拝領機関(はいりょうからくり)。
三十六歌仙が個別に持つ兵装。三十六人衆の保有するオーバーテクノロジーを無制限に投じて開発された戦闘用デバイス。幾度か、九重府はその正体を探ろうと間諜を送ったが、そのほとんどが使命を完遂する前に闇に消えた。
三十六の機関全てを目にしたのは、ただ一人。絵師であった彼は、間近に死の迫る中、その正体の一端を絵図という形で残した。水揺剱(みずゆするつるぎ)、焔吐小駒(ほむらはくこうま)、奇回廊渡天女(くしきみちわたりしおとめ)……
それら一連の絵図三十六葉は、武ヶ具三十六形(ぶがぐさんじゅうろっけい)という名で伝わっている――
「が――ぎっ!?」
痛苦に石床をのたうち回りながら、いなきは必死に理性を掻き集めて状況の分析に努める。周囲の私兵連中は全く動いていなかった。薬品をかけられたでもない。身体に触れるものなど何も見えなかった。
痛い――いや、熱い。焼けた鉄の箱に押し込まれたような熱感。
痛覚は、皮膚を支点にその痛みを訴え続けている。
不可視――皮膚――表面――
理屈が繋がった。
(ミリ波だ)
その名の通り、ミリ単位の波長、三〇~三〇〇ギガヘルツの周波数の電磁波。人体に照射されれば、身体を透過せずに体表の温度を上昇させ、激痛を生じる。
(行動阻害機器(ADS)か……ッ!)
「三十六歌仙〝猿丸(さるまる)〟が拝領機関〝二十七番〟……君たちには、陰振雨笠(かげにふらすあまがさ)という名の方が通りが良いかな?」
消失した視界の中、声だけが降りかかってくる。興の失せたような色を宿して。
「随分とあっさりした、つまらない運びになったものだが、これで詰みだ。君には身動きを封じられたままリンチを受けて貰おう。手足を砕かれ、陰嚢を潰され、肋骨を砕かれ、顔面を西瓜のように腫れ上がらせても殴られ続ける。酒の肴にはいささか趣味が悪いけれどね」
彼女の言葉を実現する為に、私兵どもがこちらに近寄ってくる。
「『我々は夢と同じもので出来ている。そして、儚い命は眠りによって閉ざされる』」
歌を吟ずるように女は告げた。
「『真夏の夜の夢』に堕ちなさい」
(やってみろ)
足音の数、質を聞きながらいなきは毒づいた。
(やってみろ)(熱い)(やってみろ)(痛い)(死んで楽になれ)(やってみろ)(皮膚を剥(は)ぎ取りたい)(やってみろ)(似合いの死に様だ)(何も考えたくない)(やってみろ)(やってみろ)(お前の生きる価値がどこにある?)(やってみろ)(そもそも生きている事が間違いだ)(やってみろ)(あの時死ぬべきだった)(やってみろ)(やってみろ)(それでも)(やってみろ)(ここで死ぬ訳には行かない)(やってみろ)(やってみろ)(やってみろ)(やってみろ)(やってみろ)(やってみろ)
(やってみやがれ……ッ!!)
最も大きな足音が間近に迫った瞬間――痛みが消失した。
猶予された一瞬の間にその場を横転する。空いた石床を鉄棍が叩いた。
かぁん――と硬質の激突音が誰の耳にも認識される前に、通り抜けざまその相手の左足を膝から切断している。
敵手が痛みを覚える前に、いなきは抜刀した刀を再び納刀している。
激痛に口を絶叫の形に開いた相手が黒人の大男であると知る前に、また抜刀している――
大木のような男の胴が、真っ二つに裂けた。
いなきは斬撃を止めない「いぎゃ」切断があまりに速やかだったせいで、既に致命傷を負っている事に気付かない男が悲鳴を上げ続ける「やめでっ」無限に繰り返される高速の抜刀と納刀「いだいッ」人間が解体され物体に作り変えられていく「ぴぎゅっ」縦の斬り下ろしが肩を割り「まマ」旋転からの薙ぎ払いが首を跳ね飛ばし「マぶっ」袈裟懸けの一刀が横に浮き上がった男の脚を切り落とす――
惨殺の光景に、周囲の私兵どもは凍結していた。黒衣の修羅一人だけが望むままに尊き命を弄ぶ。
その斬撃、一九――×二斬。
■腸がバラけて私兵の一人の顔にかかる。■茎が先に落ちた男の歪む口中に潜る。膵■を足首より上の無い右足が踏む。弾みで眼窩から飛び出た眼■が柱の一つにへばり付く。
血雨と肉片を大理石の床に落とし尽くして、いなきは笑った。
「きひ」
ひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひ。
「スッッッッ――ゲぇ斬れ味だなァオイ! さすがは刀キチ■イ鎚蜘蛛姫の御作刀。人間がコマだよ! バラバラの糞袋が臭ェったらねェ!!」
狂人の称号すら不足するような表情を顔に塗り込めて、躁病めいた言葉を吐く。
「白も黒も黄色も茶色も、この反吐の出る臭ェ中身は同じだぜ? テメェら、自分の臭いを嗅いでこい」
