八百八町の社会構造を説明する際、豪商の頂点三十六人衆を第三勢力と呼ぶ者は多い。それどころか社会を裏でコントロールする黒幕である、などと陰謀論めいた想像を語る講談師も少なくなかった。九重府と六孫王府が彼らに図る便宜の過剰さを思えば、さほど荒唐無稽とも言えない論旨である。
例えば札差暁翁こと大口屋治兵衛。彼はロビイストめいた手口を(実際、芝居小屋付属の茶屋で煙管を蒸かしつつ高級官吏と談合する様を描いた風刺画は、発禁処分を受けるまでそれなりに出回った)駆使し、政府に金融業の優遇政策をいくつか発布させた……
「この話の根本的な誤解は、大口屋は三十六人衆じゃないって事だ」
人気で賑わう目抜き通りを歩みながら、いなきは後方を歩くあやめと〝き〟に言った。路面には、上空に無数に渡された架橋の作る影が貼り付いている。終夜無尽灯の焚かれた品川の歓楽街は、夜中でも光と影に二分される。
「三十六人衆、別名会合衆(えごうしゅう)。彼らには名前が無い。普通商家ってのは屋号で呼ぶもんだが、それすらもな。瞞天過海(まんてんかかい)、笑裏蔵刀(しょうりぞうとう)、趁火打劫(ちんかだこう)……そうした称号のみが存在する。大口屋治兵衛はその内の誰かが用意した大衆向けのスケープゴートだな。何人か似たような道化を仕立てた後は、何もせずとも、誰もが吉原で豪遊するような大商家を三十六人衆と思い込むようになった」
「なぜそんな工作をする必要があったんですか?」
つい数刻前と同じく聞き役、質問役に徹するつもりの〝き〟が問いかけてくる。
「彼らがこの世界で果たす役割の為に必要だったからだ」
いなきは人差し指を立てて、
「八百八町史における最大の発明品。なんだ?」
指名を受けた生徒のように妹はあたふたとして、途切れ途切れに言う。
「け、建築技術、だと思います。高楼が一般化されたのが二百年前で……おかげでこの品川迷宮のような大きな建造物も。増加する人口を狭い都市に効率的に収容出来るようになりました」
「サンカクだな」
「あぅ」
辛い採点を受けてしょぼくれる〝き〟に、正解を告げる。
「消火器だよ」
路上の各所には、手押し式の井戸を小さくしたような器具が置かれている。
「竜吐水……炭酸カリウム水溶液を消化剤として噴射する道具だ。二百年前の大火災の反省に基づいて、という名目で生まれた発明品。この竜吐水とその他多数の防火技術によって、八百八町にとって火事は現実世界ほどの脅威では無くなった。江戸という都市にとっては、頻発する火災は市民性にも影響する重大なファクターだったんだ。これが消えてどうなったか。お前の言う通り、高楼を含めたコストの高い建築物が増えた。他にも「宵越しの銭を持たない」という風潮が無い為に蓄財の習慣が生まれた。今じゃ両替商は貨幣の交換よりも為替の発行やら預金で儲けてる。まぁ、それは慢性的な物価の下落傾向にも繋がるんだが……」
ともあれ、この都市が江戸でなく八百八町である最たる特徴が防火技術である事は論を待たない。
「それを世に広めたのが趁火打劫、三十六人衆の一人だ」
「……つまり、三十六人衆は発明家であると?」
「違う。彼らは〇から一を作るのではなく、一〇〇から一を切り分けていく存在だ」
「?」
〝き〟が不思議そうにしている隙に、あやめが声を上げた。さっきまで彼女は、二人の話を全く無視して周囲を興味深く見回していた。
「なんだかここ、九龍城塞みたいね」
上階を直接通す、蜘蛛の巣めいて無秩序に設置された橋。野放図な増築によって子供の玩具箱じみた乱雑さで肥大化した建造物。蜂の巣のように緊密な人口密度。確かに現実世界にかつて存在した大スラム街に似ていなくもない。規模はこちらの方が遥かに大きいが。
「現実世界の知識に基づいた発言は禁句なんだがな」
「何よ。それならあなたの方がさっきから危ない会話してるじゃない。……つまり、そういう事でしょう?」
