【一年後 識与二五七年 十月】
大地を、黄金が覆っていた。
あのひとの故郷、かつて武州と呼ばれていた不可知領域で任務に就いて、一年余経つ。一年前は新しいねぐらと、何よりあの強力無比な妖魅(ヴァイラス)との戦いに慣れるのに手一杯だったが、今は非番に外出し、景観を楽しむ余裕も出て来た。
十年前に住民が退去した村は取り潰され、今では大規模な耕作地帯となっている。農作業を行っているのは機械だ。八百八町市民の目から離れた不可知領域では、近世のままの科学技術で我慢する必要が無い。ここで行われ、八百八町本土を支える産業は完全にオートメーション化されている。武州に常駐するのは、侵略者と戦う兵士だけだ。
ごうん、ごうんと一定のリズムで動作する無人のトラクターの他に人の姿は無く、いつきはただ、周囲を稲穂に囲まれている。視る事が出来なくても、その黄金の気配は感じられた。匂いがする。風が肌に触れ、耳に残響する。もう少ししたら、味を楽しむ事も出来るだろう。
あのひとが住んでいた本庄領は存在すら抹消されたが、近隣のこの場所でなら空想する余地はある。この素朴で、ささやかな黄金の色彩はあのひとの髪の色そのものだった。佇めば景観に溶けてしまいそうな程に。
懐かしさに、ほんの少し涙が出る。
妖魅の侵攻は今小康状態で、兵士は暇を持て余すしかない。ほとんどが宿舎から出て無目的に散策している。しかしいつきの道行きには、目指す場所があった。
人目に触れない所。普段から時間を潰している、あの丘の上が良い。
農地を程近くに見下ろす丘に腰掛け、面を外して杖と一緒に脇に置く。いつきは届いた手紙に指で触れ、墨の配置から文字を読み取る。
『実は手紙を書くのは初めてで、四苦八苦、あるいは七転八倒しながら文面を考えています。笑ってもいいけれど、それは秘密にしていてね』
姉は、そんな書き出しで手紙を書き連ねていた。表情からは分からない彼女の不器用さは、文面からなら明らかに露出するようだ。
『あなたの活躍は聞き及んでいます。でも、わたしにとってはあなたが無事である事が何より嬉しい。あ、父の事はどうでもいいので知りません。わたしがそう言っていたと彼に伝えておいて下さい』
「それは、それは」
さぞかし蠱部尚武は苦しむ事だろう。最強の武神の苦心惨憺ぶりを空想しつつ独りごちて、いつきは笑う。
半年前、いつきの口から姉と兄が祝言を挙げると(その当日に、との彼女の指示に従って)聞かされた際も、哀れに全力疾走して駆けつけていたものだ。
『半年前は、人づてにしか伝えられなくてごめんなさい。そちらへの文書の送付は難しく……いいえ、これは言い訳です。わたしは、誰よりも先にあなたにこの事を伝えたかったけれど、あなたに知られる事だけ、後ろめたかった。わたし自身の言葉を伝えた結果、あなたがどう思うかを考えて躊躇ってしまいました』
「はい」
応える。この場所ですっかり彼女は、独り言が多くなってしまった。
『こうしていくらか積極的な事をしようと、決意したのにはきっかけがあります。その……先日、妊娠したとお医者様に言われました』
「……おめでとう、ございます」
予想していた事だ。ほんの少しの苦みはあった、けれど。
祝福の気持ちも、間違い無くあった。
『家族が一人増える。でも、だから。わたしと彼と、子供の作る輪の外側に、あなたを置いておきたくない』
「……」
『強欲で、恥知らずなお願いかも知れない。あなたに、苦しみを強いてしまうのでしょう。けれど、子供が産まれた時に、あなたが家族の輪の内にあって欲しい。六年前、それぞれひとりぼっちだったわたしたちが繋がれたように、もう一度。わたしと――彼は、それを望んでいる』
その時には、気付いていた。姉が自分の抱える罪悪感を、遠回しに表現している理由も。彼女は一年前の自分の誓いを、未だに重んじてくれている。
字に触れる指が震える。紙面に、涙が落ちてにじむ。
素朴で、素直な筆遣い。文字を見れば、仏頂面の内の心が分かる。
兄の字だった。
「――はい」
黄金の風に包まれて、子供のように泣き笑いの顔で、いつきは手紙に応えた。