分からも離した。森羅もまた、過去の残骸の一つでしかなかったからだ。
だと、言うのに。
「愚昧で、未熟な、小僧が」
この少年が彼女の目を、過去の残骸に振り向けた。幸福を、光までもを捨てさせて、己と同類の仇討ちのみに生きる哀れな獣に堕とした。
両目を義眼とした少女を思えば、それを為した人間はいくら憎んでも足りない存在だった。
断じて、殺す。
殺意に満ちた一歩を、森羅が踏み出した、その時。
瀕死の少年が、立ち上がる。