「そういう事だな」
同意する。
「現実世界の知識はあるんだ。しかも、格別先進的な。そうしたオーバーテクノロジーの段階的な解放、抑制……この役割を担うのが三十六人衆だ。これは軍事組織を抱えた九重府と六孫王府には出来ない」
「具体的には、どういう事をするのかしら」
「特許権(パテント)の占有だな。両政府ともに、三十六人衆の称号には株という名前で不可侵の専売特許を認めている。彼らは座という同業者組合(ギルド)を組織して、その枠組み以外での商業活動を禁止している」
「自由が無いわね」
「望むべくも無いな。彼ら自身も、経済の徒でありながら九重府やら六孫王府と比べて遥かに禁欲的だ」
「……なんだか、言いたい事が分かった気がするわ」
あやめは嘆息と共に、剣呑(けんのん)剣呑、と付け加えた。いなきは頷いて、
「そう……株というのはあくまで称号に付与された特権だ。誰がそれを持っていようと構わないんだよ。彼らはその役割の重要さ故に、無能も増長も許されない。だから自分たちを極めて不安定な立場に置く。席は頻繁に更新される。大概、暗殺によってな」
「そんなに回転率が高くて、機密が守られるものなんですか?」
〝き〟の質問に頷く。三十六人衆の制度が生まれたのは現寇直後の徳知(とくち)暦元年。戦時の混乱の中で仮想世界の真実を知った商人三十六人。その中の一人が斬首刑直前にあって、五摂家と六孫王を前に述べた言葉は「六梨下の奇弁」という名前で伝わっている。
――我らを脅かす程業の強い人物なら、無意味に秘を明かすなど出来ませぬ。利が、その手にへばり付いて離れぬのですよ……
消失した筑前国出自のその商人は、妻と子を置き捨てて、商売の種である織物一反だけを脇に抱え込んでいた――
「結局五百年以上、彼らは仮想世界の運用の最も困難な部分をやりおおせている。貴族や武家がそれを行っていたら、多分百年と保たなかっただろうな。両者もそれを分かっているから、三十六人衆の要請する便宜には応え続けた。よきにはからえ、ってな。この商業自治区、通称品川迷宮もよきにはからった結果だ。彼らには秘匿された研究・開発環境が必要不可欠だ。この一里四方程度の区画のどこかに三十六人衆の三分の一ほどの本拠地があると言われている。俺たちが会う〝仮痴不癲〟もその一人だ」
――All the world's stage.And all the men and women merely players.
待ち合わせに指定された大劇場には名前が無く、その碑文だけが表の金板に刻まれていた。
「この劇場を作った人は、よほど気取り屋でもったいぶった輩のようね」
舞台を円形に囲む、外周から一段ずつ高度が下げられていく形式の桟敷(さじき)。最も外側の客席に腰掛けて舞台を眺めつつ、あやめはそう漏らした。その左隣に座したいなきは問いかける。
「どうしてだ?」
「さっきのあれ、シェイクスピアよ。『お気に召すまま』……劇場の名前もたぶん分かるわ。『世界劇場』でしょうね」
「ふーん」
「あなた、解説役と聞き役でやる気が違いすぎないかしら」
「いや、だって、よく知らんし興味もないし……そもそも主導権を握られるのは好きじゃないんだ」
「わがままねぇ」
「わ、わたしはすごいと思いますっ。あやめ様の深い知見に目からウロコですっ」
「……それは……体を張ったブラックジョーク、なのか……?」
更に左側で追従する〝き〟を怖ろしげに眺めながら、いなきはうめいた。
「ふん。ならば好きなだけ解説するがいいわ。けれど覚えておく事ね。あなたは解説一つするごとに深みにはまり、その内「あ、あれはまさかっ!」という定型句を抜きには何も語れない紋切型の人間に堕ちていくのよ……」
「なんだその呪いは……」
