時折やって来るあのひとは、何も言わずに手を引いて、いつきを部屋から連れ出した。
いつき、いつき。
頭の横から入ってきてその奥に染み込む何かを、言葉というものだと知ったのはしばし後。今はただ、心地良い感触だとしか分かっていない。棒で打たれ、踊らされる苦痛に満ちた日常で、唯一のうれしいこと。
それを言ったのは、このひとではない。
連れられた先の部屋にいる、女のひと。
白い着物を着た、赤子のような表情をした女のひと。
あのひとは女のひとを見ると、ほんの少し、きれいな顔に皺を寄せた。面で覆われた目では見る事は出来なかったけれど、指で触れて理解する。それがどういう意味か、あの頃のいつきにはよく分からなかったけれど。
あのひとに背中を押されて、女のひとの腕の中に抱かれる。
――いつき。
女のひとは、その言葉だけを繰り返した。
あたたかな、三人の時間。
失神していたらしい。御門八葉・八龍との戦いで体力を消耗し尽くした身体を、どうにか引き摺って歩くのも限界が近い。
それでも、急がなければならなかった。力強く感じられた障気が今はそよ風じみて希薄でか弱い。気を失っている暇など無かった。
少女は、杖を支えに立ち上がり、再び歩き始める。
夏の森は、雪化粧されたように白く染まっていた。無論それは、自然により施される風景ではない。障気で生まれた森は、その主の弱体化によって腐れ、崩壊を間近にしている。
完全に消えて無くなるまでに、辿り着く。
ただ、一撃。
たった一撃ぶんの力を、少女はまだ残していた。
この一撃を打つまでは、止まる事は出来ない。
木の根に何度もつまずき、転びながら、それでも足を止めない。
――やがて、森の中心に辿り着く。
『お……あぁ、ぅ』
殺すべき怪物は、あらゆる怪異を従え敵を討ち滅ぼす魔王は。見る影もなく衰え、うずくまり、うめき声を上げていた。
森が、少女の侵入に悲鳴を上げる。
『侵略者である』
『殺せ』
『殺せ』
『殺せ』
魔王の力の源泉、一族の意志が最期まで断じて王であれと怪物を縛る。堕ちた鵺は、立ち上がり少女に向けてよろぼい歩く。左腕には、巨大な刃。
振り上げられたそれを、少女は、手を広げて。
受け入れようと、した。
――刃が地面を叩き、そして砕ける。
怪物がその身を支配してきた無数の意志に逆らって、言葉を口にする。
『……いつ、き』
少女が、応える。
「はい……父さま」
声の色彩は、温かく、柔らかな感情に――愛情に満ちていた。
「やっと、あなたに逢えた」
『ぅ、あ……ああ』
怪物の声は、絶望に彩られていた。十三に増えた眼球が全て、少女の右足を見ている。
自分が喰らった、娘の右足。
恐れるように怪物は、少女の仮面に手をかけた。龍面が障気に触れ、形を歪めて大きな手の中に落ちた。
そして、少女の美しい貌が露になる。
生きた瞳を失った貌を。
『……あああ、うあああああああっ、ああっ!』
怪物は面を抱えて、悲嘆に満ちた声を上げる。
慟哭は深く、悲痛だった。怪物の心が音に乗って伝わってくるかのようだった。
この慟哭を、怪物は死ぬまで――死してなお続けるのだろう。
少女はそれを聞きながら顔を伏せて、諦めるように言った。
「やはり、自分を許せませんか」
『……』
「ならば、わたしが、父さまを殺してあげます。あなたを罰する事が出来るのは、わたしだけだから」
――それだけを願って、少女は生きてきた。
因習に支配され、愛した女と、娘の一部を喰らってしまった罪に苛まれ、絶望に満ちた死を迎えようとしている父。
彼の罪を罰して、許してあげる事が出来るのは、自分だけだった。そうしなければ、彼の死にはただ、悲しみしか存在しない。
母は死んでいる。自分にしか出来ない。
家族の責務を果たす事は、自分にしか。
杖から刃を引き出して、高く掲げる。
「父さま」
かつて父母と共に過ごした僅かな時間を思い出し、眼球の無い目から落涙して少女は告げた。
「さようなら」