血塗れの刀身を鞘内に納めて――それがこの男の戦闘態勢である事を、気づけば男の支配する戦場に立たされた誰もが、理解させられていた。
目の中に浮かぶのは、明らかな恐怖だ。
彼らの内一人が、ぽつりと「悪魔(デーモン)……」と呟いた。
皮切りに、全て意味を同じくする言葉が、次々と立ち上る。「悪魔(シヤイターン)」「悪魔(ダエーワ)」「悪魔(アサグ)」「悪魔(マーラ)」
殺さなくては。
この悪魔を磨り潰さなくては、自分たちは生きてこの場を出る事が叶わない――
狂奔する私兵どもより先んじて、いなきは血の池を歩き始めた。表面に浮かぶ凶相とは真逆の、冷めた言葉を胸の内に落とす。
(さて……こちらのシナリオには乗ったか)
「あやめ様、こちらです」
〝き〟はホールの影、二階部分の作る空間の柱の裏側へあやめを先導する。
「ここならば、あれの死角です」
「あれ……何なのかしら? 何もされていないのにいなき君が痛がりだしたように見えるけど」
「見えないだけです。波長の短い〝波〟が観えましたので、あれで肌を灼(や)いたのではないかと……」
疑問を浮かべる彼女に答えながら、〝き〟は柱の陰より顔を出して戦況を観察する。兄が敵勢の一人に接近し、足払いで転がした所だった。興奮して受け身を忘れた私兵は、追撃をかけるまでもなく床に頭を打ち付けて失神する。その瞬間には別の敵の顎を裏拳で払っている。脳を揺すられた男は墜落するように倒れ、沈黙した。
姿勢は常に低く、周囲の敵を楯とする配置に占位し続けている。あれならば〝波〟の掩護が出来ないはずだ。
「いつきちゃん」
〝き〟という字ではなく、既に呼ぶ者が一人しかいない本名で呼ばれる。
あやめの声色、心音は常に安定している。彼女は本気で聴勁しても心境を読み取る事の出来ない数少ない相手だ。会話から意図を知るしかないが、それも難しい。
「わたし、足手まといになってるかしら?」
自分が彼の手助けに行かず、留まっている事を言っているようだ。あやめの警護の為に自分がそうしている――自然な解釈だろう。〝き〟は振り向かずに答えた。
「はい。ものすごく邪魔です」
言ってから、自分の心を読んでしまった。数秒迷って訂正する。
「すいません。意地悪を言いました。――わたしは、自分の力を節約しなければならないのです。元よりいなき様の助勢は出来ません」
彼女は、自分の内情を明かすのを躊躇う必要の無い二人の内一人だ。〝き〟は自分の腕を見せて、
「か弱い腕ですね。――これで生木の欄干を折れる訳がない」
先程のやり取りを思い出しつつ言う。あのいけ好かない女が彼をお兄様などと呼ばなければ自制出来たのだが。
「わたしは、魔術を使います」
あの妖姫の言う通り、視力を捨てて獲得した秘法が自分にはある。
「厳密には仙術・内丹術です。体内の構成物を把握して……その上で、架空の臓器を仮定します。胸部の上焦、臍上の中焦、臍下の下焦……三焦という、気を練る為の器官です。存思と築基という、瞑想と生活環境のコントロールで煉気し、同じく架空臓器・経絡を通じて全身に巡らせる。……その効力は、筋力の強化。わたしは、というか未那元宗家の血筋は総じて五行の木行に適合する素養を持つので、木行の象徴する五臓である〝肝〟を通じて、筋力に作用する気を練るのが適しているのです」
語りつつ、〝き〟は目の前の柱を指で弾いてみせた。それだけで、大理石の柱に罅が入る。
「ただ、この力には弱点があって……精製するのが難しいのです。一度消費し尽くすと、再び長い期間をかけて煉気する必要があります。わたしは、自分のコンディションを最高の状態のまま保持する必要がある……」
「ひどい話ね」
「はい。とても」
兄を駒として利用している事を、彼女は認める。ひどい話で、卑しい話だ。
「ですが、あの方が駒に終始する程ちゃちではない事も確かです」
「……あの子が戦う所を、初めて見たわ」
「強いですよ。いなき様の蠱業・相生剣華……斬撃事象を同一の時間にして異なる空間に重ね合わせるあの秘術は、汎用性がとても高い。先程の大男を斬ったのもあれによるものです」
試斬では無いのだ。生きて動いている人間の、しかもあれだけの大男の胴体を両断するなど普通は出来ない。
「逆側を陰刀で押さえて、力の逃げを封じています。その後の連撃は、常に片方の斬撃で肉体を打ち上げるよう力を掛けつつ斬り続けた……前者は〝草ノ草〟、後者は〝真ノ行〟とあの方が分類している技法です」
並列起動抜刀術(デュアルブート)。
AI存在が自己のデータを改竄(ハッキング)する事で発現する異能・蠱業の内、武神・蠱部尚武の一門に特有の技術――量子化刀法の一種だ。