「あ、じゃあわたしは「知っているんですかっ!」って合いの手を入れる役どころですね」
機嫌を損ねたらしくぷりぷりと(表情には表れないが)語るあやめに、意味不明の理解を示す〝き〟。
三つ目の演目の修羅能までは三人とも観劇に徹していたが、浄瑠璃、詩舞、舶来の金管楽器を伴奏に用いた前衛舞踊などなど経て既に二刻は経過し深夜になっている。観客も一人、また一人と引いてきて、今またもう一人が立ち上がった所だ。無駄話の一つもしたくなるだろう、などと思いつついなきは口を開く。
「仮痴不癲の所有する権利は主に芸能関係だ。と言っても、劇団を管理している訳じゃない。舞台建築、照明、音響の技術全般……俺たちが今いる客席の形態は段桟敷と言うんだが、要はローマの円形劇場だな。猿若町の劇場街でも実験的に取り入れられてるが、土地の事情からしてあそこじゃ普及しないだろう」
「大事な事を聞いていなかったのだけれど」
あやめはそう前置きして、
「なぜ深川に行くのに真逆の方角の品川に来ているのかしら」
「永代橋、新大橋……深川入りする経路は全て関が置かれている。俺は既にあそこの憑人を何人か殺ってるし、〝き〟の存在も知られていないと楽観視するのは……難しいな。だから、品川から海路を使って密航する事にした……六孫王府は漁船や回船の出入りも管理していて、抜け荷(密輸)のルートを……持っている三十六人衆を頼るしか無い。あの鎚蜘蛛姫は独自のコネをあちこちに持っていて……それで……渡りをつけて貰った」
「ちょっといなき君。解説にキレが無くなってきているわよ。唯一のアイデンティティも放り捨てた、ゴミ箱の縁にぶつかって床に落ちたちり紙のような人間になり果てるつもり?」
「失礼極まりないなお前……」
「あの役者がどうかしたのですか?」
〝き〟が口を挟んでくる。
先程からいなきが注視している舞台上では、今一人だけが踊っている。本来男装の婦人が務める白拍子を女装した男が踊るという、倒錯した演目だった。白い水干姿の役者が優美に舞いつつ歌を吟(ぎん)ずる。
――何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
「あの男、最初から出ずっぱりだな」
「そのようね。よく疲れないものだわ」
「職業人をお前みたいなもやしと一緒にするなよ。俺だって十貫(※三十七・五キロ)の荷物背負って一昼夜走り続けるくらいは出来る」
「度を外れた体力って傍目には気持ち悪いわね……しかもそれを常識と思い込んでいる体育会系的感覚には、正直戦慄を禁じ得ないわ」
減らず口を――減らず口だろう、たぶん――叩くあやめに憎まれ口を返すにも気がそぞろで、いなきはその原因である役者を眺めて、
「さっきまでな、俺はあれを別人が入れ替わり立ち替わりしているんだと思ってたんだよ」
「そんな訳無いじゃない。歌声も体格も一緒で、それに」
彼女は、男が隻腕である事を指摘したいのだろう。先程からずっと、彼が着るどの衣装も左の袖が平らに垂れ下がっていた。
「ああ。だから何か仕掛けがあるんだろうと探していたんだが……」
それ程に、俳優が同一人物である事をいなきは信じられなかった。
「動きに癖が無いからですね?」
〝き〟がいなきの困惑の理由を指摘する。
その通りだった。武将、遊女、姫君、鬼、神霊……演じられた役は多岐に渡るが、その全てに彼は個別の動作を示した。技術には分岐する前の根本、背景があり、いくらかの状況ごとの動作を観察すればその起源が判別出来る。その訓練をいなきは受けている。
彼についてはそれが読めなかった。扇の上げ下げ一つも役柄ごとで変化させている。足使いで使用する筋肉すら違う。技術への深い理解と、それに対応する身体操作の多彩さがあって初めて成立する行為だ。
感嘆すべき芸であった。
「達人って奴はいるんだな」
「――あら、お目が高いのですね」
