「……以上が、永代島での事件についての全てだろうか」
紫垣城の内に設けられた狭苦しい小部屋の中。そう問い糾す査問役の文官の表情は、迷惑と軽蔑、そして無論、恐怖に溢れていた。深川永代島の頂点にある怪物のほとんどを自らの手で抹殺し、あまつさえ王まで手にかけた人間だ。いくら小柄な少女にしか見えなかろうと、やはり同等の怪物と感じられるだろう。
――いや。
「はい」
文官と、簡素な机を挟んだ向こうで短く応じたいつきは、見目も怪物じみていた。かつて龍を模していた面は、あの日父の障気に形を歪められて、確たるモチーフを持たない無名の怪物の貌と化している。
正体不明、未知なる化物。
今後、〝き〟という字は怪物の代名詞として畏れを以て語られるようになるのだろう。
文官が、ため息をついた。何かを切り替えるように。
「正直な所、貴官の扱いは難しい。ここで拘束して六孫王府に引き渡すのが至当と、私は個人的に考えている」
ほんの少し、いつきは彼の評価を引き上げた。恐れを抱きながらも信義を忘れない。なるほど、九重府の人材の程度は悪くないようだ。
「そう思うのは結構。わたしは、好きにしますが」
ちょっとした意地悪をしてみるが、文官は内心はさておき表面上は実務家らしき風を取り繕う事に成功した。
「……政治的な心配は――これを率直に幸運と思うべきか迷ってしまうが――存在しない。伯父君に感謝したまえ」
父を殺し、崩壊する太歳宮から脱出した後で、石斛斎は自分が未那元森羅、父の兄である事を明かした。
――俺は政治に復帰する。芙蓉局の後釜に付く。
そう宣言して、
――お前を六孫王府に招きたい所だが、無理だ。今回の件で、お前は深川に敵を作りすぎた。
――余計なお世話ですよ、おじ。
――わたしは、未那元の人間ではありません。ただの殺し屋です。狗のねぐらに帰ります。
――……そうか。だが、今回の件で被る危険を避けるように計らいはする。それ以上の事を出来ないのを、歯がゆく思う。お前は、俺たちの禍根に一人で決着を付けたと言うのに。
――お節介焼きも程々に。……さらばです、伯父。
――……あまり、優しくするな。お前の声は、俺を袖にしたあの女にそっくりだ。
――さらばだ、いつき。達者で暮らせ。出来れば、唄を覚えろ。最後まで俺のものにならなかった女だが、あの唄だけは未だ愛しくてならない。
蛇足じみた言葉を残して、彼は十七年空けていた故郷へ帰っていった。
伯父は約束を守り、九重府に介入して三人への追求を和らげたようだ。復帰したばかりで不安定な政治基盤に立ちながらの行為だ。少なくない犠牲を払ったのだろう。
「未那元森羅と我々の利益は合致している。君が行った永代島で暴走した御門八葉の殺害も含めて、全ては藪の中だ」
工作、交渉、水面下の仕事で疲労した表情で、文官は告げる。
「だが、疑問が残る。蠱部あやめと貴官と、あの少年の証言が食い違っている」
「彼は、功名心ばかり強い小者です。それだけに、扱い易くはありましたけど」
一拍も間を置かず、平然と、いつきは応じた。
軽い同情心、強い軽蔑、そんなものを表情に貼り付かせて、文官は言う。
「悪い女に引っかかったな。自業自得ではあるが」
「彼の処遇は?」
「小者は、小者なりにだ。五摂家の高い視界には、謀られた子供の姿など入らない」
諧謔を込めて応じる文官。いつきは、安堵を覚えるのを全力で自制する。
「自分の心配はしないのか、斎姫」
「……」
「ああ、そうだったな。〝き〟」
怒りの気配めいたものを微かに臭わせれば、明らかに怯えて文官は前言を訂正した。他人は、その二つの称号でしか自分の名を呼ばない。今後は後者ばかりを耳にするようになるのだろう。
いつき、と呼んでくれる数少ない家族とは、もう離れて行く。
「我の強い曲者。なぜか、あそこに集うのはそうした連中ばかりだ。……不可知領域に着任する最年少の人間だぞ、君は」
小部屋を出た途端、兄の姿があった。扉越しの気配で、分かってはいた事だが。
宮殿の広い廊下の中央に佇む彼の表情は、怒り、困惑、そんなものに歪んでいた。
「……何故だ」
軋るようにうめく兄。
「何故、虚偽の報告をした」
「あなたと離れる為です」
冷徹を極めた声音で、いつきは応じた。
「わたしは、目的を果たしました。もう演技の必要は無い。あなたは用済みです、いなき様」