扱う状況ごとに真(対個人)・行(対集団)・草(強化攻撃)の三段に大別され、そこから更に斬撃の順序によって、同じく真(同時)・行(陽→陰)・草(陰→陽)三形に分かれる。基本はその九つの型。例えば草の段は膂力を補う刀法であり、陰刀を先に出した場合は形も草。草ノ草の型となる。
多勢に対する状況を切り抜ける場合は、行の段――今彼が正面の敵を斬り付けている間に、背後から襲い掛かろうとした男の肩を斬ったような刀法を用いる。
「そして、異能だけがあの方の武器ではありません。剣術家として、抜きん出た才覚をあの方は持っている……」
右斜め前方から打ちかけられた鉄棍を、いなきは避けもしなかった。目測を誤った打撃が皮一枚を掠めて床を叩く。その後に悠々と間合いに飛び込み、金的を蹴り上げて悶絶させた。
「あの方は、飛んでいる鷹を投石一つで落とした事があります」
「……縁日の輪投げ遊びよりは難しそうね」
「静止視力、動体視力のみならず、距離感を把握する為の深視力、視野の深さを決める中心外視力……その全てにあの方は超人的な値を示しました。剣術家の要訣に一眼二足三胆四力とある程に視力のアドバンテージは高いのです。先天的に、あの方は戦いに最も適した肉体の素養を持っていました」
無論、それは原石に過ぎない。大規模な戦争の代わりに、水面下での陰惨な暗殺競争の場と化している今の八百八町で生き残るには、生まれ持ったものだけでは明らかに不足だ。
五人がいなきを囲い込んだ。振り上げた打ち込みの内二つは空中で衝突する軌道だが、残りは当たる。
針穴を通すような活路を、彼はあっさりと潜り抜けた。瞬時に一人の後背に占位する。
「雷穢忌役の鍛錬の基本理念は、〝動作の分解と再構築〟にあります。骨格筋には筋紡錘、ゴルジ腱器官という感覚器がありますので……それを手掛かりにして、およそ四百程の骨格筋を個別に把握した上で高効率の運動を求める。これは、大陸の拳法で言う所の〝勁〟を作る鍛錬法です。――あの方の肉体の掌握率は六割を超えています。九重府全体でも三十人といない高水準です。普通の人間には、あの方の動きは猿(ましら)のように感じられるでしょう」
総じて――彼は間違い無く希有な天才であり、その才覚を全力で闘技の成熟に傾注している。発狂しかねない程の痛みに耐え続け、人間らしさを刮げ落とすような生活の末に力を獲得した。
齢十八にして、彼は自身を完成させつつある。
そして。
彼のその力は、彼の目的に対しては、無意味とすら言える程に脆弱だった――
「……ごめんなさい。言葉が正確では無かったわ」
あやめの言葉が〝き〟の物思いを中断させる。珍しくも、その声には色が付いていた。
「わたしは、あの子が人を殺す所を初めて見たわ」
憐憫の色彩。
「あの子は、とても楽しそうに人を殺すふりをするのね」
「はい」
〝き〟は首肯する。
一人で多勢に対応する要諦は、敵勢の心を一つにする事だ。チームワークとは自立した個別の意志に基づき他者を利用し合う、理知と狡猾による営みであり、依存心に基づいた、無知と愚鈍による、一致団結などという美しいだけの言葉とは対極の行為である。
いなきは一人の惨殺によって、敵勢の思考を愚劣に堕とした。多勢の弱点は、焦燥や恐怖が集団心理で容易に加速する点にある。一度冷静さを欠けば復旧は極めて困難だ。
衆愚と化した彼らの上に、いなきは王として君臨し、支配している。目先の肉を追う餓えた犬のようにただ己に群がるだけの敵勢を、コントロールする。単調な攻撃を誘発し、稚拙な動作の隙間を付いて打倒していく。
頭に血の上った彼らは、〝き〟とあやめを探して人質に取るという発想も思い浮かばない。
そして、最初の男以外は誰一人殺されていない事にも気付かない。
敵勢が冷静に戦闘へ参加したならば、そうした手加減は出来なかっただろう。
「あの方は常に、必要最低限の残虐さを見切って実行します。互いに殺し合いを合意している中で、あまりに無駄な行為です。それでも、そうせざるを得ないのは」
「……いつまで経っても、人殺しに慣れないからね」
嘆息めいた響きをもって、あやめの声が震える。彼女の言う通り、彼はこの世界の生命が架空のものと知ってもなお、それを軽視できない。
「……本来なら、故郷で誰とも同じように田畑を耕して生き、平凡に死ぬ事を選ぶひとだったはずです」
恨みます、という言葉を内に隠して〝き〟は言った。彼女が悪い訳では無いが、抑える事が出来なかった。
彼を不似合いな屍山血河の道に置いたのは、充溢する殺人者としての才覚と、もう一つ。
「あの子の帰る場所は、もうどこにも無い。それを為したのは、わたしの父……参ったわ。籠の鳥すら世間と無関係でいられないとはね」