いなきの言葉に応じたのは、第四の人物。
後方を振り向けば、紺碧のドレス姿の、年の頃十二、三程の少女がスカートを手に取り一礼した。
「あれなるは我が『世界劇場』の看板役者です。お見知りおきを。そして、ようこそおいで下さいました、雷穢忌役の皆様方」
「コロンビーナとお呼び下さい。短い間ですが、よろしくお願い致しますわ」
そう名乗った案内役の少女が、三人の先頭を行く。灯明をほのかに灯した石の小路。針金を通した群青のスカートが傘のような影を作り、ヒールがかつかつと硬質の音を立てる。
あやめが声を上げた。
「女使用人(コロンビーナ)ね。本名は教えて下さらないのかしら?」
「非礼をお許し下さい、博学な方。我が主はいかな時も諧謔を楽しまれます。――それに、そちらもアルレッキーノを連れていらっしゃいますもの。不作法はお互い様ではありませんこと?」
「軽業師(アルレッキーノ)の面は猫よ。……まぁ、この子のは験担ぎみたいなものなの。許してちょうだい」
「構いませんわ。〝我が恋人〟ですものね」
くすり、と少女は微笑む――
「なぁ、あいつらは何語を喋ってるんだ?」
「わかりません……ですがただごとでないおしゃれなふいんきを感じますよ……」
肉体派二人が蚊帳の外で頭の悪い発言を交わしていた。
「あんたの御主人様の住処は遠いのか? 夜も随分更けた。そろそろ腰を落ち着けたいんだが……」
声をかけるいなきに、少女は振り向いて、
「もう少し我慢なさって下さいまし。主の居城は決まった順序を経ないと辿りつけませんの。理由はお分かりになりますわよね?」
言わずもがなである。
「そういう事なら。〝き〟、しんがりを任せる」
隣の妹に声を掛け、追い越して使用人の前に立つ。
「露払いをやる。道順は後ろから指示してくれ」
「客人に気を使わせては、使用人の名折れです」
「勘違いをしないで貰いたいな。俺たちの目的をつつがなく遂げる為だ」
「そういう事でしたら」
その後はしばし無言の道行きになった。
次に声が上がったのは、建物を連結する架橋に差し掛かった所だった。地上は遠ざかり、夜空はさして近くなったでもない。
「月のような御髪ですね」
少女はいなきの髪色を見て、そう指摘した。
「あんたの方は……そうだな、金貨のようだ」
「あら、下品な色合いと仰いますの?」
「誰でも価値が分かるって事だ。瞳の方は青玉(サファイア)かね。――悪いな、詩心の持ち合わせが無いんだ」
「いいえ。率直は美徳です。洒落っ気を求めるなら、青い金剛石(ダイヤモンド)くらい言って欲しくはありますけれど」
くすくすと微笑みながら、少女は隣に移動してきた。興味の色を、件の青玉の瞳に浮かべている。
「あなたも渡来人の出?」
渡来人――舶来の知識、物品の存在を説明する為に、古くから一定数存在した黄色人種以外の形質を持つ人々。少数民族の常として、彼らはどの時代においても差別の対象となる。
定められた役割を前提に存在する、という点では彼らは誰よりAI的と言える……
「いいや。そう誤解される事は多いがね。顔立ちは八百八町人標準だろ。混血じゃ劣性遺伝の金髪を受け継ぐ事は出来ない」
「目の色もよく見れば金色ですわね。どういう事なのでしょう?」
「さぁ。俺にも分からんよ。突然変異、ってのが一番しっくり来るかな」
「あら、最も身近な所に大きな謎がありますのに、興味を覚えませんの?」
「生来の無骨者でね。目先の団子しか追えない」
「誰であれ、花鳥風月を愉しむ素養はありますわ。あなたも、十年もすれば分かりませんわよ? 蛹と蝶が別の生き物に見えるように、歳月による変化は大きなものですから」
「そんなに長生きするつもりは無い」
「なるほど。あなたの心には、美観を詰め込む隙間がありませんのね」
「あんたと違って、蝶よ花よと愛でられるような人間に生まれついた訳じゃないんでね」