「……ぁ」
裏切りを突きつけられ、追求を重ねようとする兄の身体が震える。
追い打ちをかけるように、いつきは告げた。
「あなたは最後まで、扱い易い馬鹿な男でしたよ。一回抱かせてやった程度で、何でもしてくれた」
「……っ」
若い男を傷付けるのに最適な言葉に、羞恥を覚えて、兄は奥歯を噛みしめいつきから目を逸らす。
「家族ごっこはもうおしまい」
いつきは鼻を鳴らして、
「さようなら」
捨て台詞にそんな言葉を吐いて、彼女は廊下を歩みだした。杖と、義足と、肉の足。三本の足が床を叩き、断絶を表わすような硬質の音を返す。
後方で、柱を殴りつける音がしても、彼女は振り返らない。
――忘れようのない場所に辿り着いて足を止めた。
二人が出会った場所。
兄と、妹になった場所。
手の平から落ちた血は、もう痕すら残ってはいない。
「……あやめ様」
今日そこには、姉がいた。兄を救う過程で病み付き、更に身体を弱らせたようだ。柱に寄り掛かって身体を支え、ようやくの事で立っている。長い綺麗な髪も失って、肩にかかる程度になってしまったのが惜しく思う。
「いなき様の元に行ってあげて下さい。あの人は、傷ついているでしょうから」
「どうして、こんな事をするの」
「分かっているでしょう。わたしと、あの人は違う。わたしは目的を遂げても、その後の人生を生きる余地はあった。けれど、あの人はたとえ蠱部尚武を殺しても……いえ、殺そうとしている限り決して救われない。だからあなたも、口裏を合わせてくれたのではないですか」
「違う。そうじゃない」
姉は、いつきの述べた言葉を否定しているのではなかった。
「なんで、彼と離れようとするの。あんな嘘を、つくの」
「嘘なんかじゃ、ありませんよ」
喉から上る声はかすれていた。
嘘ではない。彼を騙した事は決して、偽りなどではない。
懺悔するのにこれ以上ない場所で、いつきは言った。
「わたしはあの時、ここで待っていたんですよ。哀れに、か弱く地面を這いずって。誰かが助けてくれるのを。助けてくれる人間なら、誰でも良かった」
一人だけでは、目的を果たせなかったから。十歳の、言葉をろくに知らない少女はそれだけの事を計算していた。
そして一人の少年が、それに騙された。
「たったひとり手を差し伸べてくれた、優しくて、ひとりぼっちの人。だから、わたしは」
――これで、わたしたちは〝きょうだい〟です――にいさま。
そんな甘やかで、悪質な言葉で、彼を縛り付けた。
「あんながんじがらめで、かわいそうな人に、重荷を背負わせたんです。それから何度も何度も頼って、依存して。あの時だって」
――わたしの右目を、奪って下さい。
――ひとりじゃ、怖くて出来ない……
――左目を奪ったのは、父。だから。
――同等の絆を、結んで……
――こんなに弱くて、ごめんなさい……
光を失うのに怯えて、彼に行為を肩代わりさせた。更に深い責任を背負わせて、強く自分に縛り付けた。
「わたしは、醜い」
この怪物の仮面よりもなお。隠さなければ、自分で耐えられない程の醜悪さ。
「嫌われてもいい。でも、こんな素顔をあのひとに知られたくない……」
「……それは」
姉は、顔を苦悩に歪ませた。彼女が表情に色をつけるのは酷く稀で、だから、こんな時に感情を露にする彼女と家族であると、信じる事が出来る。
彼女は絞り出すように告げた。
「あなたにとって、彼はもう、誰でも良い人では無いからよ」
「はい」
五年間、依(よ)り掛かって過ごした歪な時間であっても、育まれるものはあった。
ある時は、父母への情よりもなお強くあったものが。
恋をしていた。――いや。これからもずっと、この気持ちを抱き続けるだろう。
「……でも、わたしはこの気持ちを永遠に、あのひとに伝えない。もう二度と、あのひとの重荷にならない。それがわたしの犯した罪への罰です」
「……それで良いの?」
「はい」
強く、心を制御して。縛り付けて。
いつきはそう告げる。恋心を、封じ込める。
姉はそれを間違いとしなかった。己の決断をその歪さも含め、認めてくれた。だからいつきは、彼女を姉と敬愛している。
「さようなら、姉さま。兄さまを、よろしくお願いします」
姉はそれに応えてはくれなかったけれど。
彼女の、兄へ抱く気持ちを知っていたから、いつきは躊躇わず道を進んだ。
家族から、離別する道だった。