「怒らせてしまいましたわね」
少女は楚々とした仕草で目を伏せた。胸に手を当てて、
「私(わたくし)は自分の謎に余程興味を持っているものですから。我が身の美しさの由来を理解する事は、花鳥風月を愉しむ方々に深く寵愛される事に繋がりますもの」
月明かりの薄い光源を余す事無く受けて、輝きに変える美貌。金髪も青瞳も白磁めいた肌も、新しい血が入らない以上は絶えていくばかりのものだ。彼女と同じかたちを持つ人間は既にいないのかも知れない。
青いダイヤのような希少性(レアリティ)を、人はどのように見て、どう扱うか。
蝶も花も、人に愛でられる為に生まれた訳では無い――
「無理矢理謝ろうとしなくても構いませんわ」
物思いを断つように強く、少女は言った。
「確かに、誇りに思うには卑しい生き方をしてきましたけれど、それでも自分の選択であったという自負はあります」
「……そうか」
「そうですわ」
などと頷いて――少女は顔を綻ばせた。先程までの、強い職業意識によるものでない崩れた笑顔。
「く、ひひ。それにしても……あなたは随分とうぶですのね! 謝ろうか謝るまいかどう謝れば格好が付くか……顔が百面相でしたわ!」
いなきの背中をばんばんと叩いて、少女はかしましくからかってくる。
「だいいち、あなたのええかっこしいなんてここにいる全員が見透かしてますわよ。歩き慣れない貴族の子女と義足の娘……体力自慢のあなたがこんなにも歩くのが遅いのはどちらの為かしら?」
「……ちっ」
どうも、女三人相手の状況ではとことんやり込められる運命らしい。男の全てがそうであるのかも知れないが。
「私、なんだかあなたの事を少しだけ気に入りました」
「そーかい――」
彼女は不意打つように、いなきの頬に口を寄せた。
「アントニア」
吐息の熱が耳を湿らす。
「それが私の名前。後ろの方々にはないしょですわよ、お兄様」
その言葉に何か感情を発する前に。
後頭部を強打されて、いなきは橋板に口付けする羽目になった。投げつけられた、欄干を素手で捻り折ったような木片が側に落ちる。
「……し、失礼しました、敵襲を察知したような気がしましたので……気のせいでしたけど」
直前に欄干を素手で捻り折ったとは思えない気弱げな声で〝き〟は言った。しずしずとした足使いで(なぜか足音はずしずしと重かった)歩み――進路上に寝そべるいなきを踏みつけて、鉄の義足を的確に肋骨に押し当てごりごりしてから通り過ぎていった。
「あらあらまぁまぁ」
アントニアはけたけたと小悪魔めいた愉悦を顔に浮かべ、その後に付いていった。
「次はあなたとお話がしたいですわ、お姉様。年近い女同士、好い仲を築きましょう……」
二人が建物の中に入っていく所で、いなきを屈み込んで見下ろしていたあやめが述べた。
「格好悪いわね」
「言うな……」
/
幸運か、あるいは防護策が万端整っていたのか、その後も仮痴不癲の敵対勢力と接触する事なく居城に到達する事が出来た。
仮痴不癲の館は、高楼群の作る高低差が生んだエアポケットのような空間に、吊り下げられる形で建設されていた。上空に蓋をする天井、それに向かって伸びた数本の柱が館の自重を支えているようだが、どういう技術がそれを成立させているかは想像の埒外だった。
「住人全員が偶然思い立って、その場で垂直跳びしたら落ちていくんじゃないかしら」
いつも通り特に意味のないあやめのコメントを無視しつつ――しかし内心、そう思うのもむべなるかなと同意していた。少なくとも設計者と、その誇大妄想めいた図面を現実にする気になった工匠連中の正気を疑うのに十分な光景である。ゴシック建築に倣ったらしき鋭角な造作も不安感を助長する。
今いなきらがいる、館を囲う壁面の一辺から正門へ続く軒廊(こんろう)が伸びている。アントニアを先頭にその跡をついていく。敷石が大理石に変わり、足音の質が変化した。手摺子(バラスター)の形に切り取られた影を踏みながら、彼女は宣告めいた助言をした。
「言わずもがな、仮痴不癲は商人です。救いようが無い程の実利の徒。皆様に万金の価値がある事をお祈りしますわ――」
そこは異国だった。
円形の大ホール。ドーム状の天井に竹ひごを編み重ねたような穹窿(ヴォールト)。高窓やシャンデリアなどの光源が無いのは、壁面の格間に填め込まれたクリスタルの内にライトが配置され、屈折して中央に降り注ぐ作りになっているからだ。
毒物めいた目映さの光の下でまばらに立つ五十人ほどは、全て八百八町人の標準的な特徴から外れていた。白人、黒人、アラブ系、インディオ……この世界での少数民族。装束はマオカラーやカソック、トレンチコート、奇抜な所では半裸で全身入墨の者もいる。
その中にあっていなきたちは、どこまでも異邦人でしか無かった。人見知りの気の強い〝き〟は、ずらりと並ぶ他人に怯えて低い背を更に縮めている。あやめはいついかなる状況でもぼんやりとした顔つきで、何を考えているか分からない。
いなきの方は、正直に言えば居心地が悪かったが――それを意識するゆとりは無い。
(二階部分に誰もいない……射手を配置するのが常道だろうに。どういう事だ?)
「あら」
あやめが声を上げる。中央階段の内側に、先程の役者が隠れていた。舞台衣装は着替えていて、孔雀と蛇が性交する様を描いた、正気を疑う意匠の赤い装束を羽織っている。人の良い、言い換えるとそれ以外に特徴の無い笑顔を浮かべてこちらに手を振っていた。応じたのはあやめだけだったが。
「――まぁ」
その中央階段から女が一人降りてくる。
「驚いたね。蜘蛛姫様からはかなりの腕利きと聞いていたけど、子供じゃないか」
「あんたとそう変わらないと思うがな」
いなきは皮肉を返す。踊り場で立ち止った女がその身に纏うのは、役者の着物の鮮血めいた紅色とは違った、葡萄酒めいた深い赤のドレス。あるいは退色した血の色と言った方が適当か。黒髪と淡褐色の肌は、役者を除けばこの中で唯一八百八町人のそれと似通っているが、挙動が異なっていた。八百八町の一般的な民衆は片側の足と手を連動させる歩法をする。女の歩みで動く手足は互い違いのものだった。
女は快活な笑い声を上げ、
「はは、確かにね! 小さいようで世界は広いな。若年から輝く才覚を示す者も少なくは無いよ。栴檀(せんだん)は双葉の頃より香し、だ」
そして、毒蛙めいた視線はその表情になっても変化していない。
「ただ、才覚にも序列があるという事を知りなさい。暗殺者(狗)風情に対等の目線でものを言われるのは、率直に不快だよ」
「俺の飼い主はあんたじゃないんでね。何より、この世界の両頭の一人をこれから殺してのけようって言うんだ。たかだか商人如きに怖じ気づいてはあんたも頼りなかろう」
「――狂犬だね、君は」
女は嘆息し、いなきの背後に立つ異人の少女に声を掛けた。
「おいで、私の青いダイヤ。そこのこわいこわい狗に、食べられてしまうよ」
「ふふ――気の小さい事を仰いますのね、お姉様」
からかうように言って、アントニアは女の元に帰っていった。女は彼女を腕に抱くと、その口を吸う。かすかな水音を、ホールにいる誰もが耳にした。スポットライトを当てられたような踊り場で、強く口付けを交わす二人。赤い布に包まれた太股が、少女の青いドレスの裾を二つに割る。地上に取り残された人魚のように、少女の身が跳ね、呼吸の不足に顔を紅潮させる――
「……帰っていいかしら」
「我慢しろ。俺だって今ものすごく帰りたい」
後方で耳打ちしてくるあやめに返事する。なぜか〝き〟だけは小声できゃあきゃあとはしゃいでいた。
二人の行為が終る頃を見計らって(さすがに水を差す度胸は無かった)、いなきは頭を掻きながら言った。
「腹芸は程々にしよう。……そもそも、仮痴不癲の地位が盤石なら、暗殺者風情を相手にする理由が無いはずだ。そうだろう?」
「はは、一応は良く見透かしたと言っておこうかな。……確かに、我々は先代を排除したばかりでね。しかも見ての通り、渡来人の集団……愚連隊と言って差し支えないくらいさ。当代仮痴不癲は即座に取りつぶされてもおかしくない風前の灯火。速やかに地歩を築く必要がある」
期待以上の本音を明かされていなきは面喰らう。それもペースを握る手法か、と思う内にも女は立て続けに述べる。
「六孫王暗殺は、言うまでもなく大きなインパクトのある事件だ。公になる必要は無い。我々の世界はとても敏感なんだ。……弱者が生存を図るなら、大きな混沌の状況が適していると私は考えるよ。何より、仕掛け人である以上誰より適合が早い。証券の空売り、為替相場の操作……穏やかな所だと、このくらいの事をしようと思う」
ゆったりとした口調で、女は言葉を並べていく。売り物を紹介するような具合に。
「穏やかでない所は語るまでもないぜ。それは俺たちの商売でもある」
口の端を下劣に歪ませていなきは応じる。
「……ねぇ、なんだか急に生き生きし始めたわよあの子」
「たぶん、愚連隊って言葉を聞いたからではないかと……」
「ちんぴら仲間の匂いを嗅ぎつけたのね。耳ざといわー」
後方の会話を必死で無視して表情を固定する。
彼の努力を誰も認めてはくれないようで、女がその様子を眺め気怠げに告げた。
「……正直に言おう。君たちにそんな大役を任す事は不安だ」
思わず同意してしまいそうになりつつも、いなきは踵を軽く二度踏む。この場でただ一人だけが聞き取れる程の音量で。鉄杖で床を叩く合図で、返答される。
「ただ……あのいかれ具合で人後に落ちない妖怪がよこす程の連中だ。それだけで値踏みをする価値くらいはあるかな。――まぁ、ある種のリスクヘッジと捉えてもらいたい」
女の手振りで、周囲の連中が戦闘態勢を取り始める。得物のだいたいが衣服の内に隠していたつもりの組立式の鉄棍や鉄拐(トンファー)だ。練度の低い兵士であれば、刃筋を立てねば正当な威力を発揮しない刀剣類より適切と言える。
大商人の私兵にしてはお粗末な戦力を読み取って――それは、優秀な連中を外部に派遣しているからだろうと思う。なるほど、本当に仮痴不癲は窮状にあるようだ。
足の折れた鼠を差し出された猫のような表情は維持しつつ、頭の内の情報を整理してからいなきは言った。
「〝三十六歌仙〟直々の値踏みとあれば、光栄だな」
――女の腰には優美な拵の脇差が吊り下げられている。
三十六歌仙。三十六人衆に必ず一人割り当てられる護衛。彼らはその身分の証として、歌仙拵(かせんごしらえ)という外装の儀仗を所持していると言う。
「さて、それは誰の事かな?」
受けた言葉に女は韜晦を返す。
女の佩用(はいよう)する脇差と同じものが、周囲の私兵の腰に下げられていた。
全員ではない。五十人の内十六人ほどが護衛・三十六歌仙を示す儀仗を所持しているようだ。
そもそも、馬鹿正直に身分証を下げて歩く護衛などいるはずがない。周知されている事を利用してこのような撹乱戦術を――それも古い手だ。この場に三十六歌仙などいないと考えるのが常道だろう。
しかし、この時に限ってはいるのだ。そうでなくてはおかしい。
「……まぁ、」
加速度的に剣呑さを増していく空気の中、いなきは未だ緩く立ったまま。得物に手を掛けてもいない。
「今後ともごひいき願いたい相手だ。あんたの部下は殺さないでおいてやるよ」
「そいつは助かるな。人は資本だからね。ただ――今のところ、私は君に価値を見出していない事を忘れないように」
「ああ。今からそれを見せてやる――」
それが、開戦の合図だったのだろう。
その瞬間、いなきの全身に視界が白化する程の激痛